◎伊豫谷登士翁著『グローバリゼーション』(ちくま新書)

 

 

著者の本は以前に『グローバリゼーションとは何か』(平凡社新書)を読んだことがあるけど、2002年の刊行だからさすがに古すぎる。グローバリゼーションの様相はそれからさらに大きく変わっているし。ということで、すでに述べたことがあるけど、個人的なグローバリゼーションの定義を最初にあげておきましょう(なので著者が言っていることではまったくありません)。

 

私めにとってのグローバリゼーションとは、世の中のあらゆるもののごとに関して粒度の相違をなしくずしにして一元的、均質的なものにしようとする営為のことをいう。世界から国境をなくそうなどといった理念は、その極端な例だと言える。それに対してインターナショナリゼーションは、生活圏として機能する中間粒度(その最大の実体は国家になる)を維持しつつ、それを基盤としてより粒度の大きな国際関係を連邦的なあり方で構築していこうとするやり方をいう。

 

つまりグローバリズムはトップダウンで世界を一元化しようとするやり方であるのに対して、インターナショナリズムは多元性、多様性を確保したうえでボトムアップで国際関係を築いていこうとするやり方だと言える。もちろんこれは現在の私めの見方であって、この新書本にはどこにもそんなことは書かれていない。だから納得できる部分もあれば、そうでない部分もあった。

 

それを順に見ていきましょう。まず第1章では、ナショナリズムとグローバリゼーションの関係について、やや長くなるが次のように述べられている。「グローバリゼーションとナショナリズムは相反する事象として対置され、しばしば対抗的に捉えられてきました。それは、グローバリゼーションとは国境を越えるさまざまな動きであり、それに対抗する政治や運動などがナショナリズムであると捉えるような考え方です。そこでは、グローバリゼーションの高揚はナショナリズムの衰退であり、ナショナリズムの高まりはグローバリゼーションの退潮だと考えられてきました。¶しかしながら、こうした理解には問題があります。というのも、じつはこの両者は、決して相反する対抗的なものではなく、むしろ相補的なものだからです。グローバルなものとナショナルなものというのは、対立する概念ではありません。この両者の共振こそがグローバリゼーションを考える際の、もっとも基本的な課題なのです。¶グローバリゼーションは、ナショナルな装置や機構を改編あるいは空洞化しながら、国家的な規模で組み替えています。そこでは、ナショナルなものが消失するわけではありません(48頁)」「グローバリストは、しばしばナショナリストでもあります。グローバリゼーションと言われながらも、近い将来に国民国家が消失すると考えている人は少数であり、むしろナショナルなものは再編され、部分的には強化されるだろうという見方が一般的です。ナショナリズムとグローバリゼーションとの共犯関係こそ、グローバリゼーションと呼ばれる時代を読み解く鍵となるわけです(49頁)」。

 

あるいはもう少し具体的な記述としては次のようなものがある。「グローバルとナショナルは{截然/せつぜん}と分けられるものではありませんし、グローバリストであることとナショナリストであることは矛盾しません。グローバル資本は、国家にリスクを転嫁するとともに国家によって保護され、ナショナルなものを創り出しています。(…)サスキア・サッセンの言葉を借りれば、グローバリゼーションとは「脱国家化(デ・ナショナライズ)」と「再国家化(リ・ナショナライズ)」の過程でもあるのです(『グローバリゼーションの時代』)(54〜5頁)」。

 

私めのグローバリゼーションの定義からすると、ナショナリズムはインターナショナリズムとは相補的であるとしても、グローバリズムとは対立することになる。では私めの考えと著者の考えが矛盾するのかというと必ずしもそうではなく、その違いはグローバリゼーションの定義の違いに起因しているように思える。結局著者やサッセンの言うようにグローバリズムといえども、国家などの中間粒度の実体との共犯関係がなければ存立し得ないのだとすれば、「国境などなくすべき」だなどといった形態の、粒度を完全になしくずしにしようとするグローバリゼーションが現実にはあり得ないことを意味するから。

 

私めがグローバリゼーションを批判するのは、まさにそれを実現することなど不可能であり、その不可能なことを無理やりトップダウンで押し進めればファシズムにならざるを得ないと思っているからなのです。だからナショナリズムとグローバリズムの共犯関係を指摘する著者やサッセンの見解は間違っているとは思わない。むしろグローバリゼーションにも、人々の生活がかかわる中間粒度にアクセスするためにナショナリズムが必要だということになれば、中間粒度そのものをなしくずしにすることなどできないことを意味するわけだから、私めの見方と何ら矛盾しない。

 

