◎田中彰吾著『身体と魂の思想史』(講談社選書メチエ)
この本の目的は「はじめに」に書かれており、重要なので多少長くなるけど全文引用しておく。アマゾンの中身検索でも読める部分なので怒られたりはしないでしょう。なおのちの引用文には、太字で書かれている箇所がある。それはもとからそうなっていたものあって、私めが太字にしたわけではない。「私たちの身体には独特の知性が宿っている。この知性の独特さは、「知識」と「知恵」という言葉を対比させると読者にも伝わりやすいと思う。¶一般に「知識」とはなんらかの事実や情報を知っていることを指す。「人間は霊長類の一種である」もひとつの知識であり、「人間は霊長類の中でもとりわけ大きな脳を持っている」もひとつの知識である。どのような事実を指すものでもよいが、「Sはpである(主語Sは述語pである)」という形式の命題として記述できる情報を一般に知識と呼ぶ。¶他方で、身体に宿っている「知恵」は、このような命題の形では簡単に記述できないものを多く含んでいる。歩き方、走り方、投げ方、話し方、書き方、歌い方、踊り方、泳ぎ方、すべてそうである。「歩き方」ひとつを例にとっても、「歩く」という身体運動に含まれる手続きのすべてを命題として記述するのはきわめて難しい。だが、命題として言語化するのが難しい局面の中にこそ、「知恵」が宿っている。¶実際、読者の大半は、「歩く」ことに付随するすべての手続きを言葉で説明することはできないだろう。にもかかわらず、人前で歩いてみせることで「歩くとはどういうことか」を示すのは容易にできるだろう。言語化することは簡単にできないものの、身体にはわかっている何かがあるのだ。¶いま「歩き方」を例にあげた。だが、もっと大きな次元まで広げてこの「知恵」のありかを想像してみよう。もっとも大きな次元に位置するのが「生き方」である。ひとの生き方に関わることまで、身体には自ずとわかっている知恵がある。¶一九世紀の思想家ニーチェは、頭の中で私たちが操作する知性のあり方を「小さな理性」、それに対して身体に宿る知性のことを「大きな理性」と表現している。ニーチェの生きた一九世紀後半から二〇世紀にかけて、何人もの思想家たちが「大きな理性」としての身体、知恵の宿る身体をさまざまな角度から豊かに発掘してきた。¶本書はこの「大きな理性」という言葉で表現されるような身体性の深みを、二〇世紀に開花した思想に問い尋ね、改めて書き記そうとする試みである。また、歴史的なふり返りを経て、私たちの心と体、魂と身体がよって立つ現在地を描き、その近未来を展望しようとする試みである(3〜4頁)」。
なぜこれが重要なのか? その理由はこれまで繰り返し述べてきたように、現代人は合理性や理性の何たるかを完全に誤解しているからなのですね。とりわけ「ひとの生き方に関わることまで、身体には自ずとわかっている知恵がある」に着目しましょう。要するに生存や生活にかかわる知を身体は備えていることになる。本来の理性や合理性の核心はそこにあり、すぐあとで述べるように、その点は科学的にも明らかにされつつある。「はじめに」の言葉を借りれば、現代人は「知識」が「知恵」に、またニーチェの用語を借りれば「小さな理性」が「大きな理性」に優越すると考えているのですね。これは根本的な誤りだと私めは思っている。そのような考え方が誤りであることは最近の神経科学や認知科学や進化科学によっても次第に明らかにされつつある。それはたとえば、認知科学では、わが訳書のヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』やヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』、わが訳書のマイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』、神経科学ではわが訳書の『進化の意外な順序』を含むアントニオ・ダマシオの著書、あるいは現在私めが鋭意翻訳中のジョゼフ・ルドゥー著『The Four Realms of Existence: A New Theory of Being Human』を読めばよくわかるはず。なおこれらの本の多くは、すでに何度か言及しているので(たとえば最近では『人新世と芸術』や『経済学の思考軸』)ここではこれ以上触れない。最近よく世の中が二極化していると言われているが、その原因の一つは、まさに「知恵」より「知識」のほうが上等であると考えている自称知識人やメディアが、イデオロギーに絡み取られた醜い言説を垂れ流しまくっているからだと思っている。また、あとで取り上げるけど、コンピューターへの意識のアップロードなどといった考えが飛び出してくるのも、意識を「情報」という観点からのみ捉えているという意味において、身体性が関わる「知恵」や「大きな理性」を無視して、「知識」や「小さな理性」を単独で扱えると考える誤った発想に基づいていると言えると思う。ということで、この「はじめに」を読んだだけで、私めの最近の関心にドンピシャであることがわかったので「こりゃ、買わなあかん!」と思ったわけ。
