zyuyoubunkazai of 倉橋島のお宝

桂浜

katura2.jpg

日本の白砂青松100選日本の渚百選に選ばれた桂浜の紹介元祖桂浜は広島にあり 弓形の美しい海岸線を持ち、月の名 所として知られる土佐の高知の桂浜。見ませ(御畳瀬)見せましょ裏戸(浦戸) 月の名所は桂浜---と、歌にも歌われた 天下の景勝地だが、広島の桂浜は、 高知の桂浜よりもっと古く、 万葉の昔から天下の景勝地として知られていた。 万葉集十五に残る遺新羅使が 詠んだ歌の中の..安芸国長門島船泊..は 安芸郡倉橋町(倉橋島)の桂浜だとされ、 「我が命長戸の島の小松原、 幾代を経てか神さびわたる」という万葉歌 が刻まれた碑がたてられている。 高知の桂浜が登場するのは南北朝鮮時代 の建武3年(1336年)。 四国を制覇した長宗我部氏の居城、 浦戸城が桂浜にたてられてからである。 ふたつの浜の美しさは比べようもないが、 歴史では広島の桂浜が元祖かな。桂浜神社の由緒書によると、 この浦を桂の浜と申すこと、石上ふるき世は万葉かつらの這あへれば、蔓の浜と申ししを海漫々として山遥かに、月の眺めの面白ければとて、桂の浜と申すなりとある。

所在地 呉市倉橋町本浦

我が国最初の西洋式ドック

P1020035.jpg

このドックは、江戸時代享和年間(1801-1803)に入江を開削して造った我が国最初の西洋式ドックで,当時はトックといっていた。倉橋島は瀬戸内海の一小島で。内海航路の要衝の地であったため、原始・古代の1700年位前の遠い昔から良い船を造る所として、知られていました。神功皇后の朝鮮出兵の軍船や、遣唐使船の建造などはその例である。

江戸時代になって、幕府による鎖国政策のため、国内の産業、交通が著しく発達し、そのために船の利用が盛んとなり、我が倉橋島の造船業は元禄時代(1688年頃)から、とみに栄えた。ところが江戸時代も中期の1700年代には天災や飢饉等により、世の中が不況となり、物の往来が途絶え、倉橋島の造船業もまた不況となった。

これを何とか克服しようとして、怒和屋半三郎等が中心となり(1801ー1803)年にこの桂濱の入江を開削して、経営の合理化を図った。そのため文化・文政時代(1804-1829)年には今迄になく隆盛となり、倉橋千軒・宮島千軒・尾道千軒といわれる程その繁栄を競った。

天保年間(1830-1843)年に入り、また全国的な天災・飢饉に見舞われ、再び造船不況となり、(ドック)を改修し、その使用料を徴収する制度を設けた。幕末から明治維新後、西洋形船舶の需要が多く、そのため和船の建造は少なくなった。

明治十五年頃国内留学して西洋形船舶の造船技術を学んできた大工を帰還させて、不完全な(ドック)を修築し(宝来船渠)を設立して、この(ドック)で西洋形船舶の建造や修理にあたつた。

所在地 呉市倉橋町本浦

丸子山城(多賀谷城)跡

maruko11.jpg

文化財的価値
中世における多賀谷城主の倉橋島支配の治世・戦略的意義が、瀬戸内海の単なる芸予を扼する小地域的な支配の根拠地としてのみならず、倉橋島が古代から中世・近世に至る永い日本の歴史の中で政治・軍船建造の技術・交通の要衝として、瀬戸内海全域はおろか、日本全土に波及する重要な地歩を占める拠点であつたことを識る上で貴重な遺跡である。

所在地 呉市倉橋町本浦

明治天皇の御前水の記念碑

meizitennou.jpg

新しい御世を宣伝するため全国巡幸の一環で、1885年、広島を巡幸し、建設中の宇品港から呉(広島の陸軍より先に呉の海軍鎮守府設置が決定されていたー1884年用地買収開始、工事開始は翌年、1889年開庁)、倉橋島を視察したのを記念して、1934年建てられたものです。
1867年が明治維新。庶民はまだ「天皇」って何者かさえ知らず、幕藩体制の「お殿さま」の方が偉いと思い込んでいました。維新の元勲たちは、これでは「富国強兵」もおぼつかない、と苛立ち、何も知らないまだ若い明治天皇を全国津々浦々を回らせたもので、その一環のものです。 「天皇制国家」が一挙に庶民の間に浸透するには、もう9年先の日清戦争勝利まで待たねばなりませんでした。

所在地  呉市倉橋町本浦                      

だんだんばたけのピラミッド

第6回美しい日本のむら景観コンテストで農林大臣賞に選ばれた
だんだんばたけのピラミッド

danndann.jpg

鹿島の段々畑は、江戸時代末期から明治初期まで永々と築き上げられた。その石垣はまるでピラミッドのようである。 角張った石、丸い石と様々な石で構成され、中には貝殻のついたものも見られることから、 海からも石を運び上げたと思われる。現在は温暖な気候を利用した早出しタマネギやジャガイモ、みかん、ブロッコリー、 キャベツなどが栽培され、ピラミッドを飾り付けているようである。

追記

「倉橋島から移り住み、私らで五代目と聞いてます」と石中さん。最初は斜面を削るだけだったが、雨などで崩れるため、石で補強。土中から石が出れば砕き、海岸からも石を担ぎ上げた。かつては子どもも駆り出された。一足早い出荷、段々畑は過酷な労働を強いる。が「恩恵もあるんよ」。石中さんの畑は海辺の南向き斜面。階段状だから日光がよく当たる。石が温められ、保温効果で霜が降りることもめったにない。海面の照り返しも手伝う。タマネギやジャガイモの出荷は近隣産地より一カ月早い。天然の温室だ。

鹿島の段々畑を見て思う

人間生活と自然とのすばらしい調和。土地に対する深い愛情。先祖代々受け継がれてきた日本人の美しい心。営々と耕して天に至る、血のにじむ苦労から生まれた豊かな経験。自然とともに生きる知恵。自然の恵み、大地の生命を、一粒も余さず感謝・喜びとともにいただく食の論理。

    参考資料 美しい農の時代・耕す文化の複権より
所在地 呉市倉橋町鹿島