◎ジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元』
本書はThe Four Realms of Existence: A New Theory of Being Human(The Belknap Press of Harvard University Press, 2023)の全訳である。著者のジョセフ・ルドゥーは、神経科学、心理学、精神医学、発達心理学を専攻する神経科学者でニューヨーク大学教授を務めている。既存の邦訳には、『エモーショナル・ブレイン――情動の脳科学』(松本元,川村光毅,小幡邦彦,石塚典生,湯浅茂樹訳、東京大学出版会、2003年)、『シナプスが人格をつくる――脳細胞から自己の総体へ』(谷垣暁美訳、みすず書房、2004年)、『情動と理性のディープ・ヒストリー ――意識の誕生と進化40億年史』(駒井章治訳、化学同人、2023年)がある。ルドゥーは一般には情動研究でよく知られているが、その主張に関しては最近立場を変えている、というより彼の情動の見方に関しておもにメディアが流布した、「扁桃体は怖れの{中枢/フィアセンター}である」などといった短絡的な誤解を訂正しているので注意されたい。本書では、二九一〜五ページのシャドーがかかった補足説明を除けば、情動にはほとんど言及されていないのでここでつけ加えておくと、現在のルドゥーの見方の大きな特徴は、情動には認知的なプロセスが関与していると見なす点にあり、それについてはとりわけ前著の『情動と理性のディープ・ヒストリー』の終盤で詳しく論じられている。なおこの見方は、本書でも何度か名前が言及され、情動の形成に「概念」が重要な役割を果たしていると見なす、『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(紀伊國屋書店、2019年)の著者リサ・フェルドマン・バレットも共有している。
次に全体的な概要を説明しよう。前著の『情動と理性のディープ・ヒストリー』には、前半と後半が別の本であるかのような、不統一な印象を受けたが、最新刊の『存在の四次元』は、五部、二六の断章から成るにもかかわらず構成が単純かつ明瞭なため、非常にまとまっているという印象がある。
第T部は、本書における問題提起の部分と見なすことができ、従来的な「自己」(「2 自己を疑う」)や「人格」(「3 人格」)などの哲学的、心理学的な概念がきわめてあいまいで人間の本質がうまく捉えられていないと主張する。たとえば「自己」に関して次のように述べられている。「物質的な世界の自然な実体として自己を客観化し、自己と意識を融合したものとしてとらえる一七世紀の西洋哲学の見方は、今日でも存続している。だから私たちは、個人としての人間の本質を自己という用語でとらえているのだ。また自己を、さまざまな性質を持つ実体としてとらえ、この実体に基づいて思考や行動を説明しようとする。さらには自己という概念が哲学、心理学、精神医学、神経科学、生物学などのさまざまな分野で大規模に、そして盛んに研究されている理由もそこにある(19頁)」。そのように論じたうえで、著者は人間の本質を理解するためのまったく新たな概念が必要とされているとして次のように主張する(「5 四つの存在次元」)。「私の考えでは、人間の本質に関する最善の理解は、哲学的な推論の高みから得られるのでも、また自己や人格のような高次の概念を対象とする、ボトムアップの実証科学的な観点から得られるのでもない。私たちがとるべき道は、人間という生物の理解を目指すことだ(四五ページ)」。この新たな概念とは、タイトルにもあるように、生物的次元、神経生物的次元、認知的次元、意識的次元という四つの次元から構成される「存在の四次元」なのである。
それ以後の四つの部では、これら四つの次元のおのおのが順次詳細に検討されている。次にそれら四つの存在次元の概略を述べておこう。
第U部では「生物的次元」が取り上げられている。生物的次元とは、「もっとも単純な微生物からもっとも複雑な植物や動物に至るまで、あらゆる生命形態に見出される(56頁)」存在次元(「6 生命の秘密」)であり、身体(「7 身体」)がその中心を占める。なお「8 生物的存在の二重性」で検討される、古生物学者で比較解剖学者でもあったアルフレッド・ローマーの内的な「内臓的動物」と外的な「体壁的動物」の区別は、第V部で取り上げられる「神経生物的次元」への橋渡し的な役割を果たしている。
