◎中屋敷均著『生命とは何か』(講談社現代新書)

 

 

「生命とは何か」とは、ネコちゃんで有名な、かのシュレーディンガーの著書と同じタイトルだよね。でもシュレーディンガーが基本的に理論物理学者だったのに対し、この新書本の著者は本職の生物学者のよう。「溶けていく「個体」の境界線」という副題がつけられており、この副題によってだいたい何が書かれている本なのかがある程度推測できる。そのことは、「はじめに」にある次の記述からもおおよそわかる。≪本書が描く生命の姿は、複合体としての実在である。「わたし」の中には、実は多くの生命体が複合体として存在している。それは遺伝子という意味でも、細胞内小器官(オルガネラ)という意味でも、また生物種の共生体という意味でもそうである。どこに区切りがあり、どこからが「わたし」で、どこからが「あなた」なのか、その境界さえ判然としないものも少なくない。生命は合体し、新たな形の生命を生んでいく。「あなた」と「わたし」は混在しており、そしてその合体は、時に物理的な「わたし」だけでなく、「意識」や「心」としての「わたし」にさえ影響を及ぼしている(5頁)≫。なお本書の本論は「第一話」から「第八話」ならびに「終話」から成り、他の本では「章」とされているところが、おそらくは本の内容のナラティブ的性格を強調したいためか「話」と記されている。ただし私めのコメント中に限っては、「この話では」などという言い方は奇妙に聞こえるので、「この話」ではなく「この章」などと記すこととする。

 

ということでさっそく「第一話 怒れる大神」に参りましょう。この章では、いきなりオオカミと、イエローストーン国立公園内へのオオカミの再導入の話が出てくる。そこまでを読んだ段階では、「きっとこの話は、イエローストーン国立公園内における、生態系の調節メカニズムを介した種々の動物の共生の一例として出してきたのだろう」と思った(なおイエローストーン国立公園内での生態系の調節メカニズムに関する話は、わが訳書、ショーン・B・キャロル著『セレンゲティ・ルール――生命はいかに調節されるか』、人呼んで動物村本に詳しい)。ところが第一話の後半を読むと、それは単なる前振りで、実際にはトキソプラズマ感染が主題であることがわかった。なお、イエローストーン国立公園内へのオオカミの導入とトキソプラズマがどう関係するのかに関しては、話が細かくなるのでここでは説明しない。

 

トキソプラズマについては、この手のポピュラーサイエンス本で取り上げられることが多いので知っている人も多いのだろうが、いちおう本書からやや詳しい説明を引用しておく。次のようにある。≪この原虫[トキソプラズマ原虫]は多くの温血動物に感染するものの、ネコ科動物を本来の宿主(終宿主)としており、ネコ科動物の中でしか卵(オーシスト)を作ることができない。つまり有性生殖をしてオーシストを作るためには、どんな動物に感染していても、ネコ科動物の体内に戻ってこないと生活環を完結できないという宿命を持っている(…)。¶これを実現するために、この原虫はなんとも巧妙で恐ろしい戦略を展開する。それは感染した宿主の行動を操るのである。たとえばトキソプラズマに感染したネズミは、ネコを恐れなくなる傾向があることが1980年代から観察されていた。言うまでもなく、ネコはネズミの天敵であり、ネズミは先天的にネコの尿の匂いなどを嗅ぎ分け、それを避ける性質を備えている。しかし、スタンフォード大学で行われた研究によると、トキソプラズマに感染したネズミは、ネコを恐れないばかりか、ネコの匂いに性的に興奮して引きつけられるようになることが報告されている。(…)つまりトキソプラズマに感染したネズミは、リスクを恐れなくなり、ネコに引き寄せられ、捕食される。そのことによりトキソプラズマ原虫は晴れてネコ科動物の体内への帰還を果たすというのだ(20〜2頁)≫。前述のとおり、この話は、私めも含めこの手の新書本を嬉々として買うような読者ならよく知っていることでしょう。

 

とはいえ、いくつかの研究結果が紹介されたあと次のように書かれているが、それに関しては、少なくとも私めはまったく知らなかった。≪こういった研究結果は一貫した傾向を示しており、トキソプラズマという寄生生物がヒトの行動にも影響を及ぼし、いわば「イケイケ」的な性質を誘発しているということだ。米国スタンフォード大学の神経生理学を専門とするパトリックハウス博士は「Landon Donovan Needs a Cat(ランドン・ドノヴァン〔アメリカの元サッカー選手〕にはネコが必要だ)」というユニークなタイトルの記事を寄稿している(…)。その中で博士は、トキソプラズマの感染率が高い国には、ブラジル(感染率67%)・アルゼンチン(同52%)・フランス(同45%)・スペイン(同44%)・ドイツ(同43%)などサッカー強豪国が多いことを指摘し、ネコ科動物からのトキソプラズマ感染によって攻撃的なサッカー気質が生まれている可能性を論じている(30頁)≫。なんかこれは、それらの国が狩猟民族出身だからとか、赤系統のユニフォームを着たチームは攻撃的になるとかいった怪しげな仮説と同じ響きがあるけど、「≪ランドン・ドノヴァン〔アメリカの元サッカー選手〕にはネコが必要だ≫って、一種のドーピングの奨励にならないの?」とか思ってもた。基本的に農耕民族たる日本人も、サッカー選手は全員ネコを飼えば、日本サッカーの喫緊の課題である優秀な点取り屋フォワードの育成が実現するということなのだろうか?

