未だネット用の文章をうまく書けない。いや、うまく書こうなんて思うこと自体が間違っているとは思うのだけど、変な作品意識みたいなものが強すぎる。最近ではブログ形式にしたほうがいいかなとも思っているし。
書きかけの文章ばかりがたまり、どんどん鮮度が落ちていく。特にAA研関連なんて時機を完全に逸している。このままゴミ箱行きになるのももったいない。それなら「なぐり書きだぁ」とエクスキューズを付けてしまえ。年末の在庫一掃である。

『東京外語大学アジア・アフリカ言語文化研究所』
偶然から存在を知り、今年は2回ほど多摩駅にあるキャンパスを訪問した。
どちらの展覧会も同じ会場で、2度目はたまたま学園祭と重なってしまった。小教室ほどの展示スペースは決して広くないが、模擬店なんかよりよほど学園祭の雰囲気に満ちていた。
研究の成果を広く一般に門戸を開いてくれるAA研の姿勢が素晴らしい。一発でファンになってしまったぞ。サイトも実に充実している。
http://www.aa.tufs.ac.jp/
『好奇字展』
http://www.aa.tufs.ac.jp/kanji/
会期延長のおかげで4月14日に滑り込み。同日のメモより
「展示は予想外に小さなものだった。ある意味、ネットで見たものが展示のすべて。しかもインド系ならまだしも、漢字というのは近くて遠い。わくわくするほどのものはなかったけれど、言語そのものが消えていくように、多くの文字にも消滅の危惧があるという現実は、目の前に突きつけられて初めてわかったこと。
消えてしまった文字というのは不思議な距離感である。何しろ消滅したのに目の前にあるのである。ま、読めなけりゃ意味がないのだが、話者が消えることで音としての言語は本当に消滅してしまう。しかし、残すことを目的にした文字が残っているということは....。難しく考えると頭が痛くなりそうなので、ひとつひとつの展示に集中することにした。
やっぱり関連はないとしても、東アジア各国の現在使われている文字は並べてほしかった。ベトナムなど、対照があることで古い文字が消えたことがはっきりするはず。でも、これはある意味マニアックな展示である。そこまで一般的にするのは難しかろう。
面白かったのは象形文字と呼ぶよりむしろ漫画に近いトンパ文字。これは文庫で紹介されているようなので近々に手に入れよう。シャーマンの爺さんの写真も笑えた。冠みたいな被り物をしているけれど、どう見てもボール紙の細工である。
そして、おまけ的なおもしろグッズがたまらない。おなじみの意味不明日本語付きの中国のクラッカーなど、これこそ我がテリトリー。主催者の先生とそんな話をしていたら、幻の西夏文字で自分の名前を書いてもらえた。」
おもしろグッズとはサイトの「展示会場」B会場左にある「好奇文字雑貨」のことで、クリックしても未だ「制作中」だったりする。オヒオヒ。
要するに、我が日本では至る所に氾濫している「英語によるアレ」の鏡みたいな「わけわかんないけど、オシャレだから」という理由で使われている外国語(主に日本語)を集めたコーナーだ。バンコクを闊歩している日本語Tシャツに赤面して以来、変てこ外国語に注意しているものだから、出展された先生と意気投合してしまったのである。故にメモの末尾は「次に同じような企画があった時に、オレには資料協力できるだけのガラクタがある」などと興奮している。(笑)
漢字の親戚に関しては、やはりこの程度の反応しか示せないから若干の自嘲。メモにあるとおり、主要な展示に関しては上記アドレスからかなり詳しく知ることができる。
その後、『好奇字展』の前に『アジア文字曼荼羅 インド系文字の旅』が催されていたことを知り、悶絶に近い悔しさを味わう。はっきり言って、こちらならかなりアカデミックな反応を示せたぞ。これをゴマメの歯ぎしりと言う。
http://www.aa.tufs.ac.jp/i-moji/
『鮮麗なる阿富汗一八四八』
http://www.aa.tufs.ac.jp/afghan/
これまた内容に関してはサイトの「展示品」を鑑賞していただきたい。
案内のメールが届いた時には既に始まっていて、時間の都合で訪問したのは11月25日。
メモは意外なほど短くあっさりしているが、今年いちばんの充実した時間だったと思う。
「運悪く学祭と重なってしまったが『鮮麗なる阿富汗一八四八』は小規模ながらも見応えがあり、デパートで催される凡百の展覧会に勝る。
