日本の智慧:鍛冶屋さんに日本古来の鍛造法でナイフを作って貰った
 火 造り 打ち 刃物 製作過程レポート`98 + 

  日本の刃物と鋼の智慧 

補遺

【考察とお願い】

Contents
●日本の伝統:智恵のテクノロジー
●智恵が身に付く器、そうでない器
●生きた食べ物は知恵を働かすエネルギー
●先進諸国の中で飛び抜けて低い食糧自給率
●スタンドアロン(自給と自己確立)
●エコロジカルな文化の伝統:スタンドアロンであった過去の歴史
●豊かな自然に育まれた受容的人種と、厳しい環境で鍛えられた拡張攻撃的な人種
●魂の歴史の中での学び
●心の弱い者ほど指向する“力”の世界

以下は【考察とお願い】後半ページへ
●心の弱い人間を動かすレトリック
●経済成長しなくても庶民は困らない
●都会人と日本国の共通項:お金を持っていなかったら・・・
●自分勝手な国民が集まった自分勝手な国
●自己確立と自己責任による気づき
●世界の常識、日本人の無知
●形態共鳴:意識の底はつながっている
●職人の作品とエンジニアの商品
●魂の粗い人間に同調しないために
●閃きや体の状態は深い部分からの信号
●自分が創造主(けれども意識の奥のネガティブなものを消化できていないとそのネガティブなものも創造して自分を傷つけてしまう見習い中の創造主)
●バランス
●希望的理想と現実との接点
●不安につけ込もうとする甘い罠を吹っ飛ばせ
●スピリチュアルな価値観への転換
●お願い
●道具考
●痛い目に遭って解る人、痛い目にあっても解らない人、痛い目に遭わなくても解る人


 各論の詳しいことや言葉の定義づけはWebの他の頁に書くことにしますので、ここでは概要をご理解頂ければと存じます。人の手の掛かったものがどれだけポテンシャルを持っているか、また職人が存在できるような経済構造の健全性と、そのような世の中を支える人々の意識の持ち方について考えてみました。特に日本人全般に欠けている部分、自己確立と自己責任について色々な切り口から考察してみました。政治家や官僚、組織の中で行われる不正に於いても、其のどれもが自らの責任を引き受ける姿勢が観られず、全て有耶無耶にして逃げてしまう様なことばかり、そしてその様なリーダー達は、対外的にも主張すべき事を主張できずに、自ら操られ、自国を利用させるだけの交渉に終わっています。それらリーダー達の意識の在り方は、国の構成員である我々国民一人一人の意識の反映であり鏡です。物事は相似的に存在しますし、歴史の上でも出来事は相似的に展開します。
 現代文明が物質的なものを追い求めた結果、私たちが捨ててしまったものは掛け替えのないものだったのではないでしょうか。パラダイムシフトなどと叫ばれてもう既に何十年になるのでしょう。意識が相当に高くなっている人が多くなったなと思う反面、世の中全体としてはどんどん荒れてきています。自分自身の中で折り合いがついていない人が多くなり、個人レベルでも組織レベルでも自己崩壊が始まっています。
 精妙になっていく人と粗くなって収拾がつかなくなっている人が極端に二分化しているのが今の時代です。粗くなっていく人は、自分自身の大事な部分、人間としての本来在るべき姿を、捨ててしまったか売り渡してしまったのでしょう。または魂としては若い未成熟(今世では長い時間を生きていても、魂の歴史の上ではという意味)な存在かも知れません。

 我々は規格化されたマスプロダクション的な教育を受け、社会に出てからは経済や効率優先社会の構成員として、その存在価値を値踏みされ篩いに掛けるように扱われました。そのような理念や哲学不在の資源食い潰し文化の拡張の流れに自ら乗り、または社会に適合しようと、魂の叫びを押し殺してしまったその歪みが出ていると言えるのかも知れません。例えば木には節が癖があったりしますが、これを生かすのではなく、切り捨ててしまって綺麗な部分のみ使用したり、薬漬けにした表面だけ綺麗な合板を使うことによって使用者の健康を害したりしています。癖のあるものを排除し、人工的な力で処置をくわえた上っ面だけ美しいものだけ使っていくという、このような切り捨て的な規格化と同様の考え方と処理を人間に当てはめた挙げ句の果てが世の現状です。このようなことに対する警告は随分昔より繰り返し発せられてきましたが、未だに同じことを繰り返しています。

 しかし、無くなりつつあるとはいえ日本には古人の智慧がまだ多く残っています。智慧は、他を力で押さえつけコントロールして利用するような生き方ではなく、自然と共にお互い生かし生かされていることを自覚して感謝の気持ちで過ごしてきた人達の遺産です。まだ転換するチャンスは残っていると思うのですが皆様はどうお考えでしょうか。

●日本の伝統:智恵のテクノロジー
 こういう世界が日本にはあったのですね。わたしは経験不足で今まで知りませんでした。 現代の営利追求のみのマスプロダクションと違う、地球環境食い潰しの文明とも違う、智慧のテクノロジーのもとのエンジニアリングの世界です。
 そして、刀鍛冶の世界も宮大工の世界も、今のハイテクでは実現できない、人の意志を物に込める“智恵のテクノロジー”の世界といえるでしょう。今の現代人が失ってしまった、人間以外のものと語り合うことのできる能力、自然と共存して無駄のない循環で生きることの一端がここに表れていると思います。

 ちょっと前までは、科学が発達すれば機械やコンピュータが何でも出来ると思っていたのです。ところがそんな簡単にことは運んでいません。その上、現代文明の“力のテクノロジー”は、地球の資源を食い潰し、我々の子孫が生き残れないほど、汚染と破壊を繰り返しているのです。それを科学が解決してくれると考えている人は、よほど本能のまま生きている怠け者で何も知らない人か、はたまた現実から目を背けている無責任な人でしょう。または“力”を崇拝するような、心のどこかにコンプレックスを抱えた人かも知れません(コンプレックスが悪いわけではないのですが、それと正面から向かって自分を昇華させることを逃げているような姿勢と意識が、自分自身の中の歪みを増大させ、ひいては今の歪んだ社会にからめ取られていることが問題なのです。コンプレックスは自分を高めるためのジャンピングボードとして有効に使いましょうね。そしてコンプレックスを乗り越えたときに、コンプレックスに囚われて盲目になっていた過去の自分を愛し、その上でユーモアを持って笑って上げましょう)。

●智恵が身に付く器、そうでない器
 また、前項の西岡さんのお話から、人に教わるということ智慧を身につけるということはどういうことなのか、今の我々が言葉に頼りすぎている面があるということ、理屈に偏りすぎているということが解ると思います。価値のあるものの本当の姿が見えてこない、言葉を超えた心を伝えるという精妙なバイブレーションが解らない、認識できる範囲が非常に狭く、粗い心の状態であるのが我々現代人なのではないでしょうか。だから、地球環境にダメージを与えても他人事のようにしていられるのです。

「一部を見て万事を知る。これが職人の鉄則です。全部教えてというのは職人ではありません。見て覚えろと兄もよくいっていましたし、どつかれながら覚えました。」
 薬師寺西塔の再建時に和釘を鍛造した白鷹幸伯氏は、その著書「鉄、千年のいのち」草思社刊にこう書いています。
私は仕事がら多くのコンピュータ及びラボラトリ関連のエンジニアと付き合いましたが、このような考え方をする職人の指向に近い人は皆無でした。というよりも、教えて貰って当然という権利意識ばかりが強く、教えない方が悪いと考えるような、雇われ人根性の人間の方が多いように思えました(プログラマの中には職人みたいな人はもちろん居ますけれど、仕事柄、会社に勤めるということ自体で飼い慣らされていってしまうのでしょうね)。とくに年齢が若くなるほど指示をだすと、“なんでそれをやるのか?”といった理由を問いただしてきます。自分が体験する前に、さきに結果を求める気持ち、損得勘定が先立ちます。こういう小賢しい人間が多くなれば、感覚や勘、体験から得た智慧を必要とする、“伝統的な智慧の継承”は難しくなるのは道理です。
 能力はさておき、先ずは性格が素直であることと謙虚さがないと智慧は身につきはしません。内的にも外的にも縁が出来ないのです。高い智慧にたどり着く器でないとも言えます。

 さて、職人の世界をあまり美化しすぎるのもいけませんが、現代は受け身の人間が多く、その上、我(エゴ)が強いだけで真の意味での誇りを持っていないことは確かです。我(エゴ)の判断や左脳的ロジカルな分析計算的思考方法ばかりで物事を考えがちなので、肝を据え損得勘定抜きで、自らが能動的に智慧を掴みに行くという行動が出来ないのですね。
 金ピカに作り上げた仮面を捨てた真っ裸の自分が、なんぼのものか、何が出来るのか、人の役に立つことを、なにも土台がないところから新しく造り上げていくことが出来るのか?ということです。組織の名前や経歴の良さの金看板に助けられて、仕事が“出来るつもり”になっている人が多いのではないですか? ここでいう智恵とは縁遠い人達です。そして、そういう人間が多数を占める組織ほど構造破壊が早いです。
 日本の鍛冶には、こういった粗い世界とちがう、精妙な世界への入り口と奥深い世界があるということが解った今回鍛冶屋で得た体験でした。しかし、その古人からの伝統的な智慧を引き継いでいる鍛冶屋さんは年々少なくなっているそうです。

●生きた食べ物は知恵を働かすエネルギー
 それは我々自身がブロイラーの如く出来合いの何が入っているか解らないものを買って食べ、自分自身で調理することが少なくなった為に、ろくに切れない刃物でも特に不具合を感じもせず生活が済んでいることが一因としてあるでしょう。調理に掛ける手間が楽になったその反面、添加物の沢山入った食べものを子供に平気で食べさせている主婦が沢山居ますね。理由はともあれ、これは主客転倒であることを免れ得ない事実であります。腹を充たすだけだったら、他人が作った何が入っているか解らないものをお金を出して買うだけで済み、自分で工夫して旨い食べ物を作ることが殆ど必要なくなったこともあります。
 それ故に料理を愛情を込めて作ることで味を一段と美味しくすることを知らないのです。気持ちの籠もっていない、そんな手抜きのものを食べさせて人並みの人格、霊格、魂の綺麗な人間が育ちますか、人生のパートナーが愛情を注いでくれますか。それでもリレーショナルシップが豊かだというなら、その人達の家族関係は、お金とか生活の保証とか権威などの力関係が基になった打算的なものなのでしょう。これは勿論男性女性の両方について書いています。例え夫婦共に料理が下手であっても、気持ちを込めて作ることが大切なのです。気持ちを込めることを放棄してしまって何が残るでしょう。だから誠意の無い、他人の気持ちが解らない、応えようとしない小さな心、脆弱なエゴしか持たない人間達が育つのです。
 食べ物は大事です。害のないものは勿論ですが、生きている生命力の込められたものをバランスよく頂きましょう。死んだ生命力(気)のない、かつ添加物のたっぷり盛られたものを食べているから免疫力が低下するのであり、精神状態がおかしくなるのです。食べ物は人間のプログラムをポジティブなものに変換するときには特に大事なエネルギーになります。意識の飛躍のベースは何を採り入れているかによります。仙人でないのですから虚空中からエネルギーを採り入れることができません。口から入るものを選びましょう。

●先進諸国の中で飛び抜けて低い食糧自給率
 また、食料を生産するための農機具(機械で作った程度の悪いもの)も使い捨ての状況、そして農協や農機具農薬メーカ穀物メジャーを儲けさせるための機械化、さらに国際化という名の下の日本の食糧自給率を下げる政策(減反政策)や法律などなどが、こういった日本古来からの智慧を失う原因となっていると思います。
 日本の食糧自給率は昨年の時点で30数%(1998年度、多分穀物自給率)。他の先進諸国といわれる国々は低いところでも80数%、フランスなどは100数十%で輸出国なのです。国の根幹である食料の首根っこを押さえられているようなバカな話が何処にありますか。国際分業化とかいわれ、自分たちの得意な分野を分担してなどと日本は工業立国を目指したわけですが、ところが日本以外の国は食料だけは分業なんて考えていないのが前記の数値からも明らかでしょう。
 愚かな国民から選ばれた愚かな政治家がそれを許しているわけですが、実際は全員の責任であり、国民一人一人の責任です。また、国内に於いても、中央(なにが中央だか解らないが)へ何もかも集中しすぎたため、様々な歪みが出ています。都会人の地に足が付かないロボットのような生活、地方の癒着体質および中央から如何に金を吸い取るかが重要な地方政治。どれもこれもが、一人一人の意識の低さの反映です。いまの日本の野菜の不味さが農業者の誇りの無さを映しています。国の在り方と国民の意識はリンクしていますから、こういった結果は我々の意識と相似的と言えましょう。

●スタンドアロン (自給と精神的自立)
 基本はスタンドアロンです。精神的に一人立ちした上で足りない部分をお互い助け合いシェア出来るような精神性が確立されていなければ、お互いのエネルギーの吸い取り合いになります。日本人は特に集団で行動するのが得意で、すぐに集団の論理を振りかざしますが、自己確立が出来ていない人達が行うため、大抵はネガティブな方向に流れ、そしてドロドロの泥沼にはまってしまいがちだし、すぐにナアナアになって改善すべき点を有耶無耶にしてしまいます。
 この自己確立云々については、本稿の本来のテーマと逸れる様に見えますけれども、日本人の精神的特性についての良い点と問題点をまず再確認をした上で、食糧の自給と其の在り方にバックグラウンドになる自立した精神性、そしてそれらを支える道具の大事さについて認識をするのが良いと思います。鍛冶屋が作る道具は、自給的生活の各最小単位である個人、家の単位に於いて必要な道具を作ってくれるメーカーです。オーダーメイドで欲しい人に合わせて道具を作ってくれるとても便利な存在です。そして、其の道具類はマスプロダクションの機械が作り出すものよりも機能的で使いやすく長持ちするのです。そして自分達の手で修理出来ることも多いために他人の手を煩わすことも無いですし余計なお金を使わずに済むことも大事です。また此等の道具は、石油燃料や電気などの他者に依存するものが無くても運用稼働出来ることが大事な要素です。

 大地震や台風の多い此の国に於いて、また政情が不安定な此の時代に於いて、何かがあった際には自分達の力で生き延び家族を守らなくてはなりません。その為には最低限の必要なもの、食糧、水、住居、燃料そして衣料などを自分達で確保し、または作り出す力がなくては生命を維持することさえままならないでしょう。鋤鍬などの農機具、鉈やノコギリ、鑿などの木を加工する道具は全て鍛冶屋の腕一本で作り出せます。そしてこういった体制をいざとなったらとれるかどうかの潜在力あるなしで生き方が異なってきます。当然、意識の在り方も異なってきます。
 現代社会の都会生活の中に於いて、幾ら自立だとか言っても絵空事です。例え本人は仕事の中でいっぱしの能力をもって切り盛りをしているプライドがあるかも知れませんが、それは資本社会の中、作られた社会の中だけでしかない隷属状態の中での勝手な妄想です。自分の力で生きてきて自立しているつもりで居たとしても、それは都会生活のシステムの中の状態でのお話しでしょう。ビルやコンクリートの生活の中で、ライフラインが止まってしまった場合には、水、燃料(動力源)、食料をどの様に確保するのでしょう。排泄の問題を如何に処理して暮らすのでしょう。仮に郊外に移るに際しても車の中だけでは長期間は暮らせません。その時に、生存の為の道具や技術を何処までのレベルで持っているかが問題ですよね。
 当初は刃物が一本でも有れば住むところや食料の調理は出来るでしょう。それが長期に亘った時には様々な道具が必用になります。定住的になる場合には農耕から始まるでしょう。その時にも石油燃料が無い場合には農業機器は役に立た無く、使えるものは手で持つ道具のみに限られるでしょう(本より家族が食べる為の家庭菜園レベルには手で持つ道具類で充分であるし、土の奥深くまで耕して空気を入れるにはトラクターでは無理なので鋤鍬が必用)。ライフラインが停止した状況に於いて、取り敢えず家族が安心して住める小さな家を建てる場合に必用な大工道具にも電動工具は使えませんから、こういった状況では昔から鍛冶屋が作ってきた道具が必用になるわけです。

