◎島田裕巳著『帝国と宗教』(講談社現代新書)
「帝国」も「宗教」も、私めの好みのテーマで、しかもそれが「と」という助詞でつながっているのできっとこれはおもろい本に違いないと思って買った。ちなみに「帝国」や「帝国主義」については『軍と兵士のローマ帝国』『戦争の地政学』『グローバリゼーション』『古代オリエント全史』『人口の経済学』『戦争と平和の国際政治』『悪党たちの中華帝国』などで、これまで何度も取り上げてきたけど、「宗教」に関してはまだ取り上げる機会がほとんどなかった。まあそれは個人的な話だからいいとして、さっそく本題に入りましょう。
「はじめに」は、次のような前置きから始まっている。「現代においては、すでに過去のものとみなされていた「帝国」が新たな装いをもって台頭しているかのように思えます。¶そもそも帝国とは、皇帝を頂点として複数の国や民族を支配し、次々に領土を拡大させていく国家のことです。この帝国という観点から現代をみれば、昨今のロシアや中国の姿がオーバーラップします。自国の利益のために周辺地域を平らげ、勢力を拡大させようとする。その振る舞いは、帝国として捉えるべきかもしれません(3頁)」。個人的にはロシアも中国も「帝国」としてとらえるべきだと思っている。確かにプーチンや習近平は皇帝の称号をこれ見よがしに誇っているわけではないとしても、個人独裁という点では皇帝と何ら変わらないし、場合によってはそれより専横の度合いがひどいとすら言えるかもしれない。いずれにせよ著者によれば、「そもそも世界の歴史とは、帝国の興亡の軌跡にほかなりません(4頁)」とのこと。
次に以下のような重要な指摘があることにぜひとも注目しましょう。「帝国は国家とは異なるものです。帝国とは、まるでそれが本能であるかのように領土を広げていきます。それが帝国の本質なのです(6頁)」。「帝国」と「国家」が異なることは、日本語の「帝国」という用語に「国」という語が含まれているからわかりにくくなっているのですね(ちなみに英語では「empire」だけど、そこには「nation」や「state」などの「国」を表わす言葉は含まれていない)。だから「帝国」と「国民国家」や「ナショナリズム」を一緒くたに扱う言説が跳梁跋扈しているとも言える。「国民国家」や「ナショナリズム」は、普通は、つまり「帝国主義」に利用されない限り自国だけで充足しようとする傾向があり、最近ではトランプの自国第一主義がその典型例としてあげられる。それに対して「帝国」や「帝国主義」は、先の引用にあるように、がん細胞のように自領土を拡大しようとする。
これに関してはのちの章でも、歴史家、南川高志氏の古代ローマ研究に参照しつつ次のように述べている。「もっとも南川高志が指摘しているように、ローマの大帝国は「排他的な支配の及ぶ均一な空間」ではなく、その末端が明確に国境によって区切られているものではありませんでした。「文明という普遍的価値を持った世界帝国という歴史像は、私見によれば、近代のヨーロッパ人が作り上げたもの」だというのです(136頁)」。「末端」というのは少しわかりにくい表現なので、「辺境地帯」などと言い換えたほうがよいのでしょう。ちなみにここで参照されている南川氏の著書は『海のかなたのローマ帝国』という岩波書店から刊行されている、私めが読んだことのない選書本のようだけど、南川氏には『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書)という新書本もあって、これは非常におもしろかったのでぜひ読んでみてください。そして著者の島田氏は次のように続ける。「これについてはローマ帝国だけではなく、すべての帝国に当てはまります。世界の歴史のなかに登場した数々の帝国を、今日の領域国家と同じものととらえることはできません。領域国家には明確な国境があり自国と他国が区別されますが、帝国にはそうした国境は存在しません。末端になれば、果たして帝国の支配が及んでいるのかどうか判然としなくなっていきます(136頁)」。
