◎中井遼著『ナショナリズムと政治意識』(光文社新書)
実は光文社新書というのは、今まで図書館で借りたことはあっても買ったことはなかった。最近ようやくこの本と『ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか?』を買ってみた。なんか光文社というとカッパ・ブックスを思い出して、その種の俗っぽい本が多いのだろうと思っていたから買っていなかったんだけど(実はカッパ・ブックスなら、随分昔に栗本慎一郎氏のサルのパンツがどうのこうのとかいう本など、何冊か買った覚えがある)、『ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか?』を読んで、と〜しろ〜の私めにはむずかしくて頭がピーマンになってしまった(でも最後まで読んだべ、偉い!)。それとは対照的に、『ナショナリズムと政治意識』は難解ではなく、非常に読みやすい。内容的には、自分の考えに近い部分もあったし、そうでない部分もあった。とりわけ「排外主義」に関しては、少なからず違和感を覚えた。というのも「排外主義」と言う場合の「外」がいったい何を指しているのかがあいまいな気がしたから。その点を明確にしない限り、誰も彼もが排外主義者に見えてきてしまうのですね。いずれにせよ、その点についてはあとでゆっくりと述べる。また「ナショナリズムと政治意識」と銘打つからには、ナショナリズムに関する大手メディアの言説の問題も取り上げられているかと思っていたのに、それに関してはほぼ何の記述もなく、その点は非常に残念だった。それについては最後にもう一度触れる。ナショナリズムに関しては、『国際法』『権力について』『ハイデガーの哲学』『帝国と宗教』『グローバリゼーション』『新興国は世界を変えるか』などの本を取り上げたときに何度も自分の考えを述べてきた。よってナショナリズムに関してこれまで述べてきたことのまとめという意味でも、この本を取り上げることにした。
この本をわざわざ買ったのはもちろん、タイトルに私めが関心のある「ナショナリズム」という言葉が含まれていたこともあるとはいえ、お隣のぷち紀伊國屋さんで見つけて、「はじめに」の冒頭の記述を読むと、「お! これは私めが疑問に思っていたことそのものじゃ! これは買わにゃそんそん」と思ったからなのですね。その冒頭の言葉とは次のようなもの。「21世紀、冷戦が終わり、国際化・グローバル化が進み、ヨーロッパではEUという地域統合プロジェクトがますます深化拡大する中で、世界の政治は、外国人排斥や反グローバリズム、そして時には戦争という、しばしば「ナショナリズム」と結びつけられ形容される現象に染められています。そしてこのような政治の動きに対して、「保守化」「右傾化」といった表現がされることがあります。これは適切なのでしょうか?(3頁)」。大手メディアはたいがい、「ナショナリズム=悪」という言説を吹聴している。これは朝日や毎日などの明らかな左派メディアに限らず、他のトピックに関しては右派と見られている産経ですら、ナショナリズム的な動きを「極右」とレッテル貼りして悪の権化のように見なしていることがある。たとえば最近の欧州議会選挙の結果に関する記事に「極右の伸長」を表すようなタイトルがつけられている。ほんとうに彼らは極右なのかね? この点に関しては、排外主義について扱った箇所でもう少し詳細に述べる。いずれにせよ大手メディアや一部の自称知識人が吹聴している「ナショナリズム=悪」という図式は、歪んだイデオロギーの産物だと個人的には考えている。なおその点に関しては、上に列挙した本を取り上げたときにさんざん述べてきたことなので、ここでは繰り返さない。ただし最初にそう思った理由は、「ナショナリズム=悪」だとするなら、欧米の帝国主義の軛から逃れてアジア・アフリカ諸国が独立する際にナショナリズムや民族主義が大きな役割を果たしたのだから、アジア・アフリカ諸国の独立も悪だったと言いたいのかね?と疑問に思ったことだったという点だけ述べておく。新書本の著者も、まず基本的に「ナショナリズム=悪」という図式に疑問符を突きつけていたので、今まで買ったことのない光文社新書であるにもかかわらず、思わず買ってしまったというわけ。
著者はさらに次のように述べている。「ナショナリズムを通じて政治意識の連関を考える時、ナショナリズムの反対側を考えてみることも重要な営みです。よく聞かれる一つの考え方として、ナショナリズムの反対側に、グローバリゼーションを置く見解があります。ですが、この両者は必ずしも相互排他的ではありません、国連(the United Nation)も国際主義(Internationalism)も、nation(国民/国家)を前提としています。むき出しの力の行使による現状変更を許さない平和な国際秩序は、諸国民それぞれの自己統治と主権を認めることを前提に成り立っています。ナショナリズムvsグローバリズムという対立設定は、雑な整理を提示する際には役立つかもしれませんが、実証的・歴史的にみればあまり意味のある対立軸設定とはいえないというのが、今日的な理解でしょう(5〜6頁)」。個人的には、「グローバリズム」と「国際主義」は似て非なるものであり、前者はトップダウンの見方に、後者はボトムアップの見方に基づいていると考えている。このあたりは「グローバリゼーション」をどう定義するのかによっても変わってくるので、それに関する私めの個人的な見方の詳細は前述の『グローバリゼーション』を参照されたい。だから個人的な考えでは、ナショナリズムとグローバリズムは対立するとしても、ナショナリズムと国際主義は対立するわけではなく本来粒度の異なる二つの事象であって、基本的にはナショナリズムがまず先に存在していて、そのレベルでは解決できないものごとをより粒度の高い国連などの国際レベルの組織が解決し、国家レベルにおける未来の平和や安寧を確保するものだと考えている。だから著者の言葉のなかでも、「国連(the United Nation)も国際主義(Internationalizm)も、nation(国民/国家)を前提としています」という、国民/国家をもとに国連や国際主義がボトムアップで成立していることを示唆する見解は非常に重要だと思う。
