古事記 現代語譯 古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)安萬侶《やすまろ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|方《かた》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11] ------------------------------------------------------- [#1字下げ]古事記 上の卷[#「古事記 上の卷」は同行大見出し] 序文がついています [#2字下げ]序文[#「序文」は中見出し] [#5字下げ]過去の時代(序文の第一段)[#「過去の時代(序文の第一段)」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――古事記の成立の前提として、本文に記されている過去のことについて、まずわれわれが、傳えごとによつて過去のことを知ることを述べ、續いて歴代の天皇がこれによつて徳教を正したことを述べる。太の安萬侶によつて代表される古人が、古事記の内容をどのように考えていたかがあきらかにされる。古事記成立の思想的根據である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  わたくし安萬侶《やすまろ》が申しあげます。  宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊《みそぎ》をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。  ほんとにそうです。神々が賢木《さかき》の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。 [#5字下げ]古事記の企畫(序文の第二段)[#「古事記の企畫(序文の第二段)」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。後半、古來の傳えごとに關心をもたれ、これをもつて國家經營の基本であるとなし、これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、まだ書物とするに至らなかつたことを記す。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  飛鳥《あすか》の清原《きよみはら》の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。  ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。 [#5字下げ]古事記の成立(序文の第三段)[#「古事記の成立(序文の第三段)」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――はじめに元明天皇の徳をたたえ、その命令によつて稗田の阿禮の誦み習つたものを記したことを述べる。特に文章を書くにあたつての苦心が述べられている。そうして記事の範圍、およびこれを三卷に分けたことを述べて終る。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王《うおう》よりも高く聞え御徳は殷《いん》の湯王《とうおう》よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。  しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。 [#2字下げ]和銅五年正月二十八日 [#地から2字上げ]正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶 [#3字下げ]一、イザナギの命とイザナミの命[#「一、イザナギの命とイザナミの命」は中見出し] [#5字下げ]天地のはじめ[#「天地のはじめ」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――世界のはじめにまず神々の出現したことを説く。これらの神名には、それぞれ意味があつて、その順次に出現することによつて世界ができてゆくことを述べる。特に最初の三神は、抽象的概念の表現として重視される。日本の神話のうちもつとも思想的な部分である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御《お》三|方《かた》は皆お獨で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました。次に國ができたてで水に浮いた脂のようであり、水母《くらげ》のようにふわふわ漂つている時に、泥の中から葦《あし》が芽《め》を出して來るような勢いの物によつて御出現になつた神樣は、ウマシアシカビヒコヂの神といい、次にアメノトコタチの神といいました。この方々《かたがた》も皆お獨で御出現になつて形をお隱しになりました。  以上の五神は、特別の天の神樣です。  それから次々に現われ出た神樣は、クニノトコタチの神、トヨクモノの神、ウヒヂニの神、スヒヂニの女神、ツノグヒの神、イクグヒの女神、オホトノヂの神、オホトノベの女神、オモダルの神、アヤカシコネの女神、それからイザナギの神とイザナミの女神とでした。このクニノトコタチの神からイザナミの神までを神代七代と申します。そのうち始めの御二方《おふたかた》はお獨立《ひとりだ》ちであり、ウヒヂニの神から以下は御二方で一代でありました。 [#5字下げ]島々の生成[#「島々の生成」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――神が生み出す形で國土の起原を語る。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこで天の神樣方の仰せで、イザナギの命《みこと》・イザナミの命《みこと》御二方《おふたかた》に、「この漂つている國を整えてしつかりと作り固めよ」とて、りつぱな矛《ほこ》をお授けになつて仰せつけられました。それでこの御二方《おふたかた》の神樣は天からの階段にお立ちになつて、その矛《ほこ》をさしおろして下の世界をかき※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]され、海水を音を立ててかき※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して引きあげられた時に、矛の先から滴《したゝ》る海水が、積つて島となりました。これがオノゴロ島です。その島にお降《くだ》りになつて、大きな柱を立て、大きな御殿《ごてん》をお建《た》てになりました。  そこでイザナギの命が、イザナミの女神に「あなたのからだは、どんなふうにできていますか」と、お尋ねになりましたので、「わたくしのからだは、できあがつて、でききらない所が一か所あります」とお答えになりました。そこでイザナギの命の仰せられるには「わたしのからだは、できあがつて、でき過ぎた所が一か所ある。だからわたしのでき過ぎた所をあなたのでききらない所にさして國を生み出そうと思うがどうだろう」と仰せられたので、イザナミの命が「それがいいでしよう」とお答えになりました。そこでイザナギの命が「そんならわたしとあなたが、この太い柱を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りあつて、結婚をしよう」と仰せられてこのように約束して仰せられるには「あなたは右からお※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りなさい。わたしは左から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてあいましよう」と約束してお※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りになる時に、イザナミの命が先に「ほんとうにりつぱな青年ですね」といわれ、その後《あと》でイザナギの命が「ほんとうに美《うつく》しいお孃《じよう》さんですね」といわれました。それぞれ言い終つてから、その女神に「女が先に言つたのはよくない」とおつしやいましたが、しかし結婚をして、これによつて御子《みこ》水蛭子《ひるこ》をお生《う》みになりました。この子はアシの船に乘せて流してしまいました。次に淡島《あわしま》をお生みになりました。これも御子《みこ》の數にははいりません。  かくて御二方で御相談になつて、「今わたしたちの生《う》んだ子《こ》がよくない。これは天の神樣のところへ行つて申しあげよう」と仰せられて、御一緒《ごいつしよ》に天に上《のぼ》つて天の神樣の仰せをお受けになりました。そこで天の神樣の御命令で鹿の肩の骨をやく占《うらな》い方《かた》で占いをして仰せられるには、「それは女の方《ほう》が先《さき》に物を言つたので良くなかつたのです。歸り降《くだ》つて改めて言い直したがよい」と仰せられました。そういうわけで、また降つておいでになつて、またあの柱を前のようにお※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りになりました。今度はイザナギの命《みこと》がまず「ほんとうに美《うつく》しいお孃さんですね」とおつしやつて、後にイザナミの命が「ほんとうにりつぱな青年ですね」と仰せられました。かように言い終つて結婚をなさつて御子の淡路《あわじ》のホノサワケの島をお生みになりました。次に伊豫《いよ》の二名《ふたな》の島(四國)をお生《う》みになりました。この島は身《み》一つに顏《かお》が四つあります。その顏ごとに名があります。伊豫《いよ》の國をエ姫《ひめ》といい、讚岐《さぬき》の國をイヒヨリ彦《ひこ》といい、阿波《あわ》の國をオホケツ姫といい、土佐《とさ》の國をタケヨリワケといいます。次に隱岐《おき》の三子《みつご》の島をお生みなさいました。この島はまたの名をアメノオシコロワケといいます。次に筑紫《つくし》の島(九州)をお生《う》みになりました。やはり身《み》一つに顏が四つあります。顏ごとに名がついております。それで筑紫《つくし》の國をシラヒワケといい、豐《とよ》の國をトヨヒワケといい、肥《ひ》の國をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、熊曾《くまそ》の國をタケヒワケといいます。次に壹岐《いき》の島をお生みになりました。この島はまたの名を天一《あめひと》つ柱《はしら》といいます。次に對馬《つしま》をお生みになりました。またの名をアメノサデヨリ姫といいます。次に佐渡《さど》の島をお生みになりました。次に大倭豐秋津島《おおやまととよあきつしま》(本州)をお生みになりました。またの名をアマツミソラトヨアキツネワケといいます。この八つの島がまず生まれたので大八島國《おおやしまぐに》というのです。それからお還《かえ》りになつた時に吉備《きび》の兒島《こじま》をお生みになりました。