大伴家持 おおとものやかもち 養老二?〜延暦四(718?-785) 略伝

大納言旅人の嫡男。母は不詳(一説に多治比氏)。弟には夭折した書持、妹には留女女郎と呼ばれた女性がいる。坂上郎女は叔母。子には永主がいる。
神亀四年(727)冬頃、大宰帥に任ぜられた父に随い、筑紫に下向する。当時大宰府には山上憶良沙弥満誓ら文人が集い、筑紫歌壇を形成した。天平二年(730)末、父の大納言任命に伴い帰京したが、旅人は翌年七月死去した。
少年期から坂上郎女をはじめ多くの女性と歌を贈答した。天平十一年には「悲傷亡妾歌」を詠み、これ以前に側妻を失ったらしい。まもなく、坂上郎女の娘大嬢を正妻とした。
天平十二年(740)以前に内舎人(うちどねり)に任ぜられ、同年十月末、藤原広嗣の乱を発端とした聖武天皇の関東行幸に従駕。同年末の恭仁京遷都に伴い、単身新京に移住した。この頃聖武天皇の唯一の皇子であった安積親王に臣従したが、親王は天平十六年(744)閏一月に急死、家持は挽歌を作ってその死を悼んだ。
平城還都後の天平十七年(745)正月、従五位下に叙される。翌十八年六月、宮内少輔より越中国守に遷され、同国に赴任した。越中では下僚の大伴池主とさかんに歌を贈答し、また異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌を詠んだ。天平二十年四月、元正上皇が崩御すると作歌はしばらく途絶えるが、翌二十一年四月、聖武天皇の東大寺行幸における詔を機に再び創作は活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」など多くの力作を矢継ぎ早に作った。翌天平勝宝二年(750)春には「春苑桃李の歌」など、越中時代のピークをなす秀歌を次々に生み出す。
天平勝宝三年(751)七月、少納言に遷任され、まもなく帰京。当時、政治の実権は光明皇太后と藤原仲麻呂によってほぼ掌握されていたが、家持は左大臣橘諸兄や右大弁藤原八束らのグループに近く、政治的にはやや不遇な立場に身を置いたと言える。同五年二月の所謂「春愁三首」(万葉集巻十九巻末)に唄われた孤独感は、当時の家持の境涯と無関係ではあるまい。同六年四月には兵部少輔に転任し、翌年防人閲兵のため難波に赴き、防人の歌を蒐集、自らは「防人の悲別の心を痛む歌」などを作った。同八年二月、諸兄は聖武上皇誹謗の責により左大臣を辞任。同年五月には永年主君と仰いだ聖武太上天皇が崩じた。六月、出雲守大伴古慈悲が讒言により解任された事件に際し、「族を喩す歌」を作り、同族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。
天平勝宝九年(757)正月、橘諸兄が薨去。同年六月、兵部大輔に昇進。翌月には橘奈良麻呂の乱があり、大伴・佐伯氏の多くが連座したが、家持は咎めを受けた形跡がない。この頃、大原今城・三形王・大中臣清麻呂らと交流、多くの宴歌を残している。
天平宝字二年(758)六月、右中弁より因幡守に遷任される。同年八月、恵美押勝(藤原仲麻呂)の後援のもと、淳仁天皇が即位。翌宝字三年正月、因幡国庁における宴で歌を詠む。これが万葉集の巻末歌であり、また万葉集中、制作年の明記された最後の歌である。
天平宝字六年(762)正月、信部大輔に遷任され、間もなく因幡より帰京。翌年三月か四月頃、藤原宿奈麻呂(良継)らと共に恵美押勝暗殺計画に連座して現職を解任され、同八年正月には薩摩守に左遷された。同年九月、押勝は謀反を起こして殺され、翌月孝謙上皇が再祚(称徳天皇)、以後道鏡が専横をふるう時代となる。
薩摩守解任後、大宰少弐に任命されて再度筑紫に下ったが、神護景雲四年(770)六月、民部少輔に遷任されて帰京。同年八月、称徳天皇が崩じ、道鏡は失脚。同年十月、光仁天皇即位と共に正五位下に昇叙されたのは、実に二十一年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重んぜられ、中務大輔・左中弁・左京大夫・衛門督などの要職を歴任、官位も急速に進み、宝亀九年には正四位下に昇った。宝亀十年(779)二月、参議に任ぜられ、議政官に名を連ねた。
天応元年(781)四月、桓武天皇が践祚し、その同母弟早良親王が立太子すると、春宮大夫を兼ねた。同年十一月、従三位。しかし光仁上皇崩御後の天応二年正月、氷上川継の謀反が発覚し、家持は連座の罪によって現任を解かれた。しかしこれは冤罪であったらしく、四か月後、春宮大夫に復任。同年六月、陸奥按察使鎮守将軍を兼任し、蝦夷の反乱で揺れていた陸奥に赴任する。
延暦二年(783)七月、陸奥にあって中納言に任ぜられる。翌年二月、持節征東将軍を兼ねる。その後も陸奥で蝦夷征討計画に従事していたと思われるが、延暦四年八月二十八日、死去した(公卿補任には「在陸奥」とある)。最終官位は従三位。薨年は六十八歳か。
ところが薨去の直後、大伴氏族の多くが関与した藤原種継暗殺事件に主謀者として名を挙げられ、生前に遡って除名される。この処分は延暦二十五年(806)三月に至って解除され、家持は従三位に復位された。

漢文学の洗礼を受けた筑紫歌壇の影響下、若年から歌作りに精進したが、まもなく人麻呂・赤人ら宮廷歌人の伝統を意志的に引き継ぎ、万葉歌の世界を綜合した大歌人である。万葉歌人中、同集に最も多くの歌を残し、収録歌は長短歌計四百七十三首を数える(四百七十九首とする説もあるが、弟の書持の歌を家持作とした誤写に基づくものである)。勅撰二十一代集には六十三首入集している。三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている。
繊細優美で抒情的な短歌に最も特色をみせ、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても、わが国文学史に巨大な影を落とす。しかしその本格的な評価の開始は近代、折口信夫らを待たねばならなかった。
古くから万葉集の撰者・編纂者に擬せられ、平治元年(1159)頃までに成立した藤原清輔の『袋草子』には、すでに万葉集について「撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称す」とある。また江戸時代前期の国学者契沖は『萬葉集代匠記』で万葉集家持私撰説を初めて明確に主張した。近来、家持単独編集説は揺れているが、万葉集形成に果した役割の大きさは疑いがなく、同書を後世に伝えた唯一最大の功績者であることに変わりはない。
なお万葉集末四巻は家持の歌日記とも言われるが、書簡など散文を織り交ぜ、単なる歌集を超えて、きわめて意識的に構成されたユニークな文学世界を築き上げている。

22首 9首 7首 3首 2首 離別 4首
羇旅 16首 恋・相聞 8首 悲傷 7首 7首 賦・長歌 15首 計100首
付載―家持集・勅撰集より 9首 更新

新河郡の延槻(はひつき)河を渡る時に作る歌

立山(たちやま)の雪し()らしも延槻の川の渡り瀬あぶみ漬かすも(17-4024)

【通釈】立山の雪が消えるらしい。延槻川の渡り瀬を、鐙まで水に浸かりながら行くのだ。

【語釈】◇立山(たちやま) 富山県中新川郡の立山(たてやま)連峰。所謂北アルプスの西北端に位置する。◇延槻(はひつき)の川 現在の早月川。立山連峰に発し、滑川市・魚津市の境をなして富山湾に注ぐ。参考写真◇あぶみ 鐙。馬具の一つで、乗り手の足を支えるもの。

【補記】国守として越中に赴任していた天平二十年(748)春、国内各地を巡行した時の作。

鶯の歌

うち()らし雪は降りつつしかすがに我ぎ()の苑に鶯鳴くも(8-1441)

【通釈】空いちめんを曇らせて雪が降りしきっているが、とはいえ我が家の庭園では鶯の鳴く声がするよ。

【補記】万葉集巻八の排列からすると、天平四年以前の作。十代半ば頃の最初期の作であるが、すでに作者の繊細な稟質は明らか。平安時代までは家持の代表作の一つと目されたいた。

【他出】拾遺集、古今和歌六帖、綺語抄、秀歌大躰、夫木和歌抄、歌林良材
(結句を「鶯ぞ鳴く」とする本が多い。)

【主な派生歌】
風まぜに雪は降りつつしかすがに霞たなびき春は来にけり(読人不知[新古今])
うちきらし猶風さむしいそのかみふるのやまべの春のあは雪(九条道家[続後撰])
うちきらし雪はふりきぬ高円の山の桜に風や吹くらむ(雅成親王)

藤原久須麻呂に贈る

春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも(4-786)

【通釈】春雨はしきりに降っているものの、我が家の梅の花はまだ咲かないことです。あまりに若過ぎるからなのでしょうか。

【語釈】◇藤原久須麻呂 藤原仲麻呂(恵美押勝)の三男。旧名を浄弁(じょうべん)と言い、天平宝字二(758)年頃久須麻呂に改名した。天平宝字八年、父の反乱に加わって射殺された。

【補記】万葉集巻四の巻末に収められた久須麻呂との贈答歌群より。表面的には梅の花に寄せた挨拶歌のように見えるが、一連のやり取りからすると、「梅の花」はおそらく家持の幼い娘を指し、久須麻呂の息子との結婚話を婉曲に断った歌らしい。天平宝字四年〜六年頃の作と推測され(大伴家持全集巻末の付記参照)、万葉集で制作年代を推定し得る最後の歌群である。

宴席に雪月梅花を詠む歌

雪のうへに照れる月夜(つくよ)に梅の花折りて贈らむ()しき児もがも(18-4134)

【通釈】積もった雪の面を照らす月明りの夜――こんな風流な夜には、梅の花を折って愛しい人のもとに贈りたい。そんな相手があればよいものを。

【補記】雪・月・花を一首のうちに詠み込んだ最初の歌で、後世の日本の美意識の原型が家持の歌に見られることは大変興味深い。

天平勝宝二年三月一日の暮、春の苑の桃李の花を眺めて作る (二首)

春の苑紅にほふ桃の花したでる道に出で立つ乙女(19-4139)