「はじめに」の次は「序章 「大きな理性」としての身体」。「序章」の冒頭の文章を読んでふと個人的に思い出したことがあったので、本筋にはまったく関係がないけど取り上げておく。次のようにある。「学生時代のある時期、それほど長くは続かなかったものの、奇妙な症状に襲われたことがある。いわゆる「{緘黙/かんもく}」で、会話中にほとんど話せなくなってしまうという症状だった。この種の症状は一般には「場面緘黙」と呼ばれ、場面を選ぶ特徴がある。家庭では普通に話すことができるのに学校では話すことができないといったように、多くは幼少期に起こるものである(10頁)」。私めは小学2、3年生のときに東京の小学校に通っていた(かつての東京外語大の裏にあった、というか多分今でもある)。そのとき絶対に学校ではしゃべらない女の子が一人いた。別に障害でも何でもないことは、クラスの一人がこの女の子の自宅のそばを通ったときに本人がしゃべっているのを聞いたらしいことからもわかる(そもそもしゃべることができなければ普通の小学校には通えなかっただろうしね)。結局、東京にいた二年間、彼女の声を聞いたことは一度もなかった。あまりに奇妙だったから、今でもその女の子の苗字を覚えている。新書本の著者の場合、自己流の坐禅をしていたことが原因らしいとのことだけど、さすがに小学2、3年生の女の子が坐禅をしていたとは考えられないので、彼女の場合、原因は著者とは別のところにあったのでしょう。いずれにしても、それが「場面緘黙」と呼ばれることは初めて知った。
それは余談として、「はじめに」を取り上げたとき、現代人は「知識」が「知恵」に優越すると誤って考えていると私めは述べた。個人的には、その傾向が見られるようになったのは、はるか昔の啓蒙主義時代からだと考えている。著者も同様に考えているらしく次のようにある。「近代において強化された理性主義は、決して学問の世界だけに見られたわけではない。一八世紀末の革命期のフランスでは、有名な「理性の祭典」がフランス全土で開催されている。非合理な神への「信仰」に代えて、合理的に筋道立てて物事をとらえて諸問題を解決できる人間の「理性」こそ信じるべきものである、というのがこの祭典の主張だった。(…)当然のこととも言えるが、この祭典では当時を代表する啓蒙思想家だったヴォルテールやルソーの思想が重視されていた。啓蒙思想とは言うまでもなく、理性の啓蒙を通じて旧来の封建的な社会を変革しようとした思想運動である。¶ドイツ観念論やフランス啓蒙思想は、一八世紀から一九世紀にかけてのヨーロッパ思想の到達点であるとともに、「身体なき精神」を象徴する思想史上のピークである。このような状態は、青年期の観念論と同じで、それほど長く続きようがない。観念に同一化しても人生の意味について確固とした答えを持てないのと同じで、理性主義は、思想としてどれほど洗練されていてもいずれ砂上の楼閣のごとく崩れ落ちる(17〜8頁)」。要するにドイツ観念論やフランス啓蒙思想は、「知恵」や「大きな理性」ではなく、「知識」や「小さな理性」に拘泥していたということになる。そしてこの傾向が現代まで続いていると言える。私めはフランス革命を批判的に見ている。というのも、一つにはフランス革命は、まさに「知識」が「知恵」に先走った実例の嚆矢と見なすことができるから。なおフランス革命の問題については、『シィエスのフランス革命』を参照されたい。
それから身体性を重視する次の記述にも着目しておきましょう。「理性を信じた一八〜一九世紀の思想が{疎/おろそ}かにしたものも、私たちの生に備わっている理性の影としての「身体」の次元だった。思想史に対するこのような見方が、本書の出発点である(19頁)」。この見立てにはおおむね同意するけど、一点指摘しておきたいのは、一八〜一九世紀、というか二一世紀の今日に至ってさえ、そこで信じられていた(いる)理性とは、私めに言わせればまがいものの理性、つまり著者の言う「知識」、あるいはニーチェの言う「小さな理性」であった(である)という点。現代人のほとんどが、そのことをまったく理解していないように思えるので、何度でも指摘しておく。だから私めは、次の記述に示されている本書の目的に大きな期待を感じざるを得なかったのよね。「本書では、近代的な理性を「小さな理性」とし、身体に由来する生命の潜在力の開花した姿を「大きな理性」とする、身体論に特有のこうした見方の二〇世紀における展開をたどる。そして、身体論の現在と近未来――さらに言うなら私たち自身の身体の現在と近未来――を展望する(30頁)」。
さて、ようやくここから本論に入る。個人的な関心からすると、フロイト、ライヒ、サルトルが取り上げられている前半より後半のほうが興味深かった。なので前半は駆け足で見ていき、後半をおもに取り上げることにする。まず「第1章 精神分析における身体――フロイトの洞察」ではかのフロイトが取り上げられている。この章に関しては最後のほうにある次の指摘が特に興味深かったので、それをあげておくに留める。「以上の説明から[その詳細はここでは述べないので、興味がある人は是非この本を買って読んでみましょうね]、フロイトと精神分析の描く人間観が、生理的次元まで含めて深く身体的基盤に根ざしたものであることはよく理解できただろう。フロイトが当初「意識−無意識」として記述し、その後「自我−エス」として記述した心のモデルは、たんに心的なわけではない。その根底に「生きられた身体」への着眼があり、そこから派生する心的過程と生理的過程を包括して理解しようとするものだった。彼の着眼では、心的側面も生理的側面もともに含む「二つの身体」の系列、ソームズの整理で言う「自我=外部身体」と「エス=内部身体」とがあり、それぞれが現実原則と快感原則という二つの異なる法則性にもとづいて作動している(72頁)」。
