フリーマンの随想

その66. 大塚国際美術館


* その美しさ、技術、職人技、執念に感動 *

(APR. 30. 2005)

********

 4月上旬「 大塚国際美術館 」 に行ってきました。  在米中に親しくなった大塚製薬の創業者一族の大塚潤也氏の招きで、 97年に徳島市の大塚化学に講演に行った ( そのとき美術館はまだ建設中でした ) のがきっかけで、この美術館を知り、 以来、見学は今度で3回目です。

 この大塚国際美術館の凄さは、行った人でないと到底分からないと思います。 「 結局は模写じゃないか 」、「 それも、油絵ではなく陶板じゃないか 」 と、 誰しも思うでしょうが、現場に立てば、その原寸大の ( 時には一辺が10m以上もある ) 迫力、美しさ、精巧さには、ただただ圧倒されるばかりです。  美術全集の数十cm四方程度の小さな印刷など、比較にもなりません。 ( 額縁も、オリジナルと同じ材料で同じデザインで作られているとか )

 6名の高名な美術史家が厳選した古代壁画や、 世界25カ国の190あまりの美術館が所蔵する泰西名画、計1074点すべての精巧きわまる複製を原寸大で見られるだけでなく、 指で触ることもフラッシュで撮影することも出来ます ( これは陶板であるおかげです )。  凄いのは、壁画、天井画などは洞窟や建物まで原寸通りに再現してしまっていることです。  その洞窟に入り込んで調査しているような錯覚に襲われます。  あのシスティーナ礼拝堂も、数年前実際に訪れたときは、たいへんな雑踏の中で、押されよろめきながらの束の間の見学でしたが、 ここでは、誰もいない静けさの中、原寸大の大広間の真ん中で椅子に座り、上を仰ぎながら10分でも20分でも堪能できるのです。

 そう、ときたま日本の大都市の美術館で開かれる泰西名画の展覧会では、物凄い雑踏と人いきれの中、人垣の背後から背伸びして、 ヘトヘトになって一回りしますね。 ところがここは、土地柄かいつも空いているので、誰も回りにいない中、 至近距離から、そして離れて、静寂の中、一作品につき何分間でも好きなだけ鑑賞出来るのです。  それも世界中の美術館所蔵の最高の傑作ばかりをです。  「 では、お前はどっちが好きなんだ 」 と聞かれても困るんですね。 メトロポリタンやルーブルは、いつもそこそこ空いていますから、 ゆっくり鑑賞できますので、それでしたら現物に勝るものはありません。 でも、誰でもいつでもそこに行けるというわけではありません。   「 モナリザ 」 の現物は防弾ガラス越しに見られるだけですが、ここでは指先でその微妙な突起に触れることすら出来るのです。   「 本物と大塚とを両方見られれば、それに越したことはない 」 とだけ申しておきましょう。

 陶板は少なくとも2000年は色が変わらないことを考えれば、この美術館が百年、千年後に持っている世界の文化に対する意義は、 想像以上のものであるはずです。 なぜなら、オリジナル作品は大気汚染や地震、 火災、盗難などによる損傷、退色、劣化を免れないので、ここにある絵画のオリジナルの大半は、数百年後にはもう実物は見られなくなくなっているか、 幾度とない修復によりひどく変貌しているかでしょうから。  事実、これらの名画の中には、既にオリジナルが盗難等により最近失われてしまったものも数点あるとの事です。  この美術館は小山を一旦崩し、地下5階、地上3階の広大な鉄筋コンクリートの建物を作り、その上に元の表土と樹木をかぶせて復元したという物です。 天災・人災にも十分耐えることでしょう。

 技術的なことを言えば、基板の上に投影された等倍の写真画像の上に数万種もの微妙な色差を持つ釉薬を、おそらくミリ以下の精度で塗り分けて行き、 原画と寸分たがわぬ色彩と質感に焼き上げるまでの無数の試行錯誤といったら、気の遠くなるような職人芸と根気でしょう。  色調や光沢は勿論、原画の傷や絵具の凹凸まで完全に再現されており、 その迫力と美しさは誇張でなく本当に原画にまったく劣らないレベルです。  私が技術者だからかもしれませんが、作品の芸術性だけでなく、こういう超絶的に困難な技術と精緻な 「 技 」 に対して理解が出来るので、 なおさら非常な感動を覚えるのです。  『 ピカソの子息やミロの孫達および各国の美術館館長、館員の方々が来日されたおりには、この美術館や展示品に対して大きな賛同、 賛辞を頂いた 』 との説明には素直に納得します。 「 百聞は一見にしかず 」 ということわざは、この美術館のためにあると言えます。

ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。