私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2005年 後半分:最新は12月度

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12月度(Dec. 30, 2005)

 「 わら 」 はもちろん、「 ゆずりは 」 も 「 うらじろ 」 も、橙も、 身の回りで簡単に手に入る田舎住まいですので、毎年、 しめ飾りは地元の古老?に教わりながら自分で作ります ( 写真は今回の力作 )。  ところが、前回作ったのが、ついこの間のことのように思えるのに、もう、また作ることになってしまったのです!  本当に、齢を重ねるほど月日の経つのが速く感じられるものですね。  ある先輩が 「 60歳を迎えた後、3回くしゃみをしたら70歳になっていた 」 と、以前、冗談を言って笑っていましたが、 そのとき50歳にもなっていなかった私には、その言葉の 「 真実味 」 がほとんど理解できませんでした。

 6日の夕方、いつものようにウォーキングをしていたら、道端の柵に繋いであった柴犬に、いきなり右足を噛みつかれました。  Gパンの厚い生地に径1cm位の穴が二つ開き、すねにも2つ丸い傷ができました。 医者に飛び込んで処置してもらった後、 破傷風や狂犬病について、インターネットで猛勉強・・・。 幸い飼い主とも連絡がついたし、おそらく大丈夫でしょう。

 10日に、例年のように外国の友人たちに年末のメッセージ (*1) をメールで送ったら、 ポーランド系カナダ人の親友ジェリー・ベレスの娘さんから、11月24日に82歳で亡くなったというメールが返って来ました。  彼の数奇な人生に関連した思い出を書いて、ホームページに載せました。

 そうこうしている内に、50年前、卒業後就職した会社の先輩たちが、私よりほんの数歳年上だというのに、 「 認知症 」 に罹っているという報せが今月になっていくつか届いてきました。  あまり幸せでない出来事や報せの多い年の暮れでした。

 15日のNHKのTVに、老人になっても自分の歯を1本でも多く保つための番組がありました。 意外な数字に驚いたのですが、 現在の日本人には70歳で自分の歯が28本 ( 親知らずは除く ) 中、平均14本しか残っていないのだそうですね。  それが本当なら、次回は私ども夫婦にNHKから出演要請があるかも知れません???  カホルは70歳で28本全部が揃っています。 そのうち、ごく軽度の虫歯 ( 治療済み ) がわずか2本で、 あとは全部生えた時のままの無傷の歯です。  私の方も、73歳で26本健在で、右下の大臼歯2本だけを10年前に失ってはいますが、 そこには自分の歯と同等以上にしっかりしたインプラントの義歯が入っています。  歯茎と歯との間の 「 歯周ポケット 」 は、二人ともすべて1〜2mmの深さしかなく、どの歯もびくとも動きません。

 私の両親は若い頃から虫歯だらけ、早いうちから 「 入れ歯 」 をしていましたが、その体質を受け継いだ私が、 彼らのようにならないために日常どんな歯の手入れをしているかは、8年前にここに書きました ( もしも10年前にあの歯周衛生とインプラントが専門の米国人歯科医に出会わなかったら、私も今頃多分、 人並みに自分の歯を失っていたことでしょう )。  これを習慣にし始めて以来10年、私の歯は今も当時のまま健在です。 リンゴを丸ごとバリバリ齧ったって、血なんて出ません (*2)。  病気の友人たちも多いのだから、いい年して健康自慢はしないようにと自戒してはいるのですが、つい書いてしまいました。
 
 古いプリンターをあれこれと介護しながら、 年賀状の印刷と発送を22日に終えました。 数年来、パソコンをお持ちの友人・親戚には、 私のホームページの中に自作の写真入りの年賀のページをつくり、それを開いていただけるようなメールを送ります。  近くの寺の除夜の鐘 ( カホルが撞いている写真は17年9月撮影 ) を聴きながら [ 発送 ] をクリックします。

 だから発送時刻という点では正確に 「 新年のご挨拶 」 です。  一方、パソコンを持っていない方には、暮のうちに写真の年賀状を作って投函するという従来方式です。  私の友人・親戚の大部分は中高年者ですが、それでも前者は次第に増えてきて、今や約300人中60%ほどになりました。  ですが、この1年ほど、「 持っている派 」 は増え止まって、2派の比率はこのまま現状で推移する見通しです。