第V部で論じられている「神経生物的次元」は、神経系を備えた生物、すなわち動物が対象になる。神経系でもとりわけ重要になるのは脳で、脊椎動物における後脳、中脳、前脳から成る脳の構成は、第V部のみならず、「第W部 認知的次元」と「第X部 意識的次元」でも不可欠な知見になる。本文の訳注にも加えておいたが、「10 脊椎動物とその神経系」の「哺乳類の大脳半球のおもな領域」という節に記述されている脳領域の分類(108〜9頁)は、後の章でも非常に重要になるので適宜参照されたい。ここで注意すべき点の一つは、この分類によれば前頭前皮質(PFC)が新皮質と中間皮質の両方にまたがっており、そのためにのちの部で、「中間皮質PFC」などといった、両者を区別するための、一般にはあまり耳にしない脳領域名が見受けられることである。また第V部では第U部で導入されたローマーの「内臓的動物」と「体壁的動物」の区別に基づき、前者の側面に関して「12 内臓学」、後者の側面に関して「13 行動」で詳しく論じられている。なおその際留意すべきは、「11 ローマーによる再構成」の図11・1にあるように、著者は従来的な見方とは異なり、ローマーの考えに基づいて、内臓的動物と体壁的動物の区別を中枢神経系と末梢神経系の区別より上位に置いている点である。これはおそらく、生物的次元から主要な移行を経て神経生物的次元が進化したと考える著者は、前者の区別が先にあってその後に後者の区別が出現したと考えているからであろう。
第W部では認知的次元が取り上げられている。著者の認知に関する見方の革新的な側面についてはあとで取り上げるので、ここでは簡単に全体的な概要を述べるに留める。著者はまず、ダーウィン以後の認知研究の歴史的な流れを概観する(「14 外界の内化」)。次に認知の定義を明確化し、認知におけるワーキングメモリーの重要性を強調する(「15 認知とは何か?」)。ただし著者の言うワーキングメモリーとは、同時には七項目程度しか保持できない記憶メカニズムなどといったよくある見方とは異なり、かなり複雑な、認知の一般的なメカニズム(具体的な定義は165頁を参照されたい)を想定していることに留意されたい。そしてこのワーキングモデルに依拠するメンタルモデル(「16 メンタルモデル」)に基づいて作動するモデルベースの認知(「17 モデルベースの認知の進化」)について論じられる。さらには階層的な関係推論、再帰的思考、{心的時間旅行/メンタルタイムトラベル}、未来のシミュレーションなどの、言語を獲得した人類が持つ認知能力の特徴が検討され(「18 心の採餌」)、最後に認知的な脳の構成、つまり脳生理学的な基盤がかなり詳細に論じられる(「19 認知的な脳」)。
最後の第X部では意識について検討されている。まず著者は、デイヴィッド・チャーマーズの有名な「ハードプロブレム」など、意識に関する哲学的、心理学的な概念を取り上げ(「20 意識は謎なのか?」)、次に科学者が提起するさまざまな意識の理論について検討する(「21 意識の種類」)。それには大きく分けて、「一次理論(FOT)」「高次理論(HOT)」「グローバルワークスペース理論」の三種類があるが、著者はそのなかでも「高次理論」を支持しており、その理由が述べられている。さらに著者は、意識における記憶の重要性について論じ、「意識の階層的マルチステート高次理論」と著者自身が名づける独自の意識の理論を提唱する(「22 意識を意味あるものにする」)。ちなみに認知や意識における記憶の関与の重要性は、本書の主要なテーマの一つをなす。そして記憶に関して細かく検討し、その種類に基づいて「世界に関する意味的な事実や概念に基づく心的内容(270頁)」を持つ、意味記憶に依拠する「{認識的/ノエティック}意識」と、「自己認識に関する個人的な知識に結びつく(270頁)」、エピソード記憶に依拠する「{自己認識的/オートノエティック}意識」に分ける、エストニア出身の心理学者、認知神経科学者エンデル・タルヴィングの見解を紹介し、その神経科学的基盤を解説する(「23 事実認識と自己認識」)。しかし著者はさらに踏み込んで、タルヴィングが提唱したにもかかわらず本人自身は重要視していなかったと見られる、潜在的な手続き記憶に基づく意識の状態である「アノエティック意識」に着目し、この辺縁的なアノエティック意識によって、顕在的な意識の状態であるノエティック意識やオートノエティック意識に「しっくりしている」という感覚が与えられると主張する(「24 非認識的意識」)。その点は次のような主張に如実に反映されている。「エトムント・フッサールやジャン=ポール・サルトルらの現象学者たちは、前反省的な状態によって反省的な自己認識が可能になると主張した。フッサールやサルトルの考えをもとに、ショーン・ギャラガー[アメリカの哲学者]やダン・ザハヴィ[デンマークの哲学者]は、前反省的な状態が存在しなければ、反省的な意識と呼べるようなものは存在しなくなるだろうと述べている。アノエシスが一種の前反省的な状態であるとするなら、ギャラガーやザハヴィの考えは、「アノエティック意識が存在しなければ、ノエティック意識やオートノエティック意識と呼べるようなものは存在しなくなるだろう」と言い換えられるはずだ(285頁)」。それから著者は動物の意識について論じ(「25 動物の意識とは、どのようなものでありうるか」)、最後に、意識における{物語/ナラティブ}の重要性に言及したうえで、ここまでに提起されてきた意識の見方を、著者が提起する意識の階層的マルチステート高次理論を適用しつつ総括する(「26 自分自身や他者について語るストーリー」)。