 そして、その鍛冶屋が作った道具は、単に人の手で使えると言うだけではなく、刃物という機能として高いことは、レポートのページに宮大工の西岡さんのお話しから引用させて頂いたように、鉋などは樹の細胞膜をもスパッと切るので木の表面が毛羽立たずに水を含みにくい故、長期間に亘って長持ちする材木に加工する事が出来ることから理解できるでしょう。これは電動工具では作り出せない世界です。電動工具は技術の無い人にも似たような事が出来る世界を拡げましたけれど、質が高い世界は職人の手作業から生み出されます。こういった世界を大事にしない事で文化レベルや根本的な国の力の双方が堕ちると考えるのは当たり前ですよね。其れはともあれ、何も無いところから必用な物を生み出していくには鍛冶の技術が無いというのはご理解頂けると思います。そんな事にならないのは一番よい事ですけれども、最低限のリスクマネージメントを行って、この様な技術や文化を保っておかなかったら、肝が据わった考え方も出来ないでしょう。何かがあったら、自分と家族を守って、どうにでも生き延びてやるという位の地力を持っていなかったら自分自身が正しいと思う生き方も出来ないでしょ?
 もっとも、こういった技術や智慧を知らなくとも、今までどういう世界に生きて生きたとしても、どの世界でも或るレベル以上に創造的な事をやってきた人というのは、問題解決の方法論が身に付いていますから、全てを失ったときにでも智慧を絞って現状を生き抜けるインスピレーション、内なる智慧、神の声が得られたりしますから、そういう人にはこういった条件は当てはまらいないとは思いますけれど、それにしても鍛冶の技術があると自由度が飛躍的に拡がります。鍛冶の技術は製鉄も含む冶金もありますけれど、それ以前に先ず鉄材があれば様々な生活に必用な道具を作り出すことが出来るわけです。例えば、戦後の鉄材を供出してしまって殆ど残っていない状況の中でも、廃材や鉄くずから必用な鉄と鋼材をひねり出して(寄せ鉄---よせがねの技術)、農具を作り出したのは、鍛冶屋レポートに書いた通りです。鍛冶屋というのは、そういった知識と智慧と技術を持っているものなんですね。

 こんな事を書くと、それはその時になったら考えたらいいと言う人が多いのではないかと思います。でも、日本人の精神的特性に竹槍戦法というのが色濃くあります。論理的思考法と段取りを捨ておいて、捨て身で根性入れて立ち向かえば奇跡が起きて何とかなるという“感情論”的思考方法がバックグラウンドにあるんです。ところが、結果がそうなるにはそれだけの積み重ねがあり、理由が必ずあります。そういった事を無視して甘えた考えで特攻していっても結果は付いてきません。一時的には効果がある場合があったにせよ、長期的に安定して結果を生み出せる訳が無く、何かしらの犠牲が付いて廻る事は言うまでもないでしょう。この点については、別ページでスポーツを通して観た日本人の特性、感情論的、特攻隊的捨て身戦法、竹槍戦法と、其の逆の、エキストリーム的スポーツ、冒険的な遊びが得意な欧米人に観られる論理的、ステップアップ方式リスクマネージメントについて書いてある部分がありますので、其方をお読み下さい。

 何れにしても、生存の自由を守る自給ということと、各個人の精神的自立、自己の確立という部分は切り離せないのでは無いのかと思います。人間が独りで山の中、海の中に入り食糧を得て生きて行く上には、刃物といった道具が一本は必要です。その道具を作り出すのが鍛冶屋なんですよね。だから鍛冶屋は自給と自立の為の道具を生み出す大事な役割があります。特に永続的な自給とか自立を目指す場合には、鍛冶屋は無くてはならない存在であるということです。飼い慣らされた都会人や資本社会の隷属状態の人間達とは別の次元の話です。現状では、鍛冶の技術は単に過去の精神的レベルの高かった時代の遺産という事になってしまうかも知れません。でも、何かことが起きて石油が輸入できない状況になったら、大きな災害が起きて電気ガスが止まった状態が長く続いたなら、今すぐにでも此等の道具が必用になります。

 今回の鍛冶屋のレポートで書いた内容は、単に日本の鍛冶屋のレベルが高いとか、刃物の質や機能が高いといった話だけではありません。それらを生み出した文化と其のバックグラウンドの精神性の問題です。その文化が消えつつあり、精神レベルは見る間にお粗末になっていったことを目の当たりにしているので、鍛冶屋のレポートと此の考察のページを書きました。
 依存心が強く自己確立の概念の低い今の日本人は、過去の精神性の高かった日本の伝統文化を引き継ぐ担い手としては、根本の性根が昔とは余りにも違ってきてしまっています。単に過去の文化が大切だから引き継ぐのではなく、どの様な精神の元に其の文化が造られたのか、何の意図や意味があるのかを認識しておかないと今後の舵取りもままならないでしょう。
 みなさんは、他国の属国や他人や社会の精神的隷属状態で満足しているロボット人間として生きて行きたいのでしょうか。今の社会の仕組みは、一見自由と権利があるように見せかけて、脅しが裏の意図に隠された経済や政治的仕組みの上に成り立っています(勿論、直接的には脅しませんよ。もっとエレガントに行われますけれど、最終的には脅しなんですよ。マインドコントロールされていると其れも解らないのかも知れませんが。石油がなかったらとか電気がなかったら、年金がなかったらなどということを前提に“不安と恐怖を煽って、社会全体の方向付けをする”のはそういうものでしょ?)。庶民は一応、文句は垂れるものの、そして一見立派な評論は述べるものの、此の枠組みの外に飛び出して新しい世界や価値観なんぞを創る勇気もありません。

 しかしながら歴史の繰り返しを観ていると、こういった飽和した社会は何かしらの現象、それは戦争であったり革命であったり天変地異であったり、何かしら大きな出来事が起こって歪みを解消するかのように何れ崩壊しています。行き詰まった人の想念は大きなうねりとなってリセット現象を起こすようです。今の我々の文明に於いても、各宗教が持っている聖典や世界各地のネイティブ達の言い伝えや予言に有る様に、また占星術で言われてきた世界的レベルでの改革が起きることを示す星の運行の状態になってしまったのが此の時代の様です。
 今の時代は魂が篩に掛けられる時と云われています。しかし、それはイエスが現れて選ばれた民を救うなんて妄想の夢物語が起きることではありません。そんな勝手な解釈をする方がどうかしている訳で、魂が浄められて自立した者は、救済を求める為の信仰活動や精神生活をしている訳がないでしょ。信仰者は、自分自身が他者や社会に対して何が出来るか、差し出せるかという事が大事ですからね。
 救いを求める気持ちというのは、社会や他人に依存しながら生きてきたことのツケが溜まってしまった結果に対して、心情的に飽和しているという事を表しています。色々な物や体面や権威などの垢を捨ててこなかったから、巡り合わせが悪くなったり身体を悪くしたり人間関係が悪くなって自分でしまい、ついに自分を追い込んでしまった結果です。自分が責任を一つ一つ取ってこなかったことの表れではないでしょうか。

 そういった状況から抜け出すには、先ずは当たり前の事を当たり前に、その原因となった因果関係を見通す力が必用です。その力を得るには、依存的視点から物事を観る癖を抜け出ないと無理です。眼(まなこ)に、物の見方に曇りが掛かっていて真の原因が得られる理由もありません。依存心を捨て、自分の足で立脚するという当たり前の事を確立し、自己を大事にして育て、自分の周りで起きる事は自分が原因である事を認識した上で自己責任の意識を高めて、自己を確立することが大事です。
 互いの助け合いというのは其の後です。自助努力もろくにせぬまま他者の助けを求めて居ては根本解決にならないことは誰にでもわかる理屈です。でも、多くの人はそうじゃあ無いのですね。そういった姿勢さえも無い人が多いのにビックリします。つまり欲が強いんです。甘えばかりなんです。
 自分はそのままで損もせず、痛みも感ぜず、大した努力もしないで何も失わずに現状を維持したい、安定を保ちたい、そんな人が多い社会では、環境を汚すものとか、子供を食い物にする様なシステムが平気で罷り通ってしまいます。保身ばかり考えるから他人の事は見て見ぬ振りをするとか、経済が廻らなくなると自分にもそのとばっちりが来るからと問題を大きくしないように受け身の立場をとります。
 また、そういう事が理解できる人でさえも、自分自身が実際に手を下さないだけで、状況的には幇助していることがよくあります。言ったとしても外側からの遠吠えのみに終わらせています。自分自身が損しても行動するとか痛みを背負っても実行するということはあり得ません。上手いことズルして自己の保身を計っています。自分の身の安定はそのままに生活を確保してという具合です。
 倫理的にやることもやらずに保身する様な欲の強い人達には、本当の意味での助け合いは解らないでしょう。損得勘定の意図を裏に隠し、付き合うのが、此の社会、いまの文化です。

 実際のところ困っている人にはその様な状況に陥った理由が必ずあります。その根本的な原因を解決せずに行う助け合いというのが、因果関係が見える種の人間には不思議でなりません。自分自身が撒いた種は自分自身が刈り取る事になるという宇宙の法則を前提に、自分がやった事の責任は自分で引き受けるという腹が決まっていなかったら何事も根本的な解決にならないことは、そういった意識的に生きる行動パターンをもって活動を行い生きてきた人間には心から理解できる当たり前の現実です。自分自身が自分の現実を引き受けて、そして自分を変えるのだとか、病気を乗り越えるのだとかを決心し、自分自身が抱えている問題に対して正面から対決する肝が決まっていない人間に対して、幾ら助言をしても、よい薬や治療法を与えても、けっして実が出来、花が咲く事は無いからです。現実から逃げていたり、本当の原因を心から認めていなかったりして、自分自身のありのままの現状を受け入れない人間には、効く薬も治療法も無いのです。

 ところが、こういったネガティブな逃げの意識が変わって、自分自身の本来の力を認めて、自分が変わるんだと決心した途端に、効果が表れてきたり、また人や物との巡り合わせも良くなったりする事はよく有る事です。ですから、まず自分の意識を変える事です。他人や社会を変える事ではありません。

 そういうことで、その自己確立と個人の上位である組織の自立の関係は相似的な要素がありますので其の基本的姿勢を確認したいと思います。要は個人でも地域でも国でも、それぞれの単位で経済的にも精神的にも自立を目指す。そして、その上で地域性(個人)の特色を持って、その上で互いの足りない部分を助け合うということでしょう。

 家族という単位で見ていても、自己確立できていない人同士のベッタリの寄り掛かりあいの家族は、調子がよいときはハッピーに見えますが、歯車が狂うと途端に崩れてしまい責任の擦り合いになってしまいがちです。そして既に破綻しているのが傍目からも明らかなのに、現実から目を背け、根本原因と異なるところばかりをこねくり回して、ドツボから何時まで経っても抜け出せないのです。 それは相手に要求するばかりで、自分自身が考え方を変えるとか意識を変えるとか行動を変えるなどの自己変革を行わないからです。

 自己確立の出来ていない人は、常に責任を自分以外の人間や組織、社会などに転嫁します(宗教をやっている人は、良いことが有れば神様のお陰、悪いことが有れば因縁が悪いとか、霊障だとか、兎に角自分以外のものが原因にしてしまいます。運が悪いのも病気になるのも、全て自分の意識と行動の反映です。しっかりとした信仰だったら良いのですが、宗教をやっている人は依存心が強かったり無責任だったりすることが目につきます)。または病気などのせいに転嫁します。ところが、病気は間違った信念から起こる意識の歪み、気の滞り、間違った身体の使い方であることなどを教えてくれる大事な信号です。其れに気づき、その根本から是正しないと本当の疾病になってしまいます。人によっては、病気になると弱者を演じられるために敢えて病気を引き起こすことさえも行います(言語外の意識のパワーとはそういうものです:多重人格障害のカウンセリング時に違う人格が顕れた場合には、その顕れた人格の時にだけ実際に疾病を伴っている場合もある、こういった事からも意識の在り方一つで瞬時に肉体レベルに変化を起こすことが可能であること、つまり心に病気を起こす力があることが深層心理学でも検証されている)。

 こういったレベルの意識は、自分こそ与えられ守られるのが当然の権利と思い、それが実行されないと被害者を装い、ごねて補償を得ようと騒ぎます。またはお互い傷の舐め合いを上手くいかない現実や病気、トラブルについて互いに共感して現実から逃避します。または被害者意識に囚われ、その反動的行動として他人の足を引っ張ることに終始します(これは他人を、自分と同じようなレベルとして見たいがため、相手が持っている可能性を認めるのではなく、自分と同様の力が弱い被害者の仲間として扱うことも含めますし、または妬み嫉みの念が強く、自分と違う世界に移行して幸せに伸びつつある人に対して態度が、紳士的であれ、また逆に攻撃的であれ、手を変え品を変え相手の足を引っ張ることも含めます。何れにせよ自分と同様のネガティブな世界の仲間を作りたいわけで。こういった想念は自分が自覚せずとも感情の部分で持っていれば、それは、差し出すものが還ってくるものという此の宇宙の法則に則り、必ず自分自身に発信したエネルギーが戻ってきて、同じ様な出来事が起こってしまう現象として顕れます)。
 そんな人が多くて、健全なエネルギーが循環する社会が出来上がるわけがありません。演歌が好きな日本人、悲劇のヒーローヒロインが好きな集合無意識を持った日本人。多くの人がそんな暗いイメイジを投影している限り、創造的なエネルギーは流れ込まないだろうな、と思えて仕方がありません。
 さてさて、自己確立などと書いても自己確立出来ていない人は、実感が湧かず、何のこっちゃ、自分があって当たり前だろうなどと考えるでしょうね。自己確立の自己の意味と、自我の想いが考える自分とは別な話です。

 誰でも自我があるので自分は自分と思っています。その上、自分が全て、自分が正しいなどと思い込んでいます。自分の見方でしか物事を考えられないのです。他人の気持ちを思い図るとか、自分を捨てて相手に波長を合わせるなども不得意です。ましてや、自分自身を客観的に観て、ジョークのネタにしてしまうなどという意識の拡大された芸当なんて出来ません。これは自我(エゴ)が強い証拠です。よく居るでしょうプライドばかり高くて、自分は自分は、と自分のことばかりいう癖に、現実のネガティブなことから逃げていたり、嫌な目に遭うとめげてばかりいる人、他人に対して批判的だったり批評的で、他人を攻撃することで自己の存在を確認するという迷惑千万な人が、、、これは自分が自分自身を認めていないから、自我がプライドを強くして他人を自分以下に評価することにより、自分自身のネガティブな部分を守ろうとするのですね。
 それとは逆に、自分が自分自身の良いところも悪いところも受け入れて、でもそんな愚かな自分だけれども、その自分自身を一歩先に進ませようと思っている人は、そんなケチなプライドにしがみついている暇は無いはずです。
 一見強そうに見える人間ほど心が弱く自我だけが強いものです。自我というものは、自分を守り自身の行為を肯定する機能を持った(凝り固まった)意識ですから、当然の如く自分自分という自分の論理ばかり強くなり、エゴの殻の外側ばかり厚くなります。自分を守る為の理屈や凝り固まった思い、そして物理的なドンガラばかり分厚くしていくのですね。それ故に、逆に其の分だけ段々と疎外感分離感が強くなって、やがていつも不安感につきまとわる様になります。

 だからこそ逆に、他人や社会に合わせようとして、表面的な物まねをしたり、好みの特定の集団の中に入りたがるのです。TVや雑誌、いわゆる一般的なメディアでの情報ばかり気にして、他人が社会が何をやっているかが気になって仕方がないんですね。そうやって自分の立ち位置を決めようとします。自分自身の価値を自分自身で認識できないために、自分の外側である社会や周りと比較しないと決められないんですね。何か大事なことを決めたり決心したりする場合には、その基準を外に求めるばかりで、自分自身の基準を持つ努力をしてこなかったという事でしょう。

 そのようなわけで、自分というものを持っていると勘違いしている人でも、実は自我(エゴ)が強いだけで、赤信号みんなで渡れば怖くないとか、他人がやっているから自分もやってみようとか、他人が持っているものは自分も持っていないと格好悪い、目立ち他人から賞賛されたい有名になりたいと考えるなど、常に他人や社会が基準で行動原理がそこにあることを見れば、単に自分はという自我を認識することと、自己確立された状態とは違うことが解ります。

 自我が強いだけで自己確立されていない人間は、自然の中で短期間でも独りで生きることが出来ないし、日常生活に於いても常に周りに誰かが居ないと精神が不安定になってしまいます。また他人と考え方が違っても自分が正しいと思うなら一人でも実行する行動力とか、集団の中で浮いていても自分の価値観を大切にすることが出来るかどうかもあります。要するに独りでは何もできないのです。 有る意味欲深いのかも知れません。それは物質的な欲だけでは無くて、精神的な欲も含めてです。他人に良く観られたいとか、注目を浴びたいとか、人の気持ちを惹き付けておきたいなどの気持です。つまり、自分自身で自分を認めることが出来ず自己完結出来ないから他者の称賛の力が必要というわけです。そういった他者依存の意識が強い人が、自己確立を出来ているとは言えないでしょう。
 ただし単に目立つ為や自分勝手にやるというのでは、自己確立とは別の次元ですから、エレガントにクールに長期間に亙って前述のことが実行されているかどうかです。自分の行動基準が、他人の目でなく自分自身の心と相照らしたものになって来たら自己確立されつつあるのかも知れません。