【通釈】春の苑は、紅の色に照り映えている。桃の花に染められてほのかに赤く色づいた道に、佇んでいるよ、紅の裳裾を垂らした少女たちが。

【語釈】◇したでる 不詳。シタはシタヒ(「秋山のしたへる妹」万葉2-217)と同根で、赤く色づく・赤く照るの意か。または下萌え(ひっそりと芽生える)などと同例で、うっすらと照る意か。

【補記】題詞に「桃李の花を眺矚(なが)めて作る」とある通り、実際詠み手が目にしているのは苑に咲く花だけであり、乙女は幻想されたイメージ。以下、「あしひきの八峯の雉…」の歌までは越中での作。

【主な派生歌】
三日月に紅にほふ桃の花ひかりもいとどまされとぞ思ふ(大江匡房)
梅の花くれなゐにほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる(京極為兼[玉葉])

我が園の(すもも)の花か庭に散るはだれの未だ遺りたるかも(19-4140)

【通釈】我が家の前栽の李の花が散ったのだろうか。それとも、はらはらと庭に降り落ちた斑雪が消えずに残っているのだろうか。

()(かけ)(しぎ)を見て作る

春まけて物悲しきに小夜更けて羽ぶき鳴く鴫誰が田にかすむ(19-4141)

【通釈】待ちかねた春が来て、何かと切ない気分でいるところに、夜が更けた頃、羽ばたきながら鳴いてゆく鴫――誰の田に住む鴫であろうか。

柳黛(りうたい)を攀ぢて京師を思ふ歌

春の日に張れる柳を取り持ちて見れば京の大路(おほち)思ほゆ(19-4142)

【通釈】春の陽光に芽をふくらませた柳の枝を手折り、つくづく見れば、京の大路が思い起こされる。

【補記】越中にて京を偲んだ歌。唐代、柳の枝を折って旅人に贈る風習があり、これに基づいた詩題「折楊柳」が盛行していた(山口博『万葉集の誕生と大陸文化』角川選書)。その意味で中国詩に倣った発想であるが、平城京の朱雀大路には現に柳の並木が植えられていたので、柳と望郷の取り合わせは家持にとって極めてリアルな題材だったはず。また「柳黛」「張れる柳」との言い方から、大路を行き交う都の女たちの美しい眉目を想起させる歌にもなっている。

堅香子草(かたかご)の花を攀ぢ折る歌

物部(もののふ)八十(やそ)乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花(19-4143)

【通釈】少女たちが大勢入り乱れて水を汲む寺の泉――その畔に、いま咲き乱れている堅香子の花。

片栗の花 フリー写真素材「フォトライブラリー」
片栗の花

【語釈】◇物部の 「八十(やそ)」の枕詞。「もののふ」は武人の意で、武人の射る矢から「や」に掛かるとする説などがある。◇八十(やそ)乙女(をとめ) 大勢の少女たち。「八十」は数の多さをあらわす語。◇汲みまがふ 入り乱れて汲む。少女の群れと花の群れとが入り乱れるさまをも想像させる。◇寺井 寺の境内の泉、または井戸。◇堅香子 カタクリとするのが通説。山地の湿った木陰に生える多年草で、越中のような多雪地では時に大群落を見る。紫に近い淡紅色の六弁花。

【補記】「汲みまがふ」までの上三句は、「寺井」を修飾する序詞的な働きをしている。詠み手が実際目にしているのは泉の畔の片栗の花だけであり、少女たちの乱舞は詠み手の幻視である点、春苑桃李の歌(19-4139)と共通する趣向である。

帰る雁を見る歌 (二首)

燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く(19-4144)

【通釈】燕が飛来する季節になったとて、雁は故郷を慕いつつ雲の中を鳴いて渡る。

【補記】春、燕の飛来と入れ替わるように北へ去ってゆく雁を詠む。万葉集に帰雁を題材にした歌は少なく、この歌を含め三首のみ。漢詩文の影響を大きく蒙った平安朝以後、極めて好まれる歌題となる。掲出歌はその先駆とも言うべき作である。

 

春まけてかく帰るとも秋風に黄葉(もみた)む山を超え来ざらめや(19-4145)

【通釈】春になってこうして故国に帰ってしまうけれども、また秋風が吹く頃になれば、黄葉した山を飛び超えてやって来ないわけがあろうか。

【補記】雁は春に日本を去ってシベリア・カムチャッカ半島方面へ渡り、秋になると再び日本に戻って来る。

春雉の歌

春の野にあさる(きぎし)の妻恋ひに(おの)があたりを人に知れつつ(8-1446)

【通釈】春の野に餌をあさる雉は、妻を慕って鳴き、自分の居場所を狩人に知らせてしまっている。

【補記】のどかな春の野に鳴く雉の声に、作者は恋に身を滅ぼす悲愴の情を聴いた。家持少年期の作と思われ、春愁歌人の片鱗をのぞかせる。拾遺集に採られた(第四句は「おのがありかを」)ばかりでなく、金玉集・深窓秘抄・三十六人撰(以上藤原公任撰)・三十人撰(具平親王撰)・定家八代抄など、多くの秀歌撰に採られている。平安時代においては家持の代表作と目されていたようである。

【主な派生歌】
萩原も霜枯れにけり御狩野はあさるきぎすのかくれなきまで(長済[後拾遺])
楢柴も枯れゆくきぎすかげをなみ立つや狩場のおのがありかを(藤原定家)
おのが妻こひわびにけり春の野にあさるきぎすの朝な朝ななく(源実朝)
音にたてぬかり庭の雉さのみやはおのがありかを忍びはつべき(実甚[新続古今])

暁に鳴く(きぎし)を聞く歌 (二首)

杉の野にさをどる雉いちしろく()にしも()かむ(こも)り妻かも(19-4148)

【通釈】杉の野に踊る雉は、はっきりと声に出して鳴いてしまうだろう――そして狩人に見つかってしまうだろうのに――どこかに隠れている妻がそれほど恋しいのか。

 

あしひきの八峯(やつを)の雉鳴き(とよ)朝開(あさけ)の霞見ればかなしも(19-4149)

【通釈】幾重にも重なる山の尾根で、雉が激しく鳴き叫んでいる。そんな明け方の朝焼け雲を見ると、切なさで胸がいっぱいになる。

【語釈】◇朝開の霞 朝焼けの雲。『和名抄』に「霞、加須美、赤気雲也」とあり、また文選の「洛神の賦」に「太陽ノ朝霞(テウカ)ニ升(ノボ)ルガゴトク」と、朝焼けの雲を朝霞と呼んでいる。

山斎(しま)を属目して作る歌

池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖に扱入(こき)れな(20-4512)

【通釈】池の水面に影を映すほど咲き照るアセビ――その花を袖にしごいて入れよう。

【語釈】◇袖にこきれな 花を袖に擦り付けて匂いを移し、そのまま袖の中に入れておくこと。

【補記】天平宝字二年(758)二月、中臣清麻呂邸の宴での作。

天平勝宝五年二月二十三日、興に依りて作る歌 (二首)

春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯鳴くも(19-4290)

【通釈】春の野に霞がたなびいて――このように季節は春の盛りを迎えたというのに――私は切なさで胸がいっぱいになる、この夕暮れの光の中に、鶯が鳴いているのを聞くと。

【語釈】◇興に依りて 原文は「依興」。実景を目にしての作でない―想像裡の作である―ことに注意を促している。

【主な派生歌】
春日野やいづくみむろの梅がえに霞たなびき鶯ぞなく(藤原家隆)
うちなびく春さりくれば春日野に霞たなびきうぐひす鳴くも(本居宣長)
萬高フなかに獨りのおのれゐてうらがなし鳥のゆく道を()へ(前川佐美雄)

 

我が屋戸のいささ(むら)竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも(19-4291)

【通釈】庭先のささやかな竹の群を吹きわたる風の音が、なんとかすかに繊細に響く、この夕暮れ時であることか。

【語釈】◇いささ群竹 イササを細波(ささなみ)などのササ(小さい意)と同根とし、ささやかな竹の群と解する説、「五十竹葉」で竹の葉の多い意とする説、「斎笹(ゆささ)」(10-2336)と同じで神聖な笹の葉の意とする説などがある。

【主な派生歌】
風ふけばいささむら竹うちそよぎさしも秋めく夜半のけしきよ(藤原惟方)
秋来ぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹かぜそよぐ夜は(藤原実定)
窓近きいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢(*藤原公継[新古今])
わが宿のいささむら竹うちなびき夕暮しるき風の音かな(藤原為家)
山本のいささむら竹うちなびき散らぬ紅葉に夕風ぞ吹く(冷泉為尹)
深き夜の風は音して灯の窓しづかなるいささむら竹(肖柏)

二十五日、作る歌

うらうらに照れる春日(はるび)にひばりあがり心悲しも独りし思へば(19-4292)

【通釈】明るくのどかに照り渡る春の光の中を、雲雀が鳴きながらのぼってゆき――心は切なさに溢れる。独りで物思いに耽っていると。

【補記】題詞の「二十五日」は天平勝宝五年(753)二月二十五日。前の二首の二日後の作である。以上三首は家持の「春愁三首」と呼ばれて名高い。

【主な派生歌】
うらうらに照らす春日はあしひきの山も霞みて遠くなりぬる(源道済)
むらぎもの心楽しも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば(*良寛)
うらうらと天に雲雀は啼きのぼり雲斑(はだ)らなる山に雲ゐず(斎藤茂吉)

独り龍田山の桜花を惜しむ歌

龍田山見つつ越え()し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに(20-4395)

【通釈】龍田山を越えながら眺めて来たあの桜の花は、私が帰る頃までにすっかり散り失せてしまうだろう。

【語釈】◇龍田山 奈良県と大阪府の境にある山。平城京と難波の往還には、龍田越えがよく使われた。◇見つつ越え来し (桜花を)見つつ(龍田山を)越えて来た。意味に即せば「龍田山越え来つつ見し桜花」となるべきところ。◇我が帰るとに トニ(刀尓、刀は乙類)は「外に」の意で「内に」とほぼ同意(本居宣長『古事記伝』)。ふつう否定の助動詞と共に使い、〜ヌトニの形を取り(例、さ夜ふけぬとに・恋ひ死なぬとに)、〜しない内に、の意となる。一説に「帰らぬとに」とあるべきところを家持が誤用したとするが、否定にせずとも「帰るうちに散ってしまうのか」で意味は通じる。

