◎大沼保昭著『国際法』(ちくま新書)
二〇一八年刊行とあるので五年以上前の本ですね。最後の謝辞によると、著者はこの本の刊行直前にお星さまになっているみたい。最近はロシアだの、中国だの(ま〜た台湾を取り囲んで軍事演習なるものをやってるね)、北朝鮮だのといった国際法を守る気のないやつら(しかも前二者は、国連安保理常任理事国だというから世も末だよね)が勝手放題をやっている。国際法に関しては、国際政治に関する本を読むたびにググって確認はしていたけど、系統的に調べたことはなかったので、ちょっと古い本だけど、そのものずばりのシンプルなタイトルが気に入ったこともあって買ったというわけ。さすがに有斐閣とかその手の法律関係本の専門出版社から刊行されている専門書を買う気も、おじぇじぇの余裕もないしね。なお本文ほぼ400頁と絶対量も多いし、テクニカルな記述も多いので、基本的にはいつも通り章別に見ていくとしても、あまり強い興味が湧かなかった章(第4章、第6章、第7章)はまるごと飛ばす。「はじめに」に著者がこの新書本を書いた目的について次のように書かれている。「著者としてはできるだけ読者に、{国際社会に通用している一般的な国際法の理解/傍点}と解釈を知っていただきたいという思いで本書を書いた。自衛権にせよ日米経済関係にせよ、中国との歴史認識問題にせよ、日本の一般市民の方々が国際社会に一般的な国際法認識を共有することによってこれらの問題の理解をふかめていただくことが本書の狙いだからである(15頁)」。まあ最近世界はやたらにキナ臭くなっていることもあり、国際政治を正しく読解するには、国際法の理解は一つの必要条件になるだろうからね。ところが一般人がツイしているのならまだしも、知識人を自称する人々やエセジャーナリスト、あるいはモノホンの政治家ですら国際法をまったく理解していないと思しきツイを平気でしているのをよく見かける。彼らは、少なくともこの本を読んでおいたほうがいいと思うぞ。知識人やジャーナリストや政治家が国際法をまったく知らないで国際政治に関するデタラメなツイをしているのは、実に見苦しいしね。かく言う私めも、先に述べたように系統的に国際法を理解しようとしたことは一度もなかったので、この本はよき参考書になった。
さらに「序」に次のようにある(新書では、「はじめに」と「序」の両方がある本はあまり見かけないから、著者の国際法に対するこだわりがここにも現れていると言えるかも)。「メディアも一般国民も国際法について一定の知識をもち、さまざま政治・外交問題について、憲法や国際政治などの観点からだけでなく、{国際法の観点から考えるくせ/傍点}をつけておくことは、日本国民が二一世紀を生きていくうえでどうしても必要なことなのである。¶そもそも日本の近現代史を彩った重要な出来事をふりかえるなら、そこにはほとんど常に国際法がかかわっていたことがわかる(22頁)」。ということでそのあと、国際法がかかわっていた日本の近代史の重要なできごとが紹介されている。ここではそのなかでも、日清、日露戦争に関する記述だけを取り上げておきましょう。次のようにある。「こうした[不平等条約の]条約改正を実現するうえで大きな役割をはたした日清・日露の両戦争も、国際法と密接な関係をもっている。当時の欧米諸国は世界の国々を「文明国」と「非文明国」に大別し、国際法主体たりうる資格を前者にかぎっていた。ここで「文明国」とは近代ヨーロッパ文明国を意味したが、具体的には国際法の遵守能力が「文明国」の証だった。日本が不平等条約を改正するには、列強に日本を文明国とみとめさせなければならず、それには日本が国際法を遵守する意志と能力をもっていることを示す必要があった。日清、日露の両戦争を戦うにあたって日本の指導者はこのことを十分承知しており、欧米列強に日本が国際法を遵守する「文明国」であることを示すため力を尽くした(23頁)」。
前置きはこれくらいにして、さっそく「第1章 国際社会と法」に参りましょう。まず国際法の歴史が紹介されている。国際法の父というとグロティウスが真っ先に頭に浮かんでくるんだけど、著者によればどうやらそれはちょっと違うらしい。次のようにある。「こうしたグロティウスの評価は、三十年戦争に終止符を打った一六四八年のウェストファリア条約を近代の国際関係のはじまりとみてきた伝統的理解と通底している。ウェストファリア条約は、戦前に存在していた大小多様な国家や国王、封建領主、神聖ローマ帝国といった、多元的で分散的な中世ヨーロッパの権力のありかたを保障する現状維持的な体制を表現したものだった。そこに示された「体制」は、今日わたしたちが考える、相互に独立して主権をもつ諸国家の併存という「主権国家体制」とは大きく異なっている。(…)しかし、一般的な理解では――グロティウスの近代的側面の強調と同じように――、ウェストファリア体制の一見「主権国家の併存」という側面が強調され、同体制の前近代的・復古的側面はほとんど無視されてきた。一六二五年に書かれたグロティウスの『戦争と平和の法』と一六四八年のウェストファリア条約は、一七世紀前半に「近代」を刻印した記念碑とされてきたのである(32〜3頁)」。うむむ、私めも多かれ少なかれそういう捉え方をしていたんだが、ちょっと違うらしい。ただ「近代の国際関係のはじまり」が、ウェストファリア条約以降であるという点については間違いではないのだろうが、その「以降」が、どの程度以降だったかをめぐって捉え方が違っていたことになる。ただ「わたし自身は、国際社会の法としての国際法はずっと新しく、せいぜい一九世紀末にようやく全地球をカバーする法になったと考える(33頁)」とあるので、著者の考えでは、「以降」の程度は二五〇年ほどとかなり大きいことになる。さすがにそれでは、ウェストファリア条約を近代の始まりと、またグロティウスを国際法の父とは見なせないのは確かだよね。もちろんそれは著者の見方であって、他の専門家たちがどう見ているのかは私めにはよくわからん。
次に世界全体の法としての国際法という考えについて次のようにある。「今日世界中の人々が国際法と考えるのは国際社会に妥当する法である。日本国憲法は日本に妥当する法だが、国連憲章は国際社会――あるいは世界――に妥当する法である。日米安保条約は日本と米国の関係を規律する国際法だが、日本と米国という二カ国の法関係も、世界全体に妥当する国際法秩序の下で日米という部分的な関係を規律する。日米安保条約が国際法秩序から独立してそれだけで日米の関係を規律しているわけではない(37〜8頁)」。最後の日米安保は国際法秩序に包摂されるという点は非常に重要だと思う。というのも、思想の左右に関係なく、その点を無視して安保について手前勝手に議論している自称知識人が多いように思えるから。このような世界全体の法としての国際法が成立したのは、先に述べたようにごく最近のことだというのが著者の見立てで、中国の明朝や清朝、あるいはオスマン帝国などのヨーロッパ以外の大帝国が存在している限りは世界全体の法としての国際法は成立し得なかったということらしい。でも、そんなこと言うのなら、「今でさえプーチン大帝国とか習近平大帝国が国際法を無視するような行動を取っているんだから、現代でも世界全体の法としての国際法は成立していないのでは?」と突っ込みを入れたくなるのは私めだけかな? まあ著者は二〇一八年にお星さまになっているので、昨今のプーチン大帝国やら習近平大帝国やらのヤバすぎる振る舞いは知らなかったわけなので無理筋の突っ込みではあるんだけどね(ただし、特に習近平大帝国に関しては、大幅な軍拡や国防総動員法の制定など、その予兆はすでにあったとしても)。
