京極為兼 きょうごくためかぬ(-ためかね) 建長六〜元弘二(1254-1332) 

藤原定家の曾孫。京極為教の庶子。母は西園寺家家司三善雅衡の娘。姉に為子がいる。二条家の俊言・為基、正親町家の公蔭を猶子とした。御子左家系図
少年期、祖父為家阿仏尼に歌道を学ぶ。弘安元年(1278)、百首歌を詠進。同年、右中将に任官。翌年父を失う。弘安三年、春宮熙仁親王(のちの伏見院)のもとに出仕し、信任を得て、歌道師範格となる。弘安八〜十年頃、歌論書「為兼卿和歌抄」を執筆。十年、伏見天皇が践祚すると、天皇・西園寺実兼の腹心として政界に進出、翌正応元年(1288)蔵人頭に補せられ、さらに権中納言に至った。永仁元年(1293)、元寇対策の公卿勅使として伊勢参宮。
永仁二年(1294)、伏見天皇により飛鳥井雅有・二条為世・九条隆博と共に勅撰集撰者に任命される。しかし、永仁四年(1296)、南都の騒乱に巻き込まれたものか権中納言を辞して籠居。同六年正月、南都の僧侶二名と共に六波羅に捕われ、三月、佐渡に配流された。乾元二年(1303)、赦免されてようやく帰京し、政界に返り咲くと共に持明院統歌壇を主導。延慶元年(1308)、持明院統の花園天皇が践祚、以後も引き続き寵臣として絶大な信頼を寄せられた。延慶三年(1310)、勅撰集撰進をめぐり二条為世と激しい論戦を展開する(延慶両卿訴陳状)。同年、権大納言に昇進。翌応長元年五月三日、為世を斥けて勅撰集単独撰集の命を受け、権大納言を辞して撰集に専念、正和元年(1312)、第十四代勅撰集『玉葉和歌集』として奏覧した。翌年、伏見院と共に出家し、法名蓮覚(のち静覚)を名のった。
正和四年四月、春日社参にあたり僣上の所行を示したところから実兼に忌諱されて再び失脚。翌年二月土佐に配流された。この時六十三歳。のち和泉・河内に移されるが、帰洛は許されないまま、元弘二年(1332)三月二十一日、河内で没した。享年七十九。
いわゆる京極派和歌の創始者にして主導者。続拾遺集初出。玉葉集には三十六首、風雅集には七十四首入り、勅撰入集は計百五十四首。

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岩佐美代子『京極派和歌の研究』所収の「京極為兼全歌集」より百首を抜萃した。題詠歌の題などは省略した。

  13首  7首  14首  9首  4首  13首  40首 計100首

鳥の音ものどけき山の朝あけに霞の色は春めきにけり(玉葉)

沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰(風雅)

思ひそめき四(よつ)の時には花の春はるのうちにも明けぼのの空(玉葉)

梅が香は枕にみちてうぐひすの声より明くる窓のしののめ(風雅)

梅の花くれなゐにほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる(玉葉)

霞みくるる夕日の空にふりそめて静かになれる宵の春雨(金玉歌合)

さびしさは花よいつかのながめして霞に暮るる春雨のそら(風雅)

春の夜の明くる光のうすにほひ霞の底ぞ花になりゆく(弘安八年四月歌合)

思ひやるなべての花の春の風このひともとの恨みのみかは(玉葉)

一しきり吹きみだしつる風はやみて誘はぬ花も長閑にぞ散る(風雅)

うちわたす宇治のわたりの夜深きに河音すみて月ぞかすめる(風雅)

暮春浦といふ事を

春のなごりながむる浦の夕なぎにこぎわかれゆく舟もうらめし(風雅)

弥生のつごもりの夜よみ侍りし

めぐりゆかば春にはまたも逢ふとても今日のこよひは後にしもあらじ(玉葉)

夏浅きみどりの木立庭遠み雨ふりしむる日ぐらしの宿(風雅)

月残るねざめの空の郭公さらにおき出てなごりをぞ聞く(玉葉)

松をはらふ風は裾野の草におちて夕立雲に雨きほふなり(風雅)

なる神の音ほのかなる夕立のくもる方より風ぞはげしき(新拾遺)

枝にもる朝日の影のすくなさに涼しさふかき竹のおくかな(玉葉)

河むかひ柳のあたり水みえて涼しきかげに鷺あそぶなり(金玉歌合)

あをみわたる芝生の色も涼しきは茅花さゆるぐ夏の夕暮(〃)

朝嵐の峰よりおろす大井河うきたる霧も流れてぞゆく(風雅)

露おもる小萩が末はなびきふして吹きかへす風に花ぞ色そふ(玉葉)