ちなみにソームズとは、神経心理学者のマーク・ソームズで、最近の訳書として『意識はどこから生まれてくるのか』(青土社)がある。実は、このソームズの最新刊にはちょっとした個人的な思い出がある。私めはこの本の原書『The Hidden Spring: A Journey to the Source of Consciousness』(Norton, 2021)が刊行されたとき、すぐに米アマゾンから取り寄せて読んでみた。でも相当に難解に感じた。すると次の月に、某出版社(青土社さんではない)の編集者がこの本どうかと尋ねてきたので、「この本は私めにはむずかしすぎてとても訳せましぇん」と返答した。実はそれは2021年3月のことだった。つまりそのときにはまだ版権が空いていた(というか実は3月にオークションで版権の行き先が決定される予定だった)。しばらくどこが版権を取ったのだろうかと訝っていたら、な、な、なんと早くも7月に青土社さんから邦訳が刊行された。青土社さんは、いつも仕事が早いし、訳者は二人いるとしても、あの本をたった4か月で出すのは不可能だという印象があった。訳者は二人とも大学の先生らしく翻訳が本業ではなく他の仕事が忙しいはずだし、校正作業から印刷、刊行まで最低でも2か月はかかるはずだから、残りの2か月で原書でも400頁以上ある本を訳さなければならない勘定になるわけだが、それはいくら二人がかりでも不可能に思える。今ようやく、その謎がわかったような気がする。訳者の一人岸本寛史氏は、この選書本でも言及されており、どうやらソームズの専門家?らしい。ということは、青土社が版権を取る以前から翻訳に取り掛かっていた可能性が高いように思われる。まあ、このソームズの本は翻訳の専門家ではなく学問の専門家に任せるべき本であることは確か。
ということでこぼれ話が長くなってしまった。ここでほんとうに言いたかったのは、フロイトは「心的過程と生理的過程を包括して理解しようと」していたという点。この記述を読んで、思わずわが訳書、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』の訳者あとがきに「精神病や心の病を考えるにあたっては、生物─生物─生物モデルでは不適切なことはもちろん、フロイト流の心理─心理─心理モデルでも、R・D・レインらの反精神医学的な社会─社会─社会モデルでも同程度に不適切であり、生物、心理、社会の相互作用を考慮することこそが肝要になる」と書いたことを思い出してしまった。この選書本の記述からすると実のところ「フロイト流の心理─心理─心理モデル」ではなく、「フロイト流の生物−心理−心理モデル」が正解だったことになる。ただ一般的な理解は「フロイト流の心理─心理─心理モデル」なのだろうから、この選書本の記述が非常に新鮮に思えたわけ。ということで選書本に戻ると、著者は次のような記述で第1章を締めくくっている。「外部身体と内部身体のどちらかではなく、両者が弁証法を通じて止揚される過程こそ、フロイトの描いた「大きな理性」としての身体だったのである(73頁)」。なおこの結論は、弁証法などという言い方はしていないとしても、前述した現在鋭意翻訳中の神経科学者ジョセフ・ルドゥーの最新刊で提起されている考えにもつながりそうに思える(なお、長くなるのでここではその内容は述べない)。
次の「第2章 性と聖を結ぶ身体――フロイトからライヒへ、ライヒから現代へ」ではライヒが取り上げられている。21世紀の現在にあってはフロイトでさえ持ち出すには憚られるところがあるのに、ライヒを取り上げるとは驚き桃の木山椒の木だよね。実はライヒの本は『ファシズムの大衆心理』と、タイトルは忘れたけど、もう一冊英語の本しか読んだことがない。どちらの本も、それに限れば興味深かった記憶があるけど、彼は「オルゴンエネルギー」とかいうオカルトや、マルクス主義に走った御仁だから、あまり評判がよろしくない。家族という組織体に病理を求めてその解体を目指したような人で、その点では社会─社会─社会モデルをひっさげてさっそうと登場し、さっそうと退場していったR・D・レインらの反精神医学などと軌を一にしていたはず。新書本の著者もそのようなライヒの考えに対して次のように釘を刺している。「権威主義や社会的抑圧を排して社会を改革することはいつの時代にも必要であって、ライヒの革新的な政治的主張にも多少見るべきものはある。しかし、それは「革命」として一挙に実現すべきことではなく、現状の社会をより良い方向に変えるよう漸近すべきことである(78頁)」。この見解にはまったく同意する。なお、ライヒに関しては次の締めくくりの文章だけを引用しておく。「身体から切り離された近代的理性はニーチェに言わせると所詮「小さな理性」に過ぎないものだった。フロイトはヒステリーを通じて「身体」という深層を見出し、それを自我とエスの対話という文脈に置くことで「大きな理性」として回復しようとした。ライヒはフロイトの実践に不徹底な側面を見出し、性的経験の極限としてのオーガズムを通じて心と身体のさらなる統合を目指した。だが、ここには「上半身と下半身の統合」がいまだ欠けている。上半身的な「小さな理性」が下半身と結合されて「大きな理性」となり、それがさらに「上下」「天地」と結ばれるとき、無限へと開かれた垂直の身体感覚を宿す「大いなる理性」が生まれる。性に開かれた身体が指向するのは革命ではない。むしろ、革命の思想が「宗教は民衆のアヘンである」という言葉とともに破壊したスピリチュアリティである。「性」と「聖」が結ばれるとき、「大いなる理性」としての身体は深みから高みへと向かうのである(107頁)」。
