◎北山忍著『文化が違えば、心も違う?』(岩波新書)
著者の北山忍氏は、わが訳書バチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』で何度か言及されている。索引を参照すると六箇所ほど登場するみたい。なお一回は謝辞で、もう一回はメスキータ本(個人的には『情動はこうしてつくられる』の著者リサ・フェルドマン・バレットのお友だちなのでリサ友本と呼んでいる)の解説者唐澤真弓氏による「解説」のなかで言及されている。でもこの岩波新書本では、メスキータ氏への言及は一切なかった。「残念、言及されていれば少しはリサ友本の売り上げが増えたのにいいいい!」とか図々しく思ってもた(売れないポピュラーサイエンス本を訳しているので許してくださいませませ)。翻訳本の版元である紀伊國屋書店の担当編集者も、りさ友本にも、メスキータ氏にも言及がないということでジダンさんのように地団駄を踏んでいました(というのは真っ赤な嘘で、「ないね」と言っただけです)。また実のところ北山氏は唐澤氏の旦那のようなんだけど、唐澤真弓氏には、本書では「第2章 日米の常識を疑う」で一度だけしか言及されていない。まあでも、自分の嫁さんに言及するのは気が引けたのかもだけど、「謝辞」では唐澤真弓氏本人ではなく北山氏の義母、すなわち唐澤氏の母親には言及されているので少し奇妙な感じを受けた。いずれにしても、それらは個人的な話なのでこの程度にしておきませふ。
ということでさっそく「はじめに」から。そこにまず本書のテーマについて次のように書かれている。≪本書のテーマを一言で言うなら、多様性の本質とは何か?である。ここでの議論は以下の三点に要約できる。¶¶(1)現代の文化の多様性を理解するためには、過去数千年、ことによると数万年、あるいはそれ以上にわたる生態条件、生活環境、移住移民といった要因を考慮に入れる必要がある。¶(2)こうした時間軸の中で多様性を考えると、そこには{自/おの}ずと人類共通の基盤が立ち現れる。¶(3)このように考えることによって、真の相互理解が可能になる。¶¶言い換えれば、現代社会で観察される文化間の違いを理解することは、その背後にあるさまざまな要因、とりわけ歴史的・生態的・地理的要因を考慮に入れることであり、それらの要因の結果として違いを理解すると、実は、われわれ人類には共通した基盤があることが見えてくるのだ(A〜B頁)≫。ポピュラーサイエンス本の翻訳者としてとりわけ興味深いのは(1)ですね。というのも、これは本書が、私めがとってもとっても関心のある文化的進化の概念を援用していることを意味するから。実際、「第4章 人類史から見る文化の起源――生態条件と進化」では、まるまる一章を使ってその点が論じられている。これについては、第4章を取り上げる際に詳しく見ていくことにする。
さらに「はじめに」の記述を見ていきましょう。次のようにある。≪そもそも文化心理学という学問領域は、人の心の性質が文化によって異なるという点を、実証的データによって示すことを目的に発展してきた。私がこの手の研究に着手した一九九〇年代、多くの研究者は、人の心とは文字通り普遍的なものであり、行動に文化の違いが見られたとしても、規範が違うからそう振る舞っているだけだと考えていた。¶たとえば、日本人が他者に気を{遣/つか}うのは、そうする規範があるからで、それ以上でも以下でもない。その背後には普遍的な心があるというわけだ。あるいは、感情の研究では、怒りや喜びなどの「基本感情」は普遍的であり、文化によって感情の表出が異なるのは、「表出ルール」と呼ばれる社会規範があるからだと議論されている。ここにあっては「基本感情」の普遍性への信念の強さは、もはや「宗教的」ですらある。これに疑問を投げかけるとしたら、「非科学的」というそしりを{免/まぬか}れない(B頁)≫。普遍的な「基本感情」という概念を世に広めたのは、他でもないポール・エクマンだが、そのエクマンの見方に真っ向から反対しているのが、前述したリサ・フェルドマン・バレット氏や彼女のお友だちのバチャ・メスキータ氏なのですね。
ところでここで少し説明しておきたいことがある。それは、「基本感情」とあるようにこの新書本では「感情」という言葉が用いられているのに対し、リサたん本やリサ友本では「情動(emotion)」という言葉が用いられている。「感情」と「情動」は何が違うかという話は、人によって定義が異なるから実にややこしい。おそらくもっとも単純な素朴心理学的定義は、「感情」は長続きする状態を、「情動」は突発的な感情の爆発を意味するなどといったものになる。ただ専門の学者がこの用法で感情と情動を使い分けることはおそらくまずないと思う。またよくある定義に、情動は身体的、生理的な現象それ自体を指し、科学的、定量的、客観的な測定が可能であるのに対し、感情は情動の主観的な現れを指し、本人の自己報告に基づいて知るしかないというものがある。しかしそれだけではないのですね。たとえばリサ・フェルドマン・バレット氏は、感情をアフェクト(ここではアフェクトとは何かは説明しない)とほぼ同じものと見なし、情動を構成する一要素と考えている。あるいはダマシオはダマシオで独自の定義をしていたように覚えている。要するに日本語の「情動」と「感情」も、英語の「emotion」と「feeling」も使う人によって意味が微妙に、あるいは場合によってはド派手に異なるのですね。ちなみに、私めは基本的に「emotion」は「情動」と、「feeling」は「感情」と訳している。ただし文脈によっては「emotion」を「感情」と訳すことは稀にある。もっとも単純な例で言えば、会話文の「Don’t be emotional!」は英語では日常会話でもよく使われるが、「情動的になるな!」ではなく「感情的になるな!」と訳している。日常会話で「情動的になるな!」などとは普通言わないからね。なお『心は存在しない』で、著者の毛内氏は≪本書を手に取っていただいたみなさんには、今日から「エモーション」を単に「感情」と訳すのはやめていただきたいのです。これは脳科学者からのお願いです。もしこの中に翻訳者さまがおられましたら、最大の注意をお願いしたいと思います(同書136〜7頁)≫と述べ、「感情」と訳しているポピュラーサイエンス本(具体的に言うと、山形浩生氏が訳したアントニオ・ダマシオ著『自己が心にやってくる』)にダメ出ししていた[ページ内検索キーワード:翻訳者]。ただはっきり言って、「翻訳者に文句を言う前に、まず学者さまたちのあいだで用語の定義を統一しておくんなまし」と思ってもた。今の状況だと、どう訳そうがどこかの誰かに文句をつけられるからね。いずれにしてもこの新書本の文脈で言えば、そこまで細かな定義が必要になるとは思えないので、「「感情」と「情動」はニアイコールと考えてもいいよん!」と言っておきますら(きっと毛内氏がこれを読んだら怒るだろうけど)。
