50mの滝の前に敢え無く敗退の巻

 そろそろほとぼり冷めたかなあ(まあ、内々の話なので関係無いっか)。写真が綺麗なのがあるので取り合えず載せちゃおう。  by:Takazawa `99/5/23


 神の川は、道志川の支流。道志川は、富士山のすそ野、山中湖を西に持つ山伏峠を源流とし、その東斜面 から湧き出した水流が東に流れ、神奈川県の津久井郡で相模川(上流の山梨側は桂川)に合流するもので、川の流れは古い断層痕とされている。その為に、場所によっては川の両側の山で、岩の色が違うそうだ。地元の人に聞くと、例えば家の表側が地震で揺れても裏手ではなんともないなどということがあるという。
 その道志川と支流である神の川との出合いは、今は中央道渋滞時の抜け道に堕した感のある413号線沿いの崖の下。413号線を通過する観光客や、オートキャンパーの落とす金目当てに乱開発され自然が荒れに荒れた養殖アウトドアマニア都会人のための似非リゾート地帯の途中にある。

 その本流の道志川は、地元の人間が捨てる生活ゴミが漂い、生活排水の流れ込みで、ヤマメが良く肥って骨まで軟らかくて旨いと評判の川だ(因みに横浜市の水源かんよう林で、市民はその水に税金を払っている)。その支流の神の川との出合いには、肥って大きくなった、しかし養殖のシンボルである尾鰭が丸く小さなニジマスが鱒釣り場を脱走して沢山流れている。

 神の川沿いの犬越路林道は、昔は山北側(中川温泉:今の丹沢湖)に抜けられたが、多額のお金をつぎ込みトンネルや立派な橋を造ったり、しょっちゅう崩れる林道を整備した後に、一般車は完璧に通行止めになった。

 まあ、林道は普通の乗用車までもが通れるようになると、差ほどの目的や指向もない人間までが入ってきて交通量が増えるため、現状では仕方がないものもあるが、それだったら林道は昔のままに荒れていた方がよい。ろくに林業もやっていない今、ヘボな乗用車までドライブできる道である必用は何もない。その方がよっぽど自然保護になる。自分がガキだった30年近く前は、交通量などと言うほどのものもなく、丹沢に通行止めの林道など何処にもなかった。道路に崩落などがなければ、例えば現丹沢湖から世附を通り山中湖の手前明神峠まで抜けることが出来た。そういった自由な時代だったけれど、その代わり413号線などは、しょっちゅう崖崩れがあって通行止めになっていた。もちろん砂利道だ。その頃、バスの運転手をしていたという山梨と神奈川の県境にある両国屋のオヤジさんに聞けば、狭かった413号から都留に抜ける山道のカーブではバスのリアのWタイアの外輪を崖から外れながら走ったとか、そういう道を4輪チェーンで雪の山越えをしたとか、今の軟弱な四駆乗りなどは足下も及ばない世界だったそうだ。

 さて、その一般車通行止めのゲートから30分ほど歩いたところが伊勢沢の入り口だ。

    

えっちらおっちら登っていく。特に難しいところはない。

50mの滝が行く手に見えてきた。

 

 此の50mの滝の前に、メンバー三人のうちの一人が強固に登らないと断言。それはそれで良いが、残る二人だけで少しだけでも登ると言うと、それもダメだという。
 未だそんなレベルにはないということらしい。もっと練習してからとのこと。まあ、仰ること、それも尤もだが、全部登ろうと言うわけではなし、練習たって、これが練習なのに、現場で練習しなくて何時練習をするのだろうと思うが、ダメダメ尽くしで、敢え無く敗退。高巻きに入る。
 その高巻きの途中や、支尾根に迷い込んでしまいルート探しで小一時間獣道を四つん這いで這いずった時も、何かにつけ危ないとかこのルートは失敗だったとか、後ろ向きの意見ばかりが多く山の中で何かとやかましい。

