◎岡田温司著『人新世と芸術』(筑摩選書)
岡田温司氏の本。氏の本はけっこう読んだけど、「ヘタレ翻訳者の読書記録」を始めてからは、この本が最初なので初登場ということになる。人新世は昨今話題のトピックの一つだから、なかなかおもろそう。
ということでさっそく「第1章 かつて地球は寒かった」から参りましょう。章題からも想像できるように、この章では一四世紀から一八世紀にかけて地球を覆っていた「小氷期」が取り上げられている。冒頭に少しばかり興味深いユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の研究チームの報告が紹介されているので、それを引用しましょう。「それによると、コロンブスによるアメリカ大陸の発見以降およそ一〇〇年余りのあいだに、ヨーロッパから新大陸にもたらされた疫病の数々(天然痘、ペスト、結核など)や大量虐殺によって、先住民の人口が激減し(一説によると五六〇〇万人ものネイティヴ・アメリカンが犠牲になった)、広大な農耕地が放棄されたことで森林地帯が再生した結果、大気中の二酸化炭素が減少し、一六世紀のあいだに寒冷化が進んだというのだ(15頁)」。もちろん仮説だろうけど、その当時の、技術が限られたネイティヴ・アメリカンが開拓した農耕地が放棄されて森林が再生されただけで、地球寒冷化が進んだというこの報告がほんとうなら、その頃よりはるかに発達した現代の技術で、地球温暖化対策と称して山の樹木をなぎ倒してメガソーラーを設置しまくっている現代の日本は狂気に取り憑かれているとしか言いようがない。温暖化対策どころか温暖化を激化させていることになるのだから。
まあ日本のことは放っておいて選書本に戻ると、岡田氏は「小氷期」の時代に制作されたさまざまな絵画を紹介している。ただ最初のピーテル・ブリューゲルの『雪中の狩人』は有名だとしても、それ以後ゾロゾロあげられている絵に関しては、個人的には絵自体も知らなければ、それを描いた画家の名前もほとんど知らなかった。要するに岡田氏らしく、ちょっとマニアックなところがあるということ。先にあげたUCLの報告は、新大陸の征服という西洋諸国のコロニアリズムが小氷期をもたらしたと主張しているように取れる。つまり因果の方向はコロニアリズム→小氷期に向かっている。しかしその逆に、燃料源としての鯨油の採取を目的とした捕鯨などでは、因果の方向は小氷期→コロニアリズムに向かっている。かくして欧米諸国はかつて、鯨油の採取を目的にクジラちゃんたちを殺しまくっていたのは周知の事実。それを小氷期のせいにはできんわな。そう言えば今年久々に飲み屋で鯨肉を食べた。けっこう個人的には、味に独特のクセがあるから好きなのよね。小学校の給食とかで鯨の大和煮とか出ていたし。また余計なことを書いてしまった。コロニアリズムに関して著者は興味深いことを述べているのでここに引用しておく。「エコロジー的な発想を育んでいくような植物園や博物学は、実のところ、西洋の植民地によって発展してきたという点で、コロニアリズムとも無関係ではありえないと考えられる(…)。こんにちのエコロジー的な危機をもたらした大きな原因のひとつにコロニアリズムがあるとするなら、この対応は歴史の皮肉のようにも思われる(41頁)」。そのような植物園の一つに、ロンドンのキュー王立植物園があったことはよく知られているよね。その意味では、ビーグル号航海の途上で標本をしきりに収集していたダーウィンさんも、知らず知らずのうちにコロニアリズムを実践していたと言えるのかも。さすがにこれは、ちょっと厳しいかな? さらに次のようにある。「一七世紀から一九世紀におけるエコロジーの歴史は、皮肉なことにも、熱帯の植民地での植物学者、自然哲学者や医師たちの経験に負うところが大きかったわけで、その意味において「緑の帝国主義Green Imperialism」という言い回しがもちいられることがある(44頁)」。
