◎古田徹也著『懐疑論』(中公新書)
さっそく「はじめに」から参りましょう。まず現在における懐疑論という言葉の用法について次のように問題提起をしている。≪「{懐疑論/スケプティシズム}」という言葉は現在、単なる批判や逆張り的な主張などに対しても広範に――というより、粗雑に――使用されがちだ。また、「陰謀論」と区別のつかない使われ方がされているケースも多い。さらに言えば、その「陰謀論」という言葉自体も相当ルーズに使用される傾向にある。こうした適当な使用が{蔓延/まんえん}すれば、「懐疑論」や「陰謀論」という言葉の意味そのものが不明確になり、本来これらの名前で呼ばれるべき事柄が捉えにくくなってしまうだろう(C頁)≫。とりわけ哲学では用語の定義がきわめて重要になるので、ここで言われている「懐疑論」や「陰謀論」の用法は、むしろ巷での話なのでしょうね。前回取り上げた『現代戦争論』で、とりわけ日本の左派が、「侵略戦争」も「防衛戦争」も均並みに「戦争」と呼び、さらには前者が持つコノテーションを後者に密かに滑り込ませるという欺瞞を弄していることに言及し、言葉の用法におけるこのような欺瞞によって現実的な害悪がもたらされることをそこで指摘した。しかも故意にそのような欺瞞を弄しているのであれば、きわめて悪辣と言わざるを得ない。
さて著者は、上記引用文に続けて本書の目的を次のように述べている。≪では実際、懐疑論と陰謀論の違いはどこにあるのだろうか。あるいは、「相対主義」と呼ばれる立場と懐疑論とは、いったいどう違うのだろうか。本書では、そうした関連する立場との比較も含めて、さまざまな角度から懐疑論の内実に迫っていく。¶なかでも力点を置くのは、ヨーロッパの哲学の歴史において懐疑論がどのようなかたちをとって立ち現れ、どのような役割を果たしてきたのかを{辿/たど}り直すことだ。その作業を通じて、たとえば、デカルト以前と以後とで懐疑論の様相が根本的に変わっていることを確認できるだろう。¶この点について、本書では特に、古代において展開された懐疑{主義/傍点}と、近代以降に影響力をもった懐疑{論/傍点}との対比というかたちで、核となる論点を浮かび上がらせる。そして、近代以降の懐疑論については厳しい批判を向ける一方で、古代の懐疑主義についてはむしろ積極的な意義を見出すことになるだろう(D頁)≫。なお懐疑主義と懐疑論の違いは、本書全体を通じて論じられているが、それについて少しあとで簡単な説明がある。これだけを読むと、何やらこの新書本がアカデミックな議論に終始しているかのように思えるかもしれない。でも確かにアカデミックな議論が大半を占めるとはいえ、常識、慣習などといった日常的なことがらに対して、一般の現代人が抱いている誤解をはっきりと照らし出し正すような内容が含まれているという印象を、読み終えた後に強く受けた。だからこの新書本を特に取り上げたのですね。とはいえそう言っただけでは、言われた方は「何のこっちゃ?」と思うしかないだろうが、それについてはおいおい明らかにしていく。
ということで、さっそく本論の「第1章 古代ギリシアでの勃興」に参りましょう。この章で、最初に取り上げられている主要な古代ギリシアの懐疑家(「懐疑家」という言葉は私めのもので、懐疑論者か懐疑主義者かの区別を問わない、問えない、問いにくい場合に用いる)はプロタゴラスで、「神の存在に対する懐疑論(不可知論)」という節に、彼の次のような言葉が引用されている。≪神々については、それらが存在するということも、存在しないということも、私は知ることができない。なぜなら、それを知ることを妨げるものが数多くあるのだから。事柄が不明確であるのに加えて、人生は短いのだから(5頁)≫。以上のプロタゴラスの言葉に関して著者は次のように述べている。≪プロタゴラスは、神がそもそも{存在する/傍点}かどうかは知りえないと言い放つ。神が存在することは前提にして、その具体的なありよう(姿形、力能など)は知りえないとする不可知論とは異なり、彼の不可知論は、神がそもそも存在しない可能性を認めるという点で、無神論に近づいてさえいるとも言える。¶実際、神の存在に対するプロタゴラスの不可知論は当時、{瀆神/とくしん}(不敬神)と見なされ、追放と{焚書/ふんしょ}の憂き目に遭った。そしてこのことは、彼の不可知論がまさしく、世の中の常識に{楔/くさび}を打ち込む{懐疑/傍点}論でもあったことを意味している。(…)プロタゴラスが生きていた当時のギリシアの社会は[一般に神の存在を当然とは見なさない日本の現代社会とは]違う。プロタゴラスが「神が存在するかどうかは知りえない」と主張したとき、それは当時のアテナイにおいて支配的だった見解と衝突し、強い拒絶を招いた。つまり、その地に住む人々の多くが信仰してきた宗教の教説を揺るがすものとして受けとめられたということだ。その意味では、プロタゴラスは懐疑論者とも言えるのである(6〜7頁)≫。「はじめに」の引用部分の末尾に≪近代以降の懐疑論については厳しい批判を向ける一方で、古代の懐疑主義については積極的な意義を見出すことになるだろう≫とあるので、古代に活躍したプロタゴラスを≪懐疑論者≫と見なすのは、その原則に合わないことになるが、≪懐疑論者とも言える≫という言い回しからもわかるとおり、著者はプロタゴラスの見方が古代においては例外的であったと言いたいのだろうと思う。
ところで、プロタゴラスは「万物の尺度は人間である」と主張したことなどから、≪懐疑論者というよりも、むしろ「相対主義」と呼ばれる立場の祖として位置づけられ、哲学史において重要な場所を占めている(12頁)≫のだそう。では「相対主義」とは何か? それについて次のようにある。≪絶対的な真実は{知りえない/傍点}と主張する一般的な懐疑論と異なり、物事の真実は時代や文化などによって異なる――それゆえ、絶対的な真実は{存在しない/傍点}――と主張する立場をいう。現代において、この種の相対主義的な物の見方をとる人は多いだろう(12〜3頁)≫。≪現代において≫とはいわゆる文化相対主義を指しているのであろうが、二〇世紀の頃は脇に置くとして、少なくとも二一世紀に入ってからは生物学的事実をまったく無視して文化相対主義を唱える人はあまりいなくなったような気もする。私め自身も、脳の可塑性などの生物学的要因や進化生物学の知見を考慮したうえでの文化相対主義を支持する。しかし著者は相対主義について、≪相対主義者は{自身の立場の正しさ/傍点}についてどう説明できるのか(14頁)≫と疑問を呈している。確かに二〇世紀のポストモダン的な文化相対主義にはこの疑問が当てはまるとしても、脳科学、認知科学、進化生物学を含めた生物学的な基盤を考慮に入れた文化相対主義は、それとはかなり異なると個人的には考えている。
次に著者は、懐疑主義と懐疑論の相違について次のように述べている。≪前提として言えるのは、「懐疑論」と「懐疑主義」に明確な違いはないということだ。そもそも、英語ではどちらも「skepticism(スケプティシズム)」という同じ単語で表される。また、日本語の学術書でも両者を区別していないものが多い。¶それでも、あえて「論」と「主義」を区別する意味があるとすれば、それはひとつには、「懐疑論」という呼称は(「陰謀論」や「結果論」などと同様に)否定的なニュアンスをもつ場合が多く、他者の立場を批判する際に用いられやすいのに対して、「懐疑主義」のほうは、自分自身の立場を積極的に打ち出す肯定的なニュアンスをもつ場合がある、という点が挙げられるだろう。¶また、この点とも関連するが、より重要な区別として、次の点も挙げることができる。すなわち、「論」と違って「主義」のほうは、必ずしも{理論/傍点}や{言論/傍点}といった学問的な主張ないし立場のみを指すわけではなく、{生き方/傍点}も表しうるということだ(19〜20頁)≫。最後の段落(¶は段落替えを意味する)は、この本を理解するうえで非常に重要になるのでしっかりと念頭に置いておきましょうね。
