私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2008年 後半分:最新は12月度


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12月度

 月初めに、長野県上田市郊外に在る戦没画学生慰霊美術館 「 無言館 」 に、カホルと二人で行ってきました。 ここには、2カ所の建物に、先の太平洋戦争で 「 こころざし半ば 」 で戦地に散った若き画学生数十名の遺作、遺品が、300余点も展示されています。 荒涼とした・・・と形容した方がよいほどの一面の雑木林に囲まれた静かな場所にその2つの建物は在りました。

 

右は彼らが生前使用していた絵筆をはめこんだモニュメント

 私よりも10歳から20歳ほど年上の画学生たちが、20歳代の若さで止むなく絵筆を捨てて戦地に赴き、心ならずも死んでいった日々の事を思い、自分の戦争体験と重ね合わせながら、言葉に尽くせぬ哀悼の気持ちでいっぱいでした。 私の従兄も慶応義塾大学の経済学部の学生から学徒出陣し、特攻隊員として敗戦直前に戦死していますが、ほとんど遺品らしきものもない彼に比べれば、これらの画学生たちは出陣前に全身全霊を注ぎ込んで描き遺した何枚かの絵をこの世に残し、多くの人々に今もそれを見てもらえる点、僅かながら幸せと言えるかも知れません。

 その後、この地域の寺を幾つも幾つも回ってみました。 その内の3つで拝観した三重塔の写真を載せます。


 

上:安楽寺 (国宝)  左:前山寺(重文)  右:信濃国分寺(重文)

 この旅行から帰ると、8日に私は院長に呼ばれ、肺炎で入院中の98歳の老母が 「 あと2、3日以内の命ですよ 」 と宣告されました。 ところが、すっかり覚悟も決めたというのに、母はその強靭な体力で奇跡的に回復し、経験豊かな医師を誤らせる結果となりました。 12日には 「 退院して結構です 」 ということになり、翌週退院しましたが、もちろん、その後も楽観できる状態ではなく、年末は慌ただしくて、もう何もできませんでした。 予定していたゴルフもすべてお断りしました。 また、旧東海道歩きを開始以来、1カ月に一度も歩かない初めての月になりました。

 そして年賀状・・・母が明日にも他界するかどうかというのに年賀状や海外宛のクリスマスカードを作るわけにも行かず、結局1枚も出せませんでした ( いずれそのうちに皆さまににお詫びの挨拶状やメールを出そうと考えています )。 毎年末に自分で作ることが多かった注連飾り ( しめかざり ) も、ギリギリまで様子を見た上でスーパーで30日に既製品を買い求め、その夜に滑り込みで飾りました。 母は経口でも経管でも何も摂取できず、点滴だけでもう1カ月以上、大晦日の今日も生き続け、数時間後に年を越そうとしています。 1910年生まれの母が 「 あしかけ100年目の 」 2009年を迎えようとしているのです。

 最後に・・・ 今年の1月7日に73.8kgあった体重は、1年間の懸命の努力により、12月30日には71.7kgにまで減りました。 1年間でたった2kgとは言え、その気になって毎日節食、ウォーキング、ストレッチ、ダンベルに努力した結果ですから満足です。 腹囲が減った一方、腿や肩の筋肉などは太く固くなったので、目標の70kgには達しませんでしたが充分納得です。 「 これだけ丈夫な胃腸と旺盛な食欲+飲酒欲を持ちながら 」 の成果ですから・・・ 来年こそ70kgの壁に挑戦し達成します。

11月度

 今月の旧東海道歩きは 六合の駅から島田の宿を抜けて金谷の宿 まででした。 島田と金谷の間で 「 越すに越されぬ大井川 」 を渡りました。 これでは距離不足なので、そのあと寄り道をして、蓬莱橋を渡って島田に戻ってきました。  蓬莱橋 は、ギネスブックで 「 世界一長い木造の歩道橋 」 と認定されている全長約900mの珍しい橋です。 明治の初年に造られたこの橋を歩いて渡ることは、私の年来の夢でした。 たしか昨年秋の台風の時、一部が壊れましたが、今年になって修理が完了し通れるようになったばかりなのです。


 小田原を起点に旧東海道歩きを日帰りでやれるのは、もうここまでです。 これ以西の部分は、家から遠すぎて一泊か二泊しないと効率的に歩けません。 ということで、今までの仲間たちと作ったグループも止むなく解散し、金谷から先は改めて単独行の一泊2日を基本に、どう歩いて行くか考え直すことにします。 私は、一度始めたことですから、京の三条大橋にたどり着くまでやり遂げたいと思っています。

