富川塁

概説 箱館戦争の時、大野町二股台場と並ぶ激戦地の一つ。今は二重構造の土塁と砲座が残されている。[『はこだて歴史散歩』P253より]
 当地はその昔下国氏あるいは三ツ谷(三好)飛川(富川)の領主蠣崎三弥の築いた館跡であると伝えられている。現在の遺構は箱館戦争の際幕府脱走軍が矢不来台場の前進基地として築いた。[出典不明]
 由来伝説:上磯町役場の報告によれば往昔下国氏の築造せし所なりと云ひ一説には蝦夷時代の「チャシ」ならんと云う。又後の報告に拠れば蠣崎三弥の館跡の由なり然れども其遺跡の状態より察すれば明治2年の春幕府脱走軍が西方より来る官軍並に海上の攻撃を防がん為め築きしものにあらざる歟、尚調査を要す。[河野常吉『北海道史蹟名勝天然紀念物調査報告書(大正13年)』より]
富川八幡宮。裏の杉林の中に土塁が残り、旧福山街道が通る。
その他の写真
  1. 左手に二重構造の土塁
  2. 湮滅途上の土塁を内側から見る。明らかに地山とは異なる土が人工的に盛られている。この風景も函館・江差道が通り湮滅予定
  3. 林の中の土塁・堀跡は粘土採取場跡か?
  4. 砲座跡の土盛りは煉瓦工場の窯として再利用された
  5. 塁を区画するかのような堀・土塁
訪問記[2000/07/23]富川八幡宮側から登り、脇を掠めてしばらく行ったが二重構造の土塁や砲座などはよく分からなかった。
[2001/07/30]地元の郷土史研究家のOさんに案内していただき二段構え(外が低く、内が高い)の土塁を見た。砲座の海よりの部分は国道整備の法面工事で失われたが手前部分は残っているとのこと。天候が悪く今日は確認できなかった。
[2003/07/21]函館・江差道工事のための事前調査(道立埋蔵文化財センター)が10月まで行われている。縄文時代の館野遺跡の調査ということで、箱館戦争時代の土塁や砲座跡、中世遺構については調査の範囲外らしい。茂辺地に開拓使の煉瓦工場があった頃この地には民間の煉瓦工場があったそうで、砲座跡と思われていた盛り土部分も煉瓦工場の窯跡の可能性があるらしい。林の中に土塁・堀かと思われる意味不明の人工地形があったが、これも粘土採取場の跡じゃないでしょうかと聞いてがっかり。ただ、今回の発掘調査では青磁片が出土しており中世遺構が重なっている可能性もいまの時点では否定はできないと思う。そもそも「館野」なんていう地名が怪しくないか。鉛の鉄砲玉も見つかっているそうだ。青磁や鉄砲玉が出ている場所が単に縄文遺跡で済まされてしまって良いのでしょうか!?素人がいくらぼやいても残念ながら函館・江差道工事によって二重構造の土塁が間もなく失われることは確かなようです。
[2003/08/25]上磯のOさんと富川塁の最後の姿にお別れを言いに行った。雨の中、函館・江差道工事が行われていた。二重構造の土塁も風前の灯火だ。これが最後の写真になるかもしれない。土塁の内側は工事で削られ土層が見え、明らかに人工的に盛られたものであることが分かる。分かったときには湮滅が間近だ。海岸側の崖上へ出て、そこから南へ約100mほど行った右手の盛り上がりが砲座跡。雑草に覆われているが断面付近には煉瓦の破片が散乱している。砲座の土盛り部分を煉瓦窯に再利用したのだとOさんは言う。[その後の情報]土塁本体部分は辛うじて完全湮滅は免れそうだ。(2003/09/08)
[2004/08/01]6月末にストーンサークルが見つかったということだったので見に行ったが日曜日で調査はお休みのためブルーシートが掛けられていて確認できず。昨年削られていた北側の塁断面(写真2の部分)には土が掛けられていて人工物の確認は出来なくなっていた。塁の北側から東側へ廻る堀・土塁を林の中に確認しておいた。地目境の「境界堀」という説もあるそうだが、この周辺の他の地目界には類似の堀・土塁はまったく見つかっていないそうだ。
所在地北海道渡島支庁上磯町富川館野。富川八幡宮本殿の裏の松林の中とその南側の館野地区。富川八幡宮の前の道を上っていき、塵芥処理センター向かい側を海側へ入っていくと二重構造の土塁がある。
参考書『はこだて歴史散歩』、河野常吉『北海道史蹟名勝天然紀念物調査報告書』