◎エムラン・メイヤー著『腸と脳』

 

 

本書は、The Mind-Gut Connection: How the Hidden Conversation Within Our Bodies Impacts Our Mood, Our Choices, and Our Overall HealthHarperWave, 2016)の全訳である。著者のエムラン・メイヤーはドイツで教育を受けたドイツ出身の胃腸病学者で、現在はアメリカにわたってカリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授を務めている。また、数々の症例が紹介されていることからもわかるように、単に学問の世界で活躍しているだけではなく、胃腸病や腸内微生物に関する独自の知識を生かして、臨床活動も行なっている。なお著者のホームページ(http://emeranmayer.com/)によれば、本書は、刊行予定を含め一四か国語(英語を除く)に訳されており、世界各国で広く読まれている。

 

本書はタイトルが示すとおり、腸および腸内微生物と脳、心、情動の相互作用(以下脳腸相関と呼ぶ)についてわかりやすく解説する。腸内微生物の集合は(腸内)マイクロバイオータとも呼ばれる。また、遺伝的な観点から見た場合は、マイクロバイオームと呼ばれる。マイクロバイオータに関しては、マーティン・J・ブレイザー著『失われてゆく、我々の内なる細菌』(山本太郎訳、みすず書房、二〇一五年)を皮切りに、本書と同じく紀伊國屋書店出版部から刊行されている『マイクロバイオームの世界――あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち』(斉藤隆央訳、二〇一六年)を含め、関連書籍が続々と出版され、一つのトレンドとして取り上げられるようになった。そのような状況にあって、さらなる一冊を世に問うなら、そこには当然独自性が求められる。その点に関して言えば、本書の際立った特徴は、マイクロバイオータと脳、心、情動の関係に大きな比重が置かれている点にある。そのため、過敏性腸症候群(IBS)、うつ病、不安障害、自閉症、さらにはパーキンソン病をはじめとする神経変性疾患などの脳や心の病気に、腸やマイクロバイオータの異常が関連しうることが詳述されており、そこに心身の疾病に対する新たな視点を読み取ることができる。また著者は医療にも従事しているので、担当する患者の症例が、具体的かつ豊富に取り上げられており、それに参照しながら理論的な側面が解説されているので非常にわかりやすい。

 

次に全体の構成をざっと見ておこう。本書は大きくわけて三部から構成される。第1部では、脳と腸と腸内微生物が、一種のスーパーコンピューターとして情報ネットワークを構成していることを論じ、それに関する生理学的な基礎が解説される。第1章は「はじめに」に相当する章で、本書のおおまかな見取り図を描く。第2章では脳(心)が腸に影響を及ぼすトップダウンの作用が、第3章では腸から脳へのボトムアップの影響が論じられる。第4章は、脳と腸のコミュニケーションにおける腸内微生物(マイクロバイオータ)の役割を解説する。第2部では、脳腸相関の働きによって何がもたらされ、この働きが阻害されるといかなる影響が現れるのかが詳細に解説される。第5章は、幼少期に健全な脳腸相関を築けるか否かが、生涯にわたる心身の健康の維持に多大な影響を及ぼすことを示す。第6章は、脳腸相関の観点から、人間の情動や行動をいかに理解できるかを論じる。第7章は、脳腸相関が情動や行動のみならず判断にも影響を及ぼすことを示す。第3部では、第2部までの知見の実践的な応用が紹介される。第8章は、食べ物によって脳腸相関がいかなる影響を受けるかを論じる。第9章は、アメリカで典型的に見られる、動物性食物を大量に消費し、植物性食物の摂取が少ない食習慣が、脳腸相関に及ぼす悪影響を論じる。第10章では、前章までの議論に基づきながら、健康な生活を送るための食習慣について、具体的かつ実践的なアドバイスが提示される。

 

ここで本書を読むにあたって誤解が生じないよう、いくつか用語の明確化をしておこう。まず原題にも含まれる「gut」に関してだが、科学論文ではなく一般読者を対象としているためか、この意味範囲の広い一般用語が本文内でも頻出し、翻訳上実に悩ましい問題を引き起こしている(この問題は、マイクロバイオーム系の本の翻訳者がよく指摘するところである)。というのも「gut」という用語は、@腸、A胃腸、B消化管、C消化系、D内臓全体とさまざまな粒度で解釈できるが、日本語にはそのような伸縮自在の用語が存在しないからである。それに関して著者に相談したところ、おおむね腸内微生物が関与するケースでは@、それ以外のケースではBCDととらえればよいという返答が戻ってきた。ただし、日本語の既存の用語を考慮すると、この指針を厳密に適用することはむずかしい場合も多々あり、文脈に基づいて訳者が判断した箇所も多い(いずれにせよ、指針に正確に従ってもBCDの区別は文脈で判断する他ない)。そのため厳密さを欠くケースもあろうが、腸、消化管、内臓という訳語に対応するのは、一部を除けば(まれに「intestine(腸)」などの用語も使われている)ほぼすべて「gut」であると理解されたい。