ということで愚痴はその程度にして、新書本の続きに参りましょう。普遍的な「基本感情」という心理学の主流派の概念に対して、北山氏は次のように述べている。≪このような普遍論は、啓蒙思想以降の科学主義の{衣/ころも}をまとって至るところに存在する。「本当の」科学とは普遍性を探究するものだというわけだ。これ自体は間違いではない。しかし、問題は、多くの研究者にとって、普遍性は「心そのもの」であることだ。そうではなく、普遍性は「その形成過程」にあり、その結果として多様性こそが立ち現れてしかるべきだという発想自体がいまだに抜け落ちている。¶文化の間で心の性質に違いがあるという点を{声高/こわだか}に主張する意義を見出していただけただろうか。このような主張は、心理学をはじめとする社会・行動科学を{席巻/せっけん}している文化普遍論に対するアンチテーゼとして非常に需要である。「しょせん人は人」といわんばかりの普遍論は、見直す必要がある。そして見直すためには、「しょせん人は人」ではないという点を実証的証拠と共に示すことが不可欠だ。そして、これこそが、過去三〇年ほどの文化心理学の最大の功績であると言ってよい(C〜D頁)≫。≪文化普遍論に対するアンチテーゼ≫とは文化(社会)的構成主義を指すわけだけど、とりわけ二一世紀に入ってからの文化的構成主義は、かつての文化相対主義とは異なる。この引用にも≪実証的証拠と共に示すことが不可欠だ≫とあるように、最近の文化(社会)的構成主義は、脳科学、認知科学、進化科学などの科学的な証拠に大幅に依拠しているのですね。たとえばリサ・フェルドマン・バレットは社会的構成主義を主張しているが、その基盤には脳科学の予測処理理論が援用されている。また北山氏自身も、著者紹介欄に「専門――文化心理学、文化神経脳科学」とあり、事実、量は多くはないが本書にも脳科学や進化科学、あるいは遺伝学に対する言及が散見される。
ということで、まず「第1章 サブサハラ・アフリカに、……」から。最初に次のようにある。≪サブサハラ・アフリカについての心理学的な実証研究は始まったばかりである。よって、学ぶべきことは多い。さしあたって、知らないことが山ほどあるはずだということを肝に銘じる必要がある。¶それでも、既存のデータを検討してみると、サブサハラ・アフリカには、「自己促進的協調文化」とでも呼ぶべき文化が存在することがうかがえる(4頁)≫。岩波新書を積極的に読もうとする人が知らないはずはないと思うが、一応説明しておくと「サブサハラ・アフリカ」とは、サハラ砂漠以南のアフリカを指す。では、「自己促進的協調文化」とはいかなる意味か? それを説明するにあたって、北山氏はまずサブサハラ・アフリカ諸国に共通する二つの類似点をあげている。一点目は次のようにある。≪一つめの共通点は、協調性である。アフリカのさまざまな集団の社会生活の実態に迫った民族誌的研究によると、共通して、部族や家族への忠誠心や献身が非常に高く価値づけられていることがわかる。さらに、アフリカ諸国はのきなみ、集団主義的な側面が色濃い(…)。これらは、サブサハラ・アフリカの諸文化において強い集団主義的価値観が共有されていることを示している(5頁)≫。二点目は次のとおり。≪サブサハラ・アフリカの諸文化の二つめの共通性は、自らの具体的な利得に対する非常に強い動機づけである。この動機は、「自己促進」、英語で言えば、「セルフ・プロモーション」とでも呼ぶことができる。多くのグループメンバーがおのおの具体的な利得追及の目標をもっており、皆おしなべて少しでも多くの成果をあげようと努めるのだ(6頁)≫。実のところ一点目の≪集団主義≫と二点目の≪セルフ・プロモーション≫は通常は矛盾する。それに関しては北山氏自身もそのように述べ、「協調と競争のパラドックス」と呼んでいる。
これについて調査するために北山氏らはタンザニアやケニアに行ってインタビューを行ない、次のような結論を出している。≪ここ[ケニアでのインタビュー]から浮かび上がってきたのは、競争に勝利することこそが「尊敬」の源であり、競争こそが自集団の他者とのつながり、つまり、協調の根源にあり、この意味での自集団との協調こそが人生の真の成功の秘訣であるといった常識、すなわち「文化の論理」であった。この文化の論理のことを、ここでは「自己促進的協調」と呼ぶのである(15頁)≫。また、欧米流の≪セルフ・プロモーション≫との違いは、次の記述によってもわかる。≪この文化システム[サブサハラ・アフリカの文化システム]では、他者との競争を通じて報酬を獲得することで初めてグループに貢献し、その過程で尊敬や地位を得ることが可能となる。そのため、人々はそれぞれの方法で具体的な報酬を迅速に得ようとする。このように、個人の達成意欲、すなわち「自己促進」と、それによって生じるグループ内の競争は、最終的にグループ全体の成功と、それに伴うグループ内の協調的な関係の形成につながる。このシステムは、結果的に集団主義的価値観を維持する役割を果たしている。¶これに対して、近代西洋の伝統を受け継ぐ欧米文化では、同じ自己促進への意欲や動機を独立性に結びつける。なぜなら、欧米文化においても自己促進はより広い文化的文脈の中で生起し理解されるのであるが、この文化的文脈が異なるのである。欧米文化には自己の独立性に主眼をおいた個人主義的文化が定着している。この文脈では、自己促進の意欲や動機は、自分自身のより広い価値観、課題、理想像などを促進し、自立した個人であるという認識を確立し、周囲の状況からの独立性を育むのである(21頁)≫。さらには、アフリカにおける自己促進的協調文化を進化の過程に結びつける次の記述は実に興味深い。≪アフリカの人々は、直近の一万年を含め過去数万年、おそらくはそれ以上にわたって、大型動物を食用に捕獲してきたことであろう。これに対し、(…)アジアの文化は、過去数千年にわたって稲作を主軸に発展を遂げてきた。