 

冗談はそこまでとして、では著者はなぜ最初の章にこのトキソプラズマの例を持ってきたのかというと、次のようなことらしい。≪人は生まれながらの生得的な遺伝子に基づいた「個性」を持つ。しかし、その「個性」は、その人の成長過程の環境や経験の影響を少なからず受け、後天的に変化することもある。感染による「個性」の変化が、当事者にとってプラスに働き、社会における成功につながったとして、それは「病気」なのだろうか? トキソプラズマ感染は、後天的な「経験」の一種で、単にそれにより個性が変化しただけではないのか? 我々は自己の意思で自分の行動を決めていると思っているが、その「自己」とはいったい何なのかが問われているのだ。トキソプラズマ感染は宿主と寄生者の両方にとって。保有するDNA情報をより効率的に子孫に伝達できるような性質を生じさせている可能性を持っており、両者が一体となることで、より環境に適応した生命体へと変化しているようにも見える。¶こういった2つの生き物が出会い、新たな形質を持った生き物として生態的な位置を獲得する現象は「延長された表現型」と形容される。生得的に持っている遺伝情報から生じる性質だけでなく、そこに他の生物が持っている遺伝情報が加わることにより、表現型、つまり見た目や生態や個性などが変化するのである。そして、そういった生命現象は、一般に思われているよりはるかに広範囲で、はるかに深化した形で、私たちの生命とその進化を支えている。トキソプラズマ感染による宿主の行動変化は、そのほんの序章に過ぎないのである(31〜2頁)≫。以上の文章からわかるとおり、この最初の章では、本書の副題の「溶けていく「個体」の境界線」を示す最初の具体例としてトキソプラズマ感染が取り上げられているのですね。

 

ということで次の章に移るけど、「第二話 内なる外界の住人たち」と「第三話 「超生命体」」は腸内細菌と、いわゆる脳腸相関が取り上げられている。これら二つの章で述べられていることがらについては、わが訳書、エムラン・メイヤー著『腸と脳』で詳しく取り上げられているので、まことに勝手ながらここでは簡単に触れるに留めておく。ちなみにこの本は、わが訳書のなかでは『社会はなぜ左と右にわかれるのか』とともに現時点でもっとも刷部数が多く、おじぇじぇがあああ!病にかかっている私めにとっては救世主になっております。いずれにしても、この新書本で腸内細菌が取り上げられている理由の一つは、免疫、代謝、遺伝子等の観点から見た場合、一人の人間という個体と、無数の腸内細菌は、互いに分離して捉えることはできないという点にあり、そのことはとりわけ第三話に見て取れる。

 

まず免疫、代謝、遺伝子に関して述べられている箇所を引用しておきましょう。免疫に関しては次のようにある。≪腸内細菌はまずパターン認識受容体という「センサー」を通じて宿主免疫を直接刺激し、さらに多様な代謝物の産生を介して腸管免疫と全身免疫の機能を調整している。腸内細菌は、この2つの作用を連携させる存在であり、宿主の免疫システムを育て、維持することに貢献している(57頁)≫。代謝に関しては次のようにある。≪我々の体内に吸収された薬物などの化学物質は、化学工場とも呼ばれる臓器、肝臓でいったん代謝され、腎臓を経由して体外に排出されると考えられてきた。しかし、近年の研究から、こういった腸内細菌の「代謝能」や様々な代謝物の「産生能」は、従来の想定をはるかに超えたものであることが分かってきた。腸内細菌は私たちの肝臓や腎臓に匹敵する働きをしていると考える研究者も少なくない(59頁)≫。最後に遺伝子に関して次のようにある。≪ここまで紹介してきたように、免疫、代謝、健康、そしてもしかしたら人格形成にいたるまで、ヒトは腸内細菌の影響を受けている。ある意味、私たち人間も、自身のゲノムにコードされた遺伝情報だけでは、健全な生活環を全うすることができないのである。普通に食物を消化し、病原菌から身を守り、健康に暮らしていく。そんな「当たり前」のことが、実はすべて腸内細菌との共同作業なのだ(71頁)≫。

 

