私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2006年 後半分:最新は12月度


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12月度(Dec. 30, 2006)

 中秋の名月の夜、あいにくの曇り空で満月が見られなかったので、 翌朝早く起き、西の山かげに沈みかける有明の月を、朝焼けの雲や紅葉の始まった山肌と共に2階の窓からカメラに収めたのは 10月8日の夜明け直前のことでした。 この山は、箱根の外輪山に隣接する矢倉岳 ( 標高870m ) です。

 いきなり余談となりますが、ここに載せるためにピクセルを落したこの画面では、たとえ拡大しても見えませんが、 三脚を用い、セルフタイマーで撮ったこの望遠写真の原画には、直線距離で5.5km離れたこの山の尾根に並ぶ木々の一本一本がハッキリと写っています。 最近のデジカメの性能の向上には驚くばかりです。

 12月初旬の土曜の朝、お天気が良いので、9歳の孫と二人でこの矢倉岳に登りました。 見かけはなだらかですが、 始めのうちゆるやかでも、登り始める次第に険しくなり、一番急な所では30度以上もあるのではと思うほどの急坂を、 喘ぎながら登りました。 古い日記を調べると、97年の5月11日 ( ということは、ちょうど9年半前、私は64歳でした )、 カホルと二人で登った時は、麓から頂上まで、他のハイカーたちをグングン追い越しながら、二人とも一度も休憩を取らずに、 1時間ほどで一気に登ったと記してありました。 ところが、今回は1時間40分を要し、最後の3分の1ほどは、 いくら急坂とは言え50歩ごとくらいに立ち止まっては孫を待たせて一息入れないと、苦しくて仕方がないという 「 ていたらく 」 でした。

 以前にも書きましたが、私の年代での10年間の体力の衰えは、こうして同一条件で比較すると、本当に冷酷な現実となって理解されるのです。  帰宅後、インターネットのハイキングの案内を幾つか拾い読みすると、 このルートの平均的な人の所要時間は1時間30〜40分くらいとのことですので、時間的には通常の成人なみだったのですが、 とにかく後半息が切れてしまったのが、残念ながら 「 齢のせい 」 なのです。 時おり寒風が吹き付ける頂上で昼食をとった後は、 雪を頂いて快晴の空にクッキリと浮かぶ富士山の方角に向かって更に山道を1時間ほど歩いて足柄峠 (*1) に着き、 バスに乗って年齢差65歳の同伴者ともども、無事に家に戻りました。

 旧友たちとの忘年会も月半ばに幾つか済ませました。 上旬には海外宛てのカード、 中旬には国内向け年賀状を7種ほど自作し印刷しましたが、私同様ご老体のプリンター ( 5歳半 ) は 何とか最後まで高品質で持ちこたえてくれ、必要数出来上がった所で数日後に壊れました。  普通は4年くらいで買い換えるものだそううで、まあ寿命でしょう。 手厚く供養してやりたいような気分です。

 カホルは友人たちの所属するあちこちのコーラスの発表会を聴きに、飛び回っていました。  5月に近くの施設に入ってもらった老母も、いまだに実家に帰りたいとは思っているようですが、 どうにか新しい生活に入れましたし、この事も含め 何もかも 「 せわしなかった 」 2006年 は、アッという間に過ぎ去りました。

 教養学部時代のクラスメートだった宇井純君 (*2) とは、 昨年まではクラス会で毎年1回顔を合わせていました。 この数年体調が悪いようで気にしていましたが、11月に亡くなりました。  中学時代の友人の青島幸男君 (*3) も今月20日に逝ってしまいました。 彼らの冥福を祈り合掌。  でも、私はもう少し元気に生きるつもりです。
 では、皆様、ここに年賀のページがあります。 どうか良いお年を!

