◎小塩隆士著『経済学の思考軸』(ちくま新書)

 

 

私めは経済音痴なので、入門書である(と思う)この本はちょうどよかった。なお引用文中で太字になっている箇所は、もとからそうなっているのであって、私めが勝手に太字にしたわけではありましぇん。新書本の各章の末尾には著者によるまとめが掲載されているので、それはすべて引用しておいた。なお個後半の第3章、第4章については、細かくテクニカルな話も多く、個人的にはよく理解できなかった部分もあり、また個人的なコメントは前半でほぼ言い尽くしたので、後半の章に関しては著者によるまとめを引用するだけにした。

 

さて「第1章 出発点はあくまでも個人」は、のっけから「経済学の出発点はあくまでも個人です(12頁)」という、章題を繰り返す記述で始まる。これはあくまでも「出発点」が個人ということであって、個人で始まって個人で終わるという意味でないことは、少し読んでいくとわかる。たとえば本書の全体的主題を説明していると思しき次のような記述がある。「経済学は2本立て構造になっています。つまり、世の中にある限られた資源をどれだけ効率的に配分するかという「効率性」という評価軸と、その資源を世の中で困っている人たちにできるだけ多めに配分し、格差を小さくするという「公平性」という評価軸とを持っています(20〜1頁)」。太字になっていないけど、その後に出て来る次の記述は非常に重要だと思われる。「効率性の問題を最初に片づけて、その後で公平性の問題に取り組むべきだとか、あるいは、効率性の問題さえ解決できれば、公平性の問題はなんとか解決できる、という想定(思い込み?)も、残念ながら{巷/ちまた}の経済論議ではよく耳にします。経済学者の中にもそのように考える人たちが少なからずいます。本来であれば、効率性の問題と公平性の問題とは密接に関連し合い、切り離しては議論できない性格のものなのですが(21頁)」。これがなぜ重要かと言うと、経済に限らず、現実がかかわることのすべてに対してこの条件が当てはまるにもかかわらず、世にはびこっている見解の多くがこの事実を見落としているから。ちなみに私めは、現実的には複数の要因が絡み合っているにもかかわらず、それらの要因をシーケンシャルにしかとらえられない思考様式を「個別思考」と呼ぶことにしている。現代にはこの「個別思考」しかできない人々が大勢いる。個別思考はいわゆる「専門バカ」とはやや異なる。もしくは専門バカは、個別思考の特殊形態と見なせるのかもしれない。専門バカはある一つの要因(分野)だけに固執し、他の要因(分野)の存在は知らないか完全に無視する。それに対して個別思考にとらわれている人(以下「個別思考者」と表記する)は、他の要因(分野)の存在を知ってもいるし、ある程度それらの知識を持っているにもかかわらず、それらのあいだの複雑な関係を捨象して、一時には一つの要因(分野)にしか着目せず、その範囲内で最終的な結論を下してから、次の要因(分野)に対処しようとする。要するに、シーケンシャルにしか処理できないわけ。もちろん、総合的な判断を下すには、まずそれぞれの要因(分野)ごとに内容を詳細に検討する必要があるのは確かだけど、個別思考者は、各要因(分野)ごとに最終的な結論を下して、それらすべてを総合的に判断するという最後のもっとも重要なプロセスを省略する、というかそのような総合的判断を下す能力を持っていないか曇らされている(その理由はあとで述べる)。

 