いづくより置くともしらぬ白露の暮るれば草のうへにみゆらん(〃)

あはれさもその色となき夕暮の尾花が末に秋ぞうかべる(風雅)

露の色真柴の風の夕げしき明日もやここにたへてながめん(玉葉)

月のぼる峯の秋風吹きぬらし麓の霧ぞ色くだりゆく(金玉歌合)

かなしさはなれゆくままの秋風に今いくたびのさても夕暮(弘安八年四月歌合)

いかなりし人のなさけか思ひ出るこしかた語れ秋の夜の月(玉葉)

秋ぞかはる月と空とはむかしにて世々へし影をさながらぞ見る(〃)

月の色も秋にそめなす風の夜のあはれうけとる松の音かな(風雅)

庭の虫は鳴きとまりぬる雨の夜のかべに音するきりぎりすかな(風雅)

野分たつ夕べの雲のあしはやみ時雨ににたる秋の村雨(風雅)

夢路まで夜半の時雨の慕ひきてさむる枕に音まさるなり(新拾遺)

心とめて草木の色もながめおかん面影にだに秋や残ると(玉葉)

秋の名残ながめし空の有明におもかげちかき冬の三日月(為兼卿家歌合)

とぢはてぬ水ひとすぢの道見えてあたりはこほる冬の山川(夫木抄)

さゆる日の時雨の後の夕山にうす雪ふりて空ぞ晴れゆく(玉葉)

閨のうへはつもれる雪に音もせでよこぎる霰窓たたくなり(〃)

吹きさゆる嵐のつての二声にまたは聞えぬあかつきの鐘(風雅)

ふり晴るる庭の霰はかたよりて色なる雲ぞ空に暮れゆく(〃)

雪ふりける日、日吉社へまうでけるに、山ふかくなるまま、風吹きあれて、行先もみえず雲立ちむかひ侍りければ

行さきは雪のふぶきにとぢこめて雲に分け入る志賀の山越え(風雅)

 

山おろしの梢の雪を吹くたびに一くもりする松の下陰(風雅)

暮るるまでしばしは払ふ竹の葉に風はよわりて雪ぞ降りしく(〃)

めにかけてくれぬといそぐ山もとの松のゆふ日の色ぞすくなき(風雅)

とまるべき宿をば月にあくがれて明日の道ゆく夜半の旅人(玉葉)

旅の空雨のふる日は暮れぬかと思ひて後もゆくぞ久しき(〃)

東へまかりける道にてよみ侍りける

たかせ山松の下道わけ行かば夕嵐吹きて逢ふ人もなし(風雅)

忘れずよ霞の間よりもる月のほのかに見てし夜半の面かげ(続拾遺)

さらにまた包みまさると聞くからにうき恋しさも言はずなる頃(玉葉)

恨み慕ふ人いかなれやそれは猶あひみて後のうれへなるらん(〃)

人もつつみ我もかさねて問ひがたみたのめし夜半はただ更けぞゆく(〃)

待つことの心にすすむ今日の日は暮れじとすれやあまり久しき(〃)

問はむしも今はうしやの明けがたも待たれずはなき月の夜すがら(〃)

来ずも来ず頼まじ待たじ忘れむと思ひながらも月にながめて(金玉歌合)

時のまも我に心のいかがなるとただ常にこそ問はまほしけれ(玉葉)

初時雨思ひそめてもいたづらに槙の下葉の色ぞつれなき(風雅)

夜かれそむる寝待ちの月のつらさより二十日の影もまたや隔てん(〃)

物思ふ心の色にそめられて目に見る雲も人や恋しき(〃)

いかがせんまだ夜ぞふかき鐘の音に名残つきせぬ暁の空(新千載)

はかなくぞありし別れのあかつきも是をかぎりと思はざりける(〃)

 

ふけゆけば千里の外もしづまりて月にすみぬる夜のけしきかな(弘安八年四月歌合)

 

さびしさもしばしは思ひ忍べどもなほ松風のうすくれの空(〃)

 

及びがたく高きすがたをあらはして山といふ名はありはじめけり(夫木抄)

 

暮れかかる遠山すがたあはれなり雲のたちなすままにのみして(〃)

 

浪のうへにうつる夕日の影はあれど遠つ小島は色暮れにけり(玉葉)

 

山風は垣ほの竹に吹きすてて嶺の松よりまたひびくなり(〃)

 

暮れぬとてながめ捨つべき名残かはかすめる末の春の山の端(風雅)

 

もりうつる谷に一すぢ日影見えて峰もふもとも松の夕風(〃)

 

大空にあまねくおほふ雲の心国土うるほふ雨くだすなり(〃)