(*1) しばしば 「 足柄山という山はどこにあるの? 」 と友人たちに尋ねられるのですが、そういう山は実在しません。 「 足柄 」 という駅は、小田急とJR御殿場線に、それぞれあります ( それぞれ神奈川県と静岡県に在り、両者は直線距離でも20kmほど離れています。 こういうケースでは、どちらかが 「 相模足柄 」 あるいは 「 駿河足柄 」 というように律令国名を前に付けて混同を避けるのが通例ですが、そうでないため、 私の友人は昔、取り違えてひどい目にあいました ) し、足柄峠という峠もありますが、 「 足柄山 」 という山はありません。  多分、金太郎の童謡に責任があるのでしょう。

(*2) 彼の思想や人間性は、たとえば彼の最近の講演の記録を読むと良く分かる。 彼は 「 ドグマや定説や先入観にとらわれず、物事を素直に自分の眼で見、自分の頭で考え、実証し、独りでも抵抗的に行動できる 」 という点で 「 いわゆる左翼 」 とはまったく違うタイプの革新派である。  そして、まさにその事が彼を 「 そういうタイプではない 」 様々な人たちから畏怖され拒絶される存在にした一方、 彼を敬愛する多くの人たちを生む原因にもなったのだろう。

(*3) 中学3年のある学期、教室では、私の左隣が作曲家のすぎやまこういち君で、そのすぐ前の机が青島だった。  青島は当時から本当に器用な男で、家に遊びに行くとプロ級のトランプカード捌きを披露してくれた。  落語の実演も上手だし、ディズニーの漫画を真似て描くのもうまかった。  すぎやまとは今も交友が続いているが、青島とは、大学4年の時彼が病気で休学したと聞いて自宅に見舞いに行って以来、 50年以上会っていなかった。


11月度(Nov. 30, 2006)

 朝洗面台の鏡の前に立って髭を剃りながら、 ふと、大学生の頃英語の教科書で習った、ある英国人?のエッセイを思い出した。 『 世の中万事、両極端は良くない。  中庸が良い場合が殆どであるが、髭の長さだけは中庸 ( 中途半端に伸びた無精ひげ ) が一番良くない。  きれいに剃ってしまうか、長く伸ばしてまとめるか、いずれかの極端が美しい・・・』 というような大意だったと思う。  無職になると、人前に出ない日が多いので、私は何日も中庸を堅持する日が続くことがあり、これは反省を要する。

 ところで、私は今、2枚刃の安全かみそりを使用しているが、私の亡父は、今も床屋で見かける、 あの、一歩間違えば喉元を切り裂いてしまいそうな鋭利な西洋かみそりを器用に使って剃っていた。  朝の出勤前が多忙だったためだろうか、毎晩遅くなるとまず砥石を持ち出し、まるで一つの儀式のように上手に刃を研いだ後、 ブラシで石鹸の泡を顔中に塗りつけ、おもむろにジャリジャリと音を立てながら彼が顔中を剃りあげて行く様を、 幼い子供の頃の私は、いつも食い入るように見入っていたものだった。  おかげで、包丁や草刈鎌なども今、見よう見まねで自分で砥石で研ぐ私だが、 あんな危険な刃物を喉首に宛てがうというような危険な業は、到底やる気が起きない。  安全かみそりですら、決して100%安全ではなく、ちょっと集中力をなくすと、顔に小さな傷をつけてしまう位だから。

 ところが私の息子はというと、安全かみそりを嫌がって、もっぱら電気かみそりばかりを使っている ( 私も持っているが、 かみそりで剃った後の爽快感が好きなので、めったに使わない )。 恐らく彼は、 安全かみそりすら器用には使いこなせないのだろう。 だからと言って、別に不精でも不潔でもないのだが、こうして、 世代を重ねるごとに人間は確実に少しづつ便利さに溺れ、イージーになり、不器用になって行くものらしい。