 大事なことは自己確立されている人間は、違った価値観の人間も認めることが出来るし、受け入れることが出来るということです。自分と違った異質の存在も尊重できるのです。此処が一番大事です。自己が確立されていないと、多様の質の物を受け入れて尊重するとか認めるなどの肝要の気持ちとは逆の意識構造になってしまい、狭い意識による不安感や恐怖感によって異質のものを受け入れられないのです。だから人との付き合いの中で、理解できないものは先ずは否定から入ります。
 自分が弱い立場なら逃避するし、数を頼んで多勢なら攻撃の姿勢になります。自分自身が弱く且つエゴが強い人間は、異質のものを理解し受け入れようとする前に、攻撃排除しようとする傾向が強いですよね。それも勝手な理屈を付けて現実をねじ曲げてしまいます。

 自己確立できていない依存心の強い人は、何時までもママやパパなどの自分を守ってくれるオーラの中で暮らそうとします。そして今度は自分が親になったときに逆に子供を自分の価値観で縛ろうとします。子供を所有物のように思い見返りを求めます。子供が巣立とうとすると世の中が如何に大変かを得々と話して出ていかないように足を引っ張ります。
 自分の理解できる範囲に押し留めておきたいというのは親自身が自立していない証拠であり、其の子供を同じレベルの連鎖に巻き込もうとする行為です。何時までも親離れ子離れが出来ないので、今の世の中が幼稚な人間ばかりになってしまったわけです。此は動物には有り得ない姿です。動物親離れ子離れは厳格です。そうでなく自立できない子供になってしまった場合、親が死んだら自分自身で生きていけないからです。自然のシステムの中で淘汰されてしまいます。自分で餌が採れなかったり、グループの中で力関係を読みとれなかったり、環境や天候の変化に対応できないことは即、其の個体の死を意味しています。より動物的なのかどうかは解りませんけれど、欧米の人種は自立意識が高いのはご存じの通りです。

 ところが、昔から村八分意識が強い閉鎖的な心が強い日本人は現代は金太郎飴の様な教育でロボットのような人間ばかり創り出しています。そして現代では、自己崩壊を起こしているというわけですね。だから国も崩壊寸前なのです。それは皆が幼稚で依存心が強く、自己確立された意識で自己責任において判断、行動をしないからです。これは自分勝手と言うこととはまるきり質が違いますので、その事が認識できなかったらあなたは相当に未熟かも知れません。

 この様に、異質なものや価値観が違う存在を受け入れられないところから、争いや競争独占排除といった平和を乱し不幸を呼ぶ狭量で幼稚な意識が増幅するし、さらには相手に対して具体的な攻撃行動を起こす原因となるのです。そのようなことから自己確立とかスタンドアロンということを大事にしなくてはならないと思われます。

 ちょっと自己確立という言葉で表すにはオーバー過ぎるところもあるやも知れませんが、言いたいことはご理解いただけると思います。そして自己の確立には自己責任の意識が伴います。自己責任の意識が高くないものに自己確立された状態は訪れません。

 自己確立とは、全体の中の個である自分、宇宙の構成要素の一分子である自分自身だが、その小さく思われる個が全体に影響を及ぼしている、自分に縁ある周りの環境や他人の心の在り方には自分自身の想いと行動が何処かで繋がって影響している。だから自分自身の想念と行動に責任があることを自覚、認識し、自分の関わる世界の中での自分の役割を発見して責任持って生きていくということではないかと思います。
 人間の意識は奥底で全ての存在とつながっています。表層の意識では認識できない部分でも互いに影響しあっているのです。つまり真の自己確立は、集団への帰属を再認識し、その中での自分の場所を明確にするということかも知れません。自分の奥深くある超自我へアクセスし、全体の中での個、その個は全ての存在に通じ、他人と見えるもの、そして物質という自分の外にあると認識していた対象物も、みな自分と別な存在ではなかったという実感を伴う認識に達するということなのではと考えます。

 結局、自己確立されていない人間は、自分自身を生きることが出来ないから自分自身の人生の主役には成れません。常に他人や社会との対比の中でしか自分自身の価値を認めることが出来ないからです。意識が外にばかり向かっていて、自分の内面や心の奥に向かっていないのです。自分自身の本当の望みとか本音とか心の歪みとか日頃認識できない本当の自分自身を知ることが出来ず、身体の声(言語外の意識)も聞こえません。
 ですから自分の人生の主人公ではなく、他人の人生及び社会の脇役でしかありません。こういった質の人達はマインドコントロールされやすい種類の人間です。既にマインドコンロトールされているからこそ、そういう状態でしか物事を考えられないとも言えます。不安や恐怖心が強い人間ほどコントロールしやすいものです。
 人間関係の中でも、組織や社会の中でも同様です。そういうタイプの人達の不安や恐怖を煽れば、消費者としてお金を使ってモノを買うでしょ。例えば、此からの時代はパソコンぐらい使えなくては、、、と言えば、使う目的が無くても買う人は沢山います。また例え身近の親子関係でも、不安恐怖を盾に脅して自分の考え方通りに動かそうとしたりするでしょ。もっとも、そんな直裁的でなくとも、エレガントにそういった手法を執行する人は、一見いいお話しの様な話しぶりをしながらも、最後の落としどころは相手の不安を煽ることだったりして、最終的には思い通りに相手を動かしてしまったりするんです。

 そしてこういった意識レベルに達することは、幾ら頭で理解していたって実現出来ません。TVや本で良いお話を観たり聞いたりしたとしても、自分自身が実行して居なかったら、それは絵空事です。それでは、他人の人生を生きているだけです。それよりも自分自身が自分の力で今まで何が出来て何を創り出してきたかということです。勿論のこと、そういった中で他人の協力を得られる人柄というのもその人の力です。お金とか権威だけでは長い間他人の協力は得られませんしね。また、自分自身が他人や社会に対して、何を差し出せるのかということです。実行力や実現力、智慧を持っていれば、その力に対比してあればあるだけ差し出せるものも多くなるでしょう。自分に対して何をして貰えるのかという受け身ではなく、自分自身が何を出来るのかが問題です。何が差し出せますか。それによって社会の中での役目が異なってきます。

 自分自身が何を出来るのか、何をしたいのか? どうやって生きていきたいのか。どんな役目があるのか。そう言ったことは、いくら意識を外に向けていっても何時までも得心できる時は来ません。それは自分の内側に向かっていくものだからです。そして其れが出来ない人間は何時まで経っても自己確立出来ないのです。自己確立出来なければ、自分が社会に対して真に役に立つことは何なのか自分自身が解りません。浮き草的意識で漂って行くだけになります。

 そういったマインドコントロールしやすい意識レベルの人間が多ければ社会は混沌としてしまうのは自明の理でしょう? 良いも悪いも増幅して出てしまいがちです。自分達が自分自身をコントロール出来ない訳ですから其れも当然です。
 そういった国民が多い国って、とてもコントロールし易いでしょうね。 特に日本人は子供が大人になっていく過程で自立を促すことにあまり重要性を見いだしていない様に見受けられます。

 日本人が自分達の子供に対して自立を促して居らず、いわゆる囲い込みで自分達の言うことを聞く人間、自分達が理解できる範囲内の人間を育てているのと同様に、アメリカは日本に対して相似的な行動をしているわけです。囲い込みをして勝手なことを言い出さないように、また言うことをよく聞いて自分達の与える価値観の中で抜本的な改革案など実行せずに、ただ生産クォリティを上げてお金を稼ぐように躾けています。日本の自立を促すのではなくて、逆の状況である依存心の強い状態に持ち込んで、食糧や燃料、原材料などを自給できないようにしているわけです。

 結局、それは自分達が自分達の中の弱い立場の人間(子供を含めて)に対して行っている事を、他国が日本に対して同質の行為をしてくれているだけなんです。そういうことを行っていると、結果この様な状態になるよ、と正しく鏡のように見せてくれています。面白いですねぇ。それでも、世間的なことを解ったような事を言う日本人も、自分自身の身に危険が及ぶことや、先行きの見えないことに飛び込んでいって、新たな生き方にチャレンジする人は滅多に居ません。口先ばかりの腰抜けが殆どです。
 そして自己確立の出来ていないそういった種類の人間は、他人が新しい価値観を創造しようとすると応援をするのではなく、そんなことが出来るわけがないと脅かすような足を引っ張る側に回ります。依存心が強かったり自立していない人の精神構造はそんなものです。日本人には良くいるでしょそんな人。それじゃあ、感受性の強い子供達は大人達の馬鹿さ加減を見抜いてグレるか見放すかしますよね。今の子供達がおかしくなったのは、こういった種類の人間達の責任です。
 これもGHQが行った日本人無能化政策の3S政策(シネマ、セックス、スピードでしたっけ?有名なのでご存じの方も多いと思います。正しく戦後の日本は其の裏の政策通りになりましたものね)の効果なのでしょうか。

●エコロジカルな文化の伝統:スタンドアロンであった過去の歴史
 日本刀を頂点とする、日本の刃物の優秀さは世界に比類がないものです。わたくし国粋主義者じゃないので・・・念のため。ただ、今の日本人は、明治以降の流れである物理的なものにより価値を置く“力の論理”による間違った教育と、外国の政治的経済的駆け引きのマインドコントロールにより、人間として生きるための哲学を捨て去り、古人から伝えられた智慧を忘れ、その伝統の誇りから遠ざけられた精神性の低い非常に粗い愚かな魂達の集まりになっているようにみえます。ある部分、昔の神国日本という軍国主義にマインドコントロールされた歴史の反動で、日本の古いものをすべて無価値とした意識の流れが根強く残っているのでしょうね。
 こういった極端に価値観が振れることも、国民の多くが自己確立されておらず集団の論理に流される人間が多いから、常に他動的に意識がコントロールされてしまうからではないでしょうか。 戦争中は皆がマインドコントロールされ鬼畜米英と叫び、戦争に負けた後は、みんなでギブミーアチョッコレート!と叫んで物貰いになったのです。その時の多くの大人達も、今まで言っていた事とは全然違う、手のひらを返したように米兵に跪いたのです。魂を売ってしまったのですね。周りが同じなら価値観が直ぐにひっくり返るマインドを持った日本人の特性。良くも悪くもそういう事を知って、自分自身の心を管理する事が大事だと思います。

 さて古来の智慧を引き継いだ職人の手がつくり出すものは、いまのハイテクノロジーといわれるものをもってしても追いつかないものがあります。幾らコンピュータが発達しようが、ロボットが人間に近づこうが、経験と智慧と勘を駆使してものを作り上げるジャパニーズトラディショナルエンジニア(職人)には太刀打ちできません。
 それに打ち刃物は素材を打って形を整えるので、材料の無駄を最小限に抑えています。屑となるのは刃を研削したときの削りカスくらいです。その削りカスの鉄粉も鉄鑞の材料として使われるのですから、凄いエコロジカルなことだと思いません?(※今のハイテクの最前線でも、開発要素の高いものは職人の手作業に依るものが多いのは知っての通りです

 なぜなら、日本人は何百年にも亙る鎖国時代にも、クローズドされた経済(スタンドアロンの経済)の中で高い文化を築き上げてきた人達だからです。でも、現在では他国の資源まで食い潰し、殆どの国から非難と蔑みを与えられているような、金だけは持っているが品性のない成金国に成り下がってしまいました(本当は国力ないんですよね。借金国だし回収不可能な他国の国債買ったりして資産が流出しているから。でも個人の豊かな貯蓄が狙われている)。

 ところが、いま縄文時代の遺跡が次から次へと明らかにされつつあり、我々が考えていた以上の高い文明を古代が持っていたことが伝えられています。世界で最古の塗装の技術は縄文人達が持っていました。漆塗りの技術です。湿気の多く木の文化である日本に適した塗装を漆塗りで実現していたのです。日本は古代からこういう智慧があったのです。そして人の手間を掛けて作り上げる漆塗りは高い機能を持っています。例えば、プラスティックの器にリンゴや蜜柑などの果物を載せて置いておくのと、漆塗りの器に載せて置いておくのとでは、ぜんぜん保ちが違うのと同時に味も違ってしまいます。プラスティックの容器や器のものは中身が長持ちしません。何故なら静電気が起きやすい為に、酸化環境を作ってしまうので腐敗、酸化を呼んで仕舞うからです。処が漆塗りのものには其の逆の作用があるようです。

 さて、以下の様なことは本稿の話から少々それますが、日本古来の智慧を大切にするということの根本的なところを理解して貰うために、重要なポイントがありますので少し書き添えます。

 我々が学校教育で習ってきた古代史に於いて、記紀(古事記、日本書紀)は真実を全て伝えていないといわれていることです、さらにはそれ以前の歴史上の流れがいきなり弥生縄文の石器時代の原始人的生活になるというものです。中国、インド、エジプト、メソポタミア、ローマでは高い文明が開かれていたのにこの日本の土地では、原始人だったと教育で教えられてきたのです。
 ところがその教えられたものは、征服者によって記紀から読み取れる史実を書き変えられたものであり、また我々が原始人的生活と呼ぶものは実は高い文化を持っていた豊かなものだったというのが明らかになってきたのです。

 その頃は食べ物だって美味しかったに違いありません。今でさえ魚や山菜はその土地で採れる新鮮なものを旬の時に食べると誠に美味しいものですが、都会だけで育った我々はそれを知らずにいます。20年前でさえ渓流の魚が真っ黒にいるほどの川は沢山ありましたから、大昔はどれだけの魚がいたのでしょう。渓流釣りでターゲットとなっているヤマメ、アマゴ、イワナの鮭科の魚が、今のようにダムや堰堤が無くて河を下って海に行けた頃、その下った渓流の魚達が再び鱒となって河に帰ってきたものの美味しさは今となっては伝説となってしまいました。山菜、キノコ、山の果実と、海の近くでなくても美味しい食べ物は豊富にあったのです。気象条件によって厳しい年もあったでしょうが、全般的には穏やかだったはずですね。だって、長期に亙る定住が北の青森の土地でも可能だったのですから。

●豊かな自然に育まれた受容的人種と、厳しい環境で鍛えられた拡張攻撃的な人種
 しかし、その文化は木や草、土という腐って形が残らない環境同化型の自然の一員としてのものだったため、後世に残り難かったわけです。後世に名を残そうなどと石などでモニュメントのような構造物を作ったりはしなかったのです。このような物質指向でない、精神的というよりは霊的な魂を大事にするスピリチュアルな文明は、他にアイヌや沖縄の人達、マヤやアステカ、アラスカのエスキモー、アメリカ大陸のインディアン、ハワイのカナカやポリネシア人、オーストラリアのアボリジニを始めとして、各地に居るネイティブ達、それはコーカソイド(白色人種)を除いた人間達で、攻撃的拡張的でなくどちらかというと控えめで受容的な開かれた魂を持った文化に属する人種なのです。その為に、劣った人種という教育が、物質的な力が強い粗い魂を持った征服的な白人種によって故意にプログラムされた過去の歴史をどの民族も持っています。土地を取り上げられて押し込められてしまい、酒やドラッグ中毒になってしまったインディアンやエスキモー達が良い例です(もっとも白人種に限らず征服する側というものは、常に自分たちの価値観や歴史のみを残すように働いた)。我々はそこまで行ってはいませんが幕末以降様々に操作されてきました。

 ひとつ例を挙げるなら塩の問題です。これは戦後GHQ(GHQ全てという意味ではなく、背後にアメリカ国家とは違う別の闇の組織が動いていたのですが、マッカーサーがこの手先の人間であったため。この辺りのことは多くの書物が出ていますので知らない方は勉強して下さい)によって専売公社だけが売ることが出来るようにされたといわれています。そしてその食塩と言われるものの正体はNaClという化学物質で、本来我々が必要としているミネラルなど大事な主要成分が入っていないものでした。日本人の頭の働きを悪くしようという意図のもとに操作された一例です。

 近年でこそやっと良い塩を売れるようになりましたが(自分は1980年頃から知り合いに研究会形式で作っている藻塩などを分けて貰い、その後も良い塩を使い続けている)、こういった操作は数限りなく行われてきましたし、いまも行われています。それなのに、こういうことも知らない、また不思議に思わず知ろうともしない人間が多いのはなぜなのでしょうか? 情報操作が行われていることなんてみえみえなのに、なんで目を背けるのでしょうか。受容的な日本人はマインドコントロールしやすいという端的な結末です。お上の言うことはみんな受け入れてしまい、国は国民を守ってくれるはずだ、という希望のみで、自助努力を放棄している人間が多いから、右向け右と唱えられると簡単に右を向いてしまうのです。それで上っ面だけの善人を演じていて、ネガティブなことが自分の身に降り懸かると、途端に被害者に成りきってしまう小狡い小市民が多すぎます(こういう人間は、自分の蒔いた種が育って、それを自分自身が刈り取らなくてはいけなくなっても同情の余地はありませんね)。