またの名《な》をタケヒガタワケといいます。次に小豆島《あずきじま》をお生みになりました。またの名をオホノデ姫《ひめ》といいます。次に大島をお生《う》みになりました。またの名をオホタマルワケといいます。次に女島《ひめじま》をお生みになりました。またの名を天《あめ》一つ根といいます。次にチカの島をお生みになりました。またの名をアメノオシヲといいます。次に兩兒《ふたご》の島をお生みになりました。またの名をアメフタヤといいます。吉備の兒島からフタヤの島まで合わせて六島です。 [#5字下げ]神々の生成[#「神々の生成」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――前と同じ形で萬物の起原を語る。火の神を生んでから水の神などの出現する部分は鎭火祭の思想による。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  このように國々を生み終つて、更《さら》に神々をお生みになりました。そのお生み遊ばされた神樣の御《おん》名はまずオホコトオシヲの神、次にイハツチ彦の神、次にイハス姫の神、次にオホトヒワケの神、次にアメノフキヲの神、次にオホヤ彦の神、次にカザモツワケノオシヲの神をお生みになりました。次に海の神のオホワタツミの神をお生みになり、次に水戸の神のハヤアキツ彦の神とハヤアキツ姫の神とをお生みになりました。オホコトオシヲの神からアキツ姫の神まで合わせて十神です。このハヤアキツ彦とハヤアキツ姫の御二方が河と海とでそれぞれに分けてお生みになつた神の名は、アワナギの神・アワナミの神・ツラナギの神・ツラナミの神・アメノミクマリの神・クニノミクマリの神・アメノクヒザモチの神・クニノクヒザモチの神であります。アワナギの神からクニノクヒザモチの神まで合わせて八神です。次に風の神のシナツ彦の神、木の神のククノチの神、山の神のオホヤマツミの神、野の神のカヤノ姫の神、またの名をノヅチの神という神をお生みになりました。シナツ彦の神からノヅチまで合わせて四神です。このオホヤマツミの神とノヅチの神とが山と野とに分けてお生みになつた神の名は、アメノサヅチの神・クニノサヅチの神・アメノサギリの神・クニノサギリの神・アメノクラドの神・クニノクラドの神・オホトマドヒコの神・オホトマドヒメの神であります。アメノサヅチの神からオホトマドヒメの神まで合わせて八神です。  次にお生みになつた神の名はトリノイハクスブネの神、この神はまたの名を天《あめ》の鳥船《とりふね》といいます。次にオホゲツ姫の神をお生みになり、次にホノヤギハヤヲの神、またの名をホノカガ彦の神、またの名をホノカグツチの神といいます。この子《こ》をお生みになつたためにイザナミの命は御陰《みほと》が燒かれて御病氣になりました。その嘔吐《へど》でできた神の名はカナヤマ彦の神とカナヤマ姫の神、屎《くそ》でできた神の名はハニヤス彦の神とハニヤス姫の神、小便でできた神の名はミツハノメの神とワクムスビの神です。この神の子はトヨウケ姫の神といいます。かような次第でイザナミの命は火の神をお生みになつたために遂《つい》にお隱《かく》れになりました。天の鳥船からトヨウケ姫の神まで合わせて八神です。  すべてイザナギ・イザナミのお二方の神が、共にお生みになつた島の數は十四、神は三十五神であります。これはイザナミの神がまだお隱れになりませんでした前にお生みになりました。ただオノゴロ島はお生みになつたのではありません。また水蛭子《ひるこ》と淡島とは子の中に入れません。 [#5字下げ]黄泉《よみ》の國[#「黄泉の國」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――地下にくらい世界があつて、魔物がいると考えられている。これは異郷説話の一つである。火の神を斬る部分は鎭火祭の思想により、黄泉の國から逃げてくる部分は、道饗祭の思想による。黄泉の部分は、主として出雲系統の傳來である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこでイザナギの命の仰せられるには、「わたしの最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ」と仰せられて、イザナミの命の枕の方や足の方に這《は》い臥《ふ》してお泣《な》きになつた時に、涙で出現した神は香具山の麓の小高い處の木の下においでになる泣澤女《なきさわめ》の神です。このお隱れになつたイザナミの命は出雲《いずも》の國と伯耆《ほうき》の國との境にある比婆《ひば》の山にお葬り申し上げました。  ここにイザナギの命は、お佩《は》きになつていた長い劒を拔いて御子《みこ》のカグツチの神の頸《くび》をお斬りになりました。その劒の先についた血が清らかな巖《いわお》に走りついて出現した神の名は、イハサクの神、次にネサクの神、次にイハヅツノヲの神であります。次にその劒のもとの方についた血も、巖に走りついて出現した神の名は、ミカハヤビの神、次にヒハヤビの神、次にタケミカヅチノヲの神、またの名をタケフツの神、またの名をトヨフツの神という神です。次に劒の柄に集まる血が手のまたからこぼれ出して出現した神の名はクラオカミの神、次にクラミツハの神であります。以上イハサクの神からクラミツハの神まで合わせて八神は、御劒によつて出現した神です。  殺されなさいましたカグツチの神の、頭に出現した神の名はマサカヤマツミの神、胸に出現した神の名はオトヤマツミの神、腹に出現した神の名はオクヤマツミの神、御陰《みほと》に出現した神の名はクラヤマツミの神、左の手に出現した神の名はシギヤマツミの神、右の手に出現した神の名はハヤマツミの神、左の足に出現した神の名はハラヤマツミの神、右の足に出現した神の名はトヤマツミの神であります。マサカヤマツミの神からトヤマツミの神まで合わせて八神です。そこでお斬りになつた劒の名はアメノヲハバリといい、またの名はイツノヲハバリともいいます。  イザナギの命はお隱れになつた女神《めがみ》にもう一度會いたいと思われて、後《あと》を追つて黄泉《よみ》の國に行かれました。そこで女神が御殿の組んである戸から出てお出迎えになつた時に、イザナギの命《みこと》は、「最愛のわたしの妻よ、あなたと共に作つた國はまだ作り終らないから還つていらつしやい」と仰せられました。しかるにイザナミの命《みこと》がお答えになるには、「それは殘念なことを致しました。早くいらつしやらないのでわたくしは黄泉《よみ》の國の食物を食《た》べてしまいました。しかしあなた樣《さま》がわざわざおいで下さつたのですから、何《なん》とかして還りたいと思います。黄泉《よみ》の國の神樣に相談をして參りましよう。その間わたくしを御覽になつてはいけません」とお答えになつて、御殿《ごてん》のうちにお入りになりましたが、なかなか出ておいでになりません。あまり待ち遠だつたので左の耳のあたりにつかねた髮に插《さ》していた清らかな櫛の太い齒を一本|闕《か》いて一|本《ぽん》火《び》を燭《とぼ》して入つて御覽になると蛆《うじ》が湧《わ》いてごろごろと鳴つており、頭には大きな雷が居、胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足にはねている雷が居て、合わせて十種の雷が出現していました。そこでイザナギの命が驚いて逃げてお還りになる時にイザナミの命は「わたしに辱《はじ》をお見せになつた」と言つて黄泉《よみ》の國の魔女を遣《や》つて追《お》わせました。よつてイザナギの命が御髮につけていた黒い木の蔓《つる》の輪を取つてお投げになつたので野葡萄《のぶどう》が生《は》えてなりました。それを取つてたべている間に逃げておいでになるのをまた追いかけましたから、今度は右の耳の邊につかねた髮に插しておいでになつた清らかな櫛の齒《は》を闕《か》いてお投げになると筍《たけのこ》が生《は》えました。それを拔いてたべている間にお逃げになりました。後《のち》にはあの女神の身體中《からだじゆう》に生じた雷の神たちに澤山の黄泉《よみ》の國の魔軍を副えて追《お》わしめました。そこでさげておいでになる長い劒を拔いて後の方に振りながら逃げておいでになるのを、なお追つて、黄泉比良坂《よもつひらさか》の坂本《さかもと》まで來た時に、その坂本にあつた桃の實《み》を三つとつてお撃ちになつたから皆逃げて行きました。そこでイザナギの命はその桃の實に、「お前がわたしを助けたように、この葦原《あしはら》の中の國に生活している多くの人間たちが苦しい目にあつて苦しむ時に助けてくれ」と仰せになつてオホカムヅミの命という名を下さいました。最後には女神《めがみ》イザナミの命が御自身で追つておいでになつたので、大きな巖石をその黄泉比良坂《よもつひらさか》に塞《ふさ》いでその石を中に置いて兩方で對《むか》い合つて離別《りべつ》の言葉を交《かわ》した時に、イザナミの命が仰せられるには、「あなたがこんなことをなされるなら、わたしはあなたの國の人間を一日に千人も殺してしまいます」といわれました。そこでイザナギの命は「あんたがそうなされるなら、わたしは一日に千五百も産屋《うぶや》を立てて見せる」と仰せられました。こういう次第で一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人生まれるのです。かくしてそのイザナミの命を黄泉津大神《よもつおおかみ》と申します。またその追いかけたので、道及《ちし》きの大神とも申すということです。その黄泉の坂に塞《ふさ》がつている巖石は塞いでおいでになる黄泉《よみ》の入口の大神と申します。その黄泉比良坂《よもつひらさか》というのは、今の出雲《いずも》の國のイブヤ坂《ざか》という坂です。 [#5字下げ]身禊《みそぎ》[#「身禊」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――みそぎの意義を語る。人生の災禍がこれによつて拂われるとする。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  イザナギの命は黄泉《よみ》の國からお還りになつて、「わたしは隨分|厭《いや》な穢《きたな》い國に行つたことだつた。わたしは禊《みそぎ》をしようと思う」と仰せられて、筑紫《つくし》の日向《ひむか》の橘《たちばな》の小門《おど》のアハギ原《はら》においでになつて禊《みそぎ》をなさいました。その投げ棄てる杖によつてあらわれた神は衝《つ》き立《た》つフナドの神、投げ棄てる帶であらわれた神は道のナガチハの神、投げ棄てる袋であらわれた神はトキハカシの神、投げ棄てる衣《ころも》であらわれた神は煩累《わずらい》の大人《うし》の神、投げ棄てる褌《はかま》であらわれた神はチマタの神、投げ棄てる冠であらわれた神はアキグヒの大人の神、投げ棄てる左の手につけた腕卷であらわれた神はオキザカルの神とオキツナギサビコの神とオキツカヒベラの神、投げ棄てる右の手につけた腕卷であらわれた神はヘザカルの神とヘツナギサビコの神とヘツカヒベラの神とであります。以上フナドの神からヘツカヒベラの神まで十二神は、おからだにつけてあつた物を投げ棄てられたのであらわれた神です。