◎西垣通著『集合知とは何か』(中公新書)

 

 

実のところこの新書本は二〇一三年に刊行されているので、すでに一〇年以上前の本ということになる。実際私めも、刊行直後に一度読んでいるんだけど、二つの理由で読み直してみた。一つは「集合知」について取り上げたかったこと。もう一つは、些細なことだけど、この新書本内で批判されているN・キャサリン・ヘイルズの『How We Became Post Human』(Chicago, 1999)を最近読み直してみて、この新書本にある西垣氏のヘイルズ批判が、完全にヘイルズの意図を誤解したものである点を再確認できたから(ちなみに最初に読んだときにツイで同様な指摘をした覚えがある)。もちろんヘイルズに対する批判は、この新書本の肝ではないので、些末と言えば些末ではあるし、氏はかつて日経新聞にわが訳書『オープンサイエンス革命』の書評を書いてくれたことがあるのであまり悪く言いたくはないとはいえ、先日取り上げた『倫理学原論』に書いた「逆に、科学者が書いた本で、文系の学者先生が書いた本の意図を明らかに誤解しているなと思うこともときにある」という見立ての格好の例の一つにもなるのであえてここで指摘しておきたかったわけ。どのような誤解かに関しては、「第四章 システム環境ハイブリッドSEHSとは」を取り上げる際にやや詳しく説明する。とはいえその点以外は、非常にすぐれた本だと思うので、一〇年前の本とはいえ集合知を扱った一般読者向けの本は多いとはいえないので推薦することにした。

 

「まえがき」は、いきなり次のような印象的な文章で始まる。少し長めに引用しておましょう。「「知とは何か」という問いかけは、決して、暇つぶしのペダンティックな質問などではない。むしろ、命がけの生の実践にかかわる問いかけなのだ。¶それを象徴するのが、二〇一二年一〇月、イタリアで地震予知を失敗した学者たちにくだされた禁錮六年の実刑判決だった。二〇〇九年四月、イタリア中部ラクイラで大地震がおき、多くの死傷者が出た。政府の防災諮問機関に属していた地震学者たちは、直前に安全宣言を出したため、過失致死傷罪に問われたのである。¶この判決にたいしては、世界中の地震学者はじめ、多くの人々から抗議の声がわきおこった。科学者の発言責任が刑事罰で問われれば自由な議論ができなくなり、ひいては科学の発達が妨げられるというのである。たしかにこういう風潮がひろがれば、危険を感じても外れてはまずいと黙りこむ学者も増えるだろう。刑事罰を加えるのではなく、予知の精度をあげるような積極的方策をとるべきだという意見も、それなりに納得がいく。¶だが、犠牲者の遺族たちはこの判決を歓迎したという。科学的議論は自由であるべきだというのは近代の原則だとしても、専門家の発言が権威をもち、人々の運命を左右する影響力を及ぼすとき、そこに責任は生じないのか。科学の発達のためなら、人命を危険にさらすような発言も許されるのか。専門家たるもの、自分の発言で犠牲者がでたとすれば、少なくとも職を辞して筆を折る覚悟くらいはすべきではないのか(@〜A頁)」。これを読むと、本書では「専門知」との対照という観点から見た「集合知」の意義が論じられているのだろうということが予想される。しっかし、イタリアの地震の話はすごいね。地震予知をはずして逮捕されるとなると、日本の地震学者はもうたいへんよね。そう言えば、沼津の高校に通っていたとき、東海地震がその日にやって来るという警報が出されて、生徒が全員帰宅させられるというできごとがあったのを思い出した。もちろんそれから半世紀が過ぎても、東海地震は起こっていないわけでそのときに地震など来なかったわけだけど、その予報を出した人たちが、イタリアの学者だったらどうなっていただろうかと思わざるを得ない(ただ予報がはずれたおかげで死人が出なかったわけなので、逮捕はされなかっただろうけど)。

 

「第一章 ネット集合知への期待」では、まず地震の話が引っ張られる。ただしイタリアの地震のことではなく、東日本大震災による福島原発事故の話だけどね。何しろ東日本大震災とそれに続く原発事故が起こってから、まだ二年ほどしか経過していない頃に刊行された本だしね。そのときテレビに登場した自称専門家のせいで専門家に対する信頼が一挙に地に堕ちたことが書かれている。まあ、コロナのときもそうだったらしいし、懲りない面々はいつのときにもいる。というより、メディアが自分たちに都合のよい発言をしてくれる人をチェリーピッキングしているというのがほんとうのところなのでしょう。また著者は、アカデミズムの凋落の原因の一つに「学問研究への無制限な市場原理の導入(12頁)」をあげている。これはアメリカのバイドール法を真似た法律の導入とその影響のことを指していると思われる。バイドール法とは、産学連携を促進するために、米連邦政府の資金で研究開発された発明であっても、その成果に対して大学や研究者が特許権を取得することを認めた法律をいう。専門知に対する世間の疑惑の強さは、次のような著者の言葉からもうかがい知れる。「ほんとうの問題は、私自身を含めて、この国の専門知のなかに秘かに巣くっている癒しがたい病弊ではないのだろうか(10頁)」。あるいは「専門分化と産学協同は、過度に進められると、学術研究そのものの基盤をゆがめてしまい、専門知そのものの品質が損なわれることになる。福島第一原発事故の悲劇はこうして起きたのである。これがアカデミズムの凋落でなくて何だろうか。¶これは、ある意味では、専門家の思考や活動が一般性や普遍性をうしない、個別の興味や利害に左右されるようになった、ということかもしれない。研究の方法論には細かいルールがあり、客観的で普遍的な知をうみだしているように表面上は見える。だが、研究遂行の前提条件そのものが、個別の偶然的要素によってつよく限定されているのだ。こうして、近代社会の特徴といわれる専門知の普遍性が崩れていく。もはや専門家が一般のアマチュアと同じく、いわば主観的な知しかうみだせないならば、一般の人々の専門家にたいする無条件の信頼はゆらいでいかざるをえない(15〜6頁)」。

 