いずれにせよ、現代のグローバリストに限らず、昔から帝国主義者などの覇権主義者はナショナリズムを巧妙に利用してきたのであり、グローバリストの範疇には入らないだろうけど、今でもロシアのプーチンや中国の習近平などの覇権主義者がナショナリズム的言説で自己を正当化していることについてはすでに何回か述べてきた。いわば覇権主義者にとってナショナリズムは便利なツールとして使えるというわけ。でもそのことは逆に、ナショナリズムと覇権主義/帝国主義/グローバリズムは本来別物であることを意味するわけで、それどころかナショナリズムは第二次世界大戦直後にアジア・アフリカ諸国を帝国主義の軛から解放する手段にすらなったことはすでに何度も述べてきたのでここでは繰り返さない。

 

次に著者は第2章で人間の移動を取り上げて次のように述べている。「人権や民主主義という戦後の国際政治で掲げられてきた理念は、たとえ建前であったとしても、かろうじて大きな戦争を食い止める防壁として機能し、人種差別は正当性を失ってきました。しかしいま、悲惨な戦争を繰り返さないために創り上げられた戦後の枠組みや規範が、大規模な人の移動によって、そしてコロナ禍のなかであっけなく崩れようとしているようにみえます。そして現代の移民や難民と呼ばれる人たちをめぐる混沌とした閉塞状況のもとで、欧米諸国の政府は、移民を制限し、あるいは国境を閉鎖する時代錯誤と思える政策を掲げるほかには、有効な政策を見いだせないでいます。なぜ人権や民主主義という理念は、このように色あせてしまったのでしょうか(67頁)」。

 

最後の問いは簡単に答えられると思う。それは「人権や民主主義という普遍的な理念ではあっても、結局そのインプリメンテーションは、人々の生活が関わる中間粒度、すなわち最大でも国家規模でなされる必要があり、移民や難民の数が増えてしまえばその中間粒度が危殆に瀕してしまうから」という答え。神学にさえ決疑論(casuistry)なるものがあるわけだし。アメリカには今、南北の国境から年に100万人単位の不法移民が流れ込んでいるとのことらしいけど(もちろんなかには犯罪者のように追い返される人もいるけど、「不法移民」の「不法」がとれるような処理を施して受け入れるケースが増えているらしい)、アメリカだからまだなんとか吸収できても(そのアメリカでさえ、サンクチュアリ都市へのバス攻撃とか消化不良を起こしているしね)、日本に年間100万単位の不法移民がやってきたら、人々の生活にかかわる中間粒度の安定的な存続を担保している最大の機関である日本国という国家が崩壊することになるだろうね。すると今度は日本が難民輸出国になっちゃう。それでは元も子もない。EU諸国も、移民や難民の受け入れでパンクしてもたし。もちろん指針として人権や民主主義などの普遍的な理念を掲げることには大きな意味がある。

 

でも理念を現実化するにはインプリメンテーションが必ずや必要になる。世の中にはその点を忘れている人が大勢いる。人権を例に取り上げると、人権をインプリメンテーションする際には、つねに特定のタイプの人々が対象になる。するとあるタイプの人々の人権を守ろうとすれば、別のタイプの人々の人権が毀損される場合がある。つまりあるタイプの人々の人権を守ることが、別のタイプの人々の人権を毀損することのアリバイになる場合があるってことね(ガヤトリ・スピヴァクだったか誰だったか忘れたけど、左派系の思想家にもそういう指摘を正しくしていた人が昔はいたけど、今の政治家や活動家がその点をわきまえているかはきわめて怪しく思える)。先のアメリカへの不法移民の例で言えば、アメリカにとって不法移民に該当する人々の人権を重視して国境をゆるゆるにすれば、今度は国境沿いの住民の人権が毀損されるなどといった具合に(そもそも国境をゆるゆるにすれば、流れ込んでくるのは不法移民だけではない)。

 

グローバリゼーションによる人の移動で生じている問題とは、この理念のインプリメンテーションの問題であることが多いと思う。結局、インプリメンテーションを行なう主体は人々の生活に関連する中間粒度に属する団体である必要があり、それには今のところ国家(政府)くらいしかない。するとそのインプリメンテーションに関してどんな問題が生じようが、それは国家、ひいてはナショナリズムのせいであるように見えてしまう。そして実際、左派メディアは移民の制限をナショナリズムのせいにしている。この態度はきわめて無責任だと思う。

 

現実はそれほど単純ではなく、もし可能であっとして国家ではないどんな単位がこのインプリテーションを担当したとしても、世界中の人間が完全に均質でない限りは必ずや問題が生じるはずだから。要するに、たとえばブレクジットをイギリスのナショナリズムのせいにするなど、この問題をナショナリズムのせいにしたところでどんな解決策も得られない。ナショナリズムを完全に排することが仮にできたとしても、同じ、もしくは別の問題が金太郎飴のように再現するに決まっているのだから。