中国(清朝)が一九世紀末に国際法の支配のもとに置かれるにあたっては、日本の関与があった。次のようにある。「一八九五年には清朝が日清戦争に敗れ、日清講和条約第一条でそれまでもっとも忠実な朝貢国だった朝鮮が国際法上「独立自主」の国家であることをみとめた。それまでの中国は、一連の対欧州列強との戦争に敗れながら華夷思想に固執し、欧州中心の国際体系の世界化に対する最大の抵抗者だった。その中国が、国際法上朝鮮が「独立自主」の国家であることをみとめたのである。このことは、中国が華夷主義的秩序原理を放棄して平等な主権国家の併存という原理にもとづく欧米中心の国際社会の一員となったことを象徴するものだった(45頁)」。ちなみに韓国のソウルに独立門ってあるけど、あれってこの時の清からの独立を記念して建てられた。ところが韓国人の多くは、日本からの独立を記念していると思っている人が多いらしい。たとえば『朝鮮半島の歴史』(新潮新書)のあとがきに次のようにある。「独立門の話題になったときに、この門が清からの独立を意味して建てられたことを知っているかと[延世大学の大学院生に]尋ねたことで、軽い口論になったのだ。その大学院生は、韓国(朝鮮王朝)が中国(清)から独立する理由などないし、属国だった過去があるわけないと反発した。韓国人の歴史認識に興味を持った筆者は、その後も延世大学やソウル大学の学生一〇人ほどに独立門がどこから独立したときに建てられたかを聞いて回った。一人だけ自信なさげに「たしか……清だっけ?」と答えた以外は、すべて「日本」という回答であった(同書280頁)」。延世大学やソウル大学と言えば韓国の名門大学のはずだから、そこの大学生や大学院生がその体たらくなのは、反日教育の影響も相当にあるのでしょうね。というか、独立門の名前を聞いたことのある日本人でさえ、「日本から」と思っている人はけっこういそう(私めは、この文章を読む前から清からと知っていたけど、エッヘン)。
それはそれとして新書本に戻ると、いずれにしても世界の法としての国際法の成立は、アジア、アフリカなどの諸国が独立した二〇世紀後半を待たねばならなかった。次のようにある。「一九世紀末の「国際法の世界化」では、地理的に国際法が世界全体に妥当するようになったものの、アジア・アフリカ・オセアニアの多くの諸民族は国際法の主体である「文明国」とみとめられず、植民地支配下にあった、そこでの国際法は、「地球全体に妥当する法」といっても、人類の多数を植民地というかたちで主体的参加から排除した「疑似法」という色彩を色濃く帯びていた。二〇世紀後半の脱植民地化により、国際法はようやく全人類を主体としてあつかう、地球的規模の国際社会全体に妥当する法となったのである(47頁)」。こうして見ると国際法が「地球的規模の国際社会全体に妥当する法」となるきっかけは、アジア、アフリカの独立だったことになる。こういう言い方をすると草葉の陰で著者が嘆くかもだけど、つまり普遍的な法が成立するためには、民族主義やナショナリズムの存在が必須の条件だったということ。私めがいつも主張しているように、またあとで取り上げる第2章の冒頭の文章からもわかるように、左派メディアがナショナリズムを一方的に悪の根源、あるいは最低でも現代にあっては無用なものと見なしているのは、まったくの事実の取り違いとしか言いようがない。歴史も事実も彼らが考えているほど単純ではない。それから「国際法」はまさに「国際」法であってまず国家が先にあることが前提になるはず。つまり「世界法」あるいは「神授法」のような絶対的、普遍的な法が先にあってそれがトップダウンに適用されるようなものではないのだと個人的には考えている(日本には、国内でしか通用しない日本国憲法ですら神授法のような絶対的な法として捉えている人が大勢いるのには頭を傾げたくなるが)。著者もそれに近いことを次のように述べている。「「殺すな」「他人を敬え」といった、抽象度の高い人類共通の規範を考えることはできる。だが、こうした抽象的な規範では七五億の人、二〇〇余の国、無数の団体の行動を具体的に規律し、秩序づけることはできない。また、無数の宗教や道徳に共通する規範を文章化して世界の人々に示す典拠も存しない。子午線であれ世界共通時であれ、世界中に妥当する制度は人類にとって有用であり、それなしには現代人は生活を送ることができない。国際法もそうした世界中に妥当する有用な制度である(57〜8頁)」。つまり私めの言葉で言えば、結局は人々の生活つまり中間粒度の安寧を守る有用な手段を提供することが国際法の最終的な目的になるということだと思われる。そのような手段は、トップダウンではなくボトムアップに構成されるべきだと言える。さらに次のようにある。「国際法は、諸国が共にしたがうべき世界共通の規範を、諸国が明文で合意した条約と、「国際慣習法」といわれる不文法のかたちで示す(…)。人々は今日、自分たちがしたがうべき規範を定立し、執行する主体は国家であると――多くの場合無意識のうちに――考えている。そうした国家が定立し、執行する国際法に人は国家を通してしたがう。国際社会はこうした人々の共通の認識に立脚して、国家、国際組織、企業、メディア、NGOなどのよって運営されている(58頁)」。やはり現実的には中心に存在するのは国家なのですね。それについてはすぐあとで取り上げる第2章の冒頭の文章でもよくわかる。第1章の最後の部分では、国際法の機能がいくつか述べられているけど、先は長いので、この部分は皆さんで読んでくださいませませ。