そのエコロジーとエコノミーの関係が論じられているのが「第2章 エコロジーとエコノミー」なので、さっそくそちらに参りましょう。さっそく次のように第2章の目的が述べられている。「まずエコロジーの前提としてエコノミーがあったことを確認し、さらにそうしたエコロジー的な発想を支えてきたのは、自然や風景にたいする美的で詩的な感性であったことを明らかにしたい。結論を先取りするなら、この分野で先鞭をつけたとされる二人の名高い科学者、アレクサンダー・フォン・フンボルトとエルンスト・ヘッケルは、すぐれて芸術的な感性の持ち主であった。エコロジーとは実のところ、科学(知ること)と美学(感じること)、アートとサイエンスの合流点の別の呼び名でもあるのだ(46〜7頁)」。フンボルトとヘッケルって、実に興味深い人物たちだよね。わくわく。まず「自然のエコノミー」という節では、かのリンネさんを取り上げて、次のように述べられている。「たとえば、「分類学の父」と称されるスウェーデンの博物学者にして生物学者カール・フォン・リンネ(一七〇七−七八)には、まさしく『自然のエコノミー(オイコノミア・ナトゥラエ)』(一七四九年)と題された著書がある。つまるところ「自然のエコノミー」とは、宇宙のすべてのものをつくって支配する造物主たる神によってあらかじめ定められた配分秩序のことであり、これに従って自然のあらゆる存在は相互的な関係を保ちつつ共通の目的に向かっている、というわけである。生物のすべての種のあいだには、一定の秩序や均衡が存在するのであって、それは守られなければならないのだ。自然とはまさしく神の法であり、それに則って万物は増殖し保存され消滅していく(47頁)」。リンネさんにおいては、まだキリスト教の考えが深い影響を及ぼしていたことがわかる。それについては著者も次のように述べている。「ここではまだキリスト教神学的な考え方が生きていることに、皆さんも気づかれたことだろう。この点は看過できない。わたしたちはややもすると、科学は宗教や神話とは相いれないもので、それらを克服したところに成立したとみなしがちであるが、これはあまりにも一面的な理解である。自然科学はほかでもなく欧米のキリスト教圏において発展してきたのであり、その主たる目的は、神が天地創造のときにインプットしたとみなされる隠れたプログラムを解読することにある、という側面をもってきたことは否定できない。かのニュートンでさえ、空間を「神の感覚中枢」と呼んだのだ(47〜8頁)」。無神論の四騎士のなんちゃってな活躍もあってか、世間では宗教と科学はまったく対立し合っていると思っている人が多いはず。でも実際のところ宗教と科学のあいだには連続性がある。それに関してはこれまで何回か述べてきたので(たとえば『創造論者vs.無神論者』など)ここでは繰り返さないが、この点を理解しておくことは非常に重要だとだけ述べておく。その理由については『創造論者vs.無神論者』に書いた私めの見解を参照されたい。
次に岡田氏はフンボルトを取り上げて科学と、宗教ではなく芸術の関係について論じていて興味深い。ただ、だんだん人新世とは無関係な話になっていくような気はするけどね。あとで述べるように、「第3章 火山の噴火」など、いったい火山の噴火の話が人新世とどう関係するのかまったく不明だった。それについてはあとで述べるとして、フンボルトについて次のようにある。「これにたいして、もっと芸術的で感性的な基礎から出発していると思われるのがフンボルトである。いうまでもないことだが、分析的で概念的に自然を知るだけでは十分ではない。自然は五感をもって感じとられるものでもある。芸術と科学は対立するものではなくて、互いに補完し合う関係にある。しかもフンボルトは、芸術における自然の描写こそが科学的な探求の刺激となってきたことをはっきりと自覚していた(51頁)」。また少し先に次のようにある。「なぜ科学的な探求は詩的で美的な想像力によって補われなければならないのか。フンボルトによると答えはこうだ。「自然の十全なる壮大さを記述しようとするなら、ただ外的な現象だけにとどまってはならず、その自然が反映されているイメージにも目を向けなければならない。そうしたイメージは、神話の架空の国を優雅な空想で満たすこともあれば、芸術的表象の高貴な芽を実らせることもある」(…)。分析と直観、法則や連鎖として自然と調和あるひとつの全体としての自然とは、切り離すことができないものなのだ。分類や分析は科学の役目だが、散らばった要素を統合できるのは芸術である、というのはまたゲーテの信念でもあった(52頁)」。