 

新書本からかけ離れてきたので話を元に戻すと、第2章の著者の主張にはおおむね同意するけど、ただし細かい点では疑問符がつく部分もあった。たとえば「ナショナリズムに席巻された悲惨な戦争(72頁)」のようないかにも左派メディア調のもの言いがあるけど、これでは、いかにも戦争はすべからくナショナリズムに煽られて引き起こされているかのように響く。確かにナショナリズムが戦争に一枚嚙んでいることは多いけど、その場合でも帝国主義者、覇権主義者、拡張主義者が己の悪事を正当化するためにナショナリズムを利用しているという側面のほうが強い。本来ナショナリズムは内向きだから、あまり外へ出て行こうとはしない。それは、最近ではトランプの自国第一主義を考えてみればよくわかる。ことの是非はともかく、彼が国境に壁を作ろうとしたことは象徴的だと言える。というのも国境の壁は外からの人間の流入をせき止めるものではあっても、自らが外に出て行こうとするときにはじゃまにしかならないからね。要するに、本来のナショナリストは引き籠りにはなっても、対外戦争を仕掛ける主体にはなりにくいということ(もちろん自国が他国に攻め込まれれば徹底抗戦するけどね。今のウクライナがその格好の例になる)。あるいはベトナム戦争や朝鮮戦争や湾岸戦争にナショナリズムがどれだけ関わっていたのだろうか? とはいえ些細な疑問なので気にしないことにする。

 

次の第3章では、タイトル通りグローバル資本と世界経済が論じられている。まずその歴史的な端緒について次のように述べられている。「近代のグローバルな空間の形成は、他方では差異化を生み出し、境界を作り出す過程でもありました。すなわち、近代世界においては、国民国家の形成が差異化を生み出し、それが植民地の形成をもたらしたのです。近代世界の形成過程においては、一定の領域を単位として政治的・文化的・社会的な差異が意識されるようになり、そうした差異によって作られた境界を固定化しようとしてきたのです(…)(78頁)」。

 

この見立てにはおおむね同意するけど二点指摘しておきたい。「差異(化)」という言葉は、「差別」や「格差」を思い起こさせてネガティブに響くけど、「多様性(化)」と置き換えれば、あ〜ら不思議、「植民地の形成」を除けば途端にポジティブに響くようになる。要するにものは言いようなのですね。まさに国民国家が国境という境界を画すのは、自国における政治や文化や社会を安定化させ、独自性(つまり世界全体から見れば多様性)を確保しようとしてなのですね。

 

もう一つは、「近代世界においては、国民国家の形成が差異化を生み出し、それが植民地の形成をもたらしたのです」とあるように、やはりこの文章にも先に指摘したナショナリズムと帝国主義、覇権主義、拡張主義を同一視しようとする傾向が見られること。むしろナショナリズムは、グローバリズムに利用されているのと同様、帝国主義にも利用されていたと見るべきだと思う(もちろんそれはそれで問題だけど)。ちなみに「帝国」と日本語で言うと「国」という語が入っているけど、英語では「empire」であって国民国家を意味する「nation」や「state」は含まれていないのでその点留意されたい。

 

第4章は、タイトルどおり、世界都市とグローバル・シティを取り上げており、詳細は説明しないけど、おもにサスキア・サッセン(アルゼンチン出身のおばちゃん社会学者)とデヴィッド・ハーヴェイ(イギリスのじいさま政治経済学者)の議論を参照しているもよう。この二人の本は私めも何冊か読んだことがあるけど、正直、内容はほとんど忘れている。

 

次の第5章は、人の移動を論じているんだけど、同意できる側面とやや疑問符がつく側面があった。前半はほぼ同意できる内容だった。たとえば次のようにある。「グローバリゼーションと呼ばれる変化は、近代世界を支えてきた秩序体系を表す定住のあり方も大きく変えてきました。しかし定住が当たり前になったのは、じつはそれほど昔のことではありません。国民国家という境界にもかかわらず、近代は絶えざる人の移動を経験してきたのであり、いまという時代から、近代における移動を改めて問いなおすことができます。共同体の軛からの解放を祝福し、自立した個人を礼賛してきた近代という時代は、他方では、たえず失われた共同性への羨望に満ちあふれていました。いまさまざまな局面で台頭しているコミュニティやナショナルなものへの期待は、移動という観点から読み解くことができるのです(147頁)」。なおここでいう「移動」には、国際的な移動のみならず、農村や地方都市から大都市への移住などの国内移動も含まれる。

 