そこで登場するのが「ネットの集合知」なのですね。ところで西垣氏は「集合知」の意味をかなり狭く取っているらしく、一般的な集合知の定義を説明したあと次のように書いている。「ただし、本書でとりあげる集合知はより狭く、人々のいわゆる「衆知」、とくにインターネットを利用して見ず知らずの他人同士が知恵をだしあって構築する知のことを意味する(20頁)」。確かに集合知の定義としては狭すぎる気もするけど、そのほうが議論がより明確になるとも言えるでしょうね。次に集合知と言えば必ずしゃしゃり出て来るジェームズ・スロウィッキーのベストセラー『「みんなの意見」は案外正しい』が取り上げられる。ちなみに私めはこの本を読んだことがない。というのも西垣氏も書いているように、スロウィッキーはコラムニストであって専門の研究者ではないから。その手の人が書いた本は、売上向上のために、嘘とまでは言わないとしても読者に受けがよさそうなことばかり書くことが多いから、個人的には信用していないのですね。だから私めは、絶対に科学ジャーナリストが書いた本を訳さないわけ(まあそもそも読んでいないんだから取り上げようもないとも言えるけどね)。西垣氏も「残念ながらそこ[『「みんなの意見」は案外正しい』]」に、集合知という対象を正面から探究していこうという知的誠実さを感じとることはできない。ベストセラー狙いのコラムニストの著書だから当然かもしれないが、「いったいなぜ集合知は正しいのか」という根拠に迫ろうとする学問的アプローチとは無縁なのである。だから面白くはあっても、ほんとうに説得力はもたないのだ(27頁)」と書いていて、あまりスロウィッキーを信用していないようにも思える。それに対して西垣氏は、数理社会学者のスコット・ペイジの著書『「多様な意見」はなぜ正しいのか』を肯定的に取り上げている。そしてペイジの著書の利点として、「集合知が有効な条件」として「多様性」に焦点を絞っていることと、「集合知はなぜ正しいのか」に関してその根拠を示していることをあげている。確かに集合知において「多様性」は、きわめて重要だと思う。たとえばイデオロギーは均質性を押しつけて多様性を圧殺する効果を持つと言えるけど、ネット空間を集合知が形成される舞台にすることを困難にしている要因の一つがイデオロギーだと個人的には考えている。西垣氏は、「ウェブ2・0の信奉者のなかには、ネット集合知にもとづく直接民主制を説く議論もあるようだ。だが、はたして民主主義と集合知とを簡単に短絡してよいのだろうか(25頁)」と疑問を呈しているけど、イデオロギーに満ちた言説が跳梁跋扈している現状ではその二つを短絡することはできないのは明らかだろうね。だって多様性が担保されていないんだから。

 

次に西垣氏は、「集合知はなぜ正しいのか」という問いに対する答えを数理モデルに求めている(なお数理モデルによる集合知の説明は第五章にも見られる)。簡単な数式(とはいえヘタレブケダンの私めには完全には理解できんかった)を用いた説明に続いて、次のように述べられている。「集団誤差=平均個人誤差−分散値¶本書ではこれを「集合知定理」(ペイジの用語では「多様性予測定理」)とよぶ。この定理こそ、集合知の正しさの本質を示す根拠といっても過言ではない。少なくとも、人々の衆知を集めることによって魔法のように正解が出現するというスロウィッキー流の例の大半は、この定理で説明できる。謎の種明かしといってもよいだろう。¶集合知定理がしめすのは、集団における個々人の推測の誤差(第一項)は多様性(第二項)によって相殺され、結果的に集団としては正解に近い推測ができる、ということである。均質な集団ではこの利点を活かせないが(仮に分散値ゼロならたった一人の推測と同じ)、さまざまな推測モデルをもつ多様な集団なら、個々人がかなりいい加減な推測をしても、集団全体としては正しい推測が可能になるのだ(37頁)」。やはり多様性は集合知の友で、均質性は敵だということになる。それに続けて次のようにある。「しかし、この定理がしめすのはそれだけではない。個々人の推測が平均として正しければ、第一項が減少し、集団としての誤差は減るというアタリマエの事実である。推測をおこなうメンバーのそれぞれの推測モデルの質がよいこと、しかも多様な推測モデルが用いられることが、集合知によって正解が得られる条件にほかならない(37〜8頁)」。「推測をおこなうメンバーのそれぞれの推測モデルの質がよいこと」に関しては進化論的説明が有効であるように思われる。人間、およびその祖先の生物は、進化の過程を通じて、生存や生活に資する能力を備えるべくして進化してきたことは言うまでもない。だからそのような事象に関しては、あまり間違えないのですね(これに関しては拙訳、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』を参照されたい)。ただし、先にあげた近代以降に生じたイデオロギーのごとき多様性を圧殺するような思考様式にとらわれている人々のあいだでは、まさに多様性が失われて集合知が機能しないと言える。だからイデオロギーに満ちた言説で溢れかえっている現状のネット空間では、集合知は期待できないと思う。なお、だからと言ってネットやSNSをすぐに廃止しろというような極端かつ乱暴な意見に与するわけでもないが(たとえばこれに関するマルクス・ガブリエル氏の見解)、その理由についてはあちこちで述べているのでここでは省略する。もちろん西垣氏もそんな乱暴な意見に与しているわけでないことは、章題を見ても推測できるし、次の記述からも明らかである。「もはや旧来の専門知への信頼がゆるぎつつある今、ネット集合知を用いて何らかの新たな知の構築法を学際的に検討することは、決して無意味な作業とは思えない。これは二一世紀の課題なのである。¶本節で述べた議論は、近代社会についての数学的モデルにもとづいている。つまり、あくまで個人主体を前提とし、各自の意識的な主張が形式論理的に(できれば数値的に)表現され、機械的な操作によって集計がおこなわれる、というものである。¶だが、そもそも集合知とはこれだけに限られるのだろうか。生物的な集合知とは本来、細胞を基本とする生命単位があつまって行動し、生命維持のためにいわば創発するものだ。そういう目から、もう一度、「知」を根本的にとらえ直してみてはどうだろうか(43頁)」。この課題は、のちの章に持ち越される。

 

