◎先崎彰容著『知性の復権』(新潮新書)
「ヘタレ翻訳者の読書記録」で著者の先崎氏の本を取り上げるのは、『本居宣長』と『国家の尊厳』に続いて三冊目になる。同一著者で三冊取り上げるのは実は初めて。あえて三冊目を取り上げたのは、副題に「「真の保守」を問う」とあり、保守とは何かについてこれまで「ヘタレ翻訳者の読書記録」に書いてきたことをここでまとめられるのではないかと思ったから。ありていに言えば、保守に関する私めの考えを、ずうずうしくもここでもう一度明確にしようと考えたというわけ。なので新書本自体の紹介に入る前に、私め自身がこれまで書いてきた保守とは何かに対する考えを最初に簡単にまとめておく(よってこの部分は、新書本の著者の見解ではまったくないので留意されたい)。とりわけ左派メディアや左派の自称知識人は、故意なのかどうかはよくわからんが、保守と右翼を混同していて恐ろしく的はずれな見解をまき散らしているので、保守とは何かを正確に定義することは非常に重要だと個人的には考えている。
さて私めは、保守とは何かを考えるにあたっては、時間的次元と空間的・構造的次元を明確にする必要があると考えている。まずはそのうちの時間的次元から参りましょう。実は保守は右翼ではないというのは、両者における時間的次元の扱いの違いにおもに見て取れる。時間的次元を考えた場合には、右翼は保守ではなくむしろ左翼に近いというのが実際のところなのですね。保守が重視するのは、現在の生存や生活に関してであって、よっておもに現実に焦点を絞っている。それに対して右翼は、過去の特定の時代を理念的に美化し(回顧主義や国粋主義)、その理念化された過去に現在を合わせようとする。また左翼は、理念としてユートピア的な未来を理想化し、その理念に現在を合わせようとする。つまり保守は現在に、右翼と左翼は現在ではない過去や未来におもな焦点を絞る。もちろん保守は理念を完全に否定するわけではなく、ある程度指針にはするが(したがって保守は完全に進歩を否定するわけではなく、漸進的な進歩は認める)、その理念が現実に合わなければ理念の方に修正を加える。ところが右翼や左翼は、現実が自分たちの理念に合わなければ、現実を強引に理念に合わせようとする。そして右翼なら二・二六事件のようにクーデターなどの手段を用いて、あるいは左翼ならフランス革命やロシア革命などに見て取れるように革命によって現実を破壊しようとする。だから時間的次元においては、ベクトルは互いに逆を向いていても右翼は左翼に近いのですね。極右になればなるほど、また極左になればなるほど暴力的になる点でも両者は似ている。なぜ暴力的になるかというと、極右も極左も、現実を破壊して自分たちが信奉している理念に強引に合わせようとするからなのですね。それに対して保守は、現在における生存や生活の安寧を担保することを最重要視する。このように保守を捉えれば、保守の姿勢と右翼の姿勢はまったく異なることがわかるはず。ところが、左派メディアは、保守と右翼を混同して、たとえば移民問題を右傾化のせいにしたりしているのですね。まったく的はずれとしか言いようがない。ここでは詳細は述べないが、移民問題の原因が右傾化にあると見なすことがいかにおかしいかについては『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきに書いたのでそちらを参照されたい。
次は保守の空間的・構造的次元の特徴について考えてみましょう。それについては、今までは縦糸・横糸という言い方をしてきた。ここで言う縦糸とは、部族社会から始まって地方自治体や国家に至る、階層的に作用する垂直的な制度を意味する。そして、近代以降その最大の単位となっているのが国民国家だと個人的には考えている。横糸の例としては、国際法や、国家間を連携する、国連などの水平的な国際的組織があげられる。なおここで、「国際(インターナショナル)」と「グローバル」の区別は非常に重要になる。「国際(inter+national)」とは国家間の連携を意味し、したがって国民国家の存在をまず前提として、各国が持つ独自性、多様性を担保しようとする。それに対して「グローバル」は、国家間の敷居を破壊して国境のない世界を作り、地球大に広がる均質的なただ一つの空間を作り出そうとする。この区別に基づけば、グローバリズムに反対する私めでも、国連などの水平的な国際組織が不要だとは思っていない(ただし、現在の国連が本来の役割を果たしているか否かはまた別の問題だけど)。この縦糸(国民国家)と横糸(国際関係)から織り上げられる構造は、ネットワークという概念を援用すればよりはっきりする。このアナロジーでは、縦糸を統合する国民国家はネットワーク理論で言うところのノードに、また横糸にあたる国際関係はリンクに相当する。ネットワーク構造においては、そもそも確固たるノードがいくつかすでに成立していなければ、それらを連携するリンクも存在し得ない。それと同様、最初にいくつかの国民国家が成立していなければ国際関係も存在し得ない。保守は、このような構造連関を重視し、それを基盤にして自分たちの生存や生活の安寧を確保するのですね。だからたとえば、外交や国家の安全保障は最重要課題の一つになる。ところが右翼や左翼は、このようなネットワーク構造を無視して、縦糸を構成する特定の国民国家を世界大に拡張しようとする帝国主義、拡張主義に陥るか(右翼ではナチスや大東亜共栄圏の成立を目指した戦前日本、左翼では世界革命を目指した共産主義国家がそれに該当する)、国境のない均質的な世界を実現しようとするグローバリズムに陥る(日本の左翼に典型的だが、『アメリカ 異形の制度空間』で言及したアメリカの第二の顔などの右翼にも見られる)のですね。あるいは、完全に横糸だけに頼ろうとするいわゆる水平主義や、まったくのアナーキズムを擁護する場合もある(これはほぼ左翼に限られる)。それとは対照的に、保守は国際法や国連によって、おのおののノードを構成する諸国家間の連携を図るというネットワーク構造を必須と考える。
