◎山崎耕一著『シィエスのフランス革命』(NHKブックス)

 

 

タイトルにある「シィエス」とは、高校の世界史の教科書では「シェイエス」と表記されていた、『第三身分とは何か』と題する有名な政治パンフレットで知られる思想家のこと。「序章 フランス革命の論じ方」の最後の部分に、彼の名前の発音の問題について説明されているけど、あまり些細なことを言っても仕方がないので、ここでも著者の表記に合わせて「シィエス」と表記することにする。まずフランス革命には個人的には大いなる興味があると言っておきましょう。というのも、フランス革命は現在に至る重要な概念を残すとともに、現在につながるとんでもない禍根も残したと私めは考えているから。わが脳の揮発性のオンボロメモリーのパワーを振り絞ってつらつらと考えると、高校の世界史では、フランス革命はバラ色のできごとであったかのように教えられていたように思う。もちろんロベスピエールらの恐怖政治にも触れられていたけど、それは一種の事故のような扱いだったように覚えている。しかしその後、フランス革命に関するさまざまな本を読んでいくと、必ずしもそうではないことに気づいた。たとえば歴史家サイモン・シャーマ著『Citizens: A Chronicle of the French Revolution』(Vintage, 1989)は、とりわけ目からうどん粉って感じだった。この本に関しては『アリストテレスの哲学』や『独裁の世界史』を取り上げたときに少しばかり言及したのでそちらを参照されたい。

 

実は日本におけるフランス革命に対する既存の理解の問題に関しては、著者も冒頭で次のように述べている。「フランス革命史はこれまで、聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)と、平民(第三身分)もしくは平民上層部の「ブルジョワジー」との間の、政治的・社会的闘争として捉えられることが多かった。その背景には、経済史を歴史学の中心に据えて、中世から近代への移行とは、封建制もしくは領主制と呼ばれる生産様式から資本主義と呼ばれる生産様式への移行であると捉える見方がある。(…)この見方においては、さらに、ブルジョワジーの中で「商業ブルジョワジー」と「産業ブルジョワジー」が区別される。そして、商業ブルジョワジーは旧支配層と妥協しながら、変化を{微温/びおん}的で最小限の改革に留めようとするのに対して、産業ブルジョワジーは古いものを徹底的に排除して新しい社会を築こうとする、とされるのである。¶前者の、上からの改革の路線を代弁するのが「ジロンド派」であり、後者の下からの改革を代弁するのが「{山岳/さんがく}派」であるとされる。両者は一七九三−九四年の、いわゆる恐怖政治の時代に文字通り流血の戦いを繰り広げ、山岳派が勝利して徹底した近代化の路線がとられることになった。それ{故/ゆえ}にフランス革命は「典型的な市民革命」と評価される。以上の見解は「ブルジョワ革命論」と呼ばれる(9〜10頁)」。

 

「山岳派が勝利して徹底した近代化の路線がとられることになった」というくだりに着目されたい。これは著者の見解ではなく既存の理解の指摘だけど、もしその見方が正しいのなら、山岳派のやった行ないを考えると、近代化の根源には途轍もない暴力性が潜んでいたことがわかる(実際、前述のサイモン・シャーマはフランス革命を暴力性という観点からとらえているし、同時代人でフランス革命を毛嫌いしたエドマンド・バークも中間粒度を破壊するフランス革命の暴力性を嫌っていたのではないかと思う)。ならばなぜ、かつてはフランス革命がバラ色の相のもとで見られていたのかということにもなろうが、おそらく「革命」という言葉に惑わされたからではないかと個人的には思う。このような見方は、「日本においても第二次世界大戦後から一九七〇年代まで、学界で説得力を持っていた(10頁)」とのこと。なお私めが高校でバラ色のフランス革命的世界史を教えられたのも一九七〇年代のことだった。当時はまだマルクス主義の影響も強く、下剋上的なナラティブで歴史を語ることが多かったと言えるのかもしれない。ちなみに先日取り上げた『社会学の新地平』でも、マックス・ウェーバーが、大塚久雄らによってマルクス主義的にいびつに解釈されていたと述べられていた。一つ例をあげると次のようにある。大塚久雄は「ウェーバーが近代資本主義の企業形態を「経済的な根拠{だけでは/傍点}説明でき{ない/傍点}としたことにはふれず()、ウェーバーのいう「生産経営」はマルクスの「産業資本」にあたるものだとして、マルクス主義の経済学に戻っていく(同書239頁)」。下剋上的なナラティブとは直接関係ないとしても、ウェーバー解釈においてもマルクス主義が幅を利かせていたことがこの文章からわかる。あるいは日本史でも、呉座氏が『応仁の乱』(中公新書)で、現在ですら下剋上史観によって歴史を歪曲して見る歴史学者がいるというような主旨の批判をしていた。とはいえ、日本におけるフランス革命に対する見方は、その後変わる。次のようにある。「しかしフランス革命史の実証的な研究が進むと、産業ブルジョワジーという概念に対応する社会階層が実質的に見つけられないなど、必ずしも史実にそぐわない点が目立つようになり、ブルジョワ革命論を支持する歴史研究者は次第に少なくなっていった(11頁)」。まあかつては実証よりイデオロギーが重視されていたと言えるのかもしれないよね。