あまりすぐれた説明にはならないかもだけど、いつもあげている例を用いて説明しましょう。気候変動、原発、再エネ技術、環境問題、安全保障などは、一見するとまったく別個の問題に見えるけど、実は複雑に絡まり合っている。だからこれらの問題を一つずつ解決していくことは現実的には無理なのですね。それらを個別思考に依拠して順番に解決しようとすると、たとえば次のようなことになりやすい。これらの要因のなかで気候変動だけに着目すると、二酸化炭素を排出する火力発電はやめるべきという結論が出る。次に原発だけを取り上げると、チェルノブイリや福島のような事故を起こす可能性はゼロではないから原発は全廃したほうがいいという結論がでる。火力も原発もダメということになると、再エネを推進すべきだという次第になる(日本では現実にこの方向に走っているように思える)。ところが、阿蘇山や釧路湿原のメガソーラーが大きな問題になっているように、現状の再エネ技術では、とんでもない環境破壊がもたらされる。しかも世界の太陽光パネルのシェアの大きな部分を中国が占めているので、中共というマジもんのイデオロギー装置が支配する中国に電力供給の基盤を掌握され、日本の安全保障が大きな危険にさらされる。火力も原発もソーラーもダメということになると、エネルギーの供給手段としては水力、地熱、風力、潮汐くらいしか残らないが、これらも細かく個別に検討すれば多かれ少なかれ問題が見つかるだろうし、大規模には展開できず、ほとんど何の足しにもならない方式もある。つまりそれぞれの要因を個別に検討していくと、すべてを否定的に評価せざるを得なくなる(ここで議論を終えてしまえば、電力はほぼ一切使えないことになる)。

 

まさに大手メディアの思考様式は、この種の個別思考に陥っているように思える。つまり気候変動、原発、再エネ技術を個別に検討していき、火力ダメ、原発ダメという結論を下す。ところがこのままだと主要なエネルギー源がなくなってしまうから、再エネ技術を爆アゲする。ところが、ところが、前述したように現状では再エネ、特にその代表格たるメガソーラーは、とんでもない環境破壊をもたらしている(現時点の再エネ技術には他にもさまざまな問題があるけど、それについてはここでは述べない)。だけどそれを報道すると結局、火力を推進するか、原発再稼働を認めるしかなくなるから、ネットスラングを拝借すれば「報道しない自由」を発動して、再エネのマイナス面は、なるべく報道しないようにする。多くの大手メディアがこんな個別思考に基づく態度を取り続けていたら、日本の自然はボロボロになってしまうだろうね。でもそれを観たり読んだりする人々の多くも大手メディアに感化されて個別思考に陥っているのだろうから、なかなかその欺瞞に気づかない。そうならないようにするにはどうすればよいのか? その答えは、実に単純にもかかわらず、実践することはなかなかむずかしい次のような思考様式を身につけることにある。各項目を一つずつ検討する必要はあるとしても、そこで最終的な結論を下してそれで終わりにするのではなく、最後にそれらすべてをまとめて考察し、バランスのとれたもっとも妥当な総合的判断を下すように心掛ける。あとで述べるけど、「バランスのとれたもっとも妥当な総合的判断を下す作業」には直観力が非常に重要になる。

 

ここで具体例をあげて考えてみましょう。先の気候変動、原発、・・・の問題に関しては、個人的には再エネ技術がもっと進歩するか、新たな発電技術が実用化するまでは、原発を再稼働させるべきだと考えている(それ以外の総合的により妥当な解決策はあるのかもしれないとしても、それを検討することがここでの目的ではないのでそれについては述べない)。この見方は明らかに原発だけの範疇で判断した場合には、もっとも妥当な判断ではないどころか、最悪の判断と言えるかもしれない(チェルノブイリになる可能性はゼロではないしね)。しかし気候変動、再エネ技術、環境問題、安全保障の側面では、エネルギー供給対策として、かなり妥当な判断だと言える。というのも、原発は二酸化炭素を出さないし、チェルノブイリにならなければ環境破壊ももたらさない。また電力供給の基盤を中国に依存せずに済ませられるのでそれをめぐる安全保障の問題も起こらない。さらに言えば、将来の再エネ転換も視野に収めている(ちなみに原子力は再エネではなく、いつかは資源が枯渇するので再エネ転換は将来のいずれかの時点で必ず必要になる)。このように、政治の問題にしろ、経済の問題にしろ、とりわけ現実が関わるものごとに関しては、個々の問題を一つずつ解決していくだけでは、最終的にもっとも妥当な判断を下すことができない。うろ覚えなので正確ではないと思うが、確か論理学の世界ですら、複数の問題が複雑に絡み合っている場合には、それをシーケンシャル、別の言い方をすればアルゴリズミックに解決することはできず、同時にすべてを解決する必要があるとかなんとかいう定理があったと思う(クワインだったかな?)。単純なことではあるんだけど、このことを理解しないで好き勝手な発言をしている人々は、世の中には政治家を含めて大勢いる。