以上が私めが考えている保守に関する、定義とまでは言わないとしても見立てになる。よってこの新書本を読むにあたっては、この見立てと比べて類似する点、異なる点に特に注意して読むようにした。したがってそれに関係しないことは、ざっくりとカットする予定なので悪しからず。だからたとえば、相変わらずトランプに対する、私めからすればまったく的はずれに思える非常にネガティブな見解がそこここに散見されるが、それについてはすでに『国家の尊厳』を取り上げたときに触れたので今回は、本論に入ってからは言及しない(個人的にはトランプの問題は、左派メディアが吹聴しているような、自国第一主義を掲げている点にあるのではなく、縦糸・横糸の横糸を無視する点にあると思っている)。まあ結局、著者は国際政治の専門家ではないし、左派オールドメディアの主張をそのまま受け取っているという印象を受けざるを得ない。一つだけ例をあげると、第一章に≪移民排斥を主張したトランプ大統領(43頁)≫とあるが、トランプは別に合法的に入って来る移民を排斥しているわけではなく、南北の国境から無断で侵入してくる「不法移民」を排斥しているにすぎない。正式に玄関から訪問するのではなく、自分の庭に垣根を越えて見知らぬ人が勝手に侵入してきたら、誰でも、というか寛容を自認するリベラルでさえ、普通は追い出すに決まっている。左派メディアはよくその点をごまかして「移民排斥」と宣うが、実際には「不法移民排斥」であることに注意する必要がある。左派オールドメディアでさえ最近では「不法移民」と正しく表記しているのをチラホラ見かけるというのに、学者先生様がこれではね。まあインテリの学者先生様には、トランプのような粗野で粗暴に見える輩は、生理的に受け付けないというのがほんとうのところなのでしょう。でも、良し悪しは別として、世界は彼のような粗野で粗暴に見える輩によって動かされていることに間違いはなく、何が問題なのかを正確に見極める必要があるときに、左派ですらない学者先生様までが、そのような嫌悪感に囚われていてはどうしようもない。すでに述べたようにトランプにはトランプの問題があるのは当然だが、左派メディアのようにそれを生理的な嫌悪感に基づいて判断すべきではない。トランプに関してはそれだけにしておく。
ということで、いよいよここから新書本の内容に入る。まずは「第一章 アイデンティティの政治の潮流」。最初に次のような記述があって「おや〜〜ん?」と思ってしまった。≪自民党総裁選挙[で]は、大方の予想を覆し、「保守派」を自認する高市早苗氏が選ばれました。右派政党の躍進からタカ派の高市氏の総裁就任までの期間、リベラル派の声はまったく聞こえてきませんでした。安倍総理時代のマスコミと群衆を知っている者からすれば、反右翼の声も、デモの動きもありません。こうした日本の右傾化・保守化については、第三章でくわしく取り上げます(14頁)≫。まず指摘しておくと、石なんちゃらとかいうガマガエル(モノホンのガマガエルに失礼かもだが)がまだ総理大臣だった頃は、確かに≪反右翼の声も、デモの動きも≫ほとんどなかったかもしらん。でもそれは石なんちゃらがまさに左翼的な政策を展開していたからであって、高市氏が総理になってからはオールドメディアでは高市批判が、国会前では反高市デモが繰り広げられていることは周知のとおり。そのような自称リベラルの態度に対しては、本来はリベラルサイドに属するはずの知識人でさえ批判的に見ている。たとえば哲学者の東浩紀氏は、自身のユーチューブチャンネルで、自分は高市支持者ではないとしつつも、自称リベラルのあまりに支離滅裂な高市叩きに憤慨していた(東氏は去年トランプが当選したときにも似たようなツイをしていた)。ただこの引用文でもっと気になったのは、≪日本の右傾化・保守化≫とあった点。これを見た私めは、「もしかして著者は「右傾化(右翼)」と「保守化(保守)」を同類項として扱っているのかな?」と思ってしまったわけ。冒頭で述べたことからも類推できるように、個人的には「右翼」と「保守」はまったく異なると考えている。ただしもちろん、この引用文に対する私めの印象そのものが誤っている可能性も大いにあり、それについては今後の展開次第なので性急な判断はしないことにした。
第一章では次に、ネットにおける石丸現象と立花孝志率いるN党の乱に触れて、彼らのやり方をもとに≪「無意識の閉塞感と攻撃性」こそが、現代日本にたいする第一の時代診察です(18頁)≫という診断を下している(なお太字は著者によるもので、私めによるものではない。以下同様)。正直なところ、石丸氏や立花氏の言動にはまったく興味がないので(ただし「NHKをぶっ壊せ!」という後者の主張だけには賛同するが)、彼らが普段どんな発言をしているのかについてはほとんど何も知らない。確かに、現代日本に≪無意識の閉塞感と攻撃性≫が見て取れるという点には特に異論はない。ただし著者がそれを「自己承認欲求」という、自己啓発本的な心理学の概念に結びつけている点には大いなる疑問を感じた。まず次のようにある。≪テレビとは異なるSNSの特徴は、みずからが発信者の立場にいつでもなれることです。数局のテレビからの発信を受け取るだけだった視聴者が、いまや芸能人やディレクターとおなじ立場、発信者側になった。インスタグラムなどに象徴的ですが、自分の日常を切り取り、不特定多数の視聴者にたいし、見てもらえる立場になったのです。理屈のうえから言えば、一発信者が、全世界の人びとから注目される可能性をもつようになった(21〜2頁)≫。ここまではまったくその通りで、特に異論はない。
ところがそれを受けて次のように述べられるあたりから、違和感を覚えざるを得なかった。≪テレビに登場し発信者側になり、視聴者から注目を得るためには、それにふさわしい「成熟するための時間と技術」が必要だったわけです。¶SNSはその前提を劇的に変えてしまった。可能性としてはすべての人に、芸能人やディレクターとおなじ発信力があるという錯覚をあたえてしまったのです。ところが、理屈のうえから言えば、と先に言ったように、実際はそう簡単に、人からの注目を受けられるわけではない。Xに歌声を投稿してみたところで誰も聞いてはくれず、インスタグラムやYouTubeにいくら映像を流しても、再生回数がまったく伸びてこない。¶では、どうすればよいのでしょうか。火が付いた自己承認欲求を満たすために何をすればよいのか(24頁)≫。ここまで読んでほんとうに自己承認欲求に駆られてXやYouTubeに投稿している人って、いったいどのくらいいるのだろうかと思ってしまった。自己承認欲求を持ち出してこのような議論を展開する知識人はよく見かけるけど、個人的にはこの手の論法に強い疑念を抱いている。その理由を述べる前に、著者の主張を明確にするためにもう少しやや長めに引用してみましょう。次のようにある。≪どこまで問い詰めても残る自分の特徴、「わたし」を「わたし」たらしめているもの、他者との決定的なちがい、それは身体的なものです。身体的なものを誇示するしか、振り向いてもらう方法がない。社会参加の手段がない。¶性的なものと暴力的なものが、せり出してくるのはこの時です。人間の最も原始的で根本的な興味関心は、性であり、暴力だからです。日常をかき乱し、非日常の世界を垣間見せてくれる「性」と「暴力」が、最も簡単に他者からの視線を調達できる。元手がいらず、炎上しやすく、関心をひきやすい。こうして、SNS上で手っ取り早く再生回数を稼ぐために、自分の身体や恥部をさらしてみたり、警察官に食ってかかるような映像が氾濫することになります。タイトルは攻撃的な方がクリックされやすく、自然、口調も荒々しくなる。技術や工夫一切なしの、赤裸々で、生々しい暴露系の映像が増える。¶こうして、SNSで成功している発信者の多くは、学問の蓄積であれ下積み時代であれ、時間をかけて自分の特殊性を研ぎ澄ますのではなく、身体的、生理的な刺激にもとづいて、自己承認欲求を調達することになります。(…)以上から、SNSが呼び覚ました自己承認欲求の特徴が見えてきます。第一に、理論上、不特定多数の視聴者を期待できるSNSですが、大半の人はごくわずかの人からしか注目を受けられない。そのためみずからが蔑ろにされていると感じ、苛立ちが助長される。第二として、それでも他者からの視線を浴びたいと願うなら、性的あるいは暴力的なものを動員するしかない。この二つが、わたしたちを極端な行動にはしらせる。現実を呑み込み、わたしたちの精神世界の奥深くを揺り動かしているのです。¶SNSは、すでに「合法的テロリズム」の「合法的」という冠を外し、本気の暴力を生み出そうとしているのではないでしょうか。わたしたちは一体、なにに操られようとしているのか(25〜6頁)≫。