ということで「第2章 国家とその他の国際法主体」に参りましょう。最初に「国際法は国家にはじまり、国家におわる」という項目見出しがあって、それに続いて次のようにある。「「え、反動的!」¶「時代錯誤もはなはだしい」¶小見出しをみてこう反応する読者がいるかもしれない。メディアでは「国家の{黄昏/たそがれ}」、「国境の無化」、「主権国家体系の凋落」が喧伝されている。わたし自身、無意識の国家中心主義的思考を克服する必要性を主張してきた者として、これらの主張をあたまから否定するものではない。ただ、こうした言説が、現代世界の根源的な国家中心的構成、主権国家体制の強靭な力と正当性を見失った浅薄な知的ファッションに堕していないか、注意する必要はある(67〜8頁)」。「知的ファッション」程度で済むならまだいいが、あちこちで述べているように「国境の無化」「主権国家の破壊」などといった考えは結局ファシズムのレシピになると個人的には考えている。著者はさらに次のように述べる。「日米欧などの先進国にとっては国民国家と主権国家建設の「国家の時代」が一九世紀から二〇世紀だったとしても、人類の圧倒的多数を占める諸国にとっては二一世紀こそが統一的な国民を創り出し、主権国家としての体裁を整える「国家の時代」である。「国家の黄昏」のたぐいの議論は先進国の知的エリートが創り出し、先進国のメディアを通じて流布したものである。中印などが欧米を凌ぐ力を持つ可能性がある二一世紀の国際法を考えるうえでは、現在の先進国の支配的言説を鵜呑みにしない用心深さ――わたしたちの無意識の欧米中心主義からの脱却――が大切である(68頁)」。これには100%同意する。そのあとで著者は、「他方、こうした国家中心的な発想にさまざまな問題があるのはたしかである(69頁)」と一応ぼかしを入れている。ただ個人的には、「国家中心的な発想」は「中間粒度中心的な発想」と言い直せば特に大きな問題にならないと考えている。ただしこれもいつも述べているように、たとえばトランプが中間粒度中心的な発想に基づいて自国ファーストを主張するのは特に問題ではないとしても、パリ協定離脱などの彼の行為に見られるように、粒度を越境してその発想を国際法が支配する国際レベルにまで持ち込んでしまうと大きな問題になると考えている。
あまり本筋には関係ないんだけど、著者はトランプに関してあとの章で次のように述べている。「二〇一六年、米国民はドナルド・トランプという露骨な差別主義・排外主義者を大統領に選んだ。トランプ大統領は就任以来次々に反人権主義的な政策を実施している(240頁)」。これははっきり言って、左派メディアの印象操作を鵜呑みにした記述だとしか思えない(まあ著者は国際法の専門家であってアメリカ政治の専門家ではないこともあるかもだけど)。もちろんトランプには問題がいろいろある。だけどそれは左派メディアがとりわけ印象づけたがっている側面とは別のところにある。先にあげた国際レベルにまで中間粒度中心的な発想を持ち込むことはその一つ。でもここにあがっている、たとえば排外主義者などという批判は、左派メディアが印象操作を通じて作り上げたものにすぎないと思っている。確かにトランプは南部国境沿いに壁を築こうとした。しかしリオグランデ川などの国境線を超えてアメリカに入って来ているのは、不法移民であって(しかも麻薬や人身売買のトラフィッカーや犯罪者やテロリストも混ざっているはず)、一連の手続きを経て入って来る合法移民では決してない。ひと昔前、あるいは現代でさえ国によっては国境を踏み越えた途端に問答無用で銃殺される可能性がある人々を対象にしているのですね。にもかかわらず、ネットの記事を見る限り、左派メディアはトランプの取った対策を不法移民対策としてではなく(合法)移民対策に見せかけるよう印象操作して扱っているように思える。つまり法を破って入国してくる人々を左派メディアは擁護していることになる。その結果どうなったか? もちろん二〇一八年にお星さまになった著者は、その後のバイデン政権の不法移民に対する政策や、その結果聖域都市を宣言しているために不法移民が溢れ返るようになったニューヨークの民主党市長でさえ彼の政策を批判するようになっていることを知るはずはない。だとしても、トランプを排外主義者、反人権主義者だと決めつけるのは、明らかに日本やアメリカで非常に優勢な左派メディアの言説をそのまま受け取っているからだとしか思えない(というか、いかにもエリートが嫌いそうな憎々し気な面構えをしたトランプに関しては中道や右派のメディアも怪しいが)。
これもあちこちで書いていることだが、人権は言葉の響きの良さとは相反して現実にそれを適用しようとすると大きな問題が次々に噴出する。なぜかと言うと、人権の適用は、すべからく特定の個人や団体に対する適用にならざるを得ないから。ということは、よほど注意しないと、特定の個人や団体を過度に優遇して、それ以外の個人や団体をそこから排除する結果に簡単につながる。先のニューヨークの例で言えば、ニューヨークに不法移民が溢れ返るようになってから割を食ったのが黒人であることは、確かニューヨーク市のアダムズ市長が窮状を訴えている動画でも述べられていた。補助金や支援金を含めた援助がすべて不法移民の保護に回されちゃうからね。つまりバイデンの国境ユルユル政策は、不法移民の人権だけに焦点を絞っているせいで、黒人を含めた自国民、つまり中間粒度に属する人々の人権をないがしろにしていることになる。少し前に、結局バイデンも国境の壁建設を再開することに決定したという主旨の記事をネットで見かけたけど、壁建設のようなドラスティックな手段が正しいか否かは別として、中間粒度の安寧を維持することは国家の第一の仕事だと言える。さもければ、国がガタガタになって自国民自身が難民や不法移民になる可能性すらある。実際にそうなったら誰が難民や移民を救済するわけ? だからトランプの自国ファースト主義はそれ自体としては間違っていないと思っているわけ。なぜわざわざこんなことを述べたかというと、日本では川口市の件が典型的に該当すると思うけど、左派メディアは外国人の人権の毀損は盛んに取り上げても、自国民の人権の毀損はほとんど取り上げようとしないという危険な風潮が蔓延しているから。しかも外国人の人権の毀損に対しては声高に差別を叫んでも、自国民の人権の毀損は差別として扱われないというダブスタがまかり通っている。もしかすると左派特有の国家や国民に対する反感に由来しているのかもだけど、これは非常に危険な兆候だと思っている。なぜなら、中間粒度の安寧が脅かされて実際に崩壊すれば、人権を担保する仕組みを提供する基盤それ自体が瓦解してしまうから。左派メディアも左派の政治家も、体のいい言葉を使って人々の頭のなかを非現実的な理想、というかイデオロギーで染め上げる暇があるのなら、現実に何が起こりつつあるのか、起こり得るのかを、あるいは左派メディアが徹底的に嫌っているトランプにアメリカ人の半数近くがなぜ投票するのかをよく考えてみるべきだとマジで思うぞ! これまた私めがよく主張しているように、一般ピープルは、とりわけ自己の生存や生活がかかる局面では、簡単に陰謀論に騙されるようなバカではない。騙されるのはむしろ、思想の左右に関係なくイデオロギーに絡み取られている自称知識人のほうなのですね。嘘だと思うなら、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』を読んでくださいませませ。さもないといつか取り返しのつかない事態に陥るよ!