ここで個人的な見解を述べると、科学はもっぱら意識的な分析に関する営為であって、直観のような非意識的なプロセスとは無縁だと考える現代の見方は、根本的に認知や合理性に関して誤解しているせいで生まれたのだと思っている。直観の合理的性格については何度も述べてきたのでそれについては繰り返さないが(たとえばヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』を参照されたい)、現在鋭意翻訳中のジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence――A New Theory of Being Human』の認知制御に関する見方を、スニークプレビューを兼ねて紹介しておきましょう。彼は行動制御システムをダニエル・カーネマンのように二つのシステムに区分するのではなく、次のような三つのシステムに区分すべきだと主張している。
●システム1:非認知的で非意識的な行動制御(神経生物的領域)
・反射
・直観
・パブロフ型条件づけ反応
・習慣
●システム2:認知的で非意識的な行動制御(認知的領域)
・非意識的なワーキングメモリー
・非意識的な熟慮
・非意識的な推論
・非意識的な直観
●システム3:認知的で意識的な行動制御(意識的領域)
・意識的なワーキングメモリー
・意識的な熟慮
・意識的な推論
なおルドゥーは、神経生物的領域の手前にさらに原始的な生物的領域を措定しているけど、行動{制御/傍点}とは無縁なのでここにはあがっていない。ここで、認知的な行動制御には意識的なものと(システム3)と非意識的なもの(システム2)がある点に注目されたい。従来の一般的な考え方では、分析に必要な熟慮や推論は必ずや意識的でなければならないと考えられていたと思う。ところがルドゥーによれば、熟慮や推論は、直観に加えて非意識的な認知的領域でも働く。つまり意識していないと合理性や理性は働かないという考えは誤りであることになる。フンボルトやゲーテは、ルドゥーより何世紀も昔に、そのことに(おそらくは直観的に)気づいていたのだと思う。あとで取り上げられるヘッケルとともにフンボルトが興味深いのはまさにこの点にある。ちなみに現在校正作業に入っているラッセル・フォスター著『Life Time: Your Body Clock and Its Essential Roles in Good Health and Sleep』でも、認知や意識を直接扱っているわけではない概日リズムに関する本であるにもかかわらず、次のように述べられている。「種々の認知プロセスは総体として、意図的に問題を解決しようとする際には意識的に作用するが、それに対して脳が環境の特徴に注意を向けたり、記憶に依拠して問題を解決しようとしたりする際には無意識的に作用する。後者の場合、解決方法が「ひらめき」あるいは「洞察」のような形態で突然浮かんでくるまでは、私たちはそれらの脳の活動に気づかない」
また岡田氏は、フンボルトを次のように称賛している。「フンボルトが言葉によって記述する熱帯地方の「自然画」は、リンネ流の分類学とは好対照をなすものである。肝要なのは、(気候や地質はもちろん、しばしば先住民とその文化も含めて)多様な要素が互いに関係を保ちながらいかにまとまりのあるひとつの全体を形づくっているかである。すべてのものは互いにつながり合い依存しあっているのだ。あらゆる生命は網目のように結ばれている。よく知られているように彼の業績が、地理学はもちろんのこと、気象学、植物学、動物学、火山学、地質学、物理学、天文学、民族学などきわめて多岐にまたがるのは偶然ではない。こんにちでいう学際性や総合知、文理融合のパイオニア的存在でもある。