これを読んだ私めはすかさず次のように思ってまった。「『本居宣長』のようなすんばらしい本を書いた先崎氏が、なんでこんな自己啓発本の著者のような短絡的で一面的でネガティブで煽情的で皮相なことを書いているのか?」とね。確かに最近では、ムササビだかモモンガだか(ムササビとモモンガの違いがよくわからん)の格好をして崖から飛び降りるような動画も見たことがある。自分の体を張った動画を投稿して、不特定他者の注目を集めようとしているのは一目瞭然である点に間違いはない。そのおかげで死者が多数出ていることも知っている。しかしそんな動画や≪自分の身体や恥部をさらしてみたり、警察官に食ってかかるような≫動画を投稿している人ってほんの一部しかいない。そもそもその手の輩は、SNSがあろうがなかろうが、何か突拍子のないことを始終仕出かしているのだろうと思う。それに対してたいていの人は、レストランで食べた料理や、街角で偶然見かけた変わった光景を撮影して投稿しているにすぎない。つまり、一般ピープルは自己承認欲求を満たすために動画や画像を投稿しているわけではないということ。私めも、この「ヘタレ翻訳者の読書記録」に定期的に文章を「投稿」しているけど、カウンターの数を見れば一目瞭然であるように、ほとんど誰も見ていないことを知っている。でも、それでも「投稿」し続けているのですね。それで自己承認欲求が満たせるはずもない。一部の人の例だけを取り上げて、それが現代の病であるかのように論じることは、ましてやそれをSNS批判につなげることは、私めにはまったくの的はずれにしか思えない。
ならば人は、なぜSNSやユーチューブに投稿しようとするのか? それに対する答えは、「自己承認欲求」などではなく、人間が普通に持っている「表現欲求」だと、個人的には考えている。人間は、誰かが見る可能性があるという前提条件のもとで、何かを「表現」しようとする主体的な動機を持っている。SNSで「いいね」が押されるたびに、ドーパミンミンゼミが高らかに鳴くのも、「自己承認欲求」というより「表現欲求」がちょっとだけ満たされたからだと考えるべきでしょう。「表現」というのは、「おもてに現す」とあるように、自己の内部の何かを外に向けて表出することを意味する。「外に向けて表出する」ということは、誰か他の人が見る「可能性」があることが前提になる。つまり、「表現」とは他者との関係を前提にした行為だということ。自分しか見る可能性がなければ「表現」にはならないと言ってもいいでしょうね。だってそれなら「外に向けて表出する」必要性などまったくないことになるのだから。たとえば表現を旨とするアーティストは、「自己承認欲求」を満たすためではなく、「表現欲求」を満たすためにアートを制作しているのが普通でしょう。SNSは、まさにこの「表現欲求」を満たす小さな機会を誰にも与えてくれるのですね。確かにSNSにはネガティブな側面もあるけど、「表現欲求」を少しでも満たしてくれるというポジティブな側面を捨象して、「自己承認欲求」などという、いかにも読者に受けそうな言葉を使ってネガティブな側面だけを強調するのは大問題だと思っているからこそ、この手の発言には疑念を感じざるを得ないのよね。問題はさらにあって、このような見立ては「だからSNSは規制しなければならない」などという、抑圧的な考えにつながる。著者はたとえば、のちの章で≪国内では、自由や民主主義がテロによる凶行とSNSによるポピュリズムによって、機能不全に陥りつつある(104頁)≫と言い放っているけど、SNSによって自由や民主主義が機能不全に陥っているとは、「左派オールドメディアに踊らされた著者の思い込みに過ぎないのでは?」と思ってまった(『本居宣長』を書いていることからしても先崎氏自身が左派だとはまったく思っていないが、トランプ批判に見て取れるように学者先生の多くは、思想の左右を問わず権威主義的な左派オールドメディアの影響をかなり受けているのだろうと思っている)。≪自由や民主主義が機能不全に陥っている≫のはSNSのせいではなく、むしろ捏造、印象操作、切り取り、報道しない自由、誤報と何でもありの権威主義的なオールドメディアのせいでしょうと言いたくなる。個人的には少数の人々が手綱を握っているオールドメディアではなく、デマやフェイクはあっても全体的には集合知(集合知に関しては西垣通氏の『集合知とは何か』を参照されたい)に支えられているネットが、今後の自由や民主主義に必要なメディアになるべきだと考えている。基本的に生存や生活の安定や安寧に焦点を絞っている保守的な一般ピープルは、慣習、常識、集合知を直観的に信用しているのだと思う。そしてそれらの知は、生活の安定や安寧の確保という点に関して、必ずではないとしてもたいてい正しいのですね。「「みんなの意見」は案外正しい」という集合知を扱った本のタイトルに見て取れるように。
ところで、SNSを否定的に見ていると思しき先崎氏は、≪SNSに翻弄される現代社会を分析する際に示唆的(26頁)≫としてフランシス・フクヤマの二冊の著書をあげている。ここであげられているフクヤマの著書とは、有名な『歴史の終わり』ではなく、『IDENTITY』と『リベラリズムへの不満』という比較的最近の著書のこと。個人的には、『歴史の終わり』は読んだことがあるけど、後二者は読んでいない。それもあってというわけでもないが、ここではフクヤマの議論を細かく取り上げることはしない。ただし、次の指摘は引用しておきましょう。≪一九九〇年代以降、新自由主義ともグローバル化とも呼ばれる市場原理主義が浸透すると、ヒト・モノ・カネが国境を越えてはげしく流動化します。結果は、誰もがしるような格差社会を生み出してしまった。二〇〇八年に金融危機が起きると、国際社会では自由民主主義の衰退がはじまり、代わりに中国やロシアなどの権威主義国家の発言力が無視できなくなる。そして二〇一〇年代に劇的な変化が生じるのです。¶こうした時代の流れの中でフクヤマが特に注目したのは、政治闘争の力点が、かつてのような階級闘争ではなくなったことです。経済的利益や消費による平等を求めるのではなく、自分たちが蔑ろにされている感覚、無視されていることへの憤りこそが政治を駆動するあらたな力になった。