最後に第三話の結論部を引用しておく。≪私たちは、自分の肉体から完全に独立した精神を持っているのではなく、心は体の影響を受け、その体とは腸内フローラや常在細菌を含んだものである。ジョシュア・レーダーバーグ[遺伝学者]の「人間はヒトの細胞と微生物で構成されている超生命体である」という卓見は、ヒトというものが腸内細菌を主とした微生物と合体して初めて「完全体」となっていることを指摘したものであり、また、ある意味、それらが不可分の実在であることを指摘したものでもあったのである(71〜2頁)≫。最近では、生物(脳を含めた身体)と心と環境(そこには生活様式、社会慣習、文化なども含まれる)の相互作用という見方が提起されつつあり、それについて私めも何度も言及しているが(わが訳書ではスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』やロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない』を参照されたい)、こうして見ると、そのうちの「生物」という要素には腸内細菌を筆頭とする微生物も含まれることになる。

 

次の「第四話 盗まれた葉緑体」では、ミトコンドリアと同様、葉緑体も細胞内共生によって生じたという点が紹介されている。その一例としてサンゴと、ある種のウミウシが取り上げられているので、それに関する記述を引用しておきましょう。≪動物と植物は、かつては生物界を二分していたグループで、植物は光合成を行う独立栄養性であり、動物は従属栄養性の存在と定義されていた。しかし、海の中には光合成をする動物が存在している。有名な例として、サンゴやシャコガイなどがあり、特にサンゴは褐虫藻などの真核生物を細胞内共生させており、動物であるにもかかわらず、ある意味、二次植物的な生態となっている。これらも面白い存在であるのだが、ここで取り上げるのはウミウシである。ウミウシは、タコやイカと同じ軟体動物に属する正真正銘の動物であるが、その一部が奇妙な形態を持ち、奇妙な「光合成」を行うのだ(95〜6頁)≫。そのあと、ここで言及されているウミウシの種、エリシア・クロロティカの生態について説明されているが、細かくなるのでそれについては省略する。なおこのような現象は「盗葉緑体」と呼ばれているらしく、それが章題になっている。

 

葉緑体についてはその程度にして、次の「第五話 失われゆくゲノム」に参りましょう。この章では「ゲノム退縮」という現象が取り上げられている。なお、この新書本では「退縮」と表現されているけど、ググって確認してみると「ゲノム縮退」のほうが一般的であるように思える。ちなみにグーグル検索の「AIによる概要」には、「ゲノム縮退(Genome Reduction/Degeneracy)は、生物が進化の過程で不要な遺伝子や配列を失い、ゲノムサイズ(全DNA量)が縮小する現象です。特に細胞内共生体や寄生生物、光合成をやめた藻類などで顕著であり、環境変化や機能喪失に伴う淘汰圧の低下が主な要因です」とある。いずれにせよ、ここでは新書本の著者の用語を採用して「ゲノム退縮」という言い方を採用する。

 

その例として、著者はアブラムシ(アブラムシと聞くと私めにはゴキが最初に思い浮かぶけど、もちろんそちらではない)とブフネラの共生に起因するゲノム退縮を紹介している。ブネネラとは次のような生物らしい。≪ブフネラはアブラムシの菌細胞という特殊な棲み処で細胞内共生をしている。ブフネラは、アブラムシの産卵の際にちょっとだけこの菌細胞から出て、卵に移り次世代へと伝播されるが、それ以外はずっと菌細胞の中にいて外界に一切出ない。アブラムシとブフネラの共生関係は約2億年前から始まったと言われているが、ブフネラはそんな引きこもり生活を億年単位で続けているのである(105頁)≫。そのような引きこもり生活を続けているブフネラに何が起こったか? 次のようにある。≪ブフネラは元々、昆虫の腸内細菌に起源があると考えられており、実際、我々の腸に生息する大腸菌と近縁の細菌であるが、大腸菌と比較するとゲノムが約7分の1になっており、持っている遺伝子数も大腸菌の7分の1以下である583個と報告された。¶2億年の共同生活の間に、宿主から供給されるものは、わざわざ自分で作るのも無駄だよねと、どんどん断捨離を行い、今や細胞膜も自分で作れない。糖代謝も、DNAの元となるヌクレオチド合成もできない。アブラムシの細胞から一歩たりとも離れては生きていけなくなっている。アブラムシの方も、ブフネラがいないと発育不良となり子孫を残すことができない。お互い強度に依存しており、今やアブラムシとブフネラは完全に一体化してしまっているように見える(105〜6頁)≫。「断捨離」という言葉は初めて聞いた。「断って、捨てて、離れて」ということなのでおおよその意味はすぐにわかる。仏教用語っぽいね。それはどうでもいいとして、要するに共生しているあいだに不必要になった遺伝子が退化?するみたいなことなのでしょう。新書本にはそれについて次のようにある。≪こういったゲノム退縮と呼ばれる現象は、10億年単位の歴史がある細胞内共生の大先輩にあたるミトコンドリアや葉緑体でも顕著であり、これらのオルガネラには、すでに数十〜百個程度の遺伝子しか残っていない。元々は独立した2つの生物であったはずだが、細胞内共生という「合体」により、時間をかけて、ある意味、本当に一つの生き物になってしまったのだ。ブフネラは、これらと比べると、まだ持っている遺伝子数もゲノムサイズも大きいが、時間をかけてオルガネラへの道を歩んでいるようにも見えるのである(106頁)≫。次に著者は共生者におけるゲノム退縮のもう一つの例としてカメムシを、さらには寄生者における例としてミクソゾア(魚類などに寄生する刺胞動物らしい)を挙げているが、本質的にはアブラムシとブフネラの場合とあまり変わらないと考えられるので、それらについてはここでは省略する。本を買って読んでね。