あるいは、諸科学の分離と専門化が進んでいく一九世紀にあって、むしろそれに抗っていたというほうが正確であろうか。当時のアナクロニズムが現代の革新となるわけだ。「フンボルトは描かれた風景を自然に投影し、そこに生態的な統一を見いだした」(Kwa)。多様性のなかの統一にこそ自然の妙がある。彼はそれを風景画から学び感じとってきたのだ(55頁)」。フンボルトが体現しているもののような総合知は、ルドゥーの分類によるシステム3のみならず、システム2(カーネマンの言うシステム2ではない)の認知能力を必要とする。確かに分析それ自体はシステム3がメインに用いられたとしても、もろもろの分析結果を総合するにはシステム2が不可欠なのですね。前回取り上げた『経済学の思考軸』では、私めが言う「個別思考」の問題点について取り上げた。それをルドゥーの用語で言い換えると、「個別思考」はシステム3に依拠しすぎて、より重要な総合に必要なシステム2を欠いているということになる。無神論の四騎士が宗教を否定するのもほぼ同じ理由によるのだろうと思う。現代には、知識人を自称しながらその手の思考様式、すなわち「個別思考」しかできない御仁が多すぎる。だからこそフンボルトのような科学者の考え方が大きな参考になる。
お次はヘッケルさん。著者はまずヘッケル自身の文章を紹介したあとで(ここには引用しない)、次のように述べている。「この短いけれども濃密な一節のなかに要約されているのは、ヘッケル年来の主張、すなわち唯物論と観念論、物質と生命、有機体と無機物、植物と動物といった従来の二元論にとらわれない一元論(モニズム)の発想であり、その基礎をなす「原形質」の存在である。その「原形質」には感覚と記憶の働きのみならず、「魂の生命」と呼べるようなものが宿っているとされる。しかもそれだけではない。ここにきてヘッケルは、この原形質の「魂」のうちに「芸術衝動」なるものの存在をも想定しているのである。つまり、原形質のうちには自然そのものの芸術的な想像力ないし衝動が本来的にそなわっているというわけだ(68〜9頁)」。二元論にとらわれないという点ではヘッケルも総合知を目指していたと思われる。ただ「原形質」に「魂の生命」と呼べるようなものが宿るという考えは、ほとんど汎心論の領域に足を踏み入れているように聞こえる。というか、ヘッケルは実際に汎心論の文脈で取り上げられることがあるよね? 汎心論と言うと、何か時代錯誤的なエセ科学のごとき響きがあるけど、ところがどっこい二一世紀に入ってから哲学はもちろん科学の分野でも復活を遂げてきた。そのことは『世界はありのままに見ることができない』で取り上げたのでそちらを参照されたい。なお科学における例では、ジュリオ・トノーニらの意識の統合情報理論(IIT)があげられる。
また岡田氏はヘッケルに関して次のようにも述べている。「ヘッケルにとって、人間の芸術作品と自然の芸術形態とのあいだに相違があるとすれば、それは、前者が多かれ少なかれ明確な意識をもって人の脳と手によって創造されるのにたいして、後者では、「あらかじめ決められている内的な意図なしに、原形質が外界の生存条件に適応する」ことによって形成されるという点である。その意味で細胞の「芸術衝動」は「無意識の感覚」に属している。とはいえ、多細胞の動物や植物の場合であっても本能は等しく、基本的に適応と訓練と習慣をとおして機能する以上、原生生物とのあいだに本質的な差異はないともいえる(70〜1頁)」。「細胞の「芸術衝動」は「無意識の感覚」に属している」という言い方は、ルドゥーの言うシステム2を思い出させるかもしれない。でも、ルドゥーは生物的領域に属する細胞自体(ましてや原形質)に認知能力があるとは認めていないので、もっと具体的な言い方をすると認知能力が働くには最低でも非意識的なワーキングメモリーが必要だと述べているので、ヘッケルのこの考えはルドゥーの考えを大きく逸脱していると見なせる。それとヘッケルが、「生物学者の分析的で客観的な目」と「芸術家の総合的で主観的な精神」の両方を重視していたという記述は、分析と総合の両方が必要であることを示唆していて興味深い。当たり前田のクラッカーじゃんと言えばそうだけど、でも実際に実践するとなると、前述のとおり分析だけに偏って「個別思考」に陥る人は現代にも大勢いる。