アフリカ以外の他の地域、たとえばラテンアメリカでも大型動物は、人が移住した直後を除き、ほぼ存在しなかった。この事実は、アフリカの現在の文化を理解するに当たって非常に重要だ。アフリカの文化には、部族集団の生存と繁栄のために並外れた狩猟技術をもつ「スター・ハンター」が必要だったであろう。(…)このような生態的行動環境の要請の結果、さまざまな文化の慣習や常識が形成されてきた可能性がある。とりわけ、大型動物と共進化したサブサハラ・アフリカでは多くの人が自分の狩猟の技術を向上させ、グループ内での地位を向上させることに特化した慣習と常識の複合体が成立してきたのではないだろうか。この競争こそが、部族集団の生存を担保し、また、その理由でそれは奨励され鼓舞されたのであろう。この集団の力学は、狩猟がもはや過去の栄光になった現在でも、サブサハラ・アフリカの文化の精神を定義し続け、今日そこに生きる人々が示す強い自己促進的協調の傾向の裏付けになっているのではないだろうか(31〜2頁)≫。
このような記述を読むにつけ、アフリカのホームタウン構想だとか何とかわけのわからんことをやっているどこぞの国の愚かな政権のことを思わざるを得ない。ちなみにオールドメディアは必死にSNSが誤報を拡散したと主張して、いつものようにネットを悪者に仕立てたがっているようだが、実際SNSで流れていた情報と同じことが述べられているBBCの記事を見た(ピジン英語で書かれていたので全部は理解できなかったけどね)。あるいは確認はしていないが、ナイジェリア政府も同様の発表をしていたとのこと。日本の都市がホームタウンとして指定されていたアフリカの四か国はすべてサブサハラ・アフリカに属する。しかもそこには、現在非常に危険な状態にあるナイジェリアのような国も含まれている。というか、そもそもなぜその四か国かさえも定かではない。(文化的)進化の過程が大幅に異なるアフリカ諸国で暮らす人々が、日本に来ればさまざまなトラブルが生じるに決まっている。それに対する対策や制度はすでに決まっているのだろうか? 日本中がびっつらこいているのだから、そんな準備が整っているとはとても思えない。それもなくして、ただ労働力が欲しいからと言って、そんな政策を推進するのは日本にとってもやって来るアフリカ人にとっても自殺行為だと言える。そもそも労働力が欲しいからと言って受け入れの準備も整えずにアフリカ人を入れると言うのであれば、それは本質的にかつての奴隷制度と大差がない。同じ東洋人のあいだですら韓国とのあいだで応募工の問題が戦後八〇年経ってもくすぶっているというのに(しかも当時の韓国は日本だった)、ましてや(文化的)進化の過程がまったく異なるアフリカ諸国の人々を労働力欲しさに文化のまったく異なる日本に無闇に引き入れれば、応募工どころではない巨大な問題が今後長きにわたって生じるに決まっている(だいたいアフリカ人が、文化がまったく異なる日本人が期待するようなものと同じ待遇を求めるとさえ思えない)。左派イデオロギーに染まった今のアホな政府は、そんな禍根を将来に残そうとしているのだろうか? この計画を推進しているJICAは、トランプ大統領の手で大幅に縮小されたUSAIDの業務を肩代わりしようとしているのではないかとネットでは訝られているが、まったく的外れだとは思えない。USAIDが縮小されたのには、相応の理由があるが、それはまったく無視なのだろうか?
それにつけても、このような問題を指摘するとネトウヨだとか差別主義者だとか極右だとかレッテルを貼りたがる左派オールドメディアは大問題だよね。仮にオールドメディアが正しくて、日本にはネトウヨの差別主義者がウヨウヨ(pun intended)いるのだとすれば、それこそそんなところにアフリカ人を引き入れようとするのは、大げさに言えばナチスが支配していたドイツに、他国に住んでいたユダヤ人を引き入れようとするのと似ていると言わざるを得ない。左派オールドメディアからすればそんなことはもっての他なのだから、ホームタウン計画など時期尚早として断固として批判しなければならない。でも、批判しているのかね? てか、そもそも右だの左だのというイデオロギーの区別が生じたのは近代以後のことにすぎない。このような移民問題の根底には、まさに長い進化の過程で形成されてきた文化の相違の問題がある。報道機関のくせに、そんなことも理解できないオールドメディアはマジで終わっている。というか、ほんとうの問題を見えなくするという意味で有害でしかない。移民の問題を指摘する人に差別主義者のレッテルを貼ることが左派メディアを含めた左派界隈では流行っているようだが、移民の問題を指摘する人は、まさに左派が主張している「共生」の必要性を主張しているということに気づいたほうがよい。違いはどこにあるかというと、左派はなぜか日本人の共生意識だけを問題にしているのに対し、移民の問題を指摘する人は、一部の右翼国粋主義者を除けば、日本人の共生意識だけではなく、やって来る移民側の共生意識をも問うているという点にある。つまり、川口市の例のように移民の側に日本人と共生する意識がなかった場合どうするのかという点を真剣に問題にしているわけ。それがないがしろにされれば、私めのペットフレーズを用いて言えば日本における中間粒度が破壊される結果になり、日本人にも(まともな手続きを経てやって来る)移民にも得なことは何一つない。それを差別主義と呼ぶなら、その人は頭に虫が湧いているとしか言いようがない。ちなみにオールドメディアによる移民問題の捉え方のおかしさは、『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきでも言及したのでそちらも参照されたい。
