その他の函館周辺の台場

 いくつかの文書や資料に記録されていた台場を掲載してあります。所在地を特定できないものもかなりありますが、これらについても順次調べてみたいと思っています。

目次
(1)『箱館戦争史料集』収録文書に出てくる台場
(2)『楠見日記』に出てくる台場
(3)『大野町史』に出てくる台場
(4)ゴロウニン『日本俘虜実記』に出てくる要塞・台場
(5)その他


(1)『箱館戦争史料集』収録文書に出てくる台場
概説 新人物往来社刊行の『箱館戦争史料集』には箱館戦争を記述した15編の史料が集められている。その内容の正確さや真偽までは判定できないが、資料のひとつとしてこれらの文書に出てくる台場の名称と掲載頁をピックアップしてみた。

文書名台場の名称記載頁記事
新開調記尻沢辺台場15しりさわべだいばまたはしさびだいば。「尻沢辺台場 大炮方 三人 士官隊 五人」と記載されている。因みに「弁天台場」については「大炮方 三拾人 新兵 弐拾人」と記載されている。尻沢辺の地名から推測するに「立待岬台場」に近いが、それとは別物らしい。私としては(そこを尻沢辺と呼んでもよいのならば)住吉漁港の裏の段丘あたりに設置したいところなのだが。
東風泊奥台場19やませどまりおくだいば。「山背泊台場」は二所あったとどこかで読んだ記憶がある。文政4(1821)年『箱館市中細絵図』には山背泊に「大筒場」が一ヶ所描かれているが、天保(1830〜1844)初期の箱館図には、山背泊集落の東と西に「砲台」南部家持場および「砲台」ナンブ持場として2ヶ所に描かれている。東側が山背泊台場、西側が山背泊奥台場ということらしい。
広野台場21「茂辺地、矢不来での戦闘に関連して出てくるのでこれは函館ではなく上磯地内かもしれない。」と言っていたら、上磯のOさんが「松浦武四郎の『蝦夷日誌』に富川村と三ツ谷村の間に曠野という地名のあったことが記載されている」ことを教えてくれた。やった!あとは曠野の範囲を特定して台場の場所を推定できればよい。
亀田川尻台場23川尻とは河口のことだから、河口付近にあった台場ということだろう。亀田川の河口はもともとは現在の万代陸橋付近にあったが、安政6(1859)年11月には願乗寺川として延長され現在の赤レンガ倉庫付近に移った。さらに、明治21(1888)年には新川となって現在の大森公園脇に河口を移した。『箱館から函館へ』という古地図集によると、願乗寺川が開通した後も少なくとも昭和6(1931)年の地図までは旧亀田川は残っていたように描かれている。したがって、明治2(1869)年の箱館戦争時点に現在の万代陸橋付近に台場があったとしてもおかしくはなさそうだし、この付近にあったと考えるのが妥当だろう。
築島台場23築島は高田屋嘉兵衛、弟金兵衛の活躍した時代、享和3(1803)年に築かれた。文政4(1821)年の古地図との比較によると、現在の豊川町、金森倉庫、ホテルシーボーン、漁連ビル付近に相当する。市立函館図書館には実際には造られなかった『箱館築島御台場絵図面』が残っている。「弁天台場」クラスのものは造られなかったとしても簡単な砲台はあったのでしょう。事実、漁連ビル建設中に大砲が見つかっている。
大森浜台場24大森浜の範囲はかなり広いが、根崎まで入るのであれば「根崎台場」の可能性もと考えたが、ある方に「せいぜいその手前の松倉川までだろう」と指摘していただいた。そして「大森稲荷の場所と言いたいところだが何の確証もないんです」とも言われた。大鳥圭介の『南柯紀行』にも「旧臘中(明治元年12月)ブリュネ工兵士官と共に大森浜の砲台を見立、且峠下森辺まで行きて、諸砲台を巡見せり。」と書かれている。大森稲荷の向かい側大森公園付近とも。
箱館軍記有川村台場39「賊徒ニハ弁天台場始有川村台場より箱館沖之口迄ニ十七ケ所有之」
説夢録折戸の台場67,68「折戸三所の台場」、「折戸を始め海岸五ケ所の台場」。折戸には3ヶ所に台場があり、「折戸浜砲台」と「立石野(建石野)台場」はその内の一つということか?
一本木台場72「一本木関門の辺海岸に砲台を築き」
衝鋒隊戦争略記鷲ノ木ニ砲台二ヶ所
掛間、沙原ニ砲台三ヶ所
臼尻、河汲ハ五ヶ所ニ砲台など
81我衝鋒隊ハ箱館裏手ヲ守、
鷲ノ木ニ砲台ヲ二ケ所ニ築テ、天野新太郎中隊ヲ率テ戍。
尾白内ニ秋山繁松一小隊ヲ率テ戍。
掛間、沙原ニハ砲台三ケ所ニ築、永井蠖伸斎中隊ヲ率テ戍。
鹿部、熊泊ニハ友野栄之助小隊ヲ率テ戍。
臼尻、河汲ハ笘館ノ裏道ニテ尤要所ナレハ五ケ所ニ砲台を築、今井信郎中隊ヲ率テ戍。