 下旬に東京の小学校の同期会に出席しました。 私は戦時中の疎開による転校のため、小学校の同期会は二つあるのですが、もう一方の群馬県高崎市の小学校の方は、今年の春 「 皆が喜寿を迎えたのを機に、めでたく解散する 」 という事になり、今後はもう行われないことになりました。 上記の旧東海道歩きとどこか似ていて、何とも淋しいことです。 同期会にも 「 定年 」 があったのですね。

 55年ぶりに駒場の東京大学教養学部を訪れました。 私は昭和26年にここのあるクラスに入学した人たちの同期会の幹事をしているもので・・・来春の同期会の準備のためです。 もう、何もかもすっかり変ってしまっている中で、ほんの少しだけ、昔のままのものがありました。 正門を入って正面の時計台のある建物やその1階の教室群は、55年前と全く変っていませんでした。 構内をひたすら歩きまわりました。 敗戦直後の粗末な建物はほとんど取り壊され、すべて真新しい瀟洒な建物に変っていましたが、その周囲にある巨大な樹木たちは 「 どうだ、半世紀たったら俺たちはこんなに成長したんだぞ ! 」 と言わんばかりに、呆れるほど大きく立派になっていました。  この半世紀の自分と社会の成長と衰退に想いをいたしながら、青春の血がほんの少しばかり騒いだ1時間でした。

 一緒に歩いたK君は、旧満州から引き揚げてきて大分県のT高校に編入し、受験勉強もままならない環境から現役で合格してきた秀才でした。 「 僕たちは、寮に入っていたが、勉強どころではなく、一日に食事が1回か、2回か、それとも3回食べられるかという事で必死でした。 君たちみたいな東京出身で自宅通学の同級生が毎日持参の弁当を食べているのがとても羨ましかった 」 と言われて、当時の自分の感受性のなさに恥じ入るばかりでした。 地方出身者の多くは家庭教師はもちろんですが、時には筋肉労働や売血までして学資を稼いでいました。 この日覗いてみた学生食堂の立派な建物、料理の豊かさを見るにつけ、半世紀という歳月の長さにうたた今昔の感でした。

10月度

 裏の田んぼの稲刈りも終り、家の周りもすっかり秋景色となりました。 夏は老体にはコタエるようで、8、9月は同年代の友人たちの訃報や病報が相つぎましたが、幸いそれも最近は聞こえてきません。 老母は今月、めでたく 98歳の誕生日を迎えることができました。 幸いその丈夫さを受け継いだらしいこの私も、今のところ元気一杯で、今月もまた旧東海道を 岡部宿から島田宿の少し手前の六合の駅まで、14kmほど歩きました。 他の日も結構雑用があって毎日のように忙しくあちこち飛び回った上に、月末には旧友たちと山形県の鶴岡、羽黒山、銀山温泉などを周遊してきました。


草紅葉の映える最上川の舟下り

 鶴岡はご存知の通り、藤沢周平の生まれた町ですし、その小説の舞台でもあります。 落ち着いたたたずまいのこの街には、江戸時代や明治初期に建てられた沢山の美しい建築遺産 が大切に保存されていますので、それらを くまなく 拝見してきました。 また夜は、この町の、ある有名なレストランで夕食を食べました。 私は味覚については、他人のグルメ談義などあまり信じない人間で、自分の舌で先入観なく賞味しましたが、聞きしに勝る味わいに 「 口福 」 などという言葉がもしあるとすれば、まさにこういう事をう言うのかという思いでした。


左:旧渋谷家住宅 文政5年 ( 1822 ) 右:庄内藩校 「 致道館 」 文化13年 ( 1816 )


左:旧西田川郡役所 明治14年 右:旧鶴岡警察署庁舎 明治17年

 カホルもコーラスや独唱の発表会を立て続けに2つ終えてホッとし ( あと1つあったのですが延期 )、11月早々には四国松山の疎開先の小学校の2泊3日の同窓会が神戸であるからと、久しぶりの旧友との再会を楽しみにしています。 そう言えば 私も今月は同窓会が3回もありました。 心身が健康でさえあればこういう機会に参加できます。 旧友たちの欠席理由を見ると、体調不良の人々がほとんどです。 新婚の息子夫婦も訪ねてきてくれ、4人水入らずで食事をする事も出来ましたし、なんのかんのと言っても私どもは幸せを感謝しなくてはなりません。