 農耕定住型が多い日本列島の住民と違って多くの白人種は古代から狩猟によって生活を成り立たせてきました。生活と食料の場の確保、拡張のためには侵略戦争が彼らの常識ですから基本的な認識が違うのは当然のことなのです。良いも悪いも無い、それが当たり前の種の本能としてプログラムされた人種であるわけです。ですから、現代においては、情報操作の罠を仕掛けハッタリや駆け引きで他民族からお金や情報、土地を巻き上げるのなどはなんとも思っていなくて当然です。
 沖縄では幾つも事件がありますが、先日酔っぱらい運転のアメリカ兵が女子高校生をひき殺しました(`98年)。でも、日本の警察に身柄が引き渡されるわけでもなく、アメリカ側にその処理を委ねるしかないのです。そんなことがまかり通っていて、アメリカが民主国家といえますか。同様ことはアメリカに限りませんが、彼らの民主的というのは、同民族内(同国内?)においてです。勿論、全員がそんな人間ばかりでないのは当たり前ですが、国がやっていることを許しているということは、他民族に対してその様なことを行っても平気なアメリカ国民全体での集合無意識的合意があるということです。逆に日本人はそういったことを受け入れてしまう集合意識が根強いというわけでしょうか。

 尤も日本人もアジアの他民族に対して同様のことを行ってきたのですから因果は巡るといわれても仕方ありません。さらに突っ込んで考えてみれば、倭人といわれる人達が蝦夷やアイヌの人達に対して行ったことも同様です。その頃の話を調べると、倭人は正攻法で蝦夷やアイヌの人達に向かうのではなく、もっぱらだまし討ちが多かったそうです。アイヌの人達が残っていた関東の坂東武者が出るまでの日本は騙しの歴史という人もいます。武士道的な真っ正直に正面から当たる雄々しい戦いはアイヌの人達からの影響だそうです。
 我々の祖先達の話ですが、役目や立場が変わるだけで、やはり歴史は螺旋状に繰り返すのではないかと思います。そしてそのような行いを為してきた者が逆の立場になったときには、蛇に睨まれた蛙のように抵抗せずに運命を受け入れてしまうのでしょう。それが潜在意識の働きかも知れません。相手に投影したものが自分自身にも反射してしまい同様の運命を辿ってしまうのです。イメイジして念じたものは、潜在意識にプログラムとして残り、潜勢力として自他ともに動かしてしまう動力になるのです。ですから、念の強い人はポジティブな心持ちを心がけないと、自らをも相手に投じたイメイジの如くに運んでしまうのです。昔から言いますでしょう、他人を呪はば穴二つと。

 そう、意識というものは、問題から逃げるのでなく、正面から乗り越えていかないと、何時までも同じようなトラブルに見舞われ問題を抱えたままになります。自分自身の意識下の未消化の部分を外的要因によってまざまざと見せられるわけです。これは個人でも国でも同じです。個人の意識下なのか、民族の集合意識の部分なのか単位だけの違いです。当サイト流の言い方をすると“他人は鏡”なのと同様に、“他国も鏡”と言えましょうか。

 ですから、他人(他国)の振りをみて、わが身を正さなけれなりませんし、他人から自分に対してされたことから推測して、自分の過去(前世)の行いや、現在の意識下の状態、心のあり方が見えてきます。他人から受けた仕打ちによって、自分が持っている意識下のエネルギーの波長、すなわち共振するものを引きつけるという事実に拠って、自分の性格の偏りが客観的に認識できます。
 他人の中に自分を見れるようになったら、意識の転換の始まりです。そして、他人の心が理解でき、振り返って自分の心の理解、意識の状態、ひいては人間の心のというものの動きが会得されるものと思います。よく解ったらポジティブなエネルギーを発信しましょう。送ったものが贈られるものです。

 そして、そういう人間が多くなり、リーダーも同様の波長を持った霊格の人物であれば、この国の舵取りも変わってくるでしょう。そう、日本の国は良い素養があるのにも拘わらず、ちょっと成金状態で奢り他国を踏み台にするような悪業を行い周りから相手にされ無くなりつつある落ち目の国、その日本が心を入れ替えたことによって如何に多国の役に立てることが出来るか、という実験を遂行するにあたって非常に良い位置に居るはずなのです。

 さて現在では以前より簡単に戦争を起こせなくなりましたので、白人種達はその代わり経済で罠を仕掛け、経済戦争を起こしているわけです。そんなことから目を背けて享楽的な方に流れてしまう日本人の脳天気な考え方は何処から来るのでしょう。得意の臭いものには蓋を、というわけでしょうか。ネガティブなことから目を背けるのが得意ですものね。単位を小さくして考えてみても、自分自身の深い部分を知ろうとしないのも同様な我々の性向です。自分自身の意識下を掘り起こし、他人の意識下を推測して自分への戒めと学びとすることで、自我の固い殻が柔らかくなります。

 人(人種)によって意識や価値観がまるで違うというのが解らないのは想像力が貧困で幼稚だからです。井の中の蛙で、自分の考えていることは人も同じとしか思うことが出来ない、非常に狭い目(自我)しか持たない人間(日本人)といえるでしょう。全体主義で集団でしか行動出来ない人間が多いから、そういうことになるのです。その集団の論理から外れた人間を認めようとせずに潰しにかかったり、その人間を抹殺しても、集団で行ったために抹殺した当事者の責任が有耶無耶にされもみ消され、責任の所在を集団の力で雲散霧消させてしまうわけです。

 しかし、その集団帰属型意識が外に向かうときには、他民族の置かれている環境や精神性も自分たちと同様だと勘違いし、力関係が優位の国や民族に対しては言語の定義づけもないままアバウトな契約をしてしまいネゴシエーションが出来ない結果になっているし、力関係が劣位の国や民族に対しては横柄な自分勝手な価値観を押しつけ、メンタリティの多様性を認められずコミュニケーションが取れずに悪感情を拭えないでいます。そんな狭量なメンタリティを持った国民が多い国の、そのまた地方のナアナアで成り立つ田舎の町の理念も誠意もない政治屋が国会議員になり、さらには大臣になっても、外国の凄腕ネゴシエータや哲学や宗教的信条(ある意味では狂信的な)を持った人間達と渡り合えるわけがないのは当たり前の話です。
日本人は、広い世界には異質なものがあることを認識し、その存在を理解して認めるところから始めなければなりません。そして異質な文化を認め尊重した上で、人はそれぞれ違う現実を背負っていることのベースの上で自分たちの世界を築き上げることが始まりです。

 その為には構成要素である個々人において自己確立されることが先決なのです。自己確立された上で、集団でのチームワークが上手に出来たら、こんなに素晴らしいことはないと思います。相手の持っている力を信じて尊重しながら、必要な部分で助け合う。しかも恩を売るわけでも、駆け引きをするわけでもなく、お互い奉仕できる機会が得られたシンクロニシティを楽しむことが出来たら今の世の中とは随分変わるでしょうね。
 自分自身の器と能力を知り、それをさらに拡げるとともに自分自身の得意な部分で社会の役に立つ。その役に立つことは、他人に賞賛されること以前に、まず自分自身が納得するかどうかが行動原理であれば尚結構だし、本当の地力が付いて来て人の役に立っていけば、自然と人からも引き立てられるでしょう。その時には他人からの賞賛がモティベーション(動機)ではなく、無意識に自然な奉仕的行動が出来るようになっているはずです。そして他人から認められるようになったときにも、奢らず高ぶらずに自分を低く持つことが出来、まとわりついた余分なものを捨てる気持ちを忘れなければ、道を誤ることは無いことと思います。これらのことを実現するには自己確立することが基本条件ではありませんか。

 以上のことに関して反対意見もあると思います。自分(自国)が変わったって、相手がおかしいのだからしょうがないじゃないかということだと思うのですが、ではお尋ねしましょう。こういう経験はありませんでしょうか。

 あなたが恋人と喧嘩して何日も連絡を取っていないとします。まあ、これは恋人でなくても家族とか友達とか縁の深い人が分かり易い例です。そこで、あなたは喧嘩した理由をいろいろ考えます。相手の理解力の無さや、非論理的な思考方法、気遣いのないことなど、または自分は如何に努力して相手のことを考えたか、全体性を考えるとベストの道であること、客観的に常識や理屈から考えて自分の言っている内容は間違っていないことなど、ありとあらゆることを考え、自分が正しくて相手が間違っていることを検証します。如何ですか?多くのパターンとしてはそういうことが多いですよね。
 確かにいま問題となっている喧嘩に於いて、論理的にはあなたの方が正しいでしょう。でもそんなことをいくら考えていても、事態が好転するわけではありません。

 そこで更に考えます。相手の気持ちに波長を合わせ、相手に成りきって想像を巡らしていると意識が拡大し過去を思い出しました。実は以前、同じ相手と似たような行き違いが過去にあったこと、その時は今回と逆に相手の気持ちを無視して自分が勝手に行動してしまったことが原因だったのです。だから、今回は理不尽な振る舞いを相手が見せているのかも知れません(感情は理不尽にみえる動きをしますよね。でも、何処かで辻褄が合っていたりするのです。またはフォーカスしている現実の側面が違うのかも知れません)。それとも、今回とは全く別のケースで、ずいぶん昔に全然違う別人に、逆の立場受け身の立場で同様の行為を自分がされたことを思い出したりします。結局、実は同じようなことをやったりやられたり限りなくやってきたのです。

 時間軸を過去に遡って考えれば、自分にも非があったのです。結局は同じ世界同じ次元の同じようなレベルで立場が違うだけだったのです。消化できなかった過去の記録がコンプレッションされていて、時々噴き出してくるだけだったのです。如何です、そういうことに気が付いたことありませんか?そこではたと悟って相手を許す気持ちになりました。
 するとどうしたことでしょう。そんなことを考えていたら、相手から電話が来たのです。そして、話をしてみると、相手も自分の行った非礼を詫びるではありませんか。そして双方共に互いの心の狭さを詫び互いの未熟さを認め、これから共に学び、お互い尊重し合うことを誓うというめでたい結末になりました。こういった流れを一々意識できたかどうかは別にして、自分の気持ちが変化することによって物事の流れが変化した、その様なシンクロした現象を経験をなさったことのある方も多いと思います(※自分自身の意識の流れや心の状態を客観的に観察する眼を作り、そして他人とのリレーションの中でのトラブルや出来事と、自分自身の内的な状態との関連を長期間に亘りサンプリングしていると、如何に有機的に繋がっているかが実感できるのではないかと思います。但し、此は他者依存であったり、自己の言動や行動に対して無責任であったりするような判断基準を自分の外に求める人には見えない世界でしょう。お金とか物とかの物質的な物だけでなく、相手とのリレーションの中で常に気持の損得勘定をする様な粗い魂の質の人達も同様です。逆に言えば、その様な質だから、またその様な隠された意図をもって行動するから、他人は無意識に見抜いていて、その人に対しての態度が芳しくなくなるために、こういったシンクロした流れにならないわけです)。

 勿論、それでもまた同じような行き違いは繰り返されますが、一度二度と同様のことを乗り越えた人達には、困難な現実は何れ乗り越えられるものだという認識がありますから、必要以上にネガティブな反応をして、自ら火を消してしまうような行動は少なくなります。
 このように縁が深い、共に歩んでいく流れの人とは共振しやすいものですから、自分が変われば相手も変わるものです。逆に相手が変わったから自分の意識も変わったのかも知れません。それはどちらでも良いことです。でも自分に関わる現実は自分自身が創り出していますから、自分が変わらなければ相手の気持ちは変わらなかったというのが本当の所だと思います。そのような変化は、遠くに居て直接的、物理的なコミュニケーションが無くても起きます。だから面白いのです。当然、近くにいて直接コミュニケーションが取れていれば変わったことが直ぐに分かり易いでしょう。でも逆に冷静になれないということもありますが・・・

 何れにしても自分の狭量なエゴを捨てて、現状の全てを受け入れる気持ちになり、柔らかく軽い心持ちに成れれば、相手ともポジティブにシンクロして互いに意識が変わっていくものです。 現状を受け容れることと、自分の計らいや思い込んでいる信念などを先ずは捨てることです。
 そして、此の流れの中で、それほど縁が深い相手でなければ疎遠になりますし、互いの役目が済んでしまえば縁が変わる相手ということもあります。違う波長を持ったもの同士は、仮に隣り合わせにいても接触する機会はあまりなく、共有の出来事を持つこともないものです。此の世はシンクロニシティで成り立っています。その為には先ずは自分が変わることからです。赦しがキーワードです。

 ですから、相手(他国)がおかしい、幾ら言ってもあの相手が変わるわけはないと思うことは、これは前に書いたように自分のエゴのフィルターを通した認識です。自分自身の中に相手と同じ立場になったら同様のことを行うような共鳴する同質の意識があることの現れです。人間は自分の持っている経験のデータベースの中からしかデータを引き出せません。自分の中にないものは想像もできないし、また共振もしないものです。自分が想像し判断できることは、自分の中にあるものだけです。それは今世のものだけでなく前世からの、何処か奥の方に仕舞われ今まで陽の目を見ることの無かった、好ましくない見たくなかった自分の記録であって、それが今回のトラブルで、押し込まれ隠された記憶を他人の振る舞いを通して見ているだけ、また思い起こさせられているだけかも知れません。

 よく誰それにこんな仕打ちを受けたとか、あの人間はこんな人だとか愚痴などを聞くこともあると思いますが、その仕打ちを受けたという人を良く知っていれば直ぐに気がつきます。その愚痴を言っている本人も他の人に対しては同様の行いをしているのです。でも、自分自身のやっていることは気がついていないのですね。
 そのようなことから私自身を鑑みると、結局自分も同様のことをやってきていることに赤面したりします。同じような波長を持った人間同士が縁が出来るのです。相手が何を考えているのかとか、どんな事を喋ったということを、直接相手に問うて確認するのではなく、又聞きとか、または直接に話をしていても、相手の話している内容のその意図を理解できずに言葉面だけで勝手な判断をして妄想する事は、誰しもがやらかしてしまう思考パターンの間違いです。根本の視点がずれていたり、意図を勘違いしていると、相手が話している内容や意図とは異なった受け取り方をしてしまい、相手の言葉や感じた印象の断片を繋ぎ合わせて現実とは違う自分勝手なストーリーを作り上げてしまいます。
 つまり、周りは自分自身の心の反映でしかないということです。自分自身が相手を理解して居るつもりでも、未熟な魂の人は、相手を通して自分自身を観ているだけということが起きがちです。勝手に思い込んでいる相手像や相手の言動は、実は自分自身だっただけ。他人から観ると勝手に妄想して現実を間違って認識しているだけです。

 ですから、他人に対して高説を述べる人、こう有らねばならないというメッセージを否定的な立場から強く発信する人達の言うことは、その内容が言っている本人自身の解決すべきテーマであることが殆どです。もしくはその人自身がして欲しい事を一般論として言っているだけということもあります。わたしは誠意をもって商売をやって居ますなんて声高らかに言う人は、表面は兎も角として根本は誠意が無かったりします。自分自身が困るような事が起きた時には、そんな誠意なんて言葉が何処にあるんだという行動に出ます。人間って言うのは不思議なもので、その人が乗り越えなければならない人生のテーマが、その人が見えるものであり気が付くものなんですね。それを他人の行動を通して自分自身に見せられる訳です。えっ!わたし?ん十年も掛けて自己確立中です。無責任で依存心が強い人間だったんです。だからこの問題に関しては詳しいですよー。(^-^;;

 そのようなことを踏まえて演繹的に考えれば、自分の外ばかりに原因を探すような思考の癖は、自分の人生に於いて自分が変わることをせずに、常に他人が変わること、そして社会が変わることを願って生きてきたということの証ということになります。つまり、本当の意味での意識改革を自分自身が行ったことがないということを証明しているようなものです。外見は社会に合わせて立派な紳士淑女を装っているかも知れないけれど、中身は受動的な物貰い的な意識であるということです。