ということで「第二章 個人と社会が学ぶ」に参りましょう。まず現代の知識社会の問題が取り上げられたあとで、現代における「知」のとらえられ方に関して、次のように述べられる。「いちばん問題なのは、客観的な世界が存在し、しかるべき評価作業をおこなえば透明度がまして、世界の様子がわかってくるはずだ、という単純な思いこみである。この思いこみは、客観的な世界の様子を記述する知識命題が存在し、それらを上手にあつめて記憶し編集すれば世界をより深く正確に知ることができるようになり、さらには世界を操作できるようになる、という常識的な考え方につながっている(48〜9頁)」。げに恐ろしきはプラトンの呪いなりって感じかな。このあたりの実在論と相対論の相克は、最近でも旧実在論→相対主義→新実在論とあっちゃ行ったりこっちゃ行ったりを繰り返しているわけだけど、一つ言えるのはとりわけ近代以後の欧米の知の体系は、アルゴリズミックな論理?の絶対性を主張することで、袋小路につき当たっているという印象を受ける。ちなみに「アルゴリズミックな論理」に「?」をつけたのは、論理はそもそも無時間的に成り立つべきものであるのに対し、「アルゴリズム」は時間的な展開を前提としたものだから。「いや、たとえば三段論法は時間的に展開されるのでは?」と思われるかもだけど、あれは説明の都合上時間軸に沿って論理を展開しているだけであって、本来三段論法それ自体は無時間的に成り立つものであることに変わりはない(はず)。西垣氏も、のちの章でクレタ人(エピメニデス)の嘘つきのパラドクスに言及して次のように書いているしね(ただし必ずしも三段論法ではないが、論理操作に言及していることには変わりはない)。「実は、パラドックス論理命題「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言う」は、「エピメニデスはクレタ人だ」と「あの男はエピメニデスだ」と「クレタ人は嘘つきだと言うのはあの男だ」の複合命題として、形式的に成立する三人称記述である。普通の人間は日常生活でそんな面倒な論理操作などしないのである(148頁)」。IT業界に所属していた頃の私めも含め、ITエンジニアはコンピュータープログラムの「アルゴリズム」を「ロジック(論理)」と呼んでいた(る)わけだが、厳密に言えば、「アルゴリズム」は時間軸に沿った論理のシミュレーションだと見なせる。

 

まあそれは余談としても、近代以後の欧米流の知の体系のせいで「直観」や「本能」が、大脳皮質のアルゴリズミックな働きに依拠する「理性」に対立するものと見なされているわけだけど、実はその考えが間違いであることを最近の認知科学は発見しつつある。先ほどあげたヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』や、ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』(Harvard, 2017)、あるいは脳科学者ジョセフ・ルドゥーの最近の説はそこに関係すると思っている。なおそれについては、『倫理学原論』を取り上げたときなどに述べたのでここでは繰り返さない。西垣氏も、一九八〇年代に喧伝されていた「エキスパート・システム」や「第五世代コンピューター」における、その種の論理的というか、アルゴリズミック的な思考様式の問題を指摘している。個人的にもIT産業で働き始めた頃に、「エキスパート・システム」について、したり顔で語る人がいたことを覚えている。西垣氏の次の見解には百パーセント同意する。「本書で強調したいのは、人間の思考というものの理想型を「形式的ルールにもとづく論理命題の記号操作」とのみとらえ、それを表現する「汎用機械」としてコンピュータを位置づける、という二〇世紀的な考え方が、大きな壁にぶつかったということ以外ではない。¶もちろん、人間の思考のプロセスのなかにはそういう部分もある。記号操作が思考の効率をあげることも確かだ。だが、そういう部分のみを人間の思考とみなす発想は、根本的な限界をかかえている。端的には、西洋流の人間中心主義(…)、言語論理中心主義(…)のもたらした誤りといってよい。そこには、微生物から発展してきた生命体として人間をとらえるという進化論的観点が、決定的に欠落しているのである(71頁)」。とりわけ最後の一文に注目されたい。たとえばメルシエやスペルベルは、まさにこの「進化論的観点」から、理性、認知、直観などをとらえている。そうした最新の認知科学の観点から見れば、「直観」を「理性」と対立させる見方は、決定的な誤りを犯していることがはっきりとわかる。

 

ならば、近代以前の「知」においてはどうであったか? 最近読んだ『エラスムス 闘う人文主義者』(筑摩選書)にそれに関連して興味深い記述があったので紹介しましょう。なおこの選書本は今年になってから刊行されているとはいえ、実のところ1970年代の前半に刊行された本を再刊したものらしい。次のようにある。「彼[エラスムス]が古代の格言や諺にあれほどまで興味を抱いてそれを集めたのも、格言や諺というものは多くの人びとによって認められた真理であり、いわば「人間の知恵」の結晶であるからにほかならなかった。(…)それは端的に言って、多数の理性に信頼する感覚である。エラスムスはもちろん、多数の理性が認めたものを絶対的真理だと主張するわけではない。絶対的な問題については、彼は「判断を停止」する。しかし現実の問題については、多数の理性の集約であり、知恵である相対的な真理の力を認め、それを大切にする。そのようなバランスの感覚こそが、エラスムス自身あれほどまで強くローマ教会を批判しながら、結局ローマ教会の内部にとどまっていた理由である。そしてそれこそが、彼とルターを決定的に分かつ点でもあった。¶ルターにとっては「真理」は絶対的なものであり、人間の理性からくるのではなくて、神からくる。すなわち、神の「啓示」によって示される。「啓示」はごく少数の人にのみ示されるから、「真理」は本質的に多数者の側にではなく、少数者の側にある。しかも、それはエラスムスの「真理」のように一時的、相対的なものではなく、厳として動かしがたい絶対のものである。エラスムスの「寛容」に対してルターのラディカリズムを支えていた考え方は、このようなものであった(同書197〜8頁)」。エラスムスの考え方は、おそらくメルシエやスペルベルの見方や、さらに言えば新書本の第三章で取り上げられる「暗黙知」の概念にも近いように思える。まあ現代には、いかに多数者の理性を信頼するエラスムス型ではなく、自分こそ、一般ピープルとは違って客観的、絶対的な真理を知っていると勝手に思い込んでいるルター型のエリート主義者が多いことか! やっぱりエラスムスが活躍していた一六世紀から近代に至るまでのどこかで、「知」のあり方が変な方向にねじ曲がってそれが現代に至っているような気がする(あえてエラスムスさんとほぼ同時代人のルターさんが下手人だとは申しませんが・・・)。

 

