◎毛内拡著『心は存在しない』(SB新書)
SB新書という新書本は生まれて初めて買った。SB食品が新書を出しているのかと一瞬思ったけど、もちろんそれは違った。商売にしたくて英語の脳関係書や認知科学関係書を始終読んでいる私めには、入門書だけに特に目新しい記述はなかった。それでも取り上げた理由は、この新書本で取り上げられているリサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』を始めとして、来年3月にみすず書房から刊行される予定で、すでに校正作業がほぼ終了しあとは訳者あとがきを書くだけの状況にあるジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence: A New Theory of Being Human』、あるいは現在鋭意翻訳中のアンディ・クラークの最新刊『The Experience Machine: How Our Minds Predict And Shape Reality』にも関係する部分が多く、ちょいとそれらの本のアカラサマ、もといステマをしようと考えたからでもある。またドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』、バチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』などにも関係する部分がある。え? 「勝手に他人の本をダシにして自訳書のアカラサマ、もといステマなんかするんじゃねえ」ってか? おじぇじぇ病にかかっている私めのことなので、そう言わずにどうか許して下さいませませ。ちなみにアンディ・クラークは基本的にAI学者だけど、現在鋭意翻訳中の最新刊と前著の『Surfing Uncertainty: Prediction, Action, and the Enbodied Mind』は予測する脳を扱った本なのですね。ただしオックスフォード大学出版局から刊行されていた前著がかなり難解だったのに比べ、Pantheon Booksから刊行されている最新刊は明らかに一般読者向けに書かれているという違いがある。
それからついでなので述べておくと、ルドゥーの最新刊の邦題(メインタイトル)は『存在の四次元』になるとのこと。率直に言って「「四次元」はオカルト的に響くからやめたほうがいいのでは?」という主旨のことを編集者には言ったんだけど、結局社内会議でそれに決まってしまったらしい。現在はよくわからんが、1960年代や70年代には「四次元の世界」を扱った本やテレビ番組がけっこうあったのですね。「一瞬目を伏せたあとで目を上げたら、むこうから歩いてきた人がどこへともなく消えていた」などといったたぐいの報告がてんこ盛りだった。そもそも報告者が嘘をついていないかどうかどうやって確認したのか不明だし、仮に意図的な嘘ではなかったとしても、妄想や幻覚を経験しているサイコシス患者だったのかもしれない。それでも、子どもの頃も今と変わらずヘタレだった私めは、そんないかにも怪しげな話を聞いてブルブル震えていたのですね(これはさすがに大げさか)。もちろん、さすがに今ではそんなおとぎ話は信じていないとしても。てか、ヒモ理論の主張では世界は一〇次元くらいで構成されているんだって? かつてのオカルトより現代の科学のほうがぶっ飛んでいるという。なお考え違いをしていると思しきコメントを、アマコメなどでときどき見かけることがあるのでつけ加えておくと、翻訳者にはタイトルを決める最終決定権がないのですね。
ということで、のっけからアカラサマ、もといステマに走ってもたので、新書本の話に戻ることにしましょう。まず「心は存在しない」というタイトルは思い切り逆張りを狙っているように思えるよね。そもそも「心」が何を意味しているのかが明確になっていないうちに、そう言われてしまうと、それを見た人の脳内で予測エラー(誤差)が発生して注意がそのタイトルへと引きつけられてしまう。すると読者は、他に山のように積み上がっている(わけないか)脳科学本のなかからその本を選んでしまうという高等戦術が炸裂しているというわけ。ただこの本は新書本だから新書コーナーに置かれるのが普通だから、他の新書本と比べてどうかということにはなる。「心は存在しない」という大胆な主張に関しては、「序章 実は心なんて存在しない?」の最初のシャドーがかかった要約部分に次のようにある。「心のはたらきは、心という実体によるものではなく、脳という臓器のはたらきの産物であるということができます。そういう意味では、「心などというものは{端/はな}から存在しない」と言い切ってしまってもいいかもしれません(18頁)」。でもそんなことを言い出せば、「心」という言葉を「意識」「理性」「認知」「知覚」「感情」「情動」さらには「運動」などと置き換えてもまったく同じことが言えるように思われる。ならばなぜ「心」だけを問題にするのか? 要は明らかにこの説明では不十分なのですね(冒頭だからあたり前田のクラッカーだけど)。