源頼政 みなもとのよりまさ 長治一〜治承四(1104-1180) 法名:頼円・真蓮 通称:源三位

摂津国渡辺(現大阪市中央区)を本拠とした摂津源氏の武将。参河守頼綱の孫。従五位下兵庫頭仲正(仲政)の息子。母は勘解由次官藤原友実女。兄弟に頼行・光重・泰政・良智・乗智、姉妹に三河(忠通家女房。千載集ほか作者)・皇后宮美濃(金葉集ほか作者)がいる。藤原範兼は母方の従弟、宜秋門院丹後は姪にあたる。子には仲綱・兼綱・頼兼・二条院讃岐ほか。
永久・元永年間(1113-1120)、国守に任ぜられた父に同行し、下総国に過ごす。保延年間、父より所領を譲られる。白河院判官代となり、保延二年(1136)、蔵人となり従五位下に叙せられる。保元元年(1156)七月、保元の乱に際しては後白河院方に従い戦功を上げたが、行賞には預らなかったらしい(平家物語)。同四年十二月、平治の乱にあって平家方に参加、再び武勲を上げる。以後漸次昇進し、治承二年(1178)十二月、平清盛の奏請により武士としては異例の従三位に叙された。同三年、出家するが、平氏政権への不満が高まる中、治承四年四月、高倉宮以仁王(もちひとおう)(後白河院第二皇子)の令旨を申し請い、翌月、平氏政権に対し兵を挙げる。三井寺より王を護って南都へ向かうが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、同年五月二十六日、宇治川に敗れ平等院に切腹して果てた。薨年七十七。
歌人としては俊恵の歌林苑の会衆として活動したほか、藤原為忠主催の両度の百首和歌(「丹後守為忠朝臣百首」「木工権頭為忠朝臣百首」)、久安五年(1149)の右衛門督家成歌合、永万二年(1166)の中宮亮重家朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、同年の建春門院北面歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合、同年の右大臣兼実家百首など、多くの歌合や歌会で活躍した。藤原実定清輔をはじめ歌人との交遊関係は広い。また小侍従を恋人としたらしい。『歌仙落書』『治承三十六人歌合』に歌仙として選入される。鴨長明『無名抄』には、藤原俊成の「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」、俊恵の「頼政卿はいみじかりし歌仙なり」など高い評価が見える。自撰と推測される家集『源三位頼政集(げんのさんみよりまさしゅう)』(以下『頼政集』と略)がある。詞花集初出。勅撰入集五十九首。

「頼政卿はいみじかりし歌仙也。心の底まで歌になりかへりて、常にこれを忘れず心にかけつつ、鳥の一声鳴き、風のそそと吹くにも、まして花の散り、葉の落ち、月の出入り、雨雲などの降るにつけても、立居起き臥しに、風情をめぐらさずといふことなし。真に秀歌の出で来る、理(ことわり)とぞ覚え侍りし」(鴨長明『無名抄』に見える俊恵の評)

「源三位頼政集」群書類従246(第14輯)・校註国歌大系14・私家集大成2・新編国歌大観3

  9首  7首  8首  3首  9首  4首 計40首

題しらず

深山木(みやまぎ)のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり(詞花17)

【通釈】深山の木々の中にあって、どれがその梢だと見分けることの出来なかった桜は、咲いた花によって、自然と目につくようになった。

【補記】『平家物語』『源平盛衰記』などにも引用され名高い歌。「一年近衛院御在位の御時、当座の御会のありしに、『深山の花』といふ題を出されたりけるに、人々みな詠みわづらはれたりしを、この頼政卿、『深山木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり』といふ名歌仕つて御感にあづかる」云々(『平家物語』巻一「御輿振」)。

【他出】治承三十六人歌合、頼政集、新時代不同歌合

【主な派生歌】
わきかねし同じ緑の夏草を花にあらはす秋の夕暮(小侍従)
咲きにほふ梢をとへば苔の下のその名も花にあらはれにけり(三条西実隆)
時しあればしられぬ谷の埋木も花にはそれとあらはれにけり([松陰中納言物語])
忍びつつ霞と共にながめしもあらはれにけり花の木のもと(豊臣秀吉)

白河にて人々花見侍りしに

おのづから花の下にしやすらへば逢はばやと思ふ人も来にけり(頼政集)

