古玉聚 ―こぎょくしゅう―

私の愛誦歌を中心に選んでみました。少しずつ増やしたり、入れ替えたりするつもりです。すべては、すでに「千人万首」に載っているか、いずれ載せる歌です。

作者名をクリックすると「千人万首」の各歌人のページへジャンプできます。

上古 10首  中古 18首 中世 20首 近世 6首


斉明天皇

山越えて海渡るともおもしろき今城(いまき)(うち)は忘らゆましじ

水門(みなと)(うしほ)のくだり(うな)くだり後ろも(くれ)に置きて行かむ

(うつく)しき()が若き子を置きて行かむ(日本書紀)

(一)飛鳥から山を越え、海を渡って、紀の国へ出かけてゆく。道中の景色は目を楽しませてくれるだろうけれど、いま今城の殯宮(ひんきゅう)の中にいるあの子ほど、私の心を晴らしてくれる存在はなかった。旅をしても、あの子のことは決して忘れられないだろう。
(二)水門(みなと)には潮が押し寄せるように流れてくる。海水が押し寄せるように流れてくる。それに逆らって、後ろ暗い気持ちで、あの子を残して船出してゆこう。
(三)かわいい私の幼子を、あとに残して行こう。

短歌は挽歌として定型を確立した、という説があった。「短歌とはそもそも如何なるものか」を考えるとき、この説はたいへん示唆に富む。上の三首も一種の挽歌と考えていいと思うが、短歌が短歌としての形式をようやく整えた頃の作である。斉明四年(658)五月、愛孫の建王(たけるのみこ)が八歳で夭折し、同年十月、紀伊国の温泉に出かける際、建王を思い出して詠んだ歌。
 三首まとめて読まないと意も情も伝わりにくく、これで一まとめの作品と考えるべきだろう。一首目の「おもしろき今城の中」とは、今城の殯宮の中におさめられた建王をさす。「おもしろき」は諸注釈書が誤解しているが、建王が生前なにかと天皇の気持を晴れ晴れとさせてくれたことを言っているのである。二首目はことに心を打つ。「潮(うしほ)のくだり海(うな)くだり」は、潮の満ち引きで海水が溢れるように流れてくるさまを鮮やかに言い表している。同時にそれは、愛してやまなかった孫への追想が胸に溢れるさまをも暗示していると思われる。あえて「置きてゆかむ」と強い調子で歌い終え、さらに片歌を添えて反復せざるを得なかった心情を思えば、哀切きわまりない。
 初期万葉時代というと誰もが口を揃えたように額田王を讃美する。私もその気持は強いが、忘れられがちな斉明天皇ははるかに偉大な歌人だと思う。万葉集の「中皇命」が斉明天皇だとすれば(私はそう信じるが)なおさらである。(平成13.4.10)


作者不明(東歌)

かなし(いも)をいづち行かめと山菅(やますげ)背向(そがひ)に寝しく今し悔しも(万葉集)

いとしいあの子は、どこへも行ったりしない。するものか、と思って、背中を向けて寝たっけ。今になってそれが悔しいなあ。

万葉集巻十四東歌に、たった一首だけ載っている挽歌。「山菅の」は「そがひ」の枕詞。喧嘩でもした晩に、「それでもあいつは俺のそばを離れたりはしないさ」と高を括って、背を向けてフテ寝をしたのだろうか。仮借ない運命が愛しい人を連れ去ってしまったあとで、その晩のことを想い出したのである。東歌らしい率直な心情表現だが、もちろん後悔だけの心ではあるまい。上二句には、残された男の哀感が調べとして切々とあらわれている。(平成13.4.10)


石上麻呂

吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも(万葉集)

大和の国が見えないよ。いとしい妻をいざ見よう、という名の去来見(いざみ)山が高すぎるのかな。国が遠すぎるのかな。

まず何より、この歌の音楽性に惹かれる。モ音とミ音の繰返しが効いている。それだけではない。三句切れ「高みかも」までは、大きくのびやかに歌い、第四句では、「大和の見えぬ」と、声は詰まり、短い嘆息のように再び切れる。しかもこの句をまたぎ越して、三句「高みかも」と結句「国遠みかも」が対句をなす。婉にうねり、反復する韻律。そこに、おのずと奥吉野の重畳する山岳のイメージも生れてくる。籠められた情感も深い。(平成13.2.21)


柿本人麻呂

月見れば国は(おや)じそ山(へな)(うつく)(いも)(へな)りたるかも(万葉集)

月を見れば、いるのは同じ国なのだ。山を間にへだて、いとしい妻と遠く隔てられているのだなあ。

これは、「柿本朝臣人麻呂集」の歌。
上の石上麻呂作同様、故郷の妻(または恋人)への離愁が主題。「月見れば国は同じそ」二句切れの断言は、語調は強い。妻との一心を、自らに言い聞かせようとしている。が、へなり・へなりと続く望郷の心弱さに言い継がれるとき、初二句の張りのある響きが、限りない哀愁を帯びて谺する。(平成13.2.21)


作者不明

家にてもたゆたふ命波の上に浮きてし居れば奥処(おくか)知らずも(万葉集)