またしても大きく横道に逸れたので新書本に戻りましょう。現代の国際法においては、国家とはいかなる存在として規定されているのか? 次のようにある。「現行国際法で国家とは、一九三三年の「国家の権利義務に関する条約」第一条の規定を手掛かりに、@永久的住民、A明確な領域、B実効的支配をおよぼす政府、C他国と関係をとりむすぶ能力をもつ法人格とされるのが一般的である。この第一条は前述したイェリネクの国家三要素説に外交能力を加えた二〇世紀初頭の支配的国家観を体現したものである。こうした国家観は、二〇世紀後半から二一世紀にかけて自決権、民族的少数者の権利主張、移民・難民、破綻国家などの諸問題により、さまざまな挑戦を受けている(72頁)」。まあ二一世紀に通用する国家観が求められているということなのでしょう。次は国際法と「政府」の関係が次のように説明されている。「国際法上もっとも重要なアクター(国際法関与者)は政府である。国家間関係としての国際関係とは基本的に政府間関係であり、条約は政府が交渉して締結し、国際組織も政府間組織である。(…)もっとも、国際法が「国家」を法主体としてあつかう場合は、行政、立法、司法のすべてをふくむ政府総体の体制が問題となる。たとえば、国際法上「国家(の)実行(state practice)」というとき、行政府の行為(軍隊の派遣、首相の声明など)に加えて、立法府による国内法の制定、司法府の判決もふくめるのが一般的である。国によっては軍や警察が行政機関とは別個の機関とされることもあるが、その場合も軍や警察は国際法上国家機関とみなされる(79頁)」。それに関連した次の説明は興味深かった。「ある国に革命がおこり、行政、立法、司法の全機構が革命政権によって旧来のものと完全に異なる体制に変更されたとしても、その国は国際法上同一の国家であり続ける。革命後の国家は革命前の政府が締結した条約に拘束され、革命前の国家がもっていた債権や債務は同一の権利義務として維持され、革命後の国家がこれを一方的に拒否することはできない。国際関係が支配者間の関係だった時代には、条約も国王や皇帝同士のものであり、その後継者にも条約を守らせようとするときはその旨を条約上明記する必要があった。近代になって国家が君主の具体的人格から抽象化されると、一国内で根本的な政体の変革があった場合も国家の同一性は保たれるようになった。条約も支配者同士の約束から国家間の約束となり、継続性と安定性は高まった(80頁)」。現代の国際法が支配する国際政治では、革命はまさに「irrelevant」だということになる。ちょっと我田引水気味になるけど。このことは私めがよく言う「革命は政治ではない」の変奏になるのかも。
それから『日米同盟の地政学』を取り上げた際に言及した旗国主義について簡単に触れられているので、それについて引用しておきましょう。次のようにある。「軍隊、軍艦、軍用航空機から個々の軍隊構成員にいたる国家機関は、海賊やハイジャッキングの防止、{拿捕/だほ}など、公海、公空、国際領域で国際秩序の維持の役割をはたす。これらの軍事的国家機関は、他国領内にあるときも一般に領域主権から免除される。領海内の軍艦で犯罪がおこった場合、犯人を逮捕する権限をもつのは軍艦の旗国であり、領海国ではない(81〜2頁)」。ところで、『日米同盟の地政学』を取り上げた際に、この旗国主義に言及して「非核三原則の「持ち込ませない」は国際法に違反しているのでは?」と述べたんだけど、実際には、日本は領海の無害通航権に関する国際法を根拠に「持ち込ませない」を正当化しているらしい。ただそのせいで、領海を一二海里とした場合に受け入れる必要がある「通過通行権」との関係で日本はおかしな、というかフリーライダー主義丸出しの領海設定をせざるを得なくなっている。いずれにせよ、それについてはあとで説明する。第2章の残りは主権と非国家主体について論じられているけど、あまり強い印象を受けた箇所がなかったので(つまり付箋を貼った箇所がないので)、それらは飛ばす。
ということで次の「第3章 国際法のありかた」に移りましょう。まずいわゆる遡及法的な問題に関して述べられている次の記述を引用しておく。「条約の解釈であらそいが生じやすいのは、「条約解釈の時点をいつにすべきか」という問題である。法は社会生活の基本枠組みを定める仕組みであり、現時点における人々の合理的な予測を尊重し、安定的な社会関係を維持しなければならない。過去に発生した事件は原則としてその時代の法にそくして判断されるべきである。さもないと人は、現時点で妥当する法を現時点の解釈にしたがって判断し、それをもとに自分の行動を決定するという法に準拠した行動がとれなくなる。それでは人々の法への信頼がゆらいでしまう(109〜10頁)」。これはまさに法が神授法のようなものではなく、時代時代の中間粒度の要請に従ったものでなければならないことを意味しているように思われる。ただし次のようにもある。「現代の国際社会で有力になりつつあるのが「発展的解釈」である。これは、条約締結後の規範意識の変化にしたがって条約を解釈し、紛争が生じた時点における人々の規範意識を重視する立場である。欧州人権裁判所はこうした判決を下す傾向が強く、ICJ[国際司法裁判所]の態度もそれに近い(110頁)」。ただこれは前の文章とは矛盾するし、要は程度の問題なのでしょうね。あまりに齟齬が大きすぎれば、条約なら結び直すだろうし、法なら改正が必要なのでしょう。70年前に制定された日本国憲法をいつまでも解釈のみで引っ張れば、日本国憲法といえども神授法ではなく、敗戦直後という、中間粒度のあり方も現代とはまったく異なる特定の時代に制定されたものなのだから、いつか解釈では到底通用しない大きな齟齬が生じるのは必定であろうと思う。
それから次の国内法と国際法の相克の話は重要に思われるので取り上げておきましょう。次のようにある。「条約は、国家間関係において国家をまるごと拘束する。ところが、ほとんどの国は国内法上条約を憲法より下位においている。法律との関係でも、条約が法律より上位の国もあれば同等の国もある。たとえば、日本では、条約は法律より上位とされているが、憲法よりは一般に下位にあると解されている。米国では、条約は連邦法と同位の関係にあるとされている(118頁)」。日本のケースで言えば、国連憲章で認められている集団的自衛権が憲法違反と言われることがあるのが典型例だよね。ここではほんとうに憲法違反に当たるのか否かは置くとしても、国連憲章という国際法を憲法の下に置いて見ていることは確か。しかし集団的自衛権については行使するかしないかの問題なのでまだいいとしても、いずれにせよ国際法を国内法の下に置いて見る態度には次のような問題がともなう。「国際社会における法秩序の観点から見た場合、条約を批准した国家が国内法上の理由で条約を破ることが許されるのでは、国際社会の存立自体があやうくなってしまう。