【通釈】花の下で一休みしていたら、おのずと、逢いたいと思っていた人がやって来たよ。

【語釈】◇白河 今の京都市左京区岡崎あたり。同名の川もある。桜の名所。◇おのづから 自然の成り行きで。偶然に。結句「人も来にけり」に掛かる。

【補記】桜の名所であった白河で花見をした時に詠んだという歌。

【参考歌】花山院「詞花集」
木のもとをすみかとすればおのづから花見る人となりぬべきかな

題しらず

近江路(あふみぢ)や真野の浜辺に駒とめて比良(ひら)高嶺(たかね)の花を見るかな(新続古今130)

【通釈】近江路の真野の浜辺に馬を停めて、比良の高嶺の花を眺めるのだ。

【語釈】◇近江路 琵琶湖西岸を通り、北陸道へと通ずる道。◇真野 滋賀県大津市真野町。真野川が琵琶湖に注ぐあたり。薄が生い茂り、鶉が鳴く、寂しげな野として詠まれることが多い。◇比良の高嶺 琵琶湖西岸の比良山。

【補記】永万二年(1166)、藤原重家主催の歌合(中宮亮重家朝臣家歌合)に出詠された歌。題は「花」、五番右持(引分け)。

【他出】頼政集、玄玉集、歌枕名寄、夫木和歌抄

おなじ人のもとにて花の歌とて

散りはてて後や我が身にかへりこむ花咲く宿にとまる心は(頼政集)

【通釈】桜がすっかり散り切ったあとは、私の身体に帰って来るだろう。花咲く宿に留まったままの私の心は。

【補記】詞書の「おなじ人」は藤原重家を指す。重家邸における歌会での作。

春月経盛卿家歌合

暮れぬ間は花にたぐへて散らしつる心あつむる春の夜の月(頼政集)

【通釈】日が暮れない間は花にならって散らしてしまった心を、日が沈みきった後は、春の夜の月を眺めて再び集めるのだ。

【補記】平経盛(1124〜1185)の家で催された歌合に出詠した作。花に向き合う時と、月に向き合う時とで、心のありようは好対照を示す。

水上落花といふことを

吉野川いはせの波による花や青根が峰にきゆる白雲(風雅256)

【通釈】吉野川の岩の多い瀬に波があたって砕ける――その波に運ばれて来た花は、ちょうど青根が峰にあたって消える白雲のように、散り散りに消えてゆく。

【語釈】◇青根が峰 奈良県吉野郡の青根ヶ峰。

【他出】今撰集、治承三十六人歌合、頼政集、玄玉集

帰雁の心をよみ侍りける

天つ空ひとつに見ゆる越の海の波をわけてもかへる雁がね(千載38)

【通釈】どこからが大空とも見分けのつかない、縹渺とした越の海――その荒々しい波を分けてまでも、やはり雁は故郷へ帰ってゆくのだ。

【語釈】◇越の海 越(こし)は北陸地方の古称。越の海は北陸沿岸の日本海。◇雁がね 雁。秋、日本列島に飛来して越冬し、春、シベリア方面へ帰って行く。

【補記】『頼政集』によれば頼輔朝臣歌合での作。

折蕨遇友

めづらしき人にも逢ひぬ早蕨の折よく我と野辺に来にけり(頼政集)

【通釈】珍しい人に遇ったなあ。芽を出したばかりの蕨を手折ろうと、折りよく二人とも野辺に来たものだよ。

【語釈】◇早蕨(さわらび) 芽を出して間もないワラビ。食用になる。◇折よく 「(早蕨を)折り」と「折よく」の掛詞。

【補記】題詠歌であるが、出会った友達に語りかけるような口調で詠まれているところが新鮮である。第四句「折らまく我も」とする本もある。

二条院御時、春残二日といふことを上の(をのこ)どもつかうまつりけるに

をしめども今宵も明けば行く春をあすばかりとやあすは思はむ(玉葉287)

【通釈】春も残すところ二日となった。いくら惜しんでも、今宵が明けてしまえば、去りゆく春を「もう明日一日だけなのだ」と明日は思うのだろう。

【語釈】◇上の男ども 殿上人(てんじょうびと)。内裏への昇殿を許された男性官人のこと。頼政は二条天皇代、まだ昇殿を許されなかった。

【補記】『頼政集』では第二句「こよひもふけぬ」。

【他出】今撰集、頼政集、雲葉集、題林愚抄

待郭公、公通卿十首会の内

恋するかなにぞと人やとがむらむ山ほととぎす今朝は待つ身を(頼政集)

