◎轟孝夫著『ハイデガーの哲学』(講談社現代新書)
新書なのに500頁近くもあり、やたらにメタボっているなあというのが第一印象。ちなみに著者には『ハイデガー「存在と時間」入門』という、同じ講談社現代新書から刊行されているハイデガー本があり、「あとがき」によれば『ハイデガーの哲学』は、その続編として書いたものらしい(ちなみにこの前著も読んだことがある)。どうでもいいことだけど、著者紹介欄を見ると、著者の轟氏は防衛大学教授らしく、「防衛大学でハイデガーを教えているんですかあ」と思ってしまった。ちなみにハイデガーの著書は、もっとも知られている『存在と時間』を二度読んだことがあるだけで、他の著書は一切読んだことがない(解説書のたぐいはさんざん読んできたけど)。
と前置きしたうえで、本論に入りましょう。いきなり「はじめに」で、本国ドイツでの昨今のハイデガー受容の状況が書かれていて冷や水を浴びせられる。欧米では、「ハイデガーの哲学から明確に距離を取ることが「政治的に正しい」態度になっている(14頁)」らしい。まあ21世紀に入ってから、世界は「ポリコレ」で埋め尽くされるようになっているからねえ。現代ドイツの若手哲学者で日本でも大人気?のマルクス・ガブリエルなんか、「ハイデガーを「筋金入りの反ユダヤ主義信者」、「完璧なまでのナチのイデオローグ」などとさんざんこき下ろしたうえで、次のように述べている。「だから二〇一八年に京都大学で講演をしたとき、『ハイデガーを読むのはやめなさい!』と言ったのです。わたしは人々の眼を覚ましたかった。ハイデガーが日本でとても力をもっていることは知っています」(14頁)」。なんと四〇歳にも満たないドイツの若造が、日本の哲学のメッカとも言える京都大学でそんな講演をするとはええ度胸だよね。学生はともかく人文系の古参教授連中は「この若造めが! 上から目線で何を言ってやがる!」って思ったかも。哲学とはあまり関係ないけど、ガブリエルさんは「SNSを廃止せよ!」とか、私めでさえ「おぼっちゃま、それは甘いよ!」と思えるようなことをときに書いているしね。
いずれにせよ、著者によれば、二〇一四年に、俗に「黒いノート」と呼ばれる、ハイデガーの覚書が記されたノート群が全集版として刊行されはじめてからは特に、欧米ではハイデガーがいわば悪魔化してとらえられるようになっているらしい。この調子では、ドイツに行って、うかつに「ハイデガーさま」などと言おうものなら、総スカンを食らうか、悪くするとタコ殴りにされるだろうね。そうしてみると、ハイデガーの入門書を、周囲を気にせず読める日本は実に平和だねえ(「え! どうせ引き籠っているんだから、周囲に人などいないくせに!」って言われそうだけど)。もちろん著者は、そのような反ハイデガーの立場は取っていない。次のようにある。「実際、彼は学長辞任後、それまでの立場を変えるどころか、むしろ同じ立場に基づいて、ナチズムの貧弱な哲学的基礎を批判するようになってゆく。こうしたナチズムとの思想的対決の根拠となったのが、まさしく彼の「存在の思索」に基づく「フォルク」概念なのである。ハイデガーは自身の「フォルク」概念に依拠して、ナチズムの人種主義イデオロギーを徹底的に解体しようとしたのである(18頁)」。なお「フォルク」という言葉は、一般的には「民族」「国民」「民衆」を意味するけど、ハイデガーはこの言葉にそれとは異なる意味合いを持たせている(それについてはあとで触れる)。
だから著者によれば、「もしわれわれがハイデガーのナチス加担を理由として、彼の思想的業績をすべて否定してしまうと、皮肉なことだが、そのことによってナチズムの弱点を根本から{剔抉/てっけつ}する思想的立場もまた手放すことになる(18頁)」。おいおい、肝心なところで「剔抉」などという、いかにも高山宏氏が好きそうな難解な言葉を使うから、ヘタレ読者はくじけそうになるではないか。翻訳でこれをやったら、校正で直されるだろうね。まあそれはいいとして、「剔抉」とは「悪事や欠陥、矛盾などをあばき出すこと」を意味する。ちなみに「彼の思索の眼目は、(…)「存在への問い」という根源的な立場から、「正しい」近代批判の方向性を示すことに置かれていた(52頁)」のだそう。個人的には近代批判には有益な提言が含まれていたと思うけど(たとえばアドルノ&ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』などを考えてみればよい)、確かに著者の次の見立ては正鵠を射ていると思う。「近代批判に伴う危険性は、現代に生きるわれわれにも無縁ではない。近代批判的な言説は今日においても至るところで流通している。政治的右派、左派どちらの立場にもそれは結合しうる。また宗教的原理主義の運動も、近代性との対決という性格をつねに帯びているし、環境保護運動なども近代文明批判と切り離すことはできないだろう。このように、近代の問題を指摘し、その克服を唱える思想がいろいろな形を取って現れては、多くの人びとを惹きつけるという現象は今も繰り返されているのである(52頁)」。