それとも「心」には、これらすべてが含まれるのか? いずれにしてもそれらすべてが、脳という「臓器」のはたらきがなければ存在し得ないことに間違いはない。そもそもたとえば「「脳はなぜ心を作り出す必要があったのか」という問いにあえて答えるとすれば、「ストレスに迅速に対処するため」と言っても過言ではないのです(178頁)」とあるように、著者自身が心の存在を前提にしていると思しき議論が本書にはあまたある。当たり前と言えば当たり前だけど、脳の働きによって生じるのだから心なんてものは存在しないなどと言い出せば、基本的に脳の働きが関与する心理学、認知科学、情動科学、精神医学などの学問分野のすべてを、単なる幻想だとして頭から否定しなければならなくなる。学者でもある著者がそんなことを言い出すはずはないのですね。ではいったいどういう意味で著者は「心は存在しない」と主張しているのか? その答えは最終章の冒頭でおおよその検討がつくので、その部分を取り上げるまでその問いに対する答えはペンディングにしておく。ということでそこに到達するまでは、まことに勝手ながらわが訳書との関連性が強い部分だけを取り上げることにする。また、翻訳者向けと思しき提言があったので、それに対してはポピュラーサイエンス本の翻訳者として、自分自身の体験を含め、やや詳しく回答しておく。
わが訳書との関連性が強い最初の記述は、「第1章 心の定義は歴史上どう移り変わってきたのか」の「本質主義のトラップ」という節に見出せる。冒頭に次のようにある。「世の中の切り口の一つとして、「本質主義」と「構成主義」という相対する考え方があります。これも往々にしてありがちですが、結局白黒の二項対立になっていることに注意が必要です。¶本質主義とは、物事にはちゃんと「唯一絶対普遍の指標」があるという考え方です。一方の構成主義は、環境や状況に応じて絶えず変化し続けるという考え方です(55頁)」。「生まれか育ちか」という議論は、まさに本質主義か構成主義かの争いと言えるかも。もちろん現在では、そのどちらか一方が正しいと排他的に考えている科学者がまずいないことは確かだけどね。ちなみにわが訳書、リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』は副題にあるように構成主義的立場を取ってはいるものの、遺伝的に受け渡される先天的な形質がまったく存在しないなどとは主張していない。新書本の著者は続けて次のように述べている。「このような考え方は脳科学にも応用されており、その代表的な考え方が、アメリカの神経科学者ジョセフ・ルドゥーらによって提唱された、「脳の中には恐怖を司る『恐怖回路』があり、そしてその本質は『扁桃体』と呼ばれる部位にある」といった言説です(55頁)」。二点指摘しておくと、この文章を先頭から読んでいくと「このような考え方」「その代表的な考え方」の「このような」と「その」が何を指しているかがよくわからない。「本質主義」を指しているのか、それとも「構成主義」を指しているのか、はたまた両方なのか? しかし後半の文章を読むと、それが「本質主義」のことであろうとわかる。だから最初の「このような考え方」は「本質主義の考え方」と明示すべきだったと思う。重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、とりわけ新書本のような一般読者向けの本を書くときには、そういう細かな配慮が必要になるんだべさ。まあ編集者も翻訳者には強気に出ても、権威ある大学の先生さまにはからきし弱い人もいるようなので、著者自身が配慮するようにしたほうがいいかもね。
それからもう一点は、「このような本質主義の立場をルドゥーさんはとうの昔に捨てたはずなんだが」と一瞬思ったこと。最近のルドゥー氏は、オッサンキラーのリサたんの影響を受けてか構成主義的な立場を取っているはずなのですね。ただこの疑問は、『情動と理性のディープ・ヒストリー』に書かれているルドゥー氏本人の懺悔が次の頁に引用されていたので納得した。ちなみに最近のルドゥー氏は、情動の基盤には認知機能が存在していると考えている。そのことはこの『情動と理性のディープ・ヒストリー』の終盤に明示的に書かれていたことを覚えている。またルドゥーの最新刊『存在の四次元』では、認知と意識の関係の問題が最大の焦点になっているため情動に関する記述は少ないものの、情動に関して次のような記述が見られるのでここにやや長めに引用しておきましょう。「私にとっては、あらゆる情動が心的シミュレーション――つまりメンタルモデルに基づく心理的な発明(物語)――である。身体からのフィードバックは、低次の混合要素の一部であるとしても、必須のものではない。私は、先天的な基本情動と、文化的に獲得された二次情動を区別する見方には与しない。私と同様、リサ・[フェルドマン]・バレット、クリステン・リンドクイスト、ジェラルド・クロア、アンドリュー・オートニーらの認知科学者も、この区別を否定している。¶初期の認知科学では、認知と情動は相反するものと見なされていた――認知は意識的理性に基づく理性的なもので、情動は無意識的な{情念/パッション}に基づく非理性的なものであると考えられていた。