 自分は正しいのだから相手が変わるのが当然だし、正しい者は保護され与えられるべきだ、という訳です。被害者意識と裏表なのでしょうか? まあそれも悪くないですが、その代わり他人も自分勝手なことを行いますし、更に自分より力の勝る間違った信念の強い者、自分自身は正しいと言い張る権威や資金力を持った強者にいい様にされても仕方がありません。同じ様な波長を持ったものは必ず互いを観させられるために出逢う事になるんです。
 時には理屈が通って一時的には良いことがあるように見えても、いずれツケは払うようになります。相手に文句を言ったって、世間に平等だとか平和だとか理念という言葉を唱え自分の正当性を説いたって、自分の意識の奥深くに解消されない過去に於けるネガティブな行動の記録(因縁)がある限り、それに気づかされる出来事が他動的に起こってくるのです。
 そんな同じところをグルグル回っていないで、自分が現実を創り出していること、自分が状況を引き寄せていることに気がついて、意識のスイッチを切り換えた方が最終的には楽ではないかと私は思います。その時は、自分の悪いところもさらけ出し傷つくことも損することもあるでしょう。でも、立ち腐れして自己崩壊するよりはましだし、またいざ行動してみれば思っているよりは簡単にことが運ぶかも知れません。外界を変えようと闘争するより、自分の中身を変える方が他にも影響力があるし、みなハッピーに成れるのです。

 集合体の一人一人の意識の持ち方が国の姿勢になるのではないでしょうか。全て相似的です。国や政治家や他人のことを口騒がしく非難するするのでしたら、自分自身の心の奥も良く観ることが必要です。声高々に非難をする人は、大抵は似たような意識を持っているか、同じ魂の同種の人間です。自分の中にこそ歪みがあるのです。自分自身の身の回りの小さい事でも同質の似たような事をやってきているんです。ですから自分自身の中をあからさまに観ること、そして意識の転換を図り、現実的にはいま自分が出来る足下のことから成し遂げる様な、自分の身の回りの出来事に対する自分の認識と共に自分自身の行動パターンを変えることが大事と思います。身近な今ある現実の自分自身の問題点を改善することが一番の近道で、其れが他の多くの人が意識変革するときにバックアップする意識エネルギーの貯蔵庫となるのです。そしてそのような経験をした人が増えて多数派になれば、他国に対しても同様の姿勢で臨むことができ、個人間で起こるポジティブなシンクロニシティと同様の現象が国家間でも起こるはずです。経済や政治などのシステムを変える以前の基本的な問題です。

●魂の歴史の中での学び
 申し上げておきますが前項の侵略的な件に関しては被害者的発想から書いているわけではなく、我々の魂の学びの一過程だという考え方で書いています。
 実際、我々は現在において日本人として生まれていますが、前世では他の民族、違う人種であったことがあると思います。どこに生まれていくかは、自分自身の魂が選んでいます。そして、それは大いなる魂の深い部分から選んでいるので、より厳しい状況を選んでいることがあり、物質的側面や現実の出来事だけでのみ判断することは出来ません。また魂の学びの上から見ると、悲劇的な事実からもお互い学ぶことがあるものです。
 個人間に於いても、より大きな集団に於いても同様に、様々な立場や役目の悪役や良い人間役を持ち回りで演じていることもあるのですから、その生で何を学ぶかなのです。その生き様が魂に刻まれ次の生への潜勢力になります。

 いきなり違う話になってしまって済みませんがちょっと付き合って下さい。そんな魂の輪廻などは無いという人は、人が生まれた時点に於いて、賢愚があったり、身体の健康不健康があり、生まれた家の物質的豊かさ精神的豊かさの違いがあるのか理由を説明して下さい。何故そういう条件や環境の下に生まれてきたのか理由を解るように説明して欲しいと思います。例えば身体に障害を持って生まれたのは母親がアルコール中毒だったからなどというのは、肉体的に見れば直接的原因かもしれませんが、そこに何故自分が生まれてきたか、そこに宿った魂は何処から来たのか、という問いに関しては間接原因の答えにしかなりません。
 魂のレベルに関していうと、直接原因は、その魂の履歴に応じて、やり残したテーマを実現するのに最適な環境を自分自身で選んでくる(生まれるときにリセットされてそういう記録は奥深くに閉じこめられますが)ということなのです。仮に障害を持って生まれてきたとしても、それをネガティブに捉え、暗い人生を送ることもできますが、実際は他人に奉仕させ受け入れるというのが今世のテーマかも知れません。前世で自分一人で頑張って生きることばかりしてきて、他人の入る隙間を作らなかった魂と、前世で自分勝手なことばかりやっていて人に親切にしなかった今世で親の役目をする魂が、生まれる前に中間世で不味かったなあと反省し、今生ではちゃんと奉仕しようと決心して互いに縁が出来て結びついたのかも知れません。

 他の複雑な条件も絡み合って、縁というものが発動していくので一概にいえませんが、魂の持っているエネルギーの波長が合って人が出会い現実の世界を作り上げていきます。その中では、自分自身が抱えている問題、顕在的であれ潜在的であれ過去に於いて解消していない人生のテーマが最も浮き出やすい条件が整えられます。
 自分の人生から何も学べないタイプの人は、自分自身の持っている壁から外に出ようとしない人です。壁は殻と言い換えても良いかも知れません。自分の持って生まれたキャパシティです。その壁にぶち当たって跳ね返されたまま現実から目を背けて逃避したまま人生を送っている人達です。それは他人から認められるという社会的な成功を成し得たから前向きな人だとか、自分の壁を乗り越えたなどと言う物質的で皮相的な事ではなく、そういった次元とは違う自分自身の心の問題、意識の歪み(間違って思い込んでいる信念)から来る偏った思考パターン行動パターンの壁です。何れ人間関係の中で軋轢を残したり、社会的な成功を一瞬の内にご破算にしてしまうような失策行動の元となる心の壁のことです。
 其処にはクローズドされたエゴとエゴのフィルターを通して観た多面的現実のわずか一側面の世界しか映っていません。人と人の心が繋がっていること、人と動植物、自然とが深い部分で繋がっており、この世界が有機的に成り立っていることが解らないのです。

 しかし、壁にぶち当たって自分の限界を知り、更にその限界を少しでも超えようと努力したことのある人間は、他人の助けに心から感謝できます。己だけの力で生きているわけではなく、自分のエゴを超えた何か大いなる力が働いていて、自分が生かされていることを実感出来るのです。それは腹の底からわき上がってくる安心感であったり、心が震えるような感謝の念を伴うもので頭で考えて作った認識とは異なります。
 その大いなる力を、超自我、ハイヤーセルフ、オーバーソウル、宇宙の理性、神、仏性、大日如来、ブラフマンも同じような意味だと思いますが、色々呼び名で称します。何れにしても宇宙を構成する一原子である我々の魂、其の個を超えたものですね。其の力が働いていることを実感として感じられるかどうかです。教条では無くて、経験から来る実感。其の感覚があれば、神や仏と共に生きている、生かされているというのが実感できるでしょう。その時、周りの人や動植物、地球は神の顕れと悟るのです。
 そしてその個である自分自身がもつ壁は人それぞれ違います。ですから、社会的に認められるとか、他人に賞賛されるとかには無関係です。自分自身の心の壁と真っ正面に向き合っているか自分自身がよく知っているはずです。此の件に付きましてはWebの別頁に書いてありますので、ご興味あれば覗いてみて下さい。

 また余談ですが、1922年にアインシュタインが日本に来たときに言った言葉があります。有名な人なので利用させて貰いましょう。詳しく覚えていないので概要だけ書きますと以下のような意味になります。“日本は今ある地球上の文明の中で最古の文明を持った国である。だから我々は大切にしなければならない。”アインシュタインは何を根拠として何のためにそのようなことを言ったのか定かではありませんが(日本の隠された古代にはいろいろ驚くことがありますが・・・)、我々は縁あってその日本に生まれてきたわけですから、日本の土地に生まれた一員として、日本の風土にあった特徴的な文化とその一員としてのアイデンティティを取り戻すことが重要な課題の一つであるのは確かです。日本の古代は様々な民族が流入して混じり合い今の日本があります。決して単一民族ではありません。でも、此の土地に於いて生まれ育つことで連綿と日本という場のエネルギーが育てる精神的風土が有るはずです。其れを残し受け継げるかどうかということです。

 我々はどうも自分達を卑下しがちであり、他者の眼を通して言われないとアイデンティティを持ちにくい民族のようですから、わたしが敬愛する竹本忠雄先生のご著書から印象的なところを引用させて頂き、本ページに追加させていただきます。以下、新世書房リンリブックス3「日本の元型」“アインシュタインからマルローへ”竹本忠雄著から

 【1939年にマルローがプリンストン研究所にアインシュタインを訪ねたとき、話題がある一点に集中したことは、・・中略・・ヴァイオリンを片手に、ざんばら髪を振り乱して、大物理学者はこう言ったといいます。「もっとも驚くべきことは、この宇宙には確かに意味が存するということです・・・」と。「重要なことは」とマルローは応じています。「この意味なるものが、いかに人間とかかわりを持つか知ることでしょうね」マルローは、この「意味」が何を意味するか、そこのところを、以後ずっと考え続けたことでしょう。】
 この様に竹本先生が書かれ、さらにページを変えて、今度はマルローが来日したときの事をを書かれています。因みにマルローは、行動の作家として第二次世界大戦ドイツ占領下のフランスにおいてアルザス・ロレーヌ旅団長として戦いストラスブール市をを解放して国民的英雄と仰がれたそうです。戦後はド・ゴール特使の初代文化大臣として来日。その通訳として同席したことが始まりで竹本先生はマルローと18年間、逝去までの間、通訳として行動され、その間には、マルローが当時の皇太子殿下に帝王学を講義された時の通訳を務められたことがあったりもしたとのこと。当引用文「日本の元型」は、竹本先生が筑波大学を退官されるときの最終講義から編纂されたものだそうです。竹本先生は1980年にはフランスより文芸騎士勲章を授与されて居られます。

 さて、其のマルローが何回も来日した中でも特記すべきは1974年の5月のこと。奈良から南下して熊野に入り那智の瀧へ行ったときのことが書かれています。
 【やがて万雷の轟きを持って天から落下する滝の前に出ます。そのときマルローが言った最初の言葉は「私はめったに自然というものに感動させられたことはなかったが・・・」ということでした。】・・・中略・・・【凝然とたたずむ彼の口から次に洩れた言葉は「アマテラスだ」という思いがけないものでしたが、これも、その場で思わず口をついて出た霊感的なものであったでしょう。】・・・後略。【その翌々日、伊勢神宮を詣でた折りにさらに決定的な体験を持つことになったからです、それは伊勢の内宮で起こったことでした。】

 と、竹本先生は書かれ(お話しされ?)
【ところが、内宮をひとめぐりして帰ってくる間、彼は何も言わない。五十鈴川にそって、うつむいて----そのときにかぎって、うつむいて歩きながら、ただ黙々と歩いている。】・・・中略・・・【ところが、ふと、彼の様子を見ますと、いつもと違うのです。まったくの忘我の状態で、まるで熱病にかかった人さながら、わなわなと震え、体はかしいでいるんですね。そして肩で私をぐいぐいと押さんばかりにしながら、突如、しゃべりだしたのです。堰を切ったように言葉は滝のように落ちてきた。しかし、まるで譫言のようで、わたしのフランス語は駄目なのかと思ったほど、言っていることがわからなくなってしまった。彼のトランス状態がこっちに感染して、分からなくなってしまったんでしょうか。
 かろうじてとらえた言葉はこうでした。「伊勢と、アインシュタインの相対論的宇宙は、収斂する・・・」と。私は、マルローに出逢ってからそのときまで16年、さらにその2年後の死に至るまで、全部で8回もの対話を重ねてきました。マルローの対話者としてはおそらく最多数と言っていいでしょう。最後の日本旅行には3週間の全行程を共にし、天啓というべきか、其れに打たれた瞬間をも目撃しました。ここまで密着していながら、もしこの最後の言葉を聞き逃したとしたら、いかにして後代にたいして責任をとったらよかろうと、その後、密かに悩みました。
 ところが亡くなる直前に出版された最後の美術論、『非時間の世界』と、翌年、遺著として刊行された文学論、『無常の人間と文学』を手にとったとき、大きな衝撃が走ったのです。その2冊に熊野と伊勢で得た体験からの思索が語られ、それが中心をなしていたからです。わけても遺著となった書物の最後の3つのチャプターは後の世に語りかけた言葉として有名になりましたが、そこにはこの様なことが言われているのです。
 「もっとも驚嘆すべきことは、この宇宙には確かにある意味が存することだ」とアインシュタインが言ったとき、それは、「科学的方法が同時に未知なるものの啓示的手段として知識に奉仕せずにはいないような時代が必ず到来するだろう」ということを暗示したのである。】・・・中略・・・【ここが大事なところですが----科学と無縁な宗教としてではなく、もはや科学と宗教の二分性をこえ、それらが「収斂する」方向を啓示しているのである、と。
 マルローは、内宮の千木が突き立った五月晴れの青空のかなたをじっと振り仰いでいましたが、あのとき、この収斂する方向を感得したに相違有りません。】

 其の後に竹本先生は項を変えて“はたらきつづける日本の「場」の力”とされ、
【その後、マルローの啓示体験はフランスにおいて評判になり、わたしは1987年にコレージュ・ド・フランスから招かれて「アンドレ・マルローと那智の滝」の題で連続講義をさせられました。】
 と書き出され(お話しされ?)項のテーマとして、
【なぜ世を去る2年半まえに日本に来て、それも熊野、ついで伊勢で、あの様な体験を得たのか、なぜ、他ではいけなかったのか、日本の何がはたらいたのか、ということであります。
 これを自然と呼ぶのでしょうか、フォルムと呼ぶのでしょうか。何と呼ぼうと、目に見えない一つの「場=フィールド」があり、そのフィールドの力が二千年間はたらきつづけてきたことは事実であります。またそれが、いまもなお、我々から最も遠い西欧の一天才の思想を根本から変容させてしまう潜在力として実際にはたらいたことも事実である、ということです。
 そしてさらに重要なことは、たとえこうしたことを我々日本人の側で忘れ去ろうとも、西洋の側では忘れない、其の証拠に、あの出来事の研究がいまや彼の地において始まっていると言うことであります。こうした全てを、自信喪失した日本人は思い起こすべきではないでしょうか。】
 以下、締めのお言葉をお話しされ筑波大学での最後の講義を結ばれたそうです。

 この内容が掲載された小冊子は社団法人倫理研究所(03-3264-2251)から発行されていました。この冊子は自分の古くからの仲間が会社の15周年パーティを開いたときに、竹本先生をお招きして講演をお願いした際に、会場で手に入れたものです。他にも何冊も竹本先生の内容の濃い冊子があり、そのどれもが心に響くものばかりです。此の冊子は平成10年度初版のものなので、本ページがアップロードされてから2年以上も後のものなのですが、其の内容がわたくしなどが書くものなど当然の如く足下にも及ばぬものであり、また多くの方のご参考になるものとお薦め出来る内容のため、ご著書から引用させて頂き追加挿入させていただきました。
 もっと詳しい内容は、同書をお手にとってお読みいただければと存じます。この様な貴書をご発行いただいた倫理研究所と竹本先生に感謝して紹介をさせて頂きます。

 さて、こういった世界各国の多様な民族のアイデンティティはそのままに、それぞれ自立して存在し得るように残すことは、いまの地球上の一つの重要なパイロット的サンプルとして大事なケースなのではないでしょうか。わたしは日本と日本の自然が好きです。でも、今の日本人の精神的な部分で幾つか強く疑問を感じるものがあります。その大きな疑問点の一つ、多くの人が自己確立出来ておらず自己責任の意識が希薄なため、他国に依存したり、自分達の尻拭いをしっかりしなかったり、組織の中で責任の所在を有耶無耶にしてしまい国家的な罪を犯したものさえも大手を振って歩いているような状態だからです。何度も書きますが、こういった国の状態と、その構成員である国民一人一人の個人の心の有様は相似的です。そして心の奥底は繋がっています。一人一人の想いや行動に責任があるわけです。

 ですから、日本人はそういったことが補正でき、しっかり自己確立が出来て、自己責任に於いて行動できる人が多くなれば、集団としてのパワーも上がり方向性も定まり、もっと素晴らしい国になると思います。
 きっと、そういう部分が足らないから、外国から様々な圧力を掛けられるという縁が出来るのです。ネガティブに捉えれば、自我ばかりが強い嫌な奴等ですが、日本人を鍛えてれくれているという取り方もできます。そして、彼らも日本の良いところを学びとり、日本人も自己確立をして集団で問題を有耶無耶にしてしまうのではなく、自分自身が責任を取るという態度を持つような意識になって、それぞれ両方の足らない部分が統合されれば、良い世の中になる可能性があります。こういった学びと気づきの原理は、国家間のレベルでも個人間のレベルでも同じです。
 このような価値観とスタンスの上でこのレポートを書いていることをご理解の上で読んで頂ければ分かり易いのではないかと思います。

