弁天台場

概説 箱館開港と同時に外圧に備えるため、安政3(1856)年から7年の歳月を費やし海面を埋め立て、石垣を築いた。設計監督は五稜郭と同じ武田斐三郎。この台場も箱館戦争の内乱の場となり、明治2(1869)年5月11日、官軍の奇襲攻撃に敗れた旧幕軍市中警備の兵が台場に入り込んだため、給水、食糧に窮し、五稜郭にさきがけて5月15日に降伏した。明治29(1896)年港湾改良工事のため取り壊された。また、函館市神山町にある無量庵大円寺の無縁塚は五稜郭築城工事中に死亡した人たちを供養するために棟梁喜三郎一同が建てた。喜三郎とは弁天台場と五稜郭の石垣工事を担当した備前の国二代目井上喜三郎のことで、江戸湾お台場の石垣工事を担当した初代喜三郎は弁天台場の石垣が工事中に崩壊した責任を取り、自決したといわれる。[はこだて歴史散歩P73より抜粋]
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 弁天台場の取り壊しは上記のように明治29年というのが定説ですが、明治31年頃まではかろうじて形が残っていたという証拠写真があることを最近知りました。それは「土木学会付属土木図書館」のホームページから、「デジタルアーカイブス」→「■土木学会初代会長古市公威旧蔵写真館」→「●旧蔵写真館」→「5.明治の港湾建設−函館港」と辿って行けば見ることができます。すばらしい史料です。(情報をくれた「幕末城郭台場考」のT.Yoさん、ありがとうございます)
弁天台場の位置を輪郭線で示しました(函館山山頂から)
その他の写真
  1. 函館どっく正門前の木碑(ほぼ台場の中心部に当たる)
  2. 函館漁港は弁天台場の生まれ変わり。台場の石垣石は函館漁港舟入澗岸壁の石垣に、そして台場アゴ石は函館港改良工事紀念碑として再利用されている
訪問記[2001/06/11]市電の終点「函館どっく前」横にある児童公園に弁天台場の説明板はあるが、ここは外枡形の西角に当たる。実際に台場があったのはその北側の道路から函館どっくよりの場所。函館どっく入口に木碑があるが、ここはおおよそ台場の中央部に当たる。
[2001/08/20]今日は函館山からの眺めを楽しんだ。
[2003/06/23]函館港改良工事紀念碑や函館漁港の舟入澗岸壁は台場の石垣が転用されているとのことだ。函館漁港は弁天台場の生まれ変わりだと思うと漁港の風景もまた格別。以前函館山頂上から撮した俯瞰写真に弁天台場の位置を輪郭線で入れてみた。右下へ飛び出しているのは虎口と外枡形部分。
[2003/08/25]弁天台場で使われていたと伝えられるトイレが上磯町追分の個人宅へ移築され現存していたが、残念ながら昨年取り壊されたそうだ。かつて見たことのある人の話によると、総桧造りで大便所の扉などは一枚板の立派なものでノブは陶器製だったそうだ。上磯町の戸切地陣屋大手門近くにあったトイレはこれのレプリカだったそうだが、そういえば数年前にこのトイレも無くなっていた。レプリカ作るくらいなら本物を保存すればよいのに。
所在地函館市入舟町。市電の終点「函館どっく前」で降り、その先の道を右へ行けば函館どっく正門へ行ける。正門手前に木碑がある。道を左へ進み突き当たりまで行くと函館港改良工事紀念碑がある。
参考書『はこだて歴史散歩』、『箱館から函館へ』、『道程(みちのり)ー上磯町史写真集ー』、『上磯町歴史散歩』