これをどう捉えるかは、読む人によって大きく異なるでしょうね。個人的な感想を言うと、私めなら「性」ではなく「適応度」という進化論的な用語に置き換えたいところ。ドナルド・ホフマン氏が、わが訳書『世界はありのままに見ることができない』で述べているように、人間は適応度が上がるように世界を見ている。つまり生き残って子孫をたくさん残すのに有利になるべく世界を見ている。それが人間を含めた動物の生存や生活の基盤をなしているのですね。だから合理性とは、いかにしてこの現実と折り合いをつけて「上半身的な小さな理性」を「大きな理性」へと変貌させるかという点に存する、というようなところが私めの見方になる。言い換えると、合理性とはいわゆるIQ的な頭のよさとかそういった点に関係するのではなく、いかに生きられた身体である「大きな理性」に「小さな理性」を統合するかに関する問題なのですね。そしてその統合がうまくなされるよう背後で手助けをしているのが文化や社会、あるいは私めが言う中間粒度だと言える。ライヒはR・D・レインなどとともに、この中間粒度をなす社会(とりわけ家族)を破壊しようとしたわけだが、個人的には、それはまったくの間違いだと思っている。というのも、著者も「それがさらに「上下」「天地」と結ばれるとき、無限へと開かれた身体が指向するのは革命ではない」と述べているように、彼らのそのやり方は、「小さな理性」の「大きな理性」への統合を困難、あるいは不可能にしてしまうからなのですね。
お次はサルトルを扱った「第3章 身体の思想としての実存主義――サルトルを超えて」だけど、正直なところこの章はほとんど印象に残っていないし(実存主義はどうも古臭いという偏見が当方にあるからかも)、付箋を貼った箇所が一つもないので引用もしようがない。なのでまるごとスキップする。
ということで、次のメルポンを扱った、個人的にはもっともおもろかった「第4章 身体を取り戻した心――メルロ=ポンティと身体性認知」に参りましょう。まず、メルポンは何を目指していたかについて次のように要約されている。「デカルトは方法的懐疑を進める中で、疑いを挟む余地のないほど「明晰かつ判明」なテーゼだけを取り出そうとする。しかし、そもそも私たちが自らの身体とともに、あるいは身体を通じて経験していることは、決して明晰でもなければ判明でもない。二〇世紀なかばにモーリス・メルロ=ポンティ(一九〇八〜一九六一)が展開した身体論は、まさにこの点に関係している。主著の『知覚の現象学』で彼が記述を試みているのは、最初から最後まで「生きられたもの」である。ひとは自らの身体とともに行為しあるいは知覚しているとき、たいていの場合それを暗黙に遂行している、言い換えると行為や知覚の経験をただ「生きている」。メルロ=ポンティによれば、このような前反省的に「生きられたもの」を反省によって意識にもたらす作業こそ、現象学の核心である(147頁)」。ちなみに『知覚の現象学』は邦訳と英訳で一回ずつ、計二回読んでいる。英語訳(Routledge)が、珍しく本の山に埋もれているのではなく、本棚のすぐ手に取れる場所に置かれて誘っているので、おじぇじぇ病が治癒して余裕ができたら(そんなときは来るのだろうか?)、もう一度読み直さないとあかんなといつも思っている。最近の神経科学や認知科学の本を読んでいると、明らかにこのメルポンの『知覚の現象学』の影響を受けていると思しき箇所がよく出て来る。二〇世紀前半の一九四五年に刊行された基本的に哲学の本が、現代の脳科学者や認知科学者に影響を与えているのだから、たいしたものだよね。だからポピュラーサイエンスの読者も、さすがに難解かつ浩瀚な『知覚の現象学』を読むべしとまでは言わないとしても、この選書本やメルポンの入門書くらいは是非読んでおいたほうがいいと思う。
次に著者は、いったんメルポンから離れて心理学における行動主義と認知主義の問題を取り上げている。次のようにある。「端的に言って、行動主義は有機体に外部から入力される「刺激」と外部に出力される「反応」の関係を法則的に理解することにのみ主眼を置いており、有機体の内部で進行しているはずの心的な過程を不問に付した(…)。これに対して認知主義は、「情報処理」という観点に立脚し、行動主義が放置した内的過程を、特定のモデルに沿って心的表象が処理される計算過程として理解しようとしたのである。¶だが、認知主義と行動主義、どちらの立場にも哲学的に見れば大きな問題が潜んでいる。それは、外部から観察可能なものを人間の「身体」に見出し、内的で主観的に接近するしかないものを「心」に重ね合わせる思考である。認知科学は情報処理という観点を持ち込むことで「科学」的に心に取り組もうとしているように見えるが、意匠が新しいだけで心それ自体の見方は古い。それは入力と出力のあいだにある情報処理過程であり、計算機を動かすプログラムをアナロジーとして用いることで接近できるものの、内的かつ主観的過程であることに変わりはない。この思考が、大きな枠組みとして心身二元論を引き継いでいることは読者の目にも明らかだろう(150〜1頁)」。これを読んだ私めはハタと膝を打ってしまった。というのも、私めはいつも、コンピューターへの心(意識)のアップロードが可能になるなどという、情報処理の観点に基づいた言説は、二一世紀において心身二元論を復活させることに等しいのではないかと思っていたから。彼らは心身二元論を肯定しているのではないだろうか。