 

ということで、「第一章 アンシアン・レジームとは何か」に参りましょう。とはいえ史実をいちいちここで取り上げても芸がないので、ここからはおもにシィエスの思想に関する記述を取り上げることにする。よって第一章では、彼の主著を扱う「三 『第三身分とは何か』」に焦点を絞る。まず彼の社会に対する見方を取り上げましょう。次のようにある。「シィエスが想定する国民は常に、より多い生産とより豊かな享受を目指して絶えず努力する存在であり、そのために自由競争と分業が重視されることになる。(…)分業と協業は表裏一体だから、人は生活資材を豊かにしようとすれば、必然的に社会を形成することになる。相互に対等な立場で協力し合う人々の全体が国民を形成する。(…)つまりは分業=協業に基づく経済活動こそが社会にとって第一義的なのであるが、この社会は自由と所有を保障する「後見的権威」がなければ安定的に存続し得ない。それ故に、人々の意思を結集して国家権力を生み出す必要が生じる。ルソーの『社会契約論』においては、人々は自然状態においてはバラバラに生活しているが、自己保存のために社会契約を結び、社会と国家を同時に形成すると想定されている。しかしシィエスにおいては国家とは、アプリオリに社会を形成している国民が事後的に作り出すものなのである(38頁)」。国家が存在しないうちから国民が存在するのかいな?という突っ込みは置くとして、いずれにしても契約のタイミングは異なっていたとしても、シィエスの考え方の背景には社会契約論があったと推測できる。

 

次いで憲法に関して次のようにある。「憲法は、国家という団体に期待する役割を果たさせるにふさわしい組織・形式・規則を定めるもので、委任に拠る統治体には不可欠なものである。具体的には、立法権を持つ団体および執行権を持つ団体それぞれの組織と役割を規定する。憲法制定権力を持つのは国民自身のみであり、国民はその行使を、憲法制定のためのみに選ばれる特別代表に委ねる。それによって成立した憲法に従って、「憲法により構成される権力」、具体的には立法と執行に関する諸機関が成立し、憲法の規定に従って通常の法律を制定し、執行する。すなわち、日常生活においては人々は立法権によって制定された種々の法律に拘束されるが、国家が国民に法への服従を求めることができるのはそれが憲法に従っているからであり、憲法が正当なのはそれが国民自身の意思だからなのである。また憲法制定権力を持つ国民自身は、「憲法により制定される権力」とは逆に、憲法によって拘束されず、必要に応じて憲法を改正することができる(39〜40頁)」。この見方は、日本の左派がよく口にする「憲法は政府を縛るためにある」という見方の起源の一つ(他にも抵抗権の概念もあると思うけど、それについてはあとで出て来る)をなしているように考えられる。篠田英朗氏など、その見方が間違いであると主張する学者もいるし、私めも誤りだと思っているけど、それについては本書には直接関係がないので、ここでは立ち入らない。ただし次の点はつけ加えておきたい。それは、このような見方を取るのであれば、最後の「憲法制定権力を持つ国民自身は、(…)必要に応じて憲法を改正することができる」という部分だけを都合よく無視してはならないという点。この見方からすると改憲は憲法制定能力を持つ国民が持つ権利なのであり、事実日本国憲法にも96条にその手続きが規定されている。かの宮沢俊儀氏でさえ96条に準じた改憲は認めていたらしい。だから「憲法は政府を縛るためにある」と主張しながら、改憲を否定するのであれば、その人は根本的な矛盾を犯していると言わざるを得ない。なぜなら、国民自身が持つ「憲法制定権力」と、政府という「憲法により制定される権力」の区別を重視するのであれば、国民から「憲法制定能力」を奪うような行為は、自分たちの思想基盤を自ら掘り崩していることになるから。なおシェイスが「憲法制定権力」と「憲法により制定される権力」を明確に区別した理由の一つは、彼が理念を重視する理論家であって政治家ではなかったからで、そのせいでシェイスは革命後しばらくすると発言力を失っていくことになる。それについては第3章で再び取り上げることにする。

