好きなことについて書くと、どうしても長くなってしまう。

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【 for RITZ 】
forRITZ

 前回の続編です。
『フルーツバスケット - 四季 - 』でRitz Worldの虜になり、オタクであることを照れも隠しもせずに「お気に入りである」と公言している私ですから(今回も若干の躊躇があったのですが)勢いで新しいCDを買ってしまいました。
 やはり入手は簡単ではありませんでしたが、もっと苦労したほうが良かったのではと思えるほどの……こんな簡単に手に入れて良いのだろうかと後ろめたさすら感じるほどの内容でした。言わば、最高のさらに上、ベストがあっさり更新されました。宝物の領域です。

『for RITZ』は岡崎律子さんの遺作です。制作時には既にガンを患っていて、入院していた病院を抜け出して録音したものもあるとか。亡くなられた後にスタッフの手に……むしろファンの熱い声によってお蔵入りを免れ、完成に至りました。曲によってはテスト収録段階のものもあり、文字どおり最期の声が納められています。それにしても……このアルバムが日の目を見なかったかもしれないと考えるだけで寒気が走ります。

 自分の命が限りあるとわかった時、人は何を考え、何を選び、何を伝えたいと思うのか。その答えがここにあります。次がないとわかっているから岡崎律子というアーチストのすべてが込められています。
 歌詞のあちこちに闘病生活を送る心の揺れが見え隠れします。とりわけ2曲目の「I'm always close to you」と4曲目の「いつでも微笑みを」は彼女の遺言と言っても過言ではありません。遺言の相手はわたし。岡崎律子さんの最後のアルバムを手にした一人一人の私に、あの限りなくやさしい声で語りかけ、心情を吐露し、残された者への気遣いを見せているのです。

 ごめんね お別れが突然で

 約束 お願いはひとつだけ
 生きて 生きて
 どんな時にも なげてはだめよ

 最後まで言えないことがあった
 でも、すべて告げるのがいつもいいとは限らないの

 私は ねえ つよかった?
 いいえ いつも揺れていたのよ

 正面から受けとめるのは、正直、辛いです。これらの言葉を最初に聞いた時は、あまりの生々しさに凍り付きました。心臓をわしづかみにされたように苦しく、ボタボタと落ちる涙を止めることができませんでした。半端な気持ちで聞ける言葉ではありません。

 驚かされるのは、これらの楽曲がもともとパソコンゲームのために作られたことです。順番が逆になりますが、ゲームの中に流れてきてもおかしくない内容で、歌詞から内容を推察することすらできます。レビューを読む限りゲーム用の音楽として破綻しているという声はありません。むしろ絶賛する声が圧倒的に多いのです。つまり、ほとんどの楽曲が超絶的なダブルミーニング。依頼されたストーリーに添う形で十二分の結果を出しながら、そこに私小説的と思えるほど個人の思いを乗せているのです。本人が全身全霊を傾けたと語るように、信じられないほど完成度の高い作品になっています。
 そして『for RITZ』はゲーム用の楽曲を自身の歌でセルフカバーしたアルバム。遺言は自分の声で伝えたいと望んだのでしょう。

 最初は聴くのが辛かったアルバムですが、聴くほどに楽曲本来の素晴らしさに魅了されています。どの曲がいいと優劣をつけられないほど、すべての曲が素敵です。ただ、あの柔らかな歌声は明らかに痩せています。後半で息継ぎが苦しそうになる曲もあり、痛々しくなります。それは最後の力を振り絞っている本人がいちばんよくわかっていたはずで、十全ではない自分の声をモニターするのはさぞ辛かったことでしょう。
 皮肉なことに、残酷なもどかしさを感じることで、あらためて岡崎律子さんの音楽の素晴らしさが伝わってきます。母親の子守唄のような優しさに満ちたささやきの歌声。あどけない少女のような声質。自身のアレンジによるコーラスが紡ぎだす美しいハーモニー。曲と詩と歌と声とハーモニーが一致して醸し出す比類ない世界。正に掛け替えのない音楽。
 病を患っていなければもっと素晴らしかっただろうと思いながらも、楽曲はRitz Worldそのものです。このアルバムの収録曲はいずれも名曲と呼びたくなります。

01. 空の向こうに
 ゲームの内容を1曲で見事に表現しています。多分、イントロで使われたのでしょう。いきなりですが、この曲のミキシングだけは不満です。主役の声を派手なアレンジでマスキングしてどうするの。自分の手でリミックスしてみようかと考えています。

02. I'm always close to you
 すべてが遺言でありながら、ゲーム内容にクロスさせている歌詞に圧倒されます。そして、深く悲しく美しいメロディ。

03. 秘密
 美しくも重い歌の後に恋愛を歌った曲が流れると、正直、ほっとします。軽快なリズムでしっとりとした佳曲です。

04. いつでも微笑みを
 声から判断すると、最後の録音でしょう。隠していた病について告げ、残されたファンに直接語りかけている遺言です。

05. 雨のmusique
 アレンジもメロディも狂おしいまでに素敵なボサノバです。サビの部分の繰り返しが印象的。

06. メロディー
 他を捨てても音楽に賭けようという決意を力強く歌っていて、このアルバムの原点を見る思いがします。

07. リセエンヌ
『フルーツバスケット』に入っていてもおかしくないRitz World。静かに静かに始まり、明日の希望を歌い上げていきます。

08. Hello!
 何と愛らしいワルツ。アレンジ、コーラスも小粋で、聴いているだけで微笑んでしまう。しかし、この歌の世界は深い寂しさの裏の「夢」かもしれません。

09. fay
 軽快で小粋な佳曲。こちらはコーラスも素直に明るく、嬉しい気分にさせてくれます。

10. 涙がほおを流れても
 不思議な静謐さに満ちた美しい曲。サビが余韻の呪文のように繰り返され、それ自体がフェードアウトのように響く。アルバムの最後を飾るにふさわしいしっとりした曲。

11. For フルーツバスケット
 ある意味、最大のボーナス。最後に岡崎律子さんの名を知らしめた名曲が入っています。しかし、その歌詞はより深さを増して心に響き、新たな涙を誘うことでしょう。


 居場所はどこだろう
 私の役割はなに?
 ずっとずっと思ってた
 そして みつけた気がしたの

 ここでならば言える
 今まで言えなかったことや
 胸の内さえも
 口をついて出るメロディー

 皮肉なもの そして
 抱えてるカナシミこそが
 奏でるメロディー
 それは とても力を持つ

 『メロディー』

[090607]