 

それからゲノム退縮に起因する大きな問題に関する次の指摘を取り上げておきましょう。≪最もゲノムの小さな細菌が、自然環境下で最も個体数が多いという事実は、ゲノム退縮の少なくとも一つの意義を示唆しているように思われる。海洋や細胞内など、基本的に安定した環境であれば、無駄を省き、その環境に最適化した形へ進化することが、他との競争のうえで有利なのだろう。しかし、そういった特定の環境への過度なフィッティングは、当然、その環境がなくなった際には破滅を導くことになる。ゲノム退縮は、ある意味、そういったリスクに踏み込んだことを示しているとも言える(128頁)≫。この著者「ある意味」というフレーズが好きならしく、けっこう見かける。それはどうでもいいとして(ただし翻訳者が特定のフレーズを頻繁に使うと、「ペットフレーズ」とか呼ばれて怒られちゃうのよね)、これはまさに、スペシャリストとジェネラリストの長所・短所に関する議論と同じだと言える。

 

第五章の最後では、ゲノム退縮を日本の農業の合理化にたとえている。たとえば2024年に荒廃農地の面積が25・7万ヘクタールに達したという農水省の発表に言及して、≪25・7万ヘクタールと言えば、およそ東京都の1・2倍の面積である。私たちは、古より日本民族の生活と生命をつないできた農地(遺伝子)をどんどんと捨て、日本国の「ゲノム」はものすごい勢いで退縮している(129頁)≫と述べている。でも個人的な印象としては、農地を遺伝子にたとえるなだといったかなり強引な例をあげるより、単一作物の大規模栽培(アグリビジネスによるモノカルチャー)の問題を取り上げたほうがよかったように思う。この問題については、わが訳書、ロブ・ダン著『世界からバナナがなくなるまえに』のとりわけ後半のいくつかの章で論じられているので、ぜひぜひこの本を買って読んでみてくださいませませ。まあアグリビジネスによるモノカルチャーは、アメリカに比べれば、日本では顕著に見られるわけではないということもあるのかも。

 

でも農地を遺伝子にたとえるくらいなら、ミームという用語もあるくらいだから(ただし個人的にはこのヌエのような用語はあまり好きではない)、日本文化そのものをたとえに用いたほうがよかったかもという気がする。その種のたとえを使うとどうしても政治的なコノテーションが含まれざるを得なくなるので、科学者としては避けたかったということであれば賢明な判断と言わざるを得ないことも確かではある。でも科学者などではない私めは、どうしてもその種のたとえを用いたくなる。具体的な例を一つあげると、非常にユルユルの条件で移民を入れてしまうと、日本本来の文化的ミームがどんどん削減され、希薄化されざるを得ないという問題がそれにあたる。この現象は日本固有のさまざまなミームから構成されるゲノムの退縮にたとえることができよう。私めの印象では、移民問題が語られる際、なぜか移民側の文化の多様性は議論の遡上にのぼっても、受け入れ側の文化の独自性(つまり世界における自国の文化の独自性という多様性)が無視されていることが多いように思える。つまり多様性の維持をめぐる問題の半分しか一般には語られていない印象を受ける。コロニアリズム全盛の頃など、欧米の文化を無理に受け入れさせられた側の独自性が欧米諸国によってまったく無視されていたことは歴史的事実であり、その代表例の一つはアメリカ原住民の文化の抑圧であろう。いずれにせよ、受け入れ側の文化に合わせる姿勢が移民側にまったくなければ、起こりうる結果は二つしかないように思える。一つは文化の雑種化、そして最終的な均質化であり、もう一つはゲットー化である。どちらも昨今人々が口にしたがる多様性とは、まったく違う方向に向かう結果になる(ゲットー化は孤立化であって多様化とはとても言えない)。均質化はグローバリゼーションによっても起こりつつある現象であり、その傾向は移民による文化の雑種化によって加速する。ゲットー化は必ずしも移民側のみならず、居留地に強引に押し込められたアメリカ原住民のように受け入れ側にも起こりうる。とはいえ、サイエンス系の新書本を取り上げているにもかかわらず、政治的イシューに深入りすることは適当とも思えないので(前述のとおり、著者も意図的にそれを避けて、農地などといったかなり特殊な問題をたとえとして用いざるを得なかったのかも)、それについてはこれくらいにしておく。