●心の弱い者ほど指向する“力”の世界
 そして、もう一つ覚えておいていただきたいのは、心の弱いものほど、より大きな“力”を指向するということです。それは暴力的なものであったり、権力や権威、地位であったり、知識の多さや知名度であったりします。みな物質的な尺度で表せられるものです。
 外見上どんなに強靭そうでも、強気に見えるような人間であっても、実は心が弱いために自分自身に自信が持てず不安と恐怖の中に生きている人間は幾らでもいます。外見は仮面を被っているため見分けはつき難いでしょうが、上記の物質的な成功尺度や肉体的な屈強さに“執着”している人間は、逆説的に考えて心の弱い種類の人間であるということになります。何々長とか権威権力を持った者、お金持ち、ビジネスの成功者とか、有名人とかスターになることに“必死にしがみつく者”がそうかも知れません。どういう形であれ自分自身が他者に認められたい行動原理を持つものです。
 そしてそれに執着して他を犠牲にしたり利用したりして無理矢理成り上がって実現した人間達の内容と人間性の貧困さは、それとは逆に、自分自身の好きなことや役目を果たす意味で行動していたら、周りに押し立てられ自然の流れのうちに同様の結果が付いてきて同様の立場となった人とは違って、ほんとお恥ずかしくないのかと他人事ながら心配になるほどです。しかし、そういう立場に憧れ、同様な人物になりたいけれど、自分自身の能力や容貌を省みて、どうもそのような人間には成れそうもない、けれど望む“力”が欲しいと求める人間達は、自分自身がそうなるのを諦めて、自分の理想を実現した人間の取り巻きとなります。またはその庇護の下に入ることによって自己実現しようとします。

 ある大きな宗教団体の大集会に誘われて行ったことがありますが、そのステージに出てくる何々長とか付く人達は、その教団のトップの顔によく似た下膨れの脂ぎった品性のないミニチュア達ばかりなのです。
 宗教教団に限らず大概の組織や人間関係とはそういうもので、同じような波長を持っている(表面的には解らなくても同じものを持っているか、相反するものかも知れないが、お互いの現実を構成する出演者となる役目を持っている者同士が引き寄せられる)から、そこに縁が出来、同じような人相や雰囲気になってしまうのです。

 わたくしめは宗教的なことは好きですが、宗教教団組織は好きじゃありません。でも、首を突っ込んでみたりして解ったのは、何処の宗教教団にいる人も、自己確立されていない自己責任の意識の薄い人が殆どだと言うことです。
 良いことがあれば、神様仏様教祖さまのお陰、悪いことがあれば、神様の罰、祟り、先祖が成仏していない、霊障だ、墓相が悪い、因縁が悪いとなり、全部自分以外のもののせいにするのです。これじゃあ、自分が決心して意志したことはどうなるのでしょう。聖書を教典を読み、お題目を唱えていたって、心が何かにすがっている人間は、単にもの貰い根性なだけだと思います。自分の頭で考えない、自分の行動を客観的に観ることが出来ない。書いてある教条、教えられたことをロボットの様に受け身でやっているだけ。心から動いているわけでは無いのですね。

 わたしはネガティブな霊的障りはあると認めていますが、その影響を受けるのは、心がもの欲しいことばかりで、自己確立されておらず、心がフラフラしていてたり、自分の魂が粗く周波数が低く欲や憎しみ嫉妬の念が強いからその霊的なネガティブな存在と波長が共振するからだと思っています。そのバイブレーションが低い自分の魂を磨くようなことをせずに、自分のことばかり優先して他人や地球に奉仕しないから悪い因縁(意識下にプログラムされたバグ)を断ち切れないのです。そしてその因縁が切れないから悪い相の家や墓に縁が出来るのです。
 先ずは欲しい欲しいという気持ちを捨てることです。全てを捨てて、現状生きていることに感謝することから始まります。 逆に言えば、前述の様な意識の在り方は、如何に自分自身の責任で生きていないかということになります。自分自身では一生懸命やっているつもりでも、必ずどこかに逃げや言い訳があります。自分自身が自分を認めていないので、本来の自分自身のパワーを発揮するところまでやってみないから、自分自身を知ることが出来ません。その為に、上手いこと他人を利用したり巻き込んだりします。

 天は自らを助くるもの助くです。 自分自身が決心して意志して行動するパターンが身について居ない人間は、他人任せ、世の中任せで、依存しながら生きているわけですから、何か事が起こったら翻弄されるだけでドツボに落ち込んでしまっても其れは仕方がないでしょう。其れが宇宙の法則だからです。自分自身の心の想い(感情)状態が、そして自分自身の選択した行動の結果が反映して自分自身に戻ってくる。これ以上の平等はありません。

 自分自身の想いが、状況の流れにあった正しいものであり、また自らの汚点(過去のネガティブな行為の潜勢力、因縁、または其れ等から来る感情の歪みや考え方の偏向性、病気など)も引き受ける覚悟を持っていて、そして周りの者や地球に対して役に立つ事で有れば、不思議と巡り合わせが良く人や物やお金の縁が自然と巡ってきてスムーズに事が運びます。また、それは自分にとっても必要な巡り合わせだったけれども、実は相手にとっても必要な巡り合わせだったりします。また起こる現象は厳しいものであったとしても、其れはその人にとって必要な学びのタイミングだったりします。これがポジティブなシンクロニシティです。意味を持った偶然が積み重なって縁が展開し良き結果が出ることですね。逆にネガティブなシンクロニシティは単に事故と言いますね。インデックスページのトップに書いてありますように、日本ではポジティブなシンクロニシティを良いご縁と言います。

 こういった流れが実感できない人は、例え信仰をしていたとしても、自分が神の子であること、神の一分子で有ることが実感できない儘なんです。つまりエゴでのみで信仰をしていると言うことです。自分や自分の周りの者が幸せにと願うのですが、ただしそれは、自分の論理の中でだけでです。もしくは自分が信仰している宗教の教条の中だけでです。例えば聖書を持ち出して、この様にイエスが言って居られるから、あんたもそうやって心を入れ替えて行動をしないと天国に行けないよなどと、自分自身の思い通りに行かないと、そういった手口を使って他人を思い通りに動かそうとする訳です。この様な質の人間が多い国は、正義の名の下に侵略的戦争を起こすわけです。其処にはそういったネガティブなシンクロニシティの連鎖が起こってしまうような意識レベルが存在するわけですね。それは同質の様な教条に囚われた人達なのか、または逆に自虐的な自己破棄をした人達なのか、何れにしても縁が出来てしまう波長があるわけです。

 人生の流れの中で良きシンクロニシティが少ないのであれば、土台その信仰レベルは自己満足的エゴの信仰であったあるだけで、信仰の動機がお陰欲しさのものと言われても仕方がないでしょ。どんな宗教であれ、根本は自己改革、意識の転換です。そしてそれは頭だけでは実行出来ないことだから奉仕とか下座の精進とか身体で行うことをひたすら続けなくてはならないのものであることを信仰をしている人でも理解していないことが多いようです。そしてそう言った行為を行う上で見返りを求めるような心を捨てる事が出来たときに滅罪への道が開かれると考えられる事のはずなのに、お陰信仰をしている人達は目先の反応を求めます。
 故に大いなる意志の流れを掻き乱し阻害するために、本人には良きシンクロニシティ(宗教的に言うと奇跡)が起こら無いという事になります。その為に、信仰をしているのにも関わらず神や仏との繋がりが感じられないのです。聖書や教典に書かれている教条だけが拠り所となり、実生活とはかけ離れたところで、“信仰をしているつもり”なだけの状態に堕すのです。

 もしくは、小さいレベルの願いは叶うかも知れません。人の念の力は強いものですから、ちょっとしたことは念力で上手くいく場合もあります。でも、そのこと自体で大きな流れを、その人を本当の意味で助けてくれる本来の流れから自ら離れていってしまうことになってしまいます。
 よく言われる例で、日航機の墜落事故の前に、某教団の信者さんがどうしても其の飛行機に乗らなくてはならない用事があったので、お題目をひたすら唱えて無理を通してお願いしたら、その願いが適ったわけです。そしてその人にとっては運良く搭乗して飛び立ったつもりですけれど、結果として乗った飛行機が墜落する事になってしまいました。お陰宗教をやっている人達はそう言ったことが起こりがちです。目先の事を適えて不徳を積むといった仏教の教えとはまるきり正反対の行為を行い、自らの心を浄めるという事を忘れがちです。

 中途半端な信仰や修行を行っている人達は、その上に間借りしているだけにもかかわらず仏や神の名を語り、御旗を上げて自分達が善だと思っていますから、外にだけ原因を求め様とする質が強いんですね。内なる声が聞こえなくなってしまっているのです。そして自分は○○を拝んでいるから大丈夫だという奢りも持っています。中途半端な信仰者は奢りと甘えの塊なので始末に負えません。そのくせプライドだけは高いので、神仏の名を使って他人に対して自分の論理を通そうとします。それは、本当の意味で神や仏に繋がっている感覚が無いから、そういったことを埋めるために、外部に対して積極的に働きかけます。
 自分の小さいエゴや頭で考えたことが全てと思い込み、現在の状況の中で、周りの抵抗があったり摩擦がある中でも、その起こっている現象を不思議とも思わずに、逆に自分は正しい事をやっているんだと周りを押し退けたりするのですね。または、自分の論理で他人を説得したりします。流れが見えない、観ようともしない、感じようともせずに、自分の思いを押し付けるだけ。

 ところが、件の日航機に搭乗しようとして、手続きをしていたら突然お腹が痛くなってどうしても乗れなくなってしまったり、色々な巡り合わせで普段其の便に搭乗している人が乗れなくなったことに因って助かっている逆のケースも数多く報告されています。流れに抵抗しない。または大きな流れに抵抗できないような状況が作られてしまう。結果的に守られている、ということが感じられたり、そう考えざるを得ない状況が多く起こったりします。

 特に宗教もしておらず特定の神様を拝んでいなくとも、内なる声を大切にしたり周りの声(裏の意図があるエゴの声ではなく、損得関係もない、依存関係でも無い人の声)を大切にしていたら、其処から流れの方向を感じられるはずです。そしてそう言った種類の人達にはシンクロニシティが沢山発生して、人生の中で、人や物やお金などの巡り合わせが良いという状況が起こっていることでしょう。不安恐怖から離れて、心が軽くなってしまった人達には、必要以上にそういったものを手元に溜め込んでおく必要がありません。流れがよいので、必要な物が必要な時に手元に集まってきます。勿論、自分の思惑とは違ったものだったりしますけれど、後になって考えれば充分それで良かったという事が殆どです。自分の計らいで考えて居るタイミングには起こらないことも多いですけれども、だからといって根本的に困るわけではありません。逆に言えば、自分に都合の良いことばかり求めていては、そういった流れを自分の処に引き寄せられないと言うことです。

 この様に信仰などをしていなくとも、今では宗教の狭いレベルを超えて、こういった大きな流れに乗ってしまった人達が加速度的に増えていますから、世の中が更に二極的になっているんです(メディアはネガティブな事ばかりにフォーカスしていますけどね...)。そして宗教に入っていても堕ちる人は堕ちていってしまいます。お陰信仰をしている人達には厳しい世の中です。

 程度の差はあれ我々は心が弱いので、この地球上で様々な経験をし磨かれるために生まれてきたわけですが、その“磨かれ方の度合いは力への執着の度合いと反比例”するようです。
 心や魂という精妙なものは、いまの地球が存在する次元では、物理的で粗いものによって傷つけられやすいので、物質的な、より“力”を持ったものが打ち勝っているように見えます。でも、一見優位に見えるそれらの人達は、実は心の弱い魂の粗い者達だから、時代が経つに連れいよいよ混迷化する状況を創り出し、自分たちが創り出した状況の中で翻弄され、行く方向が見えなくなり、さらに力や物理的なものにしがみつこうとしているのです。 時代に不安を感じて心がざわついている人達は、この様な魂を売り飛ばしてしまい、自分自身を確立して来なかった種類の人達でしょう。

 魂の成熟度は、どの様な時でも感謝の気持ちを持てるか、その人の周りでシンクロニシティ(意味のある偶然)がどれだけ起こるか、体や心が如何に軽いか、心の柔軟性をどれだけ持っているかなどで推測出来るように思えます。信仰をしていても、その人がトラブルに巻き込まれることが多かったり、また自分の教義が否定されると途端にサタンに変身したり、自分の信条を押し付けるようではまだまだ未熟な様ですよね(あっ!自分だ....って?そんな事ないない)だから今の様な混沌とした時代に生まれてくることを選び、魂の借金を清算しようとしているのだと思います。そういう指針になるものが不確かな時には、此処に書いたような自分自身の在り方を見据えて、自分自身を高く保ち独り歩むのが良いと思います。仏教の場合、仏陀は自灯明と申されました。

 また、宗教は宗教で良いところは勿論ありますから、特定の宗教を信仰されている方々は徹底しておやりになれば良いのです。そしてやるなら或るレベルを超えるところまでやらないと自身の身に何も得られないでしょう。もの欲しさや助けて欲しさだけの欲で信仰していても、人生も安定しなければ心の安寧も得られないのは誰が考えても解ることです。やるんだったら徹底的に奉仕、下座の精進、滅罪の心でおやりになればいい。何かが欲しくて信仰しているだけでは、良くなった気分に一時的になるだけ。何れ人生に躓きが出たときに信仰心は揺らぎ神や仏に文句を言うだけです。こんなに一生懸命やっているのになんで助けてくれないんだと。つまり何時までも計算尽くのバーター意識なんですね。そういう損得計算で宗教をやっている内は、神や仏の名を使って人に話を偉そうにするな!と思います。そしてそういう人に限って、人に向かって、「そんな事をやっていると神様の罰が当たるよ!」と軽々しく口にするのです。信仰者がそんな態度では悪魔と同じです。脅しで人を動かすのは悪魔やサタンの手口ですから。あれっ?もしかすると今の宗教の多くは神の名を語っているけれど、本当はサタンやルシファーに乗っ取られて居るんじゃないんですか?だって、そういった宗教の人って攻撃的な人が多いですものね。

 自己確立していない依存心の強い人間ほど、権威ある神や仏の名を使って他人に偉そうな事を言います。解ったようなことを諭します。そして他人をコントロールしようとするんです。自身の言葉で語るのではなく神(仏)の名を利用して他者を動かそうとすることはとても罪深いことに思えます。
 自分の力で得た経験でものが言えないから権威を嵩にに着るんですね。そしてカルマを作るわけです。 自分自身が見えずに外にばかり原因を求めて他人に嫌な思いをさせるから因縁を積むんです。
 他人はあたなの鏡です。その人は、実際にはそんなあなたが思っているような事を考えたり行動をしているわけでは無いのにも関わらず、あなたが自分自身の想いを相手に勝手に投影して妄想し、自分勝手な人物像を作り上げているのでは無いでしょうか。あなたが観ているつもりの相手の姿は、それは本当はあなた自身の姿だったりします。相手に一生懸命説くことは、それはあなた自身に必要なことです。特にトラブル時は、そういった事に留意して自分自身をよく観察した方が良いですよ。神や仏の名の下に他人を裁いたり(判断したり)するのでは無くて、自分自身の不徳を考えた方が問題解決になります。

 だから宗教は滅罪、奉仕から入らないと駄目なんです。日本仏教では滅罪生善と言います。滅罪がはじめになかったら善は生まれないと言う意味です。そして滅罪と共に、今現在罪を犯さないようにすることが大事です。流れに抗い周りを押し分けて、目先の欲を叶えるとカルマの元となる因縁を積みます。自分のエゴの解釈で正義と思っても、タイミングでない時にやるべき方法でないやり方で行えば、その歪みは自分自身の魂に刻まれます。それは白黒をつけたがる宗教の人達は特に気を付けた方が宜しいかと思います。

 東洋の宗教や仏教は、先ずは自分が愚かだから、其れを何とかしようとするところから始まります。自分の因縁を変えようと言うのが仏教です。そして専門的には自分自身が悟り、ブッダと同じ境地になるという事を目指すのです。ところが、キリスト教の人を見ていると、絶対的な神が先ずあり、そして安易に神(聖書)を持ち出して他者を判断しようとしますね。自分が変わろうとするまえに、自分の不幸な原因を外に見てた者を裁こうとします。そして、愚かな人であっても神の名の下に人を裁くようなきもちになってしまします。また、自分たちは選民であるから世間の迷える子羊という愚かな人間に対して、神の教えを伝えるという尊大な態度になりがちです。例え今は選民でなくとも、何れは神に選ばれたものになり天国に入りたいと願う訳です。其処に天国に入るものと入れないものと言う二元的な選別が入ります。