【通釈】恋でもしているのか、どうしたと人が見咎めるだろうか。今朝は鳴くかと山時鳥を待ち焦がれている我が身を。

【補記】第三句「あやむらむ」、結句「げにはまつ身を」とする本もあるが、いずれも歌の品が下る。

山家郭公 法住寺殿会

都には待つらむものを時鳥(ほととぎす)いづるを惜しむ深山べの里(頼政集)

【通釈】都では、おまえの初鳴きを心待ちにしていようものを。ほととぎすが出て行くのを惜しんでいる、奥山のほとりの里――そこが、我が住いなのだ。

【補記】詞書の「法住寺殿」は後白河院が御所とした寺。

郭公を 公通卿会

香をとめて山ほととぎす落ちくやと空までかをれ宿の橘(頼政集)

【通釈】香りを尋ね求めて、山時鳥が落ちて来ないかと――そんな風に思えるほど空まで薫ってくれ、庭の橘よ。

【補記】橘の香はほととぎすを引き寄せるものと古来考えられた。「今朝来鳴きいまだ旅なる郭公花橘に宿はからなむ」(古今集、読人不知)など。

【補記】群書類従本に拠る。新編国歌大観(底本は書陵部蔵松浦静山旧蔵本)は第四句「空までかをる」。

時鳥の歌とてよめる

一こゑはさやかに鳴きてほととぎす雲路(くもぢ)はるかに遠ざかるなり(千載159)

【通釈】たった一声くっきりと鳴いて、ホトトギスは雲を分け遥かに遠ざかってゆく。

【語釈】◇雲路 雲の中にあると想定された道。鳥や天女はそこを通ると考えられた。

【補記】『頼政集』によれば「法輪寺百首」のうちの一首。同集、第二句は「さやかに過ぎて」、結句は「遠ざかりゆく」。

夏月をよめる

庭の(おも)はまだかわかぬに夕立の空さりげなくすめる月かな(新古267)

【通釈】庭の地面はまだ乾かないのに、さっきまで夕立を降らせていた空はもうそんな様子もなく、ただ月が冴え冴えと照っている。

【他出】頼政集、沙石集、三百六十首和歌、六華集、題林愚抄

水上夏月

うき草を雲とやいとふ夏の池の底なる魚も月をながめば(頼政集)

【通釈】夏の池には、浮草がはびこっている。それを雲として邪魔に思うのだろうか、池の底にいる魚も、月を眺めるときには。

【補記】池の底の魚の視点から夏の月を読むという異色の趣向。

大井河辺にまかりてあそび侍りしに、河辺夕涼といふ心を人々よみ侍りしに

暮れぬるか(をち)の山かげわたりきて今ぞ戸無瀬(となせ)の河辺すずしき(頼政集)

【通釈】もう日は沈んでしまったのか、遠くの方からずっと山陰を歩いて来て、今しも辿り着いた戸無瀬の河辺の涼しいことよ。

【語釈】◇山かげわたりきて 山の陰になった所を歩いて来たので、太陽は見えなかった。それで「暮れぬるか」と言うのである。◇戸無瀬 京都嵐山のあたり。

【補記】題詠であるが、臨場感あふれる夕涼詠。

題しらず

狩衣われとはすらじ露しげき野原の萩の花にまかせて(新古329)

【通釈】狩衣をわざわざ自分から摺り染めることはしまい。野原の道を辿ってゆけば、露がたくさんついた萩の花が、自然と色を摺り付けてくれるのだ。それに任せればよい。

【語釈】◇われとはすらじ 自分からは摺るまい。「する」とは、草木の汁を衣にこすりつけて色を着けること。

【補記】『頼政集』では詞書「草花の心を歌林苑歌合」とある。歌林苑は俊恵が主宰した歌人の集まり。

【他出】歌仙落書、頼政集、玄玉集

【参考歌】作者不詳「万葉集」
ことさらに衣はすらじ女郎花咲野の萩ににほひてをらむ

海辺月

住吉の松の木間(こま)よりながむれば月おちかかる淡路島山(頼政集)