そこで、「上流の方は瀬が速い、下流《かりゆう》の方は瀬が弱い」と仰せられて、眞中の瀬に下りて水中に身をお洗いになつた時にあらわれた神は、ヤソマガツヒの神とオホマガツヒの神とでした。この二神は、あの穢い國においでになつた時の汚垢《けがれ》によつてあらわれた神です。次にその禍《わざわい》を直《なお》そうとしてあらわれた神は、カムナホビの神とオホナホビの神とイヅノメです。次に水底でお洗いになつた時にあらわれた神はソコツワタツミの神とソコヅツノヲの命、海中でお洗いになつた時にあらわれた神はナカツワタツミの神とナカヅツノヲの命、水面でお洗いになつた時にあらわれた神はウハツワタツミの神とウハヅツノヲの命です。このうち御三方《おさんかた》のワタツミの神は安曇氏《あずみうじ》の祖先神《そせんじん》です。よつて安曇の連《むらじ》たちは、そのワタツミの神の子、ウツシヒガナサクの命の子孫です。また、ソコヅツノヲの命・ナカヅツノヲの命・ウハヅツノヲの命|御三方《おさんかた》は住吉神社《すみよしじんじや》の三座の神樣であります。かくてイザナギの命が左の目をお洗いになつた時に御出現《ごしゆつげん》になつた神は天照《あまて》らす大神《おおみかみ》、右の目をお洗いになつた時に御出現になつた神は月讀《つくよみ》の命、鼻をお洗いになつた時に御出現になつた神はタケハヤスサノヲの命でありました。  以上ヤソマガツヒの神からハヤスサノヲの命まで十神は、おからだをお洗いになつたのであらわれた神樣です。  イザナギの命はたいへんにお喜びになつて、「わたしは隨分《ずいぶん》澤山《たくさん》の子《こ》を生《う》んだが、一|番《ばん》しまいに三人の貴い御子《みこ》を得た」と仰せられて、頸《くび》に掛けておいでになつた玉の緒《お》をゆらゆらと搖《ゆら》がして天照《あまて》らす大神にお授けになつて、「あなたは天をお治めなさい」と仰せられました。この御頸《おくび》に掛《か》けた珠《たま》の名をミクラタナの神と申します。次に月讀《つくよみ》の命に、「あなたは夜の世界をお治めなさい」と仰せになり、スサノヲの命には、「海上をお治めなさい」と仰せになりました。それでそれぞれ命ぜられたままに治められる中に、スサノヲの命だけは命ぜられた國をお治めなさらないで、長い鬚《ひげ》が胸に垂れさがる年頃になつてもただ泣きわめいておりました。その泣く有樣は青山が枯山になるまで泣き枯らし、海や河は泣く勢いで泣きほしてしまいました。そういう次第ですから亂暴な神の物音は夏の蠅が騷ぐようにいつぱいになり、あらゆる物の妖《わざわい》が悉く起りました。そこでイザナギの命がスサノヲの命に仰せられるには、「どういうわけであなたは命ぜられた國を治めないで泣きわめいているのか」といわれたので、スサノヲの命は、「わたくしは母上のおいでになる黄泉《よみ》の國に行きたいと思うので泣いております」と申されました。そこでイザナギの命が大變お怒りになつて、「それならあなたはこの國には住んではならない」と仰せられて追いはらつてしまいました。このイザナギの命は、淡路の多賀《たが》の社《やしろ》にお鎭《しず》まりになつておいでになります。 [#3字下げ]二、天照らす大神とスサノヲの命[#「二、天照らす大神とスサノヲの命」は中見出し] [#5字下げ]誓約《うけい》[#「誓約」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――暴風の神であり出雲系の英雄でもあるスサノヲの命が、高天の原に進出し、その主神である天照らす大神との間に、誓約の行われることを語る。誓約の方法は、神祕に書かれているが、これは心を清めるための行事である。結末においてさまざまの異系統の祖先神が出現するのは、それらの諸民族が同系統であることを語るものである。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこでスサノヲの命が仰せになるには、「それなら天照らす大神《おおみかみ》に申しあげて黄泉《よみ》の國に行きましよう」と仰せられて天にお上りになる時に、山や川が悉く鳴り騷ぎ國土が皆振動しました。それですから天照らす大神が驚かれて、「わたしの弟《おとうと》が天に上つて來られるわけは立派な心で來るのではありますまい。わたしの國を奪おうと思つておられるのかも知れない」と仰せられて、髮をお解きになり、左右に分けて耳のところに輪にお纏《ま》きになり、その左右の髮の輪にも、頭に戴かれる鬘《かずら》にも、左右の御手にも、皆大きな勾玉《まがたま》の澤山ついている玉の緒を纏《ま》き持たれて、背《せ》には矢が千本も入る靱《ゆぎ》を負われ、胸にも五百本入りの靱をつけ、また威勢のよい音を立てる鞆《とも》をお帶びになり、弓を振り立てて力強く大庭をお踏みつけになり、泡雪《あわゆき》のように大地を蹴散らかして勢いよく叫びの聲をお擧げになつて待ち問われるのには、「どういうわけで上《のぼ》つて來《こ》られたか」とお尋ねになりました。そこでスサノヲの命の申されるには、「わたくしは穢《きたな》い心はございません。ただ父上の仰せでわたくしが哭きわめいていることをお尋ねになりましたから、わたくしは母上の國に行きたいと思つて泣いておりますと申しましたところ、父上はそれではこの國に住んではならないと仰せられて追い拂いましたのでお暇乞いに參りました。變つた心は持つておりません」と申されました。そこで天照らす大神は、「それならあなたの心の正しいことはどうしたらわかるでしよう」と仰せになつたので、スサノヲの命は、「誓約《ちかい》を立てて子を生みましよう」と申されました。よつて天のヤスの河を中に置いて誓約《ちかい》を立てる時に、天照らす大神はまずスサノヲの命の佩《は》いている長い劒をお取りになつて三段に打《う》ち折つて、音もさらさらと天の眞名井《まない》の水で滌《そそ》いで囓《か》みに囓《か》んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした。次にスサノヲの命が天照らす大神の左の御髮に纏《ま》いておいでになつた大きな勾玉《まがたま》の澤山ついている玉の緒《お》をお請《う》けになつて、音もさらさらと天の眞名井の水に滌《そそ》いで囓《か》みに囓《か》んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、次に右の御髮の輪に纏《ま》かれていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、次に鬘《かずら》に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、次に左の御手にお纏きになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、次に右の御手に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、合わせて五方《いつかた》の男神が御出現になりました。ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、「この後《あと》から生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子《ひめみこ》はあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です」と仰せられました。その先にお生まれになつた神のうちタギリヒメの命は、九州の※[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、213-14]形《むなかた》の沖つ宮においでになります。次にイチキシマヒメの命は※[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、213-15]形の中つ宮においでになります。次にタギツヒメの命は※[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、213-16]形の邊《へ》つ宮においでになります。この三人の神は、※[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、213-16]形の君たちが大切にお祭りする神樣であります。そこでこの後でお生まれになつた五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造《みやつこ》・ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造・イジムの國の造・津島の縣《あがた》の直《あたえ》・遠江《とおとおみ》の國の造たちの祖先です。次にアマツヒコネの命は、凡川内《おおしこうち》の國の造・額田《ぬかた》部の湯坐《ゆえ》の連・木の國の造・倭《やまと》の田中の直《あたえ》・山代《やましろ》の國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高市《たけち》の縣主・蒲生《かもう》の稻寸《いなき》・三枝部《さきくさべ》の造たちの祖先です。 [#5字下げ]天の岩戸[#「天の岩戸」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――祓《はらえ》によつて暴風の神を放逐することを語る。はじめのスサノヲの命の暴行は、暴風の災害である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこでスサノヲの命は、天照らす大神に申されるには「わたくしの心が清らかだつたので、わたくしの生《う》んだ子が女だつたのです。これに依《よ》つて言えば當然わたくしが勝つたのです」といつて、勝つた勢いに任せて亂暴を働きました。天照らす大神が田を作つておられたその田の畔《あぜ》を毀《こわ》したり溝《みぞ》を埋《う》めたりし、また食事をなさる御殿に屎《くそ》をし散らしました。このようなことをなさいましたけれども天照らす大神はお咎《とが》めにならないで、仰せになるには、「屎《くそ》のようなのは酒に醉つて吐《は》き散《ち》らすとてこんなになつたのでしよう。それから田の畔を毀し溝を埋めたのは地面を惜しまれてこのようになされたのです」と善いようにと仰せられましたけれども、その亂暴なしわざは止《や》みませんでした。天照らす大神が清らかな機織場《はたおりば》においでになつて神樣の御衣服《おめしもの》を織らせておいでになる時に、その機織場の屋根に穴をあけて斑駒《まだらごま》の皮をむいて墮《おと》し入れたので、機織女《はたおりめ》が驚いて機織りに使う板で陰《ほと》をついて死んでしまいました。そこで天照らす大神もこれを嫌つて、天《あめ》の岩屋戸《いわやと》をあけて中にお隱れになりました。それですから天がまつくらになり、下の世界もことごとく闇《くら》くなりました。永久に夜が續いて行つたのです。そこで多くの神々の騷ぐ聲は夏の蠅のようにいつぱいになり、あらゆる妖《わざわい》がすべて起りました。  こういう次第で多くの神樣たちが天の世界の天《あめ》のヤスの河の河原にお集まりになつてタカミムスビの神の子のオモヒガネの神という神に考えさせてまず海外の國から渡つて來た長鳴鳥《ながなきどり》を集めて鳴かせました。