ということでその「暗黙知」が登場する「第三章 主観知から出発しよう」に移りましょう。第三章では、まずクオリアの話が展開されているけど、普通の人は、ネットスラング的に言えば「クオリアはもうおなか一杯」というのがせいぜいのところだろうから、それについてはここでは省略する。ただ一つだけ指摘しておくと、そのような一般的態度の一部には、これまた欧米流というかアングロサクソン流の、主観を軽く見る傾向が反映しているようにも思える。クオリアの次は暗黙知が取り上げられている。暗黙知の提唱者は言わずと知れたマイケル・ポランニー(なお西垣氏はポラニーと表記しているので以後そうする)で、私めも『暗黙知の次元』(紀伊國屋さんの本だよ〜〜んと言っておけば、あとで何かいいことがあるかも)と、西垣氏も言及している『個人的知識(Personal Knowledge)』を読んでいる。実は前者より後者のほうがおもろかった記憶があるんだが(これで何かいいことが期待できなくなってもた)、邦訳はなかったような気が・・・。暗黙知理論についてはよく知られていることもあり、次の西垣氏の評価だけを取り上げておく。「暗黙知理論のすばらしさは、単に語れない知識の存在を指摘した点ではない。ある対象の意味を把握するには、それより下位の要素的な諸細目を身体で感知しつつ、対象を全体として包括的にとらえる作用が必要だという、生命的な認知のダイナミックスを指摘した点にある(95頁)」。ちなみに『情報哲学入門』を取り上げたときにポラニーの暗黙知理論は、「すでに蓄積されている知識」、すなわち「情報としてのデータ」に関する理論ではなくて、「作用」に関する理論としてとらえたほうがよさそうに思えると書いたわけだけが、西垣氏は明確に「感知」「作用」「生命的な認知のダイナミックス」としてとらえている。

 

西垣氏はさらに続ける。「ポラニー本人の定義によれば、暗黙知とは「(近接項と遠隔項という)二つの項目の協力によって構成されるある包括的な存在を{理解/傍点}すること」であるという(…)。この人物が強調したかったのは、自分の身体的な経験を能動的に統合していく「暗黙の力」に他ならない。そこに知識をうむ原動力があると考えたのだ。¶こういう観点から眺めると、知識の理想型とはあくまで要素部分の論理的明晰さにあると考えた二〇世紀の論理主義者たち、そしてコンピュータ研究者たちの思考がいかに的はずれなものだったか、愕然としないではいられない(95頁)」。ポラニーをつかまえて「この人物」はないと思うが、いかに「知」の何たるかに関する見方が、近代になって歪み、それが二〇世紀終盤、下手をすると二一世紀まで尾を引いているかがわかる。ただ最近は、先ほどあげたメルシエ&スペルベルのように進化生物学的な観点から「知」のあり方をとらえる見方も徐々に出現しつつあるようなので、あまり悲観はしていないけどね。ちなみにここでいう進化生物学的な観点には遺伝的な観点、さらには心身相関的な観点も含まれる。また西垣氏は次のように述べる。「本来、知識とは個人の身体をベースにしており、一人称的なクオリアをもとに成立する主観的なものである(98〜9頁)」。個人の身体と言うとき、西垣氏が「進化によって獲得され遺伝の仕組みを通じて受け渡されてきた知」という意味を込めているのかどうかはよくわからん。でも、メルシエやスペルベルの進化生物学的な観点からの「知」という見方には、この意味が色濃く含まれているし、私めもそのような彼らの考えに賛同する。

 

次に登場するのは、ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラのオートポイエーシス理論。西垣氏によれば、「オートポイエーシス理論は、生命体がいかに世界を認知観察しているかを考察する。ただし(…)ここでいう認知観察は、遠くからじっと対象を観察しているのではなく、むしろ「生きる」という自分の作動にともなう行為の一部なのだ(103頁)」そうな。また次のようにある。「過去の思考にもとづいて、現在の思考を自己循環的に創出していくのが、心というオートポイエティック・システムの作動なのである。もちろん、外界から刺激は到着するのだが、それらは心にそっくり「入力」されるのではない。あくまでも思考は再帰的に、心の内部から創出されるのだ。(…)だから、心とは本来、徹底して自律的な閉鎖系なのである(104頁)」。では対人コミュニケーションとはいったい何なのかということになりそうだけど、それに関しては次のようにある。「興味深いのは、こういった社会的組織[企業や官庁などの組織]においては、コミュニケーションがコミュニケーションをつくりだすという自己循環的な作動がおこなわれていることだ。社会的組織には特有の用語概念をもつ伝統や文化があって、一種の知識として記憶されている。その記憶をもとにコミュニケーションが発生し、またそのコミュニケーションの痕跡が組織の記憶となって蓄積されていく。社会的組織のこういうダイナミックスは、再帰的に思考をうみだす心のダイナミックスと基本的に変わらない。¶したがって、こういった社会的組織も一種のAPS[オートポイエティック・システム]と見なせるのである(…)。さて、この社会的組織と、その構成メンバーの心という両APSは、互いにいかなる関係をなすのだろうか。これが集合知や知識伝達を考えるときの鍵となってくる¶社会的組織のコミュニケーションは、構成メンバーの発する言葉を素材にして織り上げられる。そして一方、構成メンバーは組織ルールなどの拘束のもとにある。だから、端的には、社会的ASPは構成メンバーの心的ASPより上位にあり、両者はある種の階層関係をなしていると考えることができる(105〜6頁)」。西垣氏はこれを「階層的自律コミュニケーション・システム(HACS)と呼んでいるとのことだけど、なんかわかったようなわからないような・・・。要するに、複数のAPSが階層構造をなしているということらしい。

 