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【フルーツバスケット】
fruits
 軽い気持ちだったんです。初Vocaloidの労作英語版が「音痴」という結果にいたり、最初から作り直すのもかったるいから日本語で「ガンジスを流れる死体の歌」を作っても結果はピント外れ(そりゃそうだろ)で、英語で作詞を始めても一朝一夕にできるものでもないし、ついに「1曲通して聴いてみたいんやぁ」と関西弁でブチ切れた末に「そうだ、アニメ声ならアニソンがあるじゃないか」と息つく暇もなくエウレカ。

 アニソンねぇ……禁断の領域でCDなんて1枚も持っていないんすけど、考えてみりゃ普通のポップスよりも量的には圧倒的に聴いているはずですわ。認めざるを得ないってやつでさあね。(>>まだわからない人 アニメソングの略です。念のため)
 腹をくくったら後は速い。ネットを巡回して資料集め……してみると、さすがアニメ大国日本。出てくる出てくる、どうすりゃいいの。とりあえず定番で『ラムのサンバ』を探したけど、なぜかヒットせず。そうこうしているうちに辿り着いたのが『フルーツバスケット』だったのです。

 記憶が一気に蘇ってきました。
 2001年にテレビ東京系で放映されたアニメに一気に引き込まれ、私の本棚には『花とゆめコミックス』の原作が並んでいます。\\(;^◇^;)//
(高屋奈月の原作はギネス公認「世界で最も売れている少女マンガ』だそうです)

 母を失いテント生活をするホームレスの少女という導入部でガッチリつかまれ、居候することになった名家の一族が十二支の呪いにかかっているという奇想天外な設定で引き込まれ、天然ボケのキャラクターにキュンとなり、しかし全体を通したメインテーマの「心のキズと優しさ」の半端なく真面目な描き方にウルウルでした。
「優しさ」というテーマは手垢べたべたのアリガチで、今更フンって感じですが、フルバの場合は(ああ、オタクの略語使っちまったよ)半端なところがなく作品全体に通低しています。世間ではマンネリズムを低く見る目が多いようですが、正確に言えば「マンネリがダメ」ではなく「マンネリズムが飽きられたらダメ」になります。飽きられないマンネリズムには作り手の創意工夫が斬新な作を生むのと同じぐらい必要とされるのです。それと同じことがフルバの「優しさ」にも言えるでしょう。
 具体的には、誰にでもわかるストーリーは脇に置いて、ものすごく丁寧に選ばれているなと感じさせる繊細な色彩の設定があります。

 そして観る者をオープニングでフルバの世界に包み込んでしまう音楽。
 そのものズバリのタイトル『For Fruits Basket』のメロディは思い出そうとすれば、いつでもどこでも浮かんでくる印象的なものです。ささやくような歌い方、所々の印象的なフレーズ。これならいいかも。
 この時点では、この程度のまだ軽い気持ちでした。

 楽譜には岡崎律子の名前がありました。作詞も作曲も歌も一人で手がけていたんですね。今になってやっと名前を覚えました。
 さて、Vocaloid。ただ歌詞を打ち込んだ状態では子音が強く、いかにも機械が歌っているようなぎこちないものです。それを人間が歌っているようにパラメータを設定していかなければなりません。ここで意外な効果を知ることになります。
 出だしは柔らかく、そこから少しずつ盛り上げ、ここの音ははっきり発音させて……とやっていくと、歌の細かい表情がわかってくるのです。いや、わからなければ編集できないのですから、集中して解釈して、再現する方法を考えなければなりません。
 この作業の中で歌と、むしろ作り手の思いみたいなものと真正面から向き合うことになります。これもアニメと同じでした。ありきたりに思える言葉に、ものすごい優しさが感じられ、何度も胸が熱くなってきます。

 ここで作者について知りたくなり、調べてみると……岡崎さんは既に亡くなられていました。ショックでした。この曲を作った時は発病していなかったはずですが、なぜか言葉のひとつひとつに覚悟のようなものが感じられます。月並みな言葉ですが作り手の魂みたいなものが感じられます。
 もっともっと彼女の残してくれた歌を聴きたくなりました。

 実はそれからが大変で、中古・新品あわせて何軒のCD屋をはしごしたでしょう。大手量販店からオタクのメッカ『まんだらけUFO』まで回り、最後の最後(これでダメならネット通販のつもりでした)にタワーレコード渋谷店で見つけました。

 アルバムは歌とオーケストラアレンジが交互に配置されています。初期の岡崎律子さんは普通に歌っていましたが、この頃はヘタウマと紙一重のささやきボイス。ダメな人には絶対ダメだろうなと思いつつ、聞くほどに引き込まれていきます。そして、特長が最も色濃く出たのが曲、歌詞、歌、声の四位一体になった名曲「For フルーツバスケット」です。
 いや、既に本日3回目か4回目になるのですが、聞き直すほどどの曲もいいですね。
 さわりだけなら、残された岡崎さんのホームページで聞くことができます。


 
岡崎律子BOOK

[090413]

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【未来を写した子どもたち】
BORN INTO BROTHELS:Calcutta’s Red Light Kids

(日本で)映画を見るのは10年に1回と火星大接近並みの頻度。前回見たのはサタジット・レイ監督の遺作だったかもしれない。しかし、舞台がカルカッタの赤線街、主役が子ども、小道具が写真と聞けば、極度な映画出不精も見ないわけにはいかないではないか。
 単館上映では選択の余地がないから銀座のシネスイッチまで出かけた。銀座で映画を見るなんて……テアトル東京の『2001年宇宙の旅』以来。もちろんリバイバルなんぞではなく、由緒正しい1968年の初公開時である。
 当然ながらシネスイッチに入るのは初である。女性客が多かったせいもあり、施設の印象よりも静かに心地よく鑑賞できたのが良かった。
(映画館を敬遠するようになったのは、癇に障る観客が増えたのが間接原因、アジア基準で高すぎる料金が直接原因である。)

