好きなことについて書くと、どうしても長くなってしまう。
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【ことば】

「好きな言葉」はプロフィール欄などで時々見かけるが、共感を覚える言葉に出会ったことはない。どうも私とは感覚が、あるいは言葉に対する距離が違うようだ。

『策に溺れる』
 私は基本的に頭の悪い人間が嫌いだ。もっと嫌いなのが間抜け。おかげで猛烈な自己嫌悪に陥ることがある。(^_^;)

 それはともかく、頭の悪い人間が主人公のドラマは見ていてつまらない。この点は数学者の秋山先生と同じである。暴力だけで事件を解決する刑事物など不快になるだけ。それなら、おバカを主人公にしたもののほうがよっぽど面白い。(日本では世界に類がないほど笑いの芸が盛んだけど、おバカを主役にして成功した映画やドラマがない。喜劇はあっても、ザッカー兄弟やMr.ビーンのようなおバカ映画が出てこない。これは文化の違いなのだろうか)

 で、好きな言葉になるわけだが、現実世界では頭の悪い犯罪者というのが嫌いだ。頭の悪い人間は策に溺れることがない。そもそも策など練らないからだ。行き当たりばったりの暴力事件など最低である。
 だからといって、あっさり犯罪を成功させてしまう頭の良い人間が好きなわけでもない。本人が完全犯罪成立と確信するほど考えに考えて、ところが「やりすぎちゃって」失敗する。この微妙なさじ加減がいい。
 過ぎたるは及ばざるがごとしと言うけれど、失敗の原因にものすごく人間臭いものを感じてしまうのだ。

 何が原因で余計なことをしてしまったのか。それは専門領域に関しては天才的頭脳を持っていても世間知らずだったり、自分に対する過信だったり、頭は良くても肝っ玉は小さい心の弱さだったり、千差万別。策に溺れた数だけ人間のいろいろな面が見えてくる。
 ついでに策に溺れた犯罪者ほど捕まった時に、実に味のあるトホホ顔をしているのだな。

『暴風波浪警報』
 台風の夜。外では強風が吹き荒れ、猛烈な雨が窓を打つ。眠れずテレビのスイッチをつけると、暗い部屋にテレビの画面だけがまぶしく光り、ほとんど抑揚のない機械的な口調で天気概況が延々と繰り返されていく。
「千葉県南部、暴風波浪警報。東京都心部、暴風波浪警報。東京多摩地区、暴風波浪警報。神奈川北部、暴風波浪警報。
 この長音だらけのボーフーハローケーホー。繰り返し聞かされていると、般若心経の「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー」みたいなマントラに思えてくる。台風の興奮を高めてくれる最高の呪文である。

『あべこべ』
 数ある日本語の中で面白い音の単語と言えば、これでしょう。何度も声に出して繰り返してみてくださいな。実にへんてこな音であると実感できるでしょう。

[060719]

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【Kate Bush】

 初めて訪れたカルカッタ。夜になると安宿の屋上でフルートを吹くキザなフランス野郎ときっかけもなく親しくなった。フランス人らしくない(ある意味では日本人が勘違いしているフランス人らしい)フランス人と日本人らしくない日本人は互いのアンテナに感応しあったのかもしれない。
 最少の荷物で旅する彼もザックの中には数本のカセットテープを入れていた。テレコは誰かに借りるというのが彼のスタイルだ。お気に入りの音楽を楽しんだ後で、彼は1本のテープをセットしてヘッドフォンを差し出した。最初の1音が響いた瞬間、極彩色の世界が、涙が出そうになるほどの至福が広がった。
 ケイト・ブッシュの『嵐が丘』。
 まんまるに見開いた目の前には、満面の笑みがあった。

 日本を出る前にユーラシアを陸路で横断しようとだけ考えていた。東の端はシンガポール。西の端は‥‥旅が始まってもゴールは決まっていなかった。ジブラルタル、それとも海を渡ってイギリス。実は今まで一度も語ったことがないけれど、選択肢のひとつに「ケイト・ブッシュに会う」というのもあった。
 そのぐらい出発前の私にとって彼女はお気に入りだったのである。

 ところが、インドが人生の分岐点になり、帰国後の自分にとってケイト・ブッシュは「前の時代」に属することになってしまった。お気に入りの名残りはあったものの、積極的に聴くことはなくなった。
 あらためてアルバムを聴いてみて、無意識に避け続けた理由がわかってきた。彼女の歌や音楽とは別に、言ってみれば昔の勝手な思い入れみたいなものが、前時代の自分の触れたくない部分とリンクしているのだ。あまり具体的には触れたくないが、彼女が自ら学校を拒否することを決めたというプロフィールを読み直せば「それができなかった」と受け止めた自分や、それ以前の拒否すべき状況にいた自分が「感覚の固まり」として蘇ってしまう。生理的な感覚として再体験する過去は苦痛だ。
 しかし、前時代の出来事であり、昔の自分の出来事である。穴埋めはできないことではない。ちょうど心理療法を施すように‥‥。