ということで本論に参りましょう。まずは「第1章 混乱する政治の左右とナショナリズム」。著者は冒頭で次のように述べ、この本の目的を説明している。「世界の政治が右傾化しているとかナショナリズムに染まっているという声がある。ドイツやフランスでは反移民を掲げる政党が台頭し、アメリカ第一主義とその反発が政治を動かし、日本でも(事実か否かはさておき)社会の保守化や右傾化を懸念する声がある。イギリスは一国主義の立場からEUを脱退し、ハンガリーは自国の伝統とナショナリズムを主張しながら独裁化を進め民主主義を侵食し、ロシア連邦がむき出しの力でウクライナに侵攻している。¶しかし、こういった現象を、単に右傾化・保守化・権威主義化という言葉でまとめていいのだろうか。そういった雑な言葉の使い方をしている限り、理解できない現象が世界にはたくさんある。デンマークでは2019年に「左派」の社会民主党が反移民の主張を掲げて、政権を奪取した。フランスでは、高学歴で若く多様な性志向の権利を擁護する「リベラルな」人たちが、ナショナリストの国民連合(旧:国民戦線)を支持しはじめている。韓国では左派政権にこそ対日強硬論を唱える人が多く、ソ連圧政下でリトアニアの民主化を求めた勢力は熱烈なナショナリストたちだった。¶なぜこのようなことを聞いて私たちは混乱するのか。おそらく二つの理由がある。左右という意味が曖昧であることと、ナショナリズムという現象が多様な顔を持つからである(そして一部は民主主義の問題とも関わる)。この本では、政治の「左右」とナショナリズムという二つの概念の相互の結びつきや、単純ではない関係について、整理することを目指す(18〜9頁)」。個人的な見解を述べると、「このようなことを聞いて私たちは混乱する」第一の理由は、混乱させるような歪んだ情報を大手メディアや自称知識人が垂れ流しているからだと思う。その手のメディアはやたらに、「右傾化」「保守化」「極右」「排外主義」などといった言葉を使いたがるけど、そもそも明確な定義をしていないから、それらの言葉は自分たちが信じているイデオロギーを発露するための単なるレッテル(ラベリング)としてしか機能していない。だからこそ、著者が言うように、「整理」が必要なのですね。
そのラベリングに関して著者は次のように述べている。「政治について世論調査やデータを使った実証的研究からわかっているのは、この「左右」というラベリングがいまでも多くの人にとって最も重要な政治情報であること、投票先の選択といまなお密接な関係にあること、特に高学歴層ほどその傾向が顕著であること、過去より現代の方がその重要性を増していること、などである(20頁)」。高学歴層ほどラベリングに影響されやすいという結果が実証的研究によって出ているというのは興味深い。要するに、高学歴の人は、一般的な直観能力(直観能力とは『The Enigma of Reason』で提起されているメルシエ&スペルベル的な意味で言っているのであって、一般に考えられているような悪い意味においてではない)より、イデオロギーを基盤とする思考(『スピノザ』で取り上げられている哲学者スピノザの概念の「想像知」にあたり、想像知は「理性知」や「直観知」と対立する)に絡み取られているがゆえにさまざまなラベリングに簡単に振り回されてしまうのですね。もしかして現在では大学院を出ていないと高学歴と呼べないのかもだけど、かく言う一応大卒の私めも、便利なので「左」とか「右」とかよく言っているし、この新書本でも言及のあるわが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の邦題にはモロに「左」「右」という言葉が入っているしね(ただしタイトルは私めがつけたわけではないし、原題には「left」や「right」という言葉は含まれていないけどね)。そしてその傾向を新聞やテレビなどの大手メディアが助長している、というか利用していると言ってもいいのかもしれない。
次に「左」と「右」の一般的な理解について書かれているが、著者自身「教科書的な理解」と述べているように、特に目新しいものではないので省略する。ただ次の指摘は興味深かった。「日本でも、かつては「保守=右」「革新=左」のラベリングが通用していたが、今日の若年世代ではこれが通用しないこともわかっている。「保守」か「革新」かという次元で政党をラベリングさせると、若年世代は日本共産党を保守側に、日本維新の会を革新側に置く傾向がある。これは高齢世代から見ると驚かれるかもしれないが、冷静に考えればむしろ適切なラベリングでもある。たとえば共産党が憲法改正に反対して現状の秩序体系を維持しようとしていること、日本維新の会が大阪都構想など現状の政治行政システムの改革を訴えていることを考慮すれば、前者を保守・後者を革新とすることは何ら不思議ではないのだ(26〜7頁)」。まあ日本の左派は、左派のなかでも世界的なはずれ値であるように見えるしね。左派といえども、自国の安全保障と聞いた途端に全身がさぶいぼ化するような人々がいるのは、世界広しといえど日本くらいしかないように思える。憲法しかり。だから世界最古の憲法と揶揄される。憲法の母国の一つアメリカでさえ、現代でも修正条項という形態で憲法を部分的に改正しているわけだから(ただし確か最後に修正条項を追加したのは1990年代だったと思う)。ドイツさんなんて、戦後すでに六〇回以上修正を加えているらしい。何かにつけ「ドイツでは」という出羽の守さんたちに言いたいところだけど、この点はドイツを真似しなくてもいいのかね?