それからもう一点、同じく岩波新書の『グローバル格差を生きる人びと』で指摘されていたような、サブサハラ・アフリカに対する西側の支援の問題の根底の一つには、間違いなくこのような進化の過程を通じて得られてきた文化や価値観の相違があるはずだということを指摘しておきたい。同書から一箇所だけ引用しておきましょう。≪グローバル格差が生み出す世界では、経済的な豊かさにもとづく権力だけが人類の繁栄と平和を実現する基準になっているわけではない。富裕国、ないしは「西洋」の価値観や認識が基準となって、世界の人びとに優劣がつけられてきた。これは、富裕国や国際機関が、低所得国で生じている問題を、グローバリゼーションの結果ではなく、その国・地域の「後進性」に起因するものとして理解してきたことからも明白である。これにより、たとえば貧困や紛争をはじめとした問題は、途上国が克服すべき後進性の課題として語られてきた。その象徴が「アフリカ」であり、「アフリカ」という言葉を聞くと、貧困や紛争のイメージが即座に想起されるメカニズムが、すっかりできあがっている。¶このような国際協力の枠組みや基準では、グローバル格差が生み出す負の感情、そしてそれにともなう軋轢や暴力、特定の人びとの困難を解決できない(同書15頁)≫。ましてやそこにも私めが書いたように、USAIDのように支援の裏で左派イデオロギーの押し付けをやっていたのでは、ますます西側の援助の信用は失われていく。
またまた駄弁に走ったので新書本に戻ると、北山氏は第1章の最後で次のように述べている。≪サブサハラ・アフリカの「自己促進的協調文化」に関するこれまでの議論は、現代世界が直面する深刻な社会的分断の理解と解決策に重要な視座を提供する可能性を秘めている。特に、サブサハラ・アフリカで見られるような、自己利益の追求と集団への貢献を統合する文化的価値観は、他の文化圏での人々の分断を克服するためのモデルとして機能し得る。¶たとえば、現代の多文化社会における民族間の対立や経済的不平等は、競争と協力の適切なバランスが取れないことによって悪化している場合が多い。サブサハラ・アフリカの事例では、個々人が競争を通じて自己の目標を達成し、その結果、集団全体に利益をもたらすという文化的な論理が、社会的調和を維持する鍵となっている。この原理を他の社会に適用することで、異なるバックグラウンドをもつグループ間の共感を{育/はぐく}み、協力を促進するための新しい方法が見出せるかもしれない。とりわけ、自己促進と協調が対立するものではなく、むしろ相補的であるとする視点は、分断された社会に新しい可能性をもたらす(33〜4頁)≫。正直なところ、ずいぶんと楽観的に聞こえる。というのも、分断が単に経済的なものであれば確かにそう言えるのかもだけど、現代の分断は、経済的な分断のみならず、近代以後に出現したイデオロギーによる分断という側面が色濃くあり、さらに厄介なことにそこには近代以前には存在しなかったメディアが深くかかわっているから。だから北山氏の言うような「自己促進的協調文化」に倣うやり方が分断の解消にある程度効果があったとしても、それは部分的なものにならざるを得ないのではないかという気がする。個人的には、現代の分断は、特定のイデオロギーに染まってプロパガンダ機関に成り下がっているメディアのあり方を根本的に変えない限り解消し得ないと思っている。というより、イデオロギー的な左右の対立という構図は、実はマスメディアが作り出した虚構にすぎないとさえ思っている。むしろ分断しているのは権威主義的なオールドメディアとネット民を含む一般ピープルのあいだであって、そのような垂直的な対立構造を糊塗するために左派メディアは必死になって保守派を右翼と見立てて(これ自体がすでに欺瞞であることは他の本を取り上げたときにさんざん指摘している)叩き、あたかもイデオロギーに基づく水平的な対立構造が存在しているかのように脚色しているというわけ。たった今生じている自民党総裁選前倒しのマスメディアによる扱いにもそれが色濃く見られるし、去年の米大統領選の報道にもその傾向がはっきりと見られた。ちなみに実証的な証拠があるわけではないけど、個人的な印象では極右を含む右翼、極左を含む左翼はそれぞれ多くて一割程度しか存在しておらず、残りの8割はリベラル寄りか保守寄りかというスペクトルの違いはあったとしても、中道だと思っている。だから左右の対立を強調するのは、少数者同士の対立をあたかもそれが一般的であるように見せかける欺瞞にすぎないと考えている。
ということで、次に参りましょう。実のところ次章は「第2章 日米の常識を疑う」だけど、一度読んだ限りにおいては特に目を引いた記述はなかったのでスキップして、「第3章 文化と心のダイナミズム」へとワープする。最初にここ半世紀ほどの文化研究の流れが次のように要約されている。≪私がミシガン大学の大学院に入った一九八〇年代の初頭、文化の研究は心理学という学問分野では極めて傍流であった。人の心はコンピュータであるとして、その計算機序を明らかにするという認知心理学が主流であった。そのアプローチを元に考えると、文化とは独立にあるこの「情報処理マシーン」の性質を見極めることこそが心理学者の使命であり、文化を捨象してこそ初めて「心そのもの」の性質が見えてくると考えられていた。(…)それから約四〇年、このような心理学の枠組みは、少しずつ懐疑心をもって見られるようになってきている。心そのものを、もっと外に開かれたオープンなシステムとして考えたほうがいいのではないかというわけだ。¶そこで代わって出てきたのが、生態・文化・社会環境こそが、心という認知・感情・動機づけといったさまざまな心理機能と、それから成り立つ人の主体を形作るという視点である。主体がいったんできあがると、それは文字通り主体的に振る舞う結果、周りの環境が心の性質を決定することはない。とはいえ、主体の自発的行動は自ずと環境の性質を反映したものになる。¶この新たな視点をとることにより、文化間の差異の研究が重要になってきた。なぜなら、文化間の比較を通じて初めて、文化の効果を浮き彫りにできるからである。そればかりではない。心を生態・文化環境の中に、そして、その環境を形作る進化の時間の流れの中に位置づける、新たな理論的枠組みが登場してきている(72〜3頁)≫。≪その環境を形作る進化の時間の流れの中に位置づける、新たな理論的枠組み≫に関しては、「第4章 人類史から見る文化の起源」で詳述されているので、それを取り上げる際にコメントするつもりだが、ここでステマ、もといアカラサマをしておくと最近の脳科学における予測処理理論は、まさにこのような新たな枠組みを科学的に裏づける格好の理論になると個人的には考えており、10月に刊行される予定のわが訳書、アンディ・クラーク著『経験する機械――心はいかにして現実を予測し構成するか』(筑摩書房)は、この予測処理理論をわかりやすく解説する本だと言える。なので刊行の暁にはぜひ買ってくださいませませ。なおこの岩波新書本では、おもに進化科学や遺伝学の観点から論じられており、脳に関する言及はわずかながらあっても、予測処理理論に対する言及はまったくない。