 鷲ノ木ニ砲台ヲ二ケ所=石川原沢口台場湯ノ崎台場 尾白内=高森台場 掛間、沙原ニハ砲台三ケ所=彦澗台場会所町台場(または会所町B台場)、四軒町台場 鹿部=鹿部台場ノ嶺 熊泊=大船 臼尻、河汲ハ五ケ所ニ砲台=川汲台場浜台場(仮称)川汲山道台場など。臼尻は漁港付近か?あと一つは不明。
遊撃隊起終録枝ケ崎台場112あるいは、板ケ崎台場。本文ではなく注(23)に書かれている。
生府台場112本文ではなく注(23)に書かれている。
折戸台場112本文ではなく注(23)に書かれている。「折戸台場は現在の折戸海岸の山手側(字建石)」
立石野台場112本文ではなく注(23)に書かれている。
根森台場112本文ではなく注(23)に書かれている。
峠下ヨリ戦争之記濁川村陣屋101濁川村と清水村が合併して現在の上磯町字清川になった。清川に近い野崎にある「戸切地陣屋」のことだと思われる。
蝦夷錦根森台場204,220「根森ト云処ノ台場ヨリ頻ニ大砲ヲ打出スヲ」
折戸台場219,220 
枝ケ崎台場220 
及部台場220位置的に近い「根森砲台」または「寅向砲台」のことか?
立石野台場220 
富川台場225 
関門口の砲台227「関門口」という場所ではなく函館湾ののど元を守るため箱館側の弁天山背泊押付の台場と相対して設置された「矢不来台場」のことではないかという説を聞いた
立待台場233「此ノ時、立待台場ニテハ尻沢辺ニ廻リタル陽春艦ヲ見テ大砲二、三発放チシガ」
箱館戦記茶屋峠台場285「此峠(市の渡と福島の間の峠)尤嶮ニシテ砲台ニ巨砲ヲ備フト雖、」


(2)『楠見日記』に出てくる台場
概説 蝦夷地を制圧した榎本軍は急いで防備の態勢を協議し、現存する松前藩、幕領体制からの会所、陣屋、台場のほかに、要地にそれぞれ台場の構築を画策した。弘前藩士の日記『楠見日記』明治2年2月23日の記録(『南茅部町史』、『鹿部町史』、『大野町史』などに掲載)には榎本軍が構築したいくつかの台場の場所が記されている。

一、峠下ニ台場1ケ所、七重浜ならびにシカベ越路江1ケ所
一、カックミ峠絶頂江1ケ所、大沼小沼の間へ1ケ所
一、新峠江関門出来
一、森村と大平内(尾白内)之間ニ台場1ケ所
一、森村江居候人、数十人位
一、鷲ノ木江八十人位、大将ハ古屋左久左衛門
一、峠下フランス人入交三十人位