【主な派生歌】
山たかみ見つつ我がこし桜花風は心にまかすべらなり(*紀貫之[古今])
山たかみ見つつこえゆく峰の松かへりこむまで面がはりすな(*長慶天皇)

館の門にて江南の美女を見て作る歌

見わたせば向かつ尾上の花にほひ照りて立てるは()しき誰が妻(20-4397)

【通釈】見渡せば、向うの岡の斜面には桜が咲き誇り、花に照り映えて美しい人が立っている―あれは誰のいとしい妻であろうか。

【語釈】◇江南 難波堀江以南の地(上町台地一帯)を中国風に言ったものか。「江南二月の春 東風緑蘋(りょくひん)を転ず 知らず誰が家の子ぞ 花を看る桃李の津」(『玉台新詠』巻五・江淹「美人の春遊を詠ず」)を念頭に置いたものかという(山口博『万葉集の誕生と大陸文化』角川選書)。

【主な派生歌】
埴生坂花咲く岸にたつ未通女春の永日の誰が愛しき妻(保田與重郎)

天平勝宝七歳三月三日、防人を検校する勅使と兵部の使人等と、(とも)に集ふ飲宴に作る歌 (二首)

雲雀揚がる春辺(はるへ)とさやになりぬれば都も見えず霞たなびく(20-4434)

【通釈】揚げ雲雀の見られる頃の春にすっかりなったので、都の方も見えないほど霞がたなびいています。

 

ふふめりし花の初めに来し我や散りなむのちに都へゆかむ(20-4435)

【通釈】まだ桜が蕾だった頃にやって来た我らですが、散ってしまった後で都へ帰ることになるのでしょうか。

【語釈】◇ふふめりし 蕾であった。「ふふめ」は四段動詞「ふふむ」(《蕾のままである》の意)の命令形、「り」は完了存続の助動詞の連用形、「し」は過去の助動詞「き」の連体形。◇散りなむのち 散ってしまうだろう後。「なむ」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」と、推量の助動詞「む」が結び付いた語。

掾久米朝臣廣縄の館に田邊史福麻呂を饗する宴の歌

ほととぎす()よ鳴きわたれ燈火(ともしび)月夜(つくよ)になそへその影も見む(18-4054)

【通釈】ほととぎすよ、ここを鳴き渡ってくれ。灯し火を月の光に擬えて、その姿を見ようから。

雨の日に霍公鳥(ほととぎす)の喧くを聞く歌

卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間(あまま)も置かずこゆ鳴きわたる(8-1491)

【通釈】卯の花の散り過ぎてしまうのを惜しんでか、ほととぎすは雨の降る間も休まず、あたりを鳴いて飛び回る。

卯の花
卯の花

【語釈】◇卯の花 ユキノシタ科の植物。別名ウツギ。初夏に白い花が咲く。◇霍公鳥 ホトトギス。カッコウ目カッコウ科の鳥。夏鳥。托卵の習性がある。和歌では初夏・仲夏の風物とされ、鳴き声が賞美された。万葉集では前漢の名将霍公(霍去病-かくきょへい-)に因み、「霍公鳥」の字が宛てられている。霍公はまた驃騎将軍とも呼ばれ、生涯安らぐ家を持たず、匈奴征伐に明け暮れて、わずか二十四歳の若さで夭折した。巣を持たないホトトギスを、霍将軍の漂泊する霊魂になぞらえて考えていたのであろうか。◇雨間 「雨の止んでいる間」の意もあるが、ここでは雨の降る間の意。

霍公鳥の歌

夏山の木末(こぬれ)(しじ)に霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ(8-1494)

【通釈】あの夏山の梢の繁みに潜んでいるのだろう、ほととぎすが鳴き声を響かせている。その声の遥かさよ。

【参考歌】湯原王「万葉集」巻八
秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ

【主な派生歌】
千とせふとわがきくなへに蘆たづの鳴きわたるなる声のはるけさ(貫之)

天平十六年四月五日、独り平城(なら)の故宅に居りて作る歌 (四首)

橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ(17-3916)

【通釈】橘の花から浸み出ていた香気は、霍公鳥が鳴くこの夜半の雨に消え失せてしまったろうか。

【語釈】◇天平十六年 西暦744年。この年閏一月、聖武天皇の難波行幸において、安積皇子が発病し薨去。二月、難波京に遷都した。家持は安積皇子お付きの内舎人であったと思われるので、この頃は平城旧京で皇子の喪に服していたと思われる。

 

青丹よし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに(17-3919)

【通釈】青丹美しい奈良の旧都はさびれてしまったけれど、だからとて昔なじみの霍公鳥が鳴いてくれないわけはないのだ。

 

鶉鳴き古しと人は思へれど花橘のにほふこの屋戸(17-3920)

【通釈】鶉の鳴くような荒れ寂びたところと人は思っているが、花橘が香気をふりまく我が家の庭よ(ここだけは昔のままなのだ)。

 

かきつはた衣に摺り付け大夫(ますらを)着装(きそ)ひ狩する月は来にけり(17-3921)

【通釈】杜若の花を衣に摺り付けて、ますらお達が(その紫の衣を)重ね着して狩をする月がやってきたのだ。

【語釈】◇狩 薬狩。ふつう五月五日、鹿茸(鹿の袋角。再生して間もない柔らかい部分の角で、強壮剤に使われた)や薬草を採る宮廷行事。この年は閏一月があったため、作歌の当日四月五日がその日に当たったか。

独り幄裏に居て、遥かに霍公鳥の鳴くを聞きて作る歌 (長歌略)

行方なくありわたるとも霍公鳥鳴きし渡らばかくやしのはむ(18-4090)

【通釈】行くべき場所もなく、さすらい続けるとしても、ほととぎすよ、おまえが鳴いてわたる限り、私はいつもこうしてその声を愛しつづけよう。私もおまえのように、行方もなく毎日を暮らしていようとも…。

船を多胡の浦に泊てて、藤の花を望み見て、懐を述べて作る歌

藤なみの影成す海の底清みしづく石をも珠とぞ我が見る(19-4199)

【通釈】藤波が影を映している湖水は底まで澄んでいるので、沈んだ小石も美しい珠のように私には見える。

天平十年七月七日夜、独り天漢(あまのがは)を仰ぎて聊か(おもひ)を述ぶる歌

織女(たなばた)(ふな)乗りすらし真澄鏡(まそかがみ)きよき月夜に雲たちわたる(17-3900)

【通釈】織女が今しも船に乗って天の川を渡って行くらしい。(船出の水しぶきで)晴れ渡っていた月夜に雲が広がってきた。

【補記】七夕、独り月夜を眺めた時の所懐を述べた歌。天の川に広がる雲を織女の乗った船がたてる水しぶきと見立て、天空のロマンに思いを馳せる。家持二十歳頃の詠で、若き日の代表作である。

【他出】家持集、八雲御抄、夫木和歌抄、続千載集、三百六十首和歌

【主な派生歌】
天の原ふりさけみればますかがみきよき月よに雁鳴きわたる(源実朝)

(かね)て作る七夕の歌

妹が袖われ枕かむ河の瀬に霧たちわたれ小夜ふけぬとに(19-4163)

【通釈】愛しい恋人の袖を巻きに出かけよう。天の川の河瀬に、霧よ、立ち渡ってくれ(そして人々の目から私の姿を隠してくれ)。夜が更けてしまわぬうちに。

七夕の歌

青波に袖さへぬれて漕ぐ船のかしふる程に小夜ふけなむか(20-4313)

【通釈】天の川の青い波に、袖まで濡らしながら漕いで来た舟――その舟を繋ぐ杭を打ち込んでいる間に、夜はすっかり更けてしまうだろうか。

【語釈】◇かしふる 振り上げて(杭を)打ち込む。「かし」は舟をつなぎとめるために水中に立てる杭。これが転じて「河岸」を指すようにもなった。

【補記】天の川を渡り終えた牽牛が、船杭を打っているうちに夜が更けてしまうのではないかと憂える心情。

秋の歌 (四首)

ひさかたの雨間(あまま)も置かず雲隠り鳴きぞゆくなる早稲田(わさだ)雁が音(8-1566)

【通釈】秋の長雨が休みなく降り続く。その中を、雲に隠れて鳴きながら遠ざかってゆく、早稲田の季節の雁の声よ。

【語釈】◇早稲田雁が音 カリの音に動詞「刈り」を掛け、「早稲田を刈り取る季節の」という意味を込めている。

 

(がく)り鳴くなる雁のゆきて()む秋田の穂立(ほだ)ち繁くし思ほゆ(8-1567)

【通釈】雲に隠れ鳴く雁が去ってゆく。彼方の秋田に羽を休めるつもりなのだろう、その稲の穂立ちがしきりと心に思い浮かべられる(そのように、恋人のことがしきりと偲ばれる)。

 

雨隠(あまごも)り心(いぶ)せみ出で見れば春日(かすが)の山は色づきにけり(8-1568)

【通釈】雨籠もりをしていると心が鬱々としてならず、庭先に出てみたら、春日の山々は時雨に濡れてもう紅葉していた。

【語釈】◇雨隠り 雨に濡れることを忌んで家に籠もっていること。

【補記】この歌が作られた陰暦九月は稲の収穫期にあたり、忌み月として恋人との逢瀬などは憚られた。「心欝せみ」には、恋人に逢いたくても逢えないという憂鬱が含まれている。

 

雨晴れて清く照りたる此の月夜(つくよ)また更にして雲なたなびき(8-1569)

【通釈】夜になりようやく雨が上がった。澄んだ月の光が夜空を照らしている。雲よ、また棚引いて月を隠したりしないでくれ。

【補記】以上四首は天平八年(736)九月に詠まれた連作。当時家持は十九歳前後。この四首について詳しくは家持秀歌撰を参照されたい。

冬相聞

沫雪の庭に降りしき寒き夜を手枕まかず一人かも寝む(8-1663)

【通釈】水の泡のような雪が庭に降り敷いて寒い夜を、私は恋人の腕(かいな)を枕にすることなく一人で寝るのだろうか。

【語釈】◇沫雪(あわゆき) 水の泡のように消えやすい雪。のち「淡雪(あはゆき)」の意に解され、主として浅春の風物とされるようになる。

雪の日に作る歌

この雪の()残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む(19-4226)

