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NY記
入港
6月10日朝6時半。自由の女神が見えてくる予定だというので、6時10分に皆を起こして8階後方甲板に集合。瀬木がついに現れなかったと思っていたら、ずっと10階前方に陣取って眺めていたそうな。女神を指でつまんでいるかに見える写真(小井)、口にくわえてる写真(佐山)など撮りながらキャァキャァ言って入港。

マンハッタン島の西側50stの第90桟橋に接岸。こんなに北の方まで船着場があるとは知らなかった。ドックに設けられた臨時入国審査場に船客全員が並ぶのだから大変である。我々が下船できたのは10時半。タクシーを拾って38stのホテル・ザ・キタノへ。フロントに行って三木君を呼んでもらう。部屋でしばし寛ぎつつ諸所に電話連絡。三木君がキタノに部屋を取っておいてくれて本当に助かった。シャワー付楽屋だ、などと好き放題なことを言って、いいように使わせてもらったが、なんと、オフィシャルな部屋代は$480だそうである。高いにも程がある、などと一銭も払わぬ者共がワァワァ言う。
邂逅
NYPBの時のカメラマン、山谷周平君がダウンタウンにギャラリーを持ったというので赤い地下鉄に乗ってキャナルストリートへ。レースカー写真の展示中を訪れた。外観からは全くそれと解らないこのビルは全部屋が何かしらのギャラリーになっている展示ものビル。各部屋の借主の収入は作品が売れた場合のパーセンテージのみだというから大変である。

五年ぶりのシュウヘイ君は以前の神経質そうなアーティストっぽさが見事になくなり、太った丸坊主。喋り口調のどことない暗さは相変わらずだが、当地で踏ん張っている様子が窺えて頼もしい。

展示作品の作者が丁度居合わせ、紹介などしてもらった後にお昼ご飯。デ・ニーロの経営する“トライベッカ・グリル”でジューシーで盛りのいいステーキを頬張っていると“デンゼル・ワシントンだ”と大坂。声に気付いて入り口を見たらやっぱりそうだったというから大したもんだ。カメラ、握手はダメよ。こちらからサインをあげるっていうのはどうだ。などと言い合うも楽し。山谷氏と後刻を約してアップタウンへ。
セントラルパークのM’s
大坂が気になるアンティーク時計ショップを探す。セントラルパークウエスト69というのだが見つからない。公園の西側を三木君が縦横に走って聞いてまわるがわからず。西側通りを公演沿いに南へ下って69番地と思しきところで今度は小井先生が高級マンションのドアマンとやり取りをするが、やはりそのテの店はこの辺りにはないと言うので諦めて、タクシーで三木ルームへ戻る。大坂はシャワー、僕は仮眠で井上氏の到着を待つ。
良くも悪くも
井上氏が手配してくれたベースは何と塩田君の楽器。本人も来てくれていて3人の音合わせを聴き“佐山さんはやはりしっかり音がでますねぇ”と感心されて気をよくする。ドラムは前日からホテル内にあるセットにカンノ君という若者がシンバルを持ってきてくれた。ピアノはスタインウエィS型。小ぶりだが調整もしっかりしていて鳴りが良い。

最近の自信作“Dead Zone”を井上氏とエリック・アレキサンダー氏に見せるとエリック氏、まるでやる気なし。“It's inpossible”の一言で片付けられてしまった。

当日本来の21時からのバンドメンバーを早い時間の特別セッション(我々のこと)に組み入れて交流と店独自のプロデュースを、という春日マネージャーの行為とは裏腹に面倒そうな様子。断ってくれてよかったのに。演奏もお座なりで、全くコミュニケイトしようとしないので落胆した。

井上さんのほうは溶け込んでとはいかないまでも、自分のスタイルと歌い方だけはきっちりとプレイする。NYで揉まれるとそういう表現はキチンと身に沁み込むのだなぁと感心した。

トリオ演奏はどうだったかというと、いつも通りなんですね、これが。多少の緊張感はさすがにあったが、アウェイゲームという程のプレッシャーもない代わり“あぁ、俺達は今NYで演奏しておるのだ”という実感も湧きにくい。ただ、Floatin'TimeとExtended Playというピアノの音色の美しさを前提としたオリジナルが今ひとつ決まらなかったのは発見だった。グローバルオリジナル、というのも変な言い方だけど、僕の目指すそういったものになるには今だ何か欠けている所があるのだろう。Keith Jarretの気分を演奏法に持ち込んでいるとかね。P-Bopなどは相当面白いその日だけの展開になって良かったんだが、ドラムソロからの抜け出しに僕がポカをやってしまった。まぁそれも普段通りといえばそうなんだけど。
追っかけ? 応援!!
日本から駆けつけてくれた人が5・6人いたのには驚きもし、嬉しくもあった。在住者でも15年前の初NYでお世話になって以来の長谷川素子さん、秋吉敏子さんのプロデュースを最近までなさっていたというチヒロさんなど、聴衆の8割がたは日本人。後半には飛鳥で乗り合わせた功刀先生と山口先生(こちらはご夫妻で)来てくれてそれも嬉。