ここまでは本書の内容の概要説明だが、ここから先の内容は著者が明示的に述べているわけではなく、訳者個人の見解なのでその点に留意して読まれたい。本書には、洞察に満ちた考えが全編にわたって散りばめられているが、ここでは「認知は意識なくしても作用する」「直観は認知作用の一つでもある」という認知的次元に関する二つの主張に絞って検討したい。
まず、「二重システムを三重システムに改変する(169頁)」で提起されている、システム1、システム2、システム3から成る三重システムを参照されたい。この分類には注目すべき点が二つある。一つは認知に関して、システム2に分類される「認知的で非意識的な行動制御(認知的次元)」とシステム3に分類される「認知的で意識的な行動制御(意識的次元)」が区別されている点と、もう一つは「直観」がシステム1に分類される「非認知的で非意識的な行動制御(神経生物的次元)」と、(非意識的な直観として)システム2の両方に含まれている点である。これは従来の直観、認知、意識の概念とは大幅に異なる。たとえば従来の考え方を代表するダニエル・カーネマンによる二重システム理論は、「意志的な努力を必要とせず、無意識裏に自動的に生じる(167頁)」直観(システム1)と、「意志的な努力を要し、より緩慢で意識的(167頁)」な熟慮(システム2)という、無意識的か意識的かに基づく二つの区別しか設けていない。そのように考えた場合には、認知は意識的なシステム2に分類し、直観は無意識裏に生じる非合理な原初的能力であると見なさざるを得ない。ルドゥーの三重システム理論は、そのような見方が持つ問題に真っ向から切り込む(ただし直観が無意識的に作用すると考える点に関しては同じだが)。
実のところ昨今の脳科学や認知科学においては、このようなカーネマン流の見方に異議が唱えられるようになりつつある。その代表例の一つとして、ここでは認知科学者のヒューゴ・メルシエとダン・スペルベルの共著The Enigma of Reason (Harvard University Press, 2017)を取り上げよう。この本では、「Introduction」にいきなり、次のような記述が見られる。「思考に関する最近の見方の多く(たとえばダニエル・カーネマンのよく知られた『ファスト&スロー――あなたの意思はどのように決まるか?』)では、直観(intuition)と合理的思考(reasoning)が、あたかも互いにまったく異なる形態の推論能力であるかのごとく、対立し合うものとして論じられている。われわれは、それとは異なり、合理的思考はそれ自体、一種の直観的な推論であると主張したい(同書7頁)」。つまり二人は、ルドゥーの言葉を借りて言えば、直観と合理的思考はともに認知的次元以上の次元に属すと考えていると見なすことができよう。
それに対して熟慮のみを重視して直観を軽視するという見方には大きな落とし穴がある。その一つは、そのような見方のせいで、一見すると熟慮の結果であるように見えるものの、「事実」「論理」そして「直観」による裏づけのない信念やイデオロギーや陰謀論が、世論として世の中を覆ってしまうことである。メディア研究者の佐藤卓己氏は、合理的な意見が重視される{輿論/よろん}と「空気を読む」に等しい{世論/せろん}を区別すべきだと主張しているが、まさに根拠に乏しい世論が、信念、イデオロギー、陰謀論などの形態で世の中に蔓延しており、昨今その状況がさらに深刻化していることは読者の誰もが知るところだろう。
このような世論の問題を考察する際に役立つ認知科学の本がある。それは、前述したThe Enigma of Reasonで提起されている考えに基づいて書かれたヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない――嘘と信用の認知科学』(青土社、2021年)で、そこには次のようにある。「個人的な関与の少ない反省的信念に関しては、開かれた警戒メカニズムの出番はそれほどないと考えるべきだろう。(…)私の考えでは、デマのほとんどは、反省的な信念としてのみ保持される。なぜなら、直観的な信念として保持されれば、個人的な影響がはるかに大きくなるからだ(同書202頁)」。引用文中の「開かれた警戒メカニズム」とはメルシエ氏独自の概念で、「「伝達された情報に対して警戒するのと少なくとも同程度にオープンに外界に接する(同書56頁)」ことを可能にする、進化によって人類が獲得した能力を指し、この能力のおかげで、人間は生存や生活を脅かす事象を避けつつ、なおかつ新たなものごとに挑戦できる。この引用ではデマのみが対象になっているが、原理主義などの宗教的信念やイデオロギーなどにも同じことが当てはまるだろう。つまり「開かれた警戒メカニズム」という無意識的に作用する認知的なチェックが作用していないと、人は根拠に乏しい言説を信じ込んでしまうのだ。裏を返せば、認知作用の一つである熟慮は、同様に認知作用の一つである直観に補完されてこそ威力を発揮するのである。明らかにこれは、ルドゥーの三重システム理論にも整合する。