しかし認知と情動は、もはやそれほど狭くは捉えられていない――今や認知には、直観や動機のような非理性的なプロセスも含まれている。加えて、すでに述べたように、情動でさえ、認知的な解釈であると考える、私を含めた研究者がいる。それに対して理性派は、「怖れが理性的で認知的な解釈に依拠するのであれば、私たちはなぜ、客観的な理由がないとわかっているのに怖れを感じることがあるのか?」と反論するかもしれない。しかし前述のとおり、メンタルモデルは動的であり、人は互いに相反する思考や信念を無意識的に抱き、意識のなかでは、刻一刻とそれらのあいだを行ったり来たりすることがある。愛は嫉妬に、嫉妬は怒りに、怒りは怖れに一瞬にして切り替わることがあるのだ(同書邦訳294〜5頁)」。次に本質主義的な情動理論として取り上げられているのが、アメリカの心理学者ポール・エクマンが提起した超超有名な「基本情動理論」。そしてそれに対する反論として2頁にわたって引用されているのが、何を隠そうわが訳書、リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』なのですね。またエクマン批判は、他のわが訳書ではバチャ・メスキータ(リサたんのお友だちなのでリサ友さんと私めは呼んでいる)著『文化はいかに情動をつくるのか』にもある。
「第2章 心はどうやって生まれるか」に入ると、前述のルドゥーの最新刊の引用にあった情動を認知的解釈と捉えるルドゥー氏やリサたんの考えに整合する見解が次のように述べられている。「人間が抱く喜怒哀楽のような情動体験には、認知の関与を無視することはできず、認知と身体喚起の相互作用が重要なはたらきをしています。情動体験には、喚起された身体状態の意識的解釈が不可欠です。簡単に言えば、感情とは単なる身体反応ではなく、その反応をどのように「解釈」するかが重要になってくるのです(82〜3頁)」。ちなみにリサたん自身は、「認知」という用語は特に使っていなかったように覚えているけど(それに対してルドゥーは、前述したように前著と最新刊の両方で情動の基盤には認知作用が存在すると明言している)、それにもかかわらず、情動の基盤の一つに認知作用があると彼女が考えていると私めが見なしている根拠の一つに「概念」という用語を彼女が頻繁に用いていることがある。その「概念」という概念について、新書本に次のようにある。「感情は、外界の刺激をどのように認知し、解釈するかによって形成されます。それは静止画的なものではなく、常に私たちの認知プロセス、身体的状態、そして外的環境との相互作用の中でダイナミックに変化しています。¶実は、この認知のプロセスは、私たちが個々の事例から概念を作り上げる方法と密接に関連しているのです(84〜5頁)」。「個々の事例」は、リサたんの用語では「インスタンス」になる。
それから次の指摘は非常に重要なのでここに引用しておきましょう。「私たちは外界からの刺激を実測し、「これは何だろう?」と自問します。そして過去の経験や記憶をもとに「これはカナシミだ」と結論付けることもあれば「これはヨロコビだ」と考えることもあります。「カナシミだとしたら、どう表出すればいいのだろう?」と参照することで、その時々に応じた適切な情動表現を模索します。¶したがって、悲しいから泣くこともあれば、悲しいけど泣かないということが生じるのです。一人ひとりが異なる経験と記憶を持っているため、同じ現象を体験しても、人によってはまったく違う反応を示すことがありますし、同じ人でも状況に応じて異なる反応をすることがあります。¶このように、私たちの心=感情は、一定不変の本質を持っているわけではなく、都度ダイナミックに形成されるものです。¶そう考えると、私たちが表面上の感情表現だけを根拠に、互いに理解し合うことは困難であることがわかります(85〜6頁)」。移民問題の根底には、左派大手メディアが声高に叫ぶ右傾化などといったイデオロギーの問題ではなく、この心=感情の持つ本性に関する問題があるのですね。それについては『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきに書いたのでここでは繰り返さない。そちらを参照してね。
次に著者は記憶の働きについて次のように述べている。「認知や感情を引き起こす記憶は、個々の事象から抽出して一般化されたもので、必ずしも言語化できないものです。¶たとえば、「イヌ」と言った時に頭で思い浮かべる理想のイヌ像や、「カナシミ」という体験を一般化した概念の類いは、必ずしも言語で表現できないものです。それでも、このような記憶は、実測値と照合して適切な反応を生成するために不可欠なものです。¶これは経験から構築した「この世の中はこうなってるんだよ」という脳内モデルそのものであり、私たちは、これに基づいて世界をシミュレートし再生成しています。(…)そこで私はこれを、「知恵ブクロ記憶」と呼ぶことを提案しています(…)。この記憶は、私たちが何気ない日常の中で直面するさまざまな状況に対して、どのように反応すべきかのヒントを提供してくれます(88〜90頁)」。