 内容をかいつまんで紹介すると……
 第77回アカデミー賞を受賞したドキュメンタリー作品である。イギリスの女性カメラマンが取材のためにカルカッタの赤線街で暮らし始める。やがて彼女の目は売春婦の子どもたちにも向けられ、何とかしたいの思いから写真を教えるようになる。子どもたちはカメラを通して外の世界を知り、閉じられていた未来が変わっていく。
 詳細は以下を。

http://www.mirai-kodomo.net/

『カルカッタ』
 いや、まいった。冒頭から映像のエネルギーに圧倒されっぱなし。全編に渡ってスクリーンを満たしていたのは、インドの中で最も混沌に満ち、猥雑で、オンボロで、人間臭く、エネルギッシュな
カルカッタだったのである。正式な呼称がコルカタに変わったからこそ、私はある時代と地域を区別してカルカッタと呼んでいる。原題もCalcuttaとある。作者も意図したかどうかわからないが、これは圧倒的にカルカッタの映画である。
 
 私の目は背景のビル壁面のひび割れや染みなどに何度も釘付けになった。人間の営みが過剰なまでに迫ってくる汚れ、減価償却も使用期限もとっくに切れた中古の町。除菌だの抗菌だのにこだわり、捨てることを前提に作られたモノが溢れ、擦り傷ひとつで自動車を買い替えるバカタレ日本と対極の世界が目の前に広がっている。素晴らしい。
 例えば、この映画に出てくるクルマを見てみい。巷では各国自動車メーカーのインド進出が話題になっているが、新車なんか走ってないぞ。日本では絶対にお目にかかれないポンコツトラックが現役でガンガン活躍しているではないか。主役はやっぱりアンバサダーだ。これが実際のカルカッタ風景なのである。
 ストーリーもさることながら、私の目は背景の風景に釘付け状態。スクリーンの隅々まで凝視し続けるという、何とも疲れる鑑賞になってしまった。

 ニュースで伝えられるビジネスタームとしてのインドを鵜呑みにしてはいけない。インドの不特定(圧倒的)多数はそう簡単に変わらないのだ。

 さらにカルカッタ濃度を増した赤線街が映画の本当の舞台である。
 かつて『シティ・オブ・ジョイ』の撮影がカルカッタで行なわれたと聞いた時にはたまげた。『サラーム・ボンベイ』もムンバイの赤線街が主要な舞台だった。前例があるから衝撃は和らいだものの、やはりカルカッタの赤線街にカメラが入っていったことは凄いとしか言いようがない。これこそ百聞は一見にしかず。映像に度肝を抜かれてほしい。
 特に「営業中」である夜の撮影は場所が場所だけに、むしろ客が客だけに危険と隣り合わせだ。ざらついた映像は緊張感がみなぎっている。しかし、このアングルは私がビデオカメラを持って初めて撮影したデリーの裏通りと同じなのだ。多分、カメラは鞄の中に隠されていたのだろうなぁ。不覚にも苦笑してしまった。
 が、正面からの撮影も出てくると、舌を巻くしかない。これは撮れない。完敗。

 映像に圧倒されながら、一抹の危惧も抱いてしまう。観客はリアリティを感じられるのだろうかと。そのぐらい現実離れ・日本離れした世界が展開している。
 監督の目が確かだと感じたのは、赤線街の日常を写しながら残飯をアップし、さりげなくナレーションを入れたこと。私もバンコクの怪しい宿の、同じような空間で生活していたことがある。やはりパラダイムの違いから判断に迷うことも少なからずあった。そこで自分なりの基準にしていたのが正に食べ残しだった。どんなに貧しさを訴える相手でも、食べ残す奴は信用しない。生活の基本を大切にしない奴はダメなのである。

『子どもたち・写真』
 カルカッタの子どもたちが出てくるというので、多少の涙腺の弛みは覚悟していた。そんな感傷の余地がないほど、自分よりもたくましい子どもたちに圧倒された。ボケていたのである。悲惨な状況で健気に生きる子どもたちのたくましさに感動するだろうなんて、実に日本人的な
上から目線ではないか。

 カルカッタの安宿と言えばサダルストリート周辺。赤線街ほどではないにしても、十分猥雑なエリアである。ここでも子どもたちの姿を見かける。(Travelling Music「夜の子供たち」参照)
 ある日、通りで猫が死んでいた。日本の子どもなら叫ぶか、ふざけて騒ぐか、同情するかだろう。私も日本人的な表情を浮かべていたはずだ。ところが、顔見知りになっていた少女(彼女は病気で片足が不自由である)が通りかかると、こちらに向かって表情も変えず無造作に「フィニッシュ」と一言。
 返す言葉がなかった。
 日本では死は生と区別され、陰の部分の一切が忌むべきことのように蓋をされている。あるいは美化されることで、巧妙に隠されている。死者があっさり生き返るラブストーリー(そんな邦画がアホみたいに量産されている)が通用するほど平和ボケしている。そんなぬるま湯の国で育ってしまった私たちはどうあがいても現実を直視できるカルカッタひいてはインドの子どもたちにすら適わないと痛感した。

 この映画にも、そんな子どもたちの鋭い言葉がいくつも出てくる。
 自分たちの置かれた閉塞状況、売春婦になるしかない少女たちの未来、重い現実が子どもたち自身の口で語られる。一方で、はじけるような豊かな表情、笑い、やんちゃな動きが画面に広がる。無造作な言葉と子どもらしさの大きな落差を前にすると、ありふれた「厳しい現実の中でも健気にたくましく生きる」なんて言葉が軽薄に感じられる。

 赤線街の子どもたちは、死を直視するのと全く変わらない目で現実を見ている。
 子どもたちにカメラを持たせたらおもしろい写真を撮るのでは、と女性カメラマンは最初に考えた。きっかけは深く納得できる。いきなり子どもたちの自立なんてことを考えたわけじゃないはずだ。子どもたちも最初は好奇心から集まってきたにすぎない。
 ところが、本人たちも思いもしなかった写真の力が子どもたちを変えていく。