 ところで、総選挙も間近かです。 総選挙と同時に、最高裁裁判官の国民審査の投票も行われることはご存知でしょう。 この投票は、誰をどうしてよいのやら、さっぱり分からないと、大多数の人たちから不評の制度です。 この点に関し、私が 別のホームページに解説を書きました ので、お読みくだされば幸いです。 ご賛同くだされば更に幸甚です。

9月度

 今月、自宅の庭にも、訪ねて行った他人の家の周囲にも、ゴルフ場にも、ウォーキングした旧東海道の道沿いにも・・・どこにも色とりどりの 「 サルスベリ 」 の花が満開でした。 しかし、その派手で色鮮やかな花を見るたびに、私は今でも胸を強く締めつけられるような思いに駆られます。 1988年の夏、私は毎月の半分ほどを、多くの場合一人きりで、アトランタをはじめ米国南部の田舎町を走りまわっていました。

 南部の田舎町の牧場跡地に新しい巨大な工場を建設し稼働させるという使命を与えられ、少数の頼れる部下は与えられたものの、しばしば独りで、手探りで州政府との交渉や米人幹部社員の面接・採用を手はじめに、異国での工場建設と創業に関わる多岐にわたる未経験の仕事に忙殺されていました。 当然のことですが仕事の進め方を教えてくれる人など周囲に誰一人いず、参考書や先例も少ないので、異国でたった一人でしばしば途方にくれながらも、冷静な熟慮と判断だけを頼りに、不安で孤独な決断を続けていました。 本来得られるべき支援が得られず、冷たい仕打ちに歯ぎしりしたりもしました。 そういう中で、ふと周りの景色を眺めると、そこではいつも サルスベリ の花が満開でした ( 左の写真は当時撮ったものです )。 

 米国南部の サルスベリ はクレイプ・マートル ( Crape Myrtle ) と呼ばれ、、幹は1本立ちではなく根もとから5本かそれ以上に分かれていますが、それ以外の花や葉は日本のものと全く同じでした。 アトランタのホテルの部屋で転んで左足の親指の爪を剥がしたけれど、医者を探すすべも知らず、その時間もなかったので、手持ちの抗生物質の軟膏と絆創膏だけで手当てしながらニューヨーク→オランダ→ロンドン→東京と、痛い足を引きずって1週間、独りで駈けまわったりもしました。 その時もホテルの窓の外には真紅の サルスベリ が咲き誇っていました。

 このように苦しい思い出と深く結びついているので、私は サルスベリ の花を見ると瞬間的に ( 20年経った今でも )、当時を思い出して胸が疼くのです。 これは サルスベリ の花についてだけ私の内部に起きる一種の心理的アレルギー現象らしく、他の花ではもちろん、こういう事は起きません。 それほど当時の淋しさと苦しさと口惜しさが強烈だったのでしょう。 自宅の庭に20年前に植えられた サルスベリ は、今ではすっかり大きく成長し、毎年沢山のピンクの花を2カ月ほどにわたって咲かせ続けます。 まるで 「 あのひと夏の苦しさをよく乗り越えたね 」 と私に語りかけるかのように

 もう9月が終ったという事は、今年も4分の3が終ったという事です。 暑さも和らいできたので、今月は2回のウォーキングに参加しました。 ひとつは月例の旧東海道。 今回は 府中の宿から丸子の宿を通り、岡部の宿まで 実質16kmほどを歩きました。 あとの1回は東京の都心を、浜松町から麻布十番を抜けて六本木まで。 これは距離的も大したことはなく、散歩みたいなものでした。

 8月から9月にかけて、日本中で集中豪雨の災害がありましたが、幸い私の住居の周りは地形的にそういう災害とは無縁のようです。 昔から地震にも強い地盤だと言われてもいます。 それでも、この地域は以前から長いこと、巨大地震にいつ襲われてもおかしくないと言われ続けてきたので、地域の防災訓練は今年も熱心に行われ、私も参加しましたが、どこの家庭も非常用の食糧、備品などの備えは十分にしてあるようで、改めて日本人の生真面目さみたいなものを感じます。 予想されている程度の巨大地震であれば、この地域では 「 救援物資が来ない ! 」 などと悲鳴を上げるような事態は多くは起こらないことでしょう。

 再び花の話です。 家の周囲の畦道や土手に咲く ヒガンバナ ( まんじゅしゃげ、リコリス ) は、近年、満開の時期が年ごとに早くなり、昨年などは10日ほど早くなっていましたが、今年は彼岸の入りの20日にピッタリ満開となり、ほぼ昔に戻りました。 温暖化のせいとばかりは言い切れない、何か複雑な要因がからんで開花の時期が決まるようです。