さてここまでは最近の脳科学、認知科学の知見をもとにルドゥーの三重システム理論のメリットについて考えてきた。しかし実はその意義は、すでにはるか昔の哲学者が考えていたことに、吉田量彦著『スピノザ――人間の自由の哲学』(講談社現代新書、2022年)を読んでいて気づかされた。吉田氏によれば、スピノザは知のあり方を「想像の知」「理性の知」「直感の知」の三つに分け※、後二者を前一者に対置していたらしい。それら三つの知は、『エチカ』の第二部定理四一によれば、「最初の「想像の知」が十全でない観念を含んだ知であり「誤りの唯一の原因」とされます。これに対し残りの二つ、理性の知と直観の知は、十全な観念のみで成り立っていて「必然的に正しい」と言われます(同書329〜30頁)」。「想像の知」が「誤りの唯一の原因」とされている点に注目されたい。
では、「想像の知」に対して「理性の知」と協同しつつ対抗する「直感の知」とは何か? それについて次のようにある。スピノザによれば「余計な手続きを必要としない、(…)直ちに観取できる知こそ、直観の知だというのです(同書331〜2頁)」。これだけでは同語反復のようにも聞こえるので、さらに引用すると次のようにある。「わたしたちは現実世界で出会うありとあらゆるものごとを、その具体的な細部に関する理性的吟味を一切すっ飛ばし、先ほどの根本原理[「あらゆるものは神のうちにあり、神を通して考えられる」とする原理]に直接照らして、神の何らかの様態、いわばXモードの神として、わたしたちの精神のうちに「直ちに」位置づけることができます。これこそスピノザが直観の知と呼ぶものに他ならない、とわたしは解釈しています(同書333頁)」。「神」という科学の範疇から大幅に逸脱する言葉が登場するが、個人的にはメルシエ&スペルベルの見方を適用して「進化によって人間が獲得し、遺伝子を介して受け継がれてきた形質(ここで言う進化には遺伝的進化と文化的進化の両方が含まれる)」と読み替えればよいと思う。このように考えてみると、メルシエの言う「反省的信念」は、スピノザの言う「想像の知」に近いと見なすことができる。そして前述のとおり、スピノザはこの「想像の知」こそが「誤りの唯一の原因」だと見なしている。
現在の世論の根本的な病理は、まさにこのスピノザの言う「想像の知」、またメルシエの言う「反省的信念」に絡み取られたテレビ番組のコメンテーターやネットのインフルエンサーたちが幅を利かせていることにも如実に見て取れる。もっと一般的な言い方をすれば、問題含みの「想像の知」にすぎないものが「理性の知」と取り違えられているということだ。さらに言えば本人にとってさえそのような欺瞞を見通しにくくしている原因の一つとして、「認知は意識的にしか働かず、したがって無意識的に生じる直観は認知的ではあり得ない」という誤った観念が世の中に広く流布しているからだと考えられる。ここまで述べてきたルドゥー、メルシエ&スペルベル、スピノザの見方を総合すると、現代の世論の病理を次のように読み解くことができる。直観は認知的ではあり得ないと見なされ、「理性の知」を強力に支援する「直観の知」が軽視されているために「理性の知」が骨抜きになる。そしてその代わりに「想像の知」、すなわち「開かれた警戒メカニズム」のチェックを受けない「反省的信念」が徐々に優勢になる。その結果、自分では直観的に信じていないことを口走ったりSNSで発信したり自分の「想像の知」に合致する言説を安易に信じ込んだりするのだ。本書で提起されている三重システム理論は、そのような欺瞞を明らかにし、根本から断ち切るための科学的な一助になりうると個人的には考えている。
※吉田氏は『スピノザ』で「直観」ではなく「直感」と記しているが、本書では、「直観」は認知的次元に属する歴然たる能力を指して、また、「直感」はたとえば「虫の知らせ」のようなあいまいな素朴心理学的見方に言及して用いている。
ポピュラーサイエンス書の翻訳者という職業柄、脳科学や認知科学に関連する、英米のめぼしい新刊はできるだけ読むようにしているが、そのなかでも本書は確実にベストの内容を持つと言える。ここでは認知的次元に関する主張のみを取り上げたが、他の次元に関しても啓発的な考えをあちこちに見出すことができる。まさに絶対的に推薦できる脳科学書だと自信を持って言える。
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