次に天のヤスの河の河上にある堅い巖《いわお》を取つて來、また天の金山《かなやま》の鐵を取つて鍛冶屋《かじや》のアマツマラという人を尋ね求め、イシコリドメの命に命じて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に命じて大きな勾玉《まがたま》が澤山ついている玉の緒の珠を作らしめ、アメノコヤネの命とフトダマの命とを呼んで天のカグ山の男鹿《おじか》の肩骨をそつくり拔いて來て、天のカグ山のハハカの木を取つてその鹿《しか》の肩骨を燒《や》いて占《うらな》わしめました。次に天のカグ山の茂《しげ》つた賢木《さかき》を根掘《ねこ》ぎにこいで、上《うえ》の枝に大きな勾玉《まがたま》の澤山の玉の緒を懸け、中の枝には大きな鏡を懸け、下の枝には麻だの楮《こうぞ》の皮の晒《さら》したのなどをさげて、フトダマの命がこれをささげ持ち、アメノコヤネの命が莊重《そうちよう》な祝詞《のりと》を唱《とな》え、アメノタヂカラヲの神が岩戸《いわと》の陰《かげ》に隱れて立つており、アメノウズメの命が天のカグ山の日影蔓《ひかげかずら》を手襁《たすき》に懸《か》け、眞拆《まさき》の蔓《かずら》を鬘《かずら》として、天のカグ山の小竹《ささ》の葉を束《たば》ねて手に持ち、天照らす大神のお隱れになつた岩戸の前に桶《おけ》を覆《ふ》せて踏み鳴らし神懸《かみがか》りして裳の紐を陰《ほと》に垂らしましたので、天の世界が鳴りひびいて、たくさんの神が、いつしよに笑いました。そこで天照らす大神は怪しいとお思いになつて、天の岩戸を細目にあけて内から仰せになるには、「わたしが隱れているので天の世界は自然に闇く、下の世界も皆《みな》闇《くら》いでしようと思うのに、どうしてアメノウズメは舞い遊び、また多くの神は笑つているのですか」と仰せられました。そこでアメノウズメの命が、「あなた樣に勝《まさ》つて尊い神樣がおいでになりますので樂しく遊んでおります」と申しました。かように申す間にアメノコヤネの命とフトダマの命とが、かの鏡をさし出して天照らす大神にお見せ申し上げる時に天照らす大神はいよいよ不思議にお思いになつて、少し戸からお出かけになる所を、隱れて立つておられたタヂカラヲの神がその御手を取つて引き出し申し上げました。そこでフトダマの命がそのうしろに標繩《しめなわ》を引き渡して、「これから内にはお還り入り遊ばしますな」と申しました。かくて天照らす大神がお出ましになつた時に、天も下の世界も自然と照り明るくなりました。ここで神樣たちが相談をしてスサノヲの命に澤山の品物を出して罪を償《つぐな》わしめ、また鬚《ひげ》と手足《てあし》の爪とを切つて逐いはらいました。 [#3字下げ]三、スサノヲの命[#「三、スサノヲの命」は中見出し] [#5字下げ]穀物の種[#「穀物の種」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――穀物などの起原を説く插入説話である。日本書紀では、月の神が保食《うけもち》の神を殺す形になつている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  スサノヲの命は、かようにして天の世界から逐《お》われて、下界《げかい》へ下《くだ》つておいでになり、まず食物をオホゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオホゲツ姫が鼻や口また尻《しり》から色々の御馳走を出して色々お料理をしてさし上げました。この時にスサノヲの命はそのしわざをのぞいて見て穢《きたな》いことをして食べさせるとお思いになつて、そのオホゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身體に色々の物ができました。頭《あたま》に蠶《かいこ》ができ、二つの目に稻種《いねだね》ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股《また》の間《あいだ》にムギができ、尻にマメが出來ました。カムムスビの命が、これをお取りになつて種となさいました。 [#5字下げ]八俣《やまた》の大蛇《おろち》[#「八俣の大蛇」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――スサノヲの命は、高天の原系統では暴風の神であり、亂暴な神とされているが、出雲系統では、反對に、功績のある神とされ、農業開發の神とされている。これは次の大國主の神の説話と共に、出雲系統の神話である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  かくてスサノヲの命は逐い拂われて出雲の國の肥《ひ》の河上、トリカミという所にお下りになりました。この時に箸《はし》がその河から流れて來ました。それで河上に人が住んでいるとお思いになつて尋ねて上《のぼ》つておいでになりますと、老翁と老女と二人があつて少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰《だれ》ですか」とお尋ねになつたので、その老翁が、「わたくしはこの國の神のオホヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか」とお尋ねになつたので「わたくしの女《むすめ》はもとは八人ありました。それをコシの八俣《やまた》の大蛇が毎年來て食《た》べてしまいます。今またそれの來る時期ですから泣いています」と申しました。「その八俣の大蛇というのはどういう形をしているのですか」とお尋ねになつたところ、「その目《め》は丹波酸漿《たんばほおずき》のように眞赤《まつか》で、身體一つに頭が八つ、尾が八つあります。またその身體《からだ》には蘿《こけ》だの檜《ひのき》・杉の類が生え、その長さは谷《たに》八《や》つ峰《みね》八《や》つをわたつて、その腹を見ればいつも血《ち》が垂れて爛《ただ》れております」と申しました。そこでスサノヲの命がその老翁に「これがあなたの女《むすめ》さんならばわたしにくれませんか」と仰せになつたところ、「恐れ多いことですけれども、あなたはどなた樣ですか」と申しましたから、「わたしは天照らす大神の弟です。今天から下つて來た所です」とお答えになりました。それでアシナヅチ・テナヅチの神が「そうでしたら恐れ多いことです。女《むすめ》をさし上げましよう」と申しました。依つてスサノヲの命はその孃子《おとめ》を櫛《くし》の形《かたち》に變えて御髮《おぐし》にお刺《さ》しになり、そのアシナヅチ・テナヅチの神に仰せられるには、「あなたたち、ごく濃い酒を釀《かも》し、また垣を作り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して八つの入口を作り、入口毎に八つの物を置く臺を作り、その臺毎に酒の槽《おけ》をおいて、その濃い酒をいつぱい入れて待つていらつしやい」と仰せになりました。そこで仰せられたままにかように設けて待つている時に、かの八俣の大蛇がほんとうに言つた通りに來ました。そこで酒槽《さかおけ》毎にそれぞれ首を乘り入れて酒を飮みました。そうして醉つぱらつてとどまり臥して寢てしまいました。そこでスサノヲの命がお佩きになつていた長い劒を拔いてその大蛇をお斬り散らしになつたので、肥の河が血になつて流れました。その大蛇の中の尾をお割きになる時に劒の刃がすこし毀《か》けました。これは怪しいとお思いになつて劒の先で割いて御覽になりましたら、鋭い大刀がありました。この大刀をお取りになつて不思議のものだとお思いになつて天照らす大神に獻上なさいました。これが草薙の劒でございます。  かくしてスサノヲの命は、宮を造るべき處を出雲の國でお求めになりました。そうしてスガの處《ところ》においでになつて仰せられるには、「わたしは此處《ここ》に來て心もちが清々《すがすが》しい」と仰せになつて、其處《そこ》に宮殿をお造りになりました。それで其處をば今でもスガというのです。この神が、はじめスガの宮をお造りになつた時に、其處から雲が立ちのぼりました。依つて歌をお詠みになりましたが、その歌は、 [#ここから3字下げ] 雲の叢《むらが》り起《た》つ出雲《いずも》の國の宮殿。 妻と住むために宮殿をつくるのだ。 その宮殿よ。 [#ここで字下げ終わり] というのです。そこでかのアシナヅチ・テナヅチの神をお呼《よ》びになつて、「あなたはわたしの宮の長となれ」と仰せになり、名をイナダの宮主《みやぬし》スガノヤツミミの神とおつけになりました。 [#5字下げ]系譜[#「系譜」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――スサノヲの命の系譜を説き、大國主の神に結びつけている。このうち、オホトシの神とウカノミタマとは穀物の神で、二三〇頁[#「二三〇頁」は「大國主の神」]に出る系譜に連絡する。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこでそのクシナダ姫と婚姻してお生みになつた神樣は、ヤシマジヌミの神です。またオホヤマツミの神の女のカムオホチ姫と結婚をして生んだ子は、オホトシの神、次にウカノミタマです。兄のヤシマジヌミの神はオホヤマツミの神の女の木《こ》の花散《はなち》る姫と結婚して生んだ子は、フハノモヂクヌスヌの神です。この神がオカミの神の女のヒカハ姫と結婚して生んだ子がフカブチノミヅヤレハナの神です。この神がアメノツドヘチネの神と結婚して生んだ子がオミヅヌの神です。この神がフノヅノの神の女のフテミミの神と結婚して生んだ子がアメノフユギヌの神です。この神がサシクニオホの神の女のサシクニワカ姫と結婚して生んだ子が大國主《おおくにぬし》の神です。この大國主の神はまたの名をオホアナムチの神ともアシハラシコヲの神ともヤチホコの神ともウツシクニダマの神とも申します。合わせてお名前が五つありました。 [#3字下げ]四、大國主の命[#「四、大國主の命」は中見出し] [#5字下げ][#小見出し]兎と鰐[#小見出し終わり] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――これから出雲系の英雄大國主の神の神話になる。さまざまの神話を、一神の名のもとに寄せたものの如くである。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  この大國主の命の兄弟は、澤山おいでになりました。しかし國は皆大國主の命にお讓り申しました。お讓り申し上げたわけは、その大勢の神が皆《みな》因幡《いなば》のヤガミ姫《ひめ》と結婚しようという心があつて、一緒に因幡《いなば》に行きました。時に大國主の命に袋を負わせ從者として連れて行きました。そしてケタの埼に行きました時に裸になつた兎が伏しておりました。大勢の神がその兎に言いましたには、「お前はこの海水を浴びて風の吹くのに當つて高山の尾上《おのえ》に寢ているとよい」と言いました。それでこの兎が大勢の神の教えた通りにして寢ておりました。