 どうやら、50mを少しのチャレンジもせずに登らなかったこと、自分が登りたくなかったことの、そして、その為にもっともらしい理由を付けて他人まで止めさせたことを気にしているらしい。
 此の件は、こちらから非難することも無く、もとより気持ちが合ってシンクロしたときがチャレンジのタイミングだと考えているので、過ぎたことはどうでもヨカッタ。ところが、やめた本人は、誰にも文句を言われずに、じゃあ止めましょうと同意されたのにも拘わらず(オヤジイイッ!と一言は言ったけど)、自分で勝手にプライドが傷つき、自我を守るために登山事故の否定的な例ばかり挙げて、登らなかったことを肯定するのに終始した。素直に、怖いから“自分は嫌だ”と言えば話は簡単なのに。また、次回のための発展的プロセスにすることも可能なのに・・・

 お互いシンクロしないときはやらない方が良いので自分自身無理はしないし、その場合、他人に無理強いもしないのがわたくしめのスタンス。だから、今回はやらずに良かった。斯様に事の後から自己肯定の論を展開する人間とは危ないことを一緒にやらない方が良いに決まっている。
 ともすると、今回の様な出来事に於いて、その止めようと言った人が我々のレベルを見抜いていて、それを理由に止めたのだという論を考える人も居るかも知れない。しかしながら、もし本当にそうであれば、前述のような後ろ向きの一般論を展開することは有り得ないし、その人自身の意見として自分の感じた感覚を素直に表現して伝えようとするであろう。だから、言っている内容が上滑りのため、説得力が無く、其の表の言葉とは違う裏の意図が言葉の端はしに出てしまうのは、やはりその人自身が件の問題に対して未消化であるし、本質と異なる事を問題にしているのが見え見えな訳。だって、そうじゃなかったらわざわざ事故や危険性について山を這いずりながら一生懸命お喋りしないでしょ。何のために話をしているのかと言うこと。意図が問題ね。

 そもそも、こういった種類の遊びに対して臨む姿勢が、何ら根拠もないままに無謀なことをやろうというわけでもなく、技術的な修練も含めて、しっかりとステップを踏みテーマに対してチャレンジしているのであれば、当人が自己責任で怪我をしようが死のうが、そのチャレンジする自由は認める姿勢が望ましいと思う。その姿勢とは自分勝手にやると言うことではなく、他人に迷惑を掛けたり事故に巻き込むことが無いようにした上であることはいうまでもない。これはエキストリーム的な遊びをやる上で大事なことであるし、また此の点に関しての問題意識は、民族性の違いも濃くあり、日本人は他人の自己責任による自立的行動にも口を挟み、否定して皆誰しもを金太郎飴状態にしようとする。良く問題になる話だ。

 日本以外の国では、自己責任の意識は高いから、この様な問題は起きにくいという。むしろチャレンジする精神を大事にする。ところが、日本人は良きにつけ悪しきにつけ、他人の行動に対してうるさく制限したり、足を引っ張ったりする。本人の可能性を伸ばす方法をアドバイスするのではなく、一律、可もなく不可もなくの状況を作り、自分の意見を言うのではなく総じて一般論を述べ、自分自身に最終的に責任が及ばないようにする。チャレンジングな事に対して、言うことは何かというと、もし事故が起こったら人の手を掛けるとか他人も危ないことに巻き込むなどということに焦点を当てて、その点についてばかり強調し、可能性を開くことや更なる高みに到達するための姿勢に対して、なんらの評価もアドバイスもない。
 つまり自分のコントロールの効く範囲や理解の範囲に相手を押し留めようとすることと、何かあったときに自分が非難されないようなことが思考方式に染みついているのだ。相手の意志を尊重するとか、他人の自立(子供の自立も含めて)を認めたり、そういった自立精神を推し進めようとする意識の無い人間が多い。これは基本的な意識構造が互いに依存し有っていて、他人は自分のことを理解してくれて当然の様な、周りのもは全て同じ価値観を持った同類と思い込んでいる。