家にいても揺れ動いてやまぬ命なのだ。それがいま、波の上に浮いているのだから…。この大海原が果てしなく広がっているように、命のゆくえが奥深く恐ろしく感じられてならないのだ。

折口信夫によって激賞され、有名になった歌。名の知れぬ作者は、大伴旅人の従者の一人で、大宰帥だった主人が筑紫から帰国する際の船上での詠である。万葉集で最も深い思想的な内容をもった歌だろう。古代人の心情の底には、つねにこうした漂泊感があったと思える。万葉集の豊饒な世界の奥底にある、巨大な不安感に気づかせてくれたのは、やはり折口信夫であった。(平成13.2.21)


防人某

葦の葉に夕霧立ちて鴨が()の寒き夕へし()をば偲はむ(万葉集)

難波の湊には、がたくさん生えているそうだ。その葉群れに、夕方になれば霧がたちこめて、連れのいない鴨は寒そうに鳴くのだろう。そんな夕べには、家に残してきたおまえを恋しく思うだろうなあ。

いわゆる秀歌とは言えないかもしれない。一所懸命、都雅を真似ようとしているが、修辞がこなれていない(たとえば「葉に夕霧立ち」というような言い方)。それでも、作者がここに籠めようとした真情に、疑いはない。真率な優れた防人歌は他にたくさんあるのに、こういう歌に惹かれてしまう私は、ひねくれ者であろうか。(平成13.2.21)


粟田女王

月待ちて家にはゆかむ我が()せるあから橘影に見えつつ(万葉集)

月の出を待って家には帰りましょう。私の髪に挿したあかい橘を、月の光に照らし出しながら。

こういうナルシスティックで可憐な女歌に弱い。(平成13.2.21)


市原王

梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしそ思ふ(万葉集)

梅の花の香を尊び、大切に思うように、遠くにいるけれど、ひたすら心を寄せてあなたのことを思っているのです。

恋歌のように見えるが、宴の主人に捧げた歌である。「かぐはし」は、尊敬の念を含んだ讃美を表わす語。万葉集に「かぐはしき親の命(みこと)」という使い方もされているように、本来は嗅覚に関する語ではない。「遠くにいる大切な人を偲ぶ歌」として私は愛誦している。(平成13.2.21)


大伴家持

行方なくありわたるとも霍公鳥(ほととぎす)鳴きし渡らばかくやしのはむ(万葉集)

行くべき場所もなく、さすらい続けるとしても、ほととぎすよ、おまえが鳴いてわたる限り、私はいつもこうしてその声を愛しつづけよう。

「獨居幄裏、遥聞霍公鳥喧作歌一首」と題された長歌の反歌のうち一首。私室でほととぎすの遥かな鳴き声を聞いての作である。大伴家持は当時越中守として今の富山県高岡市に赴任していた。家(巣)を持たずに漂泊する鳥に、おのれの心情を重ねている。家持もまた、生涯を行方なくさすらい続けることを宿命づけられた人であった。(平成13.2.21)


笠女郎

君に恋ひ(いた)もすべ無み奈良山の小松が下に立ち嘆くかも(万葉集)

あなたが恋しくて、もうどうしようもなくなり、奈良山の小松の下に佇んで、嘆くばかりです。

大伴家持に贈った歌。奈良山からは、家持の邸のある佐保の里を眺めることができたのである。しかし、作者はそこへ行って「小松の下」に佇み、嘆くばかりだ、という。せめて、なにか寄り添えるものがほしかったのだろうか。(平成13.2.21)


 


小野小町

思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを(古今集)

恋しく思いながら寝入ったので、その人が現れたのだろうか。夢だと知っていたら、目覚めたくはなかったのに。

古今集恋二巻頭、名高い「夢」三首の初。ぬればや、見えつらむ。しりせば、さめざらましを。すべては不確実な推量、あるいは不可能な仮想・願望にすぎない。それでも、いやそれだからこそ一途に夢に縋る心情が、嫋々(じょうじょう)たる調べのうちに歌い切られている。夢と恋のかかわりは万葉集からさかんに詠まれたが、小町の歌によって遂にうるわしき典型を得た。(平成13.3.3)


在原業平

わすれては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見むとは(古今集)

ふとこの現実を忘れては、これはやはり夢ではないかと思うのです。まさか思いもしませんでした、かくも深い雪を踏み分けて、殿下にお目にかかろうとは。

出家後比叡山の麓の小野郷に住んでいた惟喬親王に、正月の挨拶をしようと、雪の中を訪ねて行った。がらんとした庵室に、親王は物悲しげな様子である。業平はいたたまれず匆々に辞去したのだろうか。そのあと親王のもとへ贈った歌である。「わすれては」は、二人が置かれた只今の状況をふと忘れては、ほどの意。若かりし親王と水無瀬の離宮などで遊んだ、華やかな宴の追想が、この侘びしすぎる現実を忘れさせ、夢ではないかと疑わせるのだ。惟喬親王の出家は貞観十四年(872)、業平が小野を訪ねたのはおそらくその翌年。親王は三十歳、業平は四十九歳を迎えた正月であった。(平成13.3.3)


紀友則

ねても見ゆねでも見えけりおほかたはうつせみの世ぞ夢にはありける(古今集)

寝てもあの人を見ますが、寝なくても面影にあの人が見えるのです。だいたいのところ、寝ていようが起きていようが、現世こそが夢なんでしたよ!