次に古代の懐疑家の一人としてピュロンがあげられている。彼は、≪「真実にそうで{ある/傍点}ものは一つもないのであって、人びとはただ、法と慣習に従ってあらゆることを行なっているにすぎない」という主張を展開したという。彼は、物事の真実は把握できないという考えの下、判断の保留というかたちをとる言論を哲学に導入したと伝えられている(24頁)≫のだそう。これは先ほどの用語で言えば、相対主義に近そうに思える。そのようなピュロンが「懐疑主義者」として知られている理由を著者は次のように述べている。≪ピュロンたち[ピュロンや彼の弟子のティモンを指す]が懐疑{主義/傍点}者として哲学史に名を刻んでいる主な{所以/ゆえん}は、物事の絶対的な真実に関して性急な確信を抱かずに判断を保留する態度が、理論上の立場としてよりも{生き方/傍点}全体に深く反映されている、という点に求められるだろう(28頁)≫。思い切った言い方をすれば、このような態度は保守的な一般ピープルの取る態度であるとも言える。現在の一般的な理解では「保守的」というと自分たちの習慣や慣習や伝統に適合しているかどうかを基準にしてすべてを判断する態度を意味しているように聞こえるけど、個人的な見解では、その判断基準は絶対的なものではなく、習慣や慣習や伝統をできるだけ遵守しつつも、それらが現実に合わなければ徐々に変えていくというような生き方を現実生活で採ることを意味すると考えている。なお「保守」という言葉の私め自身の定義は、『知性の復権』を取り上げたときに述べたのでそちらを参照されたい。ピュロンの生き方について、著者はさらに次のように述べている。≪何かが正しいとか不正だとか、美しいとか醜いといった主張を戦わせることに明け暮れ、それぞれの主張を支える机上の空論に囚われて、流行りの学説を次々に追いかけて落ち着かない。――学者たちのそうした議論と説得の場には、物事の絶対的な真実を知りたい、確信を得たいという渇望が渦巻き、自分の主張が人々の支持を受けることへの欲求、喝采を受けることの喜び、名誉欲、自己顕示欲、承認欲求といったものが{蠢/うごめ}いている。おそらくピュロンは、そのような種々の欲望への囚われから解放され、易々と、心静かに暮らしたということだろう(29〜30頁)≫。古代ギリシアの昔にも、現代の自称知識人みたいな輩が跳梁跋扈していたのだろうね。
次に「アタラクシア」に関するピュロンの発言について次のように述べられている。≪彼[ピュロン]はあるとき航海中に嵐に見舞われ、他の乗組員たちが狼狽しているなかでも、ひとり平静を保っていた。そして、船に載せられた子豚が無心に餌を食べ続けている様子を指し示しながら、賢者はこうした「アタラクシア({平静な心、不動心/傍点})」の状態に自分を置かなければならないと言って、彼らを元気づけた。¶もちろん、何ごとにも動じない心といっても、何ごとにも無反応だとか、何の対処もしない、ということではない。子豚も、たとえば進む先に崖があれば進行方向を変えるだろうし、馬車が走ってくれば避けるだろう。つまり、自分に現れるもの――崖の表象や、走ってくる馬車の表象など――に応じて、そのつど自然に対処するだろう。しかしそれは、{判断保留/傍点}ということが強調される場合の「判断」にはあたらないということだ(31〜2頁)≫。つまり、ピュロンの言う「アタラクシア」とは日常生活を無事に生きていくための「生き方」を意味しているのであって、頭で考えた哲学的な概念や理論とは異なるということになる。それは必ずしも意識的に作用するわけではなく、直観としてごく自然に生じると考えたほうがよいかもしれない。現代人は直観を非常に原始的で下等な能力と考えがちだが、その見立てが誤りであることについては、これまでさんざん述べてきたのでここでは繰り返さない。それどころか現代人のそういう傾向が、無益なイデオロギー的対立を生んでいるとさえ考えている。
次に著者は「中期アカデメイア派」を紹介している。「中期アカデメイア派」とは、次のような学派を指すらしい。≪「古代懐疑主義者」と総称される人々のうち、ピュロンやティモンが哲学者たちの議論の場から離れるかたちで「判断保留」の生き方を体現しようとしたのに対して、まさに当時の哲学の本拠地において、哲学的理論の根本に「判断保留」の原則を打ち立てたと目されるのが、「中期アカデメイア派」に属する人々である(34頁)≫。≪アカデメイア≫と呼ばれるだけあって、彼らは象牙の塔に籠って侃々諤々と議論を繰り広げていたのでしょうね。
「中期アカデメイア派」については、今後も言及されるので、ひとまず「第2章 ピュロン主義」に移りましょう。ピュロンその人についてはすでに第1章で登場したけど、ピュロン主義者は「中期アカデメイア派」に対して批判的とのこと。それについてはあとで取り上げるが、まあ「生き方」を重視するピュロン主義者が象牙の塔に籠ったアカデミックを嫌うのはよくわかるよね。では、ピュロン主義者はどのように考えるのか? 次のようにある。≪ピュロン主義の探究と判断保留の道行きにおいて{要/かなめ}となるのは、(…)「現れるものと現れるものとを、または、思われるものと思われるものとを、あるいはまた、現れるものと思われるものとを、それぞれ対置させる」ことであり、そして、対置させたもの同士が信憑性という点で同等であることを見て取るプロセスである。この個別的で具体的な吟味のプロセスこそ、ピュロン主義の探究の実質を成していると言っていい。¶蜂蜜の例をもう一度振り返るなら、ピュロン主義者はたとえば、健康な状態で蜂蜜を舐めたときに現れるもの(=蜂蜜の味)と、風邪を引いた状態で蜂蜜を舐めたときに現れるものとを対置させる。それによって、特定の状況下での現れだけを特権化することはできない――絶対的な真実という身分を与えることはできない――ということを確認していく(56頁)≫。要は表象同士を対置するのであって、絶対的な真実(真の実在)を前提とすることは決してないということでしょう。そして≪ピュロン主義者は、この対置のプロセスの種類を事細かに検討し、整理し、判断保留に導く{方式/トロポイ}として定式化している(56頁)≫のだそう。
その方式の一つがアイネシデモスという名のピュロン派哲学者が案出した「十の方式」で、それは次のようなもの。≪@動物相互の違いに基づく方式¶A人間同士の違いに基づく方式¶B感覚器官の構造の違いに基づく方式¶C状態(状況)に基づく方式¶D置かれ方と隔たりと場所に基づく方式¶E混入に基づく方式¶F存在する事物の量と構成(調合)に基づく方式¶G相対性に基づく方式¶H頻繁に遭遇するか、稀にしか遭遇しないかに基づく方式¶I生き方と慣習と法律と、神話を信じることと、独断論者の想定に基づく方式(57頁)≫。著者は次に、これら「十の方式」について、60頁から74頁にかけて一つずつかなり細かく説明している(なかなか興味深いので本を買って読んでみてくださいませませ)。それを読まなければ、それぞれの方式の内容はわからないはずだが、それらすべてをここで引用するわけにもいかないので文化相対主義的なコノテーションを持つIだけを引用しておきましょう(なおこの「第十の方式」は、のちの引用箇所にも出現する)。次のようにある。≪I生き方や慣習など¶セクストス[ピュロン主義者]が十の方式の最後に挙げるのは、「特に{倫理/エーティカ}に関係する方式」であり、より具体的に言えば、生き方、個人的・社会的な習慣ないし慣習、法律、神話に基づく信仰、そして世界の{理/ことわり}や魂の不死性などについて独断論を展開する哲学者の教説に焦点を当てるものだ。¶我々はえてして、自分たちが馴染んでいる生き方や慣習(習慣)、自分たちが従っている法律などの慣習的な制度、自分たちが信じている神話や教義、哲学的教説などが、{無条件に/傍点}――すなわち、{一般的に、絶対的に/傍点}――正しいという確信を抱きがちだ。すなわち、確たる根拠もなく、おのずと自文化中心主義(あるいは、自文化絶対主義)をとる独断的・独善的な傾向がある。¶しかし、自分たちが常識と見なしている生き方や慣習といったものが、他の文化や他の時代においては強く忌避される非常識な振る舞いだというケースは数多い。たとえば、ある動物を食べることを恥ずべき野蛮な行為と見なす文化もあれば、そうでない文化もある。重婚を法律で禁止している文化もあれば、認めている文化もある。ただひとつの神を信仰し、その神は善行しかなさないと見なす文化もあれば、数多くの神が存在し、ときに悪行をなすと見なす文化もある。魂が不死であるとか、神の摂理が世界に行き渡っているという教説が支配的な文化もあれば、まったく別の教説が支配的な文化もある(73〜4頁)≫。