実はルドゥーは最新刊『存在の四次元』で、認知や意識における記憶の重要性を次のように述べている。少し長めに引用しておく。「意味は記憶からやって来る。私たちは、生まれたときから文字や数字を知っているわけではない(…)。私たちは、それらの日常の事物が何であるかを学ばねばならない。そしてひとたび学んでしまえば、その後は形成した記憶を用いて、個々の物体を特定のカテゴリーのメンバーとして、また他のカテゴリーのメンバーではないものとして認識するようになる。¶知覚に対する記憶の重要性は、一九世紀の生理学者で物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツがはっきりと示した。ヘルムホルツは、記憶として蓄えられた過去の経験によって、たった今眼前に存在するものに関する「無意識的な結論」を引き出すことが可能になると主張した。その際彼は、錯視や幻肢などのさまざまな事例を用いて、のちに「無意識的推論」と呼ばれるようになる概念、言い換えると意識的な知覚を形作る期待という概念を支持した。¶バートレットのスキーマの概念(第W部参照)は、ヘルムホルツ流の無意識的な推論を可能にする記憶として考えることができる。たとえばサクランボと赤いビー玉は、類似の視覚的な特徴を帯びているが(どちらも赤みを帯び丸く、サイズが似通っている)、私たちは経験から両者が別ものであることを知っている(…)。スーパーマーケットで奥の果物売場に置かれている赤みを帯びた丸く小さな物体の束を見かけたら、その状況によって活性化されたスキーマによって、あなたはそれがビー玉ではなくサクランボだと推測するだろう。同様に、教室で黄色い液体が入ったコップを持つ子どもを見た人は、その中身がリンゴジュースのような飲み物であろうと想定するのに対し、バーで黄色い液体の入ったグラスを持つおとなを見た人は、その中身がビールであろうと想定するはずだ。¶このような考えに沿って、カール・フリストン、アニル・セス、クリス・フリス、リサ・フェルドマン・バレットらは、知覚が、過去に経験して記憶に蓄えられた情報に基づく、たった今眼前にあるものに関する期待や予測であると主張する。この考えは、免疫学者から神経科学者に転向したノーベル賞受賞者ジェラルド・エーデルマンも共有しており、彼は意識を「想起された現在」と呼んだ。記憶研究の第一人者リチャード・トンプソンは、「記憶なくして心は存在しえない」と、素っ気なく述べている。(…)このように、これまで長く無視されてきた、意識における記憶の役割に対する関心が、今や高まりつつある(同書訳書253〜4頁)」。このような記憶を、新書本の著者は「知恵ブクロ記憶」と呼んでいるものと思われる。ちなみに『存在の四次元』の重要な主張の一つに、「認知は無意識的にも働きうる」というものがある。つまりルドゥーの考えでも認知は必ずしも言語化される必要はないのですね。
それから新書本の著者は、次のように述べている。「テレビアニメ『攻殻機動隊』シリーズ(2002年)には、刑事の勘や女の勘のような意味で「ささやくのよ、私のゴーストが」というセリフがあります。機械の身体(義体)に身を包んだ主人公が唯一持っている生身の脳が持つ「人間らしさ」の象徴として登場します。¶これは、一般的には「魂」や「無意識の自我」として解釈されていますが、私の考えでは、この「知恵ブクロ記憶」こそが、その正体なのではないかと思うのです。¶このような記憶は、常に意識的にアクセスできるわけではなく、しばしば無意識のうちに私たちの行動や感情を形成していますが、間違いなく自分の経験と記憶に基づいて形成された自分自身そのものです(90頁)」。アニメは一切見ないので、『攻殻機動隊』なるテレビアニメもまったく知らん。それは置いておいて、私めなら、あるいはルドゥー氏やわが訳書『人は簡単には騙されない』の著者で認知科学者のヒューゴ・メルシエ氏、あるいはメルシエ氏のこの本の原点をなす『The Enigma of Reason』をメルシエ氏と共同で執筆したダン・スペルベル氏なら、そのような能力を「直観」と呼ぶでしょうね。ここでは詳しく述べないけど、ルドゥーは認知的ながら意識的ではないものとして直観を捉えている。またそれどころか、メルシエ&スペルベルに至っては『The Enigma of Reason』で、「思考に関する最近の考えの多く(たとえばダニエル・カーネマンのよく知られた『ファスト&スロー――あなたの意思はどのように決まるか?』)は直観と合理的思考が、あたかも互いにまったく異なる形態の推論であるかのごとく対立するものとして論じられている。われわれは、それとは異なり、合理的思考はそれ自体、一種の直観的な推論であると主張したい(同書7頁)」とさえ述べている。三人の考えを合わせれば、無意識的に作用する直観は合理的思考の一部を形成するという大胆な結論が得られる。実のところ現代人、それどころか啓蒙主義以後の近現代人は大きな間違いを犯していると個人的には思っていて、頭でこねまわして考えることが理性の働きなのではなく、事実と論理に基づき、かつ直観の裏づけをともなう思考こそが理性的思考なのですね。集合知の概念もそれにかなり近いと言えるかも。集合知に関しては西垣通氏の『集合知とは何か』を是非参照されたい(なおそこでかなり詳細に書いたけど、同書にあるキャサリン・ヘイルズの主著『How We Became Post Human』の批判だけはまったくの的はずれなので注意されたい)。むしろ頭で表面的にこねまわしたイデオロギーは、直観的裏づけがないだけにきわめて非合理的、非理性的なものになる。