もしも、ナチス・ドイツのように二一世紀の超大国米国や中国が、自国法が国際法に優位するといって行動したら、国際社会は「万人の万人に対する闘争(ホッブズ『リヴァイアサン』)の状態におちいってしまうだろう。そうした事態はなんとしても避けなければならない。条約法条約二七条は、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」と明確に規定しており、同旨の国際組織の決議、国際判決、各国の声明も数多い(119頁)」。「もしも」とあるけど、安保理常任理事国であるのはずのロシアは思い切り国際法を破り、国家総動員法のようなヤバい法を制定している中国も国際法を遵守しているようには見えない。ちなみに最近、在日中国大使が、「日本の民衆が火の中に引きずり込まれる」とか、北朝鮮レベルの暴言を吐いたというニュースがネットにあがっていたが、これって民間人を攻撃してはならないとする国際法の違反をやらかしてやるぞという脅迫だよね? こんなのが外交官になっているのが、今の中国なんだよね。その点では、もともと国連とは折り合いがいいとは言えないアメリカも怪しい。事実、現状は次のようなものらしい。「こうした国内法秩序における憲法優位と国際法秩序における国際法優位という規範の相克をめぐって、各国政府・裁判所、国際裁判所はさまざまな法技術を駆使してそれを克服する努力を重ねている。しかし、日本をふくめて各国の裁判所は一般に国内的な観点を優越させており、国際社会における国際法の優位が国際社会の法の支配を保障し、主権国家体制という現代の「世界のありかた」そのものを守る鍵であるということを十分に理解していないことが多い。今後法の支配と民主主義の意義がますます高まるとともに、この問題はさらに重要な問題として各国の政府と裁判所だけでなく、政治指導者、メディア、そして国民に重大な考慮をせまる問題となるだろう(120〜1頁)」。
国際司法裁判所(ICJ)に関する記述はちょっと興味深かった。両当時国が同意しない限り、国際間の問題がICJの裁判対象になることはないようだから、「ICJってあまり意味なくね?」と思っている人も多いかもしらん(かく言う私めもその口だけどね)。ただ次のような意義はあるらしい。「ICJをはじめとする国際裁判所の紛争解決能力はごくかぎられている。国際政治学者は国際紛争解決の諸メカニズムを検討するうえで、ICJなどの国際裁判所をほとんど無視してきた。これは、諸国間の紛争解決の実態からすれば無理からぬことだった。¶しかしながら、国際裁判所には、紛争解決のほか、最終的に権威をもって国際法の解釈を確定するという、もうひとつの役割がある。(…)国際社会でも、国際法の存在・不存在、解釈について諸国の政府や国際組織などにあらそいがある場合、ICJの解釈がもっとも権威あるものとしてこれを最終的に確定する。その意味でICJは、諸国政府や国際法学者・実務家、さらにはジャーナリスト、企業、NGOなどが国際法を認識するうえで、もっとも重要な国際法認識・解釈の手がかりを提供する(135〜6頁)」。なおICJの意義や問題については、「第8章 国際紛争と国際法」でも繰り返されている。
ということで、冒頭で述べたように「第4章 国際違法行為への対応」は飛ばして「第5章 領域と国籍」に参りましょう。領域と言っても日本は四方を海に囲まれた海洋国家なので(領海とEEZを合わせた面積は世界第六位、海岸線の長さも世界第六位(実はアメリカより長い)なのですね)、ここではおもに海洋に関する記述を取り上げることにする。まず領海の定義から。次のようにある。「領海――一般に「領海」とよばれる海域は国際法上狭義の領海と「内水」をふくみ、両者を合わせて「領水」という――とは、国家の主権がおよぶ沿岸水域をいう。(…)国連海洋法条約は、領海の具体的内容は定義せず、領海幅員も基線から一二海里以内で各国が定める権利を有するとした(171〜2頁)」。「基線」については註がついていて次のようにある。「基線とは、領海、大陸棚、排他的経済水域など、国家権能行使の距離が問題となるあらゆる制度の幅の基準となる線で、原則として沿岸国公認の大縮尺海図記載の低潮時の線をいう(五条)(173頁)」。「一二海里以内で各国が定める権利を有する」という部分に注目されたい。なぜかというと、日本は宗谷海峡や津軽海峡など一部の地域に関してだけ、一二海里ではなく従来の三海里のままの設定をしているから。その理由は「何だかなあああ!」って感じなんだが、それについてはあとで述べる。それから「無害通航権」の概念に関して次のような説明がある。「領海に適用される沿岸国の主権を制約する国際法上の代表的制度は「無害通航権」である。無害通航権とは、沿岸国の平和、秩序と安全を害しないで船舶を継続的に狭義の領海を通行させる船舶国籍国の権利であり、ほぼ一九世紀以来慣習国際法としてひろくみとめられてきた。沿岸国は、原則として無害通航中の外国船舶に逮捕、捜査などの刑事裁判権を行使してはならず、民事裁判権を行使するため船舶を停止させ、航路を変更させることも許されない(172頁)」。無害通航権とは、あくまでも船舶国籍国の権利である点に留意されたい。前述した非核三原則の「持ち込ませない」の根拠は、どうやらこの無害通航権に関係しているらしく、次のようにある。「日本は非核三原則を守るため、常時核装備している軍艦の領海通航は無害とみなさず、許可しない権利を留保している(173頁)」。
ところが、ところが、非核三原則に固執したい日本には都合の悪い事態が発生してしまうのですね。次のようにある。「国連海洋法条約で沿岸国が一二海里までの領海をもつことができるようになったため、マラッカ海峡など、これまで公海だった主要海峡が領海化しかねない状況となった。これは、こうした戦略的海峡をふくむ世界中の海域での軍艦の行動の自由を死活的利益とみなす米ソや、これらの主要海峡を通って大量の石油等の資源を輸入する他の海洋大国にとって受け入れがたいものだった。このためこれらの諸国は、無害通航権よりも規制のすくない、通行国の利益を尊重した通航権をみとめるよう強く主張した。途上国は他の分野での利益確保を代償にこれを受け入れ(一括取引の一環)、国際海峡の「通過通航権」という制度が成立した(173頁)」。ちなみに領海一二海里になったのは、ググると一九七七年らしい。では非核三原則に固執したい日本はどうしたか? それに関して次のようにある。「日本は、宗谷海峡など五海峡を「特定海域」に指定し、その五海峡では領海幅を三海里にとどめている。これらの海峡の領海を一二海里とすれば他国の通過通航権をみとめなければならず、核装備艦も日本の領海内を自由に航行できることになり、非核三原則が維持できなくなってしまう。このように日本は、国連海洋法条約上の通過通航権をみとめることによりはたさなければならない義務と非核三原則を両立させるため、あえて五つの国際海峡では領海幅を三海里にとどめているのである(174頁)」。