 毎日お悩みの方も多いと思ますが、スパムメールというやつが私のパソコンでも最近急増して、 1日に100通近くにもなってきたので、いろいろと知恵を絞って対策をとり、ようやく90%以上の阻止、 つまり到着前削除に成功しました。 私は自分のものの他にも、全部で6つのメールアカウントを毎日扱っていますが、 あるアカウントではほとんど全部が外国から来る英語の怪しげな商品広告、 他のアカウントでは全部が日本語の 「 エッチもの 」 というように、スパムの種類にもそれぞれ特徴があります。  この問題と対策については、この情報 が参考になります。 いずれにしても、ここで対策の詳細を説明すると、逆用される恐れがあるので書きません。  関心のある方は個人的にご連絡下さい。

 先月末には福島と宮城南部に一人で、また今月半ばにはカホルと一緒に奈良、吉野、柳生などに行き、 紅葉を訪ねてきました。 今年は暖かいので一寸早いかなと心配でしたが、 幸いどちらでも美しい紅葉を沢山観ることが出来ました。  ご興味のある方は 写真をご覧下さい。  紅葉というのは、目で観るだけなら 「 わー、綺麗だ! 」 で済む極めて単純な対象なんですが、写真にうまく撮るとなると、 結構難しい被写体だということを、今回改めて思い知らされました。 一輪 ( あるいは数輪 ) の花を撮ることの方が、 私にとっては取り付き易い業のように思えます。  前者には風景画家+庭師の感覚、後者は静物画家+生花の師範の感覚が必要なように、私には思えますが、どうでしょうか。

10月度(Oct. 31, 2006)



汐留のビルからの夜景
遠景右手にレインボウブリッジ、正面にお台場

 先月 「 どこかに慰労に・・・ 」 と書きましたが、とりあえず、月初めに、 昨年汐留に出来たホテルに一泊してのんびりしてきました。 そのとき窓から写した夜景が、上の写真です。

 10月は、同窓会シーズンですが、私のように7つも同窓会がある人間は、 全部出ていたら、この年では、もう体がもちません。 中には泊りがけの旅行を行う同窓会もあるのです。  その上、今月から来月にかけては、現役時代の会社や職場のOBの集まりが幾つも重なってきます。  秋は夫婦の旅行や一人きりの旅もしたいし、聞きに行きたい音楽会もあるし、いつもの仲間には一泊のウォーキングにも誘われるし、もちろん、施設に入ってもらっている老母の見舞いも欠かせないし、本当に体が幾つあっても足りません。

 そこで、同窓会はすべてに毎年顔を出すのは止めて隔年出席にすることにして今秋は計3回にとどめることにしました。  それにしても、10月は何とも忙しい月でした。

 下旬にはようやく各地の紅葉の報せが入ってきて、関東では高度約2000m位のところ ( たとえば谷川岳 ) が最盛期を迎えます。 TVの紅葉のシーンを見ているうちに、どちらからともなく 「 紅葉を見たいね 」 ということになり、 珍しく富士山に雲ひとつかかっていない(最後の写真)と知ったある朝、 五合目までドライブして唐松や岳樺の鮮やかな色を堪能して来ました。  自宅から御殿場口の五合目までは直線距離約33km、走行距離はちょうど60kmで、 愛車アリストはガラ空きの一般道を通り、1時間20分で標高2400mの地点まで一気に駆け上がってくれました。  左手眼下に愛鷹山塊、右手遠くには墨絵のように美しい南アルプスの連山がはっきりと見えました ( 写真は後者 )。