ところがその海水の乾《かわ》くままに身の皮が悉く風に吹き拆《さ》かれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何《なん》だつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、「わたくしは隱岐《おき》の島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の鰐《わに》を欺《あざむ》いて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一|族《ぞく》が多いか競《くら》べて見ましよう。あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼《さき》まで皆竝んで伏していらつしやい。わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺《だま》されたと言うか言わない時に、一番|端《はし》に伏していた鰐《わに》がわたくしを捕《つかま》えてすつかり着物《きもの》を剥《は》いでしまいました。それで困《こま》つて泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになつた大勢の神樣が、海水を浴びて風に當つて寢ておれとお教えになりましたからその教えの通りにしましたところすつかり身體《からだ》をこわしました」と申しました。そこで大國主の命は、その兎にお教え遊ばされるには、「いそいであの水門に往つて、水で身體を洗つてその水門の蒲《がま》の花粉を取つて、敷き散らしてその上に輾《ころが》り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まわ》つたなら、お前の身はもとの膚《はだ》のようにきつと治るだろう」とお教えになりました。依つて教えた通りにしましたから、その身はもとの通りになりました。これが因幡《いなば》の白兎というものです。今では兎神といつております。そこで兎が喜んで大國主の命に申しましたことには、「あの大勢の神はきつとヤガミ姫を得られないでしよう。袋を背負つておられても、きつとあなたが得るでしよう」と申しました。 [#5字下げ]赤貝姫と蛤貝姫[#「赤貝姫と蛤貝姫」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――前の兎と鰐の話と共に、古代醫療の方法について語つている説話である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  兎の言つた通り、ヤガミ姫は大勢の神に答えて「わたくしはあなたたちの言う事は聞きません。大國主の命と結婚しようと思います」と言いました。そこで大勢の神が怒つて、大國主の命を殺そうと相談して伯耆《ほうき》の國のテマの山本に行つて言いますには、「この山には赤い猪《いのしし》がいる。わたしたちが追い下《くだ》すからお前が待ちうけて捕えろ。もしそうしないと、きつとお前を殺してしまう」と言つて、猪《いのしし》に似ている大きな石を火で燒いて轉《ころ》がし落しました。そこで追い下して取ろうとする時に、その石に燒きつかれて死んでしまいました。そこで母の神が泣き悲しんで、天に上つて行つてカムムスビの神のもとに參りましたので、赤貝姫《あかがいひめ》と蛤貝姫《はまぐりひめ》とを遣《や》つて生き還らしめなさいました。それで赤貝姫が汁《しる》を搾《しぼ》り集《あつ》め、蛤貝姫がこれを受けて母の乳汁として塗りましたから、りつぱな男になつて出歩《である》くようになりました。 [#5字下げ]根《ね》の堅州國《かたすくに》[#「根の堅州國」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――これも異郷説話の一つで、王子の求婚説話の形を採つている。姫の父親から難題を課せられるが、姫の助力を得て解決する。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  これをまた大勢の神が見て欺《あざむ》いて山に連れて行つて、大きな樹を切り伏せて楔子《くさび》を打つておいて、その中に大國主の命をはいらせて、楔子《くさび》を打つて放つて打ち殺してしまいました。そこでまた母の神が泣きながら搜したので、見つけ出してその木を拆《さ》いて取り出して生《い》かして、その子に仰せられるには、「お前がここにいるとしまいには大勢の神に殺《ころ》されるだろう」と仰せられて、紀伊の國のオホヤ彦の神のもとに逃がしてやりました。そこで大勢の神が求めて追つて來て、矢をつがえて乞う時に、木の俣《また》からぬけて逃げて行きました。  そこで母の神が「これは、スサノヲの命のおいでになる黄泉の國に行つたなら、きつとよい謀《はかりごと》をして下さるでしよう」と仰せられました。そこでお言葉のままに、スサノヲの命の御所《おんもと》に參りましたから、その御女《おんむすめ》のスセリ姫《ひめ》が出て見ておあいになつて、それから還つて父君に申しますには、「大變りつぱな神樣がおいでになりました」と申されました。そこでその大神が出て見て、「これはアシハラシコヲの命だ」とおつしやつて、呼《よ》び入れて蛇のいる室《むろ》に寢させました。そこでスセリ姫の命が蛇の領巾《ひれ》をその夫に與えて言われたことは、「その蛇が食おうとしたなら、この領巾《ひれ》を三度振つて打ち撥《はら》いなさい」と言いました。それで大國主の命は、教えられた通りにしましたから、蛇が自然に靜まつたので安らかに寢てお出になりました。また次の日の夜は呉公《むかで》と蜂《はち》との室《むろ》にお入れになりましたのを、また呉公と蜂の領巾を與えて前のようにお教えになりましたから安らかに寢てお出になりました。次には鏑矢《かぶらや》を大野原の中に射て入れて、その矢を採《と》らしめ、その野におはいりになつた時に火をもつてその野を燒き圍みました。そこで出る所を知らないで困つている時に、鼠が來て言いますには、「内《うち》はほらほら、外《そと》はすぶすぶ」と言いました。こう言いましたからそこを踏んで落ちて隱れておりました間に、火は燒けて過ぎました。そこでその鼠がその鏑矢を食わえ出して來て奉りました。その矢の羽《はね》は鼠の子どもが皆食べてしまいました。  かくてお妃《きさき》のスセリ姫《ひめ》は葬式の道具を持つて泣きながらおいでになり、その父の大神はもう死んだとお思いになつてその野においでになると、大國主の命はその矢を持つて奉りましたので、家に連れて行つて大きな室に呼び入れて、頭の虱《しらみ》を取らせました。そこでその頭を見ると呉公《むかで》がいつぱいおります。この時にお妃が椋《むく》の木の實と赤土とを夫君に與えましたから、その木の實を咋《く》い破《やぶ》り赤土を口に含んで吐き出されると、その大神は呉公を咋《く》い破つて吐き出すとお思いになつて、御心に感心にお思いになつて寢ておしまいになりました。そこでその大神の髮を握《と》つてその室の屋根のたる木ごとに結いつけて、大きな巖をその室の戸口に塞いで、お妃のスセリ姫を背負《せお》つて、その大神の寶物の大刀《たち》弓矢《ゆみや》、また美しい琴を持つて逃げておいでになる時に、その琴が樹にさわつて音を立てました。そこで寢ておいでになつた大神が聞いてお驚きになつてその室を引き仆してしまいました。しかしたる木に結びつけてある髮を解いておいでになる間に遠く逃げてしまいました。そこで黄泉比良坂《よもつひらさか》まで追つておいでになつて、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになつたには、「そのお前の持つている大刀や弓矢を以つて、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬《せ》に追い撥《はら》つて、自分で大國主の命となつてそのわたしの女《むすめ》のスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大磐石《だいばんじやく》の上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木《むなぎ》を上げて住めよ、この奴《やつ》め」と仰せられました。そこでその大刀弓を持つてかの大勢の神を追い撥《はら》う時に、坂の上毎に追い伏せ河の瀬毎に追い撥《はら》つて國を作り始めなさいました。  かのヤガミ姫《ひめ》は前の約束通りに婚姻なさいました。そのヤガミ姫を連《つ》れておいでになりましたけれども、お妃《きさき》のスセリ姫を恐れて生んだ子を木の俣《また》にさし挾んでお歸りになりました。ですからその子の名を木の俣の神と申します。またの名は御井《みい》の神とも申します。 [#5字下げ]ヤチホコの神の歌物語[#「ヤチホコの神の歌物語」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――長い歌の贈答を中心とした物語で、もと歌曲として歌い傳えられたもの。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  このヤチホコの神(大國主の命)が、越の國のヌナカハ姫と結婚しようとしておいでになりました時に、そのヌナカハ姫の家に行《い》つてお詠みになりました歌は、 [#ここから3字下げ] ヤチホコの神樣は、 方々の國で妻を求めかねて、 遠い遠い越《こし》の國に 賢《かしこ》い女がいると聞き 美しい女がいると聞いて 結婚にお出《で》ましになり 結婚にお通《かよ》いになり、 大刀《たち》の緒《お》もまだ解かず 羽織《はおり》をもまだ脱《ぬ》がずに、 娘さんの眠つておられる板戸を 押しゆすぶり立つていると 引き試みて立つていると、 青い山ではヌエが鳴いている。 野の鳥の雉《きじ》は叫んでいる。 庭先でニワトリも鳴いている。 腹が立つさまに鳴く鳥だな こんな鳥はやつつけてしまえ。 [#ここから5字下げ] 下におります走り使をする者の 事《こと》の語《かた》り傳《つた》えはかようでございます。 [#ここで字下げ終わり]  そこで、そのヌナカハ姫が、まだ戸を開《あ》けないで、家の内で歌いました歌は、 [#ここから3字下げ] ヤチホコの神樣、 萎《しお》れた草のような女のことですから わたくしの心は漂う水鳥、 今《いま》こそわたくし鳥《どり》でも 後《のち》にはあなたの鳥になりましよう。 命《いのち》長《なが》くお生《い》き遊《あそ》ばしませ。 [#ここから5字下げ] 下におります走り使をする者の 事《こと》の語《かた》り傳《つた》えはかようでございます。 [#ここから3字下げ] 青い山《やま》に日《ひ》が隱《かく》れたら 眞暗《まつくら》な夜《よ》になりましよう。 朝のお日樣《ひさま》のようににこやかに來て コウゾの綱のような白い腕、 泡雪のような若々しい胸を そつと叩いて手をとりかわし 玉のような手をまわして 足を伸《の》ばしてお休みなさいましようもの。 そんなにわびしい思《おも》いをなさいますな。 ヤチホコの神樣《かみさま》。 [#ここから5字下げ] 事《こと》の語《かた》り傳《つた》えは、かようでございます。 [#ここで字下げ終わり]  それで、その夜はお會《あ》いにならないで、翌晩お會《あ》いなさいました。  