町名所在地台場の名称記事
七飯町峠下峠下台場七飯台場」のこと。
大沼小沼の間(仮称)大沼小沼台場今のところ不明。現在は大沼・小沼と分けて呼ばれているがかつては両方会わせて大沼と呼ばれ、現在の蓴菜(じゅんさい)沼が小沼と呼ばれていたそうだ。そうすると、「大沼小沼の間」が指す位置が現在とは違ってきて、JR大沼公園駅付近ではなく、小沼と蓴菜沼の間つまり、日暮山(ひぐらしやま)辺りにあった可能性が出てくる。
新峠新峠関門現在のところ不明だが、七飯台場(峠下台場)を通る旧道の古峠に対して新峠(JR函館本線貨物線トンネル上)もあることから、そこにも関所を設けたことが考えられる。
上磯町七重浜七重浜台場 
鹿部町シカベ越路鹿部台場鹿部台場の嶺」のことか
南茅部町カツクミ峠絶頂川汲台場 
森町森村と大平内(尾白内)之間高森台場 


(3)『大野町史』に出てくる台場
概説 『大野町史』p153には榎本軍の高級幹部がつねに来て、神社の拝殿や小川の沢村家で地図をひろげては相談にふけったことが書かれている。

古屋作左衛門は一個中隊を率いて森に砲台3ケ所を、
天野新太郎は、一個中隊を率いて鷲ノ木に保塁2ケ所を、
永井蠖伸斎は、一個中隊を率いて砂原に砲台3ケ所を、
今井信郎、浅井陽らは臼尻・川汲などに砲台5ケ所と、その他の要所に監守所などをそれぞれに構築した。

 引用元は不明だが、『衝鋒隊戦争略記』(『箱館戦争史料集』p81)の記述と共通する部分と相違する部分がある。

町名所在地防備内容推定される台場
森町砲台3ケ所高森台場石川原沢口台場湯ノ崎台場
鷲ノ木保塁2ケ所石川原沢口台場湯ノ崎台場。上記「森」との記載の重複があるようだ。
砂原町砂原砲台3ケ所彦澗台場会所町台場(または会所町B台場)、四軒町台場あたりを指すと思われる
南茅部町臼尻・川汲など砲台5ケ所川汲台場浜台場(仮称)川汲山道台場以外は不明だが、臼尻漁港後背部台地や漁港先端部の弁天岬などは候補地に挙げられると思う。


(4)ゴロウニン『日本俘虜実記』に出てくる要塞・台場
概説 『日本俘虜実記』は文化8(1811)年から文化10年にかけて蝦夷地で起きたロシア艦隊ディアナ号艦長ゴロウニン以下7名の捕虜監禁事件(いわゆるゴロウニン事件)のゴロウニンによる回想録。国後島で捕虜となり、箱館からさらに松前へ護送されてそこで幽閉され、2年3ヶ月後に釈放されるまでに蝦夷地で見聞しまた出会った人々や文化についてを冷静かつ偏見の少ない眼で記述している。