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 しかし、片道1時間20分で五合目まで私たちを連れて行き、帰してくれる至便な現代社会に対し、複雑な思いに駆られたこともまた事実です。 50数年前、まだ19歳のカホルは、友人たちと富士登山をしました。 当時は土曜日は会社が休みではない時代で、土曜日の夕方、姉が届けてくれた弁当を受け取り、バスで須走登山口(*)まで行き、暗い道を徹夜で登り、日曜の朝頂上でご来光を拝んだ後、お鉢回りをしてから砂走りを下って御殿場口に降りたが、長蛇の列でいくら待ってもバスに乗れそうにないので、なんとそこから更に延々と歩き続けて国鉄の御殿場駅まで行き、列車で自宅に帰り、翌日の月曜には会社に出勤したと言っています。 男女の友人たちも誰一人落伍せず、月曜の朝には全員元気で出てきたそうです。 しかも、当時は登山靴とかスニーカーとかいうしゃれたものはなく、普通の運動靴でマメ一つできなかったそうですから驚きです。 若いと言うことは、何と凄いことかと思うと同時に、それからたった半世紀しか経っていない今、こんな無謀とも言える行動が出来る体力と気力を持つ青年が、この日本にどれほどいることだろうかとの思いもあります。

*:現在は車で五合目まで行き登りはじめる。 当時はもっと下から登りはじめたらしいが覚えていない。

 ところで、今回、私は登山道路の途中にある駐車スペースに何度か車を停め、雲ひとつない富士の姿をカメラに収めようとしましたが、建物、高圧線、電柱、標識、舗装道路、時には捨てられたゴミなどが画面に入ってしまい、シャッターを押すのを断念しました。 富士山の 「 晴れ 」 姿を1枚も撮れないのでは口惜しいと、帰途に最後に撮った写真にも、ずいぶん苦労して場所探ししたにもかかわらず、画面の左側に高圧線の鉄塔、中央のもみじの陰には醜い黄色の電柱が、1本づつ入ってしまいました。 それらを画像処理ソフトで除去したのが下の写真です。

 こうして作った画像はもう写「真」ではありません。 考えてみると、日本では Photography を 「 写真 ( 術 ) 」 と訳していますが、Photography には真実を写しとるなどという意味は、もともとないのです。 昔、気取って 「 光画 」 という言葉を使っていた人がいましたが、これはだいぶ原語の意味に忠実な訳語でした。 現在の富士山の真実を写そうと思えば、そこには美しい自然以外のもの・・・人間が作った醜い人工の建造物たちが必ずと言ってよいほど入り込んできます。 それをまた、技術の粋を駆使して画像の中から取り除き、昔のままの自然の情景をよみがえらせるという行為を、私はしているのです。 これは写真とはもはや言えないが、Photography とは辛うじて言えるのかなと思いながら・・・




9月度(Sept. 30, 2006)

 カホルは何歳になっても一生懸命に声楽の勉強に精を出しています。  先生の門下生の発表会が30日にあり、カホルも3曲ほど歌いました。  その準備で、9月に入ると、朝から晩まで本当に夢中で毎日を過ごしていました。 無事終わってホッとしているのは、 私も同様です。 10月初めには、どこかに慰労に連れて行ってあげようと考えています。

 暑さは残っているものの、一歩家を出ると、あたりはすっかり秋になり始めていることがわかります。  最近撮った 「 初秋の足柄 」 の16枚の写真をご覧下さい。  このうち、9枚は自宅から半径100m以内で撮った写真、残りも2km以内の景色ですから、 私がどれほど辺鄙な田舎に住んでいるか、お分かりになることでしょう。  ご自分の故郷の昔の情景を思い起こす方もいらっしゃるかも知れません。  とにかく、この辺りの美しい景色を眺めていると、いくら一人で歩いていても、全く飽きることが有りません。

 もうセミたちはほとんど死に絶え、蝶の数も先月よりはずっと減りました。 赤とんぼだけが、我が物顔に群舞していますが、 彼らは非常にすばしこくて、私の腕前では写真に撮ることが出来ません。

 今月は、ここに書くほどの出来事は何も有りませんでした。  何日かに一度、施設に母を見舞いに行き、それがない日はゴルフに行くか、地域の美化の勤労奉仕をするか、 友人たちとウォーキングに出かけるか、カメラ片手に孫と近所を歩きまわるか・・・とにかく非常に平凡で健康な毎日でした。