またその神のお妃《きさき》スセリ姫の命は、大變《たいへん》嫉妬深《しつとぶか》い方《かた》でございました。それを夫《おつと》の君は心|憂《う》く思つて、出雲から大和の國にお上りになろうとして、お支度遊ばされました時に、片手は馬の鞍に懸け、片足はその鐙《あぶみ》に蹈み入れて、お歌《うた》い遊ばされた歌は、 [#ここから3字下げ] カラスオウギ色《いろ》の黒い御衣服《おめしもの》を 十分に身につけて、 水鳥のように胸を見る時、 羽敲《はたた》きも似合わしくない、 波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、 翡翠色《ひすいいろ》の青い御衣服《おめしもの》を 十分に身につけて 水鳥のように胸を見る時、 羽敲《はたた》きもこれも似合わしくない、 波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、 山畑《やまはた》に蒔《ま》いた茜草《あかねぐさ》を舂《つ》いて 染料の木の汁で染めた衣服を 十分に身につけて、 水鳥のように胸を見る時、 羽敲《はたた》きもこれはよろしい。 睦《むつま》しのわが妻よ、 鳥の群《むれ》のようにわたしが群れて行つたら、 引いて行《ゆ》く鳥のようにわたしが引いて行つたら、 泣かないとあなたは云つても、 山地《やまぢ》に立つ一本薄《いつぽんすすき》のように、 うなだれてあなたはお泣きになつて、 朝の雨の霧に立つようだろう。 若草のようなわが妻よ。 [#ここから5字下げ] 事《こと》の語《かた》り傳《つた》えは、かようでございます。 [#ここで字下げ終わり]  そこで、そのお妃《きさき》が、酒盃《さかずき》をお取りになり、立ち寄り捧げて、お歌いになつた歌、 [#ここから3字下げ] ヤチホコの神樣《かみさま》、 わたくしの大國主樣《おおくにぬしさま》。 あなたこそ男ですから ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つている岬々《みさきみさき》に ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つている埼《さき》ごとに 若草のような方をお持ちになりましよう。 わたくしは女《おんな》のことですから あなた以外に男は無く あなた以外に夫《おつと》はございません。 ふわりと垂《た》れた織物《おりもの》の下で、 暖《あたたか》い衾《ふすま》の柔《やわらか》い下《した》で、 白《しろ》い衾《ふすま》のさやさやと鳴《な》る下《した》で、 泡雪《あわゆき》のような若々しい胸を コウゾの綱のような白い腕で、 そつと叩いて手をさしかわし 玉のような手を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して 足をのばしてお休み遊ばせ。 おいしいお酒《さけ》をお上《あが》り遊《あそ》ばせ。 [#ここで字下げ終わり]  そこで盃《さかずき》を取《と》り交《かわ》して、手《て》を懸《か》け合《あ》つて、今日までも鎭《しず》まつておいでになります。これらの歌は神語《かむがたり》と申す歌曲《かきよく》です。 [#5字下げ]系譜[#「系譜」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――出雲系の、ある豪族の家系を語るもののようである。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  この大國主の神が、※[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、230-14]形《むなかた》の沖つ宮においでになるタギリ姫の命と結婚して生んだ子はアヂスキタカヒコネの神、次にタカ姫の命、またの名はシタテル姫の命であります。このアヂスキタカヒコネの神は、今カモの大御神と申す神樣であります。  大國主の神が、またカムヤタテ姫の命と結婚して生んだ子は、コトシロヌシの神です。またヤシマムチの神の女《むすめ》のトリトリの神と結婚して生んだ子は、トリナルミの神です。この神がヒナテリヌカダビチヲイコチニの神と結婚して生んだ子は、クニオシトミの神です。この神がアシナダカの神、またの名はヤガハエ姫と結婚して生んだ子は、ツラミカノタケサハヤヂヌミの神です。この神がアメノミカヌシの神の女のサキタマ姫と結婚して生んだ子は、ミカヌシ彦の神です。この神がオカミの神の女のヒナラシ姫と結婚して生んだ子は、タヒリキシマミの神です。この神がヒヒラギのソノハナマヅミの神の女のイクタマサキタマ姫の神と結婚して生んだ子は、ミロナミの神です。この神がシキヤマヌシの神の女のアヲヌマヌオシ姫と結婚して生んだ子は、ヌノオシトミトリナルミの神です。この神がワカヒルメの神と結婚して生んだ子は、アメノヒバラオホシナドミの神です。この神がアメノサギリの神の女のトホツマチネの神と結婚して生んだ子は、トホツヤマザキタラシの神です。  以上ヤシマジヌミの神からトホツヤマザキタラシの神までを十七代の神と申します。 [#5字下げ]スクナビコナの神[#「スクナビコナの神」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――オホアナムチの命としばしば竝んで語られるスクナビコナの神は、農民の間に語り傳えられた神で、ここでは蔓芋の種の擬人化として語られている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこで大國主の命が出雲《いずも》の御大《みほ》の御埼《みさき》においでになつた時に、波《なみ》の上《うえ》を蔓芋《つるいも》のさやを割《わ》つて船にして蛾《が》の皮をそつくり剥《は》いで著物《きもの》にして寄《よ》つて來る神樣があります。その名を聞きましたけれども答えません。また御從者《おとも》の神たちにお尋ねになつたけれども皆知りませんでした。ところがひきがえるが言《い》うことには、「これはクエ彦がきつと知つているでしよう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでお尋ねになると、「これはカムムスビの神の御子《みこ》でスクナビコナの神です」と申しました。依つてカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でもわたしの手の股《また》からこぼれて落ちた子どもです。あなたアシハラシコヲの命と兄弟となつてこの國を作り堅めなさい」と仰せられました。それでそれから大國主とスクナビコナとお二人が竝んでこの國を作り堅めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡つて行つてしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田の案山子《かかし》のことです。この神は足は歩《ある》きませんが、天下のことをすつかり知つている神樣です。 [#5字下げ]御諸山の神[#「御諸山の神」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――大和の三輪山にある大神《おおみわ》神社の鎭坐の縁起である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこで大國主の命が心憂く思つて仰せられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの國を作り得ましよう。どの神樣と一緒にわたしはこの國を作りましようか」と仰せられました。この時に海上を照らして寄つて來る神樣があります。その神の仰せられることには、「わたしに對してよくお祭をしたら、わたしが一緒になつて國を作りましよう。そうしなければ國はできにくいでしよう」と仰せられました。そこで大國主の命が申されたことには、「それならどのようにしてお祭を致しましよう」と申されましたら、「わたしを大和の國の青々と取り圍んでいる東の山の上にお祭りなさい」と仰せられました。これは御諸《みもろ》の山においでになる神樣です。 [#5字下げ]大年の神の系譜[#「大年の神の系譜」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――前に出たスサノヲの命の系譜の中の大年の神の系譜で、一年中の耕作の經過を系譜化したものである。耕作に關する祭の詞から拔け出したものと見られる。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  オホトシの神が、カムイクスビの神の女のイノ姫と結婚して生んだ子は、オホクニミタマの神、次にカラの神、次にソホリの神、次にシラヒの神、次にヒジリの神の五神です。またカグヨ姫と結婚して生んだ子は、オホカグヤマトミの神、次にミトシの神の二神です。またアメシルカルミヅ姫と結婚して生んだ子はオキツ彦の神、次にオキツ姫の命、またの名はオホヘ姫の神です。これは皆樣の祭つている竈《かまど》の神であります。次にオホヤマクヒの神、またの名はスヱノオホヌシの神です。これは近江の國の比叡山《ひえいざん》においでになり、またカヅノの松の尾においでになる鏑矢《かぶらや》をお持ちになつている神樣であります。次にニハツヒの神、次にアスハの神、次にハヒキの神、次にカグヤマトミの神、次にハヤマトの神、次にニハノタカツヒの神、次にオホツチの神、またの名はツチノミオヤの神の九神です。  以上オホトシの神の子のオホクニミタマの神からオホツチの神まで合わせて十六神です。  さてハヤマトの神が、オホゲツ姫の神と結婚して生んだ子は、ワカヤマクヒの神、次にワカトシの神、次に女神のワカサナメの神、次にミヅマキの神、次にナツノタカツヒの神、またの名はナツノメの神、次にアキ姫の神、次にククトシの神、次にククキワカムロツナネの神です。  以上ハヤマトの神の子のワカヤマクヒの神からワカムロツナネの神まで合わせて八神です。 [#3字下げ]五、天照らす大神と大國主の命[#「五、天照らす大神と大國主の命」は中見出し] [#5字下げ]天若日子[#「天若日子」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――天若日子に關する部分は、語部などによつて語られた物語の插入。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  天照らす大神のお言葉で、「葦原《あしはら》の水穗《みずほ》の國《くに》は我《わ》が御子《みこ》のマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命のお治め遊《あそ》ばすべき國である」と仰せられて、天からお降《くだ》しになりました。そこでオシホミミの命が天からの階段にお立ちになつて御覽《ごらん》になり、「葦原の水穗の國はひどくさわいでいる」と仰せられて、またお還りになつて天照らす大神に申されました。そこでタカミムスビの神、天照らす大神の御命令で天のヤスの河の河原に多くの神をお集めになつて、オモヒガネの神に思わしめて仰せになつたことには、「この葦原の中心の國はわたしの御子《みこ》の治むべき國と定めた國である。