この心身二元論について、著者はさらに次のように述べている。「近代の哲学と科学の出発点に据えられた心身二元論をふり返ると、認知科学をはじめとする「心の科学」が、その方向づけや枠組みの設定において深く心身二元論に規定されていることが改めてよくわかる。行動主義は、心を私秘的なものという前提で見ていたために、公共的に観察可能な身体に着目することで、「刺激」と「反応」を結ぶ条件反射の回路として心を解明しようとした。他方、認知主義は、行動主義がとらえそこねた有機体の内的過程に「表象」と「計算」という観点から迫ろうとしたが、それが純粋に心的で身体から独立した過程であるとみなす傾向があり、以下で見るように、これが認知科学のその後の発展に支障をきたすことになる(152〜3頁)」。そのような見方を刷新したのがメルポンだったのであり、彼の「取り組みは、身体から切り離された内的過程として心の活動をとらえるのではなく、暗黙のうちになんらかの行為をなしている身体から出発して心的なものを理解しようとするものである。「生きられたもの」に準拠することは、暗黙のうちに行為する能力を備えた身体から出発するという意味に他ならない(156頁)」。
ここで著者は、メルポンの身体図式の特徴を三つあげている。第一点は、「身体図式はたんに身体部位の位置関係や姿勢についての認知を司るだけでなく、各身体部位の運動を統合しつつ環境に向かう行為を組織化する(157頁)」こと。第二点は、「身体図式は、環境と関わるうえで習慣化された行為を堆積する機能を持つ(159頁)」こと。第三点は、「身体図式は学習された運動行為を習慣として堆積するとともに、環境中の行為可能性を知覚できるようにする(160頁)」こと。著者は以上をまとめて、メルポンの考えを次のように要約している。「以上のように整理すると、メルロ=ポンティの身体図式論がいわば「受肉した意識」の思想になっていることが理解できるだろう。(…)意識はつねになんらかの対象へと差し向けられており、自らが背景に消え去ることで対象を眼前に現れさせる。じつは、このような意識の性質を具現化しているのが私たちの身体、暗黙の行為を可能にする「生きられた身体」なのである。そして、生きられた身体の中核にあるのが身体図式の機能である。身体図式はつねに全身の各部位を具体的な行動を通じてとりまとめ、身体に意識を向けずとも滑らかな行為を実現し、行為の対象と、対象を取り巻く環境とを私の前にそのつど現れさせる(161頁)」。
第4章の残りは、時代的にはメルポンからかなり飛ぶけど、ヴァレラから始まってそれ以後の身体性認知科学が取り上げられている。彼らはメルポンの考えを発展させたと言えるかもしれない。ここでは身体性認知科学の核をなす、「身体性(embodiment)」を始めとする四つのEという考えを紹介しておきましょう。次のようにある。「第一に、たんに身体の形態や構造が問題なのではなく、認知主体がその身体によって遂行する行為(action)を通じて認知が実現していること。行為を通じてそのつど認知が実現される様子は「エナクティヴ(enactive)」と形容する。第二に、認知主体の「頭の中」で生じていることは、それ自体を独立して見るのではなく、環境の中に埋め込まれた身体がさまざまな相互作用を環境と繰り広げる過程と合わせてとらえねばならないこと。認知が具体的環境の中に埋め込まれて成立していることを「エンベデッド(embedded)」と形容する。第三に、認知の活動は個体の内部に閉ざされておらず、身体を介して道具や外界を巻き込みつつそれらへと拡張して成立していること。この拡張性を「エクステンデッド(extended)」と形容する(173〜4頁)」。日本語でどう訳されるかは別として、「embodiment」「enactive」「embedded」「extended」という四つのEで始まる英単語は、昨今の認知科学や脳神経科学の本を読んでいると出くわすことが多いので、是非この説明を覚えておきましょうね。そして最後に次のような記述で第4章は締め括られている。「4E認知に依拠する心の見方は、心を身体や脳の内部には位置づけない。心をむしろ身体と環境の「あいだ」に拡がるものとしてとらえる(図4―5)。デカルトによって身体から切り離された心は、身体を取り戻すことにとどまらず、さらに身体を超え、身体と環境の「あいだ」、自己の身体と他者の身体の「あいだ」に拡がるものとして見えてくる。「大きな理性」の現代的展開として見えてくるもののひとつが、この「あいだ」に拡がる心であると言ってよいだろう(176頁)」。本を持っている人は、図4−5をじっくり見ておきましょうね。ここでアカラサマ、もといステマをしておくと、わが訳書のスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』、ならびにすでに翻訳を終えている同じくスザンヌ・オサリバン著『It's All in Your Head: Stories from the Frontline of Psychosomatic Illness』、さらにはわが訳書のロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない』は、まさにこの身体と環境の「あいだ」、自己の身体と他者の身体の「あいだ」に拡がる心がいかにして機能不全に陥りうるのか、そして機能不全に陥ると何が起こるのかを具体例を豊富にあげて示した本だと言える。ぜひぜひ、買ってね!
