足利義詮 あしかがよしあきら 元徳二〜貞治六(1330-1367) 通称:坊門殿 諡号:宝篋院

尊氏の三男で嫡子。母は赤橋(北条)久時女、登子。幼名は千寿王。
正慶二年(1333)、後醍醐天皇を討つため父尊氏が鎌倉を発つ際、人質として鎌倉に残された。尊氏は後醍醐方に寝返るが、義詮は家臣らの手で鎌倉脱出に成功。同年五月、新田義貞挙兵の際、兵を率いて参加した。鎌倉幕府滅亡後、細川和氏らの援助で関東を管領する。貞和五年(1349)、上洛し、叔父直義に代わり政務を統括。観応二年(1351)、一旦父と共に南朝に降るが、翌文和元年(1352)、男山の合戦で南朝軍を破り、広義門院に要請して後光厳天皇を践祚させた。その後も直義の養子足利直冬の軍や南朝軍と京都の争奪戦を繰り返す。同四年三月、尊氏と共に京都を奪還。延文三年(1358)十二月、亡くなった父の跡を嗣いで征夷大将軍に就任(室町幕府第二将軍)。同四年、大軍を率いて河内に出陣し南朝方を攻撃する。康安元年(1361)、細川清氏・楠木正儀らに京都を攻められ、後光厳天皇を奉じて近江に遁れるが、同年末には京都を恢復した。これにより幕府体制に安定を齋す。貞治六年(1367)、病に倒れ、子の義満に家督を譲る。同年十二月七日、死去。三十八歳。墓は宝篋院(京都市右京区)にある。
貞治二年(1363)に執奏して二条為明新拾遺集を撰進させ、貞治六年(1367)には新玉津島歌合を催行した。自邸でもしばしば歌会を催し、また源氏物語の注釈書『河海抄』を四辻善成に命じて撰進させるなど、文事にはきわめて熱心であった。延文百首作者。風雅集初出。勅撰入集五十四首。

足利義詮木像 京都市北区 等持院

百首歌たてまつりし時、花

分けゆけば花にかぎりもなかりけり雲をかさぬるみ吉野の山(新千載99)

【通釈】奥へ奥へと分けつつ行けば、花には限りもなかったことよ。どこまでも雲を重ねた吉野の山は。

【補記】奥深く咲き続く吉野山の桜を詠む。「雲」はいわゆる「花の雲」だが、もはや花と雲との区別に拘泥していないようにも見える、大様な詠みぶり。延文二年(1357)、新千載集撰進にあたり後光厳院により召された延文百首。作者二十七歳。

延文二年たてまつりける百首歌に

見るままに門田のおもは暮れはてて稲葉にのこる風の音かな(新後拾遺321)

【通釈】見る見るうちに門田のおもてはすっかり暗くなり、稲葉のそよぐ音によって風の吹いていることが知られるばかりであるよ。

【補記】これも延文百首。風雅集には「月はあれどまだ暮れやらぬ空なれやうつるもうすき庭のかげかな」のような京極風の歌を載せている義詮であるが、その後北朝歌壇は二条派の歌風を受け入れ、義詮の歌風も一変した。「稲葉にのこる風の音」といった修辞技巧は二条家の詠風に近いものである。

【参考歌】源経信「金葉集」「百人一首」
夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろやに秋風ぞ吹く


最終更新日:平成15年06月15日