 

では総合的な判断を下すには何が必要か? 個人的には、それは直観力だと思っている。そう主張すると、直観などという非合理な能力に頼って、そんな重要な判断を下すのかと言われそうだけど、それは合理性や理性の何たるかに関して現代人のほとんどが勘違いをしているからそう思えてくるのだと言いたい。最近の認知科学では、直観は本来合理的な能力であるという説が登場しつつある。むしろイデオロギーのような、直観を捻じ曲げる思考様式に絡み取られてしまうほうが、非合理的な判断を下しやすいのですね。たとえば先ほど言及した大手メディアの多くは、左派イデオロギーに絡み取られて「バランスのとれたもっとも妥当な総合的判断」を下せていない格好の例になる。このあたりの直観やその合理性に関する議論は、古くはアングロサクソン流の行動主義に反対していたドイツのゲシュタルト心理学者、とりわけヴォルフガング・ケーラーの「洞察」の概念にも見出せるが、わが訳書ではヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』や、ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』にもっとも典型的に見られるので是非参照されたい。またわが訳書のマイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』のとりわけ「第5章 合理的行為主体――太古の類人猿」を参照されたい。そこでは合理的行為主体たる大型類人猿を取り上げつつ次のように述べられている。「私はただ単に「目標を知的に追求する」という意味で類人猿を「合理的」と呼ぶのではない。あらゆる哺乳類がそうしているのだから。類人猿は{論理的かつ反省的/傍点}に活動するがゆえにそう呼ぶのである(同書114頁)」。してみるとトマセロの考えでは、合理的に思考する能力は、大型類人猿どころか哺乳類の段階ですらすでに備わっていたことになる。そしてトマセロは同章の結論として、合理的に施行する能力の「進化的起源や個体発生的な起源を、人間独自の形態の文化や意図的な指示や言語に求めることはできないという、明白ながら意義深い結論を引き出すことができる(同書152頁)」と述べている。あるいは私めが現在鋭意翻訳中で、おそらく来年の今頃、みすず書房から刊行される予定のジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence――A New Theory of Being Human』でも、それに関連しうる説が展開されている。またこれまで取り上げた新書本では、直観や合理性には直接的には言及していなかったかもだけど、情報科学者、西垣通氏による、集合知を扱った『集合知とは何か』(中公新書)や、哲学者、吉田量彦氏による、スピノザの「想像知」「理性知」「直感知」の概念が紹介されている『スピノザ』(講談社現代新書)が大いに参考になるはず。もちろん今後も、新書本や選書本のなかで直観や合理性、およびそれらの関係に言及する本を見つけたら、この「ヘタレ翻訳者の読書記録」で取り上げるつもりだし、英書を見つけたら邦訳に向けて動くつもりなので乞うご期待。ツイのプロフィールに書かれている「トータル翻訳」という文言はダテに掲げているわけではないのですね。

 