 しかし、仏教で言えば、自分の行い、魂の状態で、生まれ変わるところが違う、また今の世での在り方が違う、天国と地獄という二元的なものではなくて、多種多様あらゆる段階グレースケールにおいて、自分の意識の反映が自分の感じる世界だと言う訳です。閻魔様とか何とか地獄と言うのは後の世で勝手に作られた例え話であって、仏教の根本的な部分で存在しません(日本で信者さんが多い法華経は後代になってから仏舎利信仰の人達が作ったお経ですし、申し訳ないのですが、日蓮宗も浄土真宗も日本以外には存在しません)。仏教は智慧の宗教と言う位に論理的で理知的なものです。そして釈尊の時代からの人間の心理学に関しても、今の心理学が追いつかない位に精緻に整備されたものです。そして其れは心理学というだけではなく実際に人の意識を変革させるシステムでも有った訳ですから、其処に根本的な心理のとらえ方と解決の為のアプローチの違いが生まれるのではないでしょうか。 ましてや日本の伝統宗教である神道は八百万の神であるし、地獄などという概念はありませんものね。緩やかで受容性の高い宗教です。ただし、神道も古代ユダヤ教に通ずる部分が少なからずあるようですから、日本の伝統宗教とはなんぞやということは一概に言えないようです。

 こういった仏教本来の内容については別ページの「エンジニアのための宗教学入門1)仏教に於ける運の捉え方---`96」に詳しく書いてありますので、其方をお読みいただければ幸いです。
 また、前述のリンクページにも関連する内容ですが、人生の選択の中で迷ったとき、自分自身の頭では解らないときには、この様なときだったら仏陀だったらどの様にされるだろう、イエスキリストだったらどの様に考えられるのだろう、と自分の意識を高いレベルの存在にチャンネルするんです。仏教では三密といいます(一般的な大衆が信仰する顕教という題目を唱えるだけの様な教えの部分ではなく、本来の仏教の在り方、仏道としての行う部分、行じる修行の範疇の意識コントロールに関する内容)。身口意、身体の働き、口から出す言葉、音(ヴァイブレーション:音響)、意識:イメイジのそれぞれを仏の身口意の三密にチューニングして、仏と入俄俄入し自分自身が仏そのものになるわけです。成仏するわけですね(ねっ、少しは知っているでしょ? 一応これでもダライラマ猊下が護摩法要された時に他のチベットの坊さん達と一緒に内陣に登座して大太鼓を打たせて戴いた事が昔ありますから何かしらの仏縁があるのでは無いかと思っているんですが...ってちょっと自慢入って居ます?)。

 おっと、日本では一般的には人が死んだことを成仏なんて言いますけれど、それは本来の言葉の意味から外れていますので勘違いの無いように。人間が死んだって悟りの境地(仏陀:お釈迦さんの事ではなく人間の持つ宿命から自由になった人、もしくは霊的存在)に入る訳では無く、中有の中間状態に赴くわけですから。。。その上、生きてきた内に自分自身を大事にせずに自己確立もしなかった人は、中有の時に彷徨う亡者になるだけなので、決して成仏したとは言いません。少なくとも本来の仏教(日本に伝わってきて、そして日本で変化し作られた仏教でななくシャカムニブッダが説いた教えと修行法、もしくは直接の弟子達が伝えたもの)ではそういう定義です。
 此処でも、自分自身の人生を生きてこなかったもの欲しい気持の強い魂は中有の中間状態の際にも往生際が悪いようです。チベットの死者の書というわれるバルドソドルという教典(山梨で自然農を行い自給自足する哲学者おおえまさのり氏が1970年代に始めて日本に紹介し、1980年代後半にNHKで採り上げた為、その後何冊も本が出た)では、人が亡くなった後49日に亘り、此の教典を坊さんと家族が交代で唱え続けるのですが、その内容は大まかにいうと、あなたは死んで今中有にいます、あなたは生前に苦手だったもの嫌いだったものが見えるかも知れません、でも、それから逃げては駄目です、また好ましいものが見えてくるかも知れません、でも其方に行っては駄目です、あなたは兎に角光の方に行きなさい、あなたが見える輝く光の方に向かってひたすら歩みなさい、という様なものです(だったと思います...)。

 そういった内容の教典をひたすら唱えて死者に言い聞かすのです。そうしないと、次の世に転生するときに、今世で逃げてきたこと、また執着したことと同じ質の人生を来世で実現すべく、その条件を揃えられる母の胎に再び宿って行くからだと言います。そして何時までも輪廻転生の輪から外れることがなく、悟りの境地に赴けないと言います(シャカムニブッダの修行は本来はこの身のまま悟りの境地に入ってブッダになること成仏することを完成させるシステムなのだけれども、そういった高度な修行が出来ない一般の凡夫に対しては、輪廻転生する内、もしくは中有の霊的状態の時に少しでも悟ように促すわけです。ただ、シャカムニブッダの直接の教えでは中有の事に関する内容は残されていなかったかと存じます。)。

 此の、中有の霊的な状態の時に認識する内容は、近年アカデミックに研究されて数多くの報告が上がってきた臨死体験中の記憶と当に同じくしています。そして多くの依存的魂は、その光(神の光、悟りの境地)に逆に怯え、そちらに向かおうとせずに、自分自身の心癖になじみ深い、今までと同じ状態のものに惹き寄せられていく、ということになるわけです。それは、今生きている人達もそうですけれど、心が混沌としている人は光が怖いのです。真実を知ることも怖いので、本当の事も知ろうとしません。真理に対しても、この世の闇に対しても常に逃げ腰です。そして、一般社会に流布される皮相的なことに意識の焦点を当てて、一時の享楽的な事、つまらない楽しみで満足するように自分自身を誤魔化して生きている人が殆どでしょう。
 心が弱いから、本当のことに眼を向けない、自分を強くしようとせずに、権威や他者にすがる。だから光が怖いんですね。真実の光が。そしてそういった魂は死んだときも光から逃げようとするわけです。生き様の中で肝が据わって人生に相対して生きてきた訳では無い、死んで混濁とした意識の中で、高熱に魘されて夢を観ているような状態に於いて光から逃げるわけです。

 ですからバルドソドルでは、繰り返し同じ様な内容の経文を唱えて死者の魂が彷徨わずに光に向かうように諭す訳です。あなたは死んでからも光から逃げますか? それとも今、現実に対して正面から向かっていきますか? 人生の大小数ある選択の連続の中で、心癖からくる選択の積み重ねは、結果を大きく違えてきてしまいます。其の根本となる心根が問題です。
 だからこそ、選択に迫られた際に、神や仏の意識と波長を合わせてチューニングして、自己の意識を転換、飛躍させる実践が必要なんです。

 そして、今は預言されていたように星の運行が変わり地球のヴァイブレーションも大変化しつつあります。すでに様々な宗教やネイティブ達の予言が実現しています。それは人間の魂を篩いに掛ける時代です。また、インデックスページにも書いてありますように、宗教教団などに入らずとも、神や仏に直接各個人が繋がる時代になってしまいました。それには、自己確立されていることが前提です。依存心の強い人間が、神や仏と直接繋がることが出来る道理もありません。
 自分自身が神の子であり、仏の使いであるなら何故、他者や組織に依存しなければならないのでしょう。自分自身の中の神や仏と繋がるパイプを掃除し磨き、そして行動して人や社会の役に立ち、神や仏のメッセージを更に受け取れる様でなくては、何処かで足下が掬われます。
 ただ、気を付けなければならないことは、こういった感覚とか能力はことすると奢りや高ぶりエゴの肥大化に繋がります。そして魂のインフレーションというそうですが、オウム真理教の人達の様な意識状態になってしまい狂信的なレベルに入ってしまいます。特にキリスト教的善悪、神とサタンの様な二元論に陥りやすい信仰をしている人は、常に白と黒、自分と敵、良いと悪いという粗い論理で物事を考えて他者を裁きます。または神の名を使って他人を裁き(心の中に於いても)、自分自身を肯定するために、自分自身を確認するために、そういった論理を展開します。

 人を裁くものは自らも裁かれます。そして争いが起き、戦争が起きるのです。その点、東洋の宗教や仏教はグレースケール、灰色の部分もありと混沌も受け容れて受容性も高いですから、二元的思考方法とは論点も視点も異なります。まず、自分自身が確立されることに焦点を当てていたり、意識が内に向いているのが、此等東洋的なアプローチと言えるかもしれません。勿論、それでも戦争は起きてきましたが、西洋の戦争のように、敵の女子供まで抹殺してしまう様なものは殆ど起きません。敵をも上手く取り込んでしまうような戦争だったようです。キリスト教の人々は信仰をしながらも、同じキリスト教徒内での他宗派の人々を抹殺するような戦争を起こしてきました。善悪、白黒の二元的に処理してしまう思考方法なのです。
 だからこそ、二元論的な考え方に陥りやすい信仰をしている方々は気を付けた方が良いと思います。そして神の名に於いて裁くというような思考方法はお止めになった方が良いでしょう。此の宇宙の法則は、差し出すものが還って来るものという根本原則があります。自分の思ったことは必ず巡り巡って自分自身と周りに返ってきます。すると裁きの心を持っている人は、更に心に争いが起きますし、そういった信条が強い人が多い国では、国家間にも争いが起きるのです。

 ですから、そんなアメリカや中東の国を批判する前に、そういった国を逆鏡として自分自身の心の在り方を顧みて下さい。人の頭の上の蠅を追う前に、自分自身の頭の上の蠅を払いなさいということです。自分自身の魂を浄める事が第一です。そして自らを浄めるということは、自分の内側に向かうということです。口で幾ら美しいことを言っていても駄目です。その人の健康や人間関係に全て、その人の心の状態が、今まで行ってきた積み重ねが、その人の身体や顔付き、眼の中、健康状態やその人の置かれている状況やその人が選んだ環境に全て顕れてしまいます。教条や理念を口に高らかに唱えて他者を批判する前に、先ずは頭を垂れて自らの足下から改革しましょう。

 自分が心から幸せではないのに他者を幸せに出来ますか?人の役に立てますか?お金があったら?お金だけでは人を幸せに出来ないでしょ。お金やものを与えても、一時的な助けにしかなりませんものね。そういったものが足りなかったら、そういう状況になっている原因を本人が自覚して、本人が其れ等を手に入れられるような技術や手法、そして心構え等を確立できるように、周りからサポートする手法でなかったら根本解決出来ません。そうでなければ、何れ又、元の木阿弥になってしまいます。
 そういった当たり前の法則を無視してやたらに物とかお金を援助する人は、心から行っているわけではなく体面を繕うために、対外的なスタイルを演じているだけと、普通の人間は考えます。今の日本の国のやり方ですね(勿論、民間レベルではこの様な方法では無い智慧を使って身体を使って援助を行っている人達は沢山居ますが。そして昔は他国に対する援助も自立をする為のものを行っていました。つまり今の日本の国民から国まで愚かになってしまっているという証拠でしょうか)。
 同じようにむやみやたらに人や子供達に物やお金を上げたがる人は、本人が気が付いている気が付いていないは別として、自分がして欲しいから相手にもして上げるという(無意識の)計算の上に則って行動するパターンが染みついている人が多いですね。そうでなかったら、何の意図があってそういったことを行うのでしょうか。相手の成長の為にもならないし、一生面倒がみられるわけでもないのに、相手の自立を促し其れに対する援助を行うのではなくて、自己満足的に物質的な物を単に与えるだけという、そういった行為をしていること自体無責任であるし、自分自身が自立して居ない証拠なのでは無いでしょうか。相手の自立の邪魔をしていること自体、相手を弱いものと位置付けて居ること自体、自分のコントロール下(ものやお金を上げることで自分自身を認めさせるとか、自分の居る場所を相手の中に確立するとか)に置こうとしていること以外の何の意味があるのでしょう。

 結局は、自分がして欲しいことを相手にして、その見返りを期待しているということになります。もしくは相手の喜ぶ顔を見たくてという単純な理由で、やたらに物を上げる事は、相手の欲を増長させたりするだけの愚かな行為だと言う事が解らない人です。海外でそういった姿勢で日本人がお金をばらまくから欲に駆られた現地の人が相場が上げてしまって、他の外国の旅行者が困っているという現象が起こっている事をよく耳にします。

 そんな事をする人達は、自分自身がいい人を演じたいだけで、本当に相手の事を思っている訳では無いのです。そう言った心的な現れの証左として、其の援助を断ったり、また自立して自分達の価値観の中で生きようとすると、逆に足を引っ張ったり、敵対的になったり、非難を始めたりするのが殆どだからです。 して上げた相手方に直接言うか言わないかは別として、大抵は、あんなにしてやったのに・・・と、恩着せがましく言うものです。あんたが気持ちいい思いをしたくてやったのにね〜、と思いますが、そういう人は自分がした事が、その相手から直接自分に対して、言葉でも態度でも物でも金でも、戻ってこないと気に食わないのです。
 これは人の親切に対してお礼をいうという様な当たり前のレベルの話とは違います。本人の心情の問題です。動機の問題です。意図の問題です。電車で子供が我が儘を言って泣いているだけのに、または子供が可愛いからという理由で席を譲る大人。其の子供の精神の成長を妨げる愚かな行為と言う事が解らない智慧の無さは、その人自身が精神的に成長する機会がなかった事、自分自身の心の修練によって精神が成長して、それを原因として幸せな世界を自分の力で拡げた事が無いと言う事の証拠です。自己を律し、他人に対して本当に必用な時に必用な分だけ援助し、自分が表に出ないという事が出来るか、そういう姿勢で考えられなければ、心が未熟なだけでしょう。つまり精神的に成長しようとしなかっただと思います。自己肯定の屁理屈を捏ねながら、自分を甘やかした結果です。誰のせいでもありません。そういう人ばかりだから日本の社会が幼稚なんでしょう。今の電車に乗った時の、中年の人のだらしなさ、老人の横柄さ、若者の汚さ、子供とその母親の愚かさ。勿論の事、層ではない人も沢山居ますけれど、前述の様な人が兎に角増えました。おかしいでしょ日本。

 ついでにいえば、他人が苦労していると、直ぐに大変だとか、止めなさいとか安易に同情する人は、結局は自分に言って欲しいことを他人に対して言っているだけです。つまり自分が大変な人生を歩んでいるんだと、苦労しているんだと、他人に言いたくて仕方がないんですね。こんなに頑張ったけれども駄目だったんだと、悲しい話をしたくて仕方がないんです。 そして自分の人生を肯定したいものだから人生は大変なんだと他人に対して一生懸命説きます。それも、本人は親切なつもりなのです。大変なんじゃないって言うのに、いやそうじゃない大変なんだ、今に大変な目に遭うぞ!と一生懸命マインドコントロール?します。。。

 人生が大変なのは、間違った信念を持って誤努力を繰り返しているからです。物事には必ず理由があります。事故も偶然起きません。例え貰い事故であってもです。事故が起きる事と、自分自身が其処にいて関わる事とは別の事です。それが、自分自身が事故の当事者になるのには、必ず因果があります。現場への意識の引かれ合いがあります。堕ちる飛行機に乗る理由があります。死ぬ運命に無い人は、その飛行機には乗らないし、乗れないのです。其れに無理に乗ってしまう人は、欲をかいてエゴで流れをうち破った人です。

 観える人は死んでいく人には生気が見られないと言います。別の人はオーラが見え無いとも言います。 事故を起こす車輌に乗っている人達にはオーラが観えない事があると書かれた本を読んだ事があります。我々のようにそういうものが感じられなかったり、見えなくとも何か変だと感じて、そういう人やそういう場所、その様な車輌から無意識に遠ざかる場合がよくある様です。また日頃に於いても身体が自動的に反応したところ難を逃れたというのは私もよくありますし、経験した方も多いと思います。また、他の例を挙げますと、知り合いの有名な温泉旅館の社長の友人で、神戸で合気道の道場を開いている武道家の方が、阪神大地震の際に、明け方の鍛錬を自分の道場で行われていたそうです。自身が来た時には合気道の型をとっていたそうですが、その道場が屋根ごと崩れたのにも関わらず、その道場主の武道家の方の上には屋根が落ちずに地震の収まった後には空が開いていた居たとの事。結局、死ぬ人は死ぬし、生きる人は例え大勢が死んだ飛行機の中でも生き延びたりするんです。只、運命にも巾がありますから、本来死ぬ運命じゃあなかったのに、日頃の心がけが悪かったり、暗い事ばかり考えたり言っていたりすると、魔が差して其方に引っ張り込まれます。