あっといかんまた例によって話が飛んでもた。新書本に戻ると、著者によれば左右の分類は、かつてはおもに経済的な軸を中心としてなされていたが(小さな政府対大きな政府がそれにあたる)、最近は社会文化的な対立軸も重要になってきたとのこと。著者はこれを経済的な左派と右派を横軸に、社会文化的な左派・リベラルと社会文化的な右派・保守とを縦軸に取ったグラフで表わしている(31頁参照)。だからたとえば、経済的には左派でも移民に関しては右派の政策を採用したデンマーク民主党は、この図では第3象限に位置する(移民の問題は左か右かより、平均的な当事者度の高まりと、それによる平均的な当事者意識の高まりに強く相関するのではないかと考えているので反移民が右派の政策と言い切るのは間違いだと思っているんだが、それについてはあとで説明する)。次にナショナリズムとは何かが説明されている。冒頭にあるアーネスト・ゲルナーやアントニー・スミスの定義はこの分野の本をよく読んでいる人には定番だとしても、あまりにも学問、学問した感があるので飛ばす。著者自身はナショナリズムについて次のように説明している。「特定の文化を共有する者たちで一つの国家が形成されるという事態あるいは時代は、ここ2世紀程度で急速に広がり、通常化した世界である。ナショナリズム(とそれを前提にする現代世界)は、人類の歴史から見ると極めて特異で新しい現象なのである(35頁)」。要するにナショナリズムが誕生するには国民国家が必要とされるということになるのでしょう。国民国家の成立をいつと見るかは人によってかなり誤差があるとしても、ウェストファリア条約(一六四八年)以後のどこかの時点であることに間違いはない。そして著者はナショナリズムをとりあえず次のように定義?している。ただし「ひとまず」と前置きがあるので、説明上の便宜としてだと思われる。「本書は厳密な学術書ではないので、ひとまず「帰属意識」「ナショナルプライド/愛国心」「排外主義」の三つをもって、ナショナリズムに由来する、あるいはナショナリズムを構成する意識として取り扱おう(36頁)」。最初の二つはよしとしても、三番目の「排外主義」は定義を明確にしない限り大きな誤解を生みかねないと個人的には思う。というより、はっきり言えば「排外主義」は、保守派に貼るレッテルとしてすでに左派メディアが使っているので、迂闊にそれを「ナショナリズム」の定義に組み込むととんでもない誤解をさらに助長する結果になると思っている。
問題は二つある。まず「排外主義」の「外」とはいったい何を指しているのかが、たいていのケースではっきりしていないこと。たとえば92頁の図表3―4に「反中感情」という項目があって、それに対応するアンケート回答者に対する質問として、「中国が好きですか嫌いですか」があげられている。そういう聞き方をされれば、私めも「嫌い」と答えると思う。でもそれは中国自体が嫌いだからというわけではなく(それどころか漢字文化圏を構築した中国という国は偉大だと考えているし、かつてIT業界にいた頃は何人かの中国人と仕事をしていたことがあったけど、ちょっと怒りっぽいなとは感じたことはあっても反感を覚えたことはなかった)、現在の中国共産党のやり口が嫌いだからなのよね。つまり単にこのような聞き方をしたのでは、その国自体に対する嫌悪なのか特定のイデオロギーに対する嫌悪なのかが区別できないということ。ちなみに「排外主義」という項目もあって、それに対応する質問は「外国人が増えると異文化の影響で日本文化が損なわれる」なのだそう。でも個人的に受けた印象としては、これは、最初から日本文化を重視する保守派に「そう思う」と答える人が多くなるよう結果的に誘導するような質問に思える。だって日本文化などどうでもいいと思っている、保守派以外の人は、外国人が増えるか増えないかは不問に付して、単に「日本文化が損なわれても構いませんか?」と尋ねただけでも「イエス」と答えるだろうからね。そのような人が「外国人が増えると異文化の影響で日本文化が損なわれる」という質問に「そう思う」と答えるはずはない。というのも、彼らにとっては守るべき日本文化など最初から存在していないんだから。
それから別の例をあげると、アメリカや日本のメディアはトランプを「排外主義」の権化みたいに扱っているけど、彼は南部国境から入って来る「不法移民」の流れを止めようとしているのであって正式な手続きを踏んでエリス島の移民局を通って(え! いつの話をしているのかって? でへ、映画の見過ぎなもので。すんましぇん)アメリカに移住してくる移民を排除しているわけではない。つまり「トランプの排外主義」の「外」とは実際には不法移民であって移民ではない。日本でもアメリカでもトランプは「移民」を排除しようとしていると大手メディアが印象操作しているが、正確には「不法移民」を排除しようとしているというのが正しい。ならば、アメリカが国として制定している法を守らない不法移民を排除することがほんとうに「排外主義」と言えるのかはよく考えてみるべきことだと思う。要するに「排外主義」と言う場合の「外」の意味を大手メディアが巧妙に操作しているという点を指摘したいわけ。この件も「排外主義」の「外」の対象があいまいであるがゆえに、そこを利用してイデオロギー的操作が行なわれていることの格好の例になる。