ということで、またしても大きく脱線したので新書本に戻りましょう。「出発点はあくまでも個人」と述べる新書本の著者は、社会保障の仕組みを取り上げて次のように主張する。「筆者は、社会保障という仕組みを社会連帯という観点からのみ捉え、個人レベルの問題を軽視したり無視したりする考え方には賛成しません。というのも、個人が合理的に――つまり、負担と給付のバランスが大きく{乖離/かいり}しない形で――、持続可能な形でリスクを回避できているかという点は、社会保障の仕組みを評価する重要なポイントだと思うからです(36頁)」。なお、社会保障に関してはのちの章で詳しく扱われている。次に経済学が「合理的に行動する個人」という前提を基本的に立てていることに言及して次のように述べている。「経済学は基本的に、人々は合理的に行動すると想定します。そうしないと、話を個人の行動から始めて社会の問題に広げていくという、経済学の基本的な構造が崩れかねないからです。その理論構造をさらに強固にするため、経済学は面倒な数学を駆使します。合理的な行動は、数学によってきれいに描写されるからです(43頁)」。もちろん合理的に行動する個人を前提とするのが唯一の経済学のあり方ではないのは当たり前田のクラッカーだよね。自由市場主義者のハイエクですら、人間は非合理的に行動するからこそ、合理的に機能する市場の存在が不可欠だと考えていたようだしね。著者は、そのハイエクには言及していないものの、次のように述べている。「ただし、経済学の中でも新しい動きが見られます。人々の行動を合理的だとあらかじめ想定するのではなく、実際のデータに基づいてできるだけ率直に分析し、その{癖/くせ}やバイアスを見出すことに力を入れる「行動経済学」という研究分野が脚光を浴びています。日本でも、この分野の研究成果が加速度的に蓄積されています。それと並行して、自然科学と同じような手法で実験を行い、その結果に基づいて人々がどのような行動をとるかを探るという「実験経済学」という研究分野も確立しています(45頁)」。この文で言及されている「行動経済学」は一〇年前くらいまで流行していて、カーネマンの『ファスト&スロー』で頂点に達した感があったよね。今はどうなのだろうか? 実はその後の展開はよく知らない。というのも、行動経済学の範疇に入ると見なせるわが訳書『「選択」の神話』がカーネマンの『ファスト&スロー』にみごとにエクリプスされてから、恨み骨髄に滲みて(とは、嘘だよ〜〜ん!)行動経済学に対する関心が薄れてしまったから。また最近になって、前述したメルシエ&スペルベル著『The Enigma of Reason』の合理性の理解や、現在鋭意翻訳中のジョセフ・ルドゥー著『The Four Realms of Existence』のカーネマンのシステム1&システム2の図式の問題点などについて読んでからは、行動経済学に対して「大きな」とは言わないまでも「相応の」疑問を抱くようになってきたということもある。

 

第1章の最後の節は「経済学で「幸せ」を語れるか」だけど、それはスキップし、最後の著者による第1章のまとめ(58頁)を引用しておきましょう。次のようにある。

 

<↓↓↓ 第1章のメッセージ ↓↓↓>

▼「個人の幸せ」を出発点として、人々がどう行動するかを考えることが経済学の発想

▼一方、「社会の有り様」については経済学が無関心になることも多い

▼経済学は、制度や仕組みを評価するために効率性と公平性という2本の軸を持っている

▼「幸せ」の中身や「不幸せ」に思う原因の解明など、これまで脇に置かれてきた「幸せ」の分析も注目されつつある

<↑↑↑ 第1章のメッセージ ↑↑↑>

 