さらには次のようにある。≪この新たな理論的見解とは、「心理プロセスとは、さまざまな文化的慣行と意味の複合体を通して形作られ、そして実現される」という点に集約される。(…)「人の文化」とは、日常生活のさまざまな慣行と、その背後にある意味が合わさった複合体である。この複合体は、人類史の直近の数千年の間に、異なった地理・生態条件への適応の結果として現れてきている。そしてこの文化と呼ばれる複合体こそが、認知・感情・情動づけといった人の主体を構成する心理プロセスを形作ることになる(74頁)≫。心というのは、オカルト主義に走らない限り、脳の働きによって生じると見てよい。したがって、この見方を科学的に実証するためには脳科学の知識が不可欠になる。その知識の一つが、前述したクラーク氏らの予測処理理論なのですね。ちなみにクラーク氏が『経験する機械』で論じている予測処理理論には以下の六つの特徴があると個人的には見ている。
(1)予測処理理論は、知覚や認知と行動を統合する。
(2)予測処理の大部分は無意識に作用する。
(3)情動は予測する脳と緊密に結びついている。
(4)脳(心)と身体と環境は統合的に捉えられる。
(5)情報が外界に存在するのか心のなかに存在するのかを問わない。
(6)世界はありのままに見ることができないと見なす。
ここでは各項目の細かな解説はしない(いずれ他の訳書と同じように、訳者あとがきをこの「ヘタレ翻訳者の読書日記」にあげておくので、それ以後はそれを参照されたい)。この新書本に大きく関係するのは(1)と(3)、そしてとりわけ(4)だと言える。なので(4)についてだけは、訳者あとがきに書いたことをここに書き写しておく。「脳(心)と身体と社会的環境のあいだの複雑な相互作用は、昨今の脳科学や認知科学の主要な主題の一つになっており、たとえば拙訳ではスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち――脳神経科医は〈謎の病〉を調査する旅に出た』や、ロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない――スティグマは作られ、作り変えられる』がこの主題を扱っている。本書はこの考えを科学的に裏づける証拠を提供していると見なすことができる。(1)で述べたように、予測処理理論は知覚と行動を統合的に捉える。つまり予測によって始動される行動によって外界に働きかけ、知覚を介してその結果を受け取り、それに基づいて予測を是正するという循環ループの存在が前提とされている。これはまさに、脳(心)と身体と環境のあいだで働いている相互作用の基盤を説明する。ゆえに、「予測処理理論は、脳と身体と社会的環境のあいだの複雑な相互作用を理解するためのまったく新しい有望な手段になるはずだ」と主張されているのである」。
まあちょっと調子こいて自訳書のスニークプレビューに走ってもたので、話を新書本に戻しましょう。北山氏は、ではいかにすれば文化と心のダイナミズムを理解することができるのかに関してそれに必要な三つのステップをあげている。第一のステップは次のとおり。≪第一に、「独立」対「協調」の自己、「個人主義」対「集団主義」の規範、規範の「厳格さ」対「緩さ」、関係流動性など、文化心理学という分野の礎になっている主要な理論的見解を展望することが、まずは不可欠である(80頁)≫。第二のステップは次のとおり。≪第二に、過去数千年にわたる文化の出現と進化の過程について考えることがますます重要になってきている。それというのも、これら文化の進化の過程で、分析対包括認知傾向、感情の表出対制御傾向などの心理的特徴が出現してきたと考えられるのである。文化的進化のプロセスを考慮に入れることにより、これらの心理的特徴が時間の経過とともにどのように出現し、変化してきたかを理解するための枠組みを確立できるであろう(80頁)≫。第三のステップは次のとおり。≪第三のステップは、洋の東西だけでなく、先に「レスト」と呼んだそれ以外の地域から学び、それを現代の文化心理学の考え方と理論の中に吸収し反映させていくことである。ここで重要になるのは、非西洋文化圏の「歴史」は過去数千年あまりに遡るのに対し、ルネサンスなどに起源をもつとされる「近代西洋」と呼ばれる西洋文明に関してはたかだか数百年である。すると、これら非西洋文化の類似点と相違点を理解するためには、過去数千年の文化進化を理解することが不可欠であることは想像に難くない。また、現代西洋文化を理解するためには、より最近の数百年の理解が不可欠である(80〜1頁)≫。私めなら第四のステップとして、それらを可能にしている脳の働きについて検討するという項目を追加し、その基盤となる考えとして、前述の予測処理理論をあげたい。
とはいえ実は北山氏も、ステップには数えてはいないものの、脳科学に言及している次のような箇所もある。≪より近年、私たちは、先にみた包括的[文脈を広く考慮する]認知の脳内基盤の解明を試みてきている。この研究は、認知の文化間の差異の根底には、脳機構の違いがあるかもしれないという可能性を示している。¶わたしたちは何気なく、いろいろな「もの」を、何らかの「背景」のもとで見ている。しかし、この知覚を可能にしている視覚処理は、極めて複雑である。その脳内処理の初期において、知覚の対象になる「もの」と周囲の「背景」とが、区別される。そして、それらはまずは別物として処理され、次いで両者は統合されるという道筋で知覚が成立する。過去のこの分野の研究は、「背景」処理にかかわる三つの異なる脳内領域を確認してきている。これらは、「{海馬/かいば}・場所領域」、「内側・場所領域」、および「{後頭/こうとう}・場所領域」と呼ばれている。¶包括的な認知傾向を示す東アジア系の人々は、継続的に包括的な情報処理を行うため、これらの場面処理領域をより頻繁に使っていると考えられる。対照的に、より分析的な、つまり非包括的な認知スタイルを示すヨーロッパ系アメリカ人は、脳内の神経資源を主に「もの」の処理に割り当てるだろう。このような文化差は、脳の容量に反映される可能性がある。筋肉同様、脳の特定部位の容量もその部位が使われるほど増えることがあることが知られている。¶私たちがウィスコンシン大学の脳科学者リチャード・デビッドソンらと行った研究は、このような推論が妥当であることを示していた。