ここまでで一点コメントしておくと、移民問題の要因の一つにも、このような文化の違いによる移民側と移民受入側の齟齬がある。なお、この文章は何となく自国ファースト主義の批判であるようにも思えるかもしれないが、必ずしもそう解釈する必要はない。不思議なことに日本には、グローバリゼーションの影響か何かは知らないが、日本人自身の視点で外国人を見るのではなく外国人の視点のみから日本人を見ようとするけったいな人々が、メディアを含め大勢いる。悪さをした外国人を批判しただけで「差別主義者」だとか、「ネトウヨ」だとか決めつけるしか能がない輩のことですね。「文化」とは、その定義上ローカルであらざるを得ず、それは国や地域や共同体、すなわち土地と強く結びついている。移民問題の根本の一つは、当たり前田のクラッカーのように思えるかもしれないが、はるか昔の時代から築き上げてきた特定の文化を持つ特定の国や地域のあいだで移民が移動する点にある。もちろんその国や地域の慣習や法律を遵守する外国人を排斥することは差別にあたる。しかし、移民側も移民した先の国の慣習や法律を遵守し、文化を尊重する義務がある。なぜなら、それらを毀損すればその土地に根差した「文化」が破壊されるからですね。むしろ外国人に日本人が持つものと同じ権利を与えることだけ考えて、日本人が負っている義務を外国人には負わせないことこそが、外国人を無能力者として差別していることになる(もちろん、だからこそ外国人がまず日本に対する理解を深められるような制度を作ってから移民を受け入れることは政府の一つの義務になるけどね)。「外国人を優遇することは日本人を差別している」という見解をネットでよく見かけるが、それ以前の問題として「外国人を優遇することは外国人差別でもある」というほうがより正確だと思っている。しかも、わが訳書、バチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』で論じられているように、文化は人々が経験する情動にも影響を及ぼす。だから移民側が移民先の文化を無視、もしくは軽視すればそこにネガティブな情動が生じざるを得ない。
話が少しばかり、てか、かなり飛躍したので、引用箇所の続きに参りましょう。次のようにある。≪さらにセクストスは、同じ文化のなかでも、神話と法律が相反しているとか、生き方と法律が相反しているといったケースも珍しくないと指摘している。たとえば当時のローマにおいて、「〔法律では〕人殺しは禁じられているにもかかわらず、剣闘士たちは互いに殺し合う」。¶ほかにも、セクストスは実にさまざまな例を挙げながら、自文化を相対化する視点や、文化内の多様性を浮き彫りにする視点を提供し、自分たちの生き方や慣習などの特殊性という、普段はなかなか意識しづらいものを自覚するように促す。そして、彼はこう述べている。「我々に言えるのはただ、この生き方と相対的に、あるいはこの法律と相対的に、あるいはこの慣習、またその他の一つ一つと相対的に、物事がどのようなものとして現れるかということのみ」であって、それゆえ、物事がそれ自体としてどうあるかについて我々は自然と判断を保留することになる、と(74頁)≫。まあ一種の文化相対主義と見てもよいでしょうね。
それから著者はアグリッパの「五つの方式」を取り上げて、≪こちらは、相対性という論拠も含んだより包括的で概括的な方式であり、それぞれ次のように呼ばれている。¶@反目を論拠とする方式¶A無限遡行に投げ込む方式¶B相対性を論拠とする方式¶C仮定による方式¶D相互依存の方式(75頁)≫と述べている。細かな説明はここではカットするので、本を買って読んでみてね(75〜6頁)。
ここで中期アカデメイア派に対するピュロン主義者の批判を取り上げておく。次のようにある。≪ピュロン主義者からすれば、独断論者や中期アカデメイア派の根本的な問題は、我々が物事の明確な現れに端的に従っている(あるいは、従うことができる)ということが見て取れるはずの場面に、その現れが真実である/ないとか、説得的である/ないといった余計な判断を差し挟む、という点にある。また、彼らはしばしば、物事の現れが不明確であるときでも、それらが真実であるかどうかや説得的であるかどうかについてあえて白黒をつけようとする。この点も、ピュロン主義者からすれば同様に批判の対象になるだろう。¶つまり、いずれにしても彼ら[中期アカデメイア派]は、判断保留を徹底できずに性急に判断を下し、その確信に囚われてしまっている。その意味で、ピュロン主義者は彼らの「性急さを指摘しようとしている」のであり、「性急さから遠ざかる」ことをみずから志向しているのである(85頁)≫。
それから「ピュロン主義は保守的?」という節にある次の記述を取り上げましょう。≪まずもって重要なのは、ピュロン主義者たちは自文化を{絶対視/傍点}しているわけではないということだ。彼らは、自分たちが継承している慣習や法律や生き方が絶対に正しいと独断的・独善的に判断したり主張したりしているわけではない。先に「第十の方式」に関して見た通り、彼らは文化間の相対性と自文化の特殊性こそを強調している。彼らは、自分たちの文化の捉え方や考え方こそが真正のものだなどと評価することはないし、むしろ、そうした判断を下すこと自体を厳に戒めている。{我々に見えている世界がすべてではないかもしれない/傍点}――ピュロン主義者はこの意識を徹底するのである(86頁)≫。実のところこの節には、「ピュロン主義は保守的?」という問いに対する直接的な回答はないので、著者がピュロン主義を保守的と見なしているかどうかは定かでない。ただ個人的には、このようなピュロン主義のあり方こそ、現代的な意味においても保守的だと考えている。
先にあげた自国ファースト主義を例にとると、保守派の多く(保守派にも、ネオコンのようなグローバリストに近い立場を取る人々もいるので、それは除く)は自国ファースト主義を擁護するはずだが、自国ファースト主義を採る保守派は、右翼ではないので自国や自文化を≪絶対視≫するわけではなく、国という特定の範囲の土地のもとで独自に成立している生存や生活の様式(それには文化や慣習や法律も含まれる)を現実の状況に合わせて保持しようとする。だから現実の状況が変化すれば、それに合わせて、自分たちの生存や生活が破壊されない範囲で文化や慣習や法律を変えることもある。日本では保守主義者に改憲派が多いのも、戦後まもなく成立した日本国憲法がもはや現代という時代の現実に合っていないことをよく理解しているからなのですね。基本的に哲学書を取り上げているのでここではあえて第9条には言及しないが、第24条を考えてみればそのことはよくわかるはず。同性婚などという概念は、日本国憲法成立当時には存在しなかった。オールドメディアは自国ファースト主義をあたかも排外主義や差別主義であるかのように扱っているが、それは単なるイデオロギー的な歪曲にすぎない。自国ファースト主義は、自国(文化)絶対主義とは異なる。前者がその国や地域に住む人々の生存や生活の安寧をめぐる生き方であるのに対し、後者はまったくのイデオロギーに他ならない。左右を問わず特定のイデオロギーに篭絡されている自称知識人やオールドメディアこそ、自分の住む、フィルターバブルに包まれた狭い狭い世界を≪絶対視≫しているのですね(だから護憲派には、保守ではなくイデオロギーに基づいて思考する左翼や右翼が多い)。著者も次のように述べている。≪異なる文化に属する人々、異なる時代や年代や性別の人々、異なる仕事や社会的役割を担う人々、少数派やマイノリティの人々――あるいは逆に、多数派やマジョリティの人々――などと比べて、「我々」に現れるものや「我々」が考えることこそが絶対的な真実であると主張するとすれば、それはまさに思い上がったドグマ(思い込み、独断)にほかならない(87〜8頁)≫。
そして著者は、ピュロン主義者のセクストスがピュロン主義を医療にたとえていることを次のように述べる。≪そしてその[ピュロン主義者の]治療は、大掛かりな外科手術や思想教育のように、相手の身体や心のあり方を正すべく積極的に介入して改変する、という類のものではない。¶人や動物が怪我をしたり病いに罹ったりしたとき、身体は自然にそれを癒す方向に向かう。これと同様に、真実を追求したり「発見」したりする知的病いに罹った者の心も、癒されてアタラクシアを得ることを自然に志向するだろう。ピュロン主義者はこの観点から、自己治癒を手助けする医師を自認している(95〜6頁)≫。私見によれば、これはまさに、常識や直観を重視する保守主義者、というか一般ピープルの心構えだと見なすことができる。やや飛躍するけど、「集合知」などというものが一般ピープルのあいだで成立するのも、それがゆえのことなのですね(なお、「集合知」に関しては西垣通氏の『集合知とは何か』を参照されたい)。