ということで次は「第3章 火山の噴火」だけど、すでに述べたとおり、火山の噴火が本のタイトルに含まれている「人新世」とどう関係するのかがまったくわからなかった。さすがに人間が火山の噴火を引き起こせるわけではないだろうしね。地震なら、どこかのとってもとってもヤバい国が海底に核爆弾を仕掛けて故意に人の手で地震を起こしたなどといった陰謀論を唱える人がいるけど、火山の噴火に関してはその手の陰謀論すら聞かない気がする(もしいたら「無視してすんましぇん」と謝ることにしよう)。いずれにしても第3章に関して言えば、岡田氏は「火山の噴火」とそれを描いた芸術の紹介に嬉々として走っているとしか思えない。ということで、この章についてはこれ以上コメントはしない。
次の「第4章 アルプスの氷河」にも似たようなところがある。冒頭に「北極や南極の氷が解[sic]けているだけではない。欧州アルプスやヒマラヤの氷河もまた、地球温暖化の影響で近年急速に失われつつある(121頁)」とあるように、人新世に入ったせいで各地の氷河が溶けつつあるのは確か。でもそれ以後の記述を読むと、第3章ほどではないとしても、岡田氏は申し訳程度に加えているいくつかの細かな指摘を除くとほぼすべて、むしろ「アルプスの氷河」とそれを描いた芸術の紹介にご執心であるような印象を受けた。ただし一つ興味深い指摘があった。それは次のようなもの。「自然をめぐる「ピクチャレスク」と「サブライム」の美学は、自然の搾取や破壊という一見したところ相反するような態度と、実は車の両輪のように結びついているということである。一方で収奪しておいて、他方で礼賛する(123頁)」。確かに産業革命以前は、「ピクチャレスク」や「サブライム」のような概念はなかったのかもしれない。そのあたりは、高山宏氏ご推薦のマージョリー・ニコルソンあたりが論じていたように覚えている。そして岡田氏は第4章を、ラスキンの『近代画家論』を取り上げたうえで、「ラスキンのこの種の議論は、ほとんど夢想家の戯言のように聞こえるかもしれない。しかしながら、氷河が消滅しつつある現代だからこそ、もういちど耳を傾ける意義はけっして小さくない、とわたしは思う(150頁)」と述べて締め括っているけど、どうしても牽強付会、我田引水という印象を受けざるを得ない。
ということで次の「第5章 産業革命の表象」に参りましょう。ここからあとの三章は、前二章とは違って『人新世と芸術』という、本のタイトルに偽りのない内容が展開されている。最初のほうでターナーの有名な絵『雨、蒸気、スピード グレートウェスタン鉄道』が取り上げられている。口絵として巻頭にカラー写真が掲載されているものの、さすがに小さい。選書だし文句を言っても仕方がないし、有名な絵だけに、ググれば多少大き目の画像を検索することができる。岡田氏は次のようにコメントしている。「ターナーにとって工場の煙突や蒸気機関は、大英帝国の繁栄と近代文明の勝利を象徴するものであった。(…)タイトルから察するに天気は雨。だが、この画家の絵のなかでよく起こるように、自然の霧や雲はいつのまにか人工の蒸気や煙とひとつになって、もはや見分けがつかなくなっている。あたかも自然と人工(文化)とが何の衝突もなく調和して溶け合うかのように(157頁)」。このように、ターナーの描いた絵は、産業革命の時代を象徴するような絵だったとのこと。ただ「自然と人工(文化)とが何の衝突もなく調和して溶け合う」というのは、別に特別な話ではないと思う。なぜなら、人間にとっての自然とは、そもそも人間が手を加えたものでしかないから。それに対して地球にとっての自然となると、火の玉アースであろうがスノーボールアースであろうが自然であることに変わりはない。だから人間にとっての自然と地球にとっての自然はまったく異なる。それに関連して、アダム・フランク著『地球外生命と人類の未来』の訳者あとがきで次のように書いたのを思い出した。