【通釈】住吉の浜にいて、松の木の間をとおして海を眺めると、月が淡路の島影に落ちかかっていた。

【語釈】◇松の木間より… 松林越しに眺めると、木と木の隙間に月が見えたのである。作者が「木間」にいてそこから眺めた、というのではない。

【他出】宝物集、無名抄、新時代不同歌合、愚秘抄、落書露顕

伊賀入道為業会

浦づたひ鳴尾の松のかげに来てまた隈もなき月をみるかな(頼政集)

【通釈】月を賞美しながら鳴尾の浜を浦づたいにやって来て、名高い一本松の陰に辿り着いた。そこでまたいっそう隈なく照る月を見るのだ。

【語釈】◇鳴尾 兵庫県西宮市鳴尾町にその名を留める。白砂青松の海岸で、「鳴尾の一つ松」が著名。

【補記】寂念の歌会での作。題は『頼政集』の一首前の歌と同じ「海辺月」であろう。

題しらず

今宵たれすずふく風を身にしめて吉野の(たけ)に月を見るらむ(新古387)

【通釈】今宵、篠竹に吹く風を身に沁みるように聞きながら、吉野の山岳の上で、誰が月を眺めているのだろう。

【語釈】◇すずふく風 篠竹を吹く風。◇吉野のたけ 吉野の山嶽。「たけ」は竹と掛詞になり、「すず」の縁語。

【補記】『頼政集』に拠れば題は「月」。「御嶽詣の修験者を思いやった歌であろう」(岩波古典大系注)。なお、『頼政集』は第四句「吉野のたけの」とする。

【他出】頼政集、歌枕名寄、六華集

【主な派生詩歌】
今宵たれすずのしのやに夢さめて吉野の月に袖ぬらすらむ(九条良経)
木枯のすず吹く峰の夕時雨そめぬ色しも身にはしみけり(後鳥羽院[新千載])
み吉野やすず吹く音はうづもれて槙の葉はらふ雪の朝風(津守国夏[風雅])
吉野山すず吹く秋のかり寝より花ぞ身にしむ木々の下風(細川幽斎)
こよひたれ伏見の里に寝覚して夢路悔しき月をみるらむ(望月長孝)
今宵誰吉野の月も十六里(芭蕉)

湖辺見月

漕ぎ出でて月はながめむさざなみや志賀津の浦は山の端ちかし(頼政集)

【通釈】月は湖に漕ぎ出て眺めよう。志賀津の浦なら、山の稜線も間近に望まれる。月が沈むぎりぎりまで眺めることができるだろう。

【語釈】◇さざなみや 志賀にかかる枕詞。◇志賀津の浦 琵琶湖西南岸、志賀の港がある入江。◇山の端ちかし 志賀からは西に比叡山がよく眺められる。

遍照寺の月を見て

いにしへの人は(みぎは)に影たえて月のみすめる広沢の池(頼政集)

【通釈】ここ広沢の池では古来、風流な人々が池のほとりで月を賞美してきたが、そんな昔の人の影はいま岸辺になく、ただ月ばかりが水面に澄んで映っている。

【語釈】◇広沢の池 京都市右京区、北嵯峨の地に古くからある灌漑用水。月の名所とされ、池のほとりに遍照寺があり、月見堂があった。

【他出】新千載集、歌枕名寄

二十日月

宵の間に思ひしことを思ふかな二十日の月のすみのぼるまで(為忠家後度百首)

【通釈】夕暮れて間もない頃に思ったことを、あらためて思い巡らすのだ。澄んだ二十日の月が昇るまで。

【語釈】◇宵の間 日が沈んで間もない頃。◇二十日(はつか)の月 夜もすっかり更けてから昇る有明月。

【補記】保延元年(1135)頃までに成立されたと推測される「為忠家後度百首」。秋歌は題を月に限り、「三日月」「立待月」「寝待月」など様々な題詠を試みている。因みに「十五夜月」の題で頼政が詠んだ歌「石清水ながれに放ついろくづの鰭ふりゆくも見ゆる月影」も印象に残る。

嘉応二年法住寺殿の殿上歌合に、関路落葉といへる心をよみ侍りける

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関(千載365)

【通釈】都を出るときは、木々をまだ青葉として眺めたけれども、白河の関に着いた頃には、紅葉となって散り敷いていた。

白河の関跡白河の関 福島県白河市旗宿。奥州三関のひとつ。

【補記】嘉応二年(1170)、建春門院北面歌合、題「関路落葉」、五番右勝。「建春門院」は平滋子。後白河天皇の女御で、高倉天皇を生み、高倉天皇即位後は皇太后となった。