 映画では所々に子どもたちの撮影した写真が挿入される。これが素晴らしい。周囲の世界はカルカッタで、ある意味では物怖じしない子どもだからこそ撮れる写真。何枚かは唸ってしまうほどの作品で、子どもの写真という説明が不要なほど。
 やがて一人の少年の才能が認められ、インドの代表として海外へ出かけるまでになる。他の子どもたちも女性カメラマンの奔走によって学校に通えるようになる。

 当然ながら、これらの出来事がスムーズに運ぶはずがない。書類の山、複雑怪奇な手続き、すぐに行方不明になる責任の所在。全体の中ではつなぎの部分かもしれないが、カメラの前で展開する恐ろしいほど効率の悪いインディアン・システムは注目だ。
 ツアー旅行者には無縁だろうが、個人旅行で手紙を出す、ヴィザを延長する、警察に盗難届を出す……等々の事務手続きが悪夢のように蘇ってきた。あの書類の山を見たければ、郵便局へ行くだけでいいのだ。嗚呼。

 映画の最後に子どもたちの今が紹介される。寄宿学校へ通っている子、海外に留学した子、赤線街を出て既に結婚した子、いずれもあのままだったら実現しなかった見えなかった未来に生きている。
 この映画の一方の本題である善意の人々による子どもたちの救済に関しては、ものすごく共感したと記しておこう。撮影のために赤線街で暮らそうと決めたことが、カメラマンの良心を語っている。それと西欧人の悪癖である「救済にはキリストの愛が云々」を持ち出していないのも好感を覚える。

     ・     ・     ・     ・
 私はプージャという少女の撮影した老人の写真が大好きだ。偶然も作用しているだろうが、真正面から捉えた老人の表情、バックのトラック、構成力が素晴らしい。
(上記のサイトでこの写真が見られる)
 だから、最期にこの少女(だけ)がやっと入った寄宿制の学校を辞めてしまい、赤線街に戻ったと聞いた時には悲しさと悔しさが溢れてきた。間違いなく親の職業を継いでしまったこと、これほどの1枚を撮れる才能が消えてしまったことに心が痛む。どんなに才能と可能性が輝いていても、子どものそれは実に脆いものなのだ。だからこそ、大人は子どもを守ってやらなければいけない。

 最後の数分で『未来を写した子どもたち』はとても重い映画に変わった。

[081222]

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【海外のテレビドラマ】
 初回特価につられて『STARGATE』(ディアゴスティーニ)を買ってみた。『STAR TREK』も創刊号だけ持っている。期待していなかったから冊子も開かずにスタート。オープニングタイトルも……「おぉぉ!」
 雄叫びの原因は主役。テロップの文字にRichard Dean Andersonとあるではないか。お気に入りのテレビ俳優が登場する前に、背筋を伸ばして座り直した。もうそれだけでお宝をゲットした気分だ。
 内容は映画の続編。未知の星を探索する基本は初代スタートレック、その道具であるスターゲイトは(60年代SFドラマの)タイムトンネル、そこにエイリアンのテイストを入れた感じの寄せ集め。設定に新味はない。しかし、スタッフがマクガイバー同窓会。それだけではまりそうだ。

 日本製のテレビドラマはほとんど見ない。なぜなら、頭悪すぎ!
(例外だったのが『のだめカンタービレ』)
 脚本がひどい。すぐに先が読める。それに気づかない登場人物の鈍さにイライラさせられる。とりわけ推理ものは犯人も主人公も警察関係者も頭悪いとしか思えない(同じことは数学者の秋山仁さんも言ってましたネ)。
 しかし、本当に不快なのは作り手が視聴者も登場人物並みのバカと見なしていること。説明の上塗りに過ぎないテロップ、登場人物による無用な状況説明。要するに、ドラマ・リテラシーがお子ちゃま並と判断しての過剰親切。視聴者ってそこまでバカなのかなぁ、やっぱりバカなんだろうなぁ。そういったドラマに慣らされているという意味で。

 映画もドラマもおもしろくさせる基本はふたつ。
 大きなウソを信じさせる細部のリアリティ。
 視聴者の頭脳に挑戦するような先が読めない展開。
 海外ドラマにこだわる理由である。神様の名を持ち出せば問題が解決してしまうインドのホームドラマも「先が読めない」という点では……いわゆる反則勝ち。

 先日東京MXでの放映が終わってしまった『チャーリー・ジェイド』はスゴかった。ストーリーはパラレルワールドを扱ったSFだけど、3つの平行世界、主人公の見る幻覚、そして回想による過去、それらが説明なしで混在。いわばモザイク状のストーリーで、こちらは必死になって付いていくしかない。言っちゃ悪いが、日本のドラマに慣れた視聴者には理解不能なはず。最終回はさらに境界を取り除いた感じで、往年の『プリズナーNo6』を思い起こす難解さだった。私だって物語が決着したことはわかっても、「どうやって」が?のまま。
 だからおもしろいのである。?の部分を自由に想像、解釈できるから深みが増すのである。言わば『エヴァンゲリオン』と同じ……と書いて、あらためて日本製アニメとドラマの質には雲泥の差があると思った。

 かつては外国製ドラマがいくつも放映されていた。イギリス21世紀プロの作品は『スーパーカー』の時代からほとんど見ている。『名犬ロンドン』や『青春の河』はもう一度見てみたい。『宇宙大作戦』の前に『宇宙パトロール』の名で放映されていた初代『スタートレック』は今見てもおもしろい。
 思い出のドラマを挙げていったらキリがないが、歴代ベストは即答できる。それがリチャード・ディーン・アンダーソン主演の「冒険野郎マクガイバー」だ。でも、長くなりそうだから、別項を設けて紹介することにしよう。
 ちなみに『STARGATE』ではエイリアンのコンピュータを再現するために「マクガイバーした」という楽屋オチの、しかしシャレた台詞があった。身近の品を流用して目的を達する意味であるとアメリカ人ならわかるのだ。同様の台詞は、やはりお気に入りドラマのひとつ『CSI』にも登場した。