自分の「尊厳」を認めてほしい、他人と平等で対等であるだけでは不十分であり、他よりも優れた存在だと認められたいという意識が生まれた。これを「アイデンティティの政治」と名づけたのです(30〜1頁)≫。先崎氏は明確には述べていないが、二〇一〇年代とはSNSが本格化した時代であり(私めも二〇一三年にツイを始めた)、要はフクヤマの言う「アイデンティティの政治」の成立に、言い換えると現代における自己承認欲求の氾濫にSNSが大きく関与していると言いたいのでしょうね。フクヤマの見立ての正否は別として、この先崎氏の解釈には疑問を感じざるを得ない。≪他よりも優れた存在だと認められたい≫という欲求を持つ人は、SNSがあろうがなかろうがいつの時代にもいたと思う。逆に言えば、現在でも≪他よりも優れた存在だと認められたい≫と考えてSNSをやっている人はほとんどいないのでは? 前述したとおり、≪他よりも優れた存在だと認められたい≫と考えてムササビになる人は確かにいるけど、それはごく少数であり、大半の人は、レストランで撮影した料理を投稿するなどといった、誰でもしているごく普通の日常生活の断面を切り取ってSNSに投稿しているにすぎない。自撮りをしただけでは、ムササビ人間のように≪他よりも優れた存在だと認められたい≫という動機に駆られているとはとても言えないのですね。それより、そのような投稿を通じてちょっとした自己表現をしてみようというのがほんとうのところではないだろうか。そして誰かが「いいね」をクリックしてくれたら、脳内でドーパミンミンゼミが鳴き始めて、(自己承認欲求ではなく)自己表現欲求がちょっとだけ満たされる。そんなごくありきたりのことにすぎないように思う。だから先崎氏は、むしろ先にSNS批判があって、それをバックアップするために大仰にも無理やりフクヤマを持ち出したという印象さえ受ける。
それからジャン・ジャック・ルソーに対するフクヤマの見方に対する解釈は興味深かった。次のようにある。≪ルソー哲学の到達点を、現代政治との関連を意識しつつ、フクヤマは次のように要約しています――「まずアイデンティティは、自分のなかの真の自己と、その内なる自己の価値や尊厳を十分に認めようとしない社会的ルールや規範から成り立つ外の世界とのギャップから生まれる」(…)。もちろん、人類は歴史上、つねにこうした違和感は持っていたのですが、内面にある本物の自分こそが「本質的」であり、社会はいつも不当にしか評価してくれない。こういう自己を中心に世界を見るようになったのは、近代以降の特徴でした。¶人類はほぼすべての時間を、社会のルールの方が正しいと考えてきた。しかし今や、変わるべきはルールの方だということになったのです(37頁)≫。≪社会のルール≫とは、法律のみならず、当然一般ピープルが遵守している慣習や規律なども含むはずで、そうしてみると確かにSNSには「自分こそ正義で、国民はバカだ」などと投稿している輩がそれなりにいることを思い出す。確かにその手の輩は「自己承認欲求」の塊になっている、もっと極端な言い方をすれば自己同一性を担保するために汲々としているのでしょう。しかしそのような発言は、右翼や左翼のイデオロギーに振り回されているごく少数の発信者によってなされているにすぎない。にもかかわらず、声がでかいから目立つ。とはいえ、ここで私めが注目しているのはルソーであって、SNSの問題ではない。ルソー(主義)に関してさらに次のようにある。≪ルターが発見した内面信仰は、ルソーになると「真の自己」という特権になり、神の支えがなくとも無条件に正しい基準になった。¶こうして近代は、あらゆる人間が戦士とおなじような「尊厳」と「自己承認欲求」に駆り立てられる時代になったのです。気概や自己犠牲などなくても、存在をそのまま承認すべきだということになった。¶真の自己と社会的評価が一致せねばならない。しかしわたしたちは、実生活ではほぼそのように生きてはいません。卑近な例でいえば、会社員であるわたしは、社長から呼びだされ、思いつきや自慢話を聞かされた際、適当にほめてゴマをするでしょう。あるいは、部下の誤情報で社長から問い詰められ、怒鳴り散らされても、面倒だからまずは謝ることもあるはずです。¶公的な自分と真の自己は、ズレているほうが普通です。そのズレを生きることができないとき、外側への批判がはじまる。ズレをめぐって社長と私の言い争いが終わらない。互いの真の自己がぶつかり、暴力を生むのです。つまりルソー主義が恐ろしいのは、他者に対して攻撃性を生むことなのです(39頁)≫。ルソー主義者は、言ってみれば「本質主義者」なのですね。だから本質を体現しているはずの「自分こそ正義で、国民はバカだ」などと平然と言い放つ。こうしてみるとSNSで攻撃的な発言をしている輩が、ルソー主義的なイデオロギーに染まっていることがよくわかる。ほぼ一年前に『資本主義に出口はあるか』を取り上げたときに、著者の荒谷氏が≪人々を魅了するルソーの理想はむしろ、どう見ても「悪」としかいえない結果を繰り返しもたらしました(同書54頁)≫という記述を取り上げた。またそこでは、ルソー主義が極左のみならず極右の暴力的な思想の背景にもなっていることが指摘されていた。まさに≪ルソー主義が恐ろしいのは、他者に対して攻撃性を生むことなのです≫ね。この先崎氏の指摘によって、ルソー主義と暴力の関連がより明確になったのがとってもとっても興味深かったというわけ。
次の「第二章 テロリズムの論理と心理」は「真の保守とは何か」という問いとあまり関係がないように思えたのでスキップし、「第三章 「保守」という言葉の混乱」に移りましょう。章題にあるとおり、個人的にも「保守」という言葉は濫用されていて、いったい何が保守なのかが定かでない状況に陥っていると思っている。だから冒頭で保守とは何かに関する個人的な見解をまとめておいたわけ。先崎氏はまず保守という言葉が混乱して用いられている例をいくつか紹介している。最初に登場するのはザ・ガマガエル。次のようにある。≪たとえば、石破氏は著書『保守政治家』のなかで、自身をリベラル保守であると言っています。「保守とは、何でしょうか。……その近代以降における思想的源流は、アイルランド生まれのイギリス下院議員でフランス革命を批判したエドマンド・バークにあると言われています。……つまり、保守というのはイデオロギーではなく、一種の感覚であり、たたずまいであり、雰囲気のようなものだ、ということです。皇室を貴び、伝統文化や日本の地方の原風景を大切にし、一人一人の苦しみ、悲しみに共感する。その本質は寛容です」(106頁)≫。いくら自民党に属しているからといって、ガマガエルが保守だなどと思っている人などほとんどいないと思われるが、そもそも≪リベラル保守≫っていったい何なの? 保守がイデオロギーではないという見解には賛成するが(冒頭で述べたように保守は現在の現実の生存や生活を重視する)、≪一種の感覚であり、たたずまいであり、雰囲気のようなもの≫というくだりはあまりにもぼんやりしていて、さすがは「楽しい日本」などという、幼稚園レベルの曖昧模糊としたことを施政方針演説で述べたガマガエルだけのことはある(そう言えば『たのしい幼稚園』などという園児向けの雑誌があるよね)。