【他出】建春門院北面歌合、頼政集、宝物集、無名抄、歌枕名寄、六華集、落書露顕、題林愚抄、雲玉集

【本歌】能因「後拾遺集」
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関

【主な派生歌】
白露も色そめあへぬ龍田山まだあを葉にて秋風ぞふく(九条良経)

時雨の歌とてよめる

山めぐる雲の下にやなりぬらむすそ野の原に時雨すぐなり(千載408)

【通釈】時雨を降らす雲が、山から山へうつって行く。ちょうどその雲の下に入ってしまったのだろう、裾野の原を通り雨が過ぎて行く。

【語釈】◇時雨すぐなり この「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞。目にはしていないが、聴覚によって時雨が過ぎてゆくと判断していることをあらわす。

【補記】『頼政集』では下句「すそ野の里を時雨すぐなる」。

【他出】歌仙落書、頼政集、定家八代抄、題林愚抄

水鳥近馴の心を 歌林苑歌会

槙ながす丹生(にふ)の川瀬にゐる鴨は目なれにけりな立ちもさわがず(頼政集)

【通釈】丹生川の浅瀬にいるカモは、材木が流れて来ても、もう見馴れてしまったのかな、驚いて騒ぐこともない。

【語釈】◇槙(まき) 杉檜などの材木。◇丹生の河瀬 丹生川は吉野川の支流。「飛騨人の真木流すといふ丹生の川言は通へど舟ぞ通はぬ」(万葉7-1173)。

【補記】『頼政集』の詞書は「おなじ心を 歌林苑歌会」。当テキストでは一つ前の歌の題を移して改変した。

【他出】歌仙落書、治承三十六人歌合、歌枕名寄、夫木和歌抄

暁雪

忍びづまかへらむ跡もしるからし降らばなほ降れしののめの雪(頼政集)

【通釈】ひそかに通う恋人が、帰って行く――その足跡がくっきりついてしまうみたいだ。東雲(しののめ)の雪よ、降るのなら、もっと降ってくれ。

【補記】「つま」は、性別を問わず、契りを交わした相手を呼ぶ称で、この歌では男の恋人を指す。すなわち「忍びづま」は忍び夫である。後朝の別れにおける女の立場で詠んだ歌。

題しらず

思へどもいはで忍ぶのすり衣心の中にみだれぬるかな(千載663)

【通釈】恋しく思っても、言わずに堪え忍んでいる。その「しのぶ」の摺り衣の模様みたいに、心の中では思い乱れているのだ。

【語釈】◇いはで 「いはで」「岩手」の掛詞。「岩手」は陸奥国の郡名で同国の郡名である「しのぶ(信夫)」の縁語。◇忍ぶのすり衣 陸奥国信夫郡特産の摺り衣。前句から「忍ぶ」の意が掛かる。「すり衣」は「もぢずり(捩摺)」と言われ、その模様から「乱れ」を導く序。

【補記】保延元年(1135)頃までに成立されたと推測される「為忠家後度百首」、題は「未通詞恋」。まだ手紙さえ通わしていない段階での恋。

【他出】後葉集、今撰集、頼政集、和歌口伝、歌枕名寄、歌林良材

【本歌】「伊勢物語」
春日野の若むらさきのすり衣しのぶのみだれかぎりしられず
  源融「古今集」
みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにし我ならなくに

【主な派生歌】
こひしともいはでしのぶのすり衣袖になみだの露ぞみだるる(西園寺実材母)
露はまづ色にやいでむ思ふともいはで忍ぶのもりのした草(足利義詮[新拾遺])

摂政右大臣の時の百首歌の時、忍恋の心をよみ侍りける

あさましやおさふる袖の下くぐる涙の末を人や見つらむ(千載693)

【通釈】見っともなくて情けないなあ。押さえた袖の下を潜(くぐ)って流れる涙――それが最後には漏れてしまって、人に見られやしないかと思うと。

【補記】治承二年(1178)の右大臣兼実百首。

後朝(きぬぎぬ)の恋の心をよめる

人はいさあかぬ夜床(よどこ)にとどめつる我が心こそ我を待つらめ(千載805)

【通釈】あなたが私を待ってくれているかどうか、さあそれは知らない。ともあれ、満足できずに去らなければならなかった夜の床に、私は自分の心を残して来てしまった。その心は私を待っているだろう。だからまた必ず逢いに行きますよ。