それから同じく第2章で論じられている脳が備える三つのフィルターの概念はきわめて重要。そのうちの特に第二のフィルターが『存在の四次元』を含めたいくつかのわが訳書に関連するので取り上げておきましょう。次のようにある。「情報が脳に届いた後、私たちはそれに対してどう感じるかを「知恵ブクロ記憶」に問い合わせるプロセスがあります。これは「トップダウン」のプロセスです。私たちは、両者を照合することで、外界を認識し、その解釈によって感情を生成します。知恵ブクロ記憶がなす脳内モデルに基づいて世界をシミュレーションする過程を、第二のフィルターと呼びましょう。¶これは、経験と記憶によって形成されるもので、世界を予測するはたらきがあります。たとえば、カレーは美味しいものですが、もしこれがオムツに塗りたくってあったら、もはや食べ物として認識されないはずです。それどころか、あるはずのない匂いもしてきて、その結果、吐き気なども催してきます。¶これが、認知が実測値までに影響を及ぼす好例です。ある種の催眠術などもこの予測を書き換えることで、ボトムアップのプロセスに介入しているのかもしれません。¶有名なプラセボ効果、つまり、ただのビタミン剤なのに、「これは病気によく効く薬です」と権威のある医者が処方するとたちまち病気が治ってしまったりする不思議な現象も、この予測に[が?]作用している可能性があります(96頁)」。ルドゥーはこの第二のフィルターを「メンタルモデル」と呼び、そこでは認知とワーキングメモリーが重要な役割を果たしていると述べている。ちなみにルドゥーの言う「ワーキングメモリー」とは七つ程度のアイテムしか保持できない一般的なワーキングメモリーの概念ではなく、アラン・バドリーやアール・ミラーらの知見を取り入れた、より複雑な定義を採用している。『存在の四次元』には次のようにある。「ワーキングメモリー(WM)は、高次の認知作用の重要な側面の一つである。(…)それは情報の短期的な保管とトップダウン制御に必要な心のスケッチパッドの役割を果たす。WMの本質的な特徴は柔軟性である。それによって、感覚入力、意思決定、記憶などに関するさまざまな情報の、必要に応じた選択、維持、操作、読み取りが可能になるのだ(同書邦訳165頁)」。
それからこのようなフィルターを進化生物学の観点から捉えたのが、わが訳書、ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』だと言える。ホフマンは、進化的な適応度というフィルターを通して、われわれは世界を知覚していると主張している。どうですか? おもしろそうでしょ? ぜひ{買って/傍点}読んでみてみて! また引用の後半部にある「予測」は、『情動はこうしてつくられる』でも「情動はこうしてつくられる」ことを脳科学的に説明するために導入されている。しかしこの本は「予測」をテーマとした本ではなく、いかに情動が生成されるのかを説明する根拠としてこの概念が導入されているにすぎない。その意味では現在翻訳中のアンディ・クラークの『The Experience Machine』と彼の前著の『Surfing Uncertainty』は、「予測」そのものに焦点が絞られている。ただし冒頭でも述べたように前著はかなり難解で現在のところ邦訳も出ていないので、『The Experience Machine』の邦訳が刊行された暁にはぜひ{買って/傍点}読んでみてみて! アカラサマ、もといステマ(え? ステマ、もといアカラサマと言えってか?)はこのくらいにして新書本に戻りましょう。
それから「第4章 心は感情なのか」に翻訳者として気になる文章があったのでそれについて少し詳しく述べておきたい。次のようにある。「本書を手に取っていただいたみなさんには、今日から「エモーション」を単に「感情」と訳すのはやめていただきたいのです。これは脳科学者からのお願いです。もしこの中に翻訳者さまがおられましたら、最大の注意をお願いしたいと思います(136〜7頁)」。一応私めはその翻訳者さまに該当するのでそれに次のように回答しておく。これは学者先生さまの立場だからお気楽に言えることなのであって、翻訳者の立場からすれば、ことはそう単純ではないのですね。まず個人的な方針を述べておくと、「emotion」とある箇所は、ほとんどすべて「情動」と訳しているはず。ただし会話文中だけは「感情」とした部分があるかもしれない。たとえば「Don’t be emotional」と原書の会話文中にあった場合、それを「情動的になるな!」などとは訳せない。