古今集の詞書は「藤原敏行の朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける」。友人の遺族にあてた歌である。
 死者への懐旧とその悲しみによって、「現実=夢」という等式が証明されている。まさしく数学の証明式のように簡潔で美しい。情を種とし、しかし知によってその情を統御することこそ古今集歌人の目指したところであって、この歌は、その意味で古今集の精髓のような歌だと思う。(平成13.5.28)


壬生忠岑

時しもあれ秋やは人のわかるべきあるを見るだに恋しきものを(古今集)

時もあろうに、秋に人と別れるなんて、そんなことがあってよいものだろうか。生きている姿を見ているだけでも、恋しいものなのに!

古今集の詞書は「紀友則が身まかりにける時よめる」。友人の死を悲しんだ歌。初句・三句切れ。(平成13.5.28)


凡河内躬恒

わが恋はゆくへも知らずはてもなし逢ふを限りとおもふばかりぞ(古今集)

この恋は、行方もわからず、果ても知らない。いったいどこに辿り着くというのだろう。ただこれだけは言える、今はただ、あの人と逢うことを終着点として願うばかりなのだ。

透徹した恋愛心理を描き、しかも情感みなぎる恋歌の秀逸。
「限り」は恋の限り、恋の終着点ということであるが、命の終りを含意しているかもしれない。「死んでもいい」ということだ。恋の果てしない苦しみの中で弱り果てながら、なお潔い決意を感じさせて、胸をうつ。情痴に溺れつつ明晰な恋情を詠んだ歌であって、決して情緒におぼれた歌なのではない。(平成13.2.21)


紀貫之

むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな(古今集)

【試訳】掬い取る手のひらから落ちた雫に濁る、山清水――その閼伽(あか)とする清水ではないが、飽かずに人と別れてしまったことよ。

近江へと志賀の山越えをしていた時、水汲み場のもとで人と会話を交わし、その人と別れる折に詠んだという歌。第三句「山の井の」までは、清らかな山清水を閼伽(仏にお供えする水)とすることから、「あかで」を導く序。しかし詞書に「石井のもとにて」とあることから、眼前の景を詠み込んでいることにもなる。山道で出逢った人との、語り尽くすこともないままの別れの名残惜しさが、あたかも山清水の波紋のように心に広がる。(平成21.2.6)


中務

忘られてしばしまどろむ程もがないつかは君を夢ならで見む(拾遺集)

眠りに落ちれば、必ずあなたの夢を見る。忘れてしまえて、しばらくまどろむ時間がほしい。いつになったら、あなたと夢ではなしに会えるのだろうか。

「むすめにおくれ侍りて」と詞書にある哀傷歌。藤原伊尹に嫁ぎ、井殿(ゐとの)と呼ばれた娘に先立たれての作である。「夢ならで見む」とは、自分の死後、冥土でしか逢えまい、ということであろう。淡々とした調子が、かえって悲しみの深さを伝える。(平成13.2.21)


源信明

侘しさを同じ心と聞くからに我が身をすてて君ぞかなしき(後撰集)

切ない気持ちでいることは、貴方も私も「同じ心」なのですね。そう聞きましたからには、我が身など捨てて顧みません。ただ貴方のことが愛しくてなりません。

中務の歌「はかなくて同じ心になりにしを思ふがごとは思ふらんやぞ」(頼りない気持のまま、あなたと心を一つにしたけれど、私が思っているほど、あなたは思ってくれているでしょうか)への返し。男女の贈答ではたいてい女の歌の方が優れているけれども(男が花をもたせる場合もなくはない)、この贈答では信明の勝ちだ(勝ち負けの問題ではないが)。中務はかぐや姫を地で行ったような佳人で、多くの貴公子から求愛を受けたが、不遇の人信明を選んだ。(平成13.5.15)


曾禰好忠

曇りなき青海(あをみ)の原を飛ぶ鳥のかげさへしるく照れる夏かな(曾丹集)

一点の曇りもない真っ青な海原を鳥が飛んでゆく――そのちっぽけな姿さえくっきりと照らし出て、太陽がかがやく夏よ!

この鳥はカモメだろうか。小さめの白い鳥なら、なんでもいい気もする。海の青と鳥の白の鮮やかな対比は、モダンな感じがするが、おそらく作者にそうした意図はなかったろう。「さへ」という語に着目すれば、色の対比よりも、広大な海原を横切る、小さな鳥の影――という大小の対比に注意すべきかもしれない。豁然たる海と空、その中でちっぽけな生命が輝く情景――と見たい。作者好忠は「夏の歌人」と呼びたいくらい炎暑の季節感に執着した人であるが、なかでもこの歌は、生命感みなぎる夏という季節をきわやかに詠みきった、古典和歌には珍しい作品である。(平成13.2.21)


源重之

秋風はむかしの人にあらねども吹きくる宵はあはれとぞ思ふ(玉葉集)