 

ということで「第二章 一七八九年=「シィエスの年」」に参りましょう。この章では、絶頂期のシィエスが提案した理論や政策が取り上げられている。教会十分の一税の廃止、サンス(封建地代)の廃止、能動的市民の構想、人権宣言案の提起、代表制論、県制度の構想などだけど、その詳細はここでは省略する。ただ二点だけ取り上げておく。一点目はルソーとの違いが説明されている次の記述。「ルソーは『人間不平等起源論』において、自然状態で発生する経済的不平等は、社会の形成とともに権利の不平等として固定され、拡大されるとし、また『社会契約論』においては、不平等を阻止するためには社会と政治権力を同時に出現させる社会契約を結ばねばならないが、その際に人は自然状態で持っていた自由の一部を放棄するとした。シィエスの人権宣言案はルソーを正面から批判し、否定していると言えるだろう。またルソーの『社会契約論』によって構想される社会=国家においては、不平等を排除するために、経済活動の自由よりは国家による規制の方が重視される点で「政治優先型」であるが、シィエスが描く社会においては経済活動の自由こそが一義的に重視されるのであり、政治権力は単に、スムーズな経済活動を保証するとともに、経済的不平等が権利の不平等に転化するのを防ぐためにのみ、自律的な社会に対して外から追加されるのである(69頁)」。特に後半を読むと、少なくともルソーに比べれば、シィエスは理念一辺倒の理論家ではなく、より実践的な政治家的気質を持っていたようにも思える。

 

もう一点は、代表制論、県制度の構想に関するもので、次のようにある。「彼は、フランスは単一の全体であり、またそうであらねばならないと、アプリオリに断言する。言い換えると、フランスは民主主義(=直接民主政)によって統治される小国の寄せ集めではない。ここで彼が念頭に置いているのは、一つには新生のアメリカ合衆国のような連邦制をフランスは採らないということであろうが、それよりも重視されているのは、命令的委任の制度は認めないということである(75頁)」。ここで言う「命令的委任の制度」とは、全国三部会で採られていたバイイヤージュ制度のことで、それによって「選挙区で選挙民が議員の意思を決めてしまう(76頁)」ことができたのだそう。あるいは次のようにある。「全国三部会における命令的委任とは、まさに議員を地元の利害の代弁者として扱い、地元の声を国王に届けること(のみ)を議員の職務として強制するシステムだった。しかし、来るべき議会における議員は、どの選挙区から選ばれたかとは無縁に、「フランス国民全体の代表」でなければならない。そのためには、それまでの人間的な絆やしがらみを断ち切るために、選挙区となる県は幾何学的・抽象的に設定された区画でなければならない。それによって「フランス国民はすべて、市民というただ一つのアイデンティティを持つことになる」とシィエスは言う。彼が構想する県制度は、フランスを「民主主義によって統治される小国」の寄せ集めとしないための手段なのである(81頁)」。要するにシィエスは直接民主制(著者は「民主政」と記して「政治」を強調しているけど、引用文以外では私め個人の趣味で「民主制」として「制度」を強調することにする。まあ大きな違いはないと思うので)ではなく代理制、すなわち間接民主制の確立を強く支持したということでしょう。余計なことを一つ指摘しておくと、フランス革命を「世界市民」のような概念の起源としてとらえるとすればそれは誤りであるということ。この文章を読めばわかるように、『第三身分とは何か』を書いてフランス革命の思想的基盤の一つを提供したシィエスでさえ、対象は「フランス」という国や「フランス国民」だった。それは当たり前の話で、「世界市民」のような現代の左派特有の概念は、飛行機による旅行が一般化した二〇世紀後半になって以後(死語かもしれんが「ジェットセッター」という言い方があったよね)、そしてとりわけインターネットが発達してから実体的な意味(「世界市民」などという概念は、人々の生活がかかる中間粒度を破壊する結果になると考えている私めは「実践的な」とは絶対に言わんが)を持つようになったにすぎないのだから。