『CSI』と似た日本のドラマに『科捜研の女』があるが、製作サイドの頭の良さに桁違いの開きがある。ネタひとつで一話では1時間が無駄に思えてスイッチを切ってしまう。かたや最新科学技術の紹介(それもあっさり)や博物学的うんちくが続き、科捜研1シーズン分のネタが一話に入っているのだから。
 そして『CSI』ならではの魅力が悪趣味と紙一重のリアリティ。腐乱死体が登場するのは当たり前。CGを駆使して、例えば銃弾が心臓に達するまでを……銃弾視点と言うのかな……リアルに描いたりする。ゲッとなりつつ「でも、実際はこうなんだろうな」と思ってしまう。
 人気番組故に『CSI』には同じ設定で場所だけ変えた『CSI:ニューヨーク』と『CSI:マイアミ』のスピンオフ作品がある。いかにもアメリカ的安直さだが、『CSI:ニューヨーク』は主役がゲイリー・シニーズ。これは嬉しかった。

[080922]


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【JAXA:かぐや】

 仕事の関係で月に一度ぐらいJAXAの前を通る。その度に、平穏無事な人生だったら働いていたかもしれないなぁと甘酸っぱい思いに包まれる。
 報道番組とうたいながら「行列のできる店」だの「芸能人の噂」を取り上げているバカテレビ局よ、週に一度、月に一度でもいいから「今週(今月)のはやぶさ」のコーナーを作ってくれ!
 敢えてはやぶさの説明はしない。JAXAのサイトではやぶさが何をしたのか、そして「今、何が起きているか」を知ったら、気にもかけていない新聞社やテレビ局に対して怒りがこみあげてくるだろう。

http://www.isas.ac.jp/j/index.shtml
 上のタブ「活動内容」>「科学衛星」の画面もしくは左のタブから「はやぶさ」を選択。

 もうひとつ。打ち上げ成功直後はもてはやされた日本の月観測衛星かぐや。本当の活躍はその後からだったのだ。最新の成果を惜しげもなく大盤振る舞いしてくれたJAXAは偉い。

 同じく「科学衛星」の画面もしくは左のタブから「かぐや」を選択。そこから「画像ギャラリー」を開き、上のタブから「地形カメラ」。2番目のティコクレータからダウンロードできるフル解像度の動画が感涙もの。
 ティコ。望遠鏡で月を覗いたことのある人ならわかるだろう。さすがに肉眼では難しいが、双眼鏡クラスでも、満月の時に最も目立って見えるクレーターがティコ。その本物。この一言で十分。
 まるでSF映画と言っては本物に失礼だし、本物ならではのリアリティに息をのむ。見なきゃ損!

[080922]

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【Google Earth2】

 一度紹介したGoogle Earth。8月に登場した新バージョンから「ストリートビュー」機能が搭載されている。日本でも一部の大都市に限られ、世界ではさらに一部の一部という程度だけど、これはスゴすぎ。上から目線ではなく、地べた目線なのである。私がどんなアパートに住んでいるかなんて正に一目瞭然。
 見ず知らずの現場へ行く時など既にビンビンに活用している。駅からの道順、曲がり角のチェックは当たり前。何たって、自販機がどこにあるかだけでなく、ベンダーがコカコーラなのかサントリーなのかアサヒなのかまで判別できる。(さすがに個別の銘柄は無理だけど)
 京都の喫茶店「いのだ」がどうなっているか確認したり、大阪の黒門市場や新世界をバーチャル散歩したり、スポットをたくさん登録しておいたのが役立っている。惜しむらくは、もっと時間が欲しい。
 と言いつつ、先日はパリを散歩。

『ガリレオ・チャンネル』では拡張現実を扱っていた。仮想現実がここまで来たことと、さらにその先があることに「すごい時代になっちゃった」とため息。『電脳コイル』のめがねも数年後には実現しそうだ。

[080922]

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『サラ・ヴォーン』

sarah
 ディアゴスティーニの『クール・ジャズ・コレクション』を買い続けています。
 通販などでおなじみのシリーズものは敬遠...むしろ軽視していました。が、このシリーズの登場は正にうってつけ、渡りに船、マーケティングの思うつぼ。

 ジャズのレコードはそれなりに持っていましたが、内容は自他ともに認める偏ったもの。中心レーベルがECMと言えば、ジャズファンから苦笑が漏れること必至。ということが自分でもやっとわかってきて(笑)、昨年あたりから『ジャズの名盤入門』みたいな本を買ったり、ジャズメンから教えてもらったりで、スタンダードと呼ばれるCDをぼちぼち買っていました。シリーズものの場合は重複を避けられませんが、それが最少に留まっている(しかもレコードでなく最近のCD)のが私の偏食を証明しています。

 たとえば食わず嫌いだったソニー・ロリンズが「聞いてみると、いいじゃん」みたいな発見というか出会いがあるのがシリーズものの美点です。サラ・ヴォーンも名前は知っていたものの、機会がなければまともに向き合うことはなかったでしょう。私の音楽マップの外、取捨選択の候補にすら入っていませんでしたから。
 シリーズの9枚目ですが、もう別格です。気に入ったわけじゃありません。いきなり心臓をわしづかみにされたみたいで、ほとんど恋愛の感覚。惚れちゃいました!

 このアルバム、選曲が見事です。
『ラヴァーズ・コンチェルト』
 バッハのメロディをポップスにした超有名曲ですが、声と抜群の歌のうまさに一気に引き込まれます。クラシックの演奏家が軽い感じでポップスの曲を演奏すると、曲自体の馴染みやすさから技巧をこらした難解曲よりも実力が伝わってくる、正にあの感じです。実にシンプルでストレート。声も高いトーンを使っているので受け入れやすいし、自然だけど見事なヴィブラートも心地よく、導入の曲としては最適です。日本の歌手でも実力派と言われる人はヴィブラートを多用しますが、過剰であることがほとんど。歌唱力のレベルが違います。

『ミスティ』
 ジャズの大スタンダード。高めのトーンのまま、ポップスからジャズへ一歩踏み入った感じです。
 ポジティブな曲で引き込まれ、次にしっとりとやられちゃうと……恋に深入りしちゃうパターンですね。

『バードランドの子守唄』
 言わずと知れたジャズの大スタンダードですが、歌声は一気にハスキーへ。声域の広さに驚いた後で、前2曲がハスキーボイスのハイトーンだから魅力的に響いたのかとわかります。しかし、白眉は後半のスキャット。ありがちな「適当にシャバダバ」なんてもんじゃありません。マイルス・デイビスの「みんなはサラを、もう1本のホーンみたいに感じていた」という言葉が紹介されていますが、これがジャズ・ボーカルなんだと初めてわかりました。歌と伴奏という関係じゃないんです。サックスやピアノと同じようにアドリブをする、声が楽器のひとつになっているのです。
 抜群の歌のうまさと魅力てな声があって、それを縦横に活かす音楽のうまさ、センスがあるのは脱帽です。ジャズ・ミュージシャンとしてのサラの凄さがわかります。