 

次は「第六話 溶け合う遺伝子」。この章では、ヒトゲノム中におけるウイルスゲノムの混在について論じられている。まず次のようにある。≪ヒトゲノムの60%以上は内在性ウイルス様配列を含む反復配列であり、ENCODE[国際的なヒトゲノム解析のコンソーシアム]による「ゲノムの80%が機能的」という数字と合わせると、反復配列の多くが実は何らかの機能を持つと考えないと話が合わない。つまり「反復配列=ジャンクDNA」という従来の理解は誤っていたのだ。内在性ウイルス様配列がヒトゲノムで果たす役割とは、いったい何なのだろうか?(141頁)≫。細かな説明は省略するとして、この問いに対する答えは、次のようなものになる。≪ヒトゲノム、30億塩基対という膨大な迷路のような情報空間を、数少ないスイッチ[近接する遺伝子のONOFFを調整するスイッチ]で制御するために、ゲノム上にくまなく配置された重要な「配線」として、内在性ウイルス様配列のような反復配列が機能しているのである。長い進化の歴史の中で、ゲノムに侵入してきたウイルスや転移因子といった「他者」が、宿主ゲノムに溶け込むように、血となり肉となり、完全に一体化してしまっているように見えるのである(145頁)≫。そして、≪そういった内在性ウイルス様配列が、我々の遺伝子へと変化した例は、機能不明のものも含めると、現在100を超えると考えられており、決して無視できない数になっている(146頁)≫のだそうな。つまり、ヒトゲノムのなかにはウイルス起源の遺伝子がかなり含まれており、遺伝子的に見ても人間という生物の、種としての境界がどこにあるのかは、一般に考えられているより単純ではないことを意味する。第六話は、次のような結論で締め括られている。≪空を飛び、水に遊ぶウイルスは、どんな生き物とも合体し、様々な形でそのゲノムに溶け込んでいる。そしてその少なくない部分が、すでにその生き物にとっての不可分なパーツとなっているのである(153頁)≫。

 

ということで次の「第七話 ポマトの夢と小さな巨人」に参りましょう。この章題を見て、私めと同様「ポマトって何だべさ? もしかしてトマトの誤植?」と思った人は多いのではないか? それとも私めが無知にすぎないのかな? もちろんこれは誤植などではなく、その名称からも予想されるとおり、「ポマト」とは≪植物細胞から細胞壁を取り除いたプロトプラストという状態のジャガイモ(ポテト)とトマトの細胞を融合させてできた新しい雑種植物(157頁)≫なのだそうな。同じページに写真が掲載されていて、それを見ると、もののみごとに地上部にトマトの実が、地下部にジャガイモの実がなっているのがわかる。まさにキメラだね。ただし≪残念なことに地上部のトマトは、通常品種と比較して収量が20〜40%低下すると報告され、地下部のジャガイモは小さく数も少なかった(157頁)≫とのこと。

 

本章では、こういった異なる生物種の融合が、ポマトのように人工的な操作によってのみならず、自然的にも生じていることが、いくつかの具体例によって示されている。それらの例については、細かくなるのでここでは省略し、結論部分のみ引用しておく。≪ここまで紹介してきた様々な「合体する生物」たちの姿は、見た目の「個体」というものが、いかに{覚束/おぼつか}ないものか、ということを我々に教えてくれる。かつて、遺伝学者の木原均は、ゲノムを「ある生物をその生物たらしめるのに必須な最小限の染色体のセット」と定義した。この定義は、生物がその生物として生きていくうえで不可欠な遺伝情報が、1つのゲノムに収まっているという視点に基づいている。¶しかし、ここで紹介した一塊としての「個体」たちは、必ずしも1つのゲノムで成り立っているものではない。核の中に(異質倍数体)、あるいは細胞の中に(ヘテロカリオン)、あるいは異なる細胞という形で(キメラや地衣類など)、異なる起源の「ゲノム」が、渾然一体となって、一塊の「個体」の中に混在している。レーダーバーグが提唱するように、我々ヒトも、もし本当に「超生命体」であるとするなら、それはヒトという1つの多細胞生物と何十兆という無数の細菌から成り立った、まるで圧倒的多数に無勢という{体/てい}の「個体」である。¶そしてそのゲノム間の物理的あるいは生物学的なつながりには強弱こそあれど、それらは有機的な複合体として1つの生き物のように振る舞い、この世に存在している。彼らは一体化することにより、単なる足し算ではない、新しい生き物として世界に現れ出でたように思えるのだ。果たして、1つの生き物とは、個体とは、そして「わたし」とは、いったい何なのであろうか?(171〜2頁)≫。最後の一文が、この新書本における著者の包括的な第一の問いであることは言うまでもない。