  「 持っていない 」 派 ( というより 「 持とうとしない 」 派と言うほうが正確 ) の中には、 半ば意地で ( たとえば青年の頃からの 「 米国発の文明・文化嫌い 」 とか ) 持とうとなさらない方も少なくなく、 今後も変心しそうに思えません。 それもひとつの生き方ではありますから・・・。

 こう書いてきて、読み直してみたら、今回は老人くさい話題ばかりでした。 仕方のないことではありますが・・・。  では皆様、良いお年をお迎えください。


(*1): たくさんの中にはユダヤ教徒やヒンズー教徒もいるので、言葉の選び方がデリケートです。

(*2): どういうわけか、最近の改良種の上等なリンゴほど皮が硬くなってきていて、口の中に残るんです。  安物のリンゴは、味は劣るけれども皮が柔らかく噛み切れて飲み込めます。 なぜですかね。

11月度(Nov. 30, 2005)

 上旬に3日間、カホルと今年2回目の九州旅行に行き、 今回は西北部一帯を訪ねてきました。  唐津では有名な唐津くんちの曳山(山車)の展示を鑑賞した後、 唐津、伊万里、有田などの名高い窯元をたくさん、ゆっくり見て回りました。 その後平戸に行って市内を観光後宿泊し、 翌日はそこから佐世保を抜け大村湾沿いの道を走って長崎市に入り、平和公園、 オランダ坂、 グラバー邸など多くの名所を訪れました。 長崎は坂の町であると同時に造船の町でもあることを実感しました。

 「 ・・・長崎は今日も雨だった 」 という歌の文句がありますが、 たしかにこの日だけは終日小雨でした。 夕方フェリーで天草下島に渡って下田温泉に泊った後、 3日目は島内の窯元を見学した後、天草五橋を順に渡ってキリシタン迫害の歴史の跡をあちこち訪ねながら熊本に出、 熊本城や水前寺公園を観たあと、帰って来ました。 キリシタンの迫害は本当に悲惨で気の毒な出来事でしたが、 あれがなかったら、日本はブラジルのようなポルトガルの領土になっていたに違いない・・・だからあれは 「 必要悪 」 だったのだろうと、私たちは話し合いました。

 3日間、私たち2人だけのために、専用の貸切タクシーがのべ900km以上も走ってくれましたが、 このタクシー代 ( 運転手の2泊3日の食事や宿泊代金も、もちろん含む )、JALの往復の航空運賃、 結構上等な宿での2食付の2泊、量・質とも豪華な各地の名物料理の昼食3回、10カ所ほどの施設の入館・入園料、 フェリーや高速道路の料金等々、何もかも含め、1人¥79,800でした。  帰宅後半月ほど経った今でも信じられないほど、これは超割安なツアーでした ( この日は他に誰も参加者がなかったので、 観光バスでなくタクシーとなったわけですが、気の毒にこの旅行会社はこの日の催行に関しては大赤字だったと思います )。

 200枚ほど撮った写真の中から、24枚ほどを載せます。  構えて撮った写真ではなく、旅行中の単なるスナップ写真ですし、枚数も多いので、 効率的に写真が自動的にめくられて行く "anfy" というソフトを買って使ってみました ( 今のところ、各画面に説明の文字を挿入できないのが残念ですが、どなたか方法をご存知でしたら教えてください )。

 この旅行と重なったため、上旬の高校の同期会には出られませんでしたが、 中旬の旧勤務先の退職者の集い、下旬の小学校と大学の同期会などには出席できました。  残念なことですが、どの集まりでも一人また一人と体調を崩し、姿を見せられなくなった友人たちが増えてきています。  「 紅葉マーク 」 の人間としては 「 明日はわが身 」 であることは当然ですが、そうなる日を一日でも遅くできるよう、 今後も心身の鍛錬に努力を続けなくては・・・。

 紅葉マークと言えば、今年は各地で紅葉があまり美しく色づかないという噂ですが、 急に思い立って18日に箱根の強羅美術館に行って見たところ、例年のように美しい紅葉を観ることができました。  ご興味のある方は、ここをクリックしていただくと、他の写真もご覧になれます。





10月度(Nov. 1, 2005)
 
 10月は半分以上雨でしたが、 それでも私はいつもの月以上に多忙で、ほとんど毎日外出しては、 何かしらの用事で東京や横浜、そしてもちろん地元の街 ( や丘・・・別名ゴルフコース ) を、あちこちと動き回っていました。  しかし振り返ってみると、米人の旦那さんを連れてハワイから久しぶりに里帰りしてきたS子さんと会うために、 カホルと一緒に27日に東京に出て、 皇居の東御苑 ( ここは穴場ですよ ) を案内したこと事以外に、 ここに書いておきたいような話は何も有りません。  これはこの年齢の無職の男の生活であれば、不思議でも何でもないことなのかも知れませんが、ちょっと寂しい話です。  来月はまた、新鮮な体験を求めて活動したいと思います。