要するに一二海里にすると「通過通航権」を認めなければならなくなるから、一部の重要な海域に対して「無害じゃないからあきまへん」と拒否できる「無害通航権」しかともなわない三海里を適用していることになる。なんとまあ面倒なことを・・・。しかも一部の海域を三海里にしている理由がもう一つあったはず。それは特に津軽海峡に当てはまる。実のところ津軽海峡は戦略的に重要だから、日本は同盟国であるアメリカの潜水艦を含めた艦船を自由に通航させたいわけ。ところが、津軽海峡に領海一二海里を適用すると全域が領海になってしまうのに対し三海里だと中間部分が公海になる。だから三海里にしておけば、核装備したアメリカの艦船が津軽海峡を通過しても、「あれはいいの。だって公海を航行しているんだから、核を持ち込んだことにならないからだも〜〜ん」って言えるわけ。実は以上のことは、日本の安全保障についてある程度調べたことがある人ならほぼ誰でも知っているはずだけど、日本には安全保障と聞くだけで全身がさぶいぼと化す人たちがかなりの割合でいるからね。
それにしても、こんな姑息なことをするなら、というか他の面では自分たちが損をするような所業に走るなら、どの道実際には核であろうが持ち込まれていたんだろうから(運用上わざわざ核をどこかで下ろして日本に寄港していたとはとても思えない)、旗国主義に敬意を表して陸揚げしない限り持ち込みとは見なさないとすればよかったのにね。そもそも日本は、一つにはアメリカの核の傘のおかげで平和を守ってこれたのに、艦船に積んだまま下ろさなくても核を持ち込んじゃダメとか、完全にフリーライダー主義そのものに思える。なお『日米同盟の地政学』に次のようにあり、核持ち込みの話は、現在少なくとも一時的には解決しているらしい。「冷戦終結後の一九九一年九月二七日、ブッシュ(父)大統領は、アメリカ軍の地上配備の非戦略核を全廃し、非戦略核の艦船・航空機への搭載を中止すると発表した。したがってそれ以降、核を搭載した米艦船が日本に寄港することはなくなった。現在も[非戦略核ではなく戦略核を搭載している]オハイオ級戦略原潜(SSBN)は日本に寄港しないかたちで運用されている。一時寄港問題は過去のものとなったといえる(同書194頁)」。もちろん今後復活する可能性は十分にあるんだろうけどね。それから前述のとおり、まさに非核三原則を強引に守ろうとして下手な細工をしているから、公海になっている津軽海峡のど真ん中を、戦略核を積載したアメイカのオハイオ級原潜が通過している可能性もあるだろうし、公海だから当然、ロシアや中国の戦略核を搭載した潜水艦が堂々と通過しているかもね。後者に関しては、普通は手に入るべくもないロシアや中国の潜水艦の音紋が収集できるから、かえって日本の海上自衛隊にとっては願ったりかなったりだとかいった話もあるらしいけど。
それから海域に関する用語で最後に残っている「排他的経済水域(EEZ)」について、次のような説明がある。「EEZは、沿岸国が宣言により設定する、基線から二〇〇海里以内の、海底を含む水域である。沿岸国は、@天然資源の探査、開発、保存、管理のための主権的権利、A海洋の科学的調査や海洋環境保護に関する管轄権、B国連海洋法条約に定める他の権利という三種の権能をもつ。沿岸国は、生物資源の漁獲可能量を一方的に決定できるが、同時に生物資源維持のための保存・管理措置をとる義務を負う(六一条)。EEZで漁獲をおこなう沿岸国以外の国の国民は、保存措置や入漁料などに関して沿岸国が定める法令を遵守しなければならない。EEZは公海でも領海でもない国連海洋法条約上の「特別の法制度」(五五条)水域だが、そこでの沿岸国の漁業に関する権利は広範であり、沿岸国の利益保護の色彩が強い。しかも、EEZの生物資源に関する沿岸国の主権的権利に関する紛争は国連海洋法条約の予定する紛争の強制裁判管轄を免れる(二九七条)。EEZが資源の適正な開発と保護のため望ましい制度か否か、現状ではきわめて疑問といわざるをえない(178〜9頁)」。次に海底開発の話が少しだけ出てくる。ちょっと気になったのが、「深海底開発が商業ベースに乗る時期が二一世紀前半にずれ込んだため、深海底を開発する誘因は消滅してしまった(179〜80頁)」というくだり。なぜ気になったかというと、私めが中高校生だった頃、海底に転がっている「マンガン団塊」なるものがやたらにもてはやされていたから。地理の教科書だったか参考書だったかにも書かれていた。ところが、一九八〇年代以後、「マンガン団塊」という言葉をとんと聞かなくなってしまった。「どったの?」とずっと思っていたんだけど、商業化の見込みが立たなかったってことらしい。ウィキの「マンガン団塊」の項にも、それに関連する記述があるので、興味がある人はそちらを見てみてね。
またまだ半分であるにもかかわらず、すでにずいぶんと長くなってきたこともあって、また安全保障に関する話題に焦点を絞りたいこともあって、冒頭で述べたように、「第6章 人権」と「第7章 経済と環境の国際法」は省略する。それらのトピックについては、別の本を取り上げたときに検討することにしますら。
ということで、「第8章 国際紛争と国際法」まで一気にワープする。まず次のような記述がある。「国家は一般に人間を殺傷してよいと考えられてきた唯一の主体である(291頁)」。さすがにこれは、第二次世界大戦以前の近代の歴史を見渡してということなんだろうと思う。少しあとに「一九世紀プロイセンの有名な軍事思想家クラウゼヴィッツが一八三二年刊行の『戦争論』で定式化したように、当時の国家指導者にとって、戦争は国際法上の自由におこないうる政策の一手段だった(「戦争は他の手段をもってする政治〔政策〕の遂行である」)(293頁)」とあるように。でも、国際法(国連憲章)によって侵略戦争が禁止されている現代においては、とりわけ「国家は一般に人間を殺傷してよいと考えられ」ている「唯一の主体である」などと見なされているとは思えない。ロシアはまさにその国際法を破ってウクライナに侵略戦争を仕掛けたわけだけど、中国などの一部の国を除いたまともな国々はすべて、その行為を非難している。それどころかベトナム戦争当時のアメリカと同様、そのロシアでさえ反戦運動が広がっているわけで、まともなロシア国民の多くも、この戦争を認めているわけではなく、よく言われるようにウクライナ戦争には国家の戦争というより、プーチン個人の戦争と見たほうがよさそうな側面すらある。不思議なことにこのウクライナ戦争は、国家同士の正当な戦争という近代の概念よりも、諸領邦の君主同士が争っていたそれ以前の前近代的な戦争に近いと言えるのかもしれない。無差別テロリズムが猖獗したり、「イスラム国」のようなヤバい領邦的な「国」が登場したりと、二一世紀は中世への隔世遺伝的な先祖返りの時代のようにも個人的には思える。