なぜならそんな言い方は普通しないからであって、「感情的になるな!」と言うに決まっている。もちろん地の文はすべて「情動」と訳しているわけだが、私めが訳しているような本は「情動」と訳してもむずかしく感じないような読者しか買わないという想定があるからこそそう訳せるのですね。ところが読みやすさが最優先される自己啓発本などでは、おそらく「emotion」を「情動」と訳すとそもそも編集者さまに「ごらあああ! こんなむずかしい言葉を使うんじゃねえ!」と叱られて直されるのがオチだと思う。とにかく「読みやすい文章を書け!」というのが最近の翻訳業界のモットーなので、その手の本ではおいそれと「情動」とは訳せないだろうことが十分に推測される(「推測される」とは私めにはその手の本を訳したことも、訳すつもりもないから)。だから最低でも、翻訳者だけでなく編集者さまにも意見しておくんなまし・・・。新書や選書を読んでいると、編集者さまたちは権威ある大学の先生さまたちにはとってもとっても弱いのねと思うことがよくある。
そもそも日本語の「情動」と「感情」も、英語の「emotion」と「feeling」も書く人によって微妙に(場合によっては大幅に)定義が異なるから翻訳者にとっては始末が悪い。わが訳書の『情動はこうしてつくられる』にしても、「emotion」はすべて「情動」と訳しているにもかかわらず、「私には「情動」と「感情」は逆にしたほうがわかりやすい」という主旨の専門家のツイを見かけたことがある。その感想はわからないでもない。だって学者先生さまのあいだでも「情動」と「感情」の定義が一定していないんだから。翻訳者に文句を言うのもいいけどそっちも何とかしましょうね。あああ! 翻訳者とは何と因果な商売か! とはいえどうやら新書本の著者は、ダマシオの訳書『自己が心にやってくる』を読んで、「ひとえにエモーションを「感情」としか捉えていない(137頁)」としてダメ出ししているらしく、確かにダマシオの本で、「emotion」と「feeling」の両方を同じく「感情」と訳していたとしたら、非常にマズいことは確か。ただダマシオ本は私めも訳したことがあるけど(『進化の意外な順序』)、彼がポルトガル出身だからかメチャクチャ読みにくい英語だったことはよく覚えている。『自己が心にやってくる』は山形浩生氏の訳で、山形氏は単なる英語から日本語に変換するだけのタイプの翻訳者ではないはずだが、「emotion」と「feeling」をどちらも「感情」と訳すようなことをしたのだろうか? 原書は読んだことがあるけど、邦訳は読んだことがないのでそのあたりの事情はよくわからん。
なおリサたんが「emotion」と「feeling」を一般的な意味で使っていないことはリサたん本人に確認している。新書本の著者の定義では、「情動は、あくまでも生理的な反応やその表出であり、それを言語化し、社会的・文化的な文脈の中で解釈したものが「感情」に「なる」のです(138頁)」とあるけど、この定義とは相当に異なっていた(リサたん本における「情動」と「感情」の区別は訳者あとがきで簡単に説明しておいたのでそちらも参照されたい)。とはいえ、ここでは誰が正しく誰が間違っているかを、専門家ですらない私めが、いわゆる一つの上から目線で裁断したいわけではなく、それほど「情動」と「感情」、そして「emotion」と「feeling」の定義は人によって異なるということが言いたいわけ。だから「emotion」を「感情」と訳したからと言って、先の政治的?事情は置いたとしても、まったくの間違いと決めつけないほうがいいのでは?とも思ってしまう(前述したように、リサたん本の「情動(emotion)」と「感情(feeling)」はすべて逆にしたほうが自分にはわかりやすいとツイしていた専門家もいたわけだし)。それより用語の定義を明確化するほうが先でしょうね。ただダマシオのような神経科学の専門家が書いた本の「emotion」と「feeling」を十羽ひとからげにして「感情」と訳すのはさすがにマズいとしても。
ちなみに著者は、「アフェクツ(ト)」に関して、ダマシオの著作で「アフェクツ」が「感情」と訳されているため、再翻訳する必要がある(監訳はお任せください)と書いている。ダマシオの場合はそうだったとして、リサたんの場合は「アフェクト」を感情とほぼ同義と見なしているので必ずしも「感情」と訳しても間違いにはならない(「本書における「気分[アフェクト]」は、人が日常生活で経験している一般的な{感情/フィーリング}のことを表わす(同書126頁)とあるし、アフェクトに関して本人にメールで尋ねてもいる)。それでも「feeling」と「affect」という別の用語が使われているのだから分ける必要があると思って、専門家のあいだでは「アフェクト」という語が通用しているはずなので当初は「アフェクト」と訳していたのですね。ところが編集者さまに、「ごらああああ! アフェクトなどという一般読者にはわからないような言葉を使うんじゃねえ!」と怒られて、仕方なしに文脈を判断して「気分」と訳すことにし、そのうえで訳者あとがきに「この訳語に問題を感じる読者は、本書で出現する「気分」は「アフェクト」と読み替えていただきたい(522頁)」と言い訳タラタラな注釈を入れたというわけ。でも、そのことからもわかるように、「affect」を「気分」と訳したことは、もしかしてヤラカシだったのではないかとずっと気になっていた。ところがリサたんの新刊(『バレット博士の脳科学教室7 1/2章』の原書)が出たとき、そこに「「affect」は「mood」のことである」という主旨の文章を見つけて安堵したというわけ。どうです、かくのごとく翻訳者もけっこう苦労しているのでござんすよ。