しかも国民のためではなくトランプ叩きのためにそうしているというね。誤解されると困るのでつけ加えておくと、私めは問題の多いトランプをヨイショしているわけではない(ただそれでも、あとで述べるように国境をユルユルにしてアメリカ人の生活、つまりアメリカの中間粒度を破壊しているうえ、認知症の疑いすらあるバイデンよりはよほどマシだと思っているが)。でも、彼の唱える自国第一主義とそれに基づく不法移民対策は、中間粒度の安寧を守るという点において間違ってはいないと思っている。実際ヨーロッパでは先のデンマークやスウェーデンの左派の例を含め、「不法移民」ではなく「移民」に対してすら厳しい政策を取るようになってきているしね。移民の件で「不法移民」に厳しいトランプを批判するなら、そもそも「移民」に厳しくなった北欧諸国も批判しなければおかしい。まあ、そのような大手メディアの印象操作による一般ピープルの意識の変性も込みで、著者の立論の前提になるアンケート調査が行なわれているということなのかもしれないとしても、それならなおさら大手メディアの問題にも触れておくべきであるにもかかわらず、最後に述べるようにメディアについて本書で一言も述べられていないのにはかなり不満を感じた。
ではなぜそうなっているのかだけど、それは二つ目の問題に関係する。前述のとおり、私めは「排外主義」は「左」か「右」かよりも、平均的な当事者度の高まりと、それによる平均的な当事者意識の高まりに強く相関するのではないかと考えている。つまり平均的な当事者度の高まりとそれによる平均的な当事者意識の高まりという別の要因のほうがよほど重要なのに、それを無視して「右傾化」などというレッテル貼りをしているのではないのかと言いたい。たとえば、日本ではドイツと並んで出羽の守の多いスウェーデンをあげましょう。まずこのニューズウィーク日本版の記事を参照されたい(2021年の記事だからやや古いけどね)。スウェーデンは移民を大量に受け入れてきたけど、ある時点でそれが許容の限界に達してしまったのですね。「ここ数年、この国は犯罪の急増に頭を抱えている。スウェーデン国家犯罪防止評議会の報告書によれば、この国では過去20年で銃による殺傷事件の発生率がヨーロッパ最低レベルから最高レベルに増え、今ではイタリアや東ヨーロッパ諸国より高くなっている。¶北アフリカからの移民2世が中心メンバーのギャング団が密輸などで手広く稼ぐようにもなった」とあるように、犯罪が増えて、自分や自分の近親者や友人が犯罪に合う平均的な「当事者度」があがってしまい、スウェーデンの左派政党でさえ「当事者意識」が高まって、反移民的な政策を取らざるを得なくなったというわけ。アメリカはもっとはっきりしている。バイデンが国境をユルユルにしているせいで、聖域都市を宣言しているニューヨーク市などの大都市に不法移民が集結する事態を招いている。だから本来は移民に寛容であるはずの左派民主党のアダムス市長ですらバイデンの政策を批判するようになっている(たとえばこのロイターの動画を参照されたい)。要するに左派が支配するニューヨーク市ですら、平均的な「当事者意識」が高まれば、左か右かなどほとんど関係がなくなるということ。
確か日本でも川口市の問題で、本来は移民推進を是としている政党の議員が、反移民的な決定に賛成したとして離党を余儀なくされたとかいうニュースがあったよね(たとえばこの産経記事をこの産経記事を参照されたい。え? 産経の記事ばかりあげて、「あんたはねとうよなんか」と言われそうだけど、とりわけ左派メディアは自分たちに都合が悪いからか、ネットスラングを拝借すれば「報道しない自由」を決め込んでいるらしく、このできごとを取り上げた左派メディアの記事なんかネットでは一つも見つからなかったんだもん)。結局、その議員自身の経験ではなかったとしても、地元の支持者が外国人の行為に困り果てているのを知って党の方針とは異なる行動を取らねばならなくなったのだと思う。ここでも平均的な当事者意識の高まりによって、外野から見れば反移民的に思える政策に賛成せざるを得なくなったと考えざるを得ない。何が言いたいかというと、「排外主義は右派の行為だ」と最初から決めつけて、実際外野からは排外主義に見える意見を表明したり、そのような行動を取ったりする人々が増えていることをもって「ほら! 右傾化しているじゃん」というのは、平均的な当事者意識の高まりという、より重要な要因がある以上、無意味な同語反復に過ぎないということ。だから著者が、最初からナショナリズムの定義?に「排外主義」を加えていることに違和感を持ったわけ。もちろん著者自身、あとで説明するように排外主義と右を短絡的に結びつけることを批判しているのは確かとしても、最初にナショナリズムを構成する意識として「排外主義」を加えてしまうような書き方をしてしまうと読者は誤解しかねないと思う。繰り返すと、私めからすると、ナショナリズムの高揚より、平均的な当事者意識の高まりこそが、いわゆる「排外主義」をもたらしているように思える。平均的な当事者意識が高まっているにもかかわらず何もしようとしないのなら、左派は地元の人々の生活が荒廃することに無関心だということになるが、実際には決してそうでないことは前述のスウェーデンやアメリカや川口市の例を見てもわかる。そもそも前述したわが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』によれば左派は〈ケア〉基盤を重視しているはずで、その〈ケア〉が外国人ばかりに向けられるのは変だしね。以上の例によって、左派も当事者になれば、やっぱり移民対策は必要だと、あるいは少なくとも不法移民や移民の不法な行動は制限しなければならないと考えるようになることがわかる。そしてそれは当然の成り行きだと思う。