【通釈】この雪がまだ消え残っている間に、さあ行こう、山橘の実が照っているのを眺めよう。

山橘(藪柑子)
山橘(ヤブコウジ)

【語釈】◇山橘(やまたちばな) 藪柑子(ヤブコウジ)のことという。山林の陰地に自生する常緑低木で、柑橘類の橘とは全く別種の植物。秋から冬にかけて真っ赤な小さい実をつけるが、橘に似ているわけではない。

【補記】雪の白と山橘の実の赤の対照に感興をおぼえての作であろう。山橘は日の当たらない藪陰や石のほとりに生えるので、辺りの雪は融けにくい。天平勝宝二年(750)十二月の作。

十二日、内裏に(さもら)ひて千鳥の喧くを聞きて作る歌

河渚(かはす)にも雪は降れれし宮のうちに千鳥鳴くらしゐむところなみ(19-4288)

【通釈】川洲にも雪が降り積もっているので、御所の内で千鳥が鳴いているらしい。居る場所がなくて。

【語釈】◇十二日 天平勝宝五年正月十二日。◇内裏に侍ひて 家持は当時少納言で、職務上内裏に出入りする機会が多かった。この場合夜なので(千鳥が鳴くのは万葉では通例夜)、内裏に宿直していたのだと思われる。◇降れれし 動詞フル命令形+完了の助動詞リ已然形+強調の助詞シ。『萬葉集略解』では宣長の説として、シ(之)はヤ(也)の誤りとし、フレレヤと訓む。

【補記】歌が作られたのは春だが、雪・千鳥を詠んでいるので、ここでは冬の歌に配した。

天平勝宝二年正月二日、国庁に饗を諸郡司等に給ふ宴の歌

あしひきの山の木末(こぬれ)寄生(ほよ)とりて挿頭(かざ)しつらくは千年寿()くとぞ(18-4136)

【通釈】山に生えていた木の梢から寄生木(やどりぎ)を取って髪に挿したのは、皆々の千年の長寿を祝してのことである。

【補記】越中国庁の饗宴における作。

正月一日、因幡の国庁での宴の歌

(あらた)しき年の始めの初春のけふ降る雪のいや()吉言(よごと)(20-4516)

【通釈】新たに巡り来た一年の始まりの初春の今日、この降りしきる雪のように、つぎつぎと重なれ、天皇陛下を言祝(ことほ)ぐめでたい詞よ。

【語釈】◇年の始めの初春のけふ降る雪 この年天平宝字三年(759)の正月一日は立春にあたり、しかも新年の降雪は豊作を予兆する吉事であったので、三重のめでたさが籠められている。◇吉言 吉事(めでたい出来事)の意にも取れる。そもそも古語の言と事は区別し難いが、ことにこのような寿歌(呪歌)においては言即事と考えてよい。

【補記】「凡そ元日には、国司皆僚属(れうぞく)郡司等を率(ひき)ゐて、庁(ちやう)に向かひて朝拝(でうばい)せよ。訖(をは)りなば長官賀受けよ。宴設(まう)くることは聴(ゆる)せ」(儀制令)。因幡国庁における新年拝賀の式に続けて催された宴での作。万葉巻末の歌。

離別

朝集使少目秦忌寸石竹を餞せし時に作る

あしひきの山の黄葉(もみち)に雫合ひて散らむ山道を君が超えまく(19-4225)

【通釈】時雨の滴が山の黄葉に置いて、葉と一緒になって散るだろう―そんな風情のある山道を、貴方は越えてゆくのだろうことよ。

七月十七日を以ちて少納言に遷任せらる。仍りて別れを悲しぶる歌を作りて、朝集使掾久米朝臣廣縄の舘に贈り(のこ)す歌

石瀬野(いはせの)に秋萩しのぎ馬並めて小鷹狩だにせずや別れむ(19-4249)

【通釈】石瀬野で秋萩を踏みしだきながら、馬を並べて鷹狩をすることさえせずに別れるのでしょうか。

【語釈】◇石瀬野 高岡市石瀬(いしぜ)付近かという。富山市岩瀬とする説もある。小鷹狩 小型の鷹を用いての狩。

【補記】天平勝宝三年(751)、越中を去るに際しての歌。

二月十日、内相の宅に渤海大使小野田守朝臣等に(はなむけ)する宴の歌

青海原(あをうなはら)かぜ波なびき往くさ()(つつ)むことなく船は早けむ(20-4514)

【通釈】青海原では風波が押し静まり、往きも還りも、つつがなく船は速く進むことでしょう。

【補記】天平宝字二年(758)。

七月五日、治部少輔大原今城真人の宅にして、因幡守大伴宿禰家持に餞する宴の歌

秋風の末吹きなびく萩の花ともに挿頭(かざ)さず相か別れむ(20-4515)

【通釈】野では秋風が葉末に吹き、萩がなびいている――そんな季節に、萩の花を仲よく縵に插すこともしないまま、別れてゆくのでしょうか。

【補記】天平宝字二年(758)六月、因幡守に任ぜられ、翌月任国へ赴任する際の歌。

羇旅

天平二十年春正月二十九日 (四首)

あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟榜ぎ隠る見ゆ(17-4017)

【通釈】あゆの風がひどく吹いているらしい。奈呉の江で釣りをする海人の小舟が、高波に隠れながら漕いで行くのが見える。

【語釈】◇あゆの風 越の国の方言で、東風をあゆのかぜと言う。◇奈呉(なご) 富山湾のうち、高岡市・新湊市沿岸あたりをこう呼んだらしい。現在も「奈呉の浦」の通称が残る。越中国府のある高台からこの海が眺められ。

【主な派生歌】
月出でて今こそかへれ奈呉の江に夕べ忘るる海人の釣舟(*葉室光俊[続古今])

 

みなと風寒く吹くらし奈呉の江につま呼び交し(たづ)さはに鳴く(17-4018)

【通釈】河口の風が寒く吹きつけるらしい。奈呉の江では、連れ合いを呼び合って鶴があちこちで盛んに鳴いている。

 

天ざかる夷とも(しる)くここだくも繁き恋かも(なぐ)る日もなく(17-4019)

【通釈】都から空遠く隔たった夷(ひな)の地というが、なるほどその通りにひどく恋心が募るものだ、心静まる日もなく。

 

越の海の信濃(しなぬ)の浜をゆき暮らし長き春日も忘れて思へや(17-4020)

【通釈】越の海に沿った信濃の浜を一日歩き暮らしながら、こんな永い春の日でも、一刻として都の人を忘れることなどありはしない。

【語釈】◇信濃の浜 不詳。奈呉の浦に沿った浜か。

礪波郡の雄神河(をかみがは)のほとりにして作る歌

雄神川紅にほふ娘子(をとめ)らし葦付(あしつき)取ると瀬に立たすらし(17-4021)

【通釈】雄神川は紅の色に映えている。娘たちが葦付を取るというので浅瀬に立っているらしい。

【語釈】◇雄神(をかみ) 庄川の古称。美濃(岐阜県)に源を発し、飛騨山間を通って砺波平野を貫き、富山湾に注ぐ。◇葦付 藻の一種。食用。

【主な派生歌】
をかみ川ねじろたかがや踏みしだきとる葦付もせながためとぞ(源俊頼)

婦負郡の鵜坂河を渡る時に作る歌

鵜坂川渡る瀬多みこの()()の足掻きの水に衣濡れにけり(17-4022)

【通釈】鵜坂川は渡る瀬が多いので、私の乗る馬の足掻きの水で、着物がしとどに濡れてしまった。

【語釈】◇わたる瀬おほみ 鵜坂川(今の神通川)は川幅が広大なため、川が幾筋も分流して流れていることを言う。

気太神宮に赴き参り、海辺を行きし時作る歌

志雄路(しをぢ)からただ越え来れば羽咋(はくい)の海朝凪したり船楫もがも(17-4025)

【通釈】志雄路を通って山を真っ直ぐに越えて来ると、羽咋の海は朝凪している。船と楫があれば良いが。

【語釈】◇志雄路 富山県氷見市から石川県羽咋郡志雄町へ出る山道。能登半島の付け根を東西に横断する。◇羽咋の海 邑知潟とも羽咋市沖の海とも言う。

珠洲(すす)郡より船を発して治郡に還りし時に、長浜の湾に泊てて、月光を仰ぎ見て作る歌

珠洲(すす)の海に朝開きして榜ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり(17-4029)

【通釈】珠洲の海に朝船出をして漕いで来ると、長浜の浦に着いた時には月が照っているのであった。

【語釈】◇長浜の浦 不詳。氷見市の浦とする説や、七尾湾内とする説などがある。

墾田の地を検察する事に縁りて、礪波郡の主帳多治比部北里の家に宿る。時に忽ち風雨起こり、辞去することを得ずして作る歌

荊波(やぶなみ)の里に宿借り春雨に籠もりつつむと妹に告げつや(18-4138)

【通釈】荊波の里に一晩宿を借りて、春雨のために屋の内で籠もり慎んでいることを、無事妻に告げてくれたかどうか。

【語釈】◇荊波 富山県砺波市池原。

渋谷の埼を過ぎ、巌の上の樹を見る歌

礒のうへのつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり(19-4159)

【通釈】磯の上に生えたつままの樹を見ると、それは根を岩の中深く延ばしており、悠久の歳月を経て来たらしい。神々しいばかりに古びている。

【語釈】◇渋谷(しぶたに) 越中国府北西、現在雨晴(あまはらし)海岸と呼ばれるあたりで、奇岩の見られる景勝の地。海越しに立山連峰が遠望される。◇つまま タブノキの古名。クスノキ科の常緑喬木。

還る時、浜の上に月光を仰ぎ見る歌

渋谷(しぶたに)を指して我が行く此の浜に月夜飽きてむ馬しまし停め(19-4206)