 

次に「第三章 慧眼の理論家のつまずき」に行きましょう。細かな経緯はここでは省略するとして、著者の言う「慧眼の理論家シィエス」がつまずいた主たる理由が次のように述べられている。「彼は八九年の六月に国民主権の原理を国王に認めさせたり、七月に全国三部会を憲法制定国民議会に転化させたり、八月にかけて人権宣言案を考えたりといった、原理原則をそのまま政治に適応すれば事足りる時期には有力なオピニオンリーダーであり得たし、県制度の原案のような幾何学的・抽象的な構想をまとめるには力を発揮した。しかし同年秋以降、国王政府が事実上は機能しなくなり、議会が、一方では憲法の制定という基本的な任務に携わりながらも、日々新たに生じる種々の政治問題に対症療法的に対応せざるを得なくなってくると、彼の出る幕は少なくなったし、出ても彼の提案がそのまま受け入れられることははっきりと減少した。¶シィエスは基本的には「政治家」というより「理論家」だったのであり、現実の政治は彼の理論的考察とは別のレベルで、別の論理で動いていたのである(104〜5頁)」。私めは『ケインズ』を取り上げたときに、次のように書いた。「私めなら「革命は政治ではない」と言いたいところ。というのも、政治とは中間粒度の安定を保つために、さまざまな条件に鑑みて現状に合った最善の手段を考案し実施することであって(そこには妥協も必要になる)、特定の理念や理想をトップダウンに適用することではないのだから。絶対王制を倒すためには革命が必要だったことは認めるとしても、国政レベルで革命家が政治家として居座るととんでもないことが起こることをその後の歴史が証明している。フランスしかり、ロシアしかり、中国しかり」と。『シィエスのフランス革命』の以上のような記述を読むと、フランス革命にあってさえ、少なくとも当初は、「理論家」のシィエスの出番がなくなるほど理念や理想に対する固執の程度が低かったことがわかる。しかも前述したように。シィエス自身、ルソーやロベスピエールのような理念や理想に凝り固まった思想家や革命家とは性格がかなり異なるように思えるにもかかわらず、である。

 

それから君主制に対するシィエスの見方はなかなか興味深い。次のようにある。「それ[『モニトゥール・ユニヴェルセル』紙にシィエスが投稿した記事]によれば、彼が君主制を好むのは旧慣に愛着を感じるからでも、王政主義に迷信的な感情を抱くからでもなく、共和政におけるよりも君主政における方が市民は自由だからである。自由を最大にすることがシィエスの目的なのであり、その君主政支持は、国王の{寵愛/ちょうあい}に群がる者のそれとは無縁である(118頁)」。『第三身分とは何か』を書いてフランス革命の思想的背景を提供したシィエスが君主制支持者だったというのは意外に思えるかもだけど(ただしシィエスは、のちになると空気を読んで国王の処刑には賛成したらしいが、それについてはあとで取り上げる)、実のところ革命初期には(立憲)君主制を支持する革命家が大勢いた。大物ではミラボーしかり、ラファイエットしかり。でもシィエスもそうだったとは知らなかった。しかもシィエスの考えていた君主政とは次のようなものだったらしい。「シィエスが考える君主政とは、一人の人物(=君主)が「選挙人」となって、行政の各部門の長(=大臣)を、国民の名において、任命ないし罷免する制度である。単一の君主は政府の統一性と安定性を体現するが、行政上の決定には参与せず、無答責である。君主に選任される大臣は、単独でそれぞれの担当部門に関する政治的決定を行ない、その決定に関して責任を負う(120頁)」。ということはシィエスが考えている君主は、象徴的な機能しか持たされていない現代日本の天皇より、かなり強い権限を持つことになる。