今から150年前のアフガニスタン。侵攻したイギリス軍の一兵士によるリトグラフは細緻で、色鮮やかで、著名な画家によるものでなくとも、アフガニスタンの乾いた空気や現地の人々の体臭まで漂ってきそうだった。それはラージャスタンの経験があるから感じられるものかもしれない。例えばゲイトー(*ガルターの間違い)はミニアフガンと言えるかもしれない。
民俗衣装やアクセサリー、インテリアも興味深いが、やはりアフガニスタンが荒涼とした大地の山岳国家であることを強く感じる。雨のほとんど降らない土地では家屋の屋根に大きな意味はないのだろう。大地で休息する人物を描いたものが何点かあり、カーペットの起源を知ったような気になる。あのペルシャ絨毯を大地に広げれば、それだけで快適な寝室になったのでは。」
ラージャスタン云々の箇所は、真夏の砂漠地帯を旅したおかげで、文章で言えば「行間」や「言外」に相当する空気感が蘇ってきたということ。これがバーチャルとの決定的な違い。簡単に「経験していないことは想像できない」と言いたいけれど、正確に表現すると、ビデオなどをどれだけ見たって「経験していないことを想像することはできても、質感まで伝えるノイズだけは補足できない」のである。私の周囲にも「インドへ行ったことはあるけれどツアーでしたから」と卑下する人が何人かいるけれど、大切なのは現地の空気を吸ったことなのだ。確かに対象との関わりは目に見える部分だから差異を感じやすいかもしれないが、本質的な部分は空気のようなノイズ部分にあると思う。
ノイズは意識しないと見えない故に、現地においてすら自覚しにくい部分ではあるが....。だから、私は五感のアンテナをフルに広げることだけを考えている。分析や考察は後からでいい。意識するしないは別にして、とにかく貪欲に感覚に記憶させること。おかげで、アフガニスタンの空気を感じられたのである。
閑話休題。ガルターとは州都ジャイプルの東部。街の境界であるスラージ門を出ると、荒涼とした風景に激変する。どう変わるかはラットレーのリトグラフを参考にしていただきたい。実際に行った人からは「ちょっとどころか全然違うんじゃないの〜」と異議申し立てが出そうだけど。(笑)
最後に加えると、会場で申し込んだ図録が昨日届いた。
200ページ弱の立派なもので、何と無料。太っ腹なAA研に海よりも深く感謝。
印刷された図版の色合いなどは....うーむ、残念ながらサイトの画像の方が正確に表現されていると思う。しかし、この図録には原著に記されたラットレー自身による解説の翻訳がまるまる載っているのだ。これは貴重である。本当に嬉しく、これから読むのが本当に楽しみだ。そして、AA研の次の催しも。
『DVD』
昨年はCD元年、そして今年はDVD元年である。経緯は全く同じ。これまでMacでしか扱えなかったのを、晴れて独立したプレーヤを購入したのである。ただし、こちらは4000円を切った中国製の安物。テレビだって21インチのブラウン管式だけど、一番の違いはガンマ値。要するに暗くて諧調の少ないパソコンのモニター映像よサヨナラで、やっとまともな映像を見られるようになった。(実は自作DVDの画質チェックが主目的だったりする)
もうひとつの目的が5.1chサラウンド。だから、最初に買ったのも『スターウォーズ/エピソード3』だったりする。
ま、これはMacで再生の時代の話。テレビというかAVアンプに接続できるようになって、ビデオと同じ6ch環境での鑑賞が楽しめるようになった。
ところが、最近買っているソフトを見ると、5.1chなんてどうでも良くなったというか、やっぱり作品内容中心で、サウンドもモノラル作品が多かったりする。(笑)
この半年ぐらいに購入したソフトをざっと紹介すると。
★★『ロシアより愛をこめて』
007シリーズがスパイ映画だったのは、せいぜい次の『ゴールドフィンガー』まででしょ。ヒーロー映画ツーか、スーパーマン映画としての007は極一部の例外を除いて好きではない。特に私はロジャー・ムーアのジェームズ・ボンドが大嫌いで(ロジャー・ムーアが嫌いなわけではない。『北海ハイジャック』の極度に女嫌いのキャラクターなどは好き。でも、基本的に大根役者であるとは思う。ついでに、若干期待したのはティモシー・ダルトン)、このシリーズはとっくに終わっていると思っている。
話が横道にそれたけれど、この作品の素晴らしさはわざわざ言うまでもないはず。既に語り尽くされていると思うし、一言でまとめれば「リアリティが豪華」である。アクションシーンも画面から痛みが伝わってくる。それと、やっぱりダニエラ・ビアンキですな。某服飾評論家が、あの黒いリボンだけの衣装が何にも増してゴージャスと言っていたけれど、我が意を得たりという感じ。シリーズ最高の1作……ではなくて、他は全部いらない。