秋風は昔の人でもないのに、夜、独りでいる部屋に吹き入ってくる時は、懐かしく思われるのだ。

作者が憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)だった時、皇太子に献上した百首歌の一首。詞書はない。秋風が「吹きくる」としか言ってないのだが、これはもちろん、夕方から夜にかけての時刻、部屋に居る《我》のもとに吹き込んで来る状況と見るほかない。和歌では額田王の「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く」以来の趣向である。重之の歌は「むかしの人」「あはれとぞ思ふ」と、すぐれて一般的・抽象的な言い方をしていて、だからそこ読む人によって自由な思い入れを可能にする。(平成13.2.21)


徽子女王

琴の()に峰の松風かよふらしいづれのをより調べそめけむ(拾遺集)

琴の音に、峰の松風の音が通いあっているらしい。一体この妙なる音色はどの琴の緒から奏で出し、どこの山の尾から響き始めて、空に出逢ったのだろうか。

作者は幼くして伊勢斎宮となり、母の喪により退下してのち、二十歳で村上天皇に入内して、斎宮女御と呼ばれた。この歌は、天皇との間にもうけた一粒種規子内親王が斎宮に卜定され、作者も同行した野宮で、庚申の一夜を過ごした時の作である。「いづれのをより」の「を」に琴の緒と山の尾(峯)を掛けている。もとより琴は作者自身が弾いていると解すべきであろうが、上空で松風の響きと混じり合うために、自分が弾いた音とも思えず、「いづれの緒より」と訝しんでいるのである。新古今の幽玄とはまた異なり、古代の音色を響かせる幽韻の象徴的作風である。(平成16.6.22)


賀茂保憲女

曇りつつ涙しぐるる我が目にも猶もみぢ葉は赤く見えけり(賀茂女集)

曇っては時雨が降り過ぎるように、しょっちゅう涙に濡れる私の目――そんな目にも、いやそんな目だからこそ、紅葉した木々の葉はいっそう赤く、美しく見えるのだ。

作者は疱瘡(麻疹とする説もある)を始め様々な病をわずらった人で、「自分が人よりすぐれているのは病の数だけ」と言い、病床で歌を詠むことにより蘇った、と告白している。(平成13.2.21)


儀同三司母

忘れじの行末までは難ければけふをかぎりの命ともがな(新古今集)

あなたは「いつまでも忘れない」と言ってくれるけれど、そんな将来のことまでは頼りにならないから、いっそ、このうえなく幸せな今日を最後の命であったらいい。

小倉百人一首にも取られている。
パトリス・ルコントの映画『髪結の亭主』を見た時、この歌を思い出した。悪くない映画であったが、千年前の自国の詩人によって三十一文字で言い尽くされていたテーマであったことに気づけば、スクリーンの前で費やした一時間半は虚しいだけのようにも感じられた。
幸せの絶頂を自覚しているからこそ、将来が恐ろしく、いっそこの幸福感を抱いたまま死にたい…。これを贅沢と呼ぶべきか、慎ましさと呼ぶべきか、私は知らない。(平成13.2.21)


和泉式部

人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ(後拾遺集)

人たる我が身を、恋にくれてやったわ。炎の中に飛び入った、蛾のようなもの。ただ、あらわに目には見えないだけなのよ。

「恋(こひ)」のヒに火を掛けている。「人の身」を「恋にかへ」たというのは、自分の身を恋の炎と交換した、身を滅ぼしても恋を取った、ということである。
 王朝の歌人たちは、比喩でなく、命と恋を秤にかけた。否、全宇宙と自分の恋を秤にかけた。王朝和歌は、結局恋歌に尽きる、と思う。和泉式部こそ、男女問わず王朝時代最高の歌人と信ずる所以である。(平成13.2.21)


源経信

忘れずやかざしの花の夕ばえも赤紐かけし小忌(をみ)の姿は(大納言経信集)

忘れてないよ。髪に挿した花が夕影に美しく映えていたのも。赤紐を肩からかけて垂らした、小忌衣(おみごろも)の姿は。

これは流布本経信集や『夫木和歌抄』にしか見えない歌。初句は不審で、「忘れめや」「忘れずよ」などとありたいところ。題は「寄物見恋」(物見に寄する恋)。宮中でなにかの祭祀を見物していた時、小忌衣を着た女官の姿に見惚れた、という場面設定である。小忌衣は、白麻の地に青摺で模様をつけた斎衣で、赤紐を肩から掛ける。王朝物語の一シーンのようだ。作者は後宮女流文芸の大輪の花が色褪せた頃歌壇に登場し、新風を吹き込んだ大歌人である。(平成13.2.21)


大江匡房

別れにしその五月雨(さみだれ)の空よりも雪ふればこそ恋しかりけれ(後拾遺集)

あの人と別れた日、雨がしとしとと降っていた。涙にかき暮れて眺めたあの梅雨空が切なく思い出される。…しかしあれから時が経ち、冬になって、雪の降る寒空を見上げれば、いっそうあの人のことが恋しいのだ。

後拾遺集の詞書は「五月のころほひ、女におくれ侍りける年の冬、雪のふりける日よみ侍りける」。『江帥集』には「あひしりたる女の五月にうせて…」とあり、死に別れた恋人を偲んだ哀傷歌である。五月雨は涙を暗示するとともに心の「みだれ」と掛詞になり、「雪ふれば」は「経れば」と掛詞になって歳月の経過を暗に含める。女が死んだ直後の惑乱と、半年を経ての心寒さを対比して、今の方が以前より余程恋しい、というのである。きわめて圧縮された表現のうちに、悲しみは深く畳み込まれている。(平成13.5.15)


源俊頼

日ざかりはあそびてゆかん影もよし真野(まの)萩原(はぎはら)風たちにけり(散木奇歌集)

夏の日盛り、野を逍遙していたら、気持ちの良さそうな木陰があった。ここで遊んでゆこう。ほら真野の入江から、風が萩原をそよがせて吹いてきた!

