斉明天皇 さいめいてんのう 推古二〜斉明七(594〜661) 諱:宝皇女

敏達天皇の曾孫。押坂彦人大兄皇子の孫。父は茅渟(ちぬ)王、母は吉備姫王。軽皇子(孝徳天皇)の同母姉。
初め用明天皇の孫高向(たかむこ)王に嫁し、漢(あや)王を産む。のち、母の異母兄弟にあたる田村皇子(舒明天皇)に嫁ぎ、葛城皇子(中大兄)・間人皇女・大海人皇子を産む。
舒明十三年(641)、夫の舒明天皇が崩じ、翌年一月、即位(天豊財重日足姫尊・皇極天皇)。蘇我蝦夷が引き続き大臣となるが、その子入鹿が国政を執った。八月、南淵(明日香村)の川上で天皇自ら天に雨を祈ると、雷鳴が起り、五日間降雨が続く。同年十二月、小墾田宮に移る。皇極二年(643)三月、飛鳥板蓋宮に移る。大化元年(645)六月、乙巳の変が起り、蘇我入鹿は殺害され、蝦夷は自殺。皇極天皇は弟の軽皇子に譲位した。
白雉五年(654)、孝徳天皇崩じ、翌年一月、飛鳥板蓋宮で再祚(斉明天皇)。同年冬、板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に移る。斉明二年(656)、後飛鳥岡本宮を造営し遷都。多武峰の頂上にも宮を作る。大規模な溝や石垣の工事は民衆の反感を買ったというが、天皇はさらに吉野宮を造営した。斉明四年(658)五月、孫の建王(たけるのみこ。中大兄と遠智娘との子)が薨ず(八歳)。天皇は建王を悼む歌を詠む(下記参照)。同年十月、中大兄皇子らと共に紀温湯に行幸。出航の際にも建王を追悼し、歌を詠む(下記参照)。この歌を秦大蔵造万里に詔して世に伝えさせる。同年十一月、有間皇子の変。斉明五年(659)一月、紀温湯より還御。同年七月、第四次遣唐使を派遣。斉明七年(660)一月、百済からの救援要請を承け、新羅征討の途につく。同月十四日、熟田津の石湯行宮泊。この時の額田王の歌(万葉集巻一)は、山上憶良編『類聚歌林』によれば、熟田津の石湯行宮での斉明天皇の作だという。同年五月、朝倉宮(福岡県朝倉郡朝倉町)に移り、ここを本営としたが、七月、病により崩じた。
なお万葉集の「中皇命」は斉明天皇をさすとする説がある。

五月に、皇孫(みまご)建王(たけるのみこ)(みとし)八歳(やつ)にして()せましぬ。今城の谷の上に、(もがり)をたてて収む。天皇、本より皇孫の有順(みさをか)なるを以て、ことにあがめたまふ。(かれ)不忍哀(あからしび)したまひ、傷みまどひたまふこと極めて(にへさ)なり。群臣(まへつきみたち)に詔して(のたま)はく、万歳(よろづとせ)千秋(ちあき)の後に、かならず()(みささぎ)に合せ(はぶ)れとのたまふ。すなはち作歌(うたよみ)して曰はく (三首)

今城(いまき)なる小丘(をむれ)が上に雲だにも(しる)くし立たば何か嘆かむ(日本書紀)

【通釈】今城の地に建王の殯(もがり)の宮を建てた。そこの小山の上に、せめて雲だけでもはっきりと立ったなら…それを亡き王の霊と眺めて心を慰めよう。嘆くことなどありはしない。

【語釈】◇今城 孫の建王の死体を安置した場所。曾我川上流一帯の古名(岩波大系本)。奈良県吉野郡大淀町に今木の地名が残る。語源は「今来」で、渡来人の移住した土地。◇何か嘆かむ カは反語。何を嘆くことがあろう、いや嘆くことなどない。

【他出】続古今集、歌枕名寄

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十一
雲だにもしるくし立たば慰めて見つつもをらむただに逢ふまでに

 

射ゆ鹿猪(しし)をつなぐ川辺の若草の若くありきと我が思はなくに(日本書紀)

【通釈】弓を射られた鹿や猪の足跡を追ってゆくと、川のほとりに出る。そこに生えている、萌え出たばかりの草のように、あの子は幼かっただろうか? いいや、幼すぎたとは、思わないけれども、それでも悔やまれてならない

【語釈】◇鹿猪(しし) 狩の獲物となる獣を言う。◇若くありき 上代の「わかし」は、「生まれたばかりで幼い」意に用いるのが普通。建王は薨時八歳であったから、「わかし」と言えるか微妙な年齢である。

 

飛鳥河水漲(みなぎら)ひつつ行く水の(あひだ)も無くも思ほゆるかも(日本書紀)