 

次は情動(emotion)と感情(feeling)だが、これら二つの用語は、著者によって必ずしも意味が一致しない。それでも、たとえば最近読んだ情動研究者の本に「われわれは、身体内の機能状態としての情動(emotion)と、情動の意識的経験(一般に「感情(feeling)」と呼ばれる)を区別することが肝要だと考えている」とあるように、情動を内的機能、感情をそれに対する意識的気づきとしてとらえている場合が多い。訳者は、大手出版社から刊行されている脳や心や情動をテーマとする原書はできる限り読むよう心掛けているが、この定義が一般的な「emotion」と「feeling」の区分だという印象を持っている。本書でも、その意味でとらえてよいだろう。ただし単なる「感情(feeling)」ではなく、「情動的感情(emotional feeling)」と表現されている箇所もある。

 

最後に「内臓刺激(gut sensation)」「内臓反応(gut reaction)」「内臓感覚(gut feeling)」について説明しておこう。この三つ組の概念を正しく理解することは、本書全体の理解にとって非常に重要である。まず「gut」を「内臓」と訳した理由から説明しよう。この場合、「内臓」とは図1(X頁)にあるようにおもに腸を指す。「内臓」と訳したのは、「腸感覚」とするより「内臓感覚」とするほうが、日本語では一般的であり、直感的にとらえやすいと考えたからである。「内臓刺激」と「内臓反応」は、それに合わせた。次により重要な点を指摘しておこう。「gut sensation」の「sensation」は、単に「感覚」「気持ち」「感じ」などと訳されることも多いが、本書では脳に到達する以前の感覚入力を指す(図1参照)。「感覚」は一般に、感覚入力が意識にとらえられ気づかれた状態をいうのに対し、「gut sensation」は「脳によって処理されたあとで、感覚としてとらえられる可能性のある内臓由来の刺激」、つまり「感覚として顕現しうる素材」を意味する。よって「内臓刺激」と訳した。脳によって処理された後の気づかれた状態という意味には、「内臓感覚(gut feeling)」が対応する。最後に「内臓反応」だが、これは腸自体の反応ではなく、内臓刺激を受けて引き起こされる、腸に対する脳の反応を指す(図1参照)。なお、この反応が「内臓感覚」として気づかれるか否かは問わない。以上、かなり細かな区分ではあるが、このような意味の違いに留意して読めば、本書をよりよく理解できるだろう。

 

さて、前述のとおり腸の健康、マイクロバイオームなどのトピックは、ここ二、三年でポピュラーサイエンス書(さらには自己啓発書に近い本)でもトレンディな扱いを受けるようになってきた。なにしろ、ぐにゃぐにゃした腸や、目には見えない微生物(細菌)が主人公なので、たとえばAIや脳などのトピックと比べると、華々しさに欠ける、あるいは嫌悪を催すという印象さえ受けるかもしれない。しかし、その華々しさに欠け嫌悪さえ催させる腸や腸内微生物が、身体どころか心の健康にさえ大きな影響を及ぼしていることがわかってきたのである。マイクロバイオームに関連して最近よく言われることに、医学や医療は、単に人間や哺乳類の持つ遺伝子のみならず、腸をはじめ、身体の内部や表面の組織に宿るマイクロバイオータが持つ遺伝子も考慮に入れるべきだという主張がある。ちなみに、人間自身が持つ遺伝子の数はおよそ二万二〇〇〇だが、この数は人体の内部や表面に存在する遺伝子総数の一パーセントにすぎず、残りの九九パーセントはマイクロバイオータが保有する。このように健康の維持には、マイクロバイオータと、その遺伝子の役割が重要であることが認識され始めた今日、マイクロバイオータ(マイクロバイオーム)と、脳や心や情動の相互作用の重要性を強調する本書は、今後の医学や、健康増進に関する日常的実践に関して一つの方向性を示す格好の書であると言えよう。

 

もう一点指摘しておくと、本書では科学的な事実だけでなく、とりわけ第3部で、生活に密着した実践的な指針が紹介されている。もちろんアメリカで刊行されたこともあり、本書の現状分析はおもにアメリカを対象としている。したがって、先進国のなかでも肥満率がもっとも低い国の一つとされ、伝統的に魚食中心の食文化を維持してきた日本には、当てはまらない部分もある。しかし「日本語の読者へのあとがき」でも指摘されているように、現在では日本でも状況はアメリカに近づきつつあり、予防という観点からも著者の提起する指針に耳を傾ける必要がある。このように、心身の健康を腸とマイクロバイオータという観点から解説する本書は、まさに今こそ読むべき本と言えよう。

 

 

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