「楽しい日本」について、先崎氏は少しあとで次のように述べている。≪石破総理が令和七年一月二十四日の施政方針演説で、自身の国づくりの基本方針として掲げた「楽しい日本」は、この著作[堺屋太一著『三度目の日本』]からの引用によるものでした。¶これにたいし、危機と閉塞の時代に楽しいとは何事だとか、経済成長して豊かにしてから楽しいと言え、という批判が政治家のあいだからも聞こえてきました。でもこれは著作を読んでいない証拠です(120頁)≫。≪著作≫とは堺屋太一の著書を指しているのでしょうが、堺屋太一の著書を読んでいようがいまいが、一国の総理大臣たるガマガエルが「楽しい日本」を口にすること自体が滑稽だから、とりわけ保守派に揶揄されたのですね。そもそもそこには何の現実的な提案もなく、現実を重視する保守主義者からすれば、政治家、それも総理大臣による「たの幼」レベルの発言は笑止千万でしかない。しかも、たとえ何か現実的な提案をしたとしても、ガマガエルは公約を守る必要はないみたいなことを国会で堂々と放言したどうしようもない輩なんだから、揶揄されるのは当然だとしか言いようがない。先崎氏自身は、第三章の末尾で≪真の保守主義とは、冷たくバラけた、衰弱した個人主義への処方箋である。このように筆者は定義します。そうであるなら、「楽しい日本」はこうした閉塞時代への処方箋になりうるはずなのです(136頁)≫などと述べているので、「楽しい日本」という言葉それ自体には問題を感じていないらしい(それどころか、あとで述べるように強く支持しているらしい)。もちろん、「楽しい日本」それ自体に異議を唱える人など、まずいないでしょう。だけど総理大臣が、そのような曖昧模糊とした発言を公的な場でするのは、また別の話なのですね。
ということで106頁の引用に戻ると、≪皇室を貴び、伝統文化や日本の地方の原風景を大切にし≫は一般に言われていることだとしても、≪一人一人の苦しみ、悲しみに共感する。その本質は寛容です≫というくだりは、一般にはむしろリベラルに結びつけて言われていることだよね(最近の自称リベラルには、共感力も寛容さもないとしても)。まあだからガマガエルは≪リベラル保守≫を自認しているのかもだけど、そんなことを言ってたら、保守の本質がどんどん希薄になってしまう。当然保守主義者にも共感力や寛容さはあるけど、それが保守の本質だとは個人的には思えない。要するに、それは保守の定義などではまったくなく、単にまともな一般ピープルの定義にすぎず、保守かリベラルかの政治的な区分とはまったく関係がない。
次に登場するのはコバホークこと小林鷹之氏で、次のようにある。≪また若手のホープとして期待されている小林鷹之氏も、伊吹文明氏から薫陶を受けた保守主義者を自認しています。総選挙にあたり刊行した著作のなかで、小林氏は、保守をリベラルとのちがいから説明しています。¶リベラルの場合、人間の知性と理性を重視して、法律や制度をもちいて自由や民主政治を守っていこうとするだろう。それに対し、保守というのは、人間が間違う存在であることを認める謙虚さをもち、伝統的な規範や矜持といった、法律や制度とは別の尺度をとりいれて自由や民主政治を守っていくことだと言うのです(106〜7頁)≫。個人的には、このような保守やリベラルの定義はまったくの的はずれだと思っている。なぜなら、これでは保守は知性や理性を重視せず、リベラルには謙虚さがないということにもなってしまうからね。そんなことは個人の資質、あるいは気質の問題であって政治的な信条とは何の関係もない。このことは共感力や寛容さを保守の特徴とするガマガエルの見解にも当てはまる。あとは「穏健な保守層」の獲得をめざすと明言した野田佳彦氏など(確か枝野氏も自分は保守主義者だとか何とか言っていたよね?)野党の政治家や政党も取り上げられているけど、明らかにたとえば立憲が保守主義者の集まりだなどと言えば鬼が笑うでしょうね。これらの例を紹介したあと、先崎氏は次のように述べている。≪だとすると、自民党内はもとより、野党の少数政党にいたるまで、「保守」はトレンドであることがわかります。日本という身体に、保守を投薬すべきだと言っている。にもかかわらず、その定義は漠然としていて、主権者であるわたしたち自身も「保守」が何を意味するのか、今ひとつよくわからないのです(108頁)≫。この見立ては、まったく正しいと思う。
次に先崎氏は、社会学者カール・マンハイムの保守主義の定義を取り上げ、次のように述べている。≪社会学者カール・マンハイムは『保守主義的思考』のなかで、有名な二つの定義をおこなっています。古くからあるものを墨守し、変化をきらい、未知を恐れる、人間にもともと備わっている精神的な構えを「伝統主義」といいます。原始的な生活をしている部族が、生活上の変化を呪術的なものと結びつけて不安を取り除き、現状を守りたいと思う、これが伝統主義です。¶それにたいして「保守主義」は、ドイツでは一八五〇年代に生まれた新しい思想だとマンハイムはいいます。(…)保守主義は伝統主義と異なり、急激にすすんでいく近代化を意識した、きわめて自覚的な運動だったのです(109〜10頁)≫。このマンハイムの定義は、私めの時間的次元の見立てに近い。過去にこだわるのは右翼であって、決して保守主義者ではない。もちろん保守主義者も伝統を重視しはするが、それは過去を絶対視しているからではなく、過去を参照軸として現在の生活の安定を図ろうとしているからであって、問題があれば現在の社会を完全に破壊しない程度の改革をすることにはやぶさかではない。だから保守主義者は、伝統主義者のように極度に変化をきらい、未知を恐れているわけではない。≪急激にすすんでいく近代化を意識した≫のも、保守主義者が現在の生活に焦点を置いているからこそなのですね。
では、先崎氏自身は「真の保守」についてどう考えているのか? 「楽しい日本」を取り上げた際に引用したように、第三章の末尾に≪真の保守主義とは、冷たくバラけた、衰弱した個人主義への処方箋である。このように筆者は定義します≫とある。さすがにこれだけでは不十分なので、もう少し詳しく見ていきましょう。まず著者は、堺屋太一氏の議論を取り上げて次のように述べている。≪最終的に堺屋が提案した処方箋は二つでした。第一に「楽しい日本」の復活であり、第二に徹底的な「自由化」、すなわち規制緩和です。結論からいえば、筆者は第一の「楽しい日本」をつよく支持し、第二の「自由化」をつよく否定します。より正確には、第一と第二は矛盾した処方箋であり、併せ呑むと副作用を起こすと考えるからです(129頁)≫。ここでは先崎氏が≪つよく支持≫している「楽しい日本」のみに焦点を絞り、否定している「自由化」には触れない(グローバリズムに反対する私めも、無制限の「自由化」「規制緩和」など愚の骨頂であると思っていることに変わりはないしね)。