 

「第四章 革命のモグラ」では、サン=キュロットの登場とともにフランス革命が過激化の一途をたどる様子が描かれている。なおサン=キュロットとは、「「民衆」と言っても大きな違いはないのだが、単なる「社会的・経済的に見た下層民」ではなく、「下層民としての連帯感と独自の政治意識ないし政治的要求を持つ人々」という自覚的なアイデンティティを持った政治集団(129頁)」のことで、「「革命派・対・反革命派」の善悪二元論的な政治論、ざっくばらんな話し方などで、キュロット[貴族や裕福な市民が履く半ズボン]をはいた「お偉方」と自分たちを区別していた。人民主権と直接民主政を信じ、食糧問題などにおける、しばしば暴力を伴う直接的介入を、「自らの手に主権を取り戻した人民による直接民主的な政治行動」として、その正当性を主張していたのである(130頁)」。一種の左派ポピュリズムを実践していたと言えるのかも。なお善悪二元論的な政治論、人民主権、直接民主政、暴力を伴う直接的介入は、現代の極左活動家の特徴としても残存しているように思える。章題にある「革命のモグラ」とは、シィエスが「自らは目立たないように姿を隠し、陰で策謀をめぐらしては他の人にやらせていると見た(154頁)」ロベスピエールがシィエスにつけたあだ名らしい。要は、表には立たず陰で暗躍している卑怯なやつと見なしたのでしょうね。そのようなシィエスの態度について次のようにある。「国民公会の議員になってからのシィエスの歩みを見ると、そこにある意味での一貫性を見て取ることができる。すでに見たように、立法議会期には彼はジロンド派に近かったのだが、国王裁判において。国民公会内の山岳派と議会外のサン=キュロットの勢力が優勢なのを見ると、彼は国王処刑に賛成した。積極的に発言したわけではないが、大勢には順応したのである。(…)さらに、一七九三年六月二日に、議場に侵入したサン=キュロットの圧力のもとにジロンド派議員の追放と逮捕が決められた時、シィエスは議場にいたが、一言も発言せずに事態を黙認した。その月の二十四日に山岳派が大急ぎで用意して採択した九三年憲法は、(…)直接民主政的な色彩が強く、代表制を支持するシィエスには到底受け入れられないものだったはずだが、シィエスは何も批判しなかった。(…)要するにシィエスは国民公会において、時流に逆らってでも自己の信念を貫くようなことはせず、国王裁判に関連して引用したバスティッドの表現に倣えば、「物事の必然の流れには逆らわない人」であり続けたのである(152〜3頁)」。ということは、シィエスはロベスピエールが言うような「革命のモグラ」というより単なる「風見鶏」だったのかもね。まあ銀河系一のヘタレの私めは、この彼のヘタレぶりに何やら親近感を覚えちゃうわん。その後は恐怖政治について説明されているけど、恐怖が支配する世の中にヘタレのシィエスはお呼びではなく、まったく出てこないので省略する。

 