では、その「帝国」と「宗教」の関係はいかに? それについては「第1章 帝国と宗教はどう結びつくのか」で、まず一般的な議論が展開されている。著者によれば、宗教には「社会秩序を維持する機能」と「社会秩序に反抗する機能」という相反的な二つの機能があるのだそう。だから著者の結論は次のようなものになる。「そうした宗教の機能は帝国との関係においても見られるもので、宗教はときに帝国を支え、その拡大に貢献する一方で、帝国が大きな矛盾を抱えるようになれば、反抗し、帝国の秩序を揺るがすのです。その意味で、帝国と宗教は経済発展と信者獲得というそれぞれの思惑を持ちながら共生し、状況によっては敵対して緊張関係に陥るといえます(34頁)」。この文章のとりわけ前半部は、「宗教」を「ナショナリズム」や「民族主義」に置き換えても成立すると思う。たとえば前述の『戦争と平和の国際政治』で、私めが「確かに、「ゲルマン民族」を理想化したナチスや、「偉大なロシア」を標榜するプーチンの例を見ればわかるように、「ナショナリズム」や「民族主義」が「帝国主義」に利用されやすいのは確かだけど、第二次大戦直後、アジアやアフリカを「帝国主義」の軛から解放する原動力になったのも「ナショナリズム」や「民族主義」であった」と書いたけど、それは「帝国」と「宗教」のあいだに見られるその種の力学が、「帝国」と「ナショナリズム」や「民族主義」のあいだでも作用していることを意味している。
さて第2章から最後の第7章までは、古代から近現代に至る「帝国」の歴史が時代順に検討されている。「第2章 なぜローマ帝国はキリスト教を国教にしたか」は、アッシリア帝国とペルシア帝国を簡単に扱ったあと、章題通りローマ帝国とキリスト教の関係が論じられている。最後の結論の部分だけ引用しておきましょう。次のようにある。「広大なローマ帝国を統合するには、宗教の力は不可欠でした。最初、ローマ帝国はその役割を皇帝崇拝に求めましたが、皇帝は次々に交代していきますし、複数の皇帝が併立する状況も続きました。それに比較して、キリスト教の神は人間界を超越し、世界を創造した存在とされたわけで、その神を信仰することで帝国をまとめ上げていく方が、はるかに安定した支配が実現されると見なされたのです。これによって、キリスト教はローマ帝国に広がり、その後も拡大を続けていく基盤を確立したと見ることができるのです(66頁)」。
続く「第3章 中華帝国は宗教によって統合されていたのか」では、古代中国の状況が取り上げられている。ちなみに中国では「帝国」ではなく「帝天下」という言葉が使われてきたとのこと。で、「天下と国を比べた場合、天下の方がはるかに広く、国はそれに比べると小さいもの(72頁)」になるのだそう。その次に記されている、中華帝国における「朝貢国」の考えは興味深い。次のようにある。「中国の場合、周辺の国の朝貢は、彼らが皇帝の徳を慕って自発的に行っているものととらえられました。だからこそ税金のように朝貢国から富を巻き上げるのではなく、膨大な返礼を行うことで、皇帝の徳の高さを示そうとしたのです(75頁)」。だから、かつての中華帝国には次のような性格があったらしい。「帝国を考える上で、朝貢国というあり方は興味深いものがあります。というのも、朝貢国は中国に対してずっと朝貢を続けるわけで、征服の対象ではないからです。征服してしまえば、朝貢は行われなくなります。そうなると、皇帝に徳があることの証明ができなくなってしまいます。¶華夷思想において皇帝と朝貢国とは対立関係にはなく、相互に依存する関係にあります。朝貢国を征服すれば、その関係は壊れます。その点で、華夷思想は帝国の無制限の拡張を妨げる側面を持っています。このことは、中華帝国を見ていく上で重要な意味を持ちます。本来、中華思想は侵略主義でも拡張主義でもないのです(75〜6頁)」。
ただ本来はそうでも、現在にも同じことが当てはまるとは思えない。というのも、現在の中国は共産主義に基づく中国共産党が独裁体制を敷いているから。むしろかつての中華思想の都合のよい部分だけを切り取って、帝国主義的な企てを強化しているような部分さえあるように思える。中国に接近しているようにしか見えない沖縄の某知事も、そのあたりをよく考えたほうがいいと思う(まあ与党にも親中は大勢いるようだけどね)。昔だったら中国の朝貢国になることにはけっこう大きなメリットがあったようだけど(著者によれば「中国の側は朝貢国から貢ぎ物があった場合、その数倍、あるいは数十倍の宝物を与え(75頁)」たとのこと)、そのメリットを、自国内でさえ他民族を抑圧している今の中国共産党に外国が期待しても無駄だろうしね。そもそも習近平にそんな「徳」があるとはとても思えない。