ということで、お次は「第3章 近代以降の姿」に参りましょう。古代から近代以降にいきなりワープしているけど、個人的には中世における考え方も知りたかった。まあないものねだりをしても仕方がないでしょう。最初に登場するのは、かのモンテーニュさん。なんでも、≪モンテーニュはピュロン主義について、「人間が考え出した学説のなかで、これほどの真実らしさと有用さをもつものは存在しない」とまで評価している(103頁)≫のだそう。率直に言えば、残念ながらモンテーニュの著作は一冊も読んだことがないので、ここまで説明してきたようなピュロン主義とモンテーニュの思想が近いのかどうかは私めにはよくわからん。だから個人的には、その類似性の指摘は余計に興味深い。モンテーニュは、まずは次のように考えていたらしい。≪モンテーニュによれば、我々人間が何を知覚しうるかは自分たちの身体的な感覚(五感)に依存しており、理性によってその限界を超えることはできない。それゆえ、「我々の無知の基底とその証拠は、感覚にある」と彼は強調する。「すべての認識は、感覚を介して我々のなかにやってくる」ものである以上、「知識は感覚に始まり、感覚のうちに帰する」。だとすれば、「我々の知識がすべて、感覚という媒体によって、感覚の仲介によって運ばれてくることは認めなくてはいけない」ということである(105〜6頁)≫。現代の脳科学や認知科学の知見からすると、知識の形成にあたって脳のボトムアップの処理しか認めないという、モンテーニュのこの見方は明らかな誤りだと言える。何しろボトムアップに情報を伝達するニューロンの数より、トップダウンに情報を伝達するニューロンの数のほうがはるかに多いことが現代では判明しているくらいだから。しかしながら、脳のトップダウン制御によって既存の知識が圧倒的に支配されると、創造性、すなわちイノベーション能力が阻害されるという見解もある。たとえば、最近読んだHow Great Ideas Happen(Simon & Schuster, 2026)では、創造性には95%の既存の知識と5%の新奇性が必要だという趣旨のことが書かれていた(ただしこの本の主旨はむしろ逆で、創造性の基盤には十分な既存の知識が必要とされるという点も強調されているわけではあるが)。その意味では、知識の形成という文脈で感覚器官から脳へというボトムアップの情報の流れに目をつけたのは慧眼だったと言えるかもしれない(ただしモンテーニュが生きていた当時は、現代のような脳科学は存在していなかったので、当時の常識に基づく単なる推理だったと言えるかもしれないけどね)。
それから次の指摘はきわめて興味深い。≪「我々」の優越性に対するモンテーニュの懐疑は、「人間」という最も包括的な側面だけではなく、「キリスト教徒」や「知識人」など、彼自身も含む他のさまざまな側面にも及んでいる。{曰/いわ}く、「我々の品行を、イスラム教徒や異教の人々と比較してみるがよい。我々は、いつだって劣っているではないか」。「もしも人間を、その行動や振る舞いによって評価するならば、学のある人間より、無学な人々のほうが、優れた者がたくさんいることが分かるはずだ。もちろん、あらゆる徳において優れたという意味である」(106頁)≫。なぜ興味深いかと言うと、現代の自称知識人にも「国民はバカだ!」などと言い放って、自分の愚かさ加減を自ら露呈する思い上がった輩が後を絶たないからですね。「ヘタレ翻訳者の読書記録」で何度も述べてきたように(最近では前述の『知性の復権』を取り上げた際に述べた)、一般ピープルはバカではない。このような一種の選民思想に取りつかれたエリート主義者は、近代が生んだバカ息子のようなものだと言え、理性や知性というものに対する理解が完全に誤っているからそんな馬鹿げた考えに篭絡される次第になる。それに対してモンテーニュは、近代の人とはいえ、この陥穽にはまっていなかったことがこの文章からもわかる。
さらに著者は、モンテーニュに関して次のように述べている。≪そして、ピュロン主義者が、特定の立場や思想などを絶対視した生き方の対極として「先祖伝来の慣習と、法律と、生き方と、また、我々自身の諸状態に従って生活する」ことを志向したのと同様に、モンテーニュもまた、自分たちやその祖先が受け継いできた習慣や慣習的制度などを受け継ぐことを、生き方の基本に置いている。¶もちろん、彼はそこで、現行の制度や文化は{絶対に/傍点}正しいものだという独善に陥っているわけではない。言い換えれば、自文化中心主義ないし自文化絶対主義という立場をとるわけではない。彼はたとえば『エセー』第一巻三〇章において、「自分の習慣にないものを野蛮と呼ぶ」ような偏狭な見方を強く批判している。そして、「本当ならば、我々が人為によって変質させ、ごく当たり前の秩序から逸脱させてしまったものこそ、むしろ野蛮と呼んでしかるべきではないか」と続けている(107頁)≫。
次にモンテーニュの法律や制度に関する考え方が、次のように述べられている。≪法律などの制度がなぜ現在かくあるのかは、その制度が各地でどのように運用されて行き渡ってきたかという歴史と切り離せない。そうした流れを無視して一切を「公平」に比較考量し、あるべき制度を理性に照らして合理的に選択しようとしても、その制度はうまくいかないだろうというのが、彼の見解だ(110頁)≫。≪一切を「公平」に比較考量し、あるべき制度を理性に照らして合理的に選択≫するという行為は、いわばその国や地域に関する歴史や具体的な事実を無視して、普遍的な原理や理念を適用するということを意味する。そして、そのような制度は現実世界では破綻せざるを得ないというのがモンテーニュの見解なのでしょうね。さらに続けましょう。≪我々は誰しもがどこか特定の共同体に生まれ落ち、特定の慣習ないし習慣を次第に学んでいくなかで、そこで自然と見なされる振る舞いができるようになったり、してはいけないことを自然に避けることができるようになったりする。また、そこで共有されている物事の見方や考え方も、自然なものに思えるようになる。いうなれば、それらが自分に馴染んで透明化していくのである。我々は、そうやって慣習という足場を十分に身につけ、自分のものにしてはじめて、不明確な事柄を探究したり吟味したりすることができる。(…)日々の生活の基礎となる慣習が、我々の知的活動の条件となっている、というこのポイントを、モンテーニュは「{蝶番/ちょうつがい}」という比喩を用いて表現してもいる。我々が何かを知ろうと探究や吟味などを進めるためには、固定された立脚点――いうなれば、探究の扉を開けるための蝶番――が必要である。そして、我々の生活においてはたいていの場合、慣習がその蝶番の役割を果たしている。慣習とはそれほど基本的なものであるがゆえに、モンテーニュはさらに、「慣習という蝶番から外れたものは、理性の蝶番からも外れていると見なされる」とも指摘している(110〜1頁)≫。
「創造性には95%の既存の知識と5%の新奇性が必要だ」というHow Great Ideas Happenの提言も、≪慣習≫ではなく「既存の知識」という言葉が使われているものの、このモンテーニュの考えに適合すると見なせよう。理性を単に頭で概念をこねくり回すことだと勘違いしている現代の自称知識人の観点からすれば、≪慣習という蝶番から外れたものは、理性の蝶番からも外れていると見なされる≫という言葉は理解不能に思えるのだろうが、まさに現代の自称知識人をそのように思わせている元凶は、その後の近代西洋のものの考え方がいびつになってしまったからだと思っている。たとえばスピノザは、近代のそのようなものの見方を批判的に見ていたとも言えるかもしれないよね(なおスピノザについては吉田量彦著『スピノザ』や國分功一郎著『スピノザ』を参照されたい)。現代の日本にも、そのようないびつな考えにほだされて「国民はバカだ!」などと言い放つ愚かな自称知識人が大勢いることはすでに述べたとおり。