【補記】『頼政集』には詞書「歌林苑十首の内」とある。

【他出】歌仙落書、治承三十六人歌合、頼政集、六華集

【主な派生歌】
たましひはあかぬ夜床にとどめおきてあるにもあらで暮らす今日かな([浅茅が露])

題しらず

水ぐきはこれをかぎりとかきつめて堰きあへぬものは涙なりけり(千載868)

【通釈】あの人に手紙を贈るのもこれが最後と、思いを書き集めた。まるで、河に設けた堰が水草のたぐいを寄せ集めるように。しかし堰き止めることができなかったのは、溢れ出る涙だったよ。

【語釈】◇水ぐき 筆・筆跡・手紙を意味する歌語。万葉集に見える枕詞「みづくきの」(「水城」「岡」に掛かる)に由来する語で、「くき」を「茎」とみなして筆の意に転じたものという。◇かきつめ 「かきあつめ」の約。「掻き集め」「書き集め」の掛詞。◇堰きあへぬ どうにも堰き止めることが出来ない。「堰き」は「涙」と共に水の縁語。

【補記】『頼政集』の詞書は「まだふたつふみをだにかよはすまじかりける人のもとへこれをかぎりと思へとて」。二度と手紙をやりとりすることさえ絶望的な相手に、これを最後として贈った歌。

失返事恋

恋ひ恋ひてまれにうけひく玉章(たまづさ)を置きうしなひてまた歎くかな(頼政集)

【通釈】恋しい思いをし続けて、稀に受け取った返事の手紙を、どこかに置き忘れてしまって、また歎くのだ。

【補記】題は「返り事を失ふ恋」。平安末期以降、稀に見られる歌題。『頼政集』には同題でもう一首「いづこぞや妹が玉づさ隠し置きて覚えぬほどに老ぼれにけり」がある。

隔河恋といへる心をよめる

山城の美豆野(みづの)の里に(いも)をおきていくたび淀に舟よばふらむ (千載887)

【通釈】都に呼び寄せることもできずに、山城の美豆野の里に恋しい人を住まわせている――その人を訪ねて私は何度淀に来て、渡し船を呼ぶのだろうか。

【語釈】◇美豆野・淀 今の京都市伏見区淀美豆町あたり。桂川と淀川の合流地。◇舟よばふらむ 舟を呼ぶのだろうか。この舟は、「妹」の家がある向こう岸へ渡してくれる舟。

【他出】頼政集、月詣集、定家八代抄、歌枕名寄

【参考歌】柿本人麻呂「万葉集」
衾道を引手の山に妹を置きて山道を往けば生けりともなし

恋遠所人、法住寺殿会

みちのくの(かね)をば恋ひてほる間なく妹がなまりの忘られぬかな(頼政集)

【通釈】陸奥の金を求めて皆が山を掘り、掘る隙間もないと言うが、そのように絶え間なく、愛しいひとのなまりが忘れられずにいる。

【語釈】◇ほる間なく 「ほる」には「欲る」意を掛けるか。「間なく」は「隙間がなく」「絶え間なく」の両義が掛かる。◇なまり 地方的な発音。「鉛」の意が掛かり、「金」の縁語となる。

【補記】題は「遠き所の人を恋ふ」。父仲正の狂歌めいた歌風を引き継ぐような、ユーモラスな歌。歌人頼政の見逃せない一面である。

恋の心を人々よみ侍りしに

妹ならばひたひの髪をふりかけて伝ふ泪を玉とぬかまし(頼政集)

【通釈】愛しいひとならば、額に髪を振りかけて泣く、そのとき伝う涙を、玉として貫(ぬ)き止めておこうものを。

【語釈】◇ふりかけて 髪が額にはらはらと掛かる様。

いとうらめしき人につかはしける

聞きもせず我も聞かれじ今はただひとりびとりが世になくもがな(玉葉1756)

【通釈】便りをもらえないばかりか、近頃はあなたの噂さえ聞かない。こんなことなら、私のこともあなたに聞かれたくはない。今はただこう思うだけです。あなたと私と、どっちかがこの世にいなければいいのにと。

【語釈】◇ひとりびとり どちらか一方。

【補記】『頼政集』は初句「ききもせじ」。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
思ふどちひとりびとりが恋ひ死なばたれによそへて藤衣きむ