【通釈】渋谷の崎をめざして我らがゆくこの浜で、月夜を堪能しましょう。さあ皆さん、馬をしばらく停めなさい。

防人の情と為りて思を陳べて作る歌

大君の (みこと)かしこみ 妻別れ 悲しくはあれど 大夫(ますらを)の 心ふりおこし とり(よそ)ひ 門出をすれば たらちねの 母かき撫で 若草の 妻とりつき 平らけく 我は(いは)はむ 好去(まさき)くて 早還り()と 真袖もち 涙をのごひ むせひつつ 語らひすれば 群鳥(むらとり)の 出で立ちかてに とどこほり 顧みしつつ いやとほに 国を来離(きはな)れ いや高に 山を越えすぎ 葦が散る 難波に来ゐて 夕潮に 船を浮けすゑ 朝凪に ()向け漕がむと さもらふと 我が居るときに 春霞 島廻に立ちて (たづ)()の 悲しく鳴けば はろばろに 家を思ひ出 負征矢(おひそや)の そよと鳴るまで 嘆きつるかも(20-4398)

 

海原に霞たなびき鶴が音の悲しき宵は国辺(くにへ)し思ほゆ(20-4399)

 

家思ふと()を寝ずをれば鶴が鳴く蘆辺も見えず春の霞に(20-4400)

【通釈】[長歌] 天皇陛下のご命令を畏れ謹んで、妻との別れが切なくはあるけれど、ますらおの心を奮い起こし、身支度をととのえ門出をした時、母は頭を撫で、妻は取りすがり、「つつがなく私たちは行いを慎んでいましょう。無事に早く帰って来てください」と、両袖で涙を拭い、胸を詰まらせつつ言うものだから、旅路に立つこともままならず、何度も立ち止まっては振り返り見つつ、次第に遠く故郷を離れ、ますます高く山を越え過ぎて、こうして難波に辿り着き、夕潮に船を浮かべ、朝凪に舳先を向けて漕ぎ出そうと、出航の合図を伺い待っていた折、春霞が島辺に立って、鶴が切なく鳴くので、遥かに家を思い浮かべ、背負った矢が激しく鳴るほどに嘆息したことだった。
[反歌一] 海原に霞がたなびき、鶴が悲しげに鳴き交わす、こんな夜には、故郷の方が懐かしく思われてならない。
[反歌二] 家が恋しくて寝るに寝られず、ふと外を見ると、鶴が鳴く葦辺さえそれと見分けることが出来ない、春の霞がかかって。

【語釈】[反歌二] ◇鶴が鳴く 頼りない・覚束ない意の形容詞タヅガナシを掛けている。類例、「たづがなき葦辺を指して飛び渡るあなたづたづしひとりさ寝れば」(15-3626)。

防人の別れを悲しぶる心を陳ぶる歌 二首(長歌略)

み空ゆく雲も使ひと人は言へど家苞(いへづと)やらむたづき知らずも(20-4410)

【通釈】「空をゆく雲も使いである」と人は言うけれども、家にみやげを届けるすべを知らない。

 

島蔭に我が船()てて告げやらむ使ひを無みや恋ひつつ行かむ(20-4412)

【通釈】島陰に船を停泊させて、家に消息を告げたいものだ――しかしそんな使者はいないから、これ程恋しく思いながら旅を続けるのである。

恋・相聞

初月の歌

振り()けて三日月見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも(6-994)

【通釈】夜空を振り仰いで三日月を見ると、一度逢っただけのあの人の美しい眉が心に浮かぶ。

坂上大嬢に贈る歌 (三首)

撫子がその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ(3-408)

【通釈】あなたが撫子の花であったらいいのに。毎朝毎朝、手に取っては愛(め)でいとしまない日とてないだろう。

【語釈】◇恋ひぬ日なけむ 「こゝの戀は、目ノ前に憂つゝ、愛著(ウツクシミ)する意なり」(萬葉集古義)。心を配りつつ、めでいつくしむといった意味であろう。

【補記】この歌は万葉集で譬喩歌に分類されているが、言うまでもなく「なでしこ」は歌を贈った相手、大嬢を比喩している。可憐な野の花は、年若い少女のイメージにいかにも相応しい(もっとも、歌に詠んだ撫子は、庭に植えた花を言っている)。この花の名は「撫で」を含み、「手に取り持ちて」の句と呼応する。庭に植えたのを、ただ眺めて賞美したいのではない。手にとって愛撫したい、という心である。「朝」と言って、朝露に濡れた花を想像させ、いっそう可憐さを添えるが、朝床の中での愛撫を暗示してもいるのである。

 

(いめ)の逢ひは苦しかりけり(おどろ)きて掻き探れども手にも触れねば(4-741)

【通釈】夢での逢瀬とは、苦しいものだったのですね。目が覚めるとあなたのすがたは無く、いくら手探りしても、触れることさえ出来ないのですから。

【補記】下句は、唐の小説『遊仙窟』の一節「少時にして坐睡すれば、即ち夢に十娘(じふぢやう)を見る。驚き覚めて之を攬(と)れば、忽然として手を空しくす」に拠る。

 

夜のほどろ()が出でて来れば我妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影に見ゆ(4-754)

【通釈】夜の明け際に私が妹の家を出て来ると、我が妹の思いに沈んでいた表情が目に浮かんで来ます。

【語釈】◇夜(よ)のほどろ 闇がほどける頃、すなわち闇の中に暁光が忍び込むように広がり始める刻限をいう。◇思へりしくし オモヘリは「思ひあり」を約めた語(ラ変動詞)。シクは過去の助動詞キのク語法で、「思へりき」を体言化している。最後のシは強めの助辞。物思いに耽り、それが顔にあらわれていた、その表情が、の意。

【補記】いわゆる後朝(きぬぎぬ)の別れの歌であるが、暁でも曙でも朝明けでもなく、「夜のほどろ」と言ったのが一首の雰囲気を決定し、またよく効いている。残して来た恋人の悲しげな面ざしが、暁闇の中にようやく見分けられる程、ほのかに浮んでいた――そんな情景と同時に、まだ光よりも闇の方が多い暁の道を、独り鬱屈して帰って行く作者の姿もまた、きわめて印象的に想像される。

非時(ときじ)き藤の花と萩の黄葉の二物を()ぢて坂上大嬢に贈る歌

我が屋戸の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを(8-1627)

【通釈】庭に咲いた季節外れの藤のように、稀にしか逢えない恋人よ、今すぐ逢って、花を愛でるように貴女の笑顔をずっと眺めていたい。

紀女郎に贈る (二首)

ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居ればいふせかりけり(4-769)

【通釈】こうして雨の降る日に、山のほとりで一人家に籠もっていると、胸のふさがる思いがするものですね。

 

()が君に戯奴(わけ)は恋ふらし(たば)りたる茅花(つばな)()めどいや痩せにやす(8-1462)

【通釈】ご主人様に対して、奴(やっこ)の私は恋しているらしい。くださった茅花をいくら噛んでも、余計痩せてゆくばかりです。

【語釈】◇茅花 チガヤの花。春、蕾の時に摘み、乾燥させて食用にした。

【補記】紀女郎の歌「戯奴がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花そめして肥えませ」(意訳:わざわざ若い奴のおまえさんのために、我が手を休めず春の野で抜いた茅花なのですよ、さあ召し上がってお肥りなさい)への返歌。

娘子(をとめ)に贈る歌

うつつには更にも()言はず(いめ)にだに妹がたもとを()()とし見ば(4-784)

【通釈】現実にそうしたいなどとは、とても口には出せません。せめて夢にでも貴女の腕(かいな)を枕にして寝られれば(それだけで十分です)。

【語釈】◇更にも得言はず とても言うことができない。「さらに」は下に否定の助詞を伴って、「決して〜ない」の意になる。

【主な派生歌】
うつつにはさらにもいはず桜花夢にもちるとみえばうからむ(躬恒[新後拾遺])
うつつにはさらにもいはず播磨なるゆめさき川のながれてもあはん(古今六帖)
うつつにはさらにもいはずぬる玉の夢の中にもはなれやはする(藤原俊成)

悲傷

(みぎり)の上の瞿麦(なでしこ)の花を見て作る歌

秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋戸の撫子咲きにけるかも(3-464)

【通釈】秋になったら花を見て賞美なさいと妻が植えた、庭先の撫子の花が咲いたのだ。

【補記】天平十一年(739)、家持二十代初め頃、亡くなった傍妻を悲しんで詠んだ連作の一つ。次の歌も同じ。

【参考歌】山部赤人「万葉集」巻八
恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり

移朔(つきうつり)て後、秋風を悲しび嘆きて作る歌

うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも(3-465)

【通釈】現世が無常であるとは承知しているのに、秋風が寒いあまり、亡き人を恋い慕ったのだ。

十六年春二月、安積皇子(かむあが)りましし時、内舎人大伴宿禰家持の作る歌 (二首 長歌略)

我が(おほきみ)天知らさむと思はねば(おほ)にぞ見ける和束(わづか)杣山(そまやま)(3-476)

【通釈】我が主君がそこで天界を支配なされようとは(そこに埋葬されようとは)思いもしなかったので、おろそかに見て過ごしてきたものだ、この和束の杣山を。

安積皇子 和束墓
安積親王の和束墓

【語釈】◇和束 京都府相楽郡和束町一帯の丘陵。同町白栖の丘の頂きにある墓は、古来安積皇子を祀ると伝わる。

【補記】天平十六年(744)、安積皇子は聖武天皇の難波行幸に際し「脚病」(脚気)を発し、恭仁京に帰って間もなく急死した。当時在世した聖武天皇の唯一の皇子であり、将来の皇太子有力候補であった。家持は藤原八束邸の宴で安積皇子と同席するなど、内舎人として皇子に親近していたらしい。

 

あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が王かも(3-477)

【通釈】山全体までも輝かせて咲いていた花が、一時に散り尽くしてしまうように、慌ただしくも逝ってしまわれた我が大君よ。

挽歌 聟の南右大臣家の藤原二郎が慈母を喪へる(うれ)ひを弔ふ

天地(あめつち)の 初めの時ゆ うつそみの 八十(やそ)伴の男は 大君に まつろふものと 定まれる (つかさ)にしあれば 天皇(おほきみ)の 命かしこみ 夷放(ひなさか)る 国を治むと あしひきの 山河へなり 風雲に 言は通へど (ただ)に遇はず 日の重なれば 思ひ恋ひ 息づき居るに 玉桙(たまほこ)の 道来る人の ()(ごと)に 我に語らく はしきよし 君は此頃 うらさびて 嘆かひいます 世の中の ()けく辛けく 咲く花も 時にうつろふ うつせみも 常無くありけり たらちねの 御母(みおや)(みこと) 何しかも 時しは有らむを 真澄鏡(まそかがみ) 見れども飽かず 珠の緒の 惜しき盛りに 立つ霧の 失せぬる如く 置く露の 消えゆくが如 玉藻なす 靡きこい臥し 逝く水の 留めかねつと まが言や 人の云ひつる およづれか 人の告げつる 梓弓 爪弦(つまひ)夜音(よおと)の 遠音(とほと)にも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涕 留めかねつも(19-4214)