 

ということで次は「水に向かうカマキリ」。最初の節のタイトル≪カマキリの「入水自殺」≫からもわかるように、「水に向かうカマキリ」とは、≪カマキリが、なぜか川や水たまりに身を投げるように飛び込んでいったり、アスファルトの上に出てきて、次々と車に轢かれたりする現象(175頁)≫を指しているらしい。個人的には、カマキリがそんなことをするとはまったく知らなかった。≪次々と車に轢かれたり≫というのは、要するに集団自殺という意味なのでしょう(一匹だけなら、どんな昆虫でも道路でペチャンコになることはあるはず)。実はこのカマキリの自殺は、ハリガネムシという寄生者に操られた結果らしい。その手の宿主操作は、色々な例があり、実際この章には、カマキリの他にもアリやクモの例が紹介されている。というより、むしろカマキリよりアリの例の方がよく知られているかもね。にもかかわらず、カマキリの例がメインに取り上げられ章題にもなっているのは、具体的なメカニズムの解説は専門的になりすぎるのでここでは取り上げないが次のような理由による。≪ある意味、ハリガネムシのゲノムは、カマキリのゲノムと合体してできており、それを使って宿主を操っていることが想定された(181〜2頁)≫(またまた「ある意味」ですか? あまり繰り返すと一種の韜晦のようにも思えてくるので控えめに使ったほうがよろしいのではないかと…)、あるいは≪ハリガネムシがカマキリから水平移行によって得られた遺伝子を使って、宿主の行動を操作しているという仮説に矛盾しないデータとなっている(182頁)≫などとあることからもわかるように、そこには遺伝子の水平移行(カマキリからハリガネムシへの)が関与しているからなのですね(アリやクモにもその可能性があるのかもだけど、おそらく現時点では、カマキリの場合ほど明確になっていないということなのでしょうね)。

 

このカマキリの例をもとに、著者は次のような問いを立てている。≪確かに私たち人間にとって、生きるということの実感は「自己の意思を持って行動すること」にあるのだろう。しかし、ここまで紹介してきた昆虫の宿主操作のような生物現象を見ると、その意思決定が他者によって容易にコントロールされているようにも見えるのである。第一話で紹介したトキソプラズマの例をみれば、それは、決して昆虫に限った話ではなく、我々哺乳類でも、少なくとも部分的には起こり得ることのように思える。自分の意思決定は、自分で行っている。私たちはそう単純に考えがちだが、果たして我々の意思決定とは、どのようなメカニズムでなされるものだろうか?(183頁)≫。

 

この問いに答えるにあたって、著者はまずダニエル・カーネマンの有名なシステム1、システム2を持ち出してくる。次のようにある。≪心理学者のダニエル・カーネマンは、ヒトの意思決定には「システム1(直感・情動的)」と「システム2(熟慮・制御的)」という二重の過程があるとするモデルを提唱し、その後の脳科学研究の発展によって、直感・情動的なシステム1は偏桃体、島皮質、腹内側前頭前野や線条体などの領域と、熟慮・制御的なシステム2は背外側前頭前野や前帯状皮質などの領域と結びつきが強いことが示された(…)。これらの各領域からの信号は、前頭前野ネットワークで評価・調整されながら統合され、最終的な行動の選択につながると考えられている。これが「ネットワーク活動による意思決定」という考え方である。ここには環境からの情報も統合されており、急いでいる、ストレスがある、報酬が即時的といった場合は、システム1からの入力に重みがおかれ、時間とリソースに余裕がある、社会的監視や規則が厳しい、未来の利得を意識できるといった環境下では、システム2からの入力が重視される傾向がある(183〜4頁)≫。実のところ、この手の二重システムな見方には問題があり、カーネマン流の見方だと無意識的な決定は、システム1として捉えざるを得なくなる。しかし人間の行なう決定や判断には、無意識的な判断や直観(著者は「直感」と記しているが、この意味では個人的にはつねに「直観」と記している)も含まれ、それらが認知的に作用しうることは、システム1、システム2、システム3から成る三重システムを提唱する、わが訳書、ジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元』で明確にされている(三重システムの詳細は同書を買って読んでね)。あるいは認知科学者のヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベルはThe Enigma of Reasonで≪直観は私たちが下す判断(あるいは決定)であり、それを正当化する理由に関する知識なくしても正当化されると見なされる(同書64頁)≫、あるいは≪合理的思考は直観的推論の一形態である(同書90頁)≫と述べ、直観の持つ判断能力、決定能力を重視している。

 