通常処方箋には、薬の名称や量、服用の時間や頻度などの具体的な情報が書かれている。私めも最近、高血圧を診断されて降圧剤を服用しているけど、その処方箋には具体的な情報が書かれていた(そりゃ、命にも関わりうるのだから当たり前田のクラッカーだよね)。ところが、この引用の直前に紹介されている堺屋太一の議論を読んでも、現代日本が罹患している病気に関する診断は書かれていても(堺屋の著書には書かれているのかもだけど、私めは彼の著書は一冊も読んだことがないのでよくわからん)、処方箋(つまり具体的な解決法)の内容が書かれているようには思えない。要するに、この新書本に取り上げられている堺屋の議論の範囲に限って言えば、堺屋の言う「楽しい日本」が、現代日本が抱えている問題に対していかなる具体的な処方箋になるのかは見通せない。だから処方箋は堺屋ではなく先崎氏自身が書かなければならないということになる。するとそもそも堺屋の言う「楽しい日本」、そしてそれを参考にしているガマガエルの「楽しい日本」は、何ら処方箋ではなかったことになろう。
では先崎氏が書いた処方箋とはいかなるものか? それに対応する箇所をいくつかあげてみましょう。まず次のようにある。≪保守主義者は、それ[自由主義経済]にたいし、「道徳」の重要性で対峙しました。道徳とは、「よき生」の言いかえであり、共通善のことです。共通善とは、日本人の伝統的慣習や常識を意味しますから、個人を超えたひろがりと時間軸をもっている(116頁)≫。あるいは≪前にフクヤマの議論で取りあげたように、アメリカ社会が政治的対立をふかめていることが象徴的です。過激な右翼が白人中心主義になり、行き過ぎたリベラルが性的指向をふりかざし、互いに対立している。妥協できず、相手を罵っている。否定が否定を生んで収拾がつかない。¶右翼民族主義と、左派の過激フェミニズムはおなじなのです。真の自己と社会的評価のあいだの「ズレ」を許せないからです。¶だからこそ保守主義の「寛容」が重みをもって語られる必要がでてくる。「謙虚」という言葉が、川をきれいにしましょうという標語以上の凄みをもってくるのです(131〜2頁)≫。とりあえずこの文章では右翼と保守は区別されていて、その点では正しい。それから≪こうした時代状況[日本の「失われた三十年」を指している]にたいして処方箋があるのか。筆者は明治の保守主義者とおなじく、「道徳」の必要性を現代社会に処方したい。道徳とは、何も個人が身を慎むことだけを意味しません。身を慎むことが、同時に公的な役割をはたすことにつながる、それが道徳ではなかったかと思うのです(133頁)≫。最後にもう一丁。≪人間とは、個人よりは公的なことがらを優先して考える公共心をもつ。生きる意味は、社会からの期待を引き受ける緊張感から得られる。関係性からの脱出が自由なのではない。逆に、関係性のなかで存分に活躍する。崇高な理想をもち、背筋を伸ばす態度こそ自由なのです。(…)公共心や愛国心といった硬い言葉づかいさえ馴染まない、もっとぬくもりと優しさを感じさせる関係性。こうした道徳をもった人たちであふれた社会こそ、「楽しい日本」が目指すべき国柄ではないですか(134〜5頁)≫。
以上の記述それ自体に対しては特に異論はない。でも、ここに書かれている「寛容さ」「謙虚さ」「道徳性」(あるいは前のほうで出てきた「共感力」)などといった性質は、基本的に個人の資質や気質に関するものであり、したがってすでに述べたように保守主義やリベラルなどの政治的信条の定義に含めるべきもののようには思えない。さもなければ「保守」ではないリベラルには、寛容さや謙虚さや道徳心や共感力がないというようにも取れてしまう。確かにファシスト気質が満開の自称リベラルには、寛容さや道徳心があるとは思えない部分もあるが、まともなリベラル(私めはまともなリベラルを自称リベラルから区別するためにリベラリストと呼ぶことにしている)も大勢いるのであり、政治信条の「保守主義」に対して、こんな定義をしていたら彼らは怒るだろうし、怒って当然だと思う。だからこそ冒頭で紹介した私めの保守主義の定義は、人間の資質や気質に関する概念をきっぱりと捨象して時間的次元と空間的・構造的次元という形態的な側面だけを明確にしているわけ。
次は「第四章 アメリカと世界の分断」。おもにアメリカを中心に世界の分断について論じられている。「デジタル荘園」とか「テクノ・リバタリアン」とかロシアの「ユーラシア主義」(プーチンのユーラシア主義は、私めの見立てからすれば保守ではまったくなく懐古的な右翼思想ですね)とか、私めがこの本で注目している「真の保守」というテーマとは直接的な関係があるとはあまり思えなかったので、この章は次の一文を除いてパスすることにする。その一文とは最後のほうにある、≪ここで、近代システムの本家アメリカの混乱を思い出してください。今、トランプ2・0で起きている事態とは、テクノ・リバタリアンと保守革命という二つの国家像のせめぎ合いで、二種類の処方箋がでている。ただ、両者に共通しているのは、近代システムへの懐疑でした。前者が未来にむかって近代を脱出するとすれば、後者は過去にむかって脱出をはかっている。不確実な未来に希望をもつか、不安を解消する手段を過去に求めるのか(168頁)≫。二点指摘しておきたい。一点目はトランプ2・0をわざわざ持ち出さずとも、アメリカははるか昔から二つに割れていたという点。私めの言う「アメリカの第一の顔」と「アメリカの第二の顔」のことだが、それについてはこれまで何度も述べてきたのでここでは繰り返さない。前述の『アメリカ 異形の制度空間』を参照されたい[ページ内検索キーワード:アメリカの第一の顔、アメリカの第二の顔]。二点目は、私めの見立てでは、時間的次元においては過去や未来ではなく現在に焦点を絞るのが「保守主義」だという点。だから私めの考えでは、≪保守は過去にむかって脱出をはかっている≫のではなく、むしろ≪過去にむかって脱出をはかっている≫のは保守ではなく右翼なのですね。また、懐古主義的、国粋主義的な右翼でも、ユートピア思考的な左翼でもない保守は、近代システムに対して懐疑を抱いているわけではない。現在の自分たちの生存や生活に資するのであれば、諸手を挙げて近代システムを受け入れるというのがほんとうのところだと思う。だからこそ、混乱した現代世界においては、現在に基盤を置く保守主義に少なくとも一旦は落ち着いて足元を固め、そこから未来に向けて、革命のような劇的な変化ではなく漸進的な変化によって着実に歩んでいくことが第一に求められているのだと個人的には考えているわけ。