「著者[アダム・フランク]も述べているように気候変動の問題は、ある意味で地球自体が困る問題ではなく、人類(と他の生物)が困る問題である。というのも、人類が地球の気候を滅茶苦茶にしても、地球は、人類や他の生物にとっては滅茶苦茶になってしまった気候や環境を抱えて泰然自若として存続していくだけだからである。そして生命と惑星は相互作用し合っている点に鑑みれば、人間が活動すればそれは必ずや生物圏に、そしてそれを通して、地球が提供するその都度の環境に影響を及ぼさざるを得ない。著者の言葉を借りれば「タダメシなどない」のである」。その点を勘違いしてはならない。自然を守るというエコロジー的発想は、実際には人間の生活、私めの言葉で言えば中間粒度を守るということとイコールであり、もちろんそれはそれで正しい。中間粒度という概念は保守派の発想に聞こえるかもしれないけど、実のところ左派的なエコロジーの概念にもつながっているのですね。選書本に戻ると、ターナーの絵以外にも産業革命時代に制作された、モクモクと煙を上げている煙突が描かれた絵が次から次へと紹介されている。ただ私めが知っている画家はゴッホくらいで、あとは名前すら知らない画家の絵のオンパレードだった。なのでスキップする。やはり高山宏的な博識さを開陳したかったということなのかも。
「第6章 霧のロンドン」も、第5章と同じで、産業革命時代のいかにも人新世という感じの絵や風刺画や文学作品が次から次へと紹介されている。ただし章題どおり、霧のロンドンに焦点が絞られているが。後半にヒートアイランド現象に関する節があるが、温室効果の発見に霧のロンドンが間接的にかかわっていたというくだりがちょっと興味深かった。
最後の「第7章 印象派と大気汚染」は、章題からして実に興味深い。言うまでもなく、印象派の画家たちが大気汚染を引き起こしたわけではない。冒頭に次のようにある。「かりに本章のタイトルでネット検索をかけていただくと、意外に思われるかもしれないが、多くの記事が出てきて、とりわけ近年、印象派の絵画が大気汚染と無関係でありえないことが気象学者たちによって指摘されていることがわかる。産業革命による大気汚染で大気中の微小粒子が増えた結果、光が散乱してまわりの景色がぼやけて見えることが印象派の描き方に影響を与えているというのである。印象派といえばこれまでは、刻々と変化する自然の光を混じりけのない純粋な色彩でとらえようとした明るくて美しい絵画として、広く大衆的な人気を集めてきたわけだが、もはやきれいごとだけではすまされなくなったようだ(213頁)」。実際ググるとその種の記事が検索されてくる。それから有名なモネの『印象・日の出』が取り上げられていて、次のようにコメントされている。「ここで見落とすことができないのは、背景を満たしている{煙突/傍点}の数々であり、そこから立ちのぼって空一面を覆っている噴煙の存在である。靄のような空気にかすんでいるとはいえ、それらが工場の煙突と煙であることは疑いの余地がない。その濃い噴煙は、いつの間にか朝焼けの空のなかへと紛れていく。朝日は靄をつんざくようにして赤い光を放ち、それは淀んだ海面で鈍く照り返している。大小の煙突の数々もまた、海面に影のような反射像を映しだす。それゆえ本作は「人間がもたらした環境破壊の暴露であると同時に審美化でもある」(Mirzoeff)という両義的な評価も成り立ちうるのだ(214〜5頁)」。このモネの有名な絵の画像は何度も見たことがあるけど、煙突と煙の存在はまったく見落としていた。まあ、「環境破壊の審美化」という評価を本人が聞いたら卒倒するだろうね。しかも岡田氏は次のように畳みかけている。「つまり、モネの描くロンドンの空は、自然の霧や雲と、人工の噴煙や蒸気とが混然一体となって不透明な空間を出現させているのである。おそらくこの点でモネは、ターナーの教訓にならっているのだろう。(…)しかもほとんどの場合、数々の工場の煙突とそこから吹きだす粉塵があえて描き込まれているから、画家の関心が{スモッグの効果/傍点}にあったことは否定すべくもない(219頁)」。かわいそうなモネさん。なんか人新世の申し子のような扱いになっちゃってるし・・・。さすがに著者も、もう少しあとで「もちろん、このことでわたしは画家[モネ]を批判しようというわけでは毛頭ない(221頁)」と書いているけど、さんざん言っといて(他にもモネのロンドンの霧大好きに関する逸話がいくつかあげられている)それはなかんべという感じ。