ということで「第2章 経済学の2本立て構造」に参りましょう。最初に「ラムゼーの逆弾力性命題」なるものが紹介される。それは次のようなものらしい。「人々の購入行動に与える影響を最小限にし、最も効率的に税収を稼ぐためには、「(贅沢品ではなく)生活必需品にこそ高い税率をかけるべきだ」ということになります。もう少し専門的に言うと、値上がりしても需要があまり減少しない商品――そうした商品を経済学では「需要の価格弾力性が低い」と言います――ほど、税率は高く設定すべきだ、ということになります(63頁)」。どうも逆累進課税みたいなことを言っているように聞こえるよね。いわば超非常識的逆張り命題ということになるけど、著者は次のように説明している。「このように説明してくると、「経済学はなんと常識外れな発想をするのか」とあきれてしまう読者も多いかもしれません。これは、経済学が、できるだけ不平等を少なくするにはどうすればよいかという公平性の観点だけでなく、人々の行動にできるだけ{歪/ゆが}みをかけず、資源を効率的に配分するにはどうすればよいのかという効率性の観点を合わせ持っているからです。その効率性の観点が色濃く顔を出しているのが、この命題なのです。¶経済学が効率性を重視するのは、政府はできるだけ市場に介入せず、人々の自由な意思決定やその決定が反映される市場メカニズムに任せておいたほうが物事はうまくいく、という考え方が基本的にあるからです。消費税を掛ける場合も、人々の行動にできるだけ影響しないような工夫が求められます。生活必需品こそ高い税率にすべきだというアイデアは、そうした考え方から見ると自然な発想になるのです(64頁)」。こちとら、経済学者に常識があるとは最初から思っていないけどね。この文章でも、「消費税を掛ける場合も、人々の行動にできるだけ影響しないような工夫が求め」られるとされているにもかかわらず、「必需品こそ高い税率にすべきだというアイデア」が「自然な発想になる」理由は、常人の理解を超えているような・・・。「だって必需品に高い税率を設定したら、消費者は消費行動を控えるはずだから、人々の行動に大きな影響を及ぼす結果になるんではないの?」と、一般ピープルなら思うはず。ところがこの疑問に対する経済学者の回答は、贅沢品は買い控えられても、生活必需品は買い控えるわけにはいかないということらしい。血も涙もないねえ。だから非常識と言われちゃう。

 

まあ著者が言いたいことは、この「ラムゼーの逆弾力性命題」なるものは、一方の極を効率性とし、他方の極を公平性とする連続的なスペクトル上で前者に著しく傾斜した極端な例としてあげられているのだろうから重箱の隅をつつくのはやめることにする。もちろん著者も、それに関して次のように述べている。「生活必需品に高い税率を掛けると、低所得層ほど困ります。このことはどうしても否定できません。¶そのことは経済学も十分承知しているのですが、その問題は税率を設定した後で所得を再分配して処理しようと整理しているわけです。(…)ここでも、効率性と公平性の問題を区別し、まず、効率性の問題を片付けようとする、経済学の発想のスタイルが顔を出しています。つまり、ラムゼーの命題は、話の前半部分のおいしい(?)ところだけを取り出しているだけだと解釈したくもなります(68〜9頁)」。要するにこのラムゼーの命題は、私めのいう「個別思考」の権化のような見方なのですね。

 

では経済学は公平性をどう担保するのかが問題になる。それを説明しているのが、第2節なのですね。その冒頭に次のようにある。「本書の第1章では、経済学は議論の出発点を個人に置く特徴があると説明しました。公平性の根拠も、個人の立場から説明するというのが、経済学によるオーソドックスなアプローチです。その場合のキーワードは、(…)「リスク回避」です。(…)社会全体の所得格差を忌避する気持ちも、人々がこのようにリスク回避的であることで説明できます(78〜9頁)」。次に、ア・ラ・ロールズな「無知のヴェール」を用いたたとえでそれを説明している。それについては、ここでは省略する。ただ、そのような経済学による公平性の説明の仕方について著者は最後に次のように述べている。「経済学は、所得格差を望ましくないという、世の中の有り様に関する格差回避という概念を、リスク回避というあくまでも個人レベルの問題に“翻訳”して説明しているのです。¶このように問題をわざわざ翻訳するのは、経済学が個人を議論の出発点に置く構造になっているからです(80頁)」。うむむむ! 要するに経済学は、「公平性」という本来はマクロなレベルの問題をそれより粒度の低い「個人」のレベルに持ち込んで説明していることになる。これは私めがいう「粒度越境の誤り」に該当するような気がするが、いかがなものだろう? それはそれとして、効率性と公平性に関する次の指摘は非常に重要だと思う。「この2本の評価軸を{別々に/傍点}用いて議論してしまうと、いくら経済学といってもほとんど意味がなくなってしまう(91頁)」。なぜ重要かというと、経済学が現実的な政策に役立つためには、「個別思考」でものごとを捉えてはならないことがこの文章によって示唆されているからですね。

 