お次は「第五章 「戦間期」からの教訓」だけど、この章に関しても個別的な取り上げ方をするに留める。まず中国共産党に関する次の指摘を取り上げましょう。≪習近平がかかげる「百年の夢」構想は、漢民族主義に基づく、アメリカ排除の攘夷思想です。いっぽうで近年、中国の学者からは「政治儒学」という独特のネーミングのもと、「覇道」にたいする「王道」政治の必要性が言われています。¶第一次大戦後の国際秩序は、西洋諸国が暴力と強制によって世界帝国をつくってきた「覇道」の時代だった。これにたいし、中国は孔子・毛沢東・ケ小平の三つの伝統を融合させた「王道」政治を実現していく。孔子は人情・郷土愛・家族愛を象徴し、毛沢東は平等を、ケ小平は市場原理をそれぞれ象徴した世界主義者であり、中国共産党は普遍的な三つの価値をかかげて、グローバルに広がるべきだというのです。ここに二〇〇四年に胡錦涛が提起した「和諧社会」や、習近平の「人類運命共同体」構想をつけ加えれば、そのスケールと本気度がわかるというものでしょう(174頁)≫。中国共産党のこのような考えは、経済を中心とした西洋流のグローバリズムとは異なり、『コミンテルン』で取り上げたコミンテルン以来の共産主義的、政治的グローバリズムと言えるでしょうね。実は現在のアメリカにも、ネオコンや著者の言う「テクノ・リバタリアン」が代表する経済的グローバリスト(共和党支持者が多い)と民主党が代表する政治的グローバリストの両系統が存在し、両者が融合してグローバリズムを推進していることはすでに何度も述べてきた。アメリカについては先崎氏も次のように述べている。≪前章で、アメリカが二つの国家像にゆれていることを指摘しました。[イーロン・]マスクらテクノ・リバタリアンの狂信的なグローバル化と、ヴァンスらの自国中心主義の国家像です。後者が「保守革命」と自称していることからわかるように、アメリカの二つの国家像もまた、(…)革命を肯定している。マスクらは革命によって、未来のユートピアをめざす。ヴァンス(…)らは革命によって、過去への復帰を求めています(175頁)≫。私めの保守の見立てからすれば「保守革命」という言い方は矛盾でしかないが、それはよしとしましょう。現アメリカ副大統領のヴァンスが、≪革命によって、過去への復帰を求めてい≫るのなら、私めの見立てからすれば彼は右翼であって保守ではないことになる。本書でもヴァンスの著書『ヒルビリー・エレジー』に何回か言及されているけど、私めは読んだことがないので、実際のところ彼が私めの見立てに基づく保守なのか、それとも右翼なのかはよくわからん。ちなみに余談だけど、『ヒルビリー・エレジー』は、私めが昔通っていた翻訳講座に同時期に通っていた関根氏が邦訳(共訳)しているけど、ヴァンスが副大統領に指名されたときに、私めは「再度売れるのかな、ならば儲かっていいなあ」と羨望の眼差しをして思ったことを覚えている。その関根氏は今頃どうしているのかなあ?
それからそれに続くE・H・カーに関する議論(おもに彼の著書『危機の二十年』に参照している)は、一回読んだ限りにおいては、E・H・カーの主張それ自体が矛盾しているように思えイマイチよくわからんかったので、何ともコメントのしようがない。実のところウィキにも、「1939年に刊行した『危機の二十年』は、法律的・道義的アプローチが支配的であった国際関係論において権力政治(パワーポリティックス)の重要性を強調した現実主義(リアリズム)の本として知られる。しかし同時に、反リアリズム=ユートピア的主張もまた同書に存在しており、そこに本書の価値があると指摘する研究者もいる」とか、「カーは、1935年頃からソ連のスターリン体制の恐怖政治について明らかになると、自分が熱狂的な新ソ派だった分、幻滅と嫌悪は強烈となり、ソ連に対してきわめて敵対的になり、イギリス共産党にもまったく期待できなくなったと語っている」などとあり、どうやらカーにはかなり矛盾した側面がありそう。ちなみに、彼の『歴史とは何か』は、高校に入っていきなり無理やり読まされたことを覚えている。
さて、≪戦間期の思想をたどってきたのは、現在の国際秩序を診察するメスとしてつかえると思ったからです。戦間期の専門家の目からみれば、現代社会はどう映るか。どこに病理があり、何を処方すればよいか(200頁)≫という問いで始まる「ポスト・自由民主主義の時代へ」という節を取り上げましょう。それに続けて次のようにある。≪結論をいいます。現代社会は、あたかも百年前と同様に、普遍妥当する理念、世界全体を説明可能な物語が崩壊しかけている状態にあります(200頁)≫。おそらくこれは、リオタールをネタによく言及される「大きな物語の終焉」とほぼ同じことを主張しているものと思われるが、私めにはそのような見立てが的外れにしか思えないことはこれまで何度も述べてきた。「大きな物語」は終焉したわけではない。先言及されていた「テクノ・リバタリアン」が掲げる、AIなどの最新技術に基づくバラ色の未来像にせよ、左派お得意の「国境のない世界」にせよ、「大きな物語」は死んでいるわけではない。死んだのは「中間粒度」に関する物語なのですね。作家の日野啓三氏は、「中景の欠如」として一九八〇年代頃からその状況をみごとに喝破していた。
次にちらりとある≪日本の「東亜新秩序」について、くわしく見てきたのは、現在の中国がかつての日本とおなじ主張をはじめているからです(201頁)≫というくだりには、思わず首肯してもた。というのも、戦前の日本を批判する左派は(戦前の日本を批判すること自体は特に誤りではないが)、なぜか中国が戦前の日本と同じことをし始めたことにはまったくだんまりで、むしろ中国共産党を資するような発言をしているから。「戦前の日本がしたことを反省せよ!」と言うなら、現代においてはその矛先は日本ではなく中国(共産党)に向けられなければならないはず。なぜ左派は、たとえば高市内閣を「戦争準備内閣」などと言って、軍拡を急ピッチで進めている中国を批判せずに、またしても日本が侵略戦争をしかけると考えているのか不思議でならん(そもそもアメリカでさえ、ちゃっこいアフガニスタンに20年留まって統治し切れなかったのに、日本が他国に侵略戦争をしかけるメリットがどこにあるというのだろうか)。
その点には同意したとしても、この節の結論をなす次の見解にはまったく賛成できない。≪かくして、筆者の時代考察によれば、今、世界は民族主義に基づく広域経済圏構想が、百年前のように復活してきている。唯一、残された処方箋だという気分が覆いつつある。いくつかのブロックに世界はわかれるいっぽう、個別の物語によって民族意識を高め、反移民・自国ファーストの国づくりが行われている。それらすべてを束ねている意識は、「ポスト・自由民主主義の国際情勢のなかで、いかに自分が主導権を握れるか」にあると思うのです(201頁)≫。確かにプーチンのユーラシア主義や、習近平の「中華民族の偉大な復興」(や一帯一路政策)、あるいはトランプのモンロー主義的な西半球構想(だから彼はベネズエラ、パナマ、グリーンランドなどにはちょっかいを出そうとする)には、上記引用文中の最初と最後の文章の指摘が当てはまるのでしょう。でも、一般の保守主義者、つまりほとんどの一般ピープルは、そのような広域圏構想を特に支持しているわけではないと思う。どうも上記引用文のような文章を読むと、著者の先崎氏は、左派メディアと同じで保守と右翼の区別をし切れていないように思える。