「影もよし」は催馬楽から採った句で、俊頼らしい自由奔放な言葉遣いだ。「ゆかん」「影もよし」、二句・三句切れが、弾んだような心持を伝えて、快い。夏の昼間のあふれる光、緑陰の涼しさ、歌枕真野(琵琶湖畔)の入江のひろがる情景など、言わずしてイメージが広がってくる。なお、『散木奇歌集』(俊頼の家集)では夏の部に入っているので、萩の花はまだ咲いていないと考えるべきだろう。(平成13.2.21)


俊恵法師

立田山梢まばらになるままにふかくも鹿のそよぐなるかな(新古今集)

立田山では紅葉も散り果て、梢と梢の間が広くなったので、鹿がその下を歩くと、深く積もった落葉がサヤサヤ鳴るのが聞こえてくるのだなあ。

作者は源俊頼の息子。年少にして父と死別し、出家。やがて歌林苑と呼ばれた和歌愛好家集団の中心人物となり、新古今時代前夜の歌壇を大いに盛り上げた。歌の題は「落葉」。「そよぐ」は「くっきりと(サヤサヤ、ソヨソヨ)耳に立つような音を立てる」程の意。梢は風が吹いても最早そよがず、今や地面に積もった落葉が鹿に蹴られてそよぐばかりだ、という機知が隠れている。鹿の鳴き声を「そよぐ」と言ったと解しても面白いだろう。



 


藤原俊成

またや見ん交野(かたの)御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙(新古今集)

再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野を桜を求めて逍遙していたら、花が雪のように散る春の曙に出遭ったよ!

花を雪に見立てる(またはその逆)のは万葉以来の常套だが、春の曙を背景に据えて、これほど艶やかに歌い上げた例はまたとあるまい。「またや見ん」と置いた初句切れの清々しさ。つづく、「の」でつないだ体言の流麗な連なりは、冬の鷹狩→桜→雪→春の曙、とイメージを折り畳んでは繰り広げてゆく。春の曙の忘れ難い情景が、心にいつまでも余韻をひくようだ。(平成13.2.21)


西行

深き山の峰に澄みける月見ずは思ひ出もなき我が身ならまし(山家心中集)

深山の頂に澄み輝いていた月の光――あの光を見ることがなかったならば、思い出もない我が身であったろう。

この世の天国も地獄も見た西行に、月の光以外思い出がないわけがあろうか。しかし、ある夜、深山で修行していた彼の見た月は、彼にそう思わせた。『山家集』の詞書によれば、この「深き山」は大峰の修行場「深仙」を指す。(平成13.5.15)


式子内親王

おしこめて秋のあはれに沈むかな麓の里の夕霧の底(御集)

麓の里に夕霧がたちこめる。まるで、ああ、秋のあわれな情趣をその中にすべて押し包むようにして。この里も私も、その霧の底深くに、沈み込んでゆくのだ。

村里が夕霧の底に沈んでゆく。森の木の葉も、粗末な家々も、人々の悲しみも、すべてのアハレなはかないものたちを包み込んで…。
存在のはかなさと共に、彼女の魂も自ら落ちていった。その底に到達したのが、この歌である。内親王は、彼女の宇宙を、この一首の歌の中に押し込めた。(平成13.2.21)


建礼門院右京大夫

月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる(建礼門院右京大夫集)

月を眺めながら物思いに耽ることは、これまでもし慣れてきたけれど、このような星空の夜の深い情趣は、今夜初めて知った。

生涯の恋人であった平資盛の死の悲しみから心を癒し、同時に亡き人を弔おうと、比叡坂本(延暦寺の門前町で、多くの寺院があった)に旅した時の作。師走の一日、宿で夜空を見上げると、「ことに晴れて、浅葱色なるに、光ことごとしき星の大きなるが、むらもなく出でたる、なのめならずおもしろくて、花の紙に、箔をうち散らしたるによう似たり。今宵初めて見そめたる心地す」。月の不在が、星々の光の輝きを増したのだ。(平成13.11.13)


藤原家隆

鹿の()はなほ遠き野に吹きすててひとり空行く秋の夕かぜ(壬二集)

遠くで鹿が鳴く――その声を、さらに遠くの野へと運び去ったのちも、空の彼方をひとり吹きわたる、秋の夕風よ。

「野の秋に寄せて」の題。「詞ききて颯々としたる風骨をよまれし也」(正徹物語)と評された家隆の歌風がよくあらわれた作だろう。「なほ遠き野に」「吹き捨てて」「ひとり空行く」いずれも家隆以前には誰も思いつかなかった句で、まさに風切るように颯爽とした独歩の歌。家隆の真骨頂はこうした歌にあり、粘着質の定家とは好対照の歌人であった。(平成13.11.13)