 唯一の例外と言えば、30年ほど前にしょっちゅう 「 お世話 」 になっていた箱根の旅館のおかみさんや 小田原のバーのママたちが相談し、ある夜、宴席を設けて私を招いてくれた事でした。  彼女たちももちろん皆、現役を退いています。 男は私一人という楽しい 「 同窓会 」 で、賑やかな思い出話、 噂話に花が咲き、終電がなくなるまで飲み、歌いました。

8月度(Aug. 31, 2006)


八島ケ原湿原にて

 初旬、カホルが以前から行きたいと願っていた蓼科高原に、2泊3日の旅をしてきました。  幸い、梅雨の晴れ間というか、3日とも快晴で、3日間で450kmほど、高速道路や私の好きな くねった山道のドライブを楽しみました。  ひざの痛みを抱えるカホルも頑張り、出発前に立てていた計画通りに毎日1万歩以上歩きました。  たくさんの静かで美しい湿原や池や滝を訪ね、咲き乱れるいろいろな高山の花を鑑賞することができました。  70歳を超えたのに、両名とも何とか元気に暮らせており、本当に幸せなことだと感謝しています。

 今月は 「 一票の格差を考える会 」 の仕事もありました。  会の意見広告を、 8月23日 24日 の2日間、 産経新聞東京本社版に掲載しました。 2日とも1ページ全面広告です。 ( 画像が小さい場合、 マウスのホイールで拡大するか、画像処理ツールで拡大するなどしてご覧下さい )

 この意見広告では、「 一票の格差を是正する議員連盟 」 所属の超党派の衆参両院議員のうちから30名ほどの方々に、 一言づつメッセージを書いて頂き、これを顔写真と共に掲載しました。 さらに、10月には、 全国の有権者の方々からも格差是正への一言を募集し、これを掲載してゆく予定です。  これらの準備と実施に私も多少の時間を費やしました。

 5月はじめに近くの介護施設に呼び寄せた老母は、それまでの在宅介護とは違う新しい生活を、どうにか始めてくれました。  時間の都合をつけて会いに行くたびに、多くの老いた人たちの現実の姿を正面から見据えることになります。  自分の将来を鏡の中に見るような気がすると共に、今まで、ともすれば何ということなく過ごして来た毎日が、 実は本当に大切に生きておかなくてはいけない一日一日なのだということを、改めて痛感します。

 つい3カ月前、早苗が植えられたばかりの裏の田んぼで、 多くの鴨がトンボの幼虫 ( ヤゴ ) をついばんでいたと思ったら、鴨の餌食にならずに生き延びたヤゴたちは、 今月初めにはもう赤とんぼに羽化し、すでに穂を出した稲田の上を群舞しています。 まさに光陰矢の如しです。



 白駒池にて







7月度(July 31, 2006)

 他県の方はご存知ないかも知れませんし、 神奈川県民だって、横浜市や川崎市の中心部に住んでいれば、 知ってはいても実物をほとんど見たことがないのではと思いますが、神奈川県の 「 県の花 」 は 「 山百合 ( ヤマユリ ) 」 なのです。  7月に入ると、箱根や丹沢の山野や、それらの周辺の田園地帯のあちこちで、その大輪の美しく白い花を咲かせ、 特有の鋭い匂いをあたり一面に漂わせます。 私の家の近くの箱根外輪山のふもと一帯にも、 今年も沢山の山百合が咲き誇っていて、ウォーキングのたびに、私の目を楽しませてくれました ( 2枚の写真は17日撮影・・・しかし、 そばに近づくのは、草むらに潜むまむしに噛まれるかも知れず、少々怖い思いでした )。

 百合根 ( ユリネ ) つまりユリの球根を、懐石風和食などの素材として我々は珍重して食べますが、 イノシシたちにとっても美味しいらしく、私の家の近くでも、秋には、 せっかく来年はもっと数を増やそうとしている百合たちの球根を掘り起こして食べ荒らします。