だから率直に言わせてもらえば、「排外主義=右派の仕業」などという間違った言説を、左派メディアのみならず産経のような右派と見られているメディアまでが垂れ流していることが大きな問題なのですね。排外主義を右派や保守のせいにしたところで何も解決しない。移民が増えた場合に「中間粒度」、すなわち人々の生活の安寧を守るにはどうすればいいかが本当の問題なのですね。著者は第1章の最後のほうで「グローバル化や国際化が進めばナショナリズムが過去のものになって消えるのではなく、グローバル化や国際化が進んでいるからこそ、ナショナリズムの争点が顕著になりつつあると考えるべきなのだ(43頁)」と述べている。これはナショナリズムが中間粒度の安寧に関係する概念だからこそなのですね。そこを考えないで「排外主義=保守派、右派」みたいな言説を垂れ流している大手メディアは害悪にしかならない。
ということで個人的な見解が長くなってしまったので次の「第2章 政治的左右とナショナリズムの多様性」に参りましょう。私めは他の本を取り上げたときに「ナショナリズムは左右を問わず他の政治的信条によって利用されやすい」と述べてきた。ここでは詳細は述べないけど、たとえば現代ではプーチンや習近平がその典型例になる。それと似たようなことを、著者は第2章の冒頭で述べている。次のようにある。「歴史的に見て、ナショナリズムを利用したのは右翼だけではなかった。長い歴史の中では、リベラル、社会主義者、フェミニスト、アナーキスト、共和主義者、世俗主義者といった様々な勢力がナショナリズムを利用してきた。歴史家のジマー曰く、「自由主義者も社会主義者も、全体としてナショナリズム理論を否認したことはなく、むしろ自らの思想世界にそれらを取り込もうとしていた」。¶日本でも戦後しばらくは、民族の統一や団結といった標語は、右派以上に左派が掲げるメッセージでもあった。なぜならそれこそが、軍国主義を打破し、日本の民主主義の社会的連帯を達成するための基盤として必要なものだと考えられたからだった(46頁)」。この指摘は重要だと思う。以後は、それを裏づけるさまざまな研究が紹介されている。とはいえまたまた長くなりつつあるので、二つだけ取り上げておきましょう。
一つは世界価値観調査によるデータを用いて、第1章であげたナショナリズムの三側面、すなわち「帰属主義」「ナショナルプライド/愛国心」「排外主義」の相関度を調査した研究で、次のような結果が出たという点。「全体として言えば、国への帰属意識の強さと、ナショナルプライドの強さは相関する傾向がある一方、反移民感情に代表される排外主義の強さは、これら両者とはほとんど相関していない(図表2−1)。自国に対して強い帰属意識を有することや、ネーションのメンバーであることへの肯定的な態度は、その外側にいると想定される人々に対する否定的な感情とは必ずしもリンクしていないということなのだろう(54〜5頁)」。この調査でも、「排外主義」に対する質問として「外国人が増えると異文化の影響で日本(というか自国の)文化が損なわれる」が使われたのだろうか? そうだとすると、先に述べた理由によって私めには意外に思える。むしろそういう質問の仕方がなされているのにこの結果が出たのなら、なおさらナショナリズムと排外主義を結びつける言説は、現実をまったく反映していないということになる。ただそれは別としても、私めにはこの結果は自明に思われる。なぜなら、「排外主義」と一般に言われている「主義」とは、実際には中間粒度の安定的な維持を第一とする人々に、つまり保守派に貼るレッテルにすぎないのであって(自国第一主義を標榜するトランプに対するメディアの扱いを考えてみればよくわかるはず)、まったく現実を反映していないから。先のデンマーク、スウェーデン、アメリカ、川口市の例に示されていたように、政治的に左であろうが右であろうが、実際に自分が当事者になれば、誰でもいわゆる「排外主義」的態度を取るようになるというのが現実。だから「帰属主義」「ナショナルプライド/愛国心」が強い人が、いわゆる「排外主義」に走るのではなく、状況が整えば、つまり当事者の立場に置かれれば、聖人以外のたいていの人が、いわゆる「排外主義」的な態度を取るよう変わらざるを得ない。