それから西垣氏は「コミュニケーション」を「瞬間的に成立するミクロな出来事」として、また「プロパゲーション」を「いっそう長大な時空間でおこなわれる「意味伝播」というマクロな出来事」として定義したあとで、次のように結論している。「まとめておこう。要するに、コミュニケーションとプロパゲーションをつうじて、クオリアのような主観的な一人称の世界認識から、(疑似)客観的な三人称の知識が創出されていく。形づくられるのは、一種の社会的な「知識」であり、「意味」である。このダイナミックスの基本的なありさまは、たった二人の社会的HACSから国家規模のHACSにいたるまで、原則としてすべて変わらない(110〜1頁)」。正直あまりよくわからんかったが、現象学的社会学者のアルフレッド・シュッツの次のような記述をちょっとだけ思い出しはした。「私たちは、自分たちの環境であると通常呼んでいる共通的且つ不可分な環境のもとで暮らしている。かくして私たちが住む世界は、私たちのどの一人についても単に私的なものとして存在しているわけではなく、まさに私たちの眼前にある一つの共通的且つ間主観的な世界として存在している。そしてこの間主観的な世界が構成されるのは、私たちが住む世界における共通的な生きた経験である対面的な関係を通してである」。現象学自体、主観的な観点を扱う学問だから、閉鎖系をなす主観性からいかに関主観性が創発?するのかは非常に興味深い議論だよね。シュッツは、共通的な生きた経験である対面的な関係がカギになると考えているらしい。APS理論ではどうなのだろうか? それについては「第五章 望ましい集合知をもとめて」に簡単な答えがあるので、そこでもう一度取り上げる。

 

ということで、その第五章に入る前に「第四章 システム環境ハイブリッドSEHSとは」を取り上げましょう。この章の記述に関しては、二点だけ指摘しておく。一つは章題にある「システム環境ハイブリッドSEHS」とは何かに関して。どうやらこれは、メディア学者のマーク・ハンセンが提起した概念らしく、次のようにある。「いったいSEHSとは何だろうか。――それは高水準の包含性をもつ「暫定的な閉鎖システム」のことである。システムのなかには、人間主体とは異なる知能をもつ高度なITエージェント(人間を代替するコンピュータなどの知的存在)もふくまれ、一種の分散的な認知活動がおこなわれるというのだ(128〜9頁)」。もちろん西垣氏は、この概念を肯定的にとらえているわけだが、とりわけのちの指摘に関係するので「分散的な認知活動」という文言を覚えておかれたい。

 

さて、もう一点は本筋にはあまり関係のない、ポストヒューマン論批判に関して。冒頭で述べたヘイルズに対する誤解は実のところこの章に見受けられる。まず西垣氏は「ポストヒューマン」をどのようにとらえているかを取り上げましょう。次のようにある。「ITの猛烈な進歩を考えれば、記憶容量や演算速度で人間の速度で人間の脳をしのぐ電子機器が登場するのは当然だ。だが、事態はそれだけにとどまらない。これまで、世界を認知し、経験し、表象作用をつうじて意識的に世界の意味をとらえていた「人間主体」そのものが、根底からバラバラに解体されてしまうのである。¶代わって出現する存在こそ、「ポストヒューマン」に他ならない。主体的なはずの人間の精神活動は、いわばアバター同士のネットワーク活動と化し、究極的にはコンピュータの論理記号処理で置き換えられてしまう……。¶以上のような議論は、一時この国でも流行したポストモダン思想と奇妙に共鳴する。ともに人間主体の解体を説くからだ。こうして結局、サイバネティクスは二一世紀に「ポストヒューマン」をもたらすという主張が唱えられるようになる。だがこれは実は、あの古くさい人間機械論の焼き直しにすぎないのではないだろうか(124〜5頁)」。

 

そしてその次の節にヘイルズが登場する。次のようにある。「ポストヒューマンの議論を述べ立てるのは、理系ではなくむしろ文系の学者である。そこでは、ITやネットのひらく近未来にたいする期待と不安がないまぜになっている。¶たとえば、文学者のキャサリン・ヘイズは『いかにして我々はポストヒューマンになったのか(How We Became Posthuman)』をはじめ、一連の著作でその主張をくりひろげている(125〜6頁)」。ちなみに私めは『How We Became Posthuman』を二度(二度目は最近)、それと『Unthought: The Power of the Cognitive Nonconscious』(Chicago, 2017)だったと思うけど、それより新しい著書を一度読んでいる。まず指摘しておくと、『How We Became Posthuman』は、9頁しかない最後の章「Conclusion」(本文290頁なので、ほぼ三〇分の一)を除けば、本来「How People Came to Think That We[Human Beings] Became Posthuman」とでも題すべき本なのですね。つまり、「ポストヒューマン」という言説がいかに生まれてきたかを、サイバネティクスのメイシー会議以後の現実世界における情報科学の歴史と、それと並行して文学作品(てか実際は、フィリップ・K・ディックやウィリアム・バロウズらのSFなんだけどね)に追っていくという、いわば文系的なナラティブ論、あるいはフーコー流のエピステーメー論?がおもに展開されている。そもそもそれは第1章「Toward Embodied Virtuality」から明白なのですね。たとえば次のようにある。「もちろん文学的テクストは[前述のとおりこの本では文学(SF)作品が多めに引用されている]、単なる受動的な媒介物なのではなく、テクノロジーの意味や文化的な文脈における科学理論の意味を積極的に形作る。それはまた、重要な局面において科学理論に浸透している想定に似た想定を体現している。(…)科学的経緯を描いた章が示すように、文化は科学を貫いて循環するし、科学は文化を貫いて循環する。この循環システムを維持する中心的なメカニズムはナラティブである――文化に関するナラティブ、文化の内部のナラティブ、科学に関するナラティブ、科学の内部のナラティブ。私は科学的経緯を説明するにあたり、技術−文化的なコンセプトとしてのポストヒューマンの主張においてナラティブが果たしている役割を強調するよう努めた(同書21〜2頁、頁数はソフトカバー版による(以下同様))」。また第9章のタイトル「Narratives of Artificial Life」は、本書がナラティブに関する本であることを典型的に示しているし、「Conclusion」を除いた最終章の「The Semiotics of Virtuality: Mapping the Posthuman」で図を用いて説明されているのは、「ポストヒューマンそれ自体」の分析ではなく、「ポストヒューマン{論/傍点}」の分析なのですね。西垣氏自身、「理系ではなくむしろ文系の学者」「文学者のキャサリン・ヘイルズ」と述べているように、この本のほとんどは、文芸評論、文化評論的な範疇に入れるべきものだと言える。

 