われわれは、脳内部位の{灰白質/かいはくしつ}の容量の比較を試み、三つの場面処理領域すべてで、ヨーロッパ系アメリカ人大学生よりも東アジアの大学生の灰白質容量が大きいことを示した(91〜2頁)≫。まあこの記述を読むと、北山氏が脳科学による理解を第四のステップとして現時点では加えていない理由がわかる気がする。要するに状況証拠を提示しているだけで、メカニズムの提起にはなっていないのですね。つまり脳はいかに包括的な情報処理を行なっているのかに関する説明にはまったくなっていない。だからそれでは説明不足になるので、端から加えなかったのだろうと思う。そしてこの「脳はいかに包括的な情報処理を行なっているのか」をかなりの程度説明してくれるのが、知覚や認知と行動を統合し、脳(心)と身体と環境を統合的に捉える予測処理理論なのですね。そこまで説明できれば、第4のステップとして加えられても何の不思議もないはず。
それから第4章における個人的な着目点の一つに、リサ友本の主題である情動の表現や解釈における文化差が論じられていることがあげられる(なお前述したように、この新書本では「情動」ではなく「感情」という用語が使われている)。それに関して、たとえば次のようにある。≪集団主義は、「葬儀では笑わない」「図書館では静かにしている」といった、外的行動に対する強い、つまり、厳格な規範を伴うことが知られている。つまり、外的行動を規制する規範は、集団主義文化でより厳格になる。¶しかし、同じ規範といっても、どのような感情をどのくらい感じるのが望ましいかという「感情についての規範」に関してはかなり事情が異なる。葬式では悲しむべきだし、結婚式では新郎新婦のために喜ぶべきだといった規範である。集団主義文化では外的行動の性質が集団の統制に関わるため行動規範が強くなるが、個人主義文化では、感情が個人の内的な性質を如実に示すが故にこの点に関する規範は強くなるのかもしれない(109頁)≫。ちなみにリサ友本では、東アジアの集団主義文化における情動のあり方をOURS型アウトサイド・イン情動と、また、欧米の個人主義文化における情動のあり方をMINE型インサイド・アウト情動と呼んでいる。ここでは詳述しないが、前者は文脈(文化、宗教、人間関係)を重視し、後者は個人を重視するとだけ述べておく(詳しくはリサたん本を買って読んでみてみて!)。
それから次の記述にぜひ着目されたい。≪そもそも、感情は、外的な制約なしに自発的に生じるとき、本物だと認識される。したがって、感じるべきだからといってその感情を感じることができるわけではない。事実、感じるべきだと思って感じた感情は、自分の本当の感情とは理解されないであろう。では感情の規範はどのように感情経験に影響を与えるのだろうか。¶おそらく、それぞれの社会では、さまざまな感情に対して、その感情をどの程度感じるのが適切かという基準(つまり、規範)が存在している。そして、その基準に合った感情経験を示す人々は、周囲から肯定的なフィードバックを繰り返し受け取る可能性が高い。このフィードバックを通じて、その当人の感情反応は徐々に強化されていく。この過程により、感情の表示を支えるメカニズムが自発的かつ自動的に作動するようになり、結果として、感情の規範と一致する本物の感情体験が生まれるのではないだろうか。つまり、感情についての文化的規範は、社会からのフィードバックや学習を通じて内面化され、自然な感情表現として現れるようになると考えられる(110〜1頁)≫。≪本当の感情≫という言い方はやや誤解を招くように思えるけど、それは置いておいて、ここには、「感情(情動)には、認知作用が大きく関わっている」という、最近の脳科学、認知科学の重要な考えを見て取ることができる。たとえばリサ・フェルドマン・バレットは『情動はこうしてつくられる』で、情動の形成には概念が必須だと論じている。ここではバレットの言う「概念」が何を意味するのかを説明することはしないが、そこには認知作用が関与していることに間違いはない(概念の構築に関係している脳領域からも推測できる)。ただしバレット自身は、それを「認知作用」として明言しているわけではない。でも脳神経科学者のジョセフ・ルドゥーは、情動には認知作用が関与していると明言している。そのことがもっとも明確に論じられているのは、『情動と理性のディープ・ヒストリー――意識の誕生と進化40億年史』(化学同人)の終盤だけど、わが訳書『存在の四次元』でも囲み記事として次のように論じられている。≪初期の認知科学では、認知と情動は相反するものと見なされていた――認知は意識的理性に基づく理性的なもので、情動は無意識的な{情念/パッション}に基づく非理性的なものであると考えられていた。しかし認知と情動は、もはやそれほど狭くは捉えられていない――今や認知には、直観や動機のような非理性的なプロセスも含まれている。加えて、すでに述べたように、情動でさえ、認知的な解釈であると考える、私を含めた研究者がいる(同書292〜3頁)≫。このように最新の脳科学の知見に基づいて言えば、文化は認知作用を介して情動(感情)を生み出し、それに影響を及ぼしているのですね。
ということで第3章はそのくらいにしたいところだけど、一点だけ些細な補足をしておきたい。それは≪現在、個人主義・集団主義の次元は科学的に妥当なものとされているが、その背後には三名の科学者による研究成果がある(103頁)≫として、その三名の科学者の一人に意外な学者をあげていること。その学者とはロナルド・イングルハートのことで、実はイングルハートは科学者というより政治学者なのですね(新書本にも≪政治学者のロナルド・イングルハート(105頁)≫と書かれている)。岩波新書の愛読者なら、ロナルド・イングルハートの名前を聞いたことのある人は多いのではないか。一九七〇年代に刊行した『静かなる革命』が有名になったからね。個人的には『静かなる革命』は読んだことがないが、一九八〇年代だったか九〇年代に書かれた別の二冊の著書を読んだことがある(邦訳はたぶんないと思う)。それはアメリカがいかに宗教的な国であるかを統計データを駆使して明らかにした本で、なかなか興味深い議論が展開されていたのを覚えている。二一世紀の今でこそアメリカが宗教的な国であることはほぼ誰でも知っている。でも二〇世紀中は、アメリカはコカコーラとマックとバービーちゃんのきわめて世俗的な国だと考えられていたので、非常に新鮮に感じたというわけ。