それから別の研究をもとにした、次の記述も興味深い。「東欧では、経済的に右派的な主張を展開する政党は、社会文化次元でリベラルな立場をとる傾向がある一方、経済的に左派的な政党の方が、むしろナショナリズムを含めた社会文化的な保守軸に立つ傾向が強い。これは明らかに、東欧が経験した政治的文脈が違うということに依拠する。政治的文脈が異なれば、政治意識の間の結びつきやすさは違うのだ(62〜3頁)」。まあそれはそうでしょうね。なおわが訳書ジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわ)かれるのか』には、この第2章でちょこっとだけ言及されている。ただ「わかれるのか」ではなく「分かれるのか」になっているので、光文社さんあとで訂正しておいてね。私めは仏様のように寛大だし、ハイトさんはたぶん日本語を読めないと思うけど、紀伊國屋さんはきっとキレちゃうよ! ちなみに、そこでは「ただしハイトの研究は用語法も含めてかなり特殊アメリカ的な側面が強い(66頁)」と括弧書きされている。まあそういう側面は確かにある。だって外れ値アメリカに住む教授さまなんだもん。
ということで、お次は「第3章 ナショナリズムと政治的左右の結びつき」。内容的には第2章の続きのような気がした。冒頭に次のようにある。「たしかに一般に、ナショナリズムは文化的な意味での右翼と結びつけられることがしばしばある。先述した社会文化的対立軸の議論もひとまずナショナリズムを社会文化的保守の次元に位置づけていた。伝統の重視が右の意味として多くの国で通用している現状において、既存の国民国家体制を支持する心の動きは、まさに伝統を護持するものとしてのナショナリズムとして、右と結びつきやすい面がある。¶ただ、これはいくつかの場合において自明な関係ではない。たとえば、ナショナリズムは同じメンバーを平等に扱う側面がある。身分や生まれ持った貧富の差とは関係なく、同じネーションのメンバーを対等で同じように扱う意識は、ナショナリズムの中核をなしている。ナショナリズムは平等の論理でもあって、そしてこの平等を重視する態度は、それなりに多くの国において「左」と結びつきやすい理念である。「市民間の平等を強調することで、それは左翼的イデオロギーとなる。縦の連帯と外国人の排除を強調すると、右翼的だと言えよう」との指摘もある次第だ。¶実際に、左翼政党の中には反グローバリズムの観点から反EUの主張とナショナルな主権の復活や主張を展開している政党もある(74〜5頁)」。ここまで述べてきたように「外国人の排除」の「外国人」がいかなる外国人を示唆しているのかには注意を払う必要があると言いたいことは別として、おおむね同意できる。次に各国におけるナショナリズム(国家帰属意識)と左右認識の関係に関する研究が紹介されている。この分析では、アングロサクソンの二カ国、つまりイギリスとアメリカでは、国家帰属意識と右派の自己認識が強いらしい。まあとりわけアメリカさんは、何につけても極端だしね。その結びつきがはっきりしない国もあれば、少ないながら国家帰属意識が左派の自己認識につながっているルーマニア、スロベニア、モンゴル、イタリア、台湾などの国もあるらしい。
興味深いのは、お隣の国台湾で次のようにある。「台湾にあって、ナショナリストであるということは、現状の台湾としての独立論を唱えることなのか、最終的な中国統一を目指していることなのか、理論的には一義ではない。なお公式の立場としては、統一を目指す右派の国民党がNationalist Partyを名乗っており、左派の民進党が台湾独立論を唱えている。本調査では、現況の台湾への帰属意識を問うているから、どちらかといえば民進党の立場に近い意識を聴取していることになる。その意識が強い者たちが、むしろ左派との自己認識の強い者たちであることになっている(84〜5頁)」。「最終的な中国統一」とは、中華民国(台湾)による中華人民共和国の統一って意味なのかな? そんなばかなと思われるかもだけど、蒋介石が統治していた頃はそういう考えが流通していたはず。これに関しては今読んでいる『台湾のデモクラシー』(中公新書)に次のようなちょっとおもろい話があった。「蒋介石率いる中国国民党は大陸から台湾に追われた事実上の「亡命政権」で、「南京を首都として大陸を統治する中華民国」という仮想状態の始まりとなった。台湾では古いオートバイのナンバーによく「台湾省」と書かれていて、すわ中国に統一されたかと思いきや、これは「中華民国台湾省」の名残である。中華人民共和国台湾省ではない。一九九〇年代まで台湾の学校で使用していた社会科の教科書の地図でも大陸と台湾が同じ色で塗られていたが、これも大陸を中華民国として統治しているという意味だった(同書22頁)」。習近平が顔を真っ赤にして激怒しそうな話だよね。ということで著者は第3章を次のようにまとめている。「本書の知見に際して言うならば、半分程度の国では、ナショナルな意識が強いか弱いかということと、人々の政治的な左右認識はつながらない。そういった国々で、仮にナショナリズムの高まりや、そういった政治的主張の高まりが見られたとしても、それは右傾化とはいいがたいだろう(97頁)」。