 ましてや、他人に対して暗い事ばかり言っている人間は不徳を日々積み重ねて居るわけですから、本来持っていた徳分も失って運が悪くなったり具合が悪くなったりして、本当は助かるはずの事を巡り合わせがドンドン悪くなって、不如意の出来事が起きてしまう事にもなりかねません。

 また、相手の顔さえ見れば、ちょっと疲れている位なのに、身体の具合が悪いのじゃないかと言い聞かすような人が居ます。そんな人は自分で自分が病気になる種を撒いているだけでなく、相手に対してネガティブなマインドコントロールをして相手の人生の貴重なエネルギーを失わせて居るわけですから、これまた悪魔の所行と言わざるを得ません。普通はそういった人のところには明るい前向きな人は集まりませんから、益々もってその人は暗くなります。そうすると、更に人生が暗くなり人を呪う様になります。すると悪魔教でもやっているかのように、会う人遭う人に、人の顔さえ見れば具合が悪いんじゃないかとか、そんな事をしていると病気になってしまうぞなどと、一生懸命精神的プログラムをします。そういう人は病気の人が大好きです。互いに病気の話題で盛り上がり、人生は大変なんだとお互いを肯定しあいます。本当は病気は心の歪み、意識の歪みから来るものなのに・・・こういった人達は、苦しみながら生きます。この世が地獄です。まさしく心の状態で、この世が地獄になり天国になるという多くの宗教の教えの如くに実践してみせるのです。

 其れが、自分自身の誤努力でそういう結果になって居るのにも関わらず、また間違った信念でこの宇宙の法則、神の想いとは反する行為を行っている為に単に報われないだけなのに。結果的には自分の想いと行為の結果が、そのまま素直に自分自身に還ってきているのにも関わらず気づかずに居るというのは、その人が依存心が強く自分の責任で行動してこなかった結果であって他の理由は何もありません。聖書や仏教教典に書かれている事なのに、自分の都合の良い読み方しかしていないために、当たり前の此の宇宙の法則性が見えるようにならずに、何時も他者やもしくは自分自身と自分の身体を呪っていたからです。全て自分の想いの結果です。自分自身の隠された感情が、そのパワーを発揮して現実を呼び寄せて現象として現れているだけです。宇宙と神は平等です。あなたの想いを実現してくれています。

 人の想念というものは強いもので、ある意味想念によってこの世、我々の次元は成り立っています。仏教の源泉である部派仏教といわれる釈尊の直接の弟子達が展開した論では精緻に説かれていますし、其の流れである初期大乗仏教の瑜伽唯識派に於いて行ずべきヨーガの修行、意識の在り方と其のコントロール法が我々が及びもつかないレベルで実践されていました。また近代の量子物理学では、物理次元を成り立たせている素の量子は、観察者(人間)が居る居ないで振るまいが異なると言っています。

 無機物に対してはなかなか分かり難いですが、想念が動植物に対して大きな影響力を持っていることは科学的にも色々実験されています。其の想念が人間同士で互いに影響しないわけが無いでしょう。
 また、想念と一口に言っても、理性という言語的に認識できる意識もあれば、感情や感覚といった言葉で考えない意識もあります。そして其の複雑な働きに於いて、人間は自分自身をも騙しますから、自分の理性(言語的意識)が考えていると、感情(言語外の意識、身体意識)の想いとは全然異なる場合も多々あります。
 此の件についてはページを改めて詳しく書きたいと思いますけれど、その影響力の強い想念の在り方について人はみな自分で責任を持たねばなりません。そして他者に与える影響もそうですが、結局その想念はは自分自身に戻って来るものですので、自分の感情や想念を浄めることが大事です。自分の想念は、自分の身体、そして人の口、人の自分に対する態度などによっても戻ってきて、自分自身のことを知らされます。

 しかし、その気づきは、依存心が強かったり自己責任の意識が欠如していたりすると得られない質のものです。混濁した意識レベルでは混乱した人生しか歩めません。其処から抜け出すには自身の心を治めなければ実現が出来ないことは理解できると思います。そして心を治めるのは頭、頭脳ではありません。日々の行動、その人の意識パターンから来る行動パターンを変えること、無償の見返りを求めない、また計算で行うのではない、人や世の為の行動、地球を癒す作業です。滅罪の作業を行い他者や環境を癒しそして自分自身も癒す。他者を赦すことによって自分自身も赦す事が出来る。他者を赦すことが出来なければ、自分自身が冒してきた間違いも赦すことが出来ず自分自身を裁きます。思い込みであろうが勘違いであろうが、素直に自分に還ってきます。

 ましてや自分に原因があって人との縁が出来るという法則が解らずに、自分を知らず、自分の中にある原因を解決しようとせずに妄想し、トラブルの相手に恨みや呪いの念を送ったとしたらどうなるでしょう。相手に相応の因があれば、相手にも何らかの現象が起きるでしょう。もし相手が正当で、なんら貴方に恨まれる原因がなかったとします。その場合には、その人が心が弱い人で何処かしらスキがあるようだと、貴方の念を多少受けて乱れるかも知れません。でも、相手がしっかりと生きてきて迷いもなく意識が透徹していたら、貴方の念が入る込むスキもありません。そして貴方の念を相手が受け取らなかったらどうなるでしょうか。 あなたがプレゼントを宅急便で送ったところ、相手が覚えがないと受け取らなかったらどうなりますか? それは貴方の元へ返ってくるでしょう。貴方の恨みや妬み、呪いの念は貴方の元へ戻ってくるだけです。だから人を呪わば穴二つというわけです。勿論、相手が受け取ったとしても、そういう想念は巡り巡って自分に還ってきます。人も動植物も意識の奥底は繋がっているのですから。

 だから、心の状態が問題なんです。口に幾ら美しい儀礼的な言葉を並べても、相手の潜在意識や身体意識は貴方の腹の中の言葉が聞こえています。貴方の感情は伝わっています。そして貴方の感情は念となって発信されていますから、巡って来て自分自身に対してイメイジを実現します。あなたの喋る言葉ではなく、感情の部分に貴方の魂の光が反映されています。物事か生起する因となる動力は感情の部分にあります。言葉にはならない、自分の理性では理解できない感情の部分に大きな物質化、現実での実行力が秘められています。

 この世に偶然は無いと言われます。シャカムニブッダは縁起の法と説かれました。皆が持っている因は、それぞれの因と因が出逢う縁によって生起して結果を生み、そして其の結果が報いて更なる因を作るわけです。それらの動力となる大きな力は、それぞれの魂が輪廻転生する内に作ってきた業(カルマ)という偏った方向性を持つものです。それらは縁によって出合い、そして発動します。

 だから縁が生じないよう(波長が合わないよう)に因(感情の奥の痼り)を解消させる事が大事なのです。それには、先ずは気づくことから始まるのですね。そして我々不徳のものは、滅罪とか無償の奉仕とか見返りを求めない心を作るための浄化の作業を先ず行うことが前提なのです。思えば叶うという人も居られますけれど、邪念が多い人が想いだけで物事が実現していったら、他人にも迷惑なばかりか自らを滅ぼしますから。
 自身の想念や心の中を観る力が必要なんです。其れには損得勘定で動く行動パターンを捨てて、自分自身を軽く持たなければ自らの心の動きなんて観ることが出来るわけが無いでしょう。
 他人のことを勝手に判断して、そして妄想して被害者意識に陥り、事件を起こしたりしている事が頻発しています。相手に尋ねたり確認する手続きを省いて、勝手に自分自身の妄念で作り上げた現実を相手に投影している訳です。強力な人工的電磁波が飛び交い、電気・電子製品に囲まれて磁場がおかしくなった環境。添加物の多い酸化した飲食物。その上、往生際の悪い亡者の念が染みついたままの土地。人間の神経系統や脳が正常に働くわけは無いでしょう。そういった環境や生活習慣を変え、そして強いオーラを持った心を育てなくて、この混沌とした世の中を楽しく上手に、そして軽く生きていくことが出来るわけが無いじゃないですか。

 運気が強かったり生命力があって身体も健康なときは、頭も正常に働き、想いもどんどん実現して行くでしょう。しかしながら人生は色々な波があります。人によってパターンも異なります。その中で運気が弱っていたり生命力が落ちたときが問題なんです。その時に魔が差したら飛んでもないことをやらかしたりします。また日頃から無償の見返りを求めない心が出来ていなかったら、つまり徳がなかったら、運気が悪いときに他人や神仏の助けが得られません。更に頭も働かず心も乱れたままの状態で盲動します。そんな状態で何をやっても空回りばかり。それは他人や社会が非情なのでも悪いのでも無いのです。

 今まで、自分自身が心から差し出して来なかったから、返ってくるものが無いだけです。徳分の積み重ねが無いという事です。運気の弱い調子が悪いとき、自分の力が発揮できないときには間違った判断をしたり、感情的な言葉で他人の気分を害したりして仕舞いがちです。だからこそ運気の強いとき調子がよいときの行動が大事なんです。そういう実現力のある時に世のため人のために役に立って喜ばれておくことが大事なんですね。最初は計算尽くでも良いです。でもそういった行動パターンが習い性になれば、自然と心から奉仕的行動が出来ます。但し、自己犠牲を全面に出した押しつけがましい行動では自分で自分自身を刻むことになります。似非の自己犠牲的失敗パターンが潜在意識に刷り込まれている日本人は気を付けた方が良いでしょう。幸せな想念を発信している人は、それだけで他人を幸せに出来ます。それは口ではなくて、滲み出る雰囲気、オーラです。それは他人が意識変革しようとするときのパワーになるんです。幸せな心のパワーを発信して下さい。

 それから前述のバルドソドルの内容に関連することですが、人が亡くなった時に必要以上に嘆き悲しむ事をしてはならないとされています。次の世界に移行しようと準備している魂の足を引っ張るからです。中有の世界に留めてしまうといいます。それと同様に、他人の事を必要以上に心配して介入する行為は、相手の魂の進化を阻害します。心配の暗い念は、相手の魂を今あるステージに押し留めます。心配するのは勝手と言うことはありません。そういう想念は他者のエネルギーを損ねます。と同時に自分自身の進歩、意識転換の壁でもあります。

 人生に於いて、自分自身が能動的に選択し、また自分自身の気づきの下に行動した結果、物事を上手くやり遂げたという達成感や成功体験の無い人は、他人に向かって出来ない理由や上手くいかないことばかり考えます。心配ばかりして、本当に病気でもないのに病気だ顔色が悪いなどと言い張ります。自分が認識できる狭い現実をそのまま他人にも押し付けます。自分の現実と他者の現実は違うことが解らないのです。人それぞれ生きるテーマと役目も違います。ステップを踏んだ上でチャレンジしての失敗はその人自身の糧になります。次のドアを開くための経験となります。ですから人それぞれに色々な失敗をするでしょう。その学ぶ機会を採り上げてしまう事は、その人が自分の人生をコントロールする力を取り上げるのと同じ意味です。その様な事が解らない人間、やってこなかった人間が多いから今の日本の国の子供達がおかしくなったんでしょ? 日本の国が変になったんでしょ? そういうことさえも解らない人間が増えています。

 逆に意識転換をして自分を高めようとしている過程にある人は、出来ない理由を得々と述べる人にはあまり近づかない方が良いでしょう。そういった出来ないことばかり唱える人達が気づこうとせずに、自ら不幸になったり具合が悪くなっていくことに対して、最低限やれることはやっておくことが必要ですけれど、其れよりも自分の理想を実現し姿、楽しく暮らしている姿を見せて上げることの方が、そういった種類の人達や、また互いの向上を目指す仲間への一番の贈り物となります。 今の様な荒れた時代、変革しようとしている時代、ある意味本当に恐ろしい時代になってしまいましたが、自分自身の力が確立されていないのに、良い格好をしたり、自分自身の力を過信したり、または定型的な信条でもって、ネガティブな暗いパワーを持った人達と深く関わっていくことは、意識変革に残された時間から考えると少し状況が厳しいと思われます。先ずは自身を確立される事が先なのではないでしょうか。

 さて、先に今の時代は個々人が神や仏に繋がることの出来る時代だと書きました。でも魂が磨かれていないと、思い違い勘違いをすることは往々にしてあります。何がしかの変わった能力が身についてきたり、何か変わった感覚が得られたり、他人が見えないものが見えるようになったとしても、それは人間が本来持っている能力だったりします。また動物が当たり前に持っている能力でもあります。ですから頭を垂れていること、何時も自分自身を客観的に観察する意識を確立させておくことが大事です。
 そういった事に関しては、別ページの「エンジニアのための宗教学入門1)仏教に於ける運の捉え方---`96」と「3)フィーリングの源泉がどこから来るのか見極める能力-----審神者(さにわ)の能力`01/10“」

 

 さて、ページが長くなったので別のページに続編を書きます。此の続きは以下のリンクからお願い致します。

【考察とお願い】後半ページへ


kajiya-ma 1998.9/v7.0
・日本の智慧:鍛冶屋さんに日本古来の鍛造法でナイフを作って貰ったへ戻る
・【考察とお願い】
・【番外編】にわか鍛冶ワークショップ
・【更に番外編】フイゴで炭を熾し、炭焼きバーベキュー

・ある日の小山製作所`01/2
・手打ち鉈他、造林用の良い道具類を手に入れる`01/2---刃物は使ってなんぼ。使わなければ良さは解らない
・フイゴに呼ばれて`01/2---鍛冶の神に見込まれてしまったのだろうか。欲しかった鞴の上物が格安で!
・中古道具屋・砥石屋さん巡り`01/3---少ない投資で充実した設備。新品? 要らんやろう。。。丹念に探せば出物があるある
・火造り遊び`01/6---長野からMちゃんが鍛造ナイフを造りに来た。オイ、止せよ、アブねえなあ。ナイフ振り回すな.....って。(^^;;
・新しく出来たナイフの仕上がりを調べるために、自分の指で試したバカな奴の話。恥ずかしいので知り合いだけにと思っていたけれど、此の切った指の修理方法は結構有効なことが経時変化で解ったので、敢えて恥を忍んで公開。やっぱり、切り傷にはアロンアルファでしょ!--`01/11/14
・東京マタギ深瀬工房製ナイフ、山包丁:まいどお世話になっている深瀬校長のナイフの紹介ページを作ってしまった。沢屋さんにはピッタリよ。
・刀鍛冶のところにお邪魔してきた'02/秋
・特別貴重刀剣認定書付き、太刀姿日本刀譲ります:日刀保の認定書付き、博物館クラスのもの“備後國住正広”。知人に依頼されたものをWebサイトにもアップします。ご縁のある方に。`03/7/5
・家にある道具で口金を火造り?---古く使い込んでボロボロになった鉈や鎌も、柄と口金を新しくすれば元通りに活躍できる。その口金を作るには?
・肥後の守の使い易い点?---家の近所の金物屋さんに寄ったら肥後の守で竹とんぼを作っていた。切り出し小刀などより意外と使い易い肥後の守の形状とは???って、大したことではないのだけど取り敢えず書いてみました。(^-^;;--`04/12/5
・東京マタギ、ナイフメーキング教室?`06/3:熱可塑性樹脂カイデックスを使ったシース(鞘)作り& 山菜キノコ採り教室の風景
・小さいけれど本物。ミニ沼田鉈「鍛冶屋の誇りが籠もっている鉈?」`06/8---“趣味のミニ鉈”とは書いてありますけれど
・東京マタギ深瀬教室の仲間とのキノコ&蕎麦の会 `07/11/20---裏々キノコ教室:性格悪い奴はキノコ採れない伝説。楽しい仲間とのキノコ採りの風景と、少しばかり美味しく出来るようになった蕎麦打ちのプチ自慢。性格悪い奴ほど能書きが多い!!!って、、、誰のこと?
・CT110ハンターカブのその後---整備と部品交換。たかがCT、されどCT。足(たる)を知れと言われても...
・新規格以前の四駆軽トラのお薦め---其の二 ---スピリチュアル軽トラ-ライフ。良い“足”を手に入れたら---`05/1
・“山仕事の道具と技術、智慧は、自給と自衛の基本”(社)全国林業改良普及協会刊 森と暮らすNo.2「ノウハウ図解山仕事の道具」(`08/6/10発行)のお薦め-----自給自足、半農半X、田舎暮らし、農的生活指向の方々に必須? 自然と共に暮らそうと思ったら山と木々があってこそ。本書は、山主や林家向けの入門編の本だが、山の作業と道具に関わることから安全管理まで全てを網羅している。当サイト管理者も、鍛冶屋の智慧や、道具類の修理修復、熱可塑性樹脂カイデックスを使った鉈や道具類の鞘(シース)作りのページを70頁ほど書かせて貰った。実践的な智慧が籠もった本なのでお薦めする。---`08/6/11
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