 つまり意識構造が幼稚なんだな。自分の考え以外を認めようとしない、自分の考えが及ばない世界もあるという事さえも考えられない、違う世界を想像したり受け容れようという姿勢ではなく現状維持の守りの根性しかないと言うこと。それは日本の昔からあるシステムの村八分という仕組みの中でマインドコントロールされてきた農民的思考方法なのかも知れない。そして何か事が起きた場合には面目を保つために有耶無耶に握りつぶしてしまう。みんなで同じ事をやっていれば自分に責任が及ばないという感覚が強い。
 それが証拠に、先のエキストリーム的な遊びや冒険に於いての、チャレンジの末の事故を根本的なことに焦点を合わせて考察すること無しに結果だけを安易に非難する癖に、そういうことを口にする中高年の団体登山や山菜キノコ採りなどに於いて、山の奥に入っていくにもかかわらず、自ら地図を調べるでもなく装備の他人任せ、歩くところも前の人間にくっついて歩くだけ。全て引率者任せ。そして高山植物や山菜キノコを根こそぎ採っていってしまう様な問題を起こしている。
 これがごく一部だったら良いのだが、大方の体勢にみられる傾向を持っている。其処に見られるのは、依存心と無責任な姿勢ばかりで自助努力も自立心も無いという、今の中高年であり日本の国を構成している主な大人の意識レベルである。だから山での中高年の事故が絶えないし、その内容がお粗末なものばかりなのだと思う。また中高年のおばさんの団体の後ろは落石が多かったり、花が採取された痕があったり。そして、若い者が行かない様な近所の低山に於いては、様々な飲食物のゴミが山道や脇に沢山捨ててある。
 そういう人間達は、自分達の背負っている不幸と同じ様な問題を持つ仲間は同情心が厚く互いに世を嘆いたりして共感しあっているが、価値観が違ったり自分達の仲間から自立していった者に対しては何時も批判の対象としたりする。つまり、良いことも悪いこともみんなでやれば仲間だけれど、そうでなくて自己責任に於いて人よりも抜きん出ようとチャレンジすることとか集団から抜け出ようとすると、途端に手のひらを返したように敵になる図はよく観られる。
 つまり心が焦点を当てているのは、他人や周りの眼。社会に適合して合わせようという価値観。それらに対してであり、それは自分の外ばかりに意識を向けていると言えよう。自分自身の本心とか、心の奥の感情とか、隠された才能とか、そういう内に向かうものではなく、ただひたすら他者の価値観、社会が押し付ける価値観にを共有しようとするだけ。仲間になろうとするだけ。
 一昔前の善悪も考えず、ひたすら拡張を目指し、成長経済の中では、それでも其れなりに生きて来られただろう。論理が単純だからだ。誤努力だろうが、間違った信念だろうが、ひたすら頑張れば救われるといったような観念が強い。それは封建社会の中に於いての方便であった他力本願を謳った信仰形態。日本の仏教のような他者依存型の自己責任を放棄するもののように勘違いし易いシステムの呪縛が日本人全体に残っているのかも知れない。
 全ての日本人がそんなわけは無いけれど、大抵の日本人の精神的特質はそんなものであろう。お恥ずかしい話だけれど、自分が家から出て自立しようというときに、母親は、「一人で生きていくのは大変なんだぞ。」「洗濯や料理を毎日するのは簡単じゃあないんだ。」と言うような内容のことをコンコンと言い含めようとした。当時は分からなかったが、母親自身が自立していなかったわけだ。その他には、自分が会社勤めなんてものをやった後、フリーで仕事を始めたら、「世の中大変なんだ。そんな簡単に上手く行くわけがない。嫌な奴が多いし・・・」って、自分の信念を言い聞かす仲間も居た。ま、何れも自分の鏡なんだけどね。
 自分自身が人生に真っ正面から向かって行っていたり、創造的にチャレンジをしている人、そういった中で成功体験を持っている人はこういうことは言わないよね。自分の中だけ、小さい世界の中だけで生きている人達、自分だけが正しいと思っている人達。もしくは自分のエゴの殻を壊して違う世界を観ることを怖れている人達。
 そして、世界はそういうものだ、人生はそういうものだと言っていた人達は、自分自身の言葉通りの人生を送っている。大変だったり、混沌としていたり、嫌なことが実現している。心が軽やかじゃない。

 メロドラマや演歌、ゴシップや暗いニュースが大好きな日本人。頑張っているけれど、人生には突発的なことが起きて努力が報われないというヴィジョンが好きな日本人。それは誤努力を行い、間違った信念、思い込みを実現しているだけなのだが。其の間違った方向の自分自身のエゴの思い込みをしている潜在意識を壊そうという方向ではなく、ひたすら守りのための殻を厚くしようとしている人達が多く、もしくは諦めてしまっている人が多い国。