しかし、このような「近代批判の批判」は、「近代批判」をすることが間違いだと言いたいのではなく、そのやり方が悪いと言っているのですね。次のようにある。「ハイデガーから見れば、こうしたさまざまな近代批判は思想的な徹底性を欠いているために、よくて無意味、悪ければ大きな破壊をもたらすものでしかない(52〜3頁)」。これを読んでふと、環境保護を名目に、二酸化炭素の排出を抑えるためにメガソーラーを設置しまくって森林を切り倒し、結局環境破壊を激化させている日本の本末転倒した状況を思い出した。それは余談としても、ハイデガーは次のように考えていたとのこと。「彼は、こうした失敗を避けるためには、まず何よりも、近代の本質を正しく洞察しなければならないと考えていた。そして彼自身は、この西洋近代の本質を「存在忘却」のうちに見定めた。したがって、ハイデガーによれば、今日のわれわれが近代批判と適切な仕方で関わるためには、まずはこの、忘却された「存在」が何を意味するのかを正しく理解しなければならないのだ(53頁)」。なかなかおもろそうな展開になってきたよね。
ここまでの記述は「はじめに」と「序論」に関するものだったけど、いよいよここから本論に入る。「第一章 「存在への問い」の概要」は非常に重要なので、本書のメタボぶりにビビった人も、放り出す前にこの章までは読んでおくことをぜひお勧めする。この章では、ハイデガーの言う「存在」と「真理」とは何かについて概要が示されている。まずは「存在」から。著者は、「ハイデガーは「存在」にはさまざまに、種別的に異なるものがあるとする。たとえば生物と道具とは、まったく異なった存在様式をもっている(65頁)」と前置きしたうえでさらに次のように述べる。「ハイデガーは、そうした「存在」が本質上、ある固有の場によって規定され、特殊化されていること、つまり場所と不可分であることを強調した。(…)それぞれのものが置かれた「場所」がそれぞれのあり方を規定し、特定化しているという意味で、「存在」は「場所」と切り離せないのである(65〜6頁)」。「場所」という概念は、欧米人より日本人のほうが受け入れやすいのでしょうね(ここでは詳しく述べないけど「風土」の概念はハイデガーの考えとも親和性がある)。とりわけアングロサクソン系の思想家には、「場所」のようなあいまいに聞こえる概念を嫌う傾向があるように思われる(アフォーダンス理論などはむしろ例外的かも)。
それはそれとして、著者はさらに次のように述べる。「したがって、われわれが「存在」を今述べたような相において理解するためには、われわれ自身が「存在」を限定するこの「場所」におのれを晒し出し、そうした「場所」を何らかの仕方で理解していることがその前提になる。ハイデガーが人間を意味する述語として用いる「現存在」は、このような「場所」へと関わり、また「場所」によって規定された存在として人間を捉えようとするものである。¶このように、ハイデガー的な意味での「存在」を主題化するということは、それ自体がわれわれ人間のあり方の変貌を要請するような事態となる。万人に妥当する普遍的真理を捉える「理性」を備えた人間という従来の人間観を捨て、「場所」によって規定され、同時にそうした「場所」を保護する現存在となることが求められるのだ(66頁)」。次に述べることは私めの個人的な感想であって著者の見解ではないんだけど、こうしてみると21世紀に入って、欧米ではハイデガーがますます忌避されるようになっていった理由が、単に彼がナチスに協力したという事実が「黒いノート」などによって鮮明化してきたことだけにあるわけではないことがわかってくる。つまり世界を均質的にとらえようとする、普遍主義者やコスモポリタン、あるいはもっと最近の言い方では、グローバリゼーションの浸透によって台頭してきたグローバリストにとって、「場所」を強調するハイデガーの主張はきわめて都合が悪そうだよね。「「場所」によって規定され、同時にそうした「場所」を保護する現存在」とは、私めの言い回しで言えば、「人間は基本的に中間粒度に属する」ことを意味する。「場所」によって規定されるのが人間の本質であれば、人間はまさに多様な存在であることになる。グローバリゼーションを擁護しながら、その一方で多様性を喧伝する知識人を見かけることがあるけど、彼らの頭の中では「グローバリゼーション」と「多様性」のギャップがどうやって埋められているのか、ときに疑問に思うことがある。
ではハイデガーの言う「存在」と、伝統的な西洋哲学で言う「存在」では何が違うのか? それは本書では次のように説明されている。「たとえば鳥と石という存在者は、ハイデガー的な「存在」の観点から捉えると、それぞれにまったく異なる「存在」をもつ。鳥は飛んだり、えさを捕ったり、卵を産んだりする。それに対して、石は河原に積み重なり、ないしは山中に鎮座していたりする。このように両者は存在者としての種類の違いに応じて、それぞれが異なる存在の可能性をもつ、ということはすなわち、それぞれが異なった「時−空間」を形作っているということだ。¶これに対して、伝統的な西洋哲学においては、存在者が「現在」目の前に出来していること、すなわち現前性が存在の意味だとされてきた。ここでは鳥と石は眼前に出来する存在者である限りにおいて、その存在に差異はないことになる。つまりそれぞれに固有の「存在」は最初から視野から抜け落ちてしまっている。このように、西洋哲学においては、鳥が存在することが、単に鳥というモノが{いま/傍点}眼の前にあることに、切り詰められてしまうのだ(74頁)」。