★★『我輩はカモである』
日本の喜劇やチャップリン作品みたいなペーソスのあるコメディって……作品としては良いと思ってもコメディとしてはどうかなと思ってしまう。ザッカー兄弟作品みたいな笑うだけ笑ってストーリーなんてどうでもいいような「おバカ映画」が大好きだ。
マルクス兄弟の過激な笑いは今日でも全く色あせていない。現代的と表するよりも、今日の笑いに与えた影響の大きさを実感させられる。特にグルーチョの毒舌マシンガントーク以上に、台詞を一言も発しないハーポのナンセンスさがすごい。
★★★『ブラザー・サン シスター・ムーン』
地球環境に優しくないティッシュ消費量の多い作品。ほとんどのシーンが頭に入っている私はスズメがアップになっただけで涙腺が緩んでしまう。端から見ればバカである。
『ロミオとジュリエット』の監督フランコ・ゼフィレッリによる「アッシジのフランチェスコの青春時代」はストレートな物語故に、中心になるのはキリスト教信仰。しかし、時代のテイストがスパイスとしてたっぷり乗っているから、フランチェスコが自由を求めて世間から外れたヒッピーのように描かれている。このスパイスを「けれん味」と訳すかで評価も分かれると思う。いや、実際にそうなんだろうけど、私の場合は「だから」ころりとまいって共感してしまう。
フランチェスコが教会で神の幻影を見て叫ぶ「ノー」の叫びは、70年代の「ノー」に共鳴する。すべてを拒否することで、新しい自我が誕生する響き。これほど集約された台詞は他に思い浮かばない。そしてこれまた頭の中に響かせるだけで涙腺が緩んでしまう。
時代のスパイスと言えば、欠かせないのが音楽。担当がドノバンと聞くだけで、わかる人には全体のイメージがすぐに広がるだろう。正にそれなのだ。生ギター1本による弾き語りが実に映画にマッチしている……と言うより、別のテイストで深みと広がりを与えている。これまた70年代への共鳴だ。
クララ役(架空の設定と思うが)ジュディ・バウカーの愛らしさ美しさは別格で、他の出演作がほとんどないのはイメージを壊されないためにも幸いだ。プラトニックな恋愛映画でもある。
そして、出演者の中で別格なのが教皇役のアレック・ギネス。登場する後半の山場で、作品全体の重みがまるで違ってくるからすごい。さすが名優。彼が名を呼ぶ「フランチェスコ」の台詞もいつでも頭の中で響かせられるし、涙腺が緩んでしまう。
考えてみたら、ほとんどすべてのシーンを思い描くことができるなぁ。全編お気に入りという、正に宝物のような映画である。衣装や美術、アッシジの風景も本当に素晴らしい。
この映画が上映されたのは『ジーザス・クライスト・スーパースター』とほぼ同時期(制作されたのは1年早い1972年)で、当時は勝手にイタリア製の便乗パチモンだと思ってしまった。だから、後になって(全然期待しないで)見た時には、それまでの長い年月を本当に悔いたものだ。ロードショー公開時にリアルタイムで見ていたら、人生が変わっていたかもしれない。
★★『コープスブライド』
ティム・バートン作品はイイね。これも泣ける。購入したのはマペットの技術的な面が目的だったけど、そんなことどうでもよくなるほど映画作品として引き込まれていった。技術面しか印象に残らない日本のCG作品があるよねぇ。
★★『ダ・ヴィンチ・コード』
作品に登場した不気味な寺院など、じっくり見たいじゃありませんか。
★『初恋のきた道』
号泣映画という宣伝文句だったけど、中国娘とのヤケド経験者には……アハハハハ。
★★★『アルタード・ステーツ』
この作品が廉価版で出ていたとは。見つけて即購入。
巷ではウィリアム・ハートの初主演作ということで話題のようだけど、前半のノンフィクションとも言える作りと、後半のB級SF的テイストとの落差に唖然とする怪作。
好きな作品だけど、人には勧めない。その代わり「この作品が好きだ」という人と出会いたいとは思う。これも1980年に作られたどっぷり70年代テイストである。
冒頭からいきなり登場するアイソレーションタンクの話は本物だし、ドラッグ体験(特にメキシコでの)もドキュメンタリー的。主人公のモデルは我が敬愛するマッド・サイエンティスト、ジョン・C・リリー先生そのものであり、それにカスタネダなどのスパイスが加えられている。だから、これは映画による絵空事ではなく、ノンフィクションとして見てほしい……と言いたいのだが、ホント、後半の展開を何とかできなかったのかねぇ。もっとも前半の調子で終わりまで行ってしまったら上映すらされなかったかもしれないけどさ。フツーの人には後半の方がわかりやすいのかもしれないし……。B級SF的な後半のストーリーは書く気にもなれない。