それだのにこの國に暴威を振う亂暴な土著《どちやく》の神が多くあると思われるが、どの神を遣《つかわ》してこれを平定すべきであろうか」と仰せになりました。そこでオモヒガネの神及び多くの神たちが相談して、「ホヒの神を遣《や》つたらよろしいでございましよう」と申しました。そこでホヒの神を遣《つかわ》したところ、この神は大國主の命に諂《へつら》い著《つ》いて三年たつても御返事申し上げませんでした。このような次第でタカミムスビの神天照らす大神がまた多くの神たちにお尋ねになつて、「葦原の中心の國に遣《つかわ》したホヒの神が久しく返事をしないが、またどの神を遣つたらよいだろうか」と仰せられました。そこでオモヒガネの神が申されるには、「アマツクニダマの神の子の天若日子《あめわかひこ》を遣《や》りましよう」と申しました。そこでりつぱな弓矢《ゆみや》を天若日子《あめわかひこ》に賜わつて遣《つかわ》しました。しかるに天若日子はその國に降りついて大國主の命の女《むすめ》の下照《したて》る姫《ひめ》を妻とし、またその國を獲ようと思つて、八年たつても御返事申し上げませんでした。  そこで天照らす大神、タカミムスビの神が大勢の神にお尋ねになつたのには、「天若日子が久しく返事をしないが、どの神を遣して天若日子の留まつている仔細を尋ねさせようか」とお尋ねになりました。そこで大勢の神たちまたオモヒガネの神が申しますには、「キジの名鳴女《ななきめ》を遣《や》りましよう」と申しました。そこでそのキジに、「お前が行《い》つて天若日子に尋ねるには、あなたを葦原の中心の國に遣したわけはその國の亂暴な神たちを平定せよというためです。何故に八年たつても御返事申し上げないのかと問え」と仰せられました。そこでキジの鳴女《なきめ》が天から降つて來て、天若日子の門にある貴い桂《かつら》の木の上にいて詳しく天の神の仰せの通りに言いました。ここに天の探女《さぐめ》という女がいて、このキジの言うことを聞いて天若日子に「この鳥は鳴く聲がよくありませんから射殺しておしまいなさい」と勸めましたから、天若日子は天の神の下さつたりつぱな弓矢をもつてそのキジを射殺しました。ところがその矢がキジの胸から通りぬけて逆樣に射上げられて天のヤスの河の河原においでになる天照らす大神|高木《たかぎ》の神の御許《おんもと》に到りました。この高木の神というのはタカミムスビの神の別の名です。その高木の神が弓矢を取つて御覽になると矢の羽に血がついております。そこで高木の神が「この矢は天若日子に與えた矢である」と仰せになつて、多くの神たちに見せて仰せられるには、「もし天若日子が命令通りに亂暴な神を射た矢が來たのなら、天若日子に當ることなかれ。そうでなくてもし不屆《ふとどき》な心があるなら天若日子はこの矢で死んでしまえ」と仰せられて、その矢をお取りになつて、その矢の飛んで來た穴から衝き返してお下しになりましたら、天若日子が朝床《あさどこ》に寢ている胸の上に當つて死にました。かくしてキジは還つて參りませんから、今でも諺《ことわざ》に「行《い》つたきりのキジのお使」というのです。それで天若日子の妻、下照《したて》る姫のお泣きになる聲が風のまにまに響いて天に聞えました。そこで天にいた天若日子の父のアマツクニダマの神、また天若日子のもとの妻子たちが聞いて、下りて來て泣き悲しんで、そこに葬式の家を作つて、ガンを死人の食物を持つ役とし、サギを箒《ほうき》を持つ役とし、カワセミを御料理人とし、スズメを碓《うす》を舂《つ》く女とし、キジを泣く役の女として、かように定めて八日八夜というもの遊んでさわぎました。  この時アヂシキタカヒコネの神がおいでになつて、天若日子の亡《な》くなつたのを弔問される時に、天から降つて來た天若日子の父や妻が皆泣いて、「わたしの子は死ななかつた」「わたしの夫《おつと》は死ななかつたのだ」と言つて手足に取りすがつて泣き悲しみました。かように間違えた次第はこの御二方の神のお姿が非常によく似ていたからです。それで間違えたのでした。ここにアヂシキタカヒコネの神が非常に怒つて言われるには、「わたしは親友だから弔問に來たのだ。何だつてわたしを穢《きたな》い死人に比《くら》べるのか」と言つて、お佩《は》きになつている長い劒を拔いてその葬式の家を切り伏せ、足で蹴|飛《と》ばしてしまいました。それは美濃の國のアヰミ河の河上の喪山《もやま》という山になりました。その持つて切《き》つた大刀《たち》の名はオホバカリといい、またカンドの劒ともいいます。そこでアヂシキタカヒコネの神が怒つて飛び去つた時に、その妹の下照る姫が兄君のお名前を顯そうと思つて歌つた歌は、 [#ここから3字下げ] 天の世界の若《わか》い織姫《おりひめ》の 首《くび》に懸けている珠《たま》の飾《かざ》り、 その珠の飾りの大きい珠のような方、 谷《たに》二《ふた》つ一度にお渡りになる アヂシキタカヒコネの神でございます。 [#ここで字下げ終わり] と歌いました。この歌は夷振《ひなぶり》です。 [#5字下げ]國讓り[#「國讓り」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――出雲の神が、託宣によつて國を讓つたことを語る。出雲大社の鎭坐縁起を、政治的に解釋したものと考えられる。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  かように天若日子もだめだつたので、天照らす大神の仰せになるには、「またどの神を遣したらよかろう」と仰せになりました。そこでオモヒガネの神また多くの神たちの申されるには、「天のヤス河の河上の天の石屋《いわや》においでになるアメノヲハバリの神がよろしいでしよう。もしこの神でなくば、その神の子のタケミカヅチの神を遣すべきでしよう。ヲハバリの神はヤスの河の水を逆樣《さかさま》に塞《せ》きあげて道を塞いでおりますから、他の神では行かれますまい。特にアメノカクの神を遣してヲハバリの神に尋ねさせなければなりますまい」と申しました。依つてカクの神を遣して尋ねた時に、「謹しんでお仕え申しましよう。しかしわたくしの子のタケミカヅチの神を遣しましよう」と申して奉りました。そこでアメノトリフネの神をタケミカヅチの神に副えて遣されました。  そこでこのお二方の神が出雲の國のイザサの小濱《おはま》に降りついて、長い劒を拔いて波の上に逆樣に刺《さ》し立てて、その劒のきつさきに安座《あぐら》をかいて大國主の命にお尋ねになるには、「天照らす大神、高木の神の仰せ言で問の使に來ました。あなたの領している葦原の中心の國は我が御子の治むべき國であると御命令がありました。あなたの心はどうですか」とお尋ねになりましたから、答えて申しますには「わたくしは何とも申しません。わたくしの子のコトシロヌシの神が御返事申し上ぐべきですが、鳥や魚の獵をしにミホの埼《さき》に行《い》つておつてまだ還つて參りません」と申しました。依つてアメノトリフネの神を遣してコトシロヌシの神を呼んで來てお尋ねになつた時に、その父の神樣に「この國は謹しんで天の神の御子に獻上なさいませ」と言つて、その船を踏み傾けて、逆樣《さかさま》に手をうつて青々とした神籬《ひもろぎ》を作り成してその中に隱れてお鎭まりになりました。  そこで大國主の命にお尋ねになつたのは、「今あなたの子のコトシロヌシの神はかように申しました。また申すべき子がありますか」と問われました。そこで大國主の命は「またわたくしの子にタケミナカタの神があります。これ以外にはございません」と申される時に、タケミナカタの神が大きな石を手の上にさし上げて來て、「誰だ、わしの國に來て内緒話をしているのは。さあ、力くらべをしよう。わしが先にその手を掴《つか》むぞ」と言いました。そこでその手を取らせますと、立つている氷のようであり、劒の刃のようでありました。そこで恐れて退いております。今度はタケミナカタの神の手を取ろうと言つてこれを取ると、若いアシを掴むように掴みひしいで、投げうたれたので逃げて行きました。それを追つて信濃の國の諏訪《すわ》の湖《みずうみ》に追い攻めて、殺そうとなさつた時に、タケミナカタの神の申されますには、「恐れ多いことです。わたくしをお殺しなさいますな。この地以外には他の土地には參りますまい。またわたくしの父大國主の命の言葉に背きますまい。この葦原の中心の國は天の神の御子《みこ》の仰せにまかせて獻上致しましよう」と申しました。  そこで更に還つて來てその大國主の命に問われたことには、「あなたの子どもコトシロヌシの神・タケミナカタの神お二方は、天の神の御子の仰せに背《そむ》きませんと申しました。あなたの心はどうですか」と問いました。そこでお答え申しますには、「わたくしの子ども二人の申した通りにわたくしも違いません。この葦原の中心の國は仰せの通り獻上致しましよう。ただわたくしの住所を天の御子《みこ》の帝位にお登りになる壯大な御殿の通りに、大磐石に柱を太く立て大空に棟木《むなぎ》を高くあげてお作り下さるならば、わたくしは所々の隅に隱れておりましよう。またわたくしの子どもの多くの神はコトシロヌシの神を導《みちび》きとしてお仕え申しましたなら、背《そむ》く神はございますまい」と、かように申して出雲の國のタギシの小濱《おはま》にりつぱな宮殿を造つて、水戸《みなと》の神の子孫のクシヤタマの神を料理役として御馳走をさし上げた時に、咒言を唱えてクシヤタマの神が鵜《う》になつて海底に入つて、底の埴土《はにつち》を咋《く》わえ出て澤山の神聖なお皿を作つて、また海草の幹《みき》を刈り取つて來て燧臼《ひうちうす》と燧杵《ひうちきね》を作つて、これを擦《す》つて火をつくり出して唱言《となえごと》を申したことは、「今わたくしの作る火は大空高くカムムスビの命の富み榮える新しい宮居の煤《すす》の長く垂《た》れ下《さが》るように燒《た》き上《あ》げ、地の下は底の巖に堅く燒き固まらして、コウゾの長い綱を延ばして釣をする海人《あま》の釣り上げた大きな鱸《すずき》をさらさらと引き寄せあげて、机《つくえ》もたわむまでにりつぱなお料理を獻上致しましよう」と申しました。かくしてタケミカヅチの神が天に還つて上つて葦原の中心の國を平定した有樣を申し上げました。 [#3字下げ]六、ニニギの命[#「六、ニニギの命」は中見出し] [#5字下げ]天降[#「天降」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――本來は、祭の庭に神の降下することを説くものと解せられるが、政治的に解釋されており、諸氏の傳來の複合した形になつている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこで天照らす大神、高木の神のお言葉で、太子オシホミミの命に仰せになるには、「今葦原の中心の國は平定し終つたと申すことである。それ故、申しつけた通りに降つて行つてお治めなされるがよい」と仰《おお》せになりました。そこで太子オシホミミの命が仰せになるには、「わたくしは降《お》りようとして支度《したく》をしております間《あいだ》に子が生まれました。名はアメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命と申します。この子を降したいと思います」と申しました。