あるいは次のようにある。「ハイデガー的な意味での「存在」は過去と将来への拡がりをもち、しかもこの時間的な拡がりがそれ自身において、空間的な拡がりでもある。すなわち存在者の「存在」は、ある固有の「時−空間」の生起と捉えられている。これに対して、存在が単に存在者が目の前に出来することと理解されると、時間と空間とはどの存在者にとっても中立的な枠組みにすぎなくなる。ハイデガー的な「存在」に伴う質的に差別化された「時−空間」ではなく、どのような存在者も区別なく収容する容器のようなものと捉えられるのだ(74〜5頁)」。前述のグローバリゼーションと多様性という話に強引に当てはめると、グローバリゼーションは時間と空間を「どのような存在者も区別なく収容する容器のようなもの」として捉えるのに対し、多様性は「ハイデガー的な「存在」に伴う質的に差別化された「時−空間」」の内部で初めて成立しうるものなのだと思う。だからグローバリストは、グローバリゼーションと多様化のギャップをどうやって埋めようとしているのかと言ったわけね。
次に真理について。従来の哲学では、真理とは次のように考えられてきたとのこと。「伝統的な哲学においては、真理とは、「ものと知性との合致」であるとされてきた。ここで言う「もの」とは、先ほど述べた、眼前に出来している存在者である。いっぽう「知性」とは、より具体的に言うと、そうした「もの」についての「表象」、すなわち「言明」である。そしてこの「言明」は、「SはPである」をその基本的形式とする。この「言明」が「もの」の実際のあり方に「合致」していること、すなわち「言明」が「もの」へとまっすぐに向かっていることとしての「正当性(Richtigkeit)」が、伝統的哲学においては真理とされてきたのである(78頁)」。それに対してハイデガーは、「「存在者が立ち現れていること」そのものを「真理」だとする(79頁)」のだそう。そしてそのような「存在」や「真理」に関するハイデガーの見方は、「原理的には、すべての理性は同一の普遍的な真理に到達できるはずであり、その本来の性能においては他と等しい(86頁)」と見なす伝統哲学の捉え方とは異なり、現存在、すなわち人間に関して次のような考えを取る。「こうした西洋の伝統的な人間観に対して、ハイデガーは「存在に聴従する」という人間像を提示して、それを「現存在」と呼ぶのである。(…)現存在が聴従する「存在」が風土的、地域的限定をもつことにより、現存在自身もまた風土的、地域的に限定されることになる。つまり理性的動物が地域的な差異をもたない普遍的な性格をもつのに対し、現存在はまさに地域的な限定性を、おのれの本質とするのである(87頁)」。
ややあとの章になるけど、だから言語に関してもハイデガーは次のように考える。「西洋哲学においては、言語表現は「世界」という特殊なコンテクストに依存することなく、だれもが理解できる明晰判明なものであるべきと考えられてきた。そして「言明」は、このような条件を理想的な形で満たす規範的な言語形式とされてきた。それに対して、ハイデガーはこのような「言明」は、派生的、二次的な言語の様式にすぎないとする。彼にとって、「言語」は何よりも「世界」の「語り」を保存するものとして、「世界」に根ざしたものなのである。¶そしてこの「世界」が地域的な多様性をもつとすれば、「言語」も本質的に場所的、地域的に限定されたものとならざるをえない(136頁)」。これらの記述を読んだ私めは、思わず「うむむ! これでは世界中でグローバリゼーションやポリコレの嵐が吹き荒れる現代にあっては、そりゃ忌避されるだろうな」と思ってもた(もちろん「中間粒度」をペットフレーズとする私めは、ハイデガー的な考え方のほうを支持するけどね)。
ちなみに前述のフォルクに関して次のような補足があるのでつけ加えておく。「ハイデガーが「フォルク(Volk)」について語るときにも、この「存在」によって限定された現存在の共同性がつねに念頭に置かれている。(…)ハイデガーはそのどの用法[民族、民衆、国民など]とも一線を画し、自身の「存在への問い」によって基礎づけられた意味においてこの語を使用する。(…)ハイデガーが「ドイツのフォルク」について語る場合にも、あくまでもその「フォルク」は今述べた意味において理解されなければならない。これは通常、「ドイツ民族」と訳されるので、われわれはそこにどうしても、ドイツ民族の特権性、優越性を主張する自民族中心主義的なニュアンス[を]みてしまう。しかし彼はむしろ、そのような民族理解を自身のフォルク概念によって解体しようとしているのだ。つまりここでは、「文化」や「人種」といった要因によって規定された「ドイツ性」なるものが、あらかじめ前提とされているわけではない(87〜8頁)」。これはのちの章との関係においても重要なので、よく覚えておきましょう。