藤原定家

忘れぬやさは忘れける我が心夢になせとぞいひて別れし(拾遺愚草)

忘れてしまったのか。そうとは忘れていた私の心であったよ。「逢ったことは夢だと思おう」と言い合って別れたのに。今もあの人と現実に逢いたいと思い続けているとは。

初句の「忘れぬや」は、結句の「いひて別れし」ことを忘れていないのか、と自分に問いかけているのであろう。それを受けて第二句では「忘れける」と直ちに断定している。
 こんなふうに意訳してしまうと、いかにも理屈っぽくなるが、未練を断ち切れない「情」が「理」にしつこいまでに纏わり付いている。一見定家らしからぬ、しかしやはり定家ならではの恋歌だと思う。この歌は「正徹物語」に定家の難解歌として取り上げられているのだが、この歌を解釈したあとで(私の解釈とは異なるが)正徹は「定家に誰も及ぶまじきは恋の歌なり」との名言を吐いている。
 なお、この歌は定家の母が父の俊成に贈った歌「たのめおかんたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ」の本歌取りと言ってよかろう。(平成22.10.8加筆訂正)


後鳥羽院

春ゆけば霞の上に霞みして月に果つらし小野の山道(御集)

春の夜、小野の山道を歩いてゆくと、霞のうえに幾重にも霞がたなびいて、道のゆくては、月の中へと消え果てているみたいだ。

「春ゆけば」と言い、「月に果つらし」と言い、すべての語句が端正にして清麗、しかもニュアンス豊かである。なお「小野」は地名とすれば炭焼の名所なので、「霞の上に霞みして」いるのは炭焼の煙と見るべきとの説があるが(和歌文学大系)、春の歌だから必ずしもそう見なくてよい。一首の眼目は、視線の上昇とともに山道が霞の中を月へと「果つらし」と見る、幻想的な叙景にあるので、「(煙のせいで)月には辛し」などと読んでは、台無しである。(平成13.2.21)


宮内卿

さびしさをとひこぬ人の心まであらはれそむる雪の明ぼの(新続古今集)

山里でさびしく過ごしているのに――あの人は私を訪ねてくれない。そんな薄情な心まで見せるかのように、いちめん雪におおわれた曙の景色があらわれはじめた。

夜が明け、道さえ雪に埋もれた、白一色の景色があらわれる。それを見て、今日も来客がないことを寂しんでいるのである(「正治後度百首」でも新続古今集でも冬歌としており、この「人」は恋人に限定して考えるべきではない)。宮内卿の歌は絵画的と言われるが、絵画というなら、象徴派絵画である。西洋では、十九世紀末にやっとその境地まで来るのだが、日本の歌びとは十二世紀末頃にはこういう世界を描いていたのである。(平成13.2.21)


藤原秀能

命とはちぎらざりしを石見(いはみ)なるおきの白島(しらしま)またみつるかな(如願法師集)

命をかけて約束はしなかったけれども、再び石見の沖の、隠岐の白島を見たのであったよ。

「貞永元年の秋、西国にくだり侍りし時」の詞書。承久の大乱後、すでに十年以上が経った頃、秀能は隠岐の院を慕って西国に下った。「白島」は隠岐北端の同名の小島であろう。白い岩肌を見せる奇岩・群島の眺めが美しいところだ。院の御所とは離れているが、隠岐のさらに北隅の離れ小島に、院自身を暗喩していると思える。上句は「再びの訪問を、命をかけて白島と約束はしなかったけれども」ほどの意で、結局のところ、命をかけてまで再び此処へやって来た、と言っていることになる。前例のない、あわれ深い句である。(平成14.5.12)


源通光

八幡(やはた)山さかゆくみねも越え果てて君をぞ祈る身のうれしさに(宝治歌合)

栄えゆく八幡様の山の頂もついに越えて、大君の長久をお祈りします。かかる御代に生を享け、ここまで永らえ得た我が身の幸に感謝しつつ。

宝治元年(1247)九月、後嵯峨院主催の内裏歌合。題は「社頭祝」。六十一歳の通光は、七十歳を超えていた俊成卿女と左右を分けて対戦した。当時生き残っていた新古今歌人といえば、ほかに二、三の名を数えるばかりである。
上句は石清水八幡宮に参詣する状を描くと共に、古今集の「我も昔はをとこ山」を想起させ、年の盛りを超え果てた我が身に対する感慨をこめる。下句では後鳥羽院を思いやった家隆の歌「大かたの秋の寝覚の長き夜も君をぞいのる身を思ふとて」を懐かしく響かせつつ、「我が身のうれしさに」と賀歌に相応しく晴ばれと結んで、作者の生涯に思いを馳せれば、深い感動を禁じ得ない。(平成14.5.12)


源実朝

吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり(金槐和歌集)