この章、つまり本書の最後に「点描法とアナキズム」という節があって、そこに次のような記述がある。「フェネオン[アナキストの批評家]にとってもシニャック[点描画家]にとっても、絵のテーマそのものというよりもむしろ、点描という{技法/傍点}こそがアナキズムの思想を体現するものであった。なぜなら、彩度や明度の異なる色の無数の斑点が集まることで、光に溢れるひとつのまとまりのある全体が生みだされるその革新的な技法のうちにこそ、まさしく{多様性のなかの統一と調和/傍点}という理想が実現されているからである(232〜3頁)」。うむむ、何やら「メディアはメッセージ」のマーシャル・マクルーハン的な見立てを提起しようとしているようにも思えるが、ちょっと無理やり感を覚えざるを得ない。それはいいとしても、次の記述にはマジで首を傾げてしまった。「多様な色の統一としての点描法は、科学(光学)と美学との合体にして調和ともみなされているのだ。しかもこの手法は、それを的確に活用すれば誰でもそれなりにある程度の成果が得られるから、個性や独創性といったブルジョワ的な価値観よりも、{共同性/傍点}や{平等性/傍点}のほうが優先されることになる(233頁)」。思わず「ほんとうですかあああああ?」と叫んでもた。私めが銀河系一のぶきっちょで、小学生の頃図工2を誇っていたからなのかもしらんけど、点描法って普通の描き方よりむずかしそうに思える。「的確に活用すれば誰でもそれなりにある程度の成果が得られる」というのが本当なら、日曜画家や、それどころかガキンチョたちですら好んで描いていないとおかしいように思えるのに、プロの作品を含めて点描画などほとんど見たことがない。この文章は、正直言ってアナキズムというイデオロギー的な結論ありきの主張にしか思えない。この態度は、最後に肯定的に引用されている次のリュシアン・ピサロの言葉にさえ反しているように思える。「あなたたちが表明している考えに従うなら、あなたたちは、プロパガンダの直接的な有効性に基づいて、作品(仕事)のあいだにヒエラルキーを設けようとしているように思われます。それは正しいことだとわたしは考えません。もっぱら美の観点からとらえられるような作品こそが、他のどんな教育的意図をもつものよりも、人間の知性にとって有益なものとなるのです。というのも、純粋な美をもつ作品は、多くの人の美的な感覚を広げることになるだろうからです(236頁)」。ちょっと批判的になってもたけど、最後の次の文章は、岡田氏がこの本でもっとも主張したかったことなんだろうと思う。「ここでピサロ子[リュシアン・ピサロ]が明快に主張しているのは、美的な感性こそが知性を鍛えるということである。実はこれこそ、アレクサンダー・フォン・フンボルトにせよ、エルンスト・ヘッケルにせよ、(…)エコロジーの思想を根底で培い支えてきたものではないだろうか(236頁)」。だからフンボルトとヘッケルは、総合知の探究を目指していた興味深い御仁だと言えるわけ。いかにも、岡田氏が気に入りそうだよね。
いうことで、岡田氏得意の高山宏的な博識の開帳といった面が色濃くあるように思えた。だから第3章のように「それがいったい人新世と何の関係があるの?」と思われるような章も、博識家特有の勢いで読ませてしまうところがある。これは必ずしも悪い意味で言っているわけではない。個人的にもっとも興味深かった章は、フンボルトとヘッケルが取り上げられている第2章と、一般的な見解とは異なる印象派の側面に光を当てている第7章(ただし「点描法とアナキズム」は除く)が気に入ったと述べて、この本については終わりにしましょう。
※2024年6月8日