 ある方から、「 最近新しい 『 フリーマンの随想 』 が載らないね 」 と言われてしまいました。 実は、毎月毎月書き溜めているのですが、 それらのテーマは、なぜか政治や世相に対するいささか過激な批判のようなものばかりです。  世相が余りにひどくなってきているからなのか、それとも私が年のせいで次第に短気で狭量になってきているためなのか(*)、 とにかく、私はそういうことばかり書きたくなるのです。

 私は、この欄を書きはじめた当初から 「 政治や宗教の批判などはここに書くまい 」 と決めていました。  特に確固たる理由はないのですが、そういう分野のことを書けば、必ず論争が起きます−−−しかも、 決して終わりのない感情的な論争ばかりが・・・。 私は、そういう論争の不毛さを、いやと言うほど体験してきましたし、 若い頃と違って、そういうことをする気力もずいぶん衰えてきているのです。

 これらはみな、ある時期が来たら遺言のつもりで?一斉にここに載せるかも知れませんが、 今のところは公表せずに別のファイルにしまいこんでおくことにしているのです。
 
 今月も仲間とのウォーキングに参加しました。  あいにくの曇り空でしたが、両国駅から遠回りをしながら隅田川沿いに歩き、築地に出てから更に有楽町まで歩きました。  20年近く前、TCATを使うたびに、毎月のように少し早めにチェックインしてからこの付近を歩き回っていたものでした。  あの美しい清洲橋のあたりは、あまり変わっていないようですが、 石川島からは工場が消え、高層のマンションが林立していることに驚きました。  少年時代に市電の線路ごと跳ね上がるのを、飽きもせずに眺め続けていた勝鬨橋も、今はすっかり立派に変わっていました。  そういえば、私は東京市浅草区三筋町の生まれでした。  戦前、深川の辺りの町工場で、ガラス吹きの職工さんたちの手練の技に見とれていた記憶だけは、今も微かに残っています。

 現在は石川島と接続してひとつになっている佃島では、元祖の佃煮を買い求めた後、 有名な 「 もんじゃ焼き 」 のレストラン街に行き、 生まれて初めて食べてみましたが、私にはお好み焼きのほうが、ずっと良いように思われました。

(*):これが嵩じてくると、ナベツネ氏のように独断的で高圧的な八つ当たりをするようになるから、大いに自戒の要があるのです。
 
9月度(Oct.2, 2005)

 9月の中頃になると、自宅の周りの小道という小道には、 彼岸花 ( このコラムに4年前に載せた写真です ) の真紅の花がいっせいに咲きはじめます。  年により、10日ほども早く咲くことがありますが、たいていは、まるで測ったようにお彼岸の中日に満開となります  一時は減ったかと心配していた赤とんぼも、近年また増えてきて、その周りを群舞しています。
    
 10日の土曜日、 いつもの仲間たち50人ほどと一緒に、山梨県の大菩薩峠に登り、周辺を歩いてきました。  頂上付近の急なのぼり道で、いつになく息が切れ、何度も休みましたが、 前後を見渡すとそれが自分だけでない事がわかりました。 到着後、高度計を持っている人に聞いたら、 ここは2,000メートル以上で803ヘクトパスカルだとの事。 つまり、平地の80%しか酸素がないのだと知りました。  24,000歩ほど歩いて家に帰ったら、頂上で飲み終わり蓋を閉めて持ち帰ったペットボトルが、大きく凹んでいました。

 若いころなら、3,000メートルの山を速足で歩き回っても何ともなかったのに、やはり年齢の影響か・・・と思い知らされました。  「 いつもの1,000メートル前後の山なら何ともないのに・・・ 」 と、 他の仲間たちの多くも驚いていたようです。  それはともかく、あいにくの曇り空で眺望は今ひとつでしたが、全員無事に楽しく下山できました。