ただし短い「Conclusion」だけは、確かにヘイルズ自身が「ポストヒューマン」を擁護しているようにも読める。でもヘイルズが考えているポストヒューマンと、先にあげた西垣氏が想定しているポストヒューマンとでは、まったく意味が異なると思う。そもそも「身体化(embodiment)」を重視するヘイルズが、「脱身体化された(disembodied)情報」を取沙汰するタイプの「ポストヒューマン論」を擁護するはずがない。たとえば第9章「Narratives of Artificial Life」に次のようにある。「ごく最近まで、人類には情報を蓄積、伝播、操作する能力において比肩する競争相手が存在しなかった。それが今や、知的なマシンがその能力を共有するようになってきた。このような進化的経緯をもとに未来を概観すると、さまざまな側面で同じ進化的ニッチを競合し合う人類と知的なマシンのどちらがより迅速に情報処理能力を進化させられるかという問いに行きつく。¶このことは、コンピューター世界を無条件に受け入れてはならない理由を明確にする。もしもっとも重要なポイントが情報処理にあるのなら、知的なマシンが進化の申し子として人類を置き換えるのは時間の問題であろう。人類が知的なマシンと戦おうが、その仲間になろうが、人類はすでに終わっている。その種の言説の問題は、「人類か知的マシンか」の選択にあるのではなく、それら二つしか選択肢がないかのように見せかけている議論の枠組みにある。コンピューター世界は、有用な道具から、情報を他のあらゆるものに優先させるイデオロギーと化すときに危険なものとなる。ここまで見てきたように、情報とは社会的に構築された概念であり、現在受け入れられている定義以外のあり方で定義されても構わないはずだ。情報が身体を持たないからといって、人間や世界も身体を持っていないという結論にはならない(同書243〜4頁)」。このように主張する著者が、「人間の精神活動は、(…)究極的にはコンピュータの論理記号処理で置き換えられ」ると思い込んでいたり、「古くさい人間機械論の焼き直し」を意図していたりするわけがない。ちなみに、この文章の直後で、「Embodiment」を重視する脳科学者アントニオ・ダマシオの見解が肯定的に紹介されている。

 

なおヘイルズの考える「Embodiment」に関する詳細な説明は、『How We Became Posthuman』の第8章「The Materiality of Informatics」にある。この章の前半に書かれている「body」と「embodiment」の区別は興味深いので、機会があったら是非読んでみてみて。大雑把に言えば、「body」は抽象的で脱文脈的、「embodiment」は個別的、文脈依存的ということらしい。思想家で言えば、前者のレベルで論じているのはミシェル・フーコーや(よって「embodiment」を重視するヘイルズはフーコーをあまり買っていないように思えた)、ちょっと意外なことにマーク・ジョンソン、後者のレベルで論じているのはメルポンやピエール・ブルデューということのよう。これら四人の思想家の著書はそれなりに読んでいるけど、そういった分類で読んだことはなかったので実に興味深かった。ただし注意しなければならないのは、ヘイルズはポストヒューマンという言説の形成において、それら二つが単に二項対立的に作用していたと考えているわけではなく、複雑に絡み合っていたと考えている点。私めの理解が正しければ、たとえば元祖(一次)サイバネティクスのノーバート・ウィーナーや二次サイバネティクスのマトゥラーナ&ヴァレラあたりまでは「embodiment」をかなり重視していたのに、ハンス・モラベックやマーヴィン・ミンスキー、あるいは当然ながら1999年刊行の本書には登場しないもののレイ・カーツワイルなどといった、要するに心や意識をコンピューターにアップロードすることができるなどと考えている連中は、「embodiment」をまったく切り捨てるようになってしまうわけ。ちなみにこの手の連中は、心や意識を脳の活動によって生じる随伴現象と考えているはずの割には(でなければ、心と脳の心身二元論を信じているということにならなくね?)、脳はアップロードしようとしないのね。 いずれにせよ、脳をアップロードしようとすれば、それを支えている身体を、また身体をアップロードしようとすれば身体を維持するために必要な周囲の環境を、さらには周囲の環境をアップロードしようとすればそのまた周囲の環境をまるごとアップロードしなければならなくなってキリがなくなる、つまり全宇宙をアップロードしなければならなくなり、しかもそれにはアップロードしようとしている自分たち自身とアップロード先の媒体も含まれねばならないという自己言及状態に陥りうることに、彼らは薄々気づいているのでしょう。そこで、その連鎖を断ち切るために「水槽の中の脳(brain in a vat)」というSFでお馴染みのイメージが登場するわけ、おそらくは。なおオーディオテープの話が出て来る、第8章「The Materiality of Informatics」の後半の記述はようわからんかった。

 

さらに言えば、「Conclusion」でヘイルズは、ヘイルズ流の「ポストヒューマン」について述べるにあたって、エドウィン・ハッチンスの『Cognition in the Wild』(MIT, 1995)で提唱されている概念を取り込んでいる。私めは、このハッチンスの本も二度読んでいて、私め自身高く評価している。ヘイルズは、船の操作に関するハッチンスの記述を取り上げて次のように述べている。「彼[ハッチンス]は、状況の変化に対する[船員たちの]適応が進化的で身体化されたものあって、抽象的で意識的に設計されたものではないことを、説得力を持って論じている。(…)この観点から見た場合、人間と知的なマシンの協調の未来は、人間の権利や責任の剥奪ではなく、分散化された認知環境の構築のさらなる進歩、すなわちこれまで数千年にわたって続けられてきた構築作業の継続を意味するのだ(同書289頁)」。ハッチンスは、船の操作の例が示すように、物理環境を含めた、分散的な認知システムのなかに知識が蓄積されていくという、暗黙知をさらに拡大したような概念(あまりやりすぎるとユングになりそうだけどね)を提唱している認知学者と見ることができる。これは「分散的な認知活動」に依拠するSEHSという概念と非常に似ているように思える。したがって西垣氏も肯定的に捉えていると思しき概念を、同様に肯定的に独自の「ポストヒューマン論」に取り入れているヘイルズの考えが、西垣氏が想定し批判している「ポストヒューマン論」と同じであるとはとても思えない。西垣氏は、マーク・ハンセンらに言及して「とはいえ近年、文系学者のなかにも、ヘイルズらのポストヒューマン論の浅薄さを批判する好ましい動向が現れた(126〜7頁)」と書いているんだが、これは「ヘイルズらの」を削除しない限り、とんでもない勘違いだと言わざるを得ない。だってヘイルズは「Conclusion」で、ハンセンのSEHSに類似するハッチンスの分散的認知システムを、彼女独自の「ポストヒューマン論」に取り入れているんだから。