新書本に戻ると、次に紛争解決が歴史的にどのようになされてきたかがざっと説明されている。それからICJ(国際司法裁判所)について説明されているけど、これはすでに第3章で述べられていたので省略。続いて国連の紛争解決のやり方について次のように述べられている。「国連は、紛争の平和的解決をふくむ国際社会の一般利益実現のために行動するが、個々の加盟国にはそれなりの力と大きな権威をもつ国連による干渉への警戒もある。このため、国連は加盟国の国内管轄事項に干渉することを禁じられている(憲章二条七項)。しかし今日では、非国家主体の重要性の増大、内戦と国家間武力紛争や難民流出の複合化などにより、「国際」紛争と国内問題を峻別することが困難になっている。こうした現実に対応して、国連諸機関はさまざまなかたちで伝統的には国内事項とされてきた問題に関与・介入するようになってきた。@国連総会・安保理・経社理・人権委などによる問題の審議、A調査(…)、B紛争の平和的解決や武力紛争当事者の兵力の引き離しなど、一般的性格をもつ勧告の採択、C個別具体的な内容を示し具体的な行為を加盟国にもとめる(…)勧告の選択などは、こうした国連の多様な関与・介入の例である。¶国際紛争は当事国からの付託にもとづき、あるいは安保理の主導の下で、安保理による調査、審議、勧告の対象となる。この平和的解決手続きにもとづく安保理の決議は勧告にとどまり、紛争当事国を法的に強制するものではない。そのことは総会が国際紛争を審議し決議を採択するときも、事務総長が仲介や調停をおこなうときも同じである。国連は、こうした平和的・任意的解決手続きで紛争が解決できないときには憲章第七章の強制手続きに移行し、非軍事的・軍事的な強制措置を加盟国の意思に反しても強行することにより国際の平和と安全を維持するという体制になっているのである(320〜1頁)」。
それから本筋からははずれるけど、次の記述は実に興味深い。「「双方不満なら良い条約」という外交格言がある。ここで「双方満足なら」ではなく「双方不満なら」というのが大切なところである。それは、利害、価値観、歴史認識、感情を異にする国家間の合意というのは途方もなくむずかしいものであり、双方が同じように不満ならそのような合意をもって良しとすべきだという教えをわれわれに示してくれる。それは飲みこみにくい真実である。しかし、とても大切な真実なのである(324頁)」。もちろんこの格言はまったく知らんかったが、妙に納得してしまった。というのも、外交という国際政治に限らず、政治一般、それどころかあらゆる意思決定には、そのような側面があると思っているから。つまり現実はさまざまな要素が複雑に絡んでいるので、たとえば、ある施策を取った場合はAという側面(たとえば経済)ではきわめて有効でも、Bという側面(たとえば環境問題)ではかえって事態が悪くなるのに対し、別の施策を取った場合はその逆になるなどといったことが普通なのですね。端的に言えば絶対的に正しい選択などというものは、まずあり得ないということ。そもそも、だからこそ政治が必要になるのであり、意思決定者には相応の責任が求められるわけ。ところが現代の日本では、政治家までが自由や権利を声高に叫ぶだけで、それには責任がともなうということをまるで理解していないような主張を平気でしている。
ということで、文句はこれくらいにして最終章の「第9章 戦争と平和」に移りましょう。まず集団安全保障の問題が取り上げられる。なお集団安全保障とは、国連が提供する安全保障の仕組みのことであり、のちに取り上げる集団的自衛権とは異なる。この集団安全保障の仕組みが現実的に機能していないことが、最近のウクライナ戦争を含めさまざまな問題の根源に存在している。なお、集団安全保障と集団的自衛権を混同していると思しき見解をときに見かけるので、ここでまず集団安全保障とは何かについて明確化しておきましょう。次のようにある。「戦争が国際法上、違法であるという観念(戦争違法観)を確立し、それを諸国の国民に規範意識として定着させることは、諸国が戦争に訴えるのを防止するひとつの手掛かりとなる。戦争違法観の確立はそうした意義をもっている。しかし、戦争は違法であり国際法上禁止されるという観念の力だけで国家が戦争に訴えるのを防止することは困難である。諸国の政府に戦争に訴えるのを断念させる交渉は、そうした断念への報償と断念しないときの制裁の威嚇なしには成功しない。¶そうした制裁の威嚇を組織化したのが集団安全保障体制である。集団安全保障とは、戦争を一般的に禁じ、戦争に訴える国に対しては集団のメンバーが一体となって制裁を加えることにより平和を維持しようとする考えである。(…)こうした考えにもとづいて国連は、不戦条約よりさらに徹底した武力禁止を加盟国に義務づけ(憲章二条四項)、[国際]連盟よりはるかに整備された制裁の仕組み(憲章第七章)によりこれを担保する集団安全保障機構としてつくられた(326〜7頁)」。では、ここにある憲章第七章の制裁の仕組みとはいかなるものか? それに関して次のようにある。「第七章の集団安全保障メカニズムは国連の要であり、@安保理による平和に対する脅威、平和の破壊、侵略行為の認定、Aそれらに対する措置(国連の制裁・強制行動)、B例外的に許容される武力行使の根拠である自衛権について規定する(三九〜五一条)。強制措置は、国連による貿易・通信・運輸関係の断絶などの非軍事的措置と武力行使をふくむ軍事的措置の双方をふくむ。両者とも、措置が対象となる国の同意なしにおこなわれる。理論的には国連が擁護する平和価値の侵害に対する国際社会の代表機関たる国連の制裁であり、実際上は五大国をふくむ圧倒的多数の国の行動としておこなわれる強制措置には対象国が屈服せざるをえないという計算に立脚している(332頁)」。
ところが「五大国をふくむ圧倒的多数の国の行動としておこなわれる強制措置には対象国が屈服せざるをえないという計算」がまったくの計算違いであることが明確になったのが今回のウクライナ戦争だと言える(もちろん二〇一八年にお星さまになった著者は、それについて知っているはずはないけどね)。何しろその五大国の一つロシアが憲章二条四項を堂々と破って、しかも第七章で規定されている@の決定にさえ拒否権を発動している始末なんだから。ところで軍事的措置を発動する場合、国連軍の出番になる。ところが、これがまた問題なのですね。その点は今回のウクライナ戦争で、より明確化したわけだけど、以前から国連軍はあまり設計どおりは機能していなかったらしい。次のようにある。「冷戦期には、米ソを盟主とし憲章五一条の集団的自衛権を根拠とする事実上の軍事同盟が対峙し、武力行使にかかわる問題に国連が大きな役割を果たすことはなかった。冷戦終結後、安保理は一時的に活性化し、イラクのクウェート侵略への多国籍軍の軍事行動の許可など、国際平和をゆるがす問題への重大な関与をみせたが、そのときも本来の国連軍を組織して平和の破壊に対処することはなかった。このように、国連は憲章四二条以下が予定する国連軍とは異なる国連軍を派遣して多様な武力紛争に対処してきた。@安保理の勧告にもとづく軍事行動(「朝鮮国連軍」)、A安保理が許可する加盟国の軍事行動(「湾岸戦争」における「多国籍軍」の軍事行動など)、B限定的な武力行使権限を付与されたPKO(二一世紀にアフリカに展開中のPKOのかなりのもの)などである。これらは、憲章の予定する軍事的措置に代替して国連の集団安全保障体制を補完する機能をはたしてきた(339〜40頁)」。