 という前置きの後で聴き直してみると、当時はいったい何を聴いていたのだと思うほど、ケイト・ブッシュの才能が見えてくる。デビューアルバムは十代の天才少女ならではの世界が、十代の少女とは思えない完成度で迫ってくる。詩の内容、声の表現力、何から何まで「グレイト」としか言いようがない。いろいろな音楽を聴いてきたことで、ようやく「独創的な」の部分が本来のサイズでわかってきたのかもしれない。

 音楽性についてはあえて記さない。その強い個性は好き嫌いがはっきり分かれると思うが、音楽的な面は聴けばわかるはずのものだ。わからない人には「かわいそう」としか言えない。
 今になって理解できるようになり、本当に驚いたのは詩の世界だ。デビューアルバムの歌詞にざっと目を通しただけで目眩がしてきた。言葉のイメージの広げ方は歌詞の枠を超えて、現代詩として評価したくなる。全体に神秘主義への関心も色濃くうかがえる。
 それにしても、天才的な自由奔放さである。いくら早熟だからって十代の少女が歌の中にチベット仏教のマントラやグルジェフの名前を入れるかぁ。残念なことにリアルタイムで聴いていた二十代の私は普通の人であったから、意味以前にグルジェフの名前すら知らなかった。あまりの差にイヤになっちゃう。

 ただし、わかっていなかったのは私一人ではない。ケイト・ブッシュの才能と同時に見えてきたのが、日本版のアルバムにはつきものの対訳のひどさ。歌詞の内容がわかっていないだけでなく、英語の和訳としても最低。とんでもない間違いをばらまいた責任は重く、これで原稿料を受け取っていた(はず)だから多いに罵倒させていただく。

 1曲目の「moving」をラブソングとして訳していることから呆れてしまう。意訳する必要がないではないか。直訳するだけでも、文字どおり「動き」をテーマにした詩であることは明らかだ。これは「moving」を「引越し」と誤訳したに等しい。
 輪をかけてひどいのが「kite」の冒頭部分。「ベルゼバブが子宮の中で疼いている」には10トンダンプと衝突したぐらいの衝撃を受けた。十代の少女の発想とは思えない、しかし十代の少女ならではとも言える、つまり最もケイト・ブッシュらしさの極みである。女に生まれたとしても、こんな発想は一生浮かばないだろうなぁ、絶対に。
 対訳ではベルゼバブが「魔王」になっている。ベルゼバブを知らないことは責められない。しかし、辞書を引けよ。ちゃんと載っている辞書を使えよ。プロだろ。まったく根拠のわからない「魔王」と訳すのは、流言飛語の流布に相当する犯罪だ。はっきり言って、こいつバカだよ。

 この訳者が無知であることは、別の歌に出てくるグルジェフをガージェフと記していることからも明らかだ。そのあたりを何も知らないでケイト・ブッシュの詩の世界に触れることは不可能だ。
 グルジェフを偉大な神秘思想家と評するには臆する部分がある。しかし、うさんくさいけれど魅力的な、知的好奇心をそそられる人物であるとは言えるだろう。ベルゼバブとはこの二十世紀最大の謎の人物(この表現が適切かな)の著作に登場する重要な存在の名前である。
(ベルゼバブもグルジェフもわからない人は調べてみるといい。それまで考えもしなかった、とんでもない世界が広がるはずだ。『注目すべき人々との出会い』はふぇいばりっとに入れようかと思っている)
 要するに、デビューアルバムに添えられた対訳は、一歩目で間違え、そのまま最後まで突き進んだ一点の曇りもない愚かさに貫かれているのである。

 とにかくケイト・ブッシュの詩の世界を知るには、対訳をヒントにしては絶対にダメ。訳者が何もわかっていないおバカさんなのだ。現代詩を読むつもりで原文を読むしかない。みずみずしい感性によるユニークなイメージの展開を、彼女ならではのユニークな声を駆使して、まるで演劇のように表情豊かに表現しているのがケイト・ブッシュの音楽である。と、偉そうに言ってるけど、それがようやくわかってきたところなんだな。
 長い空白を埋めるためにしばらくはその世界に浸りたいと思っている。

[060715]