訳者あとがきの話が出てきたので翻訳者としてついでに述べておくと、訳者あとがきで用語の説明をしようとしても、最近は訳者あとがきが書きにくくなっているのですね。というのも、書いたらエージェントや著者がチェックするというケースが増えているらしいから。『体内時計の科学』に訳者あとがきがないのもそのせい。いずれにしても、個人的にも、以前から訳者あとがきはちょっと危険ではあるなと思っていた。というのも、著者が日本語を読めるケースはまずなかったとしても、有名大学の教授さまが著者の場合には、日本人留学生の弟子が一人や二人いてもおかしくはないはずで、その彼らが著者に「先生、先生! たいへんでっせ! この高橋洋とかいうドアホの翻訳者がこんなおかしな文章を先生の本に載っけてまっせ!」とかチクられたら、下手したら訴えられそうだしね。もちろん私め個人ではなく出版社が訴えられるのだろうけど、それでも気分が良いはずはない。実際それに近いことはあったよね。日本ではなく韓国だったと思うが、アンガス・ディートンの訳書の解説に「この本の主張はピケティの主張と異なる」とかなんとか批判的なことを書いていたら、なぜか本人がその事実を知って、韓国の出版社が訴えられて出回っていたコピーを全部回収して差し替えたとかいう話があった(かなり前の話なので多少違っているかもだけど)。今『存在の四次元』の訳者あとがきを書いているところだが(最近はいろいろあるので書かないなら書かないでいいですよとみすず書房の編集者には申し出たんだけど、書いてほしいということなので嬉々として書いているというわけ)、ルドゥー氏は神経科学や認知科学の分野では世界的な有名人だし、ニューヨーク大学教授でもあり、日本人留学生もいるはずだからちょっと気になると言えば気になる。
また脱線したので新書本に戻りましょう。次に源氏物語を取り上げて、次のように書かれているのが興味深かった。「実感として、本当に言葉にならない気持ちというものはあります。これは何も現代人に限った話ではなく、古くから我が国では、このような情感は「いとあはれ」と表現されてきました。¶「あはれ」とは、「ああ」というような感嘆を表す言葉で、その瞬間の美しさや感動を捉えた言葉です。『源氏物語』は、「あはれの文学」と呼ばれるくらいこの「いとあはれ」が登場します(148〜9頁)」。先日、先崎彰容著『本居宣長』(新潮選書)を取り上げた際、本居宣長の「もののあはれ」論について検討した。先崎氏によれば宣長は『源氏物語』ではなく「古今和歌集を強烈に意識して「もののあはれ」論を展開している(同書149頁)」とのことだけど、次の先崎氏の指摘はきわめて興味深い。もう一度ここに引用しておく。「ここで宣長が強調するのは、「事の心をわきまへしる」という態度である。喜ぶべき事態ではうれしいと感情が動き、悲しむべき事件に出会えば悲しむ。「事の心」とは、物事の本質くらいの意味であって、私たちを取り囲む自然や、周囲の出来事の本質をつかんで正しく把握するということが、「もののあはれをしる」ことなのである。あまりにも「あはれ」が深い時、とどめようとしてもとどめ難く、心のうちに閉じ込めておけない感情に支配される。これをどうしようもない。その時、私たちは詞にすることで、溢れた思いにかたちを与えようとし始めるのだ。自然と詞を長く引いて、歌うように詠むのである。¶とりわけ注目すべきなのが、「しる」という認識論的な言葉であり、宣長は内面の感情の揺れ動きだけを重視していない。あるいは心の激しい揺れ動きが、混沌とした破調をもたらし、それを嘆息する「ああ」という言葉を超えて、自覚的に技巧を凝らすことで、歌の詞が生まれる。それによって、言語化以前の絶対的経験が、喜怒哀楽のうち、いったい何を経験したものだったのかを「しる」、つまり認識するのである。歌の詞は、自己認識を可能とする。「もののあはれ」論は、感情論ではなく、むしろ、周囲の喜怒哀楽や善悪是非などを正しく認識にもたらす作業なのである(同書167頁)」。最後の段落に注目されたい(¶が段落替えを意味する)。とりわけ最後の一文「「もののあはれ」論は、感情論ではなく、むしろ、周囲の喜怒哀楽や善悪是非などを正しく認識にもたらす作業なのである」という見立てが実に興味深い。というのも、これは新書本の著者もルドゥーもリサたんも私めも取っている、情動や感情には認知(認識)、あるいは引用文中の用語を借りれば「しる」ことが関与しているという見方と軌を一にするから。このような情動や感情の捉え方は、リサ友さんによれば欧米的なMINE型インサイド・アウト情動ではなく、非欧米的なOURS型アウサイド・イン情動に特徴的に見られるのですね(これらの情動のタイプに関してはここでは説明しないので『文化はいかに情動をつくるのか』を{買って/傍点}読んでみてみて)。