次の「第5章 身体イメージと現代――「付き合いにくい存在」か「大きな理性」か?」では、身体イメージが取り上げられている。これまでの章とは異なり特に主要な登場人物は存在しない。なお、いつものように長くなってきたこともあり、この章についてはざっと眺めるに留める。冒頭に次のようにある。「ここで指摘しておきたいのは、そもそも身体イメージが時代や文化に影響を受けるということである。もともと女性のあいだで「痩せた身体」が美しい姿として理想化されるようになったのも二〇世紀後半になってからである。最近まで、映画、テレビ、ファッション誌を飾る若い女性の姿は、総じて背が高くすらっとしていて脚も長いというのが定番だった。身体イメージ研究で知られるS・グローガンによると、西洋社会ではこの傾向が一九五〇年代の映画スターであるグレース・ケリーやオードリー・ヘップバーンとともに顕著になり、一九六〇年代に入ってファッション・モデルのツイッギーの登場で決定的になったという。年代に多少のずれはあるが、日本社会も同様の傾向をたどったように見受けられる(180頁)」。まあオードリーは戦時中にオランダ飢餓の冬を経験した人だったはずだしね。で、ヘップバーンの名前を見て、「もう一人のヘップバーンさんを忘れていませんか?」と言いたくなった。一九三〇年代から活躍していたキャサリン・ヘップバーンは、ガリガリに痩せていたというイメージが強い(単なる偏見なのかも)。それからツイッギーという名前を久々に見かけた。彼女どうしているのかなと思ってググってみたら、まだ健在だった。ガリガリと言えば、一九六八年の映画『ローズマリーの赤ちゃん』に出演していたときのミア・ファローも鬼気迫るほどすごかった。ホラー映画という触れ込みにしては映画それ自体は特に怖くはないものの、ミア・ファローの痩せぶりだけは、見ていてなんかマジで死ぬのではないかと思えて怖かった覚えがある。
またいらん脱線をしてもたので新書本に戻ると、著者は「身体図式」と「身体イメージ」の違いを説明している。その違いは端的に言って次のようなものだそう。「現象学的にいうと、志向性の向かっていく先に身体があり、ひとつの意識対象として像を結んだものが身体イメージであるのに対して、身体図式は志向性が発する身体的な起源にあるものであり、決して対象にはならない(183頁)」。「現象学なんて知らないもん!」という人には、次の記述でいかがかな? 「身体が主体として行為する際に暗黙にはたらいている感覚−運動的システムが「身体図式」であるのに対して、「身体イメージ」は自己身体を対象化することで成立する(183頁)」。次に著者はショーン・ギャラガーが提起する身体イメージの三つの側面(「身体知覚」「身体概念」「身体情緒」)を紹介している。それについてはここでは細かく説明しない。ただ最近の認知科学の本ではギャラガーへの言及をよく見かけるので(現在鋭意翻訳中のジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence』でも結構言及されている)、このあたり(183〜4頁にかけて)をじっくりと読んでおくといいかも。それから現代のわれわれにも大きく関係する次の指摘を取り上げて、第5章はおしまいにする。次のようにある。「身体の付き合いにくさは、他者との共存の難しさである。現代人にとってこの難しさは、(…)具体的に実在する他者を相手にするものから、抽象的でその実在さえ確かめにくい他者を相手にするものに変貌している。これはいうまでもなく、現代では全般的に都市化が進み、具体的な他者との人間関係が前提とされる共同体が解体され、マスメディアやソーシャルメディアを介した人間関係に共同性が置き換えられてきた歴史的経緯を反映している。比喩的にいうと、ソーシャルメディアを通じて発信した自己の情報に対して、つながりのある人々から与えられる「いいね」のフィードバックだけが、肯定的な身体イメージを維持する「他者の眼差し」になるような時代に私たちは生きている(209〜10頁)」。著者の言葉を借りれば「心は身体と環境のあいだに拡がるもの」なのであって、自己の心はどうしてもマスメディアやソーシャルメディという環境と、それによって形作られた身体イメージの影響を受けざるを得ないのですね。このあたりの問題に関しては、先にあげたスザンヌ・オサリバンの著書が、抽象的にではなく個々の具体的なエピソードを通じて取り上げているのでわかりやすい。ぜひ読んでみてみて!