またモンテーニュに関する次の指摘も興味深い。≪モンテーニュは、真実を、人間が自分の目や頭などを使って合理的な仕方で{知る/傍点}ものではなく、{信じる/傍点}ものとして位置づけ直す。すなわち、知識の場所から信仰の場所へと移し置くのである。そしてその信仰は、たとえば理性的な論証を通じて〈神は存在する〉と判断したり、〈この宗教のこの教義は真実を語っている〉などと確信したりすることによって、自力で選び取るものではない。「我々が宗教を受け取ったのは、言論や知性によるのではなく、他からの権威と命令によるのだ。……我々が神の叡智を知るのは、知識よりもむしろ無知を介してなのである」。¶したがって、モンテーニュからすればピュロン主義は、神やその教えなどについて思い上がった{確信/傍点}に凝り固まっている人間が、自分の理性(知性)の限界と無知とを自覚するための――そして、祖先から受け継がれた宗教に我が身を委ねるための――最上の経路ということになるのだろう(114頁)≫。この引用文中の≪信仰≫を「直観」に置き換えれば、それは私めが考えていることとほぼ重なる。直観の重要性に関しては先ほどあげた二冊のスピノザに関する本や、ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著The Enigma of Reason、あるいはわが訳書ジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元』などを参照されたい。また、≪神やその教えなどについて思い上がった{確信/傍点}に凝り固まっている人間≫は、現代に置き換えれば「思想やイデオロギーについて思い上がった確信に凝り固まっている人間」と捉えればよいだろう。スピノザの言葉を借りれば、思想やイデオロギーのたぐいは「想像の知」に過ぎないのですね(吉田量彦著『スピノザ』を参照のこと)。
ということでモンテーニュさんについてはこのくらいにして、次はデカルトさんに参りましょう。まず次のようにある。≪後で見るように、彼にも古代懐疑主義の影響を認めることができる。ただし彼は、中期アカデメイア派のように判断保留を自分自身の理論的な立場として打ち出しているわけではないし、かといって、ピュロンやピュロン主義のように、それを自身の生き方として積極的に位置づけているわけでもない。したがって、デカルトの哲学のなかに不可欠の契機として含まれる懐疑的な議論は、懐疑{主義/傍点}よりも懐疑{論/傍点}と呼ぶのがふさわしい。¶実際、デカルトにとって懐疑論とは、揺るがない真実(真理)を見出すための方法ないし手段にほかならなかった。そして、その「真実」には、この世界の事物は夢や幻ではなく確かに実在すること、神が存在すること、魂が不死であること、等々の形而上学的な事柄が含まれる(118〜9頁)≫。まあ、モノホンの懐疑論者の元祖みたいな存在だったのでしょうね。それに関してさらに次のようにある。≪つまり、デカルトが押し進める懐疑は、古代懐疑主義者のように物事の真実(真理)に関して判断保留するためではなく、逆に、絶対に疑いえないもの――ここでは、考えている私の存在――を見出すための方法にほかならない。そして、彼はこの「絶対に揺るがない真実」を最初の基礎、第一原理として立てるのである。¶したがって彼は、自分から自発的に行なうそうした{方法的/傍点}懐疑について、「ただ疑うために疑い、つねに非決定を装う懐疑論者たちにならったのではない」と強調している。彼によれば、「私の全計画が目指していたのは、逆に自分で確信を得ることであり、動きやすい土や砂を取り除いて岩か粘土を見いだすことのみであった(124頁)≫。要するに、デカルトの真の意図は真実や真理の探究にあり、懐疑はそれに必要な単なる手段だったということでしょうね。だから彼の懐疑はあくまでも「方法的懐疑」以外の何ものでもなかったということになる。
また次の指摘も興味深い。≪我々は普段、自分は「マグカップを見ている」とか「人の声を聞いている」などと語る。しかしデカルトによれば、いま実は夢を見ているかもしれないから、実際にはマグカップを見ている{と思っている/傍点}(考えている、判断している)だけであり、人の声を聞いていると思っている(考えている、判断している)だけだという。それゆえデカルトは、「厳密な意味では、考えることにほかならない」と主張する(128頁)≫。そして、このようなデカルトの考え方が、ピュロン主義といかに異なるかが次のように解説されている。≪これは実のところ、古代懐疑主義――特に、ピュロンやピュロン主義――の考えと真っ向から対立するものだと言える。ピュロンやセクストスらは、日常の自然な知覚やそれに基づく行動を、まさに判断保留を体現したものとして捉え、そこに判断の作用を認める必要はないとする。他方、デカルトは、一見すると知覚の作用に思えるものも、実際にはすべてが判断の作用だと主張する。彼にとって、人間とは徹頭徹尾、思考し判断する存在――理性、知性、魂、精神――であり、それ以外の何ものでもないのだ。そして、もしも本当にそうだとすれば、判断保留は人間の本質そのものに反するあり方ということにもなるだろう(129〜30頁)≫。このようなデカルトの考えが、現在の自称知識人に至る、直観、想像、情動、常識、慣習などを無視もしくは軽視する思想やイデオロギーの系譜を形作ったようにも思える。ただし、古代ギリシアの時代はおろか、デカルトが活躍していた時代でさえ、「無意識」という概念は存在していなかったということを一点だけつけ加えておきたい。だからデカルトの言う「判断」とは、意識的な判断のみを指していたと考えられるが、無意識までをも考慮する現代の認知科学の観点からすれば、知覚の作用にも判断(あるいは少なくとも認知作用)が関与していないとは言い切れない。したがって、≪一見すると知覚の作用に思えるものも、実際にはすべてが判断の作用だ≫とするデカルトの主張は、現代的に見れば完全な間違いとは言い切れないことになる。しかしいずれにせよ、デカルトが無意識を考慮に入れていたとは時代的に考えられず、それゆえ彼の言う「判断」は必然的に「意識的、意図的な判断」を意味していたはず。だから想像や常識や慣習は置くとしても、直観や情動は完全に除外されていたと見なすことができる。
これは、人類にとって非常に不幸なことだったと個人的には考えている。アドルノ&ホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で論じていた啓蒙の問題を惹起した要因の一つも、そこに見出せるのかもしれない。著者も、このようなデカルトの問題を、デカルトを扱った節の最後の方で次のように述べている。重要なので、やや長めに引用する。≪蜂蜜が甘いことや、いま目が覚めて現実を見ていることなど、普通はまず疑われないものや常識とされるものに対してあえて懐疑を向けるという点で、確かにデカルトの懐疑論はピュロン以降の懐疑主義の議論の仕方に似ている。とはいえ、たとえばピュロン主義の場合、その懐疑的な議論は常に、独断的な主張を相対化するカウンター的な議論として発せられ、両者の議論を相殺して判断保留に至るために用いられている。しかし、デカルトの場合は違う。彼はその懐疑を通して、真実を知る可能性について判断保留へと向かうわけではなく、逆に、〈「考えている私」が存在することを自分は絶対確実に知っている〉という判断に至るための手段として、懐疑論的な議論を用いているのである。¶しかし、この方法をとった代償はきわめて大きかった。絶対に疑いえないものを見出すために彼は、目に見えるものも耳に聞こえるものも、手や舌や鼻で感じるものも、その手や舌や鼻や目や耳といった身体の存在すらも、さらには、頭で想像したり推論したり計算したものさえも、一切を懐疑のなかに投げ込んでしまった。つまり、絶対に揺るがない知識を得ようと追い求める営みは、不可避的に懐疑論に力を与え続け、ついには外界全体を呑み込む法外な懐疑論を出現させる営みともなった、ということである。¶真実の追求と懐疑論の強化は表裏一体のものだ。物事の確固たる認識を求めたデカルトの哲学は、「考えている私」という孤立した存在以外の実在すべてを失いかねないという意味で、きわめて強力かつ破壊的な懐疑論を生み出す営みでもあったのだ。¶そして、これ以降の近現代の懐疑論は、多かれ少なかれデカルトの影響を受けたものとなり、その種の懐疑論が検討や批判の対象となってきた(132〜3頁)≫。かくして生き方を重視する「懐疑主義」とはまったく異なる、文字通り頭でっかちな「懐疑論」が本格的に誕生したのでしょう。ホワイトヘッドだったか誰かが、人々はプラトンがかけた魔法からまだ目覚めていないと述べたけど、多くの現代人は、さらにデカルトがかけた魔法からも目覚められないでいるのですね。