『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』
 再びスキャット登場。今度は楽しいライブです。歌詞を忘れたと言って有名曲を替え歌にするユーモアと軽いモノマネのお遊びは、お客にとってたまらんでしょうなぁ。ま、録音技術のおかげで私たちは今それを聴くことができるわけですけど。凄いだけの人じゃないんだ。
 わずか4曲でサラのいろいろな顔を見せられると、1曲目に引き込まれたベクトルそのままでドツボまでいっちゃう感じです。

『煙が目にしみる』
 スタンダード曲が続き、やはり歌のうまさを感じます。特に冒頭の低音から高音へ駆け上るのが驚き……ではなくて、自然に聞けてしまうのが実力なんですね。ヴィブラートで述べたのと同じように、技巧を見せつけるのではなくて、自然に駆使しているのが本当のうまさだと思います。ただ、歌詞を区切るように歌っているのが、他とは少し違うように感じます。

『枯葉』
 何というか、初級編・中級編の後に最後は上級編で締めくくるという感じ。これまた大スタンダード曲ですが、知っている枯葉のメロディなんて出てきません。全部スキャット、全部アドリブ、バリバリのジャズ。これまで部分部分で感じていた凄さとうまさの集大成。親愛は畏敬へと変わります。

 多くのアルバムからこの6曲を選んだ編者は偉い。これで全部とは思いませんが、サラ・ヴォーンという歌手の魅力と実力のあっちからこっちまでを出したという感じです。後はこれを手がかりにアルバムを揃えていくというか……網羅されちゃっているからこの1枚でいいやと思うか。(笑)
 ま、1190円で買えるのだから、このシリーズは安いと思います。もしも気に入らないとしても、この値段なら痛くないですよね。オススメ!

[080628]

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『ガリレオチャンネル』

 アホタレントなんぞを使わない正統派の理系情報番組。[日曜日の朝8時:東京MXテレビ]
 扱うテーマが面白く、タイムリーなものが多い。頭が悪い大手新聞社やテレビ局にはニュース価値がわからない「かぐや」「はやぶさ」もしっかり紹介してきた。ビオトープを知ったのもこの番組。同じ内容を2週続けてくれるので、この番組だけは欠かさずに見るようにしている。
 ただし、東京ローカルのUHF局の放映だから、他の地域で見られるかは不明。
 
 最近のテーマを紹介すると
「シーラカンスの解剖」
 タイトルだけではおそろしく地味な印象だが、MRIなどのハイテクを駆使した事前調査、鱗1枚ずつに番号をふっていく過程、心臓の部位を発見するまでのハラハラドキドキの展開と画面に釘付け。
 言葉では生きた化石、遺存種、神秘の魚と出てくるシーラカンス。「わからないことが多いから」という理由の証を解剖の過程で何度も目にすると、言葉だけでわかっていたことを思い知らされる。

「音声翻訳技術」
 機械翻訳が従来の文法解析から、例文に基づく翻訳(類似性の検索)へ転換したという。当然、この手法は英語学習にも敷衍できるだろう。個人的にはATRの登場が懐かしかった。ATRの研究者は数少ない「羨ましい存在」の一つである。

「ケータイ世代の誕生」
 実は「最近の若い世代にとってインターネットは携帯電話を介したもの……云々」と考えていただけに、正にタイムリーの極み。コミュニケーションの変化だけでなく、パソコンからはアクセスできないサイトの存在など軽いショックの連続だった。他国の紹介はなかったし、今後追随する国が現れるとしても、現時点で日本が特殊であることは間違いないだろう。ますます排他的な国民になるのかなと若干の憂鬱。

 テーマはミクロからマクロ、ご近所から宇宙までと幅広いのが特徴。間違っても「宇宙人の解剖」なんて番組を平気で流しているテレビ局からは生まれて来ないテーマ……とは思わないが、同じ真面目な切り口では企画すら出ないだろうとは思う。
 思い出したのが、開局当時の東京12チャンネル。科学に特化したテレビ局というふれこみで、初日の番組では犬の心臓移植を扱っていた覚えがある。ま、それでは視聴者がつかないわけで……。その後、同局は懐メロに力を入れたり、週末は朝から晩までゴルフ番組だったり、アニメがやたら増えたり(名作多し)で、いつの間にやら科学のカの字もなくなってしまった。どうでもいいことか。

 今調べてみたら、制作はWACという会社。なかなか硬派なテレビ番組を作っているなと思ったら、他のメディアでは別の意味で硬派な作品もあったりして……。ご自分の目で見て、びっくりしてくだされ。
http://www.web-wac.co.jp/tv/index.html


[080309]

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『アイアン・ジャイアント』

irongiant
 1999年のワーナー・アニメ。どこかで絶賛するレビューを見たことがあり、気になる作品ではあった。店頭で目当てのテリー・ギリアム作品が見つからなかったので「代役」として購入。鑑賞中の印象は群を抜いて素晴らしいとは思わなかった……けど、ボディーブローのように後からジワジワ効いてきた。
『アイアン・ジャイアント』は私のお気に入り殿堂入り確実のようである。

 実はこの作品、ワーナーのアニメ部門がその後凍結されたほど、興行的には大コケしている。だからダメというわけじゃない。評論家やマニアの評価はとても高く、数多くの賞を受賞している。見れば誰でも素晴らしさがわかる作品なのである……が、食わず嫌いを誘う(わざわざ映画館で見たいとは思わせない)ネガティブな要因がけっこうあるのだ。

・巨大ロボットと少年が登場するアニメと聞けば、いかにもありがちな印象。どうしても日本のアニメと比較されてしまうが、それにしてはタッチがいかにもアメリカン・テイスト。悪く言えば古くさい感じ。
・ワーナー・アニメと言えば、マニアには低予算の印象。(実際、低予算映画なのだが)
・監督が当時は無名に近い存在。(実は後に『Mr.インクレディブル』や『レミーのおいしいレストラン』を監督するブラッド・バード)