 

How We Became Posthuman』のソフトカバー版の裏表紙に掲載されている、ダナ・ハラウエイ(サイボーグがどうたらこうたら宣っているフェミニスト?で、私めも二冊ほど著書を読んだことがあるけど、何が書かれているのかさっぱりわからんかった)の推薦文「ヘイルズは、脱身体化が、それとは縁遠い主観性の概念に再び書き込まれないようにする方法に対する読者の理解を高めるべく、「いかにして情報が身体を失ったか」を解き明かしている」は正確に本書の意図をとらえているように思う。オートポイエーシス理論に関するヘイルズの理解に対する批判は、専門家である西垣氏のほうが正しいのであろうが、次のような批判は、ヘイルズの意図の完全なる誤解であるようにしか思えない。「ヘイルズのようにポストモダンの風潮に乗り、サイバースペースにおける主体的個人の解体、ポストヒューマンの出現をさけぶことは、一部の人々の喝采をあびるかもしれない。だが、その先には何が待っているのだろうか(130頁)」。ヘイルズには欧米流の主体性、人間中心主義の否定をしている部分は確かにあるとしても、もしヘイルズ本人がこのような一方的な批判を読んだら、ひっくり返るだろうね。

 

思うに、西垣氏は少なくとも『How We Became Posthuman』の主張を二つの点で誤解していると思う。一つは、この本のほとんど、すなわち二九/三〇が、一種のナラティブ論、すなわちポストヒューマンという言説がいかなる経緯を経て生まれてきたかに関する議論であって「ポストヒューマンの出現をさけぶ」ためのものではないということを理解していない点。もう一つは、How We Became Posthumanの残りの一/三〇を占める「Conclusion」で言及されているヘイルズ独自の「ポストヒューマン論」は、西垣氏が想定している「ポストヒューマン論」とはまったく違うという点。実を言えば西垣氏が想定し批判しているような「ポストヒューマン論」は、「Conclusion」の前半でヘイルズも批判している。そして後半で、それに代えて、ハッチンスの分散的認知システムに依拠するヘイルズ独自の「ポストヒューマン論」が提起されているわけ。要するに「Conclusion」におけるヘイルズの意図は、「Conclusion」に至るまでの章で出現の過程を分析してきた従来の「脱身体化されたポストヒューマン論」というナラティブを、「身体化されたポストヒューマン論」という独自のナラティブで置き換えようとしたとも言える(それを同じ「ポストヒューマン」という名称で呼ぶべのが妥当か否かは別としても)。前述のダナ・ハラウエイの推薦文の前半は、このヘイルズの裏の意図とも言うべきものを正しく評価しているわけ。ちなみに後半は、ヘイルズの本がナラティブ論であることを正しく評価しており、ハラウエイはこの短い推薦文中で、ヘイルズの二つの意図をみごとに要約していることになる。つまり、『How We Became Posthuman』では二つの「ポストヒューマン論」が提起されているにもかかわらず、西垣氏はハラウエイとは違って、それを一緒くたにして前者、すなわち脱身体化されたポストヒューマン論のイメージだけでヘイルズを叩いているように思える。だから身体化されたポストヒューマン論の構築を目指しているヘイルズ本人が読んだらひっくり返ると言ったわけね。だってヘイルズの立場からすれば、自分では言っていないことを言ったことにされてそれを叩かれている、つまり一種の藁人形論法をかまされているように思えるだろうからね。この新書本が仮に英訳されたとしたら、ヘイルズ本人から、「あたいが言ったことを批判するのは構わないけど、言ってもいないことを批判しないでおくんなまし!」という主旨の苦情が来そう。失礼ながら、西垣氏は自分の専門領域であるオートポイエーシス理論に言及される第6章「The Second Wave of Cybernetics」や、サイバネティクスに言及される前半のいくつかの章だけ真剣に読んで、あとは適当に読み流したのではないかという印象さえ受ける。もちろんこの本以外で、西垣氏が想定しているような「ポストヒューマン論」をヘイルズが声高に叫んでいる可能性は捨て切れないとしても(何せ私めは西垣氏と違って、前述のとおりヘイルズの著作は二冊しか読んでいないしね)。ただこの件に関して、最後につけ加えておくと、西垣氏が想定しているポストヒューマン論に対する彼の批判は正しいと思っている。ただその代表格であるかのようにヘイルズ、とりわけ『How We Became Posthuman』を取り上げるのは筋違いだと言いたいだけ。

 

ということで文句はこれくらいにして、「第五章 望ましい集合知をもとめて」に移りましょう。この章ではいよいよ、ネット集合知の本来のあり方が検討される。まず次のような重要な問いが立てられる。「第三章でのべたように、人間にとってもっとも基本となるのは、生命活動をするための一人称的な「主観知」である。それはクオリアによって支えられている。だが、単独行動生物でない人間は、群れ(集団)のなかで通用する何らかの共通の知識なしに安定した生活をおくることができない。この共通知識の延長上に、いわゆる三人称の「客観知」が位置づけられるのである。¶では、一人称の主観知から三人称の客観知をいかに導けばよいのだろうか――まさにこれこそ、本書をつらぬくテーマに他ならない。ネットを利用してクオリアの壁をのりこえ、真の客観知とはいわないまでも、何らかの有効な共通知が導出できるなら、それはネット集合知の名に値するだろう(151頁)」。文系学者に言及すると西垣氏がいやがりそうだけど、これこそまさに主観性からいかに間主観性を導き出すかについて思索を重ねた、アルフレッド・シュッツら現象学的社会学者の主要なテーマの一つでもあったのよね。西垣氏は次のように続ける。「ここで注目されるのは「二人称の知」である。(…)基礎情報学[西垣氏独自の情報論]の議論によれば、私とあなたの心をベースにした上位の社会的HACSが作動を継続するかぎり、何らかの疑似的な情報伝達がおこなわれていると見なすことができる。そこには、個々の主観世界をこえた、人間同士の最小限のコミュニケーションと社会的な意味生成がみとめられる。(…)いずれにせよ、要するに二人のあいだの対話、問いと答の繰り返しこそが、ボトムアップの集合知の基本単位となるのだ。それがコミュニケーションにもとづく三人称的な知識の長期的な意味伝播(プロパゲーション)につながる(151〜2頁)」。これはまさに、先に上げたシュッツの見解「この間主観的な世界が構成されるのは、私たちが住む世界における共通的な生きた経験である対面的な関係を通してである」とも重なる。また「ボトムアップの集合知」という観点も、シュッツら現象学的社会学者らの「主観性→間主観性」という考え方に一致する。