さて「第二章 前期の思索」と「第三章 中期の思索」は、ここまで取り上げてきた概要を、具体的にハイデガーの著作に照らしながら解説していくという形態が取られているので簡単に触れるにとどめる。第二章では、もっぱら『存在と時間』が取り上げられている。最後の記述がとりわけ興味深いので、やや長くなるけどそこだけ引用しておきましょう。次のようにある。「ハイデガーは少なくとも、『存在と時間』の執筆の最終段階においては、人間を存在者の「存在」が生起する場と捉える視点を確立していた。つまり単なる人間存在の探求を突き抜けて、人間存在をその根底において基礎づけるものとしての「存在」の生起そのものを主題化する地点に到達していたのである。ここにわれわれは、西洋哲学全般を規定する人間中心主義からの脱却の端緒を見て取ることができるだろう。¶ハイデガーは「存在への問い」の着想に至ったとき、人間を通して世界へ、というそれまでの哲学の典型的な手続きに則ってその問いを定式化しようとしていた。つまりまずは現存在の存在を押さえたうえで、そこに「存在」がどのように現れているかを現象学的に記述するという仕方で「存在」という事象を明らかにしようと試みたのだった。しかし現存在を起点として「存在」に接近するというこの方法を取ったことにより、「存在」を主観的意識の構築物とする超越論的哲学との違いが見えにくくなってしまった。そもそも「存在」という概念は、決して主観には解消されない「この世界」そのものの生起を捉えようとするものだった。しかし『存在と時間』の手続きでは、そのような「存在」が主観的意識の産物であるかのような印象をやはり与えかねないのだ。¶ハイデガー自身、『存在と時間』の刊行後、ほどなくして、現存在の分析を経由して「存在」を明らかにするという同書の行論の問題点を明確に意識するようになった。そしてその後は、現存在の実存論的分析を介さずに、「存在」という事象を直接的に示すことを試みるようになる(182〜4頁)」。もちろん『存在と時間』に対するこの見方が、専門家のあいだで一般的なのか、それとも著者独自の見解なのかは素人の私めには定かではない。
続く第三章では、ハイデガーが「現存在の実存論的分析を介さずに、「存在」という事象を直接的に示すことを試み」を行なっていた中期が取り上げられている。詳しいことは本書を読んでいただくとして、冒頭近くにある次の文章だけを引用しておきましょう。「本章では、中期におけるハイデガーの試行錯誤の過程を検討する。彼はこの時期になると、自身が「存在」と呼ぶ事象を「存在者全体」として捉え直すようになる。第一章[本書の「第一章 「存在への問い」の概要」を指す]で「存在」の意味を暫定的に説明した際、「存在」は「時−空間」の拡がりとして生起すると述べた。この存在の生起と不可分の「時−空間」という契機を、ハイデガーは中期になると「存在者全体(Seiendes im Ganzen)」という用語で捉えようとする。この表現によって、「存在」の生起が単なる意識の表象ではなく、むしろ現存在を取り巻く「世界」そのものの生起であることを強調して示そうとしたのである(187頁)」。ちなみにこのような文脈のもとでは、第一章に登場した「フォルク」の概念が重要になるけど「フォルク」についてはのちの章にも登場するので、ここではこれ以上述べない。
後半の最初の章は「第四章 ハイデガーのナチス加担」だけど、タイトルが示すようにハイデガーのナチスとの政治的な関わりが取り上げられている。とはいえ、ナチスに対するハイデガーの考えの基盤には、本書前半で説明されていた「存在」や「フォルク」などといった哲学的概念が厳然として存在しているわけで、それをきちんと把握しておかないとハイデガーの政治的態度を誤解することにつながる。冒頭に次のようにある。「『存在と時間』刊行後、「存在」が直接的に論じられるようになるとともに、共同体の基礎づけという「存在への問い」の政治的含意も顕在化してくる。ハイデガーのナチス加担として知られる出来事もまた、彼の思索のこうした政治性と密接に結びついている。ナチスへの関与が自身の哲学に基づいていたことについて、彼はとくに隠し立てはしていない(234頁)」。
ところが多くの「ハイデガー−ナチズム論」は、「こうしたハイデガー自身の説明をなぜか素通りし(…)そしてそのうえで、彼が重要な事実を隠蔽しているとか、ナチスに加担したことを矮小化しようとしていると言い{募/つの}る。さらにはこのようなハイデガーの隠蔽工作に{抗/あらが}うという自負をもって、自分たちがナチズム的だとイメージしているものをハイデガーのテクストから見つけ出し、彼の思索に潜むこの「ナチズム的な要素」ゆえに彼はナチスに加担したのだと結論づける(235頁)」。この手の藁人形論法や、結論からその証拠を無理やり導こうとする論点先取は、今やネットでもメディアでも盛んだよね(最近ツイッターに実装された「コミュニティー・ノート」はまさにその手の論法がネット民のみならず、ネットに進出している大手メディアやジャーナリストや政治家や自称知識人のあいだでも常態化していることを白日のもとに晒しているよね)。