 全体のカラーやキャラクターは伝統的なアメリカン・アニメそのもの。ディズニーとは違ったワーナー作品の、たとえばウッドペッカーなどに通じる懐かしさ……と言いたいが、今の時代には古くさい。真打ちが巨大ロボット、アイアン・ジャイアントの造形で、エヴァやガンダムの時代に鉄人28号なのである。

 しかし、森や町の様子など細部が描き込まれたタッチは現代作品のそれである。ロボットも単純なデザインからどうして豊かな感情を表現できるのかと感心してしまうほどイイ味を出している。これ見よがしでなく、メカの部分もオタク心をそそるものがある。大きさや重量感の描写は見事。職人技を感じる。

 正直なところ、日本のアニメに慣れた目には違和感を覚えるのであるが、次第に「アニメのタッチまでグローバライズすることないじゃない」と思うようになる。これはこれでアメリカのアニメ。それだけのことだ。

 同じことはストーリーにも言える。登場人物がおしなべてアメリカン。実際にアメリカ人にはそういった傾向があるんだからと片付けるには、その誇張が日本のアニメから完全に浮くほど古くさい。

 はっきり言って、私は典型的なアメリカ人が苦手だ。私だけじゃない。世界各国の旅人が集まれば、典型的なアメリカ人は浮いた存在になる。むしろ典型的ではないアメリカ人のほうが実際は多い気がする。しかし、行ったことがないからアメリカ本国では何が多数派なのかはわからない。閑話休題。だから、冒頭部分では「ウッ」となり、「慣れる」必要があることを正直に告白しておく。

 もちろん、ここにも「しかし」の一言が付く。
 時代設定が1957年、旧ソ連がスプートニクを打ち上げた年なのである。核の脅威にさらされた冷戦時代のヒステリックなアメリカが舞台だから「むべなるかな」なんである。
 そうとわかれば、ほとんどの点に合点がいく。
 そうとわからなくても、子供にとっては単純図式化された「わかりやすいストーリー」になる効果がある。少なくとも、本当に子供向けかどうか疑問な今の日本のロボットアニメよりも。

 前置きが長くなってしまった。
 ストーリーは単純明快だ。宇宙からやってきた謎のロボットと孤独な少年(一瞬だけ、父親の写真が登場して、戦死していることがわかる)が心を通わせるようになるが、政府・軍部は未知の存在に脅威を感じ、抹消しようとする。やがて隠していた存在が露見し、その正体が武器であることも明らかになる。しかし、少年との交流の中で武器を嫌うようになっていたロボットは……。

 お約束の戦闘シーンになっても、ロボットはほとんど逃げてばかり。驚異的な破壊力を秘めた火器も発射直前に目標の軍艦からそらしてしまう。このあたりの争いを嫌う制作者の良心はジョン・バダムの『ショート・サーキット』に通じるものがある。テーマが「なりたい自分になる」であり、おそらく同作の影響を受けているに違いない。
 やっぱりラストは涙腺を緩ませる展開だったが、その後に意外な救いが待っているのも制作者の良心。
 観客の心も含めて誰も傷つけない、強く、ハートウォーミングなテーマは一貫している。

 おそらく氾濫している日本アニメのステレオタイプに毒されていたのかもしれない。初めてアニメを見る子供の目になれば、アイアン・ジャイアントの良さが見えてくる。むしろ親しみにくい異形の造形は制作者の意図したものかもしれない。ロボットの「心」がわかってくるにつれ、何とも親しみやすく、無骨に思えたデザインがかっこよく見えてくる。
 キングコング、ハルク、古くはオペラ座の怪人にカジモド、優しい心を持った異形の存在は欧米の物語が得意とするテーマではないか。

 ここまでわかってもう一度鑑賞すると、万人向けの「家族で揃って鑑賞できる」上質なアニメ作品であると、私も絶賛したくなる。ストーリーがわかっていてもツボのシーンでは泣けてくるし、思っていた以上に作り手の強いメッセージが伝わってくる。親が子供に「安心して見せられる」ではなく「積極的に見せたい」作品が『アイアン・ジャイアント』だ。

 そっと加えておくと、親の世代には丹念に描かれた50年代を楽しめる。これはアメリカ人にとっての『三丁目の夕日』かもしれない。当時の音楽、風俗、テレビ番組、コミックなどの小物、ジェット戦闘機だってF86セイバーだ。大半は日本人に馴染みのないはずのものではある……。が、最も強くアメリカ文化を吸収しようとしていた時代を思い出す人も少なくないのでは。

 実はDVDを購入して初めてわかったことがある。
 原作がテッド・ヒューズだったのだ。(ついでに製作総指揮が(The Whoの)ピート・タウンゼントだったのである)
 このことを誰も紹介していないのはおかしくね?[女子高生口調で]
 もしも公開前に知っていたら、多分、私も映画館に足を運んだと思う。

 テッド・ヒューズと言えばイギリスの桂冠詩人。むしろあたしの内輪ではシルヴィア・プラスの旦那として有名だ。(日本で例えれば、旦那より才能があってもマニアック向けの矢野顕子と、知名度と叙勲数で勝る坂本龍一の関係みたいなものか。)
 で、シルヴィア・プラスがガスオーブンで自殺した後に、残された子供のためにテッド・ヒューズ書いたのが原作だという。30年近く前のことである。
 
 いつからか、映画も含めた芸能評論家はあらすじ紹介者にすぎなくなり、ゴシップ以外の背景を語る人がいなくなったように思う。映画紹介の番組や記事はたくさんあるけれど、事前にこういった情報をきちんと流して、良い意味での予備知識を与えてくれていたら、少なくとも日本でコケることはなかったのではと思う。

[080309]

simpleline

『Philips』

 最近「ゆるく」気になっているのがフィリプス。言わずと知れたオランダの総合家電メーカーで、マニアックなこだわりを持つには存在が大きすぎるし、有名すぎる。

phil-coffee
 きっかけになったのは数年前に購入した珈琲メーカー。最新技術が投入され、これでいれる珈琲は絶品……というわけではない。むしろ正反対。特筆するような機能を持たない、極普通の製品だ。