ということで最後の「第6章 脱身体から拡張身体へ――脳科学から見る身体の近未来」に参りましょう。副題からもわかるように、ここまでの章が科学的記述より哲学的な記述のほうが多かったのに対し、この最終章は哲学的な色合いよりも科学的な色合いのほうが濃い。まず次のようにある。「非侵襲的な方法によって、しかも脳内の局所的な活動に迫る脳機能イメージングの手法であれば、研究の射程は大きく広がる。もともと脳神経科学にとっての重要な研究テーマは、アルツハイマー病、パーキンソン病、脊髄小脳変性症などの神経疾患、あるいは統合失調症やうつ病などの精神疾患の病態解明が占めていた。こうした医学的研究に加えて、心理学的研究、とくに知覚・思考・記憶・情動・注意・言語などのいわゆる高次認知機能に対応する脳活動が広く研究対象とされるようになった。脳科学は急速に、自然科学と人文社会科学にまたがる複合研究領域へと変貌したのである(212〜3頁)」。脳科学や認知科学という分野で、自然科学と人文科学がますます接近しつつあるというのは、ポピュラーサイエンス本の翻訳者である私めも強く感じていることでもあり、たとえばすでに二度言及したジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence』でも、現在校正作業中のゲオルク・ノルトフ著『Neurowaves: Brain, Time, and Consciousness』、ならびに同氏の既刊『脳はいかに意識をつくるのか』でも、哲学と脳科学/認知科学の両方が大きく関与している。
それから著者は、「サイボーグ技術」に言及しげたうえで世にはびこる「脱身体の思想」の問題を取り上げる。次のようにある。「先天的または後天的な病によって失われた身体機能を回復できるのだとすれば、サイボーグ技術に高い期待が寄せられて当然である。ただ、ここで考えたいのは技術の未来ではなく、サイボーグ技術の進歩が続くことによって身体の機能がすべて置き換えられるようになるのか、さらにいえば、脳が十全に保持されていれば身体は不要になるのか、という点にある。身体が失われても脳が健全な状態に保たれていれば心と自己は保存されるとの見方を、ここでは「脱身体の思想」と呼んでおく。脳神経科学の発展とともに、運動系についても感覚系についても脱身体の発想を背後に読み取れる研究が増えているが、その種の研究を批判的に検討しつつ、私たちの身体の未来を考えることが本章の課題である(215頁)」。「脱身体の思想」の最たるものは「意識をコンピューターにアップロードすることができる」という考えになると思うが、すでに述べたように、そもそもそれは心身二元論の復活を意味しているのではないかという疑問がある。また選書本の著者が主張するように、心が身体と環境のあいだに拡がるものなのであれば、身体と環境も同時にアップロードすることなく心だけアップロードするというのはどう考えてもちゃんちゃらおかしいことになる。ちなみに「桶の中の脳」というよく知られた思考実験?がある。あれはまさに、身体も同時にアップロードしなければならないとすると、身体と直接的に接して身体に影響を及ぼしている環境もアップロードしなければならず、身体の直近の環境をアップロードするのなら、その直近の環境に影響を与えているさらにその外側の環境も、さらにはその外側の環境に影響を及ぼしているさらに外側の環境もアップロードしなければならなくなり・・・、といった具合に結局世界全体をアップロードせざるを得なくなるから、この無限後退の可能性を断ち切るために都合よくでっち上げたイメージだと思っている。ところでこの選書本を読む前に、タイトルは伏せておくけど、ある神経科学者の書いた本を読もうとした。するとまさにこの「意識のアップロード」の話がしょっぱなから出てきた。うぬぬ!と思って、かなりたくさん入っている図版を一つずつ確認してみると、そのほぼすべてが脳もしくはニューロンの写真やイラストで、身体が一緒に描かれているものは一つもなかった。それがわかったところで時間の無駄になりそうだから読むのをやめた。よく見るとオビには「脳からコンピュータに意識を移す!」とデカデカと書かれているしね。内容をほとんど読んでいないから確実なことは言えないにしても、私めは「この著者はもしかして、身体や環境を無視して意識をコンピューターにアップロードできるとマジで思っているのかいな?」と思ってしまったというわけ(違っていたらすんましぇん)。
それはそれとして選書本に戻ると、著者はこの「脱身体の思想」ではなく、「拡張身体の思想」を構想すべきだと次のように主張する。「私たちは「脱身体」ではなく「拡張身体」を目指す方向で神経系の科学と技術を取り入れる近未来に向いつつある。「拡張身体(extended body)」とは、身体化された心の別名である。第4章で見たとおり、現代の認知科学は「身体と環境のあいだに拡がる心」という見方を示しつつある。この観点を脳と身体の関係において考え直すと、「身体なき脳」ではなく、柔軟に拡張する「身体化された脳」を構想すべきであることがわかるだろう(215頁)」。「拡張身体」という考えは、意識をコンピューターにアップロードするなどというぶっ飛んだ考えに比べればきわめて現実的でリーズナブルであると個人的には思う。