ただそれでも一つ言えるのは、「ナチスへの関与が自身の哲学に基づいていたこと」については、ハイデガー自身も認めているという点に間違いはないこと。これをどう理解すればよいのか? 結論から述べると、それは「フォルク」という概念が、ナチスとハイデガーでは根本的に異なっていたにもかかわらず、ハイデガー自身その相違に気づかず、自分の主張する「フォルク」概念の実現を、「フォルク」を「人種」としてとらえていたナチスに期待したからだということらしい。それに関して著者は次のように述べている。「ハイデガーの「存在への問い」は「フォルク」の基礎づけを目指してなされたものだった。つまり彼の思索そのものが元来、「フォルク」に対するひとつの立場を示すものであった。それゆえナチスが「フォルク」の再生を唱えて台頭したとき、ハイデガーは自身の「フォルク」理念をナチスをとおして実現しようと試みた(235頁)」。要するに、ハイデガーはとんでもない見立て違いをしたということなのでしょう。もちろんハイデガーの、とりわけ学生に対する人気は当時絶大なものだったわけで、この見立て違いが非難されてしかるべきものであることは確かとしても、だからと言って、それによってハイデガーの哲学全体を否定することは、まさしく藁人形論法以外の何ものでもない。まあこうして見ると、世界中に拡大するグローバリゼーションを擁護する人々の価値観からすれば、場所的、地域的な「フォルク」を強調するハイデガーの思想はとうてい受け入れられるものではないのだろうから、「彼のナチス加担」は、ハイデガー攻撃の格好の武器、というか藁人形になるのだろうね。
ではハイデガーの言う「フォルク」概念とは何か? その問いに関して著者は次のように述べる。「多くの論者はハイデガーの政治的立場を語るとき、彼の「フォルク」についての言説を捉えて、それを偏狭なナショナリズムや自民族中心主義と同一視する。しかし彼の「フォルク」をめぐる議論は、むしろナチスがそのような誤った立場に陥らないように、「存在への問い」に立脚して「フォルク」の真の本質を提示することに主眼を置いていたのである。¶ハイデガーはすでに見たように、「存在」の生起とともに開かれる場、すなわち「存在者全体」を「フォルク」のあり方を真に規定するものと捉えていた。つまり「フォルク」が何者であるかは、その「フォルク」がおのれをどのような場に見出しているかによって決まるということだ。この「場」とは、すでに指摘したように、「風土」と言い換えることができる。つまりハイデガーは「フォルク」とは風土的に規定されたものだと捉えている。さらに言えば、「フォルク」の実質は「風土」そのものだということだ。¶これに対して、ナチズムが標榜していた人種主義は「フォルク」を「人種」と捉えており、ハイデガーが「フォルク」にとって本質的だと見なす「風土的なもの」がまったく視野に入っていない。彼はナチズムを自身の真正な「フォルク」概念によって再定義し、それを人種主義から脱却させようと試みたのだ(262〜3頁)」。つまり著者の主張に従えば、ハイデガー批判者は「フォルク」をハイデガー本来の意味ではなく、まさにナチス的な「人種」という意味で捉えてハイデガー批判をしているか、あるいは正しくハイデガー的な意味で捉えていながら、「風土」という場所的、地域的意味合いが、普遍主義、コスモポリタニズム、グローバリズムと相容れないから、あたかもハイデガーがナチス的な「人種」という意味で「フォルク」という言葉を使っているように見せかけて藁人形に仕立てあげたうえで批判しているかのどちらかということになりそう。
その後にある「フォルク」と「労働」「国家」「社会主義」の関係はここでは詳細には述べないけど、結論の部分だけ引用しておきましょう。「ハイデガーは、ドイツ的社会主義を、「労働」によって「存在」という「フォルク」固有の秩序に献身することと再定義したのである(278頁)」「ハイデガーは自身の労働論に基づいて「国家」や「社会主義」を定義し直し、そのことによって、「国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」があるべき姿を指し示そうとしたのだった(278頁)」。ちなみにNSDAPとはもちろんナチス党のこと。ところが「このような国民社会主義のハイデガー独自の規定は、実際にナチズムが前提としていた近代的な労働観、およびそれに基づく社会主義の捉え方とはまったく相いれないものだった(278頁)」というわけ。
続く「第五章 後期の思索」は、「第二章 前期の思索」「第三章 中期の思索」と同様、「第一章 「存在への問い」の概要」で論じられていたハイデガーの「存在」の概念が、彼の(後期の)著作に基づいて敷衍されている。したがって第二、三章同様、詳細には取り上げず、次の指摘をするに留めておく。中期までと後期とでは、用語の使用に変化があるとのことで、たとえば「形而上学」という用語の意味は180度変わっているのだそう。また「存在者全体」は誤解を招きやすい言い方なので使わなくなり、その代わりに「存在の真理」という用語が使われるようになったらしい。さらにそれにともなって、生成の場面を重視する「性起」という用語が新たに使われるようになったとのこと。以上は用語の問題だけど、それより私めの興味を惹いたのは、テクノロジーとキリスト教の関係についてハイデガーが次のように考えていたとあること。「キリスト教の創造説によって存在者が作り物として自明化されたことが、近代技術による存在者の全面的な対象化の下地を作ったと考えているのである(318頁)」。あるいは「現代のテクノロジーはその根本において、すべてのものが作りうるものであるという解釈に基づいている。