【通釈】飛鳥川は、水があふれるように盛り上がりながら、絶え間なく流れてゆく。その水のように、いつもいつもあの子のことが思い出されるわ。

【補記】中大兄皇子と遠智娘(とおちのいらつめ)の間には三人の子がいたが、長男の建王(たけるのみこ)は生まれつき口をきくことが出来なかった。大人しく可愛らしい子だったので、斉明天皇はこの孫をことに偏愛した。ところが八歳の年の夏、死んでしまった。今城の谷の上に、もがりの宮を建てて棺を収めた。天皇の悲嘆は甚だしく、群臣たちを前にして、自分の死後は必ず王と合葬するように命じた。この時よんだのが上の三首である。
王が死んだ同じ年の冬、天皇は紀の湯に行幸した。建王を思い出し、悲しんで泣いた。声に出してつぎの三つの歌をよみ、「この歌を伝えて、世に忘らしむることなかれ」と命じた。

【主な派生歌】
あしひきの山下とよみ行く水の時ともなくも恋ひわたるかも(作者未詳[万葉])
吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(*紀貫之[古今])

冬十月の庚戌(かのえいぬ)の朔甲子(きのえねのひ)に、(きの)温湯()(いでま)す。天皇、皇孫(みまご)建王をおもほしいでて、いたみ悲泣(かなし)びたまふ。すなはち口号(くつうた)して曰はく (三首)

山越えて海渡るともおもしろき今城(いまき)(うち)は忘らゆましじ(日本書紀)

【通釈】飛鳥から山を越え、海を渡って、紀の国へ出かけてゆく。道中の景色は目を楽しませてくれるだろうけれど、いま今城の殯宮の中にいるあの子ほど、私の心を晴らしてくれる存在はなかった。旅をしても、あの子のことは決して忘れられないだろう。

【語釈】◇おもしろき 気持を晴れ晴れとさせてくれる。◇今城の中 今城の殯宮におさめられた建王を言う。諸注釈書は誤訳をしているが、「今城の中」が「おもしろき」と言うのは、生前、建王が天皇にとって何より「おもしろき」存在だった、ということである。

 

水門(みなと)(うしほ)のくだり(うな)くだり後ろも(くれ)に置きて行かむ(日本書紀)

【通釈】水門(みなと)には潮が押し寄せるように流れてくる。海水が押し寄せるように流れてくる。その中を、後ろ暗い気持ちで、あの子を残して船出してゆこう。

【語釈】◇水門(みなと) 河口や入江の口など、船の出入口になるところ。◇くだり 上から下へ流れること。ここでは潮の満ち引きによる海水の流れ。

 

(うつく)しき()が若き子を置きて行かむ(日本書紀)

【通釈】かわいい私の幼子を、あとに残して行こう。

崗本天皇御製一首 并短歌

神代(かみよ)より ()れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて あぢ(むら)の (かよ)ひは()けど ()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで (よる)は ()の明くる(きは)み 思ひつつ ()()かてにと 明かしつらくも 長きこの夜を(万4-485)

 

山の端にあぢ(むら)騒き行くなれど我は(さぶ)しゑ君にしあらねば(万4-486)

 

淡海道(あふみぢ)鳥籠(とこ)の山なる不知哉(いさや)()のこのごろは恋ひつつもあらむ(万4-487)

【通釈】[長歌]神代から、次々と生まれて来たので、この国には人が満ちていて、アジ鴨の群のように賑やかに行ったり来たりしているけれども、恋しく思うあの人ではないので、恋しく思うあの人ではないので、昼は日が暮れるまで、夜は夜が明ける間際まで、あの人のことを思いつつ、寝ようにも寝られなくて、起き明かしてしまったよ、長いこの夜を。
[反歌一]山の尾根をあじ鴨の群が騒がしく鳴きながら渡ってゆくけれど、私は寂しい。逢いたいあの人ではないから。
[反歌二]近江路の鳥籠の山には、いさや川という川が流れているという――その川の名のように、「いさや」、あの人はどうしているだろうか。私のことを思っているだろうか。当分逢えそうもなくて、そんなことを思いながら私は過ごすのだろう。

【語釈】[題詞]◇崗本天皇 明日香岡本宮を御所とした天皇。舒明天皇・斉明天皇のいずれかであるが、ここでは歌の用語(「君」は男性を指す場合が多い)などから斉明天皇と思われる。
[長歌]◇あぢ群 アヂはアジガモ。ガンカモ科の水鳥。
[反歌二]◇淡海道 近江路。近江国(今の滋賀県にあたる)を通る道。◇鳥籠の山 彦根市の丘陵。正法寺町の正法寺山かという。◇不知哉川 彦根市内を流れ、琵琶湖に注ぐ芹川の古名であろうという。「いさや」(さあ、どうだろうか)の意を掛ける。

【他出】[反歌一]袖中抄、古来風躰抄、色葉和難集
[反歌二]五代集歌枕、袖中抄、古来風躰抄、色葉和難集、歌枕名寄、夫木和歌抄

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十三
しきしまの 大和の国に 人さはに 満ちてはあれども 藤浪の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を

【主な派生歌】
秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れどさぶしも君にしあらねば(作者未詳[万葉]巻十)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月15日