山に来てみると、吹く風がなんと涼しく感じられるものか。するとどこからともなく、ひとりでに蝉が鳴いて、とうとう秋はやって来たのだ。

「吹く風の涼しくもあるか」のゆったりとのびやかな声調、それを引き継いで「山の蝉鳴きて」へと繋げる「おのづから」という語の、なんという絶妙な配置とニュアンス。少なからぬ先行歌が指摘されている通り、この歌は古歌の修辞を構成し直しただけとも言える歌なのだが、「おのづから」の一語によって、古今独歩の傑作となった。なお、この「山の蝉」はもちろん油蝉などでなく、ツクツクボウシかヒグラシ。(平成13.2.21)


藤原為家

難波江や冬ごもりせし梅が香のよもにみちくる春のしほかぜ(続千載集)

難波江では、冬ごもりしていた梅が咲いて、その香が至るところ満ちて来るよ、春の潮風と共に。

作者は藤原定家の嫡男。若い頃は蹴鞠に夢中で父を歎かせたというが、やがて歌道に打ち込み、結局御子左家を父の時代に劣らぬ隆盛へと導いた。本作は建長二年(1250)九月、仙洞詩歌合出詠歌。為家五十三歳円熟期の秀詠である。岸辺の梅林に潮風が吹き、その芳香が難波江いちめんに満ちてくる。「みちくる」は「しほ」と縁語になり、梅の香に潮の香がまざりあう。難波と梅の取り合せは、古今集仮名序に引かれた「難波津の歌」に由来する。仁徳帝の聖代を遥かに想起させつつ、大らかな春の讃歌を謳い上げている。(平成14.3.16)


順徳院

ちくま川春ゆく水はすみにけりきえていくかの峰のしら雪(風雅集)

千曲川を春、流れてゆく水は澄み切っているなあ。消えて何日も経っていない、峰の雪――その雪解け水だからなのだ

早春の山国の澄み切った川の流れ。千曲川は新潟県内では信濃川と呼ばれる。「信濃なる千曲の川のさざれ石も君しふみてば玉とひろはむ」(万葉集東歌)など、さざれ石とともに詠まれることが多い歌枕である。この歌でも、「すみにけり」「峰のしら雪」の句に、白い細かな玉石のイメージの反映を見ることが出来る。
 貞永元年(1232)、配流地で編まれた百首歌の一首。順徳院は二十五歳で佐渡に流され、その後二十一年間をこの島で過すのだが、最後まで佐渡の地を歌に詠むことはなかった。(平成14.3.16)


宗尊親王

けさみれば遠山しろしみやこまで風のおくらぬ夜はの初雪(玉葉集)

今朝見れば、遠くの山並が白い。夜の間に降った初雪を、風は都まで送り届けてくれなかったのだ。

宗尊親王は後嵯峨天皇の皇子で、鎌倉幕府第六代将軍。初の皇族将軍であったが、無論実権は北条氏の掌中にあった。若くして和歌に打ち込む姿は三代将軍実朝を思わせるところがある。二十五歳の時謀反の嫌疑をかけられて京に送還され、数種の家集を残して文永十一年(1274)、三十三年の短い生涯を終えた。続古今和歌集の最多入集歌人である。本作は鎌倉から帰京後の作。(平成14.5.12)


京極為兼

枝にもる朝日の影のすくなさに涼しさふかき竹のおくかな(玉葉集)

日が昇るや、蒸し暑い夏の朝。涼を求めて竹林に入れば、枝を漏れてくる朝日の光はわずかで、小暗い竹林が奥深くつづいている。涼しさもなんと深く感じられることだろう。(平成13.5.15)

 


九条左大臣女

風にさぞちるらん花の面影のみぬ色をしき春の夜のやみ(玉葉集)

今夜の強風に、さぞかし桜の花はあでやかに散っているだろう。その美しい姿を見ることの出来ないのが惜しい、春の夜の闇よ。

作者は二条道良の息女で、藤原定家・九条良経両家系の血を引く歌人である。題は「春夜の心を」。桜の散る夜に月が出ていないことを惜しむ。見えないからこそ、一層豪奢に幻想される落花の光景。(平成14.5.12)


伏見院

のどかにもやがてなり行くけしきかな昨日の日影けふの春雨(玉葉集)

だんだんと、自然界の様子がのどかになってゆくよ。昨日のうららかな日差しといい、今日のやわらかな春雨といい。

伏見院の御製には、世界を包み込むような気宇の広大さ、明るさ、のびやかさ、やわらかさがある。上代の天皇の御製や、後鳥羽院・後水尾院といった偉大な「王者の歌」に共通するものであるが、ことに伏見院の御歌にあっては、平安を祈りつつ天を治める大御心が、そのまま天地自然の心となって歌い出されているような印象があって、限りなくめでたく有り難い。(平成13.2.21)


永福門院

しほりつる風は(まがき)にしづまりて小萩がうへに雨そそくなり(玉葉集)

さっきまで風は垣根の萩の枝をたわませて吹いていた。それが今はすっかり静まって、雨が降り出したようだ。萩の花に降りそそぐその音が、しめやかに聞えてくる。

「しほりつる」は、風が籬の小萩を撓ませて吹いていたことを言う。これは少し前に見た実景(の記憶)と解したい。それに対して、結句の「雨そそくなり」は、いま、風がやんだ静けさの中に、萩にふりそそぐ雨の音を聞いているのである。(平成13.2.21)