 

そして西垣氏は、この考えを情報学者西川アサキ氏の提唱する数理モデルを用いて補強する。この部分は、この新書本のハイライトと言ってもいいでしょうね。ただこの数理モデルについては、新書本にあるグラフを見ながらでないとわかりにくいので、ここでは細かく説明しない。ぜひ各自で読んでみてくださいませませ。とはいえ、西垣氏による結論は取り上げておきましょう。次のようにある。「他律システムである機械は開放システムである。開放システムにおいては、たしかに情報(記号)を誤りなく伝達し、蓄積することができる。だから、IT機器が多用される社会は「オープン」になるとともに、本来は自律システムである人間が、ますます機械のような開かれた存在、きまった入出力をおこなう他律的な存在に近づいていく可能性が高い。¶しかし、前節でのべた[西川アサキ氏の]シミュレーション結果は、「オープン」な社会がかならずしも望ましくないことをしめしている。つまり、人間が自律性を失って開放システムに近づくと、社会がいわば透明になりすぎ、外部環境の変動にともなって、「絶対的リーダーへの一極集中/多極化/完全な無秩序」といった諸状態のあいだをぐるぐる彷徨することになりやすいのだ。構成メンバーのあいだでは一様な価値尺度が速やかに行き渡るにせよ、構成メンバー同士の対話によってそれがはげしく変動するので、不安定状態がうまれてしまう。¶これに対して、人間(生命体)本来の閉鎖性が保たれていれば、それぞれが自律的で唯一の価値尺度は存在しないにもかかわらず、社会のなかに一種の「慣性力」がはたらいて安定したリーダーが生まれ、そのもとで一定の権威をもつ質疑応答がおこなわれる。たぶんこれは、実践的なネット集合知につながるだろう。人間同士の対話コミュニケーションにおける、不透明性をはらんだ意味伝達(疑似的情報伝達)のもたらす効果ともいえる(176〜7頁)」。これは非常に興味深い指摘で、私めはよく粒度の相違を斟酌したボトムアップの階層システムをもとに人間社会をとらえるべきだと言っているわけだけど、その理由の一つにもなりそう。西垣氏はたぶん自分の記述が政治的な言説によって利用されることを嫌うだろうとは思うがあえて言えば、中間粒度における自国ファースト主義の重要性や、より上位の粒度に相当する国際レベルでの各国に対する連邦主義的統括の重要性、そしてそのような階層構造はトップダウンではなくボトムアップに構成されねばならないという点の理解も、このモデルで補強できそうな気がする。国境のない世界などといったすべてをオープンにした世界が、単なる理想であって現実にはまったく機能しないと言える理由の一つも、このあたりにあると言ってよいのかもしれない。

 

ということで最後の「第六章 人間=機械複合系のつくる知」は、全体のまとめ的な章なので省略する。全体的に言えば、非常に有益な本だと思う。とりわけ、詳細はヘタレブケダンの私めにはわからないとしても、数理的な観点から集合知が検討されている点が興味深かった。ちなみに個人的には、メルシエ&スペルベルのように進化生物学的な観点から知や認知のあり方にアプローチしていく方針に着目しているとしても、数理モデルによる理解と進化生物学的理解は相互排他的ではないので、相互に補強し合えるだろうと思う(ちなみに先にあげたメルシエの『人は簡単には騙されない』では、数理モデルと少しでも言えそうな概念は、コンドルセの陪審定理しか紹介されていない)。

 

ただヘイルズの批判は私めにはまったくの誤解に基づいているとしか思えなかった。率直に言って、少なくとも『How We Became Posthuman』に書かれているヘイルズの見解と、この新書本に書かれている西垣氏の見解は矛盾しないと思う。それどころか「embodiment(身体化)」や「暗黙知(あるいは分散的認知システム)」の重視などといったきわめて重要な局面では、二人は見解が一致しているように思える。それにもかかわらず、先にあげたような感情的ともとれる批判をヘイルズに対して行なっているのは、タイトルに含まれている「ポストヒューマン」という言葉に飛びついて文系著者の意図を根本的に誤解し、ヘイルズの主張に対して自分が想定している「ポストヒューマン」の定義を投影して藁人形に仕立てあげようとしたからではないかと思われる。むしろヘイルズの議論は、五寸釘を打ちつける藁人形に仕立てあげるのではなく、理系的観点とは異なる文系的な観点からの補助線として活用すべきだったのではないかというのが、個人的な意見。『倫理学原論』では文系の学者先生が、理系の知識をうまく活用できずに損をしていると思しきケースを取り上げたわけだけど、ここではその逆が起こっている。文系出身でありながら今ではポピュラーサイエンス本の翻訳者をやっている私めは、「もう少し何とかならんのかなあ?」と思っちゃうんだよね。だって、うまく活用すればプラスになるはずなのに、その逆をやって損をするというのはとってもとっても残念なことだからね。ちなみに現在鋭意翻訳中のラッセル・フォスター著『Life Time: Your Body Clock and Its Essential Roles in Good Health and Sleep』(Yale, 2022)に、文系学者の業績が科学者を啓発して新たな発見をもたらした例が紹介されている。次のようにある。「その種の歴史研究[歴史学者ロジャー・イーカーチによる二相睡眠に関する歴史的研究]は、実証的な研究を促した。それらの実証的な研究では、被験者は明るい時間を一二時間、暗い時間を一二時間過ごすという日々のスケジュールを課され、普段より長い時間眠る機会を与えられた。その結果、多相睡眠や二相睡眠が見られるようになった。この実験は、歴史研究や社会科学が同時代の科学に情報を与えられることを示す格好の例になる」。こうでなくちゃね。ただいずれにしても、それはこの新書本の理解という文脈では些細な点であり、それによってこの本の価値が下がるわけではまったくない(ただヘイルズが読めば気分を悪くするだろうけどね)。ということでこれにておしまい、おしまい。

 

 

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※2024年4月4日