ストーリーより細部を楽しむ映画かもしれない。マリファナ・パーティーで流れるドアーズの音楽、前述のアイソレーションタンク、その設置された研究室の雰囲気、幻覚植物の成分に関するやりとり……どれも思わず笑みがこぼれてしまうほどマニアックだなぁ。
ちなみに監督はケン・ラッセル。
トランスパーソナル心理学をベースにした作品には『ブレインストーム』もあり、これも絶対に手に入れるつもり。こちらはホロトロピック・ブリージングつーよりLSDセラピーで有名なスタニスラフ・グロフ教授の研究が後半の死を体験するストーリーのベースになっている。でも、映画館で見た時にのけぞったのは感覚の記録装置の再生シーン。極普通の世界なのに独特のパースペクティブが「うわ〜、これ、LSD体験まんまやんけ」(笑)
家庭用テレビの小さな画面で同じ感覚が得られるかは大いに疑問だけど、全体的な構成などもしっかりしていて、こちらはSF作品映画として十分楽しめるはず。
エアチェックしたビデオと重複する作品もあるけれど、やはりお金を出して手に入れる作品には自分の好みというかこだわりが強く出てしまうようである。
『タミル語は噛ませ犬?』
相変わらずやっております。タミル語。
今はまだひたすら単語丸暗記の苦行の段階。
量の変化は質の変化につながると言うが、ある程度の語彙を持つようになると相互の関係が見えてくる。たとえば最もわかりやすいのは接頭語。英語なら「un」「de」「ex」などを単語の前につけるだけで、語彙の増加が足し算から掛け算に変わる。タイ語なら「マイ」や「ナー」をつけることで、ひとつの動詞を否定、疑問、形容詞へと変化させられる。
そういったことを「発見」すると言語の学習は俄然面白くなる。
丸暗記の段階では語彙を増やしても、それぞれがばらばらで、1+1が2以上にならない。新しい言語の幹に相当する法則(最も基礎的な文法)を発見できれば、葉っぱ(語彙)と葉っぱの間が枝でつながっていき、ひとつの単語を使い回せるようになる。早く発見して楽になりたいものだ。
英語の場合はすでに葉っぱは生活環境の中に溢れかえっているから、幹に相当するのは発音というのが持論。発音のコツがわかって通じるようになれば、手持ちの単語をどんどん使ってみたくなる。
タミル語の場合、まず葉っぱ集めから始めなければならない。法則も何もわからない丸暗記から始めるのだから無味乾燥であることこの上ない。語彙が少し増えて、たとえば医者が「マルトワルウェル」病院が「マルットワマナイ」なら「マルト」が「医」に関係あるのかな程度は見えてきたが、まだまだ「それがどうした」の段階である。単純な数字でも微妙に変化するのが「つながる単語との関係」なのか「発音上の法則」なのかわからない状態だ。
時々「ヒンディー語だったらこう言うのにな」と思う。
あれれ。ヒンディー語の知っているフレーズなんてかろうじて2桁程度だったんではないか。あれも法則を見つけられずに半ば挫折した言語だったはずだったのに。
物置を片付けたついでに、一昔前に買った教材を引っ張りだしてみた。はっきり言って、お上品な・西洋的なフレーズばかりで役に立たないと投げ出したはずなのに。
パラパラとページをめくってみる。タイプ印刷をコピーした小冊子(需要がなかったんだな)はトナーがくっついて……だから、本当はペリペリとはがしながら。
[以下、なぐり書きで追記]
で、今はどうなっているかと言うと。ヒンディー語のテープ教材をiPodに取り込み、タミル語と同じように学習している。記憶力の低下は抗うすべもないが、ヒンディー語なら意味不明の呪文のように響かない。何となく手がかりが見えてきている。楽観的すぎるかもしれないが、もうじきブレイクスルーする予感がある。
自分でも呆れたことに、最近はさらにタイ語まで加わっている。日常会話なら不自由しないので、こちらの教材(と言っても小冊子に過ぎないけど)も長いこと放置状態だった。ヒンディー語と同じく、お上品な・西洋的なフレーズなんていらないと思っていたのだ。
きっかけはカタカナで記された発音。読んでみると、自分なりに修正してタイ語らしく発音できることに気づいたのである。これならテープやCDはいらないし、ポケットに入れておくだけでどこでも暇な時に学習できる。
タミル語が他の外国語を再学習するきっかけになったのはいいけれど、これじゃまるで噛ませ犬ではないか。はたして使えるようになるのだろうか。ヒンディー語、タイ語と反比例するように、自信がしぼんでいく。嗚呼。