 そんなレベルから抜け出られないから他国に良いようにされてしまうわけ。そして官僚や政治家、企業内でも悪いことをしても責任を有耶無耶にしてしまうような事を繰り返す。何れにしても自己責任のない自己を確立していない事を原因としている。そしてそういった国民が多ければ国の質も同様にホロニックに相似的に展開する(此の件については、日本の刃物と鋼の智慧造り打ち刃物製作過程レポート`98 + &“加筆修正分”---`98/12の加筆部分である、日本の伝統:智恵のテクノロジー(鍛冶屋のレポート`98の考察ページ部分)に書いてあるので良かったらお目を通して欲しい)。

 教育の現場でも、金太郎飴の子供を作ろうとする管理教育が主流であるのを見れば解るとおりだ。ロボット作成、マインドコントロール教育だ。その歪みが出ているのが、いまの少年犯罪を見ていても解るだろう。人間の質がどんどん落ちている。それは若い者だけでなく年輩者にも多くみられるのは何故だろう。政治家にしても経済人にしても学者にしても、言っている論理が幼稚だったり、やっていることが余りにもお粗末な事件が多いでしょ。甘えの強い依存心ばかりで、自己確立されていない自己責任の意識の薄い人間が多いから、お粗末な社会になっている様に私には見えるのだがどうなんだろう。

 そして今回、その反対したメンバーの彼に現代の典型的日本人像を見る。そして彼は私立高校の教員だ(勿論、こういう方も必用なんだけどね)。さらにはわたくしめの両親も教員だった。典型的な戦後の管理主義的教員。お陰でその子供は、全て反発して、親の言うことを聞かずに育ったチャレンジャー (^^;;  体面を大事にする、こと無かれ主義の権化のような親の価値観を、小さいときからひっくり返すことばかりしていた。親にとってみれば、魂を圧し殺した自分達に対する逆鏡のような子供なのだが、果たして気づくのは何時なのか。そして、わたしにとって親との縁は如何なるものなのか、まだ良く解らない。ただ、自分としては自分勝手なことをやってきたというよりも、大人の社会にある欺瞞に対して反発し、違う生き方が出来ないかとやってきて、自分がその年代になりつつあるわけだ。

 もっとも根性がないので、危ないことの前にはすぐめげる日和見的チャレンジャーである。それでも、ボチボチと自分自身と向き合っているので、少しづつは進歩していると思う。
 でも、昔の日本人はもうちょっと骨っぽかったよなあ。なんで、みんな牙を抜かれたような人間ばかりが多いのだろう(尤もわたしの場合は草食動物なので牙はないけどね。あるのは角かな?それとも、臭〜い屁かもしれないな。それも生き様、これも生き様な〜てね。。。)。

 クヤシ紛れに50mの滝の落ち口で戯けるわたし。落ち口はリス(割れ目)が少なく、ハーケンを打つ場所が限られていた。また、落ち口の下の岩肌は緑の苔でぬめりが多かった。まだまだレベルが低いので落ち口までの直登はやらなくて良かったかも? この50mの上までは、ちょっとやばかったかも知れないな、と思わせるが。。。止めてくれた人にも一応感謝。でも、やってやれないレベルでもない。流れがよいときに、、導かれたときに、、再度チャレンジだ。

 そして、他のメンバーは危ないからと近づいてこなかった。

 高所恐怖症のわたしは少し高さに慣れたのか、それとも沢をナメ始めたのか、こんなところで踊るなんて。その両方かも知れない(Webから消えていたらナメていただけとご理解下さい。)。

 まあ、練習は現場が一番。本番で身体と智慧をつかって切り抜けることが一番身に付くし、失敗も糧になる。但し、身体の奥深くからの信号をピックアップするセンシティブな感覚を磨いておくことが大事だ。そして、運が悪い人間は、その根本原因を転換する努力も怠ってはならない。