「個別思考」でものごとを捉えると現実の問題をもっとも妥当な形で解決することができなくなることは、すでに個人的な見解として述べた。著者は、それと同じことを次のように説明している。まず著者は、「ベンサム的な立場」と「ロールズ的な立場」を取り上げる。「ベンサム的な立場」では、「社会全体の幸せ――経済学ではそれを「社会的厚生」と呼びます――は、世の中の所得の総額で示される(92頁)」と考える。他方の「ロールズ的な立場」とは、「社会的厚生は世の中の所得の低い人の所得で決まるという考え方(93頁)」で、「このロールズ的な立場に立つと、所得が完全に平等に分配されていることが最適になります(93頁)」。以上二つの立場を定義した上で、さらに次のように述べる。「効率性と公平性の問題を二段構えで考察すると、奇妙なことが起こります。効率性の問題を最初に片づけるということは、第一段階において、限られた資源の下で、世の中の所得を最大にすることを目指します。第二段階では、そこで得られた所得を公平性の観点から最適な形で人々に再分配します。このとき、第二段階ではどのようなことが望ましいと言えるでしょうか。¶ロールズ的な立場に立つと、これまでの説明からわかるように、所得を完全に平等に分配すべきだということになります。一方、ベンサム的な立場に立つと、「お好きなように」ということになります。限られた資源の下で、世の中の所得がすでに最大になっているとすれば、その分配の仕方には興味がわいてこないからです。そうなると、政府がロールズ的な立場に立って所得を完全に平等に分配しても別に構わないことになります(95〜6頁)」。そして次のように述べる。「もちろん、こうした完全平等の所得分配に対しては、「所得を得られなかった人にとってはありがたいだろう。しかし、頑張って働いた人は税金をガッポリとられてやる気を無くすのではないか」という懸念が当然出てきます。そして、そのような懸念は、経済学的に見てもまったく正しいものです。しかし、そうした懸念があるにも拘わらず、完全平等の所得分配がベンサム的な立場からも積極的に否定されなかったのはなぜでしょうか。¶それは、そうした完全に平等な所得分配を目指したときに、人々の行動にどのような変化を及ぼすかを考慮に入れる仕組みが、議論の中に用意されていないからです。言い換えると、効率性の話を初めに片づけ、それを与えられたものとして、公平性の話で所得再配分のことを議論し、それでおしまいにするという構造を、この議論がはじめからとっていたからなのです(96〜7頁)」。そして次のように非常に重要な結論を導き出している。「効率性と公平性という2本の評価軸は、本来であれば互いに絡み合い、せめぎ合う性格のものであり、同時に議論すべきなのです。それを無理に二分法的に処理してしまうと、確かに議論はすっきりするのですが、大切なものがごっそりと抜け落ちてしまいます(98頁)」。これはまさに、私めが「個別思考」の問題として述べたことと同じなのですね。

 