さて冒頭で、新書本の著者がどういう意味で「心は存在しない」と主張しているのかは最終章の冒頭を読めばおよその検討がつくと述べた。次にそれを取り上げましょう。次のようにある。「最後に、この本の最終章では、「心」とは個々人にとっての「現実」の捉え方であると述べたいと思います。つまり、「心」は私たちが現実をどう切り取るか、どう解釈するかに深く関わっています(185頁)」。「心は存在しない」というタイトルにした手前か、心をカギ括弧で括っているとはいえ、結局心の存在を前提とした文章になっている。要は「心は存在しない」とは、本質主義的な実体としての心は存在しないという意味なのだろうと思われる。そのことは、この文章の前にある記述によって明確にわかる。次のようにある。「「心」は、人間が持つ本質主義的な考え方から生まれる幻想です。私たちがよく「私」と同一視する「心」、そして感情として捉えがちな「心」は、実はもっと複雑で、さまざまな要素が組み合わさっているものなのです。¶さらに、私たちが「心」と呼んでいるものは、情動の解釈によって再生成されるものです。¶私たちが日々経験することや、記憶に残ることは、すべて「心」として再構築されます。ですから、「心」は単一の実体ではなく、その時々の状況や環境に応じて変化するものなのです。¶さらに、この「心」は、ホメオスタシス、つまり私たちの内部環境を一定に保つプロセスの一環として生じるものです。¶この過程で重要なのは、「変化しないために変わり続ける」ということ。つまり、外部の環境が変わることに対応して、私たちの身体や心もまた変化し続ける必要があるのです。そして、その変化の過程の中で「心」が形作られていくというわけです(184〜5頁)」。最後に「その変化の過程の中で「心」が形作られていくというわけです」とあるように、著者は心の存在を完全否定しているわけではない。この引用部分を読むと、要するに「心」という素朴心理学的な言葉があまりにもあいまいで厳密性を欠いていると言いたいかのようにも読める。
実はこのような「心」の成立を生物的次元→神経生物的次元→認知的次元→意識的次元と厳密に追っていくのがルドゥーの最新刊『存在の四次元』なのですね(ただし「心」というより「意識」が最終段階になるが)。そのルドゥーも、冒頭の第T部で素朴心理学どころか哲学的、心理学的概念である「自己」や「人格」という概念の問題を取り上げたうえで、それに代わる理論として存在の四つの次元という考えを提唱しているのですね。たとえば「自己」については次のようにある。「物質的な世界の自然な実体として自己を客観化し、自己と意識を融合したものとしてとらえる一七世紀の西洋哲学の見方は、今日でも存続している。だから私たちは、個人としての人間の本質を自己という用語でとらえているのだ。また自己を、さまざまな性質を持つ実体としてとらえ、この実体に基づいて思考や行動を説明しようとする。さらには自己という概念が哲学、心理学、精神医学、神経科学、生物学などのさまざまな分野で大規模に、そして盛んに研究されている理由もそこにある(同書邦訳19頁)」。まさに「心」という素朴心理学的概念に関して新書本の著者がその本質主義的な問題を指摘しているのと同様、ルドゥーは「自己」という哲学的、心理学的概念に関して、そこに含まれている本質主義的な見方を批判しているというわけ。そのことがさらによくわかる部分をもう一箇所あげよう。次のようにある。「自己とは何かという謎は、次のように考えれば解消するだろう。すなわち個人の内部にあって、個人のために何かを実行する実体としてではなく、個人に関する抽象的な概念として自己を捉えるのである。自己に関する現在の研究や理論化はその方向でなされているとは思えないので、一からの出発が求められるだろう(同書邦訳23頁)」。要するに、自己とは記述の問題であって存在するか否かが問われるような実体ではないということなのでしょう。新書本の著者も、おそらく「自己」ではなく「心」に関して類似の見方を提起しているのだろうというのが私めの見るところで、「心は存在しない」とはそのような意味で言っているのでしょう。
ということで、この本に関しては、アカラサマ、もといステマに終始してしまったけど、最後にもう一度決定的なアカラサマ、もといステマをしておくと、この「心」に関する入門書を読んで気に入った人は、ジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元』刊行の暁にはぜひ{買って/傍点}読んでみてね(もちろんここで取り上げた他のわが訳書もだけど)。一部を除けばそれほど難解でなく、最近読んだ脳や認知関係の本のなかでは出色の内容であるというのが私めの印象。だからこそ、この手の本をたくさん出している、またルドゥーの訳書も一冊出しているみすず書房に提案したわけ。
※2024年12月27日