反歌二首

遠音にも君が嘆くと聞きつれば哭のみし泣かゆ相思ふ我は(19-4215)

 

世の中の常なき事は知るらむを心尽くすな大夫にして(19-4216)

【通釈】[長歌] 天地の創成の時から、この世の朝廷に仕える男子は皆が皆、天皇陛下に服従するものであると定められた役割なのであるから、陛下のご命令を畏れ謹んで、都を遠く離れた国を治めると、はるか山河を隔て、風や雲が往き来するように便りを交わすことはあるものの、じかに逢うことは適わぬ日々が積もり積もったので、恋しい思いに喘ぐような気持ちでいたところ、遠路をやって来た使いの者が、伝言として私に語ったことには、親愛なる君が、この頃悲嘆に暮れておられると。世の中は何とやりきれず辛いことか。咲く花も時が来れば色褪せるけれど、現世の人間もまた不滅ではあり得ないのだ。君の尊い母上様が、どうしたことか、よりによって、澄んだ鏡のように見飽きない妙齢の盛りの時に、霧が消え失せるように、露が消え果てるように、玉藻さながらぐったりと床に臥し、流れ去る水のように引き留めること適わなかったと……。狂言を人が口走ったのであろうか、惑わせ言を人が言い触らしたのであろうか。梓弓の弦(つる)音を爪弾いて立てる、その音が夜遠くから聞こえるように、かすかに耳に触れただけで、私はもう悲しく、溢れ出る涙を留めることができなかった。
[反歌一] 遠い噂に君が嘆息していると聞いたので、声あげて泣くばかりである、思い合う仲の私は。
[反歌二] この世が無常であることは知っているでしょうに、心一途に嘆きなさるな、君は朝廷に仕える男子なのだから。

【語釈】[長歌] ◇君 家持の妹婿、藤原継縄(つぐただ)。その「御母」は、路真人虫麻呂女(みちのまひとむしまろのむすめ)◇梓弓爪引く夜音 宮廷警備の武士が夜、除魔のため梓弓の弦を爪弾いて立てる音。「梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御幸を聞かくし好しも」(海上女王奉和歌4-531)。

【補記】「天地の」から「息づき居るに」までは、家持自身の近況を伝える言葉。おそらく継縄に宛てた私的な書簡として綴られた歌かと思われる。人麻呂などの儀式的・公的な挽歌との違いが際立っており、その意味では当時全く新しい形式の挽歌であったと言える。

活道(いくぢ)の岡に登り、一本松の下に集ひ(うたげ)する歌

玉きはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思ふ(6-1043)

【通釈】命の長さは知らぬ、ただこうして松の枝を結ぶ私の心は、遠く永く続かんことを願う。

【語釈】◇松が枝(え)を結ぶ 生命の安全及び長寿を祈るまじないの一つ。松の枝と枝を引き寄せて、紐か何かで結び合わせることを言うらしい。

【補記】天平十六年(744)一月、恭仁京付近の活道の岡で親しい仲間と宴をした際の作。安積皇子の長命を祈った歌と思われる。

八月七日夜、(かみ)大伴宿禰家持の(たち)に集ひて宴せる歌

()めていざ打ち行かな渋谷(しぶたに)の清き磯廻(いそみ)に寄する波見に(17-3954)

【通釈】馬を並べてさあ行きましょう、渋谷の崎の清らかな磯辺に寄せる波を見に。

渋谷(雨晴海岸)
渋谷(雨晴海岸)

【語釈】◇渋谷(しぶたに) 越中国府の北西、現在雨晴(あまはらし)海岸と呼ばれるあたりで、奇岩の見られる景勝の地。よく晴れた日には富山湾越しに立山連峰が遠望される。

【補記】天平十八年(746)、越中守に赴任してまもなく、自邸で宴を開いての作。参席者に向かって呼びかける形をとり、弾むような心が調べとなってあらわれている。

【他出】五代集歌枕、歌枕名寄

【主な派生歌】
駒なめていざ見にゆかむ古里は雪とのみこそ花は散るらめ(*よみ人しらず[古今])

夜裏、千鳥の鳴くを聞く歌

夜ぐたちに寝覚めてをれば河瀬()め心もしのに鳴くちどりかも(19-4146)

【通釈】夜半過ぎ、目覚めたまま寝床にいると、川の浅瀬を求めて、心もうち萎れるばかりに鳴く千鳥であるなあ。

【補記】天平勝宝二年(750)三月の作。千鳥はのち、王朝文学においては冬の風物に固定される。

遥かに江を(さかのぼ)る船人の唄を聞く歌

朝床に聞けば遥けし射水河(いみづがは)朝漕ぎしつつ唄ふ船人(19-4150)

【通釈】朝の寝床で耳を澄ませると、その歌声が遥かに聞こえる、射水川を、朝漕ぎしながら唄う船人の声が。

【補記】天平勝宝二年(750)三月、越中での作。「射水河」は越中国府のそばを流れる川(今の小矢部川)。

五月九日、兵部少輔大伴宿禰家持の宅に集飲(うたげ)する歌

ひさかたの雨は降りしく石竹花(なでしこ)がいや初花に恋ひしき我が背(20-4443)

【通釈】雨は降りしきっていますが、撫子の初花のように、ますます新鮮な気持ちで慕わしく思われる貴方です。

【補記】天平勝宝七歳(755)。友人の大原今城を自邸に招いての宴。

勝宝九歳六月二十三日、大監物三形王の宅に宴する歌

うつりゆく時見るごとに心いたく昔の人し思ほゆるかも(20-4483)

【通釈】移り変わる時の相を見るたび、心痛むばかりに昔の人が想われるのである。

二年春正月三日、玉箒(たまばはき)を賜ひて肆宴きこしめき

初春の初子(はつね)の今日の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺らく玉の緒(20-4493)

【通釈】初春の初子の日である今日、頂戴したこの玉箒を手に致しました途端、ゆらゆらと音をたてる玉の緒です。

【語釈】◇玉箒(たまばはき) 玉の緒の象徴としての繭玉(または硝子玉)を飾った箒。これが「揺らく」とは、飾り玉がぶつかりあって微妙な音をたてることをいう。初子の日に玉箒を辛鋤と共に飾るのは、中国渡来の宮廷行事。「初春のまじつくとして、魂を一箇所に集中する為に用ゐたもの」で、「旧い魂を掃きちらして、新たな魂を鎮める意か」(折口信夫「睦月の歌」新版全集6)。

【補記】天平宝字二年(758)。

賦・長歌

陸奥国より金を出せる詔書を()

葦原の 瑞穂の国を 天降(あまくだ)り ()らしめける すめろきの 神の(みこと)の 御代(みよ)かさね (あま)日嗣(ひつぎ)と ()らしくる 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山河を 広み厚みと たてまつる 御調宝(みつきたから)は 数へ得ず 尽くしもかねつ しかれども ()ご大君の 諸人(もろひと)を いざなひたまひ 善き事を 始めたまひて 黄金(くがね)かも 確けくあらむと 思ほして 下悩ますに (とり)が鳴く (あづま)の国に 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金(くがね)有りと 申したまへれ 御心(みこころ)を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(うづ)なひ (すめろき)祖の 御霊(みたま)たすけて 遠き代に かかりしことを ()が御世に あらはしてあれば 御食(をす)国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 物部(もののふ)の 八十(やそ)伴の雄を 服従(まつろへ)の 向けのまにまに 老人(おいひと)も (をみな)童児(わらは)も しが願ふ 心だらひに 撫で賜ひ 治め賜へば ここをしも あやに(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の 其の名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひもちて 仕へし(つかさ) 海行かば 水漬(みづ)(かばね) 山行かば 草むす屍 大君の ()にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことだ)て 大夫(ますらを)の 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる (おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる辞立(ことだて) 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひつげる 言の(つかさ)ぞ 梓弓 手にとりもちて (つるぎ)大刀(たち) 腰にとりはき 朝まもり 夕のまもりに 大君の 御門(みかど)のまもり われをおきて 人はあらじと (いや)立て 思ひしまさる 大君の 御言の(さき)の 聞けば(たふと)(18-4094)

反歌

大夫のこころ思ほゆ大君の御言のさきを聞けば貴とみ(18-4095)

 

大伴の遠つ神祖の奥つ城は(しる)(しめ)立て人の知るべく(18-4096)

 

すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に(くがね)花咲く(18-4097)

【通釈】[長歌] 葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された神様たる天皇が、代々日の神の後継ぎとして治めて来られた御代御代、隅々まで支配なされる四方の国々においては、山も川も大きく豊かであるので、貢ぎ物の宝は、数えきれず言い尽くすことも出来ない。そうではあるが、我らの大君が、人びとに呼びかけられ、善いご事業を始められて、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に、黄金があると奏上してきたので、御心の曇りもお晴れになって、「天地の神々もこぞって良しとされ、皇祖神の御霊もお助け下さって、遠い神代にあったと同じことを朕の御代にも顕して下さったのであるから、我が治国は栄えるであろう」と神の御心のままに思し召されて、あまたの臣下の者らは付き従わせるがままに、また老人も女子供もそれぞれの願いが満ち足りるようにと、物をお恵みになり位をお上げになったので、これはまた何とも尊いことであるよと拝し、いよいよ益々晴れやかな思いに満たされる。さて我ら大伴は、遠い祖先の神、その名は大久米主という誉れを身に添えてお仕えしてきた役柄、「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元に死のう。後ろを振り返ることはしまい」と誓っては、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、そのような祖先の末裔であるぞ。大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、「子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである」と言い継いできた誓言を持つ職掌の氏族であるぞ。梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、「朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無い」と、さらに誓いも新たに、弥が上にも心は奮い立つ。大君の栄えある詔を拝聴すれば、たいそう尊くて。
[反歌一] ますらおとは如何なるものか、その心構えが思い起こされる。大君の栄えある詔を拝聴すれば、たいそう尊くて。
[反歌二] 大伴氏の遠い祖先の神の墳墓には、はっきりと墓標を立てよ、世の人がそれと判るように。
[反歌三] 天皇の御代の栄えるしるしと、東の国の陸奥の山に、黄金の花が咲いた。