ちなみにここで、一部の人々の癇に障ることをあえて述べておきたい。よく「民主党政権時代は悪夢の時代だった」と言われることがあるよね。私めは読んでいないけど、新書にも『民主党政権 失敗の検証』(中公新書)という本がある。しかし「民主党の失敗」は私めから見れば、検証の必要がないくらい必然的な結果に思える。なぜか? それはかつて民主党に所属していた政治家や、その支持者の発言を見ていると、経済に限らず、せいぜいこの問題含みの「個別思考」しかできていない人が多いように思えるから。「個別思考」で政治をやると、現実社会は必ずや滅茶苦茶になるのですね。なぜなら現実は複雑な要素や要因が絡み合っているから。加えて左派には、二一世紀に入っても権力の監視という抵抗権や革命権に関するガラパゴス的な概念にとらわれている人が多いように思える。もちろん権力の監視はまったく不要だと言いたいわけではないが、そのような人々が実権を握ると、政治に関してはいつも抵抗権や革命権を念頭において発言したり行動したりしているために、「バランスのとれたもっとも妥当な総合的判断」をもって現実世界に対処することなどとてもできないわけ。結局、現実を前にしては、つまり政治にはそのような考えがまったく通用しないことは、そもそも辺野古移転の問題に対する(元)民主党員の態度を考えてみればよくわかる。辺野古移転は民主党政権のもとで最終的に決定されたにもかかわらず(実際には民主党政権以前から懸案になっていた問題ではあるが)、民主党が下野すると、枝野氏を始めとする元民主党議員たちは、自分たちが最終的に決定したはずの辺野古移転に突如として猛烈に反対し始めた。もちろん考えを変えることは構わないが、ツイ民などではない政治家なんだから、考えを変えた理由を説明する責任がある。よく知らないけど、この責任を果たしたうえで反対しているのだろうか? そうでないのなら、自分たちが権力を握っているときと、握っていないときで、まったく正反対の主張をしていることになる。つまり時間軸は逆になるが、自分たちが権力を握っていないときには権力の監視の考えに基づいて政府が推進している辺野古移転に反対しておきながら、自分たちが政権を掌握して権力を握っていたときには、まさに将来自分たちが反対する次第になる決定を平然と下していたことになる。それと同じことは、特定秘密保護法などに関しても当てはまる(『日本インテリジェンス史』参照)。また歴史的に見ても、フランス革命から始まって、二〇世紀のロシア(ソ連)や中国を眺めて見れば、革命家が居座って政治に手を染めると何が起こるかがよくわかる。社会はメタメタになって、無数の頭がコロコロ転がるのですね。まあさすがに日本のような二一世紀の民主主義社会にあって、無数の頭がコロコロ転がることはないとしても、間違いなく中間粒度の健全な存続、すなわち人々の生活の安寧を担保している社会の基本構造はメタメタになるはず。私めがいつも述べている「革命は政治ではない」という言葉には、そのような意味合いも含まれる。ただ今の与党もそれと大差はないように見えるけどね。あまり言うと、エレベーターの中でブス!されても困るので、このくらいにしておく。

 

いずれにしても、著者の次の指摘はきわめて単純にもかかわらず、「個別思考」にとらわれているせいで、そのきわめて単純であるはずのことを理解していない人は多い。「公平性を追求しすぎると効率性の面で問題が発生し、逆に効率性を追求しすぎると公平性の面で問題が発生します。こうした効率性と公平性とのトレードオフは、両者を別々にして、二分法的に議論すると表に出てきません。効率性と公平性とのトレードオフは、同時に議論してこそ、正面から取り組むべき重要な問題としてその姿を見せるのです(101頁)」。ではこの問題を解決する方法はあるのか? 個人的には、そもそも理想的な解決方法などあるはずはないと思っている。それが現実世界の基本的な性質なのだから。著者も次のような至極当たり前田のクラッカー的なことを述べている。「何が最適な政策なのか、その答えをビシッと提示できればそれに越したことはないのですが、それができません。経済学の果たすべきことはむしろ、効率性と公平性とのトレードオフの姿を、できるだけ具体的に人々の前に示して、混乱しがちな議論の“交通整理”を行い、人々の合理的な意思決定に資するような材料を提供することでしょう(104〜5頁)」。前にも述べたように、生存や生活に関しては、一般ピープルは合理的な判断を下す直観的な能力を持っているのですね。生存や生活に関して合理的な判断を下せない個体は、進化の過程で淘汰されるはずだし。そしてそのような進化によって獲得された形質は、基本的に直観を通じて発現する。だからメルシエ&スペルベルは、理性を直観に包含されるものとして、また、合理的思考(reasoning)を直観的推論の一形態として見ているわけ。ここのところは、きちんと理解しておくべきだと思う。

 