この見立てにはほぼ全面的に同意するけど、私めなら「失われた共同性」は「失われた中間粒度」と言いたいところ。人々の生活にかかわる中間粒度は、移動する側にとっても受け入れ側にとっても重要な機能を果たしているのであり、それが失われることはどちらにとっても大きな障害になる。ところが後半には、にわかには首肯できない部分が見受けられる。たとえば第5章の最後のほうに「資本と商品あるいは情報の移動の自由を拡大しながら、人の移動を制限することには明らかな矛盾があります(158〜9頁)」。なぜ「明らかな矛盾」なのか私めにはさっぱりわからない。前述のとおり、移動する側の人々にも受け入れ側の人々にも、生活を支える中間粒度の存在が非常に重要になる。でも資本、商品、情報にはそんな要件はまったく存在しない。そもそも望まれない商品や情報は、最初から広範に流通したりなどしないし、流通しなかったからと言って特に人権問題が生じるわけでもない。ところが人の場合には、そうはいかない。だから矛盾するとすればそれは論理レベルにおいてのみであって、人々の生活が関与する中間粒度のレベルではそのことはまったく矛盾にはならない。先にあげた前半の提言から、なぜ後半のこの提言が最終的に出て来るのかまったく理解できない。

 

またそのことは、「人の移動は多様であり、個々の人の移動を大きな物語に回収することはできません。それを国民国家の物語にしてきたのは、眺める側、そして研究者の側、小説の書き手の側でした(155頁)」などの記述にも見られる。ここで言う「大きな物語」がリオタール流のそれを意味するなら、それは至極当然というものでしょう。でも人の移動には、「中間粒度」の{物語/ナラティブ}はつきものなのですね。だから「個々人の移動」は、「大きな物語」には回収されなくても、「中間粒度の物語」には必然的に回収される。国民国家は中間粒度の代表的な存在であり、だから移動を国民国家の物語にしたのは、眺める側に限られるわけではなく、必然性がそうしたのであり、よって移動する側もそうしてきたのだと思う。さもなければ、移動する側はデラシネ、あるいはさまよえるオランダ人になるしかない。ところが移動する側のナラティブと受け入れ側のナラティブはたいてい異なるから、そこに軋轢が生じる。欧州は当初、中東からの難民を積極的に受け入れていたけど、それは人権などの、それこそまさに大きな物語に沿ってなのですね。ところがそれによって受け入れ側の中間粒度が毀損されうることに気づいたときに逆の流れになった(つまりインプリメンテーションの問題が露わになったってこと)。

 

それに対してたとえばウクライナとポーランドは、欧州と中東の関係とは違って、文化的にも慣習的にも中間段階のナラティブをかなり共有している。それどころか大国に脅かされてきた過去の歴史も共有している。だからポーランドは、中間段階のナラティブの共有の度合いが大きいウクライナからの難民を最大限受け入れている(もちろん多くの難民は世界各地に分散しているけど、ポーランドにも相当数が残っているはず)。だからたとえば移民や難民の受け入れを渋るようになった昨今の潮流を、もっぱら右傾化のせいにしている左派メディアの論調はあまりにも単純すぎるってこと。そのようなどんぶり勘定的な見方は、あらゆるものごとが加速度的に複雑化しつつある現代には通用しない。むしろこの問題が右傾化のようなイデオロギー的な問題であれば、解決はそこまでむすかしくはないのかもしれない。その解決がむずかしいのは、まさにそれが中間粒度の瓦解、言い換えれば人々の日常生活の毀損という問題が不可避的にともなっているからだと思う。

 

だから右傾化を強調する左派メディアの喧伝は、真の解決を余計にむずかしくする目隠しとして作用せざるを得ない。著者も終盤の章では、「極右」を連発して、あたかも極右が移民問題を引き起こしているかのような書き方をしているけど、そのような認識ではこの問題は絶対に解決できないと思う。そもそも「極右」はまさに「右の極」に位置しているのであって、浅間山荘事件を起こした活動家のような「極左」がごくわずかしかいないように、ほんの一握りしかいない。その一握りの「極右」がいなくなれば移民問題はおのずと解決するとでも思っているのだろうか。それは絶対にあり得ない。なぜなら移民問題は、移民する側にとっても受け入れ側にとっても日常生活がかかった中間粒度に関する問題なのであって、おおぜいの一般庶民に関係する問題だからなのよね。形骸化した左派メディアの主張を無闇に繰り返すことほど無益なことはない。いやそれどころか、ものごとの本質が見失われて有害だとさえ言える。

 

新書本に戻ると、要は、第5章の前半は中間粒度の重要性を認めていながら、後半ではそれを軽視しているきらいがあるという印象を受けた。実はここまででやっとこの新書本の半分にしかならないんだけど、長くなり過ぎたのでこの辺で終わりにする。後半はアジアや日本の話が中心になっているもよう。全体的には、なかなかおもしろい本だと思った。

 

 

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※2023年4月28日