次の「第五章 立法府より執行府を」は、新憲法の制定について説明されている。おもな対象は九五年憲法なので、ここではそれについてのみ取り上げるけど、細かな条項の説明はせず、その思想的背景のみに着目することにする。まず国民主権と人民主権の区別から。現代の日本でも、保守派は「国民」という言い方はしても「人民」という言い方はほとんどしない。それはおもに左派が使う用語であり、またウィキには「人民共和国」に関して次のようにある。「人民共和国」とは、「国号に用いる政体を表す言葉であり、社会主義国の一種でもある。現在においては、中華人民共和国・北朝鮮・ラオス・アルジェリア・バングラデシュが用いている。¶民主主義国家と社会主義共和国の間の移行体制とされ、立法や行政制度は議院内閣制にする。形式的に野党が存在しているが、事実上は政権交代が無いため、与党が共産党に限定されるヘゲモニー政党制の国家である」。

 

それはそれとして『シィエスのフランス革命』に戻ると、フランスの憲法学者マルベールは、人民主権と国民主権を次のように捉えていたらしい。まず人民主権から。「実在の被統治者の総体である人民が同時に主権者でもあり、その意思が政治的決定に反映されなければならないとするのが、人民主権の原理である。人民自身が集会を開いて、そこですべての決定をなす直接民主政が人民主権の原理にもっとも適う政体である。そしてそれが不可能ならば、@選挙権が権利と認められている普通選挙制、A主要な政治決定に関してできるだけ頻繁に行なわれる国民投票、B命令的委任(選挙の際に選挙民が議員に対し、議会で採るべき政治的態度を指示しておく制度)などによってそれに代えるのが人民主権とされる(190頁)」。つまり基本的には直接民主制の形態を取るけど、実践的にそれが不可能な場合には代替的に@ABが行なわれるということらしい。でも結局は、ウィキの説明にあるように、人民主権の原理に基づく国は、「形式的に野党が存在しているが、事実上は政権交代が無いため、与党が共産党に限定されるヘゲモニー政党制の国家」になりやすいように思われる。それに対して「国民主権」に関しては次のようにある。「「国民」は、シィエスが考えるように、抽象的な一種の理念であって実在するものではなく、従って国民自身が直接にその意思を表明することはあり得ない。そのため国民主権の原理においては、@選挙は権利というより職務・機能であり、制限選挙制も許容される、A代表制をとる(選挙によって代表を選ぶ場合、当選者のみならず選挙人自身もが、抽象的な国民に代わる一種の代表である)、B代表が示す意思がアプリオリに国民の意思と推定される、ということになる。そしてフランス革命期においては、一七九一年の憲法と九五年憲法は国民主権原理を採用し、九三年憲法は人民主権を採用していたとされた(190頁)」。ちなみに「選挙人」とあるけど、九五年憲法には次のような規定があったらしい。「立法権を担う議員は普通選挙によるが、第一次集会と選挙会の二段階選挙によって選出される。第一次集会は市民四百五十名から九百名ごとに一つの割合で開催され、すべての市民がこれに参加し得るが、ここで選出するのは選挙人である。選ばれた選挙人が県ごとに選挙会を開いて、議員を選出するのである(187〜8頁)」。アメリカにも形骸化しているとはいえ「選挙人制度」が残存しているけど、そちらはアメリカという一国の行政府のただ一人の長である大統領を選ぶ選挙に関するものなので、立法府の議員を県ごとに決めるこちらの「選挙人制度」とはかなり異なると思われる。そしてマルベールは、「革命期のフランスは一七九一年にはブルジョワ的な憲法を採用したが、九三年に山岳派が権力を握ると民衆の政治参加を認める憲法を作り、テルミドールのクーデタの後の九五年には再び元のブルジョワ的な路線に復帰した(191頁)」と考えるわけだけど、この本の著者はこのマルベールの見方をいくつかの根拠をあげて否定し、「以上の点からして、九三年憲法と九五年憲法は主権の原理においては実質的に共通していると結論できる(193頁)」と述べている。

 