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8月度

 8月はさすがに暑く、昼間のウォーキングなどなかなか出来ませんが、しなければメタボってしまうので、晴れの日は時々、朝5時に起きて1時間(8,500歩)ほど歩きました。 朝焼けの映える川辺には大きなアオサギの夫婦や美しいカワセミが飛んでいて、目を楽しませてくれます。 気温は25度くらいなのであまり汗をかきませんが、帰宅後シャワーを浴び、体重を計ると起床直後より500〜600g減っています。 自分でも最初は信じられませんでしたが、何度試しても確かにこれだけ減ります。 ただし、朝食を食べると、体重は元に戻ります。 当たり前です。 この程度の努力で毎日500g本当に痩せられたら大発明 !です。

 というわけで日頃のトレーニングも不足なし。 入院中の老母もようやく退院したので、18日にはまた東海道を一区間歩きました。 今回は駿河の国は江尻の宿から府中の宿まで。 相当暑い一日でしたが、暑さに負けず元気に歩くことができました。


 また、毎週2回ほど、夏休みの高校生の孫に微積分を教えていました。 教えるとなれば予習して記憶を確認しないとならず、頭の老化防止用の体操としては有効そうです。 気分まで高校時代に戻って若返る感じでした。 という話を高校時代の同級生で東大名誉教授の黒田成俊博士へのメールの追伸に書いたら、彼は近著 「 微分積分 」 ( 共立出版 ) を1冊贈ってくれました。 これは大学の数学科の学生の初年度用教科書だそうで、ボツボツ読んでいるうちに 「 たとえ、ある1章だけでも制覇・・・ 」 と思い始めましたが、果して出来るかどうか。 それにしても70歳のときにこういう高度で綿密で分厚い本を独りで書きあげた彼の若々しい頭脳に改めて敬意。

 40歳を過ぎても独身だった長男が、ようやく昨年暮に素晴らしい女性に巡り合い、双方の意思が固まったのが4月頃。その後急速に話が進んで、去る7月の27日に結婚式を挙げることができました。 子の結婚が親の意思ではどうにもならない時代とはいうものの、やはり、これでやっと親としての子育ての責任がすべて完了したような気がします。

 ところで、当人たちにその気がないというわけでもないのに、男女ともなかなか結婚しないとうか、出来ないというか、こういう最近の社会的状況は一体何が原因なのだろうと、何年もずっと考え続けていました。 私なりに心当たりの原因は10近くもありますが、もちろん、それらがすべてでもないでしょうし、正しいと言い切ることも出来ません。 原因は誰にも完全には分からないし、また、仮に分かったところで、どう手が打てるというものでもないでしょう。 「 手を打つ必要などない! 」 と言われてしまうかもしれません。

 しかし、声を大にして是非一つだけ言わなければならないのは、私の若いころと比べて 「 日本の企業が若い人たちを異常に長時間働かせる 」 ように変ってきたという実態です。 時々ならともかく、常態的に毎晩9時、10時、11時、時には零時過ぎまで働かせ、しばしば休日にも仕事をさせるという 「 企業のわがまま勝手 」 を止めさせない限り、真面目な日本の若者たちが仕事以外のいろいろの人生の楽しみを探そうとしてもその時間、ゆとりがないし、結婚するしないにかかわらず、彼らの人生が豊かで幸せになれるはずがありません。 衣食住から娯楽まですべて欧米化してしまった現代ですが、この若者の常態的長時間酷使だけは欧米化せず、日本独特です。 この酷使の有無こそが日本の社会と欧米のそれとの最大の違いの一つだと思うのです。

 私がこう口にすると、若い真面目な 「 被害者の方々 」 の中にさえ 「 毎日6時くらいに帰ったりしたら、国内外の競争相手に負けてしまう 」 と言う人がいます。 しかし、 反射的にそう考えてしまうこと自体がすでに異常なのだと私は考えるのですがどうでしょうか。