ということで、次は「第4章 ウィトゲンシュタインとその周辺」。なんかデカルトさんからいきなりウィトゲンシュタインさんへとワープしてしまいましたね。まず次のようにある。≪ウィトゲンシュタインは元々は工学を学んでいたが、次第に、論理や言語や心などに探究の関心を移し、それらのテーマをめぐって数々の重要な洞察を書き残した。なかでも、本書で注目したいのは彼と懐疑論(懐疑主義)とのかかわりである。というのも、彼は一方では古代懐疑主義の系譜におのずと連なる思考を紡ぎつつ、他方では、近代的な懐疑論に対する本質的な批判を展開しているからだ(143〜4頁)≫。ウィトゲンシュタインの場合は、懐疑論ではなく懐疑主義ということになるらしい。さらに次のようにある。≪ウィトゲンシュタインは、一九二〇年代初頭に公にした著作『論理哲学論考』や、一九二九年に行なった講演「倫理学講和」などにおいて、哲学的な問いやそれに対する答えのほとんどが無意味であることを明らかにしようとしている。つまり、人々が哲学的な問題を扱う際、自分たちは何か意味のあることを――それどころか、深遠な真実を――語っていると思っているが、実際にはそうではないというのである(144頁)≫。まあ世の中には、哲学的な問題どころか、思想的な問題やイデオロギー的な問題をめぐって、口角泡を飛ばしながら何か意味があるかのように言い張る人々もいるからね。彼らは明らかに「理性」や「知性」の意味を取り違えていると個人的には思っている。
さらに次のようにある。≪ともあれ、彼[ウィトゲンシュタイン]によれば、「世界が存在する真の理由はこれだ」とか、「人生の究極の意味はこれだ」といった具合に、何かしら絶対的な理由や意味、価値などを語ろうとする言葉は、原理的に言語の限界に突き進んで{撥/は}ね返される運命にある。すなわち、それらのものについて語ろうとしてきた人々の傾向とはすべて、「言語の限界に逆らって進むということだった」というのである(147頁)≫。またモンテーニュとの類似点を指摘した次の記述も興味深い。≪以上のウィトゲンシュタインの議論は、信仰の内実を言語や理性の限界の先に確保しようとしたモンテーニュの道行きと重なり合う。¶有意味には語りえない。理性では捉えられない。ウィトゲンシュタインによれば、そうした否定的な特徴こそが、まさに「真実」をそれとして輪郭づける。彼はモンテーニュと同様に、自分の生き方を導く「真実」の場所を、理性と言語の限界の彼方に確保しようとするのである(147〜8頁)≫。
「語りえないことについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの言葉はあまりにも有名なので今更という感じかもだけど、ここでその言葉とピュロン主義やモンテーニュの関係について論じた次の箇所を、なかなか興味深いので引用しておきましょう。≪古来、多くの哲学者が――ピュロン主義者に言わせれば独断論者が――、絶対的な真実について語ろうと試みてきた。しかし、ウィトゲンシュタインの議論に従うなら、その言論は不可避的に無意味なものになってしまうか、あるいは、語りたいことから逸れていってしまう。それゆえに、語ろうとする衝動を慎む{沈黙/傍点}においてこそ「真実」は確保されうるとウィトゲンシュタインは考える。彼の代名詞ともいえる言葉、すなわち、「語りえないことについては沈黙しなければならない」という、それ自体としてひどく混乱をきたした命題もどきは、以上の次第を示す方便なのである。¶つまり、モンテーニュもそうしたように、ウィトゲンシュタインもまた「高い場所」を語りうることの彼方に差し置くことによって、沈黙による静寂のうちに保存しようとする。少なくともその点で、モンテーニュがピュロン主義者に私淑する自覚的な弟子であったとすれば、ウィトゲンシュタインはいわば無自覚な弟子であったとも言えるだろう(151〜2頁)≫。内容とは関係ないんだけど翻訳者として一言述べておきましょう。≪ウィトゲンシュタインもまた「高い場所」を語りうることの彼方に差し置くことによって≫という表現は読みにくい。一度読んだだけの段階では「著者は何を言っているんだろう?」と思ってしまった。「「高い場所」を、」とするか「ウィトゲンシュタインもまた、語りうることの彼方に「高い場所」を差し置くことによって」とすべきでしょうね。そうすればもっと読みやすくなるし、編集者や私めのようなしがない翻訳者に指摘されることもなくなる(中公新書の編集者も、学者先生様には甘いのかな?)。
重箱の隅をつつくのはそこまでにして次に参りましょう。「何が本来「知識」と呼ばれるのか」と題する節で述べられていることは、「知識」や「知」に関する現代人の混乱を指摘している点で実に興味深い。まず次のようにある。≪ウィトゲンシュタインは、〈考えている私が存在する〉といったことをそもそも{知識/傍点}として位置づける――そのことを私は絶対確実に{知っている/傍点}と主張する――ことは混乱をきたしていると指摘する。そして、この指摘にこそ、近代的な懐疑論に対するウィトゲンシュタインの批判の力点があると言っていい。¶ウィトゲンシュタインによれば、「言葉は生活の流れのなかではじめて意味を持つ」。そしてそれは、「知識」とか「知っている」という言葉――(…)――についても同様だ。たとえば、私がある日の仕事終わりに家の近所の本屋を覗き、帰宅してから妻に、「あの漫画の新刊が出たよ」と言ったとしよう。妻はそれに対して、「なんで{知ってる/傍点}の?」と訊く。私は、「帰りがけに本屋で売ってるのを見かけたんだと」と答えるだろう(159頁)≫。まさに「言葉」のみならず「知識」や「知」は生活(や生存)のなかではじめて意味を持つと言える。私めに言わせれば、常識や直観が重要なのはそれらが生活や生存という文脈のもとで特定の意味を付与する「知識」や「能力」だからなのですね。これらの点を理解しておらず、まったく意味のないことをしゃべりまくる自称知識人は実に多い。オールドメディアに出ている自称コメンテーターなど、その典型のように思われる。オールドメディアが批判されるのは、イデオロギーに篭絡された彼らが、自分自身の生存や生活を重視する一般ピープルの直観や常識に反することを、公共のメディアで平然と垂れ流すからである。一般ピープルは「ネトウヨ」などといったイデオロギー的なレッテルを貼られるべき対象ではない。その意味において、≪生活[や生存]の流れのなかではじめて意味を持つ≫言葉で語り、そのような「知識」や「知」を重視する一般ピープルと比べれば、つねに思想やイデオロギーの文脈でものごとを捉えようとする自称知識人や昨今のオールドメディアは、はるかに「無知」で「愚か」だとも言える。要するに、「自分は、賢い知識人(エリート)だ!」「国民(一般ピープル)はバカだ!」と信じ込んでいるような現代人は、前述のとおりデカルトがかけた魔法から目覚めることができないでいるのですね。個人的には、その手の輩は、イデオロギーに絡み取られたファシストにすぎないと思っている。
また脱線してもたので、新書本に戻りましょう。さらに次のようにある。≪このように、普段の生活においては、知っているかどうかや本当かどうかを疑うのがもっともな理由が存在し、知っている根拠や本当である根拠を出しうるようなケースでのみ、「知っている」という言葉が使われる。逆に言えば、普通は訊くまでもないこと――というよりは、訊く{意味のない/傍点}こと――について、「知っている?」などと訊くことはないし、また、あえて主張する意味のないようなごく当たり前の事柄について「知っている」と主張することもない、ということだ。¶たとえば、自分が身体をもつことや、いまあるこの世界が遅くとも千年前とか一万年前といった昔から存在することなどが、「知っている」とか「知らない」と主張されることは普通ありえない。言い換えれば、これらの事柄は、我々がどこかで「知る」ものではないし、我々が「知識」と呼ぶものではない。我々は、自分が身体をもつかどうかや、この世界が昔から存在するかどうかを知ろうとしたことはないし、知る機会もなかった。むしろ、これらの事柄は、我々が何かを知ろうとしたり疑ったりする大半のケースにおいて、「蝶番」として{おのずと前提にしている/傍点}ものの一部であり、その意味で、我々の探究や活動の土台の一部なのである。実際、もしも自分の実体が水槽のなかの脳である可能性[映画『マトリックス』的な状況]や、宇宙人が世界を五分前に創り上げた可能性を私が本気で信じるとすれば、これまでの生活の前提が根底から覆され、私はまさにどうしたらよいか何も分からなくなってしまうだろう(159〜60頁)≫。≪本気で信じる≫というくだりは、私めなら「直観的に信じる」と言い換える。実は、≪自分の実体が水槽のなかの脳である≫、≪宇宙人が世界を五分前に創り上げた≫などといった思考実験を案出して悦に入っている哲学者たちは、そのような言説を本気で、すなわち直観的に信じているわけではない。しかしながら、それに似たことを信じている人々は実際にこの世に存在する。それは統合失調症者などの、自明性を担保する能力を失った精神病患者で、彼らはたとえば、一分後に世界が消滅する世界という現実を生きているのですね。そのような現実を直観的に信じて生きることと、(たとえば急にブラックホールが出現するなどして)そのようなことが起こる可能性もあると論理的に考えることはまったく違う。そしてこの違いを理解していない現代人は多い。それについてはみすずちゃんから刊行されているヴォルフガング・ブランケンブルク著『自明性の喪失』が大いに参考になるので是非読まれたい。