では九五年憲法は九三年憲法とまったく変わらなかったのかというとそうではない。一つは立法府に関してはあまり大差がなかったとしても行政府の執行権に関しては、一種の国民代表としてより大きな独立性が認められるようになったことと、九五年憲法では「抵抗権」が否定されるようになったことがあげられる。後者に関しては次のようにある。「[九五年憲法の]もう一つの新しさ、ないしは九三年憲法との相違は、人民の抵抗権もしくは蜂起権の否定である。九三年憲法の冒頭に付された「人および市民の権利の宣言」は、第三十三条において「圧制に対する抵抗は、他の人権の帰結である」、第三十五条において「政府が人民の諸権利を侵害する時、蜂起は、人民および人民の部分にとってもっとも神聖な権利であり、もっとも不可欠な義務である」と規定していた。この規定は九五年憲法の「人および市民の権利と義務の宣言」からはそっくり消えている。それどころか、「義務の宣言」の部分の第六条には「法律を公然と侵害する人々は、自分が社会と戦争状態にあることを宣言するものである」と規定されている(197〜8頁)」。抵抗権の概念の鬼っ子とも言える、合衆国憲法修正第二条のせいで今でもアメリカでは銃規制が進んでいないことは周知のことだよね。日本でも抵抗権の考えに囚われて、「憲法は政府を縛るためにある」とのたまう人々が一部にいる。しかしここにあるように抵抗権の考えは、フランス革命の国フランスでも、九五年憲法の段階では排除されていたことになる。九三年憲法の場合には、革命思想を抱いた山岳派が権力を握っていたときに制定されたため、革命的な含みのある抵抗権の考えが反映されていたのだろうと思う。

 

さてヘタレのシィエスさんは九五年憲法制定にあたっていかなる役割を果たしたかと言うと、どうやら草案作成段階には関わっておらず、「憲法草案をめぐる審議もかなり進んだ一七九五年七月二十日(共和暦三年テルミドール二日)になって、シィエスは初めてこの問題に関して議会で発言した(200頁)」とのこと。ただ「結局シィエスの提案は、(…)国民公会では承認されなかった(207頁)」のだそう。とはいえ著者はシィエスの提案の先見性を評価しており、詳細は省略するけど最後に次のように結論している。「『第三身分とは何か』によって革命を引き起こしたシィエスは、共和暦三年テルミドールの二つの演説では、革命を終わらせ、これ以上の革命を必要としない政治制度を生み出そうとしたのだった(211頁)」。この記述からも、シィエスは専制君主制を倒すためには革命が必要だったとしても(前述のようにシィエスは、立憲君主制は認めていた)、「革命は政治ではない」という点をきちんと理解していたことがわかる。まさにこれは私めの考えにも近い。だから天国ではヘタレ同士で仲良くしましょうね(え? てめえは地獄に堕ちるだろってか?)。

 

「第六章 ナポレオンとの同床異夢」は、章題通りナポレオンとの関係と、九九年憲法へのシィエスの関与が取り上げられている。詳細は省略するけど、後者に関して次のように結論されていることだけ取り上げておきましょう。「一七九九年のシィエスが構想しているのは、一七九一年のトマス・ペインとの論争の際の彼の言葉で言えば君主政体であるとともに、そこでイメージされている社会も、当時に実在した君主政国家のそれに近い。しかし同時に、代表制をとる点、君主にあたる大選挙官が世襲でない点から見れば、ペインが言う意味での共和政であることも確かなのである。一七九九年におけるシィエスの構想は「君主のいる共和政」だったとも言えよう(254〜5頁)」。つまり、一七九九年の時点では王さまはクビチョンパになったあとで、まだ王政復古には至っていなかったとしても、シィエスは政治家?としての生涯の最後まで、君主の存在は必要だと考えていたことになる。現代でさえ、もっとも進歩的と見られているはずの北欧の三国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)とベネルクス三国が君主制を廃棄していないわけだけど、フランス革命を主導したシィエス、ミラボー、ラファイエットらでさえ君主は必要だと考えていたことになる。その理由はよく考えてみるべきだろうね。最後の「終章 過激中道派の先駆者」は、全体のまとめ的な章なので省略する。ということで、従来フランス革命は下剋上史観、階級闘争史観などの左派的観点から解釈されることが多かったと思うけど、それは一種の歴史の歪曲であったことがよくわかる、なかなかおもろい本だと言えると思う(著者の意図が歴史の歪曲の批判にあるのか否かは別として)。

 

 

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※2023年12月18日