では、拡張身体とはいったい何なのか? その一つの例としてあげられているのがBMI。おっと! BMIと聞いてギクッとした人もいるかもしれないので明確にしておくと、BMIと言ってもボディマス指数のことではなく、ここでは「ブレイン・マシン・インターフェース」を指す。このBMIをネズミやサルの脳に埋め込んで行なった「ニューラル・オペランド条件づけ」の実験が紹介されている。その結果、次のことがわかったらしい。「ネズミは、装置の前で試行錯誤を幾度も繰り返し、以前レバーを押して水を得ていたときと同じ脳活動をたまたま生じさせることに成功すると、BMIが作動して水を得ることができるようになる。サルは、以前カーソルを動かしてジュースを得ていたときと同じ活動をたまたま生じさせることができれば、BMIが作動してジュースを得ることができるようになるのである(221頁)」。この結果から著者は次のような結論を導く。「BMIが可能にしているのは「脳−身体−環境」という系を「脳−BMI−外部装置−環境」という系に置き換えることである(223頁)」。そしてさらに次のように言う。「脳と身体の関係を、一対一に対応する中枢と末梢の関係として理解すべきではない。行為主体がなんらかの意図をもって振る舞おうとする場合に、与えられた環境の中でその意図を実現することができるよう、脳と身体は相互の関係をそのつど柔軟に調節していると考えるべきである。脳が身体を制御するという関係ではなく、「脳−身体−環境」という全体的な系が必要に応じて柔軟に組み換わりながら、同じ行為主体の意図が実現されるという関係にあるのである。¶したがって、BMIが実現しているのは、あくまで「生身」の身体に代わることのできる「機械の身体」だということになるだろう。BMIは、脳があれば身体は不要であるという「脱身体の思想」を実現しているのではなく、「機械の身体」というオルタナティヴな身体のあり方を提示しているのである。また、BMIとともに当事者が体現しているのは、サイボーグという「脱身体」ではなく、環境に拡がる行為の意図を代替する「拡張身体」に他ならない(224〜5頁)」。先にあげた「意識をコンピューターにアップロードする」という考えは、身体どころか脳さえいらないと言っているのに等しいしね。なお前述のアップロード神経科学者は、このBMIを「機械の身体」としてではなく、意識のアップロードに利用するみたいなことを書いていた。それには首を傾げざるを得なかったのに対し、選書本の著者の以上の主張は、非常に納得できる。
次に著者は「脱身体の思想」を流布させた別の研究として、ラバーハンド錯覚やらフルボディ錯覚やら幻肢やらの研究をあげている。これらの研究の具体的な内容についてはラマチャンドランらがポピュラーサイエンス本で広く紹介していて多くの人が知っているはずなのでここでは取り上げない。ただ著者の結論だけは引用しておきましょう。次のようにある。「結局のところ、身体の所有感をゴムの手や仮想身体の上で再現できるからといって、また、その所有感が脳内の多感覚統合に由来するからといって、私たちが「自己の身体」と感じているこの身体それ自体が錯覚であるということにはならない。そもそも、脳とつながった身体が機能しており、ベースラインで作動している「これが私の身体である」という暗黙の所有感が最初になければ、それをゴムの手や仮想身体へと拡張すること自体が不可能になってしまう。むしろ、こうした身体錯覚の現象は、脳とつながった身体が物体や仮想身体などを包み込んで拡張しうるという事実を物語っているのである。ここでもやはり、「脱身体」よりも「拡張身体」という概念で現象をとらえるほうが実態に見合っている(235頁)」。個人的には全面的に同意する。さらに次のようにある。「私たちが見出してきたのは、あくまで「脳−身体」というユニット全体によって「自己」は保たれており、「脳−身体」というユニットが環境との関係でその姿を変えてしまえば「自己」のあり方もまた変化するということだった。このような見方を「身体化された自己(embodied self)」と名づけることができる(237頁)」。ということで本章、ならびに本書の結論とも言える最後の段落を引用することで、この本については終わりにしましょう。次のようにある。「結局のところ、脳神経科学が進歩することによって、人間は「脱身体」という方向には決して進んでいない。また、そうした方向に技術開発を進めようとしても、おそらく行き詰まる。むしろ、「脳−身体」というユニットがもともと宿していた柔軟な可能性を極限まで開花させる「拡張身体」の方向にこそ科学と技術の進歩が垣間見えるし、またそうした方向に進むところにこそ「大きな理性」としての身体の未来があると言うべきである(244頁)」。哲学的な議論と科学的な議論がほどよくミックスされた本書は、ポピュラーサイエンス本の読者にも、人文系の本の読者にも推奨できるので、ぜひ買って読んでみましょうね。
※2024年7月5日