 翌週の17日には、小学校の同級生の I さんの日本舞踊の発表会を拝見に、大阪の国立文楽劇場に行きました。  同級生ということは、私と同年齢ということですが、それでいて、あの重そうな衣装を着て20分近くも立派に踊りぬく体力と練達の業に、 まず感服しました。 私はまったくの門外漢ですが、単なるお稽古事の域を超えた、それは立派なものでした。  たった一人が舞台で踊るために、三味線奏者と清元や長唄の唄い手が三人づつと、それに鼓、笛、大道具、照明、 その他もろもろでおそらく20人くらいの本職のスタッフが勢ぞろいし見事に協力しています。

 その半数が若手であることを知って、私は大阪という大都会の奥行きの深さのようなものを感じ、 「 まだまだ伝統芸術の担い手は絶えない 」 と安堵しましたが、後日のメールで I さんは 「 日舞と言う日本文化の伝統はいつの日か、 残念ながら滅びそうな気がします。 時間の問題です 」 と言っていました。

 敬老の日には市役所から祝賀の会に招かれましたが、本人に老人という自覚がないので、例年のようにお断りし、 かわりに区域の清掃 ( 公共施設の草むしり ) の勤労奉仕に参加しました。  汗はたくさんかきましたが腰が痛くなったりはしませんでした。 「 高齢者 」 とは65歳以上を指す言葉だそうですが、 これは10年ほど前、国連が世界の人口動態を調べ、年齢が上から10%のところが65歳だったからだそうで、 現在の ( しかも世界一平均寿命の長い ) 日本では、上から10%というと、75歳くらいになるだろうと思います。

 月末には、カホルと九州の中北部を旅行してきました。 私は9年前に退職するまで、 四国も九州も生まれてから一度も訪れていなかったのですが、その後、3回にわたり四国を旅し、 レンタカーで殆どくまなく各地を訪れました。 昨年から九州に転進し、まず宮崎と鹿児島を回り、今回は2回目です。  あと2回ほど行けば、離島をのぞき、ほぼ九州全域を回りきることになるでしょう。

 今回は阿蘇山周辺を丁寧に見、かつ歩きました。 中岳では天候も噴煙の具合も良く、火口の底まではっきりと見えたのは幸運でした。  最近評判の湯布院と黒川温泉でも、良い宿を選んで泊りました。  米国での8年間、夢見続けていた渓流沿いの静寂の露天風呂と絶妙の和食の味・・・。  「 日本に帰ってきてよかった!! 日本人に生まれて本当によかった!! 」 と、その後9年経った今でも、つくづく思うのです。

 でも、最後に立ち寄った柳川での 「 どんこ船 」 による堀割の周遊は、それはひどい体験でした。  生活廃水があちこちから流れ込んでくる堀割は悪臭と汚濁に満ちていて、それは悲惨でした。  若いころ好んで歌った白秋の詞、多田武彦作曲の男声合唱曲 「 柳川 」 で私に植え付けられた素朴で美しいあのイメージは、 無残に打ち砕かれました。 どうしてこの土地の人たちは自分たちの町をこれほどまでに粗末にし、放置しておくのでしょうか。

 ( 補足 ) :帰宅後調べてみると、実は20年以上も前に、一人の市役所都市下水路係長が、地域にとっての真の利益を考え、 堀割の埋め立てよりも再生が良いと、具体的な調査と政策をもって訴え、住民への協力要請キャンペーンも強力に行い、 住民参加の取り組みが実現した結果、ヘドロと悪臭に満ちた水路の水質再生に成功したのだそうです。  そのことは、1986年に宮崎駿制作、高畑勲監督で作られた 「 柳川堀割物語 」 という、 高度成長期に荒廃した堀割が再生していく過程を描いて行くドキュメント映画となって、 話題を呼びもしたのだそうです。 しかしその後、残念なことに、 再生された堀割は再び汚染され出して現在に至っているのだそうです。
( 深町英樹氏: http://subsite.icu.ac.jp/people/yoshino/NSIII01fukamachi.html より )

8月度(Aug. 30, 2005)

 私は、個人のメールアドレスとこのホームページのほかに、 「 一票の格差を考える会 」 のメールアドレスとそのホームページを抱えてパソコンを動かしていますが、 これらのメールアドレス宛てに、世界中からスパムメールといわれるあの俗悪な広告が連日殺到しています。  多い日は30通も50通も来て、件名と発信者を頼りに正常なメールは残しつつこれらを削除して行く毎日の作業は一苦労です。

 そうなるのも、ホームページに 「 ご質問、ご意見のある方は・・・ 」 と、自分のメールアドレスに直結するリンクをはっているからです。  悪徳業者はロボット型検索エンジンを使い、すべてのホームページを片端からスキャンし、 人手によらず自動的に高速で多数のアドレスのデータを集め、宣伝業者に売りつけるという方式をとっているのです。