 文献を参照すると、食用になるのは、ユリ科ユリ属のヤマユリ、コオニユリ、オニユリの球根だけだそうです。  ユリには多くの種類がありますが、 他の種類の球根は苦くて食べられません。  ユリネを食用にしているのは日本と中国だけだと言われます。  日本でいつ頃からユリネが食べられていたかよく分からないそうですが、 畑で栽培されて一般に食べられるようになったのは17世紀 ( 江戸時代 ) からだそうです。

 大きなユリネを作るためには大変な手間がかかるそうで、 植付けから収穫まで3年かかり ( コンニャク薯と似ていますね )、 その間ずっと蕾 ( つぼみ ) を摘み取り ( チューリップなどと同様、花に栄養を取られると球根が大きくならないので )、 病気にならないように気をつけていなければならないということです。

 ユリは世界中の温帯に分布していますが、ヤマユリは東北から近畿に分布する日本固有の種、 コオニユリは日本各地と韓国、 中国北部に分布しています。 オニユリは日本・中国北部・ロシア東部に分布していますが、 日本には中国から持ち込まれたようです。 百合の球根を食用にしているのは日本と中国だけだと言われます。  日本ではずいぶん昔から食べられていたようなイメージがありますが、いつ頃から食べられていたかよくわかりません。  畑で栽培されて一般に食べられるようになったのは17世紀 ( 江戸時代 ) からだそうです。 ( 以上の後半部分は http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/A2003/Yurine.htm を参照しました )

 順序が逆になりますが、先月は近くの山野で野生のスズラン ( 後述のキミカゲソウ ) と思われる白い花の集落を見つけました。  図書館で調べてみると、スズランには2種あり、日本で観賞用に花壇に植えられているものは、 欧州原産のユリ科植物で学名は Convallaria majalis ( 日本名はドイツスズラン )。 私の家の庭にも植えてあり、 これは花と葉の高さがほぼ同じです。 一方、山地や高原の草地に生える多年草・・・これは在来種のユリ科植物で、 学名は Convallaria keiskei ( 日本名はキミカゲソウ )です。 こちらは葉が大きくて花より背が高い。  私は両方とも何度となく見たことがあるのに、今まで両者の区別を知りませんでした。

 ところで、英語ではスズランのことを lily of the valley ということをご存知の方も多いと思います。  そこで当然、バルザック ( M. H. de Balzac ) の有名な小説の題名 「 谷間の百合 ( Le lis dans la vallee ) 」 が思い出されます。 上記の英語名が頭にある人は、隣国フランスでもスズランを同様に呼ぶだろうから、 「 谷間の百合 」 という題そのものが誤訳で、正しくは 「 スズラン 」 と訳すべきだったのでは・・・と考えるのではないでしょうか。  ( vallee の後ろから2つ目の e の上には アクサンの記号が付くのですが、私のパソコンでは表記できません )

 実は私は学生時代からずっと、この題名は、最初の翻訳者であるあの仏文学の大御所が植物名に 「 うとい 」 ために起きた誤訳であり、 その後、後輩の学者たちが遠慮して誰も指摘しなかったのではないか・・・と疑っていました。

 ところが、今回辞書で調べてみると、フランス語ではスズラン( キミカゲソウを指すらしい ) は muguet ( ミュゲ )、 あるいは muguet de mai です ( 5月に咲くからでしょう )。 私の思い込みは間違いであり、 小説の題名は、やはり 「 谷間の百合 」 と訳すのが正しいようです。  そこで、勝手な解釈ですが、青年にとって、年上の人妻 ( との愛 ) は、谷間の急斜面に咲く百合の花のようなもので、 手に入れるには非常な身の危険を覚悟すべき存在だと、作者は言いたかったのかも・・・

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 年齢のことを考慮し、体をいたわるために、毎年7、8月と1、2月はゴルフをしないと、私は昨年から決めていましたが、 今年、1、2月は休んだものの、7月は結局3回もゴルフ場に行ってしまいました。 意志薄弱な私でした。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。