ハイデガーはこの捉え方が、すべてのものを被造物と見なすキリスト教の創造説によって強化され、自明化されたものであることに注意を促している。そして近代においては、存在者は制作可能なものだというこの前提がそのまま引き継がれつつ、ただ存在者の作り手が、創造神から人間へと移行したと捉えるのである(318頁)」とある。現代ではドーキンス、デネットら無神論四騎士の啓蒙もあってか、宗教と科学が決定的に断絶していると考えられやすい。しかし実際には、媒介的な役割を介してではあったとしても、宗教、とりわけキリスト教(やイスラム教)と近現代科学には連続性があるということは、エドワード・グラントらの科学史家によって何度も指摘されている。それについてはここではそれ以上述べないけど、別の機会に述べましょう。いずれにしても以上のハイデガーの考えも、まさにキリスト教と近現代科学の連続性、しかも媒介的な役割を介してのみならず哲学的、思想的にも影響を及ぼしたことを示唆するものであり、宗教科学連続説を支持する私めには非常に興味深かった。
次の「第六章 ナチズムとの対決」は、章題が示すとおり再びナチスとの関係という政治的な話に戻る。ただし、この章ではハイデガーの後期の思想とナチスの関係に焦点が置かれる。まず章の始めのほうに次のようにある。「彼の西洋形而上学批判はそれ自身、ナチズムとの対決という性格をもっている。後期の思索の政治性を取り上げる本章では、彼が「存在の歴史」という観点から、ナチズム、ひいては今日われわれが全体主義と呼んでいる体制の本質をどのように捉えていたかも見ることにしたい(341〜2頁)」。全体主義というのは、何も二〇世紀に限られるわけではなく、二一世紀になってもくすぶっているという印象を持っている人には、なかなか興味深そうな話だよね。
第六章でもまず「フォルク」が重要な概念として登場し、ハイデガーの言う「フォルク」とナチスの言う「フォルク」がまったく異なるものであったことが強調される。次のようにある。「ハイデガーは「フォルク」を真に基礎づけるには、形而上学的な存在理解から脱却し、「存在」の真の所在を見出さなければならないと考えていた。彼はこうした考えに基づいて学生たちを指導しようとしたのだが、そのときに痛感したのは、「フォルク」をめぐるあらゆる言説を自身のうちに取り込む、近代的ナショナリズム、すなわち「主体性の形而上学」の支配の根強さであった(344〜5頁)」。ここで言う「近代的ナショナリズム」が「国民国家」に基づくものなのかどうかは定かでない。というのも、「第三帝国」を標榜していたナチスは「国民国家」というより「帝国」に近かったはずだから。
いずれにせよ、ここでは注目すべき概念として「主体性の形而上学」が登場する。では「主体性」とは何か? 次にそれが説明される。まず次のようにある。「ハイデガーは「主体性」を「近代(Neuzeit)」の本質を規定するものと捉えている。すなわち近代を端的に、主体性が支配的になった時代であると規定するのである(346頁)」。近代とは主体性によって特徴づけられる時代ということらしい。そして近代の歴史の主体性に関する本質的規定として次の二点をあげているとのこと。一つは「人間が主体(subjectum)として、存在者全体の中心におのれを位置づけ確保すること(346頁)」で、もう一つは「存在者全体の存在者性が、制作可能で説明可能なものが表象されている状態と捉えられること(346頁)」だそう。二つ目はちとわかりにくいけど、次の文章を読むと少しはわかるはず。「存在者をこのように、制作可能性、説明可能性において表象することにおいては、存在者の「存在」がもつ、人間にとって意のままにならないという性格、つまりその他者性は完全に抹消されてしまっている。そしてこのとき人間は、存在者に対する完全な主権を確立する。つまり一番めの論点で述べられている、人間がおのれを「主体」として確保することは、この二番めの点に基づいているのである(346頁)」。
ハイデガーは以上を踏まえて、近代という時代の本質を次のように捉える。「主体は、真の「尺度」たる「存在」を隠蔽し、破壊するものと位置づけられる。このような主体が、にもかかわらず「尺度」を与える唯一の存在として支配権を確立すること、これをハイデガーは近代という時代の本質だと見なすのである(347〜8頁)」。ここで気をつける必要があるのは、ハイデガーの言う「主体」には個人や「私」だけではなく、「「国民」、「フォルク」、「人種」などとして捉えられる「自立した人間集団」(348頁)」も含まれること。だから次のような結論が出てくる。「人間は個人としてよりもむしろ集団としてこそ、より本来的な意味での「主体」であるというのがハイデガーの考え方である。というのも、そのとき人間は「あるものすべて、作られ、生み出され、耐え抜かれ、勝ち取られるものすべてを自分自身に立脚させ、自分の支配のうちに取り込む」という軌道に乗るからである。(…)「主体性の歴史」とは、人間解放の歴史であり、人間が集団として世界を支配し利用する能力をどこまでも発揮していく歴史なのである(349頁)」。