 このような被害から逃れるための多くの方法が公表されていますが、すべて不完全だったり、煩わしかったり、 利用者にとって不便だったりで、完全なものはないようです。 今月は、数日間苦労した挙句、 とにかくこれらを幾つか併用・試行して一応の成果が得られました。  それにしても、何万、何十万という人たちに毎日迷惑を掛け続けることによって収入を得、生活している人たちが、 こんなにも沢山、この世にいるのですね。

 初旬には、旧友たちと6人連れで、新潟県の糸魚川までゴルフ旅行に行きました。  「 物を知らない 」 ということは恐ろしいもので、私たちは新潟なら東京近辺よりはたいぶ涼しいだろうと考えたのでした。  ところが、現地に着いて見ると地元の酒店の主人に 「 私たちは8月は暑いのでゴルフはしませんよ 」 と笑われてしまいました。  案の定、ゴルフ場の質とお天気は申し分なかったものの、神奈川県あたりよりずっと暑い毎日で、 滴り落ちる大量の汗で顔を下に向けられないほどでした。 それでも、夜の日本酒と温泉は申し分なく、楽しい数日を過ごしました。  やはり、涼を求めてゴルフ旅行するなら、北海道あたりでないといけなかったのですね。  高齢者ばかりなのに暑気に倒れる人が出なかったのが、せめてもの幸いでした。

 このところ、総選挙がらみでTVも新聞もにぎやかなことですが、私の知り合いで、 産経新聞の論説副委員長を数年前に辞してフリーの政治ジャーナリストになった 花岡信昭氏のメールマガジンは、大変面白く、参考になるので、8月は連日愛読していました。  このウェブサイト から、同内容のブログを閲覧でき、自分の意見も書き込めますし、 メールマガジンを自分のパソコンに配信してもらう手配も出来ると思います。

 話は変わりますが 最後に一つ・・・。  今月、日本中でアスベストの毒性により多くの人々が亡くなっているという事実が報じられました。  この身近な化学物質に発がん性があるという事実は、一体いつ頃から知られていたのでしょうか。  1951年、私が大学1年生の頃、白井俊明教授の原書講読で使った本 ( ペリカンブックの ”Minerals in Industry”* ) に、 その毒性について既に書かれていたと、私は記憶しています。 もう50年以上も前のことです!!

 私はこの本の内容をもう殆どすべて忘れてしまっていますし、この水色のペーパーバックの小さな本は、 もう捨ててしまったらしく、確認も出来ませんが、なぜかこの記述だけは、今もはっきりと私の頭に残っているのです。  あれ以来、私はずっと、アスベストと聞くと、なんとなく避けて通るようにして来ました。  その毒性を当然知っていてよい筈なのに、不十分な管理と作業条件の下でアスベストを使い続け、 使わせ続けてきた関連企業は勿論、監督官庁も、そして専門の学者たちも、すべて大きな怠慢のそしりを免れないと考えます。

*:W.R. Jones著, 225 pages, published in 1950.

 一つ追加させていただきますが、9月11日の総選挙の際、いつものように、 あの分かりにくい 「 最高裁裁判官の国民審査 」 があります。  『 一票の格差を容認する人には×を付けたいが、それは誰と誰か? 』 という質問が、今回も寄せられているので、 説明します。

 一番最近の 「 一票の格差 」 に対する最高裁の判決は、昨年1月になされています。  このとき判決に加わった15人の裁判官のうち、その後今日までに6人が定年で辞め、かわりに新しく6人が任命されています。  今回は、この新しい6人について審査が行われるのですから、 「 一票の格差 」 の判決については全く 「 実績 」 がない人たちについて、私たちは判断しなくてはならないわけです。

 従来、裁判官出身と検事出身の人は全員が格差容認、 弁護士出身の人はすべて格差反対、そして、学者や官吏出身の人は個々にさまざまというのが、 長い間の実績でしたが、前回の判決で、初めて、裁判官出身の泉 徳治氏が格差に反対しました。  そういうことですので、就任前の経歴だけで彼らの頭の中身を予測することは、もう出来ません。  今後実際に一票の格差についての裁判が行われたとき、どういう判断をするか見守らないとなりません。

 ということですので、残念ですが、今回は 「 一票の格差を考える会 」 の事務局長として、 国民審査投票については何も申上げられません。

   
7月度(July 31, 2005)