【補記】天平二十一年二月二十二日、陸奥国守百済王敬福より黄金が献上され、同年四月一日、聖武天皇は東大寺に行幸して黄金産出を大仏の前に報告した。この長歌は、越中にあった家持がその報に接し、詔書を祝賀したもの。「大来目主」は、「偉大なる久米部の統帥者」の意で、『萬葉集古義』の指摘通り、天忍日命(あめのおしひのみこと)以下、大伴氏遠祖の通称であろう。「言立て」は、決意や祈りなどをはっきりと口に出して述べること、及びそうして言挙げされた文句。

【主な派生歌】
秋ぞみるこがね花さくみちのくの山の木の葉の色をひとつに(正徹)
いづくをも秋やかまくら山とみん金花さく下紅葉かな(〃)
君がよのこがね花さくみちのおくの同じ名におふみよしのの山(細川幽斎)
はしきやし有田の山は冬枯に青葉しげりてこがね花さく(本居宣長)

霍公鳥と藤の花とを詠む

桃の花 紅色に にほひたる 面輪(おもわ)のうちに
青柳の 細き眉根(まよね)を 笑みまがり 朝影見つつ
娘子(をとめ)らが 手に取り持たる 真澄鏡 二上山に
()(くれ)の 繁き谷辺を 呼びとよめ 朝飛び渡り
夕月夜(ゆふづくよ) かそけき野辺に はろばろに 鳴く霍公鳥
立ちくくと 羽触(はぶり)にちらす 藤浪の 花なつかしみ
引き攀ぢて 袖にこきれつ ()まば染むとも(19-4192)

 

霍公鳥鳴く羽触にも散りにけり盛り過ぐらし藤なみの花(19-4193)

【通釈】[長歌] 桃の花さながら紅く色づいた顔の輝きのうちに、青柳のように細くしなやかな眉を曲げて微笑み、そうして朝の面立ちを映して見ながら、少女たちが手に持っている真澄鏡――その蓋ならぬ二上山で、ほととぎすは樹々の深く繁る谷を朝早く鳴き声を響かせて飛び渡り、夕月の光がかすかな野辺では遥かに遠く囀るが、繁みの間を潜って鳴く時に、羽が触れて藤の花を散らせてしまう。それで私は藤の花がいとおしくなって、つかみ寄せて袖にしごき入れたのだ、花の色が染みつこうとかまわずに。
[短歌] ほととぎすが羽をふるわせて囀る、その羽触りにさえ散ってしまった。盛りの季節が過ぎたようである、藤の花は。

【補記】長歌の冒頭から「真澄鏡」までは「二上山」にかかる序詞。

立山(たちやま)の賦

天離(あまざか)る (ひな)に名懸かす 越の中 国内(くぬち)ことごと 山はしも (しじ)にあれども 川はしも (さは)にゆけども すめ神の (うしは)きいます 新川(にひかは)の その立山に (とこ)なつに 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川(かたかひがは)の 清き瀬に 朝宵ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや毎年(としのは)に よそのみも 振り放け見つつ 万代(よろづよ)の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて (とも)しぶるがね(17-4000)

 

立山に降りおける雪を(とこ)なつに見れども飽かず神柄(かむから)ならし(17-4001)

 

片貝の川の瀬清くゆく水の絶ゆることなくあり通ひ見む(17-4002)

【通釈】[長歌] 空遠い鄙の地にその令名を冠せられる立山――越中の国内いたるところ山はぎっしりとあるけれども、川は多く流れているけれども、領神の支配なさっている新川郡のその立山には、四季を通じてつねに雪が降り積もり、片貝川を帯のようにまとっていられる。その川の清らかな瀬に朝晩立つ霧のように果敢なく、この思いが消え去ることなどあろうか。つねに通い続け、毎年、遠くからでも仰ぎ見つつ、万代までの語りぐさとして、まだ見ない人にも語り告げよう。人々が噂にばかり名前にばかり聞いて、珍しがるように。
[短歌一] 立山に降り敷いた雪は、四季を通してつねに眺めても見飽きない。神の品格のゆえであろうか。
[短歌二] 片貝川の浅瀬を清らかに流れて行く水のように、絶えることなく通い続け、(この立山を)見よう。

【語釈】[長歌] ◇天ざかる夷に名懸かす 「越」に懸かるとする説と、「立山」に懸かるとする説とあり。ここでは後者をとった。立つという動詞は、もともと「事物や現象が、その存在や作用を力強く顕現させる」というような意味をもち(例えば「雲が立つ」「月が立つ」など)、言い換えれば神威の現れを表現する語。そのような神聖な名をお持ちになる山という意味で「名懸かす」(スは尊敬)と言っているのだろう。◇とこなつに 一年中、夏の間中、毎年の夏、など諸説あり。ここでは、「なつ(原文は奈都)」は夏でなく「撫づ」「なだらか」などと同根の語と見、「とこなつに」は常になだらかに、すなわち季節を通じて変わらず、の意かと考えた。◇片貝川 立山連峰の北方、毛勝三山の麓から魚津市北部の富山湾に注ぐ川。上流は美しい渓谷を形成する。

【補記】この一首は国府から遠望した立山を詠ったものとするのがほぼ通説になっているようであるが、反歌も含めた一連の作において、話し手は片貝川の畔から立山を遠望する視点に立っていると考えるべきである(「あり通ひ」は、片貝川の畔に通うこと)。家持はこれ以前に出挙などで片貝川を訪れる機会があり、その時の印象に基づいた詠作と推測される。

私の拙懐を陳ぶる

天皇(すめろき)の 遠き御代にも おしてる 難波の国に 天の下 しらしめしきと 今の()に 絶えず言ひつつ かけまくも あやに(かしこ)し 神ながら 我ご大君の うちなびく 春の初めは 八千草に 花咲きにほひ 山見れば 見の(とも)しく 川見れば 見のさやけく 物ごとに 栄ゆる時と ()したまひ 明らめたまひ 敷きませる 難波の宮は 聞こしをす 四方(よも)の国より たてまつる 御調(みつき)の船は 堀江より 水脈(みを)びきしつつ 朝凪ぎに 楫引きのぼり 夕潮に 棹さしくだり あぢ(むら)の 騒き(きほ)ひて 浜に出でて 海原見れば 白波の 八重折るがうへに 海人小舟 はららに浮きて 大御食(おほみけ)に 仕へまつると をちこちに (いざ)り釣りけり そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも(20-4360)

 

桜花いま盛りなり難波の海おしてる宮に聞こしめすなへ(20-4361)

 

海原のゆたけき見つつ蘆が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ(20-4362)

【通釈】[長歌] 遠い過去の天皇の御代においても、海一面が陽に輝く難波の国で天下を治められたと、今の代に至るまで絶えず言い継がれてきたのであるが、口にするのも神妙に畏れ多い、神であられる我が今上陛下もまた、「草木の繁り靡く春の初めには、数知れぬ種類の花が色美しく咲き、山を見ればいつまでも見飽きることなく、川を見れば見るも鮮やかで、もの皆それぞれに栄える季節である」と、そうご覧になり満足なさりつつ、難波の宮に君臨されているのである。その難波においては、統治する四方の国から、献上する貢ぎ物を載せた舟が、堀江を水先案内されつつ、朝凪の時には楫を引き寄せて遡り、夕潮の時には棹を下ろしてくだり、あじ鴨のように賑やかに先を争って行く。さて浜に出て海原を見れば、白波が幾重にも折り重なる上に、海人の小船が点々と浮かんで、天皇のお食事にご奉仕申し上げようと、あちこちで魚を漁り、釣りしている。なんと広大であることか、なんと豊穣であることか。これを見れば、なるほど、神代からここ難波に都を造られたのも尤もだと思われるのである。
[短歌一] 桜は今が花盛りである。海が一面に照り輝き、眩いばかりの難波宮で天下をお治めになる折とて。
[短歌二] 海原の広大なさまを見つつ、ここ難波の地で一年を過ごしたいものだ。

【語釈】[短歌二] ◇蘆が散る 難波にかかる枕詞。難波は蘆の繁る低湿地であった。

(うから)(さと)す歌

ひさかたの 天の戸ひらき 高千穂の (たけ)天降(あも)りし すめろきの 神の御代より はじゆみを ()握りもたし 真鹿児矢(まかごや)を たばさみそへて 大久米の 大夫健男(ますらたけを)を 先に立て (ゆき)とりおほせ 山河を 磐根さくみて 踏みとほり 国()ぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ まつろはぬ 人をも(やは)し 掃ききよめ 仕へまつりて 秋津島 大和の国の 橿原の 畝傍(うねび)の宮に 宮柱 ふとしり立てて 天の下 しらしめしける 天皇(すめろき)の 天の日継と つぎてくる 君の御代御代 隠さはぬ (あか)き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽くして 仕へくる (おや)のつかさと 言立てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いやつぎつぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の (かがみ)にせむを あたらしき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も おやの名絶つな 大伴の 氏と名におへる ますらをの伴(20-4465)

 

磯城島の大和の国にあきらけき名に負ふ伴の男こころつとめよ(20-4466)

 

(つるぎ)大刀(たち)いよよ研ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(20-4467)

【通釈】[長歌] 天孫が天の戸を開き、高千穂の峰に天降りした、皇祖神の御代から、(我らの氏祖は)櫨(はぜ)弓を手に握り持ち、真鹿児矢を手に挟み添えて、久米部の勇士を先に立て、靫を背に負わせ、岩を踏み分け山川を跋渉して、良き国を求めつつ、勢威盛んな鬼神を征服し、服従しない人々をも帰順させ、こうして国内を祓い浄め、任務を果たし申し上げてきたのであるが、稔り豊かな島である大和の国の橿原の畝傍の宮に、御殿の柱を太々と立てて、天下を支配なさった天皇(神武天皇)の後裔として、位を嗣いで来られた大君の御代ごとに、「(汝らは)一点の曇りもない忠誠心を、天皇のお側に極め尽して、お仕えしてきた祖先伝来の役柄であるぞ」と、そう明言しお与えになった、我ら大伴の職務――子孫は代々(その務めを引き継いで)、見る人が語り継ぎ、聞く人が規範にするだろうに、そのような勿体ない清い家名であるぞ。疎かに思って、たとえ口先だけでも祖先の名誉を絶やしてはならぬ。大伴の氏を名に負った、ますらおの仲間たちよ。
[短歌一] この大和の国において、曇りない名を持つ一族の者たちよ、決して心を緩めるな。
[短歌二] 剣太刀を研ぐように、大伴の名をさらに明澄に磨ぎ澄ますべきである。遥かな過去から、きわやかに負ってきたその名であるぞ。