個人的な印象からすると、これは究極的な形態で言えば、古代ローマ帝国から近現代の大英帝国、第三帝国、ソビエト帝国、大日本帝国などに至る帝国の歴史であるようにも思える。ただ素人の感想として言えば、集団であることが世界支配の根源にあるのなら、人間は太古の時代から集団を形成して生きてきたのであり、程度は別としても、特に「近代的ナショナリズム」に限定されるような話ではないような気もしてくる。動物でさえ集団をなすのだからと思えるかもしれないけど、それはさすがに行き過ぎだと思う。ちなみに今秋、わが訳で邦訳が刊行される予定のマイケル・トマセロの小著『The Evolution of Agency』(MIT, 2022)では、霊長類は「合理的行為主体」ではあっても、まだ人間のような「社会規範的行為主体」には至っていないと論じられている(用語の説明はここではしないけど、訳書刊行の暁にはぜひ買ってくださいませませ)。確かに集団を形成する動物もいるけど、「あるものすべて、作られ、生み出され、耐え抜かれ、勝ち取られるものすべてを自分自身に立脚させ、自分の支配のうちに取り込む」ことを目的としているわけではない。まさにトマセロの言う「社会規範的行為主体」であるという人間の本質が、拡張主義や世界支配の根底にあるのかもしれない。
さてステマはそのくらいにして、新書本に戻りましょう。次に論じられている「国家」や「ナショナリズム」に関するハイデガーの見解はなかなか興味深い。次のようにある。「ここ[ハイデガーの論考「存在の歴史」]では「主体性」は際限のない膨張を求める「力」として特徴づけられている。これは「主体性」が「世界の支配と利用」をどこまでも追及する存在であることを言い換えたものにほかならない。ハイデガーはナショナリズムという現象を、こうした「主体性」の帰結と捉える。そして「主体性」の自己主張のための国民の動員が「社会主義」として遂行されると言うのである(350頁)」。さらにここで言う「力」の性質に関して次のようにある。「つまり「力」はただひたすらこれまでよりも強くなることを目指すのであり、ある目標に到達したからといって、それが停止することは原理上あり得ないのである(351頁)」。これはハイデガーの弟子ハンナ・アーレントの「ファシズムには常に動き続けていなければならないという宿命がある」という洞察と軌を一にする。
ところで350頁の「主体性」に関する文章には再び「ナショナリズム」という言葉が登場する。しかし「ナショナリズム」は「引き籠り」ではあっても「拡張主義」ではないのではないか? その疑問に対する回答は、次の文章を読めばわかる。「列強同士の覇権獲得競争において、「自由」、「道徳性」、「フォルク性の擁護」、「永遠的な人種的存続の確保」などが目標として掲げられたりはしていても、それらは「力」の伸長に役立つかどうかという観点から選ばれたものでしかない。その意味において、それらの目標は単に事後的なものにすぎない。(…)目標の実現が問題なのではなく、効果的な目標設定によって「力」を増進させること、またそうした目標設定によって、有能な人材や暴力を喚起することだけが問題なのである(355頁)」。「ナショナリズム」は「フォルク性の擁護」の範疇に入るのだろうから、ナチスのような拡張主義者は、「ナショナリズムの発露」という「効果的な目標設定」によって自己の「力」を増進させようとしたのだと、ハイデガーは言いたいのだと思う。つまり「ナショナリズム」はナチス第三帝国によって手段として利用されたということね。この論点は、私めが、たとえば『グローバリゼーション』を取り上げたときに「現代のグローバリストに限らず、昔から帝国主義者などの覇権主義者はナショナリズムを巧妙に利用してきたのであり、グローバリストの範疇には入らないだろうけど、今でもロシアのプーチンや中国の習近平などの覇権主義者がナショナリズム的言説で自己を正当化していることについてはすでに何回か述べてきた。いわば覇権主義者にとってナショナリズムは便利なツールとして使えるというわけ」と述べたこととも符合する。
またそれに続く文章がなかなか秀逸。次のようにある。「そしてこの力は、おのれ自身の容赦ない拡張のために、いかなる措置をもためらうことなく遂行できる献身的な人材を必要とする。そうした人材にとって、まっとうな道徳心や批判精神などは単に邪魔なものでしかない。それらを無効とするために「力」が利用するのが、もっともらしい大義や理念などである。「力」はそのような大義や理念に基づいて、現在の秩序を本来あるべき状態が剥奪された不当な状態と位置づけ、それの破壊を正当化する。こうして、そのような大義や理念に殉ずる人びとは、いかなる暴力行使も辞さない存在となる。彼らは自分の「正しさ」を確信しているが、実際に起こっていることは、「力」の勢力拡大を無条件に肯定し、促進することでしかないのである(355〜6頁)」。「秀逸」と言ったのは、この文章は、ハイデガーが生きていた全体主義の時代のみならず現代にも十分に当てはまるから。というより、ハイデガーが指摘しているように、そのような全体主義的側面は、目には見えない形態で、現在でも生きているのだろうと思う。