それに関連して、新書本の著者は次のように述べる。≪このようにウィトゲンシュタインは、絶対確実な知識を求めること――それゆえ、不可避的に過激な懐疑論を押し進めること――それ自体が混乱した営みだと批判する。この批判は、懐疑論を{論駁する/傍点}ものではない。すなわち、絶対確実な知識の存在への懐疑に抗して、そのような知識が実際に存在することを主張しようとするものではない。そうではなく、知識とは本来、疑うことができる事柄に適用される概念だと指摘するものである。¶疑うことが普通はありえないもの、または、疑いようもないものには、情報としての意味や価値はない。自分が身体をもつとか、この世界が昔から存在するとか、考えている自分が存在するとか聞かされても、それらは何の役にも立たない。つまり、それらのほうこそが、まさに「知識」と呼ぶに値しないということである(162〜3頁)≫。直観的に把握されている自明なものは知識ではない。自明なものが知識として扱われ、疑いの対象になるような知のあり方は、むしろある意味で、自明性を喪失した精神病患者と異ならないのかもしれない。ただし精神病患者が、世界が明日にでも消えてなくなるという直観的な確信を抱きつつ、そのような世界を現実に生きているのに対し、たとえば自分が身体をもつか否かを考察の対象にするような頭でっかちは、それが疑いの対象になるような世界を直観的に信じて現実に生きているのではなく、スピノザの言葉を借りれば想像の知に絡み取られているにすぎない。イデオロギーのような想像の知に篭絡されている、現代の日本の自称知識人やエリート気取りは、そのことがまるで分かっていないのですね。
次の指摘はまったくその通りだと思う。≪我々は、自分たちの生活を可能にしているそうした前提の多くを、明示的な仕方で学んで自覚的に信じるようになったわけではない。また、それらは絶対に正しいと判断しているわけでもない。それらは、小さい頃から物で遊んだり、物を食べたり、言葉を聞いたり話したりなど、多種多様な実践に次第に馴染んで生活ができるようになる過程で、常識ないし伝統としておのずと受け入れ、受け継いできた{背景/傍点}なのである。そうやって、普段は目立たずにいわば透明化しているからこそ、我々はその共有された背景を足場にして、知的な探究や議論を行なうことができるわけだ。¶ウィトゲンシュタインは、この種の背景(=日々の生活を送るうえで受け入れている前提)のことを、「世界像(Weltbilt)」とも呼んでいる(169頁)≫。これは非常に単純素朴なことではあるが、現代の自称知識人はイデオロギーに目を曇らされてこの当たり前田のクラッカーがまったく見えていない。彼らはウィトゲンシュタインとは逆に、≪知的な探究や議論≫が≪世界像≫に優先すると考えているのだから。この病気は、自分をエリートと思い込んでいる人ほど、そして学者先生様も容易にかかりやすい。『シン・アナキズム』を取り上げたときに、雑多性の解釈などに関して著者の重田氏に、「重田氏は「優先順位を間違えてね?」」として苦言を呈したが[ページ内検索ワード:雑多性]、そこで言いたかったこととはまさに、彼女の言説においては、ウィトゲンシュタインの言う「世界像」、すなわち≪日々の生活を送るうえで[一般ピープルが]受け入れている前提≫が完全に無視されているのではないかということだったのですね。背景無しの前景などあり得ない。まさに現代の知識人の多くは、デカルトがかけた魔法から目覚めていないのですね。
次の指摘は肝に銘じておいたほうがよい。≪過激な懐疑論者も反懐疑論者も同じ穴の{狢/むじな}であって、どちらも「語るということが要求するコミットメントを負わずに語ることを欲している」ということだ。我々が何ごとかを主張する際に課せられている責任にコミットすること、すなわち、その責任を果たそうと努力することから、彼らは逃れようとしているのである(178頁)≫。ここでは過激な懐疑論者や反懐疑論者が批判の対象として槍玉にあげられているけど、現代の日本には「言論の自由」だけ声高に叫んでそれに伴う責任にコミットしていない輩が大勢いる。それどころかオールドメディアにも、そのような体質がある。ナシム・タレブさんが、「身銭を切っていない奴の言うことは信用するな!」という主旨のことを述べているのは、まさにその点を指摘しているものと考えられる。
新書本の著者はさらに次のように畳みかける。≪過激な懐疑論者たちも、それを論駁しようとする者たちも、自分の心と世界のあいだに一種の断絶があると主張する。デカルトも強調するように、我々は、自分がこれまで真実だと認めてきたものすべてを感覚を通して受け取っているが、しかし、感覚はときに欺く。それゆえ、自分の内面に現れているもの(=表象)が現実と一致するかどうか、あるいは、対応する現実そのものが存在するかどうかは定かではないと主張するのである。このとき彼らは{あたかも/傍点}、共有された生活形式から逃れ、その外部に立てる{かのように/傍点}振る舞っている。すなわち、店に並んだ品物が普通に実在すること等々の前提を、自分たちだけは受け入れることなく語れるかのように振る舞っている。¶しかし、それは幻想に過ぎない。(…)彼らが言葉によるコミュニケーションができるのは、他の人々と生活形式を共有しているからだ。したがって、彼らは実際には、自分たちが受け入れているはずの生活形式に、いうなれば{ただ乗り/傍点}しているに過ぎない。すなわち、共有された生活形式を利用しつつ、その基本的な部分を他者たちとともに維持する責任を放棄しているに過ぎない。その意味で、彼らは無責任なのである(178頁)≫。この文章も、見た目は過激な懐疑論者や反懐疑論者を批判の対象にしている。しかし、同じことは、「国民はバカだ!」などとトチ狂った暴言を吐きまくる現代の日本のエリート主義者(というか実質的なファシスト、権威主義者)にもみごとに当てはまる。また、≪ただ乗り≫とは英語ではフリーライドであり、戦後の日本が、絶対平和主義を唱えて実のところフリーライダー国家に堕落してしまったことはこれまで何度も指摘してきた(直近では、前回取り上げた『現代戦争論』)。まさに極東の日本においてさえ、デカルトがかけた魔法から目覚めていない人は大勢いるのですね。
さてウィトゲンシュタインの次に、哲学者J・L・オースティンが取り上げられている。彼はいわゆるスピーチアクト理論(ただし詳しくは失念したけど、スピーチアクトという言葉を最初に用いたのはセクハラおっさんジョン・サールだったかも)の元祖として知られている。ここでこの本の内容とは関係ない指摘をしておくと、翻訳者はぜひとも、彼の代表作の一つであるHow to Do Things with Wordsを少なくとも一度は読んでおくべきだと思う(確か邦訳もあったはず)。それから彼の名前は、イギリスの有名な女流作家J・オースティンを思い出させるよね。J・L・オースティンにはSense and Sensibiliaというタイトルの言語学関連の本があるけど、このタイトルはおそらくJ・オースティンの有名な小説『分別と多感(Sense and Sensibility)』をもじったもののように思える。ただし、この新書本でJ・L・オースティンが取り上げられているのはスピーチアクト理論のゆえというより、ウィトゲンシュタインが指摘しているような無責任さをオースティンも指摘しているからで、それについて次のようにある。≪過激な懐疑論の本質にこの種の無責任さを見出す見解は、ウィトゲンシュタインと同時代のイギリスの哲学者J・L・オースティン(一九一一〜六〇)も示している。¶かくかくの場所にしかじかのものがある、といった類いのことを誰かが言ったとき、過激な懐疑論者はしばしば、「なぜ知っていると言えるのか」、「どうして分かるのか」などと問う。これに対してオースティンが指摘するのは、我々の生活においてこうした問いは本来、「敬意ある好奇心、学ぼうとする本当の欲求から発せられる」ということだ。言い換えれば、我々は普通、疑問に思うそれなりの理由があり、答えを知りたいと本当に思っているからこそ、相手にそう問いかけるということである。¶しかし、過激な懐疑論者は実際のところ、そのような敬意ある好奇心や、学ぼうとする本当の欲求から相手に疑問を向けているわけではない。彼らはコミットメントを負わずに軽々しく問いを発しながら、知識というものに対する的外れな失望を表現しているに過ぎないのである(181〜2頁)≫。