【語釈】[長歌] ◇剣大刀 「研ぐ」にかかる比喩的枕詞(同様の例に「剣太刀磨ぎし心を 天雲に思ひ散らし」13-3326)。枕詞と取らず、剣太刀そのものを研いで戦に備える、との解釈も可能であるが、この歌を含め一連の長短歌では「名」が主題になっており、「あきらけき名」をさらに明澄にする意と取るのが妥当である。なお剣太刀は「刃(な)」から「名」に掛かる枕詞でもあり(「剣太刀名の惜しけくも我はなし」12-2984)、この点も「研ぐ」対象が「名」であるとの解釈を補強する。

【補記】左注には、「淡海真人三船の讒言に縁り、出雲守大伴古慈斐宿禰解任せらる。是を以ちて家持此の歌を作る」とある。天平勝宝八歳、大伴古慈斐が淡海三船とともに朝廷誹謗の罪を着せられた事件に触発された作。

付載 家持集・勅撰集より

 

巻向(まきむく)の檜原のいまだくもらねば小松が原にあは雪ぞふる(新古20)

【通釈】巻向山の針葉樹林がまだ曇っていないのに、小松の生える原には淡雪が降っている。

【語釈】◇巻向 奈良県桜井市の巻向山。◇檜原(ひばら) 山の斜面を覆う、檜などの針葉樹林。「はら」は野原や平原と言う時の原でなく、或る植物が群生している場所を意味する語。「萩原」「松原」などと同じである。

【補記】下記万葉歌の異伝。淡雪の降る「小松が原」にいて、「巻向の檜原」を遠望している。『家持集』では冬歌とされ、結句は「あわゆきぞふる」。「あわゆき」は泡のように溶けやすい雪のことであるが、後世「淡雪」と解されるようになったものらしい。淡雪は春のものとされたので、新古今集では春の部に載せている。

【他出】家持集、俊成三十六人歌合、時代不同歌合、歌枕名寄、雲玉集

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十
巻向の檜原も未だ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る

 

桜花こだかき枝の空にのみ見つつや恋ひむ折るすべもなみ(家持集)

【通釈】桜の花は高い枝に咲いている――それを中空にばかり眺めながら、恋しがっていなければならないのか。折り取るすべもなくて。

【補記】万葉集にも類歌が見えず、『家持集』がどこからこの歌を採ったのか全く不明である。

 

行かむ人来む人しのべ春霞たつ田の山の初桜花(新古85)

【通釈】過ぎ去る人も、やって来る人も、賞美せよ。春霞が立つという龍田の山の初桜花を。

【語釈】◇たつ田 「立つ」「龍田」を掛ける。龍田山は奈良県生駒郡の龍田川西方の山。

【補記】『家持集』から採られた歌。しみじみとした情感のある歌で、新古今撰者の撰歌眼はさすがである。

【他出】家持集、定家八代抄、歌枕名寄

曲水宴をよめる

から人の船をうかべて遊ぶてふ今日ぞ我がせこ花かづらせよ(新古151)

【通釈】海彼の風流人たちも船を浮かべて遊ぶという今日の日です。さあ皆さん、桜の花で編んだ縵をおつけなさい。

【補記】陰暦三月三日、庭園の流水に酒盃を浮かべ、それが流れ過ぎないうちに詩歌を作っては盃をほすという「曲水の宴」が催される慣わしがあった。

【原歌】大伴家持「万葉集」巻十九
唐人も筏うかべて遊ぶといふ今日ぞわがせこ花かづらせな

【他出】古今和歌六帖、綺語抄、新撰朗詠集、定家十体(拉鬼様)、別本和漢兼作集、夫木和歌抄、三百六十首和歌、六華集、題林愚抄

【主な派生歌】
唐人のあとをつたふる盃の波にしたがふ今日も来にけり(藤原定家)
をりにあひて今夜ぞみつる七夕のよろこぶ雲の花かづらせよ(木下長嘯子)

 

神なびの御室の山の葛かづらうら吹きかへす秋は来にけり(新古285)

【通釈】御室の山に生い茂る葛――その葉を裏返して風が吹く秋は来たのだった。

【語釈】◇神なびの 「みむろの山」に慣例として冠せられる語。「神なび」は「神が鎮座するところ」の意。◇御室(みむろ)の山 みもろ山とも。もともと三輪山を指すことが多かったが(「味酒のみもろ山」など)、その後、奈良県生駒郡斑鳩町の神奈備山を指すと考えられるようになったらしい(古今集の「竜田川もみぢ葉ながる神奈備の三室の山に時雨ふるなり」など)。◇葛かづら 葛の別称。葉裏が青白く、風に翻ると目立つ。

【補記】新古今集秋上巻頭歌。『家持集』でも秋の部の冒頭。葛の葉が風にひるがえり、白い葉裏を見せるさまに、秋の訪れを感じ取る。後世、多くの類想歌を生んだ。

【他出】家持集、俊成三十六人歌合、秀歌大躰、時代不同歌合、歌枕名寄

【参考歌】平貞文「古今集」
秋風の吹きうらがへす葛の葉のうらみても猶うらめしきかな

 

わが宿の尾花が末に白露のおきし日よりぞ秋風の吹く(新古462)

【通釈】我が家の庭の尾花の末に白露が置いた日――その日から秋風が吹き始めたのだ。

【語釈】◇尾花(をばな) 薄の穂。

【補記】『古今和歌六帖』では作者不明記であるが、新古今集は『家持集』から採ったらしく中納言家持の名で載せている。

【他出】家持集、古今和歌六帖、定家八代抄、秀歌大躰、別本和漢兼作集

 

かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける(新古620)

【通釈】天の川を眺めると、(かささぎ)が翼を並べて渡すという橋に、あたかも霜が置いているかのように、星々が輝いている。その冴え冴えと白い光を見れば、夜もすっかり更けてしまったのだった。

【語釈】◇かささぎのわたせる橋 七夕の夜、鵲が翼を並べて天の川に橋を架け、織女を渡すとの伝説に由る。「烏鵲(うじやく)河を()めて、橋を成して以て織女を渡す」(白孔六帖)。但し『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌では御殿の御階(みはし)を「かささぎのわたせるはし」によって喩えており、これに基づき賀茂真淵は宮中の御階の比喩と解した。「烏鵲橋は先大内の御橋を天にたとへいへり」(初学)。◇おく霜の 夜空にしらじらと光る星を霜に喩える。「月落ち烏鳴いて霜天に満つ」(張継「楓橋夜泊」)を踏まえることが古注以来指摘されている。橋を宮中の御階と解する説からすれば、(きざはし)の欄干などに付いた霜を言うことになる。

【補記】『家持集』では結句が「よはふけにけり」。

【他出】家持集、俊成三十六人歌合、定家八代抄、秀歌大躰、時代不同歌合、百人一首、別本和漢兼作集、題林愚抄

【参考歌】「大和物語」百二十五段
鵲の渡せる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ

【主な派生歌】
楸生ふる小野のあさぢに置く霜の白きを見れば夜や更けぬらむ(藤原基俊[千載])
かささぎの雲のかけはし秋暮れて夜半には霜やさえわたるらむ(*寂蓮[新古今])
神な月しぐれてきたるかささぎの羽に霜おきさゆる夜の袖(藤原定家)
天の河夜わたる月もこほるらむ霜にしもおくかささぎの橋(〃)
かささぎの渡すやいづこ夕霜の雲ゐにしろき峰のかけ橋(*藤原家隆[新勅撰])
月きよみ有明の霜の萩の葉に白きをみれば嵐なりけり(藤原家隆)
秋の霜白きを見れば鵲の渡せる橋に月の冴えける(後鳥羽院)
月影の白きを見ればかささぎのわたせる橋に霜ぞ置きにける(源実朝)
松の葉の白きを見れば春日山木の芽もはるの雪ぞ降りける(〃)
冬の夜は霜をかさねて鵲のわたせる橋にこほる月影(二条為氏[続後拾遺])
朝ごとに我が元結におく霜の白きを見れば秋ぞ暮れゆく(中御門経継[新千載])
かさ鷺のわたせる橋の霜消えて天つ日影や今朝しぐるらむ(正徹)

 

あしびきの山の陰草むすびおきて恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ(新古1213)

【通釈】山の下陰に生える草を結んで、固く約束を交わしておいて、あの人を恋い慕い続けるのだろうか。逢うすべがなくて。

【補記】草を結んだのは、恋人と約束を交わした際のまじないであったろう。ところがその後逢うことがかなわなくなり、恋のゆくえを悲観している。

【他出】家持集、定家八代抄

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十一
青山の岩垣沼の水隠(みごも)りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ

 

くしげなる鏡の山を越えゆかむ我は恋しき妹が夢みたり(家持集)

【通釈】櫛笥に入っている鏡――その名も鏡の山を越えてゆこうとする私は、恋しい妻の夢を見た。

【語釈】◇くしげなる 「鏡」の枕詞。語義は「櫛笥(くしげ)にある」。「くしげ」は櫛などの化粧用具を入れておく箱。◇鏡の山 近江国の歌枕。三上山北東の小山。古来信仰の山。その名の通り「鏡」に掛けて詠まれることが多い。

【補記】鏡は女性が殊に大切にしているもの。ゆえにその名を持つ山から、故郷に残して来た妻を連想した。

【補記2】群書類従本による。宮内庁書陵部本を底本とする新編国歌大観では「くしげなるかがみのやまをこえゆけばわれらこひしきいもがすがたか」とあり意が通じない。

【他出】夫木和歌抄


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成20年10月03日