豊臣秀吉 とよとみのひでよし 天文六?〜慶長三(1537?〜1598)

幼名は日吉・日吉丸、のち木下藤吉郎・羽柴秀吉を名乗った。尾張国愛知郡中村の農民の家に生れる。父の名は弥右衛門。
天文二十年(1551)、十五歳のとき家を出て放浪、遠江国久能の城主松下加兵衛之綱(今川氏の家臣)に仕える。永禄元年(1558)、十八歳で尾張に戻り、清洲の織田信長の草履取りとなり、木下藤吉郎と改名。その後普請奉行として清洲城の修築、墨股城の築城に功をたて、永禄十三年(1570)には部将の地位を得て羽柴と改姓。朝倉義景浅井長政討伐軍に従って戦功を上げ、天正元年(1573)、浅井氏の遺領を与えられて長浜に城を築く。同四年、中国地方の平定を命ぜられ、毛利氏の諸城を攻略、さらに別所長治の三木城、山名豊邦の鳥取城を陥落させる。同十年(1582)備中に入り、清水宗治の高松城を囲んでいたが、本能寺の変を知り直ちに毛利輝元と和睦。軍を返して明智光秀を倒した。同十一年、賤ヶ谷の戦で柴田勝家・織田信孝を滅ぼし、滝川一益を降伏させる。同年、石山本願寺跡に大坂城を起工。同十二年、徳川家康と戦って講和。同十三年、四国を平定し、この功により従一位関白となり、一時藤原に改姓する。またこの年大坂城が完成、五奉行を置き大規模な大名の配置替えを行い、天下統一の体制を整える。豊臣姓を賜り、天正十四年(1586)、太政大臣となる。同年聚楽第を着工。同十五年、九州征伐を行ない、薩摩島津氏を討ち、九州を平定して大坂に凱旋。同年、北野で大茶湯を催す。天正十六年には、完成した聚楽第に後陽成天皇・正親町上皇の行幸を迎える。同十八年、北条氏政を小田原に滅亡させ、同年さらに戦わずして奥州を平定し、天下統一を果す。
天正十七年(1589)、側室の茶々(淀殿)が鶴松を産むが、同十九年、三歳で亡くなった。同年、関白を養子秀次に譲り、太閤と称する。文禄元年(1592)、小西行長・加藤清正らを朝鮮に出兵させる。同三年、淀殿に秀頼が生れ、翌年、乱行のあった秀次を自殺せしめる。慶長二年(1597)、明との講和が整わず、再び朝鮮に軍を進めたが、病気により軍を召還する。明くる年の慶長三年、伏見城で死去。
和歌を好み、文禄三年の吉野山花見、慶長三年の醍醐観桜会など、大規模な歌会を催す。川田順編『戦国時代和歌集』には四十一首を収録。同書に評して曰く、「太閤の歌は太閤の歌なり。所詮は檀那芸なるも、ただの檀那芸にはあらず。往々にして光彩を放つ。文法にかなひたるのみの当年の堂上派月並歌に比すれば勿論、信玄や元就の如き歌名ある武将に比するも立優れること一段なり」。

 

万代(よろづよ)の君が行幸(みゆき)になれなれむ緑木高(こだか)き軒の玉松(豊鑑)

【通釈】万年にわたる我が君の行幸を何度も経験して常のこととするだろう、緑に高く繁る軒端の松は。

【補記】天正十六年(1588)四月、聚楽第に後陽成天皇の行幸を拝して歌会を開いた時の詠。

正月十六日、大閤過ぎし夜の御夢に若君を御らんじて、こたつのうへに御涙おちたまりければ読み給へる

なき人のかたみに涙残し置きて行方しらずに消えはつるかな(衆妙集)

【通釈】亡き若君の忘れ形見として涙を残しておいて、行方も知らずに消え果ててしまったのだな。

【補記】文禄元年(1592)正月、前年八月に亡くなった我が子鶴松の夢を見て、悲しんで詠んだ歌。細川幽斎の家集「衆妙集」に収められた。幽斎の返歌は「をしからぬ身をまぼろしとなすならば涙の玉の行方たづねん」。

辞世

露と落ち露と消えにし我が身かななにはの事も夢のまた夢(戦国時代和歌集)

【通釈】露のように落ち、露のように消えてしまう我が身であるよ。難波のことも、夢のまた夢。

【語釈】◇なにはの事も 難波のことも。難波は秀吉が大坂城を築いた地。「なにもかも」の意を掛けている。

【補記】木下家蔵文書などに辞世として見える。聚楽第落慶の時に詠み、太閤自ら筆にしたのを家臣に納め置かせておいたが、薨去の前日、再びこれを取り出させ、辞世の歌としたものという。

【参考歌】西行「新古今集」
津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日