その手の人々が≪知識というものに対する的外れな失望≫を表現するのは、彼らが「知識」というものに対して「的外れの理解の仕方」をしているからだと、私めなら言いたいところ。次の警告は、的外れにも「自分は賢い! 一般ピープルはバカだ!」と思い込んでいる現代の自称知識人に対する警告とも取れそう。≪無条件の一般的な主張を語りだした時点で、人は知らず知らずのうちに過激な懐疑論の入り口に立っている。専門的な哲学者でなくとも、人はしばしば、そのように懐疑論的な思考に入り込む。そして、自分が住み込んでいる生活形式から遊離し、自分たちの生活や社会を――ひいては、世界全体を――あたかも外側から眺めるかのような感じを覚える。世界のどこからでもない{一般的な/傍点}視点、{絶対的な/傍点}視点に立っているかのような気分になる(184頁)≫。ここでは「懐疑論」とあるが、同じことは「エリート主義」「権威主義」「ファシズム」「グローバリズム」「ニヒリズム」「アナーキズム」などにも当てはまるでしょうね。たとえば「国民はバカだ!」と放言する輩は、自分と自分のお仲間だけは国民ではないと思っているはず。一般ピープルはそれを「非国民」と呼ぶが、自分をエリートだと信じ込んでいる輩にとってはそれがあたかも称賛の言葉であるかのごとく響くのかもしれない。だが、前述のとおり背景なくして前景は存在し得ない。ウィトゲンシュタインの言う「世界像」があたかも存在しないかのような言説を吐き散らす輩は、この背景(ここでは国を意味する)なしには誰も生きていけないことを理解していない。国が崩壊していの一番に淘汰されるのは、銀河系一のヘタレたる私めだろうが、その次に滅びるのは「自分や自分の仲間だけは特別だ!」と救いようのない勘違いをして「国民はバカだ!」などと放言している青二才の連中に決まっている。その手の輩は、次のことを肝に銘じておくべきでしょうね。≪ウィトゲンシュタイン(…)によれば、我々の問いや主張などの実践を可能にしている蝶番とは、我々が常識や伝統として受け継いでいる世界像であり、我々がおのずと従っている生活形式、慣習にほかならない。そうしたものから完全に遊離してしまえば、我々は意味のある問いや主張を行なうこと自体ができない。前章で見たモンテーニュの指摘を再度取り上げるなら、「慣習という蝶番から外れたものは、理性の蝶番からも外れていると見なされる」ということである(185〜6頁)≫。そう、「国民はバカだ!」などと平然と言い放つような輩は、「理性」の何たるかを完全に取り違えているのですね。
次は最後の「第5章 懐疑主義の意義」だけど、(懐疑論ではなく)懐疑主義の意義はここまでの説明で十分よくわかるはずだし、「陰謀論」とか「分断」とかありきたりのトピックが扱われていて正直あまり興味が持てなかったこともあり省略する。興味がある人は買って読んでみてね。
本来はこれで終わりだけど、「あとがき」にこの本の内容に鑑みれば姑息に思える記述があったので最後に簡単に指摘しておきたい。それはトランプに関する記述で、次のようなもの。≪真実は我々人間にとっての理想であり、かつ{宿痾/しゅくあ}である。たとえばアメリカのドナルド・トランプ大統領はこれまで、自身にとって不都合な報道をしばしば「フェイク・ニュース」と呼び、二〇二二年には「トゥルース・ソーシャル(Truth Social)」という名のSNSを立ち上げている(…)。¶実際には明白な虚偽に基づく主張を臆面もなく繰り返している人物が、にもかかわらず{真実/トゥルース}を中心的な価値として認め、真実が自分の側にあると喧伝しているのは、実に象徴的な光景だと言える。人間はそれほどまでに真実を気にかけ、真実に囚われているのだ(226頁)≫。お偉い学者先生様が何かにつけトランプを批判したがるのは毎度のことだし、≪明白な虚偽に基づく主張≫か否かは別としてもビジネスマン出身のトランプが大言壮語したり、結局ヘタってTACO(Trump Always Chickens Out)とか呼ばれたりしていることも事実には違いない。したがってこの記述がまったくの誤りだと言いたいわけではない。ただ私めが姑息だと思ったのは、それを「あとがき」で書いていることなのですね。本来この記述は、本論第5章の陰謀論を扱った箇所ですべきだったはず。しかし、もしそこでトランプに関するこの話題を取り上げた場合、この本のここまで説明してきた内容からして、上記の文章だけでは思考停止したと思われても仕方がない。なぜなら、アメリカの有権者の半数以上(第一次政権のときは選挙人数では勝っていても総得票数ではヒラリーに負けていたが、第二次政権のときはその両方でハリスに勝っていたので、少なくとも第二次政権に関しては選挙人制度という、過去の遺物とも言える奇妙な制度のせいにすることはできない)がトランプに投票していることの説明が必要になるから。アメリカの国民、すなわち一般ピープルはバカだからトランプに投票したのかね? そんなはずがないことは、ここまでの説明で十分わかるはず。でも「あとがき」に書けば、そんな細かい「懐疑」に立ち入る必要はないから、その考察を省略しても不審に思われない。だから姑息だと思ったわけ。何しろ大学教授様がトランプに関して少しでもポジティブなことを書けば、名声に傷がつくだろうしね(ちなみにこれまで読んだ英語や日本語の本でトランプに関して少しでもポジティブなことを書いていた著者はマルクス・ガブリエルしかいなかった)。
このようないかにもエリート主義的な学者先生様らしい物言いは第5章にも見られる。そこに次のようにある。≪確かに、どんな証言も絶対に確実だとは言えない。資料に誤りや虚偽がある可能性もゼロとは言い切れない。原理的には、人は任意のものを疑いうるのだ。そして、現実にそうやって個別の出来事に対する懐疑論をぶち上げ、世の中に浸透させることができれば、{それだけで/傍点}一定の大きな成果をあげることができてしまうのである。つまり、常識にいわば傷をつけ、あわよくば議論の俎上に載せることができてしまうのである。たとえば、当該の出来事の有無やその内実を、「諸説ある」とか「賛否がある」といった曖昧な言論に巻き込んだり、メディアや世論などの扱いを「両論併記」にもっていくと、といった具合だ(205頁)≫。著者は大きな勘違いをしている(か、故意に読者を間違った方向に誘導しようとしている)のではないかと思われる。そもそも一般ピープルは、≪個別の出来事に対する懐疑論をぶち上げ、世の中に浸透させ≫ようなどと意図したりしてはいない。もちろん左右を問わずイデオロギーに駆られてそうしようとしている人々がいないわけではない。だが、そんな輩は少数者に過ぎない。『知性の復権』を取り上げたときにも書いたけど、ほんの一部の人々の振る舞いを取り上げてそれが一般的であるように主張するのは強弁、詭弁のたぐいにすぎない(ある意味で藁人形論法に近い)。辺野古事件を考えてみればわかるように、ここに書かれているような阿漕な真似をしているのはむしろオールドメディアのほうなのですね。しかも一般ピープルとは異なり、少数者で構成される大手メディアには権力があり、伝達も「メディア→視聴者」という一方向でしかない。だから大手メディアには、「諸説ある」「賛否がある」ことを念頭に入れて、「両論併記」をすることが必然的に要請されるのですね。一般ピープルと権力機構の一つであるメディアの違いを無視しているとしか思えない以上の記述は、このすばらしい本の内容にもかかわらず、残念ながら著者の頭のどこかにエリート主義的な思考様式が残っているからだとしか考えられない。
ということで最後に少しばかり苦言を呈したけど、本論の99%は実にすばらしい内容なので読んでみることをぜひとも推薦する。
※2026年5月11日