第2章の最後は「ベーシックインカム」に触れられている。フィンランドでお試しが始まったときは、ツイのトレンドにも上がっていたよね。AIやロボットとの関係でベーシックインカムについて述べている、次のような記述は興味深かった。「生産活動はAIやロボットにすべて任せ、人間はその生産活動の成果を享受するだけ、という世の中になったらどうなるでしょうか。まさしくベーシックインカム的な形で、その成果を人々に一律配分するという仕組みがあってもよさそうに思います。そこでは、効率性と公平性のバランスをどうとるかという問題は姿を消してしまいます(115頁)」。つまりベーシックインカムは、ここまでにさんざん論じられてきた、効率性と公正性に関する経済学のアポリア(新書本のサブタイトルの表現を借りれば「効率か公平かのジレンマ」)を解決する一つの手段になるということなのかな? ということで、最後に著者による第2章のまとめ(116頁)をあげておきましょう。

 

<↓↓↓ 第2章のメッセージ ↓↓↓>

▼効率性と公平性のどちらを重視するかで、経済の見方がずいぶん異なってくる

▼例えば、消費税の在り方を効率性という観点から考えると、価格が高くなっても需要がなかなか減らない生活必需品にこそ高めの税率を設定すべきだという主張が出てくる

▼一方、消費税の在り方を公平性という観点から考えると、低所得層の負担を軽減するために、生活必需品の税率は低めに設定すべきだという主張が出てくる

▼経済学の役割は、効率性と公平性のトレードオフの姿をできるだけ具体的に人々の前に示して、議論の“交通整理”を行うことである

<↑↑↑ 第2章のメッセージ ↑↑↑>

 

残りの半分は、医療保険、教育、年金などが取り上げられている「第3章 教科書では教えない市場メカニズム」(年金については第4章でも詳しく取り上げられている)と、経済学に時間の視点を加えるとどのような考えになるかという、経済のSDGsのような議論が繰り広がられる「第4章 経済学は将来を語れるか」だけど、話がかなり細かく、かつテクニカルになる傾向があり、個人的なコメントも第2章まででほぼ言い尽くしているので、章末の著者のまとめ(第3章:182〜3頁、第4章:242頁)だけ抜き書きしておく。まずは第3章から。

 

<↓↓↓ 第3章のメッセージ ↓↓↓>

▼市場メカニズムは効率性の観点から見て優れた仕組みだが、しばしば「失敗」するし、公平性の問題は別途取り組む必要がある

▼医療保険への強制加入は、市場の失敗への対応策というより、高リスクの人を社会全体で支援するという、公平性を追求した仕組みと考えたほうが理解しやすい

▼教育は、受けてどうなるのかわからないという不確実性がむしろ市場を成り立たせており、公平性の追求には教育を受けた後と途中という2つのタイプがある

▼市場メカニズムを機能させるためには、情報収集のコストがかかる。情報収集をサボると、そのツケは別のコストとして降りかかってくる

<↑↑↑ 第3章のメッセージ ↑↑↑>

 

お次は第4章。

 

<↓↓↓ 第4章のメッセージ ↓↓↓>

▼現在から将来へという時間の流れを考慮に入れると、市場メカニズムが最適ではなくなり、政府が市場に積極的に介入すべき場合がある

▼人口増加から人口減少に転じると、効率性や公平性の問題を改めて議論する必要が出てくる

▼生産した財のうち消費せずに残る「国民(純)貯蓄」に注目すると、私たちは次の世代に残すべき富に手をつけるかどうかの瀬戸際に近づきつつあることがわかる

▼人口減少に立ち向かうためには、社会の支え手を増やし、「困っている人」の支援に力点を移す必要がある

<↑↑↑ 第4章のメッセージ ↑↑↑>

 

まあ経済音痴の私めが取り上げているので後半はちょっとサボったけど、前半で個人的な意見を述べ尽くしたつもり。効率性と公平性のトレードオフについては、著者はあくまでも経済学の観点から見て立論しているわけだけど、これは一般論としても十分に通用する話なので話を少し拡張してとらえてみた。経済学に詳しい人には、もしかして入門書のレベルにすぎないと感じられるのかもしれないが、私めにはむしろそのほうが、都合がよかった。ということで、これにておしまい、おしまい。

 

 

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※2024年6月2日