この御子《みこ》はオシホミミの命が高木の神の女《むすめ》ヨロヅハタトヨアキツシ姫の命と結婚されてお生《う》みになつた子がアメノホアカリの命・ヒコホノニニギの命のお二方なのでした。かようなわけで申されたままにヒコホノニニギの命に仰せ言があつて、「この葦原の水穗の國はあなたの治むべき國であると命令するのである。依《よ》つて命令の通りにお降りなさい」と仰せられました。  ここにヒコホノニニギの命が天からお降《くだ》りになろうとする時に、道の眞中《まんなか》にいて上は天を照《て》らし、下《した》は葦原の中心の國を照らす神がおります。そこで天照らす大神・高木の神の御命令で、アメノウズメの神に仰せられるには、「あなたは女ではあるが出會つた神に向き合つて勝つ神である。だからあなたが往つて尋ねることは、我が御子《みこ》のお降《くだ》りなろうとする道をかようにしているのは誰であるかと問え」と仰せになりました。そこで問われる時に答え申されるには、「わたくしは國の神でサルタ彦の神という者です。天の神の御子《みこ》がお降りになると聞きましたので、御前《みまえ》にお仕え申そうとして出迎えております」と申しました。  かくてアメノコヤネの命・フトダマの命・アメノウズメの命・イシコリドメの命・タマノオヤの命、合わせて五部族の神を副えて天から降らせ申しました。この時に先《さき》に天《あめ》の石戸《いわと》の前で天照らす大神をお迎えした大きな勾玉《まがたま》、鏡また草薙《くさなぎ》の劒、及びオモヒガネの神・タヂカラヲの神・アメノイハトワケの神をお副《そ》えになつて仰せになるには、「この鏡こそはもつぱらわたしの魂《たましい》として、わたしの前を祭るようにお祭り申し上げよ。次《つぎ》にオモヒガネの神はわたしの御子《みこ》の治められる種々《いろいろ》のことを取り扱つてお仕え申せ」と仰せられました。この二神は伊勢神宮にお祭り申し上げております。なお伊勢神宮の外宮《げくう》にはトヨウケの神を祭つてあります。次にアメノイハトワケの神はまたの名はクシイハマドの神、またトヨイハマドの神といい、この神は御門の神です。タヂカラヲの神はサナの地においでになります。このアメノコヤネの命は中臣《なかとみ》の連等《むらじら》の祖先、フトダマの命は忌部《いみべ》の首等《おびとら》の祖先、ウズメの命は猿女《さるめ》の君等《きみら》の祖先、イシコリドメの命は鏡作《かがみつくり》の連等の祖先、タマノオヤの命は玉祖《たまのおや》の連等の祖先であります。 [#5字下げ]猿女の君[#「猿女の君」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――前にあつたウズメの命がサルタ彦の神を見顯す神話に接續するものである。猿女の君の系統の傳來で、もと遊離していたものを取り入れたのであろう。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになつて、天上の御座を離れ、八重《やえ》立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によつて、下の世界に浮洲《うきす》があり、それにお立《た》ちになつて、遂《つい》に筑紫《つくし》の東方《とうほう》なる高千穗《たかちほ》の尊い峰にお降《くだ》り申さしめました。ここにアメノオシヒの命とアマツクメの命と二人が石の靫《ゆき》を負い、頭《あたま》が瘤《こぶ》になつている大刀《たち》を佩《は》いて、強い弓を持ち立派な矢を挾んで、御前《みまえ》に立つてお仕え申しました。このアメノオシヒの命は大伴《おおとも》の連等《むらじら》の祖先、アマツクメの命は久米《くめ》の直等《あたえら》の祖先であります。  ここに仰せになるには「この處は海外に向つて、カササの御埼《みさき》に行《ゆ》き通つて、朝日の照り輝《かがや》く國、夕日の輝《かがや》く國である。此處こそはたいへん吉い處《ところ》である」と仰せられて、地の下《した》の石根《いわね》に宮柱を壯大《そうだい》に立て、天上に千木《ちぎ》を高く上げて宮殿を御造營遊ばされました。  ここにアメノウズメの命に仰せられるには、「この御前に立つてお仕え申し上げたサルタ彦の大神を、顯し申し上げたあなたがお送り申せ。またその神のお名前はあなたが受けてお仕え申せ」と仰せられました。この故に猿女《さるめ》の君等はそのサルタ彦の男神の名を繼いで女を猿女の君というのです。そのサルタ彦の神はアザカにおいでになつた時に、漁《すなどり》をしてヒラブ貝に手を咋《く》い合わされて海水に溺れました。その海底に沈んでおられる時の名を底につく御魂《みたま》と申し、海水につぶつぶと泡が立つ時の名を粒立《つぶた》つ御魂と申し、水面に出て泡が開く時の名を泡咲《あわさ》く御魂と申します。  ウズメの命はサルタ彦の神を送つてから還つて來て、悉く大小樣々の魚どもを集めて、「お前たちは天の神の御子にお仕え申し上げるか、どうですか」と問う時に、魚どもは皆「お仕え申しましよう」と申しました中に、海鼠《なまこ》だけが申しませんでした。そこでウズメの命が海鼠に言うには、「この口は返事をしない口か」と言つて小刀《かたな》でその口を裂《さ》きました。それで今でも海鼠の口は裂けております。かようの次第で、御世《みよ》ごとに志摩《しま》の國から魚類の貢物《みつぎもの》を獻《たてまつ》る時に猿女の君等に下《くだ》されるのです。 [#5字下げ]木の花の咲くや姫[#「木の花の咲くや姫」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――人名に對する信仰が語られ、また古代の婚姻の風習から生じ易い疑惑の解決法が語られる。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  さてヒコホノニニギの命は、カササの御埼《みさき》で美しい孃子《おとめ》にお遇いになつて、「どなたの女子《むすめご》ですか」とお尋ねになりました。そこで「わたくしはオホヤマツミの神の女《むすめ》の木《こ》の花の咲《さ》くや姫です」と申しました。また「兄弟がありますか」とお尋ねになつたところ、「姉に石長姫《いわながひめ》があります」と申し上げました。依つて仰せられるには、「あなたと結婚《けつこん》をしたいと思うが、どうですか」と仰せられますと、「わたくしは何とも申し上げられません。父のオホヤマツミの神が申し上げるでしよう」と申しました。依つてその父オホヤマツミの神にお求めになると、非常に喜んで姉の石長姫《いわながひめ》を副えて、澤山の獻上物を持たせて奉《たてまつ》りました。ところがその姉は大變醜かつたので恐れて返し送つて、妹の木の花の咲くや姫だけを留《と》めて一夜お寢《やす》みになりました。しかるにオホヤマツミの神は石長姫をお返し遊ばされたのによつて、非常に恥じて申し送られたことは、「わたくしが二人を竝べて奉つたわけは、石長姫をお使いになると、天の神の御子《みこ》の御壽命は雪が降り風が吹いても永久に石のように堅實においでになるであろう。また木の花の咲くや姫をお使いになれば、木の花の榮えるように榮えるであろうと誓言をたてて奉りました。しかるに今石長姫を返して木の花の咲くや姫を一人お留めなすつたから、天の神の御子の御壽命は、木の花のようにもろくおいでなさることでしよう」と申しました。こういう次第で、今日に至るまで天皇の御壽命が長くないのです。  かくして後に木の花の咲くや姫が參り出て申すには、「わたくしは姙娠《にんしん》しまして、今子を産む時になりました。これは天の神の御子ですから、勝手にお生み申し上《あ》ぐべきではございません。そこでこの事を申し上げます」と申されました。そこで命が仰せになつて言うには、「咲くや姫よ、一夜で姙《はら》んだと言うが、國の神の子ではないか」と仰せになつたから、「わたくしの姙んでいる子が國の神の子ならば、生む時に無事でないでしよう。もし天の神の御子でありましたら、無事でありましよう」と申して、戸口の無い大きな家を作つてその家の中におはいりになり、粘土《ねばつち》ですつかり塗りふさいで、お生みになる時に當つてその家に火をつけてお生みになりました。その火が眞盛《まつさか》りに燃える時にお生まれになつた御子はホデリの命で、これは隼人等《はやとら》の祖先です。次にお生まれになつた御子はホスセリの命、次にお生まれになつた御子はホヲリの命、またの名はアマツヒコヒコホホデミの命でございます。 [#3字下げ]七、ヒコホホデミの命[#「七、ヒコホホデミの命」は中見出し] [#5字下げ]海幸《うみさち》と山幸[#「海幸と山幸」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――西方の海岸地帶に傳わつた海神の宮訪問の神話で、異郷説話の一つである。政治的な意味として隼人の服從が語られている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ニニギの命の御子のうち、ホデリの命は海幸彦《うみさちびこ》として、海のさまざまの魚をお取りになり、ホヲリの命は山幸彦として山に住む鳥獸の類をお取りになりました。ところでホヲリの命が兄君ホデリの命に、「お互に道具《えもの》を取り易《か》えて使つて見よう」と言つて、三度乞われたけれども承知しませんでした。しかし最後にようやく取り易えることを承諾しました。そこでホヲリの命が釣道具を持つて魚をお釣りになるのに、遂に一つも得られません。その鉤《はり》までも海に失つてしまいました。ここにその兄のホデリの命がその鉤を乞うて、「山幸《やまさち》も自分の幸《さち》だ。海幸《うみさち》も自分の幸《さち》だ。やはりお互に幸《さち》を返そう」と言う時に、弟のホヲリの命が仰せられるには、「あなたの鉤は魚を釣りましたが、一つも得られないで遂に海でなくしてしまいました」と仰せられますけれども、なおしいて乞い徴《はた》りました。そこで弟がお佩びになつている長い劒を破つて、五百の鉤を作つて償《つぐな》われるけれども取りません。また千の鉤を作つて償われるけれども受けないで、「やはりもとの鉤をよこせ」と言いました。  そこでその弟が海邊に出て泣き患《うれ》えておられた時に、シホツチの神が來て尋ねるには、「貴い御子樣《みこさま》の御心配なすつていらつしやるのはどういうわけですか」と問いますと、答えられるには、「わたしは兄と鉤を易えて鉤をなくしました。しかるに鉤を求めますから多くの鉤を償《つぐな》いましたけれども受けないで、もとの鉤をよこせと言います。それで泣き悲しむのです」と仰せられました。そこでシホツチの神が「わたくしが今あなたのために謀《はかりごと》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《めぐ》らしましよう」と言つて、隙間《すきま》の無い籠の小船を造つて、その船にお乘せ申し上げて教えて言うには、「わたしがその船を押し流しますから、すこしいらつしやい。道《みち》がありますから、その道の通りにおいでになると、魚の鱗《うろこ》のように造つてある宮があります。それが海神の宮です。その御門《ごもん》の處においでになると、傍《そば》の井の上にりつぱな桂の木がありましよう。その木の上においでになると、海神の女が見て何とか致しましよう」と、お教え申し上げました。  依《よ》つて