さて次の「第4章 ナショナリズムとリベラルな政治的主張」に参りましょう。そもそもリベラルという言葉自体が至ってあいまいだよね。私め自身、日本の自称リベラルの言説が左派のものとしてもあまりにもひどいので、まっとうな左派をリベラリストと呼んでいるくらいだしね。それは個人の感想なので置いておくとして、著者は第4章の目的を次のように述べている。「私たちの多くは、環境問題に肯定的であることや、異なる性志向や性自認の人々の権利に擁護的であること、多様な自由を擁護することを「リベラル」と呼称する傾向にあるだろう。そして、しばしばナショナリズムは、リベラルの対極にあるようにみなされる。しかし、本章で示したいのは、今日の世界で「リベラル」と形容されることの多い価値観もまた、時にナショナリズムと結びつくということである(101頁)」。先にデンマークやスウェーデンのような国の左派政党でさえ現在は反移民的な政策を取っていることを述べた。その北欧の国々について次のように述べられている。「低技能・低学歴の移民が、福祉の受け手になり社会全体の負担となることを嫌っているという議論がある。要するに、低スキル層の移民は納める税金は少ない一方で、失職してその国の社会保障や福祉の世話になる可能性が高いので、国家全体の財政上の負担になるから、万人から嫌われやすいという論理である。さらに、この低技能移民が嫌われる効果は、北欧のように福祉が充実している国々や、労働者の諸権利がよく守られている国ほど強い、という研究結果も出ており、人々のあいだでの助け合いという福祉の理念が、その実、同じ民族的同胞というナショナリズムの原理を前提としており、それと文化を共有しない者たちに対しては向けられていないことを示している。¶そしてこういった態度を示しているのは何も悪人や利己的な人間だからではないこともわかっている。むしろ利他的で社会全体のことを考える規範意識もある人々も(むしろそういった人々だからこそ)、移民を忌避する傾向があるとする研究結果がある。そういった意味で、第1章冒頭でも言及したデンマークの社会民主党が反移民に舵を切ったことは理論上ありえる現象だったといえる。北欧は全体的に福祉が充実しているイメージ(と事実)があるが、それを牽引してきたのは現地でながらく左派の社会民主主義政党が強力な政治的権力を持っていたからであった。デンマークの社会民主党もその例に漏れない。そんなふうに福祉を拡充して人々の平等をしてきた左派政党である「にもかかわらず」反移民なのではなく、「だからこそ」反移民政策へと舵を切ったともいえる(107〜8頁)」。これは、非常によく理解できる。出羽の守さんたちは、これをどう受け取るんだろうね。それは置いといて、二点指摘しておきたい。「そしてこういった態度を示しているのは何も悪人や利己的な人間だからではないこともわかっている」というのは当たり前田のクラッカーだと思う。つまり、北欧のようなもともと人口が多くはない国々に、大量の移民が押し寄せてくれば、先に述べた平均的な当事者度と当事者意識が高まらざるを得ない。そうなってしまえば、左も右も関係なくなることはいくつかの実例をあげて示した。それから「利他的で社会全体のことを考える」の「社会全体」という言い方は、私めなら「中間粒度」という言い方に置き換える。まさにこの中間粒度を重視するのが、右派とは言わずとも(なぜなら右派のなかでも極右は極左と同じで、現状の中間粒度を破壊してでも自分の理念を実現しようとするから)、保守派の最大の特徴なのですね。左派といえども極左でなければ、中間粒度の安寧の維持というのは、必須の目標の一つにならざるを得ない。さもなければ、そもそも国民が支持しなくなるしね。次にジェンダーやLGBTや環境問題とナショナリズムの関係が論じられているけど、これ以上詳細に引用してしまうと出版社や著者からクレームが来そうな気もするので各自で読んでみてくださいな。
で、次は「第5章 ナショナリズムと民主主義/権威主義の結びつき」。まずナショナリズムと民主主義の結びつきが、先進国のデータを用いて分析されている。その結果は次のようなものらしい。「概してほぼすべての国で、愛国心とナショナル・アイデンティティの強さは、民主主義をより重要だと考えることと関連している。日本でも台湾でもアメリカでもフランスでも、帰属意識とナショナルプライドの強さは、民主主義を重視する態度と相関していた。日本はその相関が相対的に強い国ともいえる。スイス、ドイツ、イギリスといった国では、ナショナルプライドの強さは民主的規範と相関していないけれども、国への帰属意識と民主的規範がなお相関を示している(135〜7頁)」。ちなみに民主主義をいかに評価するかに関する質問は、「民主主義の国に住まうことはあなたにとってどれほど重要か」で11段階のスコアで答えるというものらしい。けっこう、あいまいではあるよね。いずれにせよ、一般に右派(極右は除く)や保守派でも通常は民主主義を否定して、たとえばファシズムに走ったりはしないということはよくわかる。ファシズムに走るのは、中間粒度の安寧を重視する保守派のような人々ではなく、思想の左右に関係なく特定のイデオロギーに囚われて自分たちは絶対に正しいと考えている権威主義者、エリート主義者だからね。また次のようにある。「総じて言えば、ネーションへの帰属意識としてのナショナル・アイデンティティの強さと、自国に対するプライドとしての愛国心の強さは、民主主義を重要と思いそれを維持しようとする人々の意識へと、比較的に広範な国々で結びついている(139頁)」。日本では「愛国心」という言葉を聞くと、全身がさぶいぼ化する人がかなりの割合でいるけど、世界的にこの現象は珍しい。たいていの国では、左派であれ、右派であれ、国をもっとも重要な単位と見なし、その庇護のもとで民主主義を維持していこうと考えているのが普通だと思う。だからナショナリズムが民主主義を破壊することがあるとすれば、それは特殊なケースに限られる。