ちなみにハイデガーは、以上のような考えに基づいて「コミュニズム」を批判しているらしいけど、ハイデガーの言う「コミュニズム」とは「共産主義」だけを指すわけではなく、彼は「「力」の増進のみを目標にし、そのためには手段を選ばない体制は、すべて「コミュニズム」と見な(357頁)」しているのだそう。その「コミュニズム」に関して、次のような興味深い指摘がある。「「コミュニズム」の魔力とは、それによって使いつぶされるものでしかないプロレタリアートに、自分たちこそが権力を握っていると信じ込ませる点にある。この点についてハイデガーは次のように述べている。「コミュニズム」において作用している「力」とは、「あらゆるものをあらゆるものの一様性と均質性という魔法にかけてしまうもの」である。プロレタリアートは自分自身を生み出したこうした「力」に対しては、徹底的に無力である(358頁)」。前述のとおり、ハイデガーの言う「コミュニズム」とは「共産主義」のみを指しているわけではないので、ここで言う「プロレタリアート」は「国民」で置き換えても構わないのだろうと思う。「あらゆるものをあらゆるものの一様性と均質性という魔法にかけてしまうもの」とは、現代で言えば「グローバリズム」がその典型だろうね。このような批判をしてきたハイデガーが、現代の欧米で煙たがられるのはある意味当然なのかもしれない。第六章の残りは、「黒いノート」に関して、ここまでの議論に基づいたハイデガー擁護が繰り広げられているけど、少しマニアックでもあるのでここでは省略する。
「第七章 戦後の思索」では、戦後のハイデガーの思索が取り上げられているけど、前期、中期、後期とは違って、「存在」や「フォルク」といった哲学的な概念への言及は少なく、むしろ「主体性の形而上学」批判が中心になっているように思われる。「悪」の問題、「技術の問題」など各論的な記述が続くけど、ここではもっとも私めの興味を惹いたハイデガーの技術論に焦点を絞る。まずハイデガーの原子力に対する考えが興味深い。次のようにある。「ハイデガーからすると、原子力エネルギーが戦争に利用されるか平和的に利用されるかは本質的な問いではない。なぜなら、どちらにおいても「対象を計算可能な仕方で確保する」という現代技術の本質が貫徹されている点に違いはないからである(445頁)」。これだけなら、原発には反対するSDGs推進派は「お〜〜、ハイデガーさま!」と快哉を叫ぶところでしょう。ところがそのような人は、喜んでいるのもつかの間、すぐに冷や水を浴びせられることになるはず。次のようにある。「この[ハイデガーの]立場からすると、原子力技術だけが特別に問題視されなければならない理由もないことになる。たとえば「クリーンな」再生可能エネルギーも「自然に向かって、採掘して貯蔵できるようなエネルギーを提供せよと要求する無理強い」のより包括的かつ徹底的な遂行としてそれがある限り、原子力技術と同様、「駆り立て−組織」であることに変わりはない。しかも原子力技術より無害だという印象を与える分だけ、「駆り立て−組織」の支配のいっそうの自明化と完全化をもたらしているとさえも言いうるのだ(445〜6頁)」。さすがにこの考えを徹底すると、エネルギー政策に関していかなる対策も立てられなくなると思うけど、再生可能エネルギーが「クリーン」だという言明の偽善性に気づかせてくれる点では有益だと思う。何しろ日本では、とってもアグリーなメガソーラーを建設するためにお山の木々を切り倒しているのだから、「それでもクリーンなの?」と言われても仕方がない。
次の「サイバネティックス」に関する記述も、ある意味で興味深い。「ある意味で」とぼかしを加えたのは、「サイバネティックス」については先日取り上げた『人間非機械論』で、サイバネティクスには、「人間・生物機械論」を中心とする前期サイバネティックスと、「人間・生物{非/傍点}機械論」を中心とする後期サイバネティックスの二つがあると論じられているけど(それら二つのサイバネティックスに関してはそちらのレビューを参照されたい)、ここでのハイデガーの議論は、そのうちの前期サイバネティックスの議論に基づいているにすぎないことに気づいたから。たとえばハイデガーは、ある講演で「サイバネティックス的に表象された世界において、自動的な機械と生物の差が消えさる。その差異は情報の無差別的過程へと中和される。サイバネティックス的な世界企投は(中略)無生物的世界と生物的世界に関する、例外なく一様な、またこうした意味において普遍的な算定可能性、すなわち制御可能性をもたらす(448頁)」と論じたとのことだけど、これは前期サイバネティックスには当てはまっても後期サイバネティックスには当てはまらない。ただしハイデガーさまの名誉のためにつけ加えておくと、ハイデガーは私めが高校に通っていた頃の1976年にお星さまになっているから、1970年代に本格化したマトゥラナ&ヴァレラのオートポイエーシス理論にもとづく後期サイバネティックスを、哲学者たる彼が知らなかったとしてもまったく不思議ではない。
最後に「エピローグ」が残っているけど、それについては省略する。かなり長くなってきたので、ここで総合的な評価を下しましょう(なんか偉そうな言い方!)。ハイデガーという難解とされている哲学者を扱った、メタボった本としては非常に読みやすく、「存在」「現存在」「フォルク」などといったハイデガー独自の概念がわかりやすく解説されている。しかも現代的な問題に応用できる部分も多く、絶対的なお勧め本と言える。
※2023年7月21日