   今月は期限にせかされたこともあって、箇条書き風に書き並べるだけです。

 3〜4日:12歳の頃、1年ほど過ごした群馬県高崎市の中央小学校 ( 当時は国民学校 ) の昭和20年卒業生 ( 60周年 ) の同窓会があり、同市まで出かけました。 終了後更にクラスメイトの有志と伊香保温泉に一泊し、 深夜まで歓談して帰ってきました。  皆さんが夫々の人生を精一杯、立派に生きてこられたことがよく分かりました。 それにしても、あの小学校のクラスは、 今思い出しても本当に質が高かったと思います。 戦争末期の苦しい状況の中、子供たちは実に元気に遊び、 夢中でまじめに勉強していて、平均的な学力も非常に高く、気持の優しい素敵な少年たちがたくさん揃っていました。

 ひとクラス60人以上もいましたが、担任教師の指導力が優れていたのか、実に良く統制が取れていました。  途中編入の 「 疎開っ子 」 の私も、全くいじめられることなく、すぐに親切に仲間に入れてもらえましたし、 今でも親切にこうやって招待していただけるのです。 父親は徴兵され、自分は一人で遠くの親戚に預けられ、 食糧難に苦しみ機銃掃射や爆撃に怯えながら、それでも元気に苦難の生活をくぐりぬけ (*)、 命ながらえてこの歳まで生きて来られた私は、やはり本当に幸せだったと思います。

 7〜8日:在米中私の秘書をしていた米人女性が夫、子供たちと共に日本を訪ねてきました。  父親は彼女の兄たちと共に岐阜県で40年以上も宣教師をしているそうで、当日は名古屋から新幹線で当地までやってきました。 この夫婦を一泊でもてなしましたが、  彼女と両親、兄弟は、みな、あの米国南部のキリスト教原理主義の一派の熱心な信者です。 彼らと話していると、 ああ、こういう純情でまじめだが、独善的でやや視野の狭い人たちが、あのブッシュ大統領を選び支えているのだということが、 よくわかり、もやもやとした問題意識が、後味として残ってしまいました。
 
 10〜11日:ウォーキング仲間約50名と、一泊2日で日光に行き、戦場ヶ原、小田代ヶ原などを2日間にわたり、 1日4時間以上歩いてきました。 まだまだ私の脚は丈夫であることを確認できました。  梅雨の最中というのに、2日とも好天に恵まれました。  日光は、45年前の新婚旅行の最後の宿泊地であり、今回泊ったホテルの前身は、当時光徳ロッジという名前でした。  ここに立ち寄って昼食を食べた思い出があり、今は当時の面影など全くなくなっていましたが、 それでも大変懐かしく感じました。 それにしても、あの頃の新婚旅行は、何もかも実に質素でした。

 23日:大学で同じ研究室の同級生だった大野忠男君が、 技術者から画家+陶芸家に転身したのは、やはり40年以上前でした。  彼の個展が銀座で開かれたので観に行きました・・・というのは実は口実のようなもので、集った昔の研究室仲間と、 その後、まっ昼間から飲みながら歓談するのが本当の狙いでした。 早めに帰ったので、 夕刻の首都圏地震によるJRの不通には巻き込まれずに済みました。

 31日:同じく大学の同窓生の宗方 素君が団長をしているという横浜ローゼンコールの第31回の定期演奏会を聴きに、 カホルと青葉台まで出かけて行きました。 昨年も書きましたが、演奏の質の高さもさることながら、 この年齢であれほど沢山の長い曲をすべて暗譜で歌い切るということの凄さにも感心しました。  彼にとっては 「 ボケる 」 などという言葉は、これから先も全く無縁なのでしょう。 私も毎日筋肉ばかり鍛えていないで、 頭脳の鍛錬にも、もっと時間を費やさなければ・・・と感じた1日でした。

(*): その後旧制の高崎中学に入学してからは、同級生のいじめや教師の暴力に苦しみました。  でも、当時は登校拒否なんて選択は絶対にあり得なかったし、PTSDなどという考え方もカウンセリングもない中で、 私はストレス性の吐き気や下痢に毎日悩まされながら歯を食いしばって孤独と闘っていました。  それでも、もがき苦しんでいるうちに幸い戦争が終わり、東京に帰れたので、ようやくこの苦痛から開放されました。  いま振り返ると、あの苦しみの時期が、自分の精神を強く鍛えてくれたのかとは思うのですが・・・。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。