そこで登場するのが権威主義で、著者は「異なる文化集団を排斥するような形での、排外主義的な側面の強さは、民主主義を重要だと考える意識の弱さ、ひいては権威主義的な統治を許容する意識と結びついていると言えそうだ(139頁)」と述べて言いるように、そのおもな指標を排外主義に見て取っているように思える。そのことは、ハンガリーを例に取って次のように述べていることからもわかる。「つまり、ここでは、自分たちの思う文化体系を政治の力とあわせて維持・擁護していきたいという働きがある。ナショナリズムである。そしてまた、それは異質なるものへの排斥を明示的に目指しており、ナショナリズムのうち排外主義的な要素を有するものとなっている(144頁)」。しかし、すでに述べてきたように、排外主義という指標はむしろ左右より平均的な当事者度と強く相関するように思える。そもそも前述のとおり、著者も「国への帰属意識の強さと、ナショナルプライドの高さは相関する傾向がある一方、反移民感情に代表される排外主義の強さは、これら両者とはほとんど相関していない」と述べていた。だから排外主義を権威主義の指標にして、ナショナリズムと権威主義の結びつきをうんぬんするのは、どうなんだろうと思えてくる。ハンガリーのケースでも、「自分たちの思う文化体系を」とあるのは、むしろ「自分たちの生活を担保している中間粒度を」であるという可能性はないのだろうか? ハンガリーのことはよく知らんので何とも言えんが、もしそうだとすれば、政治信条の左右はそれほど関係がなくなると思う。端的に言えば、最初からナショナリズムを構成する意識として「排外主義」を含めていると何か論点先取の虚偽を犯しているように思えてしまう。ただし著者の場合、「ひとまず」と前置きがあったように、この想定は説明の便宜上、一般に言われていることをとりあえずあげただけなんだろうと思う。それは次のように述べられていることからもわかる。「「リベラル」という言葉を左派的含意のみで用いたり、ナショナリズムを排外主義とほぼ同義で使うような用法は、相当程度に特殊アメリカ的な用法であって、幅広い世界の政治現象を観察している立場からすると困惑することも多い(159頁)」。しかもそのアメリカでも、前述のとおり、左派メディアがトランプ叩きのために、「排外主義」の「外」の意味を印象操作しているわけだしね。左派メディアはまさにこの同語反復的ロジック、つまり「排外主義はもっぱら右派の意識を規定している」と最初から決めつけたうえで、実際外野の彼らからは排外主義に見える意見を表明したり、そのような行動を取ったりする人々が増えていることをもって「ほら! 右傾化しているじゃん」と主張するトホホなロジックを展開している。それがまやかしであることは、すでに説明したとおり。
最後の「第6章 n度目のナショナリズムの時代に」は、まとめ的な章なので省略するけど一点だけ指摘しておきたい。次のようにある。「政治イデオロギーの意味のつながりというのは、人間に共通する心理的特性のみによってもたらされているわけではない。また、同じ地域の隣国の間でも異なって出てくることがあるように、単に文化が近いとか遠いとかといった安直な要素でもたらされているわけでもない。人々の政治意識はボトムアップのみで決まるのではなく、トップダウンの影響も受ける。すなわち、そこには政治の作為がある。異なる政治の在り方が現実に対して働きかけ、異なる言説の争いを示すことで、人々は少しずつ影響を受け続けるからだ(164頁)」。トップダウンの影響は確かに大きいと思う。ただ著者は、少なくともここではそれを「政治体制や政治家→国民」という意味に限定している。でもここまでさんざん述べてきたように、「マスメディア→国民」というトップダウンの作用もきわめて大きな力を持っている。残念ながらこの新書本には、マスメディアへの言及は皆無だった。そこが私めには物足りなかった。日本でもアメリカでも、左派メディアが圧倒的に強く、この新書本に引きつけて言えば「ナショナリズム=悪」などといった、とんでもない言説が易々とまかり通っている現在のマスメディアの状況は、非常に大きな問題だと思う。だってそんな前提を立てていれば、解決するものも解決しなくなるからね。政治とは無関係だし野球には一ミリの興味がないのでよくは知らないが、最近ドジャースに出禁にされたとかいうテレビ局っていったい何をしたの? もしかして日本で厚顔無恥にやっていることをアメリカでもやらかしたの? マジで昨今のマスメディアは地に堕ちた(昔から地に堕ちていて、ネットがなかった時代は単にその事実がわからなかったという可能性もあるけどね)。そんな権威主義的な連中が、世論を操作するなどというのはもっての他だよね。だからマスメディアの影響についても触れてほしかった気がする。でもまあ著者からすれば専門外だから書きようがないことなのかもしらん。ということで、本文165頁の薄い本だし、世界が移民問題で揺れている今だからこそ読むべき本だと思う。そしてこの本を読んで、大手メディアの印象操作に乗せられないようにしましょうね。乗せられて得なことは何もないんだから。むしろ大手メディアを鵜呑みにして世論が形成されれば、中間粒度が崩壊して将来最悪の結果を招くかもしれないしね。
※2024年6月22日