お次は「第4章 人類史から見る文化の起源――生態条件と進化」。ポピュラーサイエンス書の翻訳者である私めとしては、進化科学や遺伝学が扱われているこの章は、本書のなかでもいちばんおもろかったとまず述べておく。初めに次のようにある。≪知ること、感じること、そして行動することなどの心理プロセスからなる主体の文化的多様性をさらに深く理解するには、異なる文化圏がどのようにして形成されたかを考える必要がある。文化心理学の実証的研究の多くは、現在のところ洋の東西にほぼ限られている。しかし、文化には、洋の東西以外、つまり「レスト」とでも呼べる地域が数多くある。たとえば、ラテンアメリカや中東のアラブ圏、そしてサブサハラ・アフリカなどである。これらの文化も含めたグローバルな多様性を理解するためには、われわれがここで文化として理解する慣習と常識の複合体の起源を理解する必要がある。¶これらの文化圏の起源は、少なくとも約一万年遡る必要がある。ことによるとこの数字はさらに大きくなる可能性がある。これは、人類が進化したアフリカに関しては、特にそうであろう(127〜8頁)≫。ここで当たり前田のクラッカー的なことを一点だけ指摘しておくと、洋の東西でさえ、東も西も十把一絡げにできるものではない。たとえば極東に限っても、最近取り上げた『日本群島文明史』によれば、「大陸文明」に属する中国や韓国と、「群島文明」に属する日本では文化のあり方が大幅に異なる。なお、このちくま新書本は非常におもろいので日本人であれば誰にでも推薦できる。
岩波新書本の話を続けると、さらに「歴史」と「進化」に関して次のようにある。≪「歴史」は、過去一万年の「進化」の中で徐々に現れてきたとしてよい。事実。歴史学者は、この経時的な集団の営みをせいぜい数百年、より典型的には数十年の単位で記述することを常とする。(…)しかし、われわれがこの「歴史」という局所的な時間に注目するあまり、「進化」という大きな時間のうねりを無視してしまうとしたら、これは大きな問題だ。¶進化というと、ダーウィン流の生物学的な{淘汰/とうた}のプロセスが思い浮かぶだろう。しかし、ここでいう進化とは、過去約一万年、時には数万年の間に生じた文化という慣習と常識の複合体が次第に複雑になり、地域ごと、そして集団ごとに分化していったプロセスのことを指す(128〜9頁)≫。つまりこの章では、文化的進化(ならびに遺伝子と文化の共進化)が取り上げられている。そのことは次の記述からもわかる。≪洋の東西の区別、そしてさらには洋の東西以外の文化圏を理解するためには、少なくとも一万年のタイムスパンで生業と文化の関係を見ていくことが必要になる。この分野のさらなる進歩のためには、生態条件と地理条件、そしてそれらが遺伝的変化を伴って、それぞれの地域の慣習と常識の複合体、つまり文化の発展にどのように寄与したかを考える必要がある(130〜1頁)≫。
遺伝子と文化の共進化については、「3 遺伝子との共進化」という節にかなり詳しく書かれている。この節の前書きに次のようにある。≪文化進化を理解するためには地理・生態条件が重要であることを先に述べた。とはいえ、遺伝のプロセスの役割も過小視してはならない。遺伝のプロセスというと、あたかも、遺伝子がそれのみで文化を決定するという、遺伝決定論のことを言っていると思われるかもしれない。しかし、それは誤りである。ここではむしろ、そのような決定論的見解の問題点を明らかにした上で、それでも文化進化に果たす遺伝子の役割は重要であることを見ていきたい。¶どんな遺伝子でもそれがどんな影響をもつかを理解するためには、それが発現する環境の性質を理解する必要がある。そして人の場合、この環境とは、文化という慣習と常識からなる複合的生態環境にほかならないのである。言い換えれば、人の考え方、感じ方、振る舞い方などの心理的プロセスは、文化という行動環境に適応する結果生じるが、遺伝子の効果はこの行動環境という文脈で理解される必要がある。それというのも、後から詳しく見るように、遺伝子と文化は互いに影響を及ぼしあい、その関係は「共進化」と呼ぶことができるのである(140頁)≫。
さらにこの共進化の様式に遺伝的媒介と遺伝的増幅があり、そのそれぞれについて説明されているけど、ここでは、それに関連する遺伝子DRD4に関する記述が興味深かったのでそれについてのみ取り上げておく。次のようにある。≪まずこの遺伝子には非常に特異な多型領域がある。そこには、四八のDNAの連鎖が繰り返されているのである。この繰り返しは二回から一一回までに及んでいる。この内、比較的一般的な繰り返しが、四回、二回、七回である。さらに、ドーパミンの信号効率を調べると、この順で高くなっていく。しかも、これに対応して、外界からの報酬に対する脳反応もこの順で高くなる。例えば、私は、ノースウエスタン大学の脳神経学者、ジェームズ・グレーザーらと共同で脳波を用い参加者の報酬への反応を検討した。この実験では、七回、および二回の反復多型の保持者は、四回反復多型の保持者と比べ、報酬に対する感情的反応と認知的反応の両者をより強く示していた(149〜50頁)≫。ここで「多型(ポリモルフィズム)」とは何かがよくわからない人は、このウィキの記事を参照してくださいませませ。続けて次のようにある。≪さらに、この点が特に重要なのであるが、人にとっては、四回の繰り返し多型が一番古くからあり、七回と二回の繰り返し多型は二万年前から五万年前の間に人の遺伝子プールに組み込まれていったと考えられる。これは重要だ。なぜなら、これは、DRD4の七回および二回の繰り返し多型は、人が文化を獲得する過程で次第に適応価を増していったことを示しているからである。¶つまり、文化が複雑化すると、強化の随伴性を見出す脳機能は向上する必要があり、それを可能にするDRD4の七回および二回の繰り返し多型などの比率は高まる。同時に、この脳機能が向上すると、文化はますます複雑化することが可能になる。¶この両者は共に進化してきたと考えられる。この現象を「共進化」と呼ぶ(150〜1頁)≫。これは遺伝子と文化の共進化の一例であるが、要するにこのような形態で遺伝子と文化が相互作用を繰り返すことで、≪生態条件と地理条件、そしてそれらが遺伝的変化を伴って、それぞれの地域の慣習と常識の複合体、つまり文化の発展≫が促進されてきたのですね。すでに述べたように、これは通時的な観点から見た、文化的な多様性がいかに生じるかの説明だと言えようが、行動を介して脳(心)と身体と環境がいかに統合されているのかを説明する、前述の予測処理理論は、任意の一時点を捉えたとき、遺伝子と文化の共進化を通じて得られた文化の多様性が、いかなる脳のメカニズムを介して保持されているかを裏づける脳科学的根拠を提供してくれると言えるのかもしれない。