指定された時間にきっちり終わって井上さんが紹介してくれた。日本からはるばるやってきたベリフェイマストリオである。船でアメリカまで来た、というのは多少実際と違う解釈が予想されるがまぁいいでしょう。何だか受けてた。
ジャム・セッション
三木・井上のコーディネイト組、ダルマードの二人、名古屋の一人、後半のステージを撮りまくってくれた在住のカメラマン夫妻、勉強在住中の若者二人、そして僕を入れた10人でメキシカンレストランでの食事も楽しく、その足で93丁目の“Creopatra's Needle”へ。塩田に情報をもらっていたのだった。岡崎芳郎もいていいプレイをしている。彼は今日のM’sの2部の最初の二曲に飛び入りしてくれてとても助かった。エリックの素っ気無さ(そういえば終演後の挨拶にも応じてくれなかった)と岡崎の緊密なコミュニケーションが米日彼我の楽さだとは決して思わない。フツーに実力の差でしょう。勿論岡崎、ズバ抜けてます。夜中のセッションでも群を抜いていた。

塩田のベースが良かった。持ち前のアコースティックな太い音でぐいぐいセッションをリードする。ズレたり外したりする人々(意外に多い)とバンド全体をうまく接着させる番頭役も立派にこなしている。
肉の日
明けて11日は土曜日。天気もよく、多人種がごった返す中を葉月が発見してあった吉野家へ案内してもらう。粕漬けと生卵がないのに多少の恨みは残るが久々の牛丼に満足と胸焼け。ほどなく三木君が合流。彼のマンハッタンであるというところのトランプタワーでお茶。茶色い大理石で囲まれた吹き抜けのある一面が滝になっている。目に入る緑はナマの植物で張り出し通路は銅版張り。毎日せっせとピカピカに磨き上げるのだという。建てるだけではなく、大変なメンテナンスまで含めての贅を凝らした建築というのはオリジナリティ溢れるセンスかも知れぬ。

折角だからAトレインでキャナルシティまで行こうと、大手町にも似た長い通路を踏破したが、先ずやってきたEトレインでトライベッカへ。折からの俄雨の中、山谷君合流してくれてイタリアンへ。念願のビーフカルパッチョ(これもこの2年ほど日本で食べられないもの)。実にうまい。三木君に流暢なイタリア語で話しかけられたボーイさんはさすがに驚きつつも嬉しそうだった。山谷〜ボーイ長〜三木と米伊交々の笑い声に佐山〜葉月はただただ口ポカン。

再び降り出した雨の中、周平君がタクシーを捕まえてくれてシェラトンホテルにレディを送り届けて彼女はそのままミュージカルへ。男3人はバーで帰船時間まで歓談。

5年前に山谷君に案内を頼んだ“55Bar”を勧めてくれたのはそもそも三木君。個展、結婚、開業と折に触れて忘れずに連絡をくれていた山谷君だが、こんなにまで歓迎してくれたのが意外だったが勿論嬉しい。このスリーショットが何やらかけがえのないものに思えて来た所へ、時間だね、と船着場まで二人で送ってくれちゃうのである。別れを告げるシーンにはちょっとセンチになってしまったのであった。
NY後記
船を下りて落ち着いてからのことだが今回で僕は宗旨替えをした。以前は日本人がアメリカという多人種国家に入る場合、同国人同士でなく、なるべくさまざまな人と交流・練達を図るべきだと思っていた。

ところがどうもアメリカというのは多人種ではあるが基本的にはパラレルなコミュニティ社会であるな。イタリア、アイリッシュ、ロシア系ユダヤなどなど人種ごとに強固なコミューンがあり、そのコミューンのトップがコミューン全体の支持を受けて一段階上層というかいわゆるメジャーデビューする。その上層社会では勿論人種の交流は盛んに、そして望むらくは差別的でなく行われていて、コミュニティを横断する如き人類愛を世に提示しているのではないか。

在住邦人はもっと確固たる、というとビジネス的になるが、柔らかく考えて日本人アーティストをきっちり応援したほうがいいんじゃないか。そして在住修行者もまず同国人にしっかりと認めてもらって応援をいただきながらより大きなステージを目指すのがいいように思う。

外国に行っておいて日本人同士でちまちまやってる、なんて陰口をよく聞くし、僕もそれはちょっと、と考えないでもなかったが、むしろ国外にいるからこそ結束は大事で、そちらのほうが国や人種を横断する平和の主張に近いんじゃないだろうか。
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