 パソコンのインターネットの接続は、数年ごとにダイアルアップ、ISDN、ADSL、そして光フレッツという風に更新して来ました。 IDSNへの切り替えなどは今思い出してもずいぶん面倒な手順でしたが一発でうまくつながりました。 切替えの度に 「 こういう面倒な仕事は今回限りにしよう 」 と考えながら、でも、その後新しい優れた方式、安い制度が出てくるたびに、やはりそれに乗り換えたくなるものです。 こういう切り替えに要する設定変更等の作業は、予備的な勉強も含め、頭脳の老化防止のためには絶好の訓練の機会なのですが、65歳、70歳、75歳と年齢が増えるに応じて 「 そこまでやるのも面倒くさいな 」 という思いが次第に増してきます。 その面倒くささを乗り越えて実行する意思の力が大切だとは思いながら、否応なくその衰えを感じてしまう今日このころです。

 というわけで昨年インターネットを光に変えたのに、電話の方式は以前のままでした。 でも光電話は出現当初の問題点が最近は解消されてきたと聞きましたし、接続料金、通話料もだいぶ安くなるという事なので ( 年間だとバカにならない金額 )、思い切って今回光電話に切り替えてみました。 設定作業は幸いスムーズに終りましたが、パソコン本体の更新も昨夏行いましたし 「 こんどこそ、この種の切替えはこれで最後にしよう 」 と決意しているところです。

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7月度

 なんだか、今回は病気のことばかり書き連ねる事になりそうで、気分がよくありません。 まず私ですが、ひとつだけ残っていた大腸の精密検査も月初めに終わり、結果は何も問題なしという事でした。 結局、私の体には現在これと言って問題はないという事になりひと安心しました。 一方、97歳の老母の体は日ごとに衰弱してきて、入院や手術が必要となり、私にとっては非常に多忙な月でした。

 98歳を目前にした老母は、認知症が進み息子の私が誰であるかさえ全く分からず、全くの寝たきりですが、遂に口から食物を摂取する事も出来なくなりかけてきました。 子供たち、医師たち、介護施設の責任者・・・関係する人々は二つの選択肢の間で悩むことになりました。 ひとつは 「 動物だって高齢化し衰弱して自分の口を経由して食物を摂取できなくなったら静かに死を迎える。 人間の場合も、つい最近まではそれしか選択の余地がなかったのだし、家族がそれを選んで静かに死なせてあげるのも一つの立派な選択だ 」 という考え・・・これはある医師から示唆されたものです。 もう一つは 「 あらゆる新しい医療技術を適用し、一日でも多く生かすよう努めるべきだ 」 という考えです。 具体的には 「 胃瘻 ( いろう ) 」 といって、腹部に穴をあけ、胃袋に通じるチューブを外科的に取り付け、流動食を注入するという延命法です。

 困ったことに、当人の思考・判断力が健康な時にこの種の問題について意思表示をしていなかったので、肝心の当人が今どちらを望んでいるか、もはや知るすべがないのです。 子どもたちは 「 もし私だったら静かに死なせてほしい 」 とは考えるものの、それを母親に押しつけるだけの権利はないと悩んでしまうのです。 結局、子供たちは自分の配偶者と子供たちに今すぐ 「 自分が将来母と同じ状況になったら何もせず私を死なせてくれ 」 と意思表示をして置こうという点では意見が一致したものの、母親に対してどうするかは結論が出ず、長男の私に一任されてしまい、私は二転三転どころか日々五転十転と悩んだ挙句、結局胃瘻を選んだのでした。 97歳でも母の基礎体力は非常に強く、この手術にも耐えて今日も生き延びています。

 さて、いい歳をして健康上危ないからと、真夏 ( と真冬 ) にはゴルフはしない事に決めていたのですが、何だかんだで2カ月以上もやっていなかったので、「 もろもろの検査結果が大丈夫なら 」 ということで、思い切って14日にやって来ました。曇→晴→豪雨という猛暑の一日でしたが、無事まずまずのスコアで終ることができました。 ここまで高齢になると、もちろん上手くもなりませんが下手にもならず、日常生活同様、大した変化がありません。


 更に、21日には由比宿から江尻宿まで、30日には富士市から由比宿までと、2週連続で旧東海道を歩きました。 炎天下水分をひっきりなしに摂取しながら、熱射病にもならず12kmと16kmを歩きました。 これで、昨年5月以来、14カ月かかかって宿場の数的にも距離的にも、東海道53次のちょうど3分の1を歩いたことになります。 その他にも毎日のようにあちこちの会合に顔を出していて、お蔭さまで76歳のこの私は今のところ元気いっぱいです。 ある先輩から 「 君のホームページを見ていると、私の1年分の活動を1月でやってしまうようだね 」 と言われました。

写真上は旧東海道の薩た峠から見下ろした東名高速道路。 下は富士川町の岩淵の宿場にある一里塚の樹齢400年以上のエノキの老大木



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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。