ここでついでに述べておくと、無意識の存在を提唱したジークムント・フロイトは、実証的な根拠が薄いということで軽視もしくは無視されることが(とりわけアングロサクソン諸国において)多いが、脳科学の発展とともに最近見直されるようになりつつある。この新書本の著者も、最終章で次のように述べている。≪著名な心理学者であるジークムント・フロイトは、ヒステリー患者の治療経験を通じて、患者の行動や症状を支配する、意識外にある心理的な力の存在に気づき、それを「無意識(das Unbewusste)」と呼んだ。これが心理学における「無意識」の発見である。彼は抑圧された願望・記憶・感情が「無意識」に潜んでいると考え、それらが何かのシンボルに置き換えられて夢の中に現れてくる、つまり「無意識」にある願望や感情が夢を通じて意識に訴えかけていると、著書『夢判断』で論じている。こういったフロイトの「無意識」の解釈には異論もあるようだが、我々の精神に「無意識」という領域があることを発見した功績は現在でも揺らいでいない。現代神経科学では意識に上らない脳の処理プロセス全般を「無意識」と捉えており、このプロセスは脳の働きの90%以上を占めるとも言われている(213頁)≫。意識に上らない脳の処理プロセス全般が「無意識」であるのなら、いかにして≪「無意識」にある願望や感情が夢を通じて意識に訴えかけている≫のかが疑問に思えてくるけど、ここではその点は不問に付しておく(ちなみにグーグル検索のAI概要によれば、物語形式の夢を見るレム睡眠中には、意識は覚醒に近い状態にあるとされている)。他の最近の和書では松本卓也著『ジャック・ラカン』(岩波新書)の副題が「フロイトへの回帰」と題されていて、ラカンとともにフロイトの症例や理論が大きく取り上げられていた。また某大手出版社の編集者も、最近はフロイトが見直されつつあると語っていた。その傾向は、フロイトがあまり評価されていないと思われるアングロサクソン諸国でも見られる。たとえば最近読んだ本では、W.W.Norton社から刊行されている心理学者アラン・ショアのThe Right Brain and the Origin of Human Natureでフロイトの再解釈・再評価がなされていた。このショアの著書では、フロイトの時代には利用できなかった脳科学的知見を駆使してフロイトに端を発する無意識の概念が説明されている。またショアの著書は、フロイトの精神分析が基本的にセラピストの左脳がクライアントの話を聞くことで、クライアントの右脳の無意識を分析し解釈するという、左脳中心の療法だったのに対し、セラピストとクライアント双方の右脳のインターパーソナルな相互作用によってセラピストがクライアントを理解し治療するというまったく新たな方法を提起しているという点に斬新さがある。いずれにせよ、フロイトによる無意識の発見は、ルドゥーやメルシエ&ダン・スペルベルの諸著作との関連でも大きな意義を見出せる。しかも無意識は認知的でもあり得、カーネマンの言うようなシステム1に完全に還元できるものではない。でも、このカーネマンの見方を著者が取っているがゆえに、矛盾をきたしているように思える箇所がこの章の終盤にある。

 

それについてはあとで述べるが、また大きく脱線してしまったので、いったん新書本に戻りましょう。いずれにしても、著者はこの章で、カマキリやアリやクモの具体例をきっかけとして、「個体(個人)の意思決定」などというものが実際に存在しうるのか否かを問うているというわけ。次のようにある。≪アルコールを飲むと人が変わる、大麻を吸ったら別人格だ。そういった一過性の薬物や感情の動きであれば、時間とともに、また元の定常状態に戻るだろう。しかし、「意思決定」に影響を与える化学物質、あるいはその前駆体などが、たとえば寄生虫によって(第一話)、あるいは腸内細菌によって(第三話)、常に体内に供給され続けているとすれば、それらがその人の「意思決定」に影響を与えることはないのだろうか? そして、もしそうなら、その「意思決定」とは、いったい何なのだろう? それは「他者の意思」との「合作」ということにはならないだろうか?(187頁)≫。著者はそのあと、ショウジョウバエにおける例や、ベンジャミン・リベットのよく知られているが論争の多い実験(リベットの実験に関しては他の本を取り上げた際に何度も疑問点をあげているのでここでは触れない。そもそもリベット自身が通俗的な解釈を否定しているしね)と、それをさらに精緻化した実験、さらには社会心理学者ダニエル・ウェグナーの著書『意志の錯覚』に参照して、「意思決定」の存在に疑問符をつきつけている。そう言えば、数年前にロバート・M・サポルスキーが自由意志の存在を完全に否定する大著Determined: A Science of Life without Free Willを刊行していたことも思い出される(最後まで読んだけど、極論にすぎるような気がしたことを覚えている)。とはいえここでは、意思決定や自由意志の存在というブービートラップだらけの問題に関して深く突っ込むことはあえてしない。

 