次に自衛権について。国連憲章の五一条で、自衛権は次のように規定されているとのこと。「この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安保理が国際の平和と安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使にあたって加盟国がとった措置は、直ちに安保理に報告しなければならない(348〜9頁)」。つまり個別的自衛権にせよ、集団的自衛権にせよ、「安保理が国際の平和と安全の維持に必要な措置をとるまでの間」だけ認められるということになる。今回のウクライナ戦争で、それが問題になりうることが明確化したと言える。ウクライナは国連には加盟していても、集団的自衛権に関係するNATOには加盟していない。だから強大なロシア軍が侵略してきても、自衛権を発動して防衛はできても、戦力的にロシアよりはるかに脆弱であるがゆえにロシア軍に蹂躙されてしまう。ところがロシアが安保理で拒否権を発動して、先にあげた国連憲章第七章で規定されている@の決定すらできないから、ましてやAの国連の制裁・強制行動が発動されることなどない。だからウクライナがいくら首を長くして待っていても、国連軍などいつになってもやって来ない。おそらくウクライナがNATO加盟国であれば、NATOの集団的自衛権が発動してヨーロッパの多数の国々を相手にしなければならないから、ロシアはウクライナに手を出せなかったであろうとはよく言われていることだよね。その集団的自衛権については次のようにある。「集団的自衛権とは、他国への武力攻撃を自国への攻撃とみなして被攻撃国を防衛する権利である。国連憲章五一条は「集団的自衛の固有の権利」と規定するが、実は憲章が創り出した権利である。当時、米州諸国やアラブ諸国は第二次大戦後に地域的集団安全保障体制を設けて自国の安全を確保しようとしていた。しかし憲章上、地域的集団安全保障の強制行動には安保理の許可が必要とされ、安保理の判断によっては許可が与えられない可能性があった。このためこれらの国々の強い要望で集団的自衛権が規定されることになったのである(351〜2頁)」。ちなみに国連憲章の五一条では、「個別的または集団的自衛」とあるように名称としては個別的自衛権と集団的自衛権を分けているけど、それらに対する制約は特に区別しているわけではない。ところが日本では、それら二つが区別して語られることが多い。その理由は、先にあげた『日米同盟の地政学』によれば、日本でしか通用しないような「必要最小限論」なる憲法解釈のせいらしい。そんな妄想的な議論がまかり通っているのに、憲法改正がなかなか前に進まないのは、非常に困ったことだと言える。
確かに集団的自衛権には濫用の危険性がともなう。たとえば次のようにある。「米国のベトナム戦争は集団的自衛権を有力な正当化根拠とするものだった。だが、遠く太平洋を隔て腐敗した南ベトナム政府に対する北ベトナムの攻撃を米国自身への攻撃とみなすという主張は、第三国に対してだけでなく米国民に対しても説得力をもちえなかった(352頁)」。とはいえNATOのような集団的自衛権に依拠する強力な団体に加盟すべきでないと言うのなら、まず国連の集団安全保障体制が正しく機能していることがその前提になる。この問題を解決せずして、かつての日本で見られたように集団的自衛権を目の敵にすることは、ロシアや中国や北朝鮮のような国が存在する限り、また核武装するつもりも、スイスのように国民皆兵制度を採用して国内の防御をガチガチに固めるつもりもなければ(個人的にはどちらも基本的には望ましいとは思えない)、自殺行為だと言える。まさにそのことが今回のウクライナ戦争で明確になったわけ。国連の集団安全保障が機能していないことについては、著者も次のように述べている(あえて繰り返すと、二〇一八年にお星さまになった著者は今回のウクライナ戦争についてはまったく知らない)。「国連の集団安全保障は、憲章四二条以下に規定する軍事的措置が一度も本来のかたちで適用されなかったことに象徴されるように、本来の機能を発揮しなかった。国際社会における戦争の封じ込めと生じた武力紛争への対処は、みずからが武力禁止原則侵犯の常習者だった米ソを中心とする大国の手に委ねられ、おもに国連外でおこなわれた。国際政治学や国際関係論が安全保障の問題をあつかう場合も、このような現実を反映して国連の集団安全保障はほぼ無視してきた(359頁)」。
ということで長くなってきたので、最後に次のまとめの文章を引用しておしまいにしましょう。「国際法とはけっして日本国民から独立してなにか別の物として存在し、働くものではない。それは世界の約二〇〇の国の人々の(規範)意識を反映し、その二〇〇の諸国の行為――作為のほか不作為もふくむ――の総体として日々構築され、実現されるものなのである。むろん、米国のような超大国と人口わずか数万から数十万といった小国のあいだには、国際法のありかたに与える影響力の点で天地ほどのちがいがある。しかしその点からいえば、日本はあきらかに人口数万の小国ではなく、世界第三位の経済大国である。その日本が「国際法から降りて」しまうことは、国際社会全体の観点からみたとき、日本国民が考えるよりはるかに大きな負の効果を国際法秩序にもたらすことになるのである(390〜1頁)」。二点だけコメントしておきましょう。一つは前半の文章によって、国際法がまさにボトムアップに機能していることが示されている点。もう一つは、日本が「国際法から降りて」一国平和主義や、もっとあからさまに言えばフリーライダー主義を取ることは、結局「日本国民が考えるよりはるかに大きな負の効果を国際法秩序にもたらすことになる」と正しく指摘している点。『日米同盟の地政学』を取り上げたときに、「第二次世界大戦時には、日本は自ら率先してアジアを荒らしまくったわけだけど、今や木を見て森を見ようとしないきわめて妄想的な、一部の日本人による一国平和主義は、自ら消極的に引き籠ることでアジア(当然それには日本自身も含まれる)の安全保障を脅かしているとも言える。要するにベクトルは逆でも、戦前戦中においても現代においても「日本的視点」に拘泥している人々が不作為によってアジアの安全保障を危うくし続けているのですね。しかもそれに気づいていないという」と述べたのはまさにそういうことなのですね。ということで、世界がひどくキナ臭くなってきた今日において、国際法を知ることは非常に重要だと思うので、ぜひ一度読むことをお勧めしたい。
※2024年5月28日