 珈琲にはこだわりがある。二十歳ぐらいからレギュラー珈琲しか飲んでいない。以前は複数の豆をストックして、その時の気分で配合を変えていた。だから、紅茶もおいしくいれられるメリタの珈琲メーカーが壊れた時には次の機種を徹底的に調べた。結論がでないまま量販店の売り場へ行くと、国産は独自技術のオンパレード。浄水器を内蔵したり、お湯の落とし方を工夫したり、どの方式が良いのか迷いに迷った。

 たかが珈琲メーカーにオレは何をしているのだと自嘲の念に駆られた時、それが目に入った。特徴など何もないタダの珈琲メーカー。こだわりのフィルターに最初にかけられるタイプである。しかし、見方を変えると、国産のデザインはどれも似たり寄ったり。それに比べ、これは機能が全然表に出ていない。白と淡い緑のデザインからして「自分らしくない」ではないか。

 それが決め手になった。部屋に深紅のカーテンを入れたように、自分らしくないモノを生活空間に置くことで生活が変わるかもしれない。このデザインがおかしくないような生活もいいもんだ。
 この珈琲メーカーでいれた珈琲は普通に美味である。だけど、独自技術満載の珈琲メーカーに劣るとは思っていない。

 商品選びをする時に「その会社が研究所を持っているか否か」はけっこう大切にしている。かつてのAppleなどは実に魅力的な夢を見させてくれたものだ。だから組み立て通販業者のDellなんぞと同列に扱うことは間違っているし、未来への投資と考えれば価格が高くても当然と思っていた。
 フィリプスもその意味では各種基礎研究に力を注ぐ優良企業だ。特にハイエンド・オーディオには着目すべき点が多く(過去形にしたほうがいいかも)、CDが登場した時にも今日あるようなディスクの多様な使われ方を既に提案していた。

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 個人的に「海外では有名だけど、日本ではマイナー」な存在はけっこう好きである。昨年、ブラウンのシェーバーが壊れた時にフィリプスがこれに該当すると知った。
 珈琲メーカーと同じく、自分の好みから言えばブラウンである。いかにもバウハウス、いかにもドイツの機能美。特に『ブレードランナー』に登場したスピナーにブラウンの目覚まし時計が使われているのを見つけた時には嬉しくなった。たかが目覚まし時計なのに近未来の乗り物のコックピットにフィットするデザインなのである。
 しかし、シェーバーに関してブラウンは日本で圧倒的にメジャー。よく剃れる。でも、ヒリヒリする。うるさい。調べてみれば、髭クズの中に混じっている白いものは削り取った皮膚だと言うではないか。だから深剃りであり、スピーディーなのだ。

 購入したフィリプスのシェーバーは芳しくない評判そのままだった。深剃りはできるのだが、他社の倍ぐらい時間がかかる。(だから切れ味が悪いと評されることが多い)その代わり、肌への負担はほとんどない。音は驚異的に静かで、他社製品には戻れなくなるほど。
 ブラウンに限らずほとんどのメーカーが採用している振動式シェーバーが「床屋のひげ剃り」とすると、独自の回転式にこだわるフィリプスは「美容院の肌剃り」ぐらいの違いがある。何とも心もとなく、時間もかかるのだが、剃った後の肌はすべすべ。ちゃんと深剃りできているのである。
 不思議なことに朝のひげ剃りが楽しくなった。

 新年早々、インナー式のイヤフォンを落としてしまった。迷わずに同じ品を買い直し。それがフィリプスの特徴そのまんまのイヤフォンだ。とにかくマイナーで、売っている店を探すのが大変。前回はビックカメラ、今回はヨドバシカメラで見つけたけれど、在庫はどちらも展示品のひとつのみだった。それも棚の一番下。全然目立たない。

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 とりわけオーディオ製品を購入する時にはレビューやら何やらの評価を参考にする。しかし、最初にこのイヤフォンは自分の直感だけで選んだ。(だって、どこにも評価なんかなかったんだもの)
 既にメーカーに対して好印象を抱いていたし、ハイエンド・オーディオ製品に対する憧れ、基礎研究の確かさなどの情報はあった。さて、接続詞を「ところが」にするか「そして」にするか……。呆れたことに、これ(SHE9501)はインナー式イヤフォンのハイエンド商品にもかかわらず、実売価格が約3000円。もっと良いものが欲しくても、この上はないのである。
 というわけで、フィリプスのお手並み拝見という感じで購入したのが……1年ぐらい前かな。

 スピーカやイヤフォンは自動車のエンジンと同じ「慣らし」が必要だ。これをエイジングと言う。パイオニアのイヤフォンなどは絶望的に安っぽい音を出し、こんなの2度と買わないぞと諦めた頃にまともな音を出すようになった。ところが、フィリプスのイヤフォンはCDの3曲目あたりで激変した。この時の「大当たりだった」の感動は忘れられない。
 ものすごく素直で柔らかめの「好みの音」だったのである。

 ガキが喜ぶようなドンシャリではないから、評価されにくいとは思う。しかし、たとえばディープフォレスト2枚の冒頭、シンセサイザーの超低音が聞こえるだけでなく、ビリつかない。オーディオ用語の「分解能」という言葉は使いたくないが、聞こうと思えば背景の小さな音も聞き分けられる。いかにもモニター的に分離しましたという音作りでなく、押し付けがましさのない、良い意味でコンシューマ製品の音作りだ。
 iPodを付属のイヤフォンで聴いている人には絶対のお勧め。ただし、構造的に音漏れするので電車の中では使えない。またインナー式なのでフィット感には大きな個人差がある。

 今回イヤフォンを買い直して、懐かしい「良い音」に再会できた喜びを感じている。もはや生活に欠かせない存在になっていたのだ。ただし、先代との違いもある。色違いの型番違いで、今回の製品はSHE9500。iPodのケースなども白から黒に変えている。という見かけの話ではなくて、エイジングが短期間で済んだということは、ヘタレの進行も早いということで……以前はこんなにメリハリがなかったような……。やっぱり消耗品なんだな。マイナーな存在故に、次の買い替えは可能なのだろうか。

 これだけ当たりが続くと、そろそろフィリプスというメーカーにこだわった品選びをしてもいいかもしれないと思う昨今。

[080120]