東路(あづまぢ)を朝たちゆけば葛飾(かつしか)真間(まま)継橋(つぎはし)かすみわたれり(右大臣家歌合)

【通釈】関東の道筋を朝早く辿ってゆくと、葛飾の真間の継橋は、向こう岸まで一面霞がたちこめていた。

【語釈】◇葛飾の真間の継橋 下総の歌枕。今の千葉県市川市内。万葉集の東歌「足(あ)の音(と)せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ」(14-3387)に由る。「継橋」は川の中に立てた柱に橋板を継いで渡した橋。◇かすみわたれり 「わたる」は橋の縁語。

【補記】治承三年(1179)十月の右大臣兼実歌合。鴨長明『無名抄』には名所歌の秀歌として引用されている(ただし第二句は「朝立ち来れば」)。

二条院の御時、年ごろ大内守ることをうけたまはりて御垣の内に侍りながら、昇殿を許されざりければ、行幸ありける夜、月のあかかりけるに、女房のもとに申し侍りけるに

人知れぬ大内山の山守は木がくれてのみ月を見るかな(千載978)

【通釈】人に知られない大内山の番人は、木隠れにしか月を見ることができないのだなあ。私は大内を守りながらも、殿上に昇って陛下に拝謁することは適わないのだ。

【語釈】◇大内守ること 内裏守護の役。◇昇殿を許されざりければ 「昇殿」とは、清涼殿南面の殿上の間に昇ることを許されること。頼政は高倉天皇の仁安元年(1166)に至ってようやく内昇殿を許可された。

【他出】続詞花集、歌仙落書、治承三十六人歌合、六代勝事記、十訓抄、歌枕名寄、源平盛衰記

三井寺歌合し侍りけるに、人々にかはりて月をよみ侍りける

月清みしのぶる道ぞしのばれぬ世に隠れてとなに思ひけむ(頼政集)

【通釈】あまり月が冴え冴えと美しかったので、これまで我慢してきた生き方が、しみじみと偲ばれたよ。世間から隠れてひっそり生きようなどと、何を思ったのだろう。もうこれ以上我慢することはしまい。

【語釈】◇しのぶる道 堪え忍んで生きてきた道。◇しのばれぬ こちらの「しのぶ」は「偲ぶ」すなわち過去を顧みる意。

【補記】三井寺、すなわち近江国の園城寺(おんじょうじ)で催された歌合での作。詞書の「三井寺歌合」は不詳であるが、観蓮(藤原教長)が判者を務めた、承安三年(1173)頃の「三井寺山家歌合」か(桂宮本叢書・新編国歌大観などに翻刻がある)。頼政は正式な歌合の出詠歌人でなく、招待客のような立場であったらしいことは、詞書の「人々にかはりて」からも推測される(この「人々」は歌合の方人であろう)。

三位入道、渡辺長七(ちやうじつ)(となふ)を召して、「わが首打て」と(のたま)へば、(しう)生首(いけくび)打たむずる事の悲しさに、「(つかま)つとも存じ(さぶら)はず。御自害(さぶら)はば、その後こそ賜はり(さぶら)はめ」と申しければ、げにもとや思はれけむ、西に向ひて手を合せ、高声(かうじやう)に十念唱へ給ひて、最後の(ことば)ぞ哀れなる

埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける(平家物語)

これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突立て、(うつぶき)様に(つらぬ)かつてぞ失せられける。その時に歌詠むべうは無かりしかども、若うより(あなが)ちに()いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七(ちやうじつ)(となふ)が取つて、石に(くく)り合せ、宇治川の深き所に沈めてけり。

【通釈】埋れ木のような我が身は、花の咲くことなどあるはずがなかったのに、あえて行動を起こし、このような結果になってしまったことが悲しい。

【語釈】◇三位入道 頼政を指す。◇渡辺長七唱 頼政の家来。◇埋れ木 水中や土中に永く埋もれていて、変わり果ててしまった木。世間から捨てて顧みられない身の上を暗示する。◇身のなる果 おのが身の最期。「身の成る」に「実の生(な)る」を掛ける。木・花・実で縁語になる。

【補記】治承四年五月、頼政は以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒を目指し挙兵したが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に破れ、同月二十六日、宇治の平等院で自害した。その時の辞世と伝わる。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成19年10月04日