宗良親王

北になし南になしてけふいくか富士の麓をめぐりきぬらん(新葉集)

富士山をある時は北に仰ぎ、ある時は南に仰ぎして、今日まで幾日その麓を巡り歩いたことであろう。

遠州井伊谷から信州へ落ち延びる際の作。詞書は「駿河の国より信濃へこえける時、浮島原をすぎて車返といふ所より甲斐国にいりて信濃路へかかり侍るが、さながら富士のふもとをゆきめぐりけるに、山のすがたいづかたよりもたぐひなくみえければ」。愛鷹(あしたか)山南麓の沼沢地である浮島が原を通り、沼津東北の車返(くるまがへし)の里を経て甲斐の国に入れば、富士山麓をほぼ一巡りしたことになる。全句凜たる力が漲り、かつ悲壮の情が貫流している。新葉集には読人不知として載せる。(平成15.5.2)


北畠親房

かぎりなくとほくきぬらし秋霧の空にしほれて雁もなくなり(李花集)

限りなく遠い所まで来たようだ。霧の立ちこめた秋の空に、打ちしおれた様子で雁も鳴いている。

宗良親王の家集『李花集』の詞書中に引かれた歌。「興國二年乃至四年の間、五十歳前後の作と推定」(川田順『吉野朝の悲歌』)。すなわち東国経営のため常陸に在って苦戦していた頃の作で、遠路を渡ってきた雁に京を遠く離れた我が身の境遇を重ね合わせている。当時すでに後醍醐天皇は亡く、「秋霧の空にしほれて」の句には『神皇正統記』天皇崩御を記す一文「さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給ひてかくれましましぬとぞきこえし」を思い出さざるを得ない。(平成15.5.2)



 


後水尾院

大空をおほはん袖につつむともあまるばかりの風の梅が香(御集)

風が空いちめんに梅を吹き散らす。大空を覆えるような袖で包んでも、包みきれまい。それほど風は梅の香に満ち満ちて吹く。

名高い後撰集読人不知歌「大空におほふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ」を本歌とするが、気宇において本歌をはるかに上回る。(平成13.2.21)


田安宗武

昨日まで盛りをみんと思ひつる萩の花ちれり今日の嵐に(天降言)

「もう花が盛りだそうだ。今のうちに、見に行こう」昨日までそう思って楽しみにしていた萩が、今日突然やってきた嵐に、散ってしまっていた。

楽しみにしていた事を、何となく引き延ばしているうちに、結局機を逸してしまう…。そういうことは良くある。というより、我々のせわしない日常は、そんなことの積み重ねだ。ちょっとした心の陰り、かすかな悔いや悲しみを重ねつつ忘れつつ、私たちは生活しているのだ。身分も地位も関係ない、人の世の暮らしのささやかな真実である。作者は八代将軍吉宗の次男。「万葉調歌人」として名高い。
(平成13.2.21)


小沢蘆庵

波となり小船となりて夕暮の雲のすがたぞはてはきえゆく(六帖詠草)

波のようになったり、小舟みたいな形になったりしながら、夕暮の雲の姿は、最後には消えていってしまうよ…。

この作者は「ただごと歌」を主張し、近世和歌に新風をもたらした歌人。「ただごと歌」とは、心を率直に、飾ることなく、自然と口にのぼるような言葉で表した歌、ということである。「だから何なの?」と突っ込みを入れたくなるような歌が多いのだが、古今集のうるわしい調べを理想として修練に励んだ蘆庵の至り着いた境地は、上の一首にも見て取れると思う。(平成13.2.21)


香川景樹

世の中にあはぬ調べはさもあらばあれ心にかよふ峯のまつかぜ(桂園一枝)

陶淵明は、世と折り合えぬ憂さを琴を弾いて晴らしたそうだが、そんな風に世の中と調子が合うまいと、かまうものか。古来、歌人が歌に詠んできた、あわれ深い峰の松風とは、心を通わすことができるのだ。

「世の中にあはぬ調べ」は陶淵明の故事を想起させるが、歌道家の旧態依然たる和歌にも、賀茂真淵らの提唱した万葉調にもなじまなかった、景樹自らの歌への思いであろう。「誠実よりなれる歌は、やがて天地の調べにして、空吹く風の物につきて、其の声をなすが如く、当たる物として其の調べを得ざる事なし」(歌学提要)と信じた景樹であった。(平成13.2.21)


良寛

いそのかみ古のふる道しかすがにみ草ふみわけ行く人なしに

古人が通った道は、草に覆われ、荒れ果てている。そうであるからと言って、草を踏み分けて行く人があるわけでもなしに、放置されたまま。(平成13.2.21)

 


伴林光平

()が宿の春のいそぎか炭うりの重荷にそへし梅の一枝

これは、どこの家でしてもらった、春の支度なのだろうか。炭売りの背に負った重荷に、一枝の梅の花が添えてあるのは。(平成13.2.21)

 



最初に掲載した日:平成13年02月21日
最後に更新した日:平成22年10月08日 (C)水垣 久

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