ただし前述したように、この章の最後の方にある次の記述には疑問を感じざるを得ないと言っておく。≪人の意思には、カーネマンらが提唱した「システム2(熟慮・制御的)」型のものもあり、ウェグナーはそういったものも含めて、人の意志が存在しないと主張したわけではないが、少なくとも「システム1(直感・情動的)」型のような意思決定の一部は、意思が行為を生み出すのではなく、行為を自己に帰属させる後づけの物語、つまり認知的ナラティブとして「意思」が創られている可能性がある(190〜1頁)≫。≪行為を自己に帰属させる後づけの物語、つまり認知的ナラティブ≫というくだりは、私めにはカーネマンの二重システム理論におけるシステム1ではなく、システム2の説明のようにしか聞こえない。この言い回しでは直観や情動が意識的、意図的、継時的な作話であるかのように思えてしまうからね。実際には、直観や情動は無意識的、非意図的、瞬間的だと一般に考えられているはずであり(情動はやや微妙だが、感情が情動の意識的経験だとすればかなりの程度当てはまる)、少なくとも一般読者には矛盾しているように聞こえざるを得ない。確かにルドゥー、メルシエ&スペルベル、あるいはわが訳書、『情動はこうしてつくられる』の著者リサ・フェルドマン・バレットらは、直観や情動には認知的な基盤があると論じていることは確か。でも彼らはそれらを≪行為を自己に帰属させる後づけの物語、つまり認知的ナラティブ≫などとして捉えているわけではない。この新書本に見られるようなたぐいの矛盾がなぜ生じてしまうかと言うと、著者自身というより、そもそも著者が依拠しているカーネマンの見方が、完全な間違いとまでは言わないとしても不十分だからだと言える(第一にカーネマンは、行動経済学者、心理学者のたぐいであって脳神経科学者ではない)。カーネマンの見方では、意識的な思考・意思決定はシステム2に、また直観や情動あるいは無意識的な思考・意思決定はシステム1に分類せざるを得なくなる。だから、認知的ナラティブによる後づけの物語生成はどうしてもシステム2の作用であるように思えてしまうのですね。

 

それに対して、たとえばジョセフ・ルドゥーは『存在の四次元』で、カーネマンの二重システムを三重システムに拡張すべきだと説いている。ルドゥーの三重システムの特徴は次の二点にある。一つは認知に関してシステム2に分類される「認知的で非意識的な行動制御(認知的次元)」とシステム3に分類される「認知的で意識的な行動制御(意識的次元)」が区別されている点と、もう一つは「直観」がシステム1に分類される「非認知的で非意識的な行動制御(神経生物的次元)」と、(非意識的な直観として)システム2の両方に含まれている点である。つまりルドゥーの三重システムに従えば、直観も認知的レベルで作用しうるし(これはメルシエ&スペルベルが取る立場と同じ)、認知は意識的にも無意識的にも作用することになる。だから、新書本の著者のように≪行為を自己に帰属させる後づけの物語、つまり認知的ナラティブ≫として直感や情動を捉える必要はなくなる。というのも、それら自体が無意識的に認知作用として機能しているのだから。カーネマンのThinking, Fast and Slowを刊行直後に読んだ際には、ずいぶんとおもろい本だと思ったことを覚えている。でも今となっては、カーネマンの二重システム理論は、むしろ有害だとすら思うようになっている。とりわけ認知が、熟慮の基盤をなし、ひいては意識を必要とするシステム2のもとでしか作用しないように思えてしまうのは致命的であるように思える。

 

ということで、次の最終章「終話 そして「わたし」とは何か?」に参りましょう。ただしまとめ的なこの章では、「個体」とは何かについて考察する次の箇所を引用するに留める。≪中枢神経系、すなわち「脳情報」が他に類を見ないほど発達したヒトにおいては、この「脳情報」による『個体』が肥大しており、ヒトの単位も実質的にはこの『個体』で定義されているように思われる。生物学的に個体を定義することには種々の難しさがあったが、一つの中枢神経系に対して『個体』を割り振れば、それははっきりしている。そして、そういったヒトにおける肥大した『個体』の意識が、他の生物の単位に対しても個体を求めてしまうことにつながっているのではないかと思えるのだ。ある種の擬人化である。¶しかし、この世界に存在する様々な生物の大部分には、そのような『個体』が実際には存在していない可能性が高い。つまり人が求めるような、はっきりと固有である個体という概念が、高等動物を除く他の多くの生物では元来成立しないのではないだろうか。(…)デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉を残したが、結局ヒトにとって、私が固有の個体で、あなたと違い「わたし」であるのは、固有の脳情報を持っているからである。その形而上の世界でのみ、固有の『個体』そして「わたし」が存在できるのだ(210〜2頁)≫。これが、「溶けていく「個体」の境界線」という副題を持つこの新書本の究極の主題であることはあえて言うまでもないでしょう。ということで、本書は、従来の「個体(個人、わたし)」の概念を揺さぶる、なかなかおもろいサイエンス本なので、強く推薦できる。

 

 

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※2026年3月28日