ということで「第5章 多様性と普遍性を探る旅」に参りましょう。とはいえこの章では、欧米、サブサハラ・アフリカ、中東・北アフリカ、ラテンアメリカ、南アジア、東アジアの文化それぞれの特徴が個別に論じられており、「作業仮説」以外には特筆するに値する記述は特になかった。「作業仮説」とは次のとおり。≪本章の目的は地球上の諸文化圏の多様性を明らかにすることであるが、そのために、まず二つの作業仮説から始めよう。¶第一に、ヨーロッパ系アメリカ人の心理的プロフィールに反映される自己の独立性に基づく文化的特徴は、一〇〇〇年の文化的進化の成果であると考えよう。この期間にユーラシア大陸西部に確立された文化と社会制度は「近代西洋」と呼ばれる。この文化は、その後、過去数百年の間に他の地域、特に北米、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカに広がった。¶第二に、近代西洋に先立つこと数千年の間にユーラシア大陸の各地に{芽生/めば}えたさまざまな文化は、一様に協調的ではあったが、その協調性の様相は、それぞれの生態的行動環境を反映して大きく異なったと考えられる。たとえば、東アジアでは、高温多湿の気候が一般的で、この生態系に支えられた生活形態として稲作が富と権力の源泉となり、その結果、ある一定の協調の形態が文化の主流を形づくる結果になった。しかし、稲作に根ざした協調の原則は、他の地域で見られる協調の原理にはなり得ない。したがって、社会・生態・地理・歴史・人口構成といったさまざまな条件に応じて、非西洋の文化の数々は、協調という一般原則に{則/のっと}っているという点では一致しているにもかかわらず、その様相に関しては非常に多岐にわたると考えることができよう(166〜7頁)≫。なお本章の内容は、191頁の「表5−1 異なる文化圏の心理的中心傾向」と題する表にごく簡単にまとめられているので本を持っている人はそれを参照されたい。
それから第5章にあるキリスト教徒と現代の欧米文化の関係をめぐる記述に関して一つだけ些細な補足をしておきたい。それに関して、まず次のような、人口に膾炙した定番の見解が述べられている。≪二〇世紀初頭ドイツで活躍した社会学者マックス・ウェーバーが論じたように、プロテスタント派のキリスト教の教義は、個人の自主性と自由を重んじるイデオロギーの形成に関わり、このイデオロギーこそが、個人の利潤を追求し、その利潤を元にしてますます富を拡大するという近代資本主義の論理の礎になった。こうして個人は基本的に周りから独立した実体だとする考えは、西洋社会の富と権力と結びついていた(172〜3頁)≫。まあ岩波新書の愛読者でこの見解を知らない人はいないでしょうね。しかし北山氏は、第5章の後半で次のようにも述べてもいる。≪個人主義の変遷には、キリスト教が重要な役割を果たした可能性が高い。ジョージ・メイソン大学のジョナサン・シュルツらは、西方キリスト教会が封建的な親族制度を弱体化させるために、いとこ[同士]の結婚を禁止するなどの措置を取ったと指摘している。このような規制は、政治的・経済的権力を強化する意図ともに、個人と家族の絆を切り離す思想的背景をもっていた。こうした取り組みが、西洋における個人主義の土壌を整える一助となった(198頁)≫。ここで言う≪西方キリスト教会≫とはカトリック教会を意味する。実はカトリックがこの引用で述べられているような施策を実施したことで、のちの欧米(WEIRD)文化の基礎が築かれたという説は、ジョセフ・ヘンリックの500頁近くある大著『The WEIRDest People in the World』でも論じられている。ちなみに私めがこのレビューを書いたときには邦訳はまだ出ていなかったけど、現在では白揚社さんから『WEIRD「現代人」の奇妙な心理』として二巻本で邦訳が出ている。この本のなかに次のような記述がある。≪[カトリックは]他宗教のみならず、親族関係に基づく集約的な制度や部族的な忠誠心とも競い合った。カトリックの婚姻や家族に関する施策は、集約的な親族関係の基盤を掘り崩すことで氏族や家が課す責任や義務や恩恵から徐々に個人を解放し、カトリック教会や、のちには他の自発的な組織に献身するための機会とインセンティブの両方を作り出した(同書161頁)≫。なお頁は原書の頁であり、訳は拙訳による。実はなぜこの件を取り上げたかと言うと、『WEIRD「現代人」の奇妙な心理』を推薦したかったからでもある(これで白揚社さんからあとで何かいいことがあるかも…)。非常におもろい本だったので、500頁近くもあるのに私めは原書を三度も読んでしまったくらいだからね。
岩波新書本に戻ると、あとは「終章 文化心理学という知の冒険」が残っているけど、この章に関しては次の結論的な記述のみを引用しておく。≪文化に本質があるとすれば、それは文化が本質を持たないという事実にある。この洞察は本書の中心的テーマを象徴しており、文化が固定的な特質や単純な枠組みでは語れないダイナミックな現象であることを示している。文化は、絶えず変化し、環境に適応し、時には異なる文化との交流を通じて新たな形を生み出す柔軟性をもつ。だからこそ、文化の豊かさや多様性を理解することは、人間社会の本質を深く知ることにつながる。人や社会の多様性は、文化という複雑系の理解なしには、理解不可能である。それ抜きに、多様性を論じると、それは百害あって一利なしというステレオタイプ化に帰してしまう(213〜4頁)≫。この結論には100パーセント同意する。そして最後の一文は、私めなら「それ抜きに、多様性や移民問題を論じると、それは百害あって一利なしというステレオタイプ化に帰してしまう」と言い換えるだろうね。まさにそのことがよくわかる(たとえば、ホームタウン計画なるものの能天気さがはっきりとわかる)のが本書で、その意味でも絶対的にお勧めできる。
※2025年9月3日