 源頭はこんな感じで、大して面白くない。右岸の尾根に登ってみようと登ったは良いが、未だ早くかなり手前の支尾根だった。獣道を這い蹲って小一時間。先の彼は失敗だと、ビバークまで考えたと言うが、こんなの自分から望んで体験出来やしない。こんなのが失敗というなら失敗ウェルカム。人生ちょろいモンだぜ。


 その後、メイルをやり取りして、考え方を柔らかく説明したが、ちょっとピントが外れているし、互いに価値観が違うようであり、ついで手紙で非難されたので、その後放ったらかしになってしまった。
 わたくしめも我が強いので救いがたいが、沢登りみたいな危ない遊びは仲良しグループみたいな気持ちでは、危なっかしくてパートナーは組めない。ホントに上級者にお教えを乞いに連れていって貰うか、下手同士でも相性の良いもの同士の方が危なくない。
 気持ちの伸びやかに持てる組み合わせの方が、微細な危険信号を受信できるのだよ(それが出来ないときは業だと思って役目を受け入れましょ)。理詰め“だけ”で危ないことは出来ない。
 状況に合わせて無意識のまま臨機応変に動く身体の反応を育てることを、温室で培養された現代人は忘れている。それは、左手が勝手に岩の膨らみを掴む動きかも知れないし、居心地悪さを感じて、その場から立ち去る身体の反応かも知れない。それらの無意識敵反応、身体の自動反応と其れ等に伴う言語外意識の異変が、いま当に行おうとしていることが危険な行動であることや、また、そこが危険な場所を教えてくれることであることは多い。
 これらは左脳的意識の理屈に合わない場合であっても、身体の奥底の感覚から働きかけてくる生命保存本能からの信号だ。その信号を見分けたり、無意識に動作することは、管理社会の中では必用とされないためにどんどん去勢されている。

 ところが、今のような混沌とした社会を生き抜くため、また先の見えない変化のタイムスパンの短いビジネスの中でも、これらのことは、分析的思考方法よりももっと大切にされるべきものなのである。

 それらのセンスは、自然の中であれ、ビジネスの中であれ、ギリギリのところで綱渡りをしてこなかった人間、雇われ人根性、ものもらい根性の人間には分からない話である。定型的な粗い思考方法しか育ててこなかった人間の

 しかし、時代の転換期、価値観を一回リセットしようとしている混沌とした先の見えない現代には一番大切なものだ。今までのような右肩上がりの世界でなく、頑張れば何とかなった様な世界ではなく、拡張ばかりで環境も人間もおかしくしてしまった中で、この様な感覚を持たない人間、感覚を育てようとしない人間は、テクノロジーの庇護のもとに跪くか、魂を売り飛ばして権力に下るかである。そして、それら“物理的な力”を志向する魂達が縁作る現実は無駄な消費と競争の社会であることは目に見えている(うーん、沢登りは色々なことを考えさせるなあ)。

 そんな感覚は遊びでもビジネスでも、人生全般に通ずる自分自身の武器でもある。それも鍛えようとしない受け身の沢登りもあるかも知れないが、ビクビクと沢登りするよりは、透徹した意識のもとにルートを見極めたり、失敗を笑って楽しんだ方が大事な感覚を育てる機会になるのではないだろうか。

 その為には、キャパを少し越えるくらいのチャレンジを繰り返して、失敗を糧とし、ジャンピングボードにする姿勢が大事だ。それが出来て、失敗を乗り越えたときに、失敗は、失敗でなく成功への前段階と昇華するのである。

 右肩上がりの、そして作られたレールの上での成功しかしたことのない奴の、内容の薄さと、万が一、歳行ってから失敗したときの脆さは、それは哀れなものだ。そうなると失敗を失敗と受け取れず、まわりにネガティブなエネルギーを撒き散らす。見るからに往生際(自分の本心を騙して来たので、死ぬときに念を残す端迷惑な状態。ネガティブなフォースフィールドを残す。ああ、肩が凝るわ.....)の悪そうな人間が多すぎるぜ。
 オオッ!なんか文句が多いなあ。押し付けられるとストレスがたまる自我の小さなわたしでした。しつれい!!!

 

 汚ねえケツだなあ! アッ、俺のか?

 以上、冴えないレポート失礼いたしました。まあ、そんなこともよくあるさってね。


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