 

大井河はるかにみゆる橋のうへに行く人すこし雨の夕暮(〃)

 

暮れぬるか遠つ高嶺は空に消えて近き林のうすくなりゆく(夫木抄)

 

降りよわりまた降りまさり夜もすがらたゆまぬ雨の音に明けぬる(金玉歌合)

 

影うつす夕日のなごり海晴れてなほ里みゆる遠方(をちかた)の里(連歌選集)

 

いさり舟またほのかにも見えくるは風にむかひの漕ぎ帰りけり(〃)

 

朝嵐雲吹きはらふ海晴れて麓の市に人いそぐなり(〃)

 

立ちかへり人まちがほに響くなり遠山寺の木隠れの鐘(〃)

 

暮れがたき春の霞も秋の日のさびしき色もなさけをぞ見る(三十番歌合)

 

夜の雨のなごりの花も色々の千草の庭もめかれやはする(〃)

 

野辺遠き霧の夕べもうす雪の枯野の原も心ありけり(〃)

 

つかへこし世々のながれを思ふにも我が身にたのむ関の藤河(続拾遺)

永仁二年三月、大江貞秀、蔵人になりて慶を奏しけるを見て、宗秀がもとに申しつかはしける

めづらしき緑の袖も雲のうへの花に色そふ春の一しほ(風雅)

さることありて佐渡といふ国へまかり侍る時よめる

とどめえぬ身をうき草のとばかりも思ほえずゆく水の白波(後集)

 

荒海のいかなる魚の餌(ゑ)ぞと身をなさばや思ふ頃も忍びし(〃)

為兼の佐渡配流は永仁六年(1298)三月。

 

都をばさすらひ出でて今宵しもうきに名立の月を見るかな(佐渡志)

 

年を経てつもりし越のみづうみは五月雨山の森の雫か(〃)

 

なさけなき身をば限りつほどもなく別れを告ぐる夏の夕風(大納言入道遠所詠歌)

 

あだなりと形見ばかりぞ空蝉の空しき空にとまるうつり香(大納言入道遠所詠歌)

 

露消えし紅葉のかげにあくがれて立ちまふ袖に時雨をぞ待つ(大納言入道遠所詠歌)

 

嵐吹く宿の花の枝むらむらにつもれる露の雪かとぞ見し(〃)

 

見し人にあふ日なみだのふる里は夕の雨をかたみとは見つ(〃)

 

峯の色たもとにまがふ薄雲や消えぬる人のなごりなるらむ(〃)

 

道絶えて立ち出でむ空もなかりけり夕霧深き小野の山べに(〃)

 

ほのぼのとまよふ軒端のかげろふの常なき世をばありとや思ふ(〃)

 

とふ人も涙かきやる手習を昔の友に思ふばかりか(〃)

 

来し方の恋しきうちに恋しきはとよのあかりを月に見し頃(為兼卿家歌合)

うれふる事侍りし頃

もの思ひに消(け)なば消ぬべき露の身をあらくな吹きそ秋の木枯し(玉葉)

般若心経の畢竟空の心を

むなしきをきはめ畢(をは)りてそのうへに世を常なりとまたみつるかな(玉葉)

 

あふぎても頼みぞなるるいにしへの風を残せる住吉の松(風雅)

 

思ひみる心のままに言の葉のゆたかにかなふ時ぞうれしき(金玉歌合)

 

種となる人の心のいつもあらば昔におよべやまとことのは (金玉歌合)

【通釈】歌の種となる人の心が常にあるのであれば、その心がそのままに溢れ出た歌を詠んだ昔の時代に追いつけ、和歌の道よ。

【語釈】◇種となる人の心 古今集仮名序の「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」に拠る。為兼は「心のままに詞のにほひゆく」(『為兼卿和歌抄』)さまを歌の理想としたので、「種」となる「心」が変わらずあるならば、昔のように「心のままに詞のにほ」ふ歌を作るべきだとしたのである。◇昔におよべ 為兼は歌論書『為兼卿和歌抄』で藤原定家の『近代秀歌』を踏まえ「鎌倉右府将軍に歌の道を授け申すにも、寛平以往の歌に立ち並ばむと詠むべきよしを申す」と書いているので、掲出歌の「昔におよべ」は「寛平以往の歌に立ち並ばむと詠むべき」と同じことを言っていると思われる。堅苦しい歌病を定め、感動を伴わない題詠が盛行した時代より以前、すなわち古今集読人不知時代・六歌仙時代・万葉時代を指して「昔」と言ったのであろう。

【補記】嘉元元年(1303)以後、伏見院と為兼の歌を結番した歌合「金玉歌合」の最後の番である六十番右。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年05月17日