 ここでは講談社学術文庫 ゴロウニン『日本俘虜実記(上・下)』(徳力真太郎訳)をもとに要塞・台場に関する記述だけを抜き出してみた。

記載頁推定される施設内容
上巻54得撫(ウルップ)島?の要塞「日本側は振別(ウルピッチ)に大砲数門を備え付けていて、ロシアの軍艦が現れたら砲撃するようです」
64〜65国後島の要塞国後島の湾。要塞は白と黒、または白と濃紺の広い幅の縞模様の幔幕を張りめぐらしてある。要塞の内部は山の斜面になっているので土塁の中に数棟の建物が見えた。
83〜84国後島の要塞やがて私たちは要塞に案内された。鉄砲や弓矢や槍で武装している兵卒だけでも三、四百人はいた。
89国後島の要塞国後島南端部、背信湾平面図
143箱館奉行所?やがて行列は道路から左にそれて、丘の上の土塁と柵をめぐらした城に向かって行った。中庭の正面には門の方に向かって出来の悪い両輪の砲架に一門の銅製の大砲が据えてあった。
144〜145箱館奉行所?私が入った建物の半分は天井も床もなく、広間というよりはむしろ納屋のようであった。門に近い方のこの半分は床板はなく、地面に砂利が敷き詰めてあって、奥の方の半分は地面から3フィートばかりも高く床があって、大変奇麗に作った藁のマットが敷き詰めてあった。床の高い桟敷の間の右側には、鉄枷、縄その他罪人の責道具が壁一面に掛けてあった。ここは拷問所に相違ないと思った。
197矢不来台場箱館市のある半島の真向かいまで行った所で山に登った。山には砲台があって、湾口を守るためらしいが、その砲台が山のあまりにも高い所に築いてあり、湾口も非常に広いため、この目的にはあまり適していないように見えた。砲台は低い土塁で構築され、その内側に砲座の上に小口径の青銅製の大砲が三、四門、2輪砲架の上に据えてあった。
204〜205松前奉行所我々は城というか要塞というか、その南門まで連れて行かれたが、その道筋は谷間に臨んだ城壁と谷の間を通り、獄舎から城門までは4分の1露里(約250m)の距離であった。
下巻207箱館湾岸の砲台この度箱館の町に入るとき湾岸の所々に新たに構築された砲台や兵舎をあちこちに見たことを思い出したためか、
2891813年に構築された要塞「1813年スループ艦ディアナ号が寄港した箱館港平面図」には箱館湾沿いの5つの川の河口にそれぞれ1ヶ所づつ要塞が描かれている。地図がデフォルメされていること、その後河道や河口の位置が幾度か付け替えられていることを念頭に、当時の河口の位置を記している古絵図を参考にして5つの河川を亀田川、常磐川、有川、戸切地川、流渓川と推測した。したがって、ゴロウニンの見た各河口付近の要塞とは、亀田川-->亀田川尻台場、常磐川-->七重浜台場、流渓川-->広野台場のことだったのかもしれない。


(5)その他
概説『函館お散歩団』としては未確認のため今後調査をしたいその他の台場をここに掲載しておく。

市町村名台場の名称所在地記事
知内町涌元砲台涌元市街地道南十二館のひとつ「脇本館」を調べているときに耳にした情報によると、ここにも砲台があったらしい。
戸井町汐首台場戸井町函館市立博物館五稜郭分館平成12年度特別展図録『五稜郭』に、出展は分からないが「松前藩は松前に6箇所、箱館に4箇所、江差・白神・吉岡・矢不来・汐首に台場を設けます」とあり、汐首に設置されていたらしいのだが、戸井町では未確認。戸井役場周辺に点在する明治時代の砲台関連施設と場所的に重なっているのかもしれない。場所的には役場西側の砲台山といわれる第2砲台などがあやしい。あるいは戸井町汐首町の汐首岬付近かもしれない(『幕末海防史の研究』)。
松前町支根李台場『道南地方の台場跡一覧』より
威遠館『道南地方の台場跡一覧』より
建石野砲台西郊嘉永3(1850)年。『北門史綱』より。立石野砲台とも。(『松前町史資料編第1巻』収録)より。建(立)石野砲台と折戸浜砲台の関係がまだ不明。
福山陣屋東車台『天保十五(1844)年警備状況』より。
福山陣屋西台場『天保十五(1844)年警備状況』より。
唐津内上町台場『天保十五(1844)年警備状況』より。西館砲台に相当か?
馬形町車台場『天保十五(1844)年警備状況』より。「馬方砲台」のことと思われる「馬形明神前台場」は記載されているのでこれとは別にあったのだろう。