ところで、そのような中華帝国が重視していた宗教は儒教と仏教だったとのこと。というのも、儒教は先述の「徳」に関して重要な役割を果たしていたから。ここで「え? 仏教はいいとしても、儒教って宗教なの?」と思う人がいるかもしれない。著者も、「儒教を政治道徳として為政者が内面化し、国家の鎮護については仏教に頼る。中国では、そうした体制が築き上げられていったのです(89頁)」と述べているように、中華帝国との関係では儒教は政治道徳として機能してきたと述べている。ただそれでも儒教それ自体に関しては、「中国には、土着の宗教として道教と儒教があります(76頁)」、あるいは「道教や儒教はキリスト教やイスラム教と並んで創唱宗教[特定の人物が特定の教義を唱え、それを信じる人々がいる宗教]になります(77頁)」とあるように、宗教の範疇に入るものと見なしている。いずれにしても儒教がほんとうに宗教なのか否かについてはと〜しろ〜の私めにはよくわからん。ただし一つだけ補足しておくと中国哲学者の加地伸行氏は『儒教とは何か』(中公新書)で、儒教が元来は宗教であったと主張している。以上は中華帝国において宗教が「社会秩序を維持する機能」を果たした点を示唆しているんだけど、もう一つの機能である「社会秩序に反抗する機能」を果たした事例もあげている。白蓮教という宗教が起こした「紅巾の乱」と、太平天国の乱のことだけど、詳細は省略する。
以後、第4章はイスラム帝国とモンゴル帝国、第5章はビザンツ帝国と神聖ローマ帝国、第6章はオスマン帝国とムガル帝国を取り上げているけど、それだけの内容が100頁足らずの紙幅で扱われている(しかも一章で二つの帝国を取り上げるというね)ので、どうしても駆け足感が否めない。なので、これらの帝国については、別の本で個別に扱われた際に取り上げることにして、ここでは省略する。ただし一点だけ述べておくと、素人目には、それら六つの帝国のうちモンゴル帝国だけは宗教とは無関係そうに思える。でも著者によれば、「モンゴル帝国には固有の宗教が存在しない(103頁)」ものの、「モンゴル帝国の建国に際して宗教が一定の役割を果たしたことは事実です。チンギス・ハーンは、自分が天命を受けて帝国拡大をはじめたからです(103頁)」ということらしい。ただその宗教は、他の帝国の場合のような世界宗教でないことは間違いのないところでしょう。
最後の「第7章 海の帝国から帝国主義へ」は、ここまでのすべての章が陸の帝国を扱ってきたのに対し、おもに海の帝国を取り上げている。ただ、たった一章でフェニキアやカルタゴから近現代の帝国主義諸国(総元締めは大英帝国でしょうね)を、そしておラスは大日本帝国という具合なので、駆け足感は以前の章よりさらにひどくなっている。まあほとんど教科書的な記述で満たされているので特にコメントはない。
最後に「おわりに」に書かれていることに対して、個人的にコメントしておきたいことがあるので、それを述べてこの本は終わりにしましょう。次のようにある。「歴史上、多くの帝国が生まれましたが、どの帝国もやがて滅びていくことになりました。しかし帝国が滅亡することによって、宗教まで消滅してしまうわけではありません。いったん広まった宗教はそれぞれの地域に定着し、帝国滅亡以降も歴史を重ねてきました(215〜6頁)」。なぜだろうか? 簡単なことだと思う。宗教は、私めがいう人々の生活がかかる中間粒度に根付いていくので中間粒度が存続する限りは残っていくのですね。これまで何度もツイしてきたように、国民国家は中間粒度の最大の単位をなすと個人的には考えている。ところが帝国は、その範囲を超えるばかりでなく、「複数の国や民族を支配し、次々に領土を拡大させていく(3頁)」。だから帝国は、支配下にある複数の国や民族が維持している中間粒度を毀損するような圧政を行なうと、やがてそれらの国や民族を地理的に区切る分割線に沿って四分五裂する可能性が高い。第二次大戦後、アジア・アフリカ諸国が帝国主義国の支配から次々と独立を果たしていったのも、宗主国+複数の植民地という図式ではなく、一つの帝国という図式でとらえた場合、帝国の分裂の一形態であったとも考えられる。なお宗教が中間粒度に根付くことに関しては、著者も次のように述べている。「宗教は個人が信仰するものではありますが、同時に社会性を持っています。地域社会においては、その住人たち全体に共通した宗教があり、宗教を共通にする人間同士が連帯し社会生活を送ります(216頁)」。ここでいう「地域社会」とは、私めのいう「中間粒度」に近いものと考えられる。
ということでまとめに入りましょう。アマコメに「正直なところ、本書は出来の良くない読書感想文ではないかと感じました。記載内容も参考文献のコピーと感じられる部分が多く、内容もほぼ高校の世界史のレベルで、新しい知見はありません」とあり、さすがにこれは言い過ぎとしても、駆け足的かつ教科書的な説明が多い点は確かに気になる。そもそも著者の島田氏は宗教学者ではあっても、歴史家ではないようだし、ましてやローマ帝国、イスラム帝国、大英帝国などといった個々の帝国の歴史の専門家ではないはずだしね。ただ、私めのように、「帝国」と「宗教」、ならびにその関係というテーマに関心がある人は、そのようなテーマが200頁程度の分量で体よくまとめられていると考えれば、読んで損はないと思う。
※2023年7月15日