第50話 2024/3/2
壬申の乱の必要性と大宰府
『古事記』・『日本書紀』は天神(あまつかみ)が日向に降臨し、その直系の神武天皇が奈良盆地に東征して本拠と定め、ここから全国を平定して、奈良朝廷になったと記す。古代史の研究者の間では、『記紀』の≪天孫降臨≫と≪神武東征≫は、≪奈良盆地に生まれた勢力≫の由来を≪天上の神≫に結び付ける神話に過ぎないが、日本列島では唯一この≪奈良盆地に生まれた勢力≫が王朝と呼べる国に育ち、奈良朝廷になったと見る史観が≪定説≫となっています。
第49話 2024/3/2
隠日本語におけるm音とb音の交代現象
日本語には「ま行のm音」と「ば行のb音」が入れ替わっても、意味の変わらない言葉が一杯ある。そしてそれらの言葉には、奈良時代から使われていると見られる古い言葉も多い。
すなわち、『古事記』は編纂当時の大和朝廷の天皇にとって、不都合かつ不必要な史書であり、『日本書紀』は逆に都合がよく、必要であったということで
す。
第48話 2024/2/19
古代に「北海道」はあったのか
「五畿七道の謎」は、従来(近畿)の立場からは、説明出来ないものがあります。それは「北海道」の不在です。この「北海道」とは現在の行政区域である北海道のことでは有りません。「北海道」という表現の不在を指します。
「北海道」という言葉は明治二年に北海道開拓使が設置されるまで日本史上に存在しません。「東海道」「西海道」「南海道」があるにもかかわらず、何故、「北海道」だけが無いのか。もっと突っ込んで云えば、何故「北陸道」を「北海道」と名付けなかったのでしょうか。
第47話 2024/2/19
銅鐸文明の人びと(天皇前史について)
銅鐸は出雲王朝の持っていた神宝か
南船北馬説(室伏
志畔氏)というのがあります。交通手段に、長江下流の人が船を使い、北方騎馬民族は馬を使った。その違いで、南船系の倭人と北馬系の倭人を考えますと、日本というのは紀元前の5世紀から4世紀頃に長江下流にあった、呉や越の亡国の民が、呉越同舟して黒潮分流に乗って、韓半島や日本列島にやってきました。この人達が王権を作っていったと考えられます。古代王権は日本海側を流れたと言えます。
第46話 2023/9/18
初めてと始まりの継体(神武・崇神・継体・文武)
日本古代史の中には、謎がたくさんあります。今回取り上げる、天皇の系譜・系統・継体もその一つであります。日本では、古代王朝が変わり別の王朝になったとき年号を使って来ました。つまり「建元」して「改元」を繰り返している訳です。初めての「建元」は定かではありませんが、わかっている範囲では、次のようです。
第55話 2024/9/18
改訂版「銅鐸民族 」
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた。
●「銅鐸民族」の概念なくして弥生時代の理解は不可能である。
弥生時代の終わり頃、おびただしい数の銅鐸を置き去りにしたまま忽然と〝蒸発〟した、何十万もの人々がいました。彼らの「声なき声」を頼りに調査した結果、ついにその行き先を突き止めることができました。彼らの悲劇の結末を多くの人々に知っていただくとともに、暗黒の古墳時代の正体を明らかにします。
第54話 2024/7/29
天皇陵はなぜ造られたか
じつは天皇陵と言いますが、奈良県から大阪府にかけてあります。皆さんもよくご存知だとおもいますが。これが実は、本当の目的、お墓ともう一つの目的、実はこれは(古代の)軍事要塞であった。
つまり砦(とりで)
として作られていたという[仮説]を述べさせていただきます。
第53話 2024/7/29
環太平洋の縄文人
一般的には10万年前から20万年前に、アフリカに出現した新人類は世界に広まり,アジアのモンゴロイド人はシベリアに3万年前,アラスカには1.5万年前に、ベーリングを経由して,南アメリカには1.2万年前に到達した。結果アメリカ大陸の原住民をなし,中米のアステカやマヤ文明,南米のインカ帝国を生んだと言われている。
第52話 2024/7/28
古代DNAが、解き明かす日本人
タイ南部の密林ここにわずか30人ほどで、ひっそりと暮らし続ける集団がいる。
森の民「マニ族」だ。外部との関わりを断って、何千年もの間変わらない狩猟採集生活を続けてきた人々だという。
実は、この森の民が日本人の起源を知る上で、重要なヒントとなることが最新の研究で明らかになってきた。
第51話 2024/7/28
(改訂版)郡評論争と大化の改新
「郡評論争」とは、それまではだいたい信用できると考えられていた『日本書紀』は、実際には潤色が多分に含まれていて、どこまで信用できるか分からないとされるようになった大論争のことです。
具体的には、『日本書紀』に大化改新で制定されたと書かれている地方行政単位の「郡」は実際にはその時には制定されていないんじゃないか?つまり『日本書紀』のその部分は実際には信憑性が低いんじゃないか?ということに関する師弟対決の大論争です。日本の古代史研究のあり方を見直さなくてはならなくなったほどの大論争でした。
師である東大教授坂本太郎氏と弟子の同じく東大教授井上光貞氏(最初の論文発表当時はまだ教授ではなかった)の間で行われた論争です。