だからここでもまた、左派メディアと同じように「反不法移民」ではなく「反移民」などと記しているのですね。また保守主義者が民族を重視するのは、ナチスなどの右翼のように自民族が優秀だからなどという本質主義的な理由によるのではない。同じ民族ならば慣習や伝統を共有しているはずで、自分たちの祖先が築いてきた、生存や生活の安寧を保証する生活基盤がおびやかされることがないと直観的に感じているからなのですね。不法移民が問題なのは、そもそも彼らがその国の法を破っているからであって、保守主義者は、正規の手続きを踏んで入国し自国の伝統や慣習を遵守する他民族の人々を排斥するわけではない。左派メディアや左派自称知識人は、故意か否かは知らんが、「反移民」や「右傾化」あるいは「極右」などという言葉を使って、保守と右翼をごちゃまぜにしているわけだが(はっきり言えばまさにこのような左派メディアや左派自称知識人の態度こそが分断を煽っていると思っている)、それと同じことを必ずしも左派ではないはずの先崎氏までもがしているのには失望を禁じ得ない。だからこそ保守の定義には、保守と右翼を区別する何らかの基準が含まれていなければならないと個人的に考えているわけ。すでに述べたように、移民の問題を「右傾化」などという言葉で捉えることがいかに問題なのかについては、『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきを参照されたい。「自国ファースト」について言えば、私めによる保守の空間的・構造的次元の見立てに従えば、「自国ファースト」は保守にとっては当たり前田のクラッカーなのですね。その点では、トランプの「自国ファースト」は、縦糸を安定させるという意味で間違いなどではまったくない。彼の間違いは、それだけに拘泥して横糸をなす国際関係を毀損する点にある。要するにネットワーク的に言えば、トランプは「ノード」を重視する点では正しく、「リンク」を無視あるいは軽視する点で間違いだということ。そこをきちんと判断しないで、生理的な嫌悪感に煽られて感情的にトランプを叩くだけでは、何も解決しないと思う。
とここまでは、批判が主体になってしまったが、≪では、わが国はどうすべきなのでしょうか。¶二〇五〇年の日本は、どのような姿であるべきなのか(202頁)≫という文言で始まる次の節「自我の分裂、新しい自己像」は興味深かった。というのも、二〇五〇年の日本の方向性を考えるにあたって、≪一つのモデル・ケースとして(202頁)≫参考になるのが、≪麻生太郎元総理が二〇〇七年に出版した『自由と繁栄の弧』です(202頁)≫とあるから。個人的には、一般に失言王のような言われ方をしている麻生氏の本を読んだことなどないし、そもそもタイトルすら初めて聞いた。ただどうやら「自由と繁栄の弧」という概念は、≪後に故・安倍晋三元総理によって、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」として実現(202〜3頁)≫するのだそう。安倍氏の「自由で開かれたインド太平洋構想」には、非常に先見の明があったと個人的に思っているけど、そのルーツが麻生氏にあったことは初めて知った。そのような観点を持っている麻生氏だからこそ、今回の総裁選で高市支持に回ったのだろうなと妙に納得してしまった。
それはそれとして、では先崎氏は麻生氏の「自由と繁栄の弧」という概念の何に注目しているのか? それに関して次のようにある。≪日本の「自画像」を描くことを第一とし、「自由と繁栄の弧」を主張する以上の講和[『自由と繁栄の弧』で展開されている麻生氏の議論を指しているが、その詳細を引用することはしない]から、筆者は次の二つの可能性を読み取るべきだと考えます。¶第一に、「自由と繁栄の弧」が、梅棹忠夫の第一地域・第二地域論にきわめて近い発想からでてきていることです。(…)第一地域とは、ヨーロッパや日本といった、ユーラシア大陸を大きく縁どる海洋国家群のことであり、第二地域とは、中国やロシアといったユーラシア大陸の内陸部の国家のことでした。¶今、わたしたちが目撃しているのは、従来の第一地域の繁栄がおわり、第二地域が勢力を拡大しつつある状態です。その際、「自由と繁栄の弧」は、中央アジア諸国まで巻き込んだ、第二地域包囲網ともいえる国際秩序観を提案していることになります。¶第二に、日本人が日ごろ、なじみの薄い国々にたいして、麻生氏が、「厳しい競争環境のなか、国家の誇りにかけて、自分らしさを打ち立てたいとも思っているでしょう」と書いていることです。(…)ここからは、今後、世界を理解するキーワードが「尊厳」であり、各国家が自己主張し、承認欲求を追求するなかで、日本がいかにその「尊厳」を重んじながら、日本の自己像に賛同してもらえるかが、外交のカギになることがわかるでしょう(210〜1頁)≫。まず第一の可能性から。ここで言われている第一地域や第二地域とは、地政学で一般に言われている海洋国家と大陸国家にほぼ等しいと見てもよいのでしょう。ただしドイツは、地政学のたいていの議論では大陸国家側として扱われているのに対し、ここでは海洋国家側に分類されているように思える。安倍氏の「自由で開かれたインド太平洋構想」は、まさに海洋国家としての構想であり、麻生氏はそれを先取りしていたことがわかってなかなか興味深かった。なお、半年ほど前に取り上げた小倉紀蔵氏の『日本群島文明史』は、それとはやや異なる、「群島文明」という非常に興味深い概念を提起しているので、ぜひ参照されたい。
次に第二の可能性。これこそまさに、「右翼」などではない「保守」が持つ可能性なのですね。引用文中の≪その「尊厳」≫の「その」が何を指しているのかはややあいまいだが、おそらくは「各国家の」という意味だろうと思う。ネットワーク的な言い方をすれば、≪日本の自己像≫とは、日本という「ノード」のあり方を指し、保守は当然それを重視する。しかし同時に、「各国家」の「尊厳」も重んじて、その前提のもとでいかにノードとしての日本の自己像を、外交を通じて表現していくのかという、「リンク」の形成をも重視する。それに対して右翼はノードだけを重視して、リンクをまったく無視する。だから何度も述べているように、保守と右翼の区別がなされていないような保守の定義は、無益どころか有害でさえあるのですね。その意味でも、ここで指摘されている麻生氏の提言は非常に興味深かったというわけ。
最後の章「第六章 令和日本のデザイン」では、令和の時代における日本の取るべき立場に関する「処方箋」が提示されており、著者自身にとっては重要なのだろうけど(本の内容にいまいち即していないように思える、メインタイトルの「知性の復権」はそれに言及しているのかも)、個人的に保守に関して言いたいことはすでに語り尽くしたので、この章はスキップする。全体的に批判のほうが多くなったような気がするけど、肯定的に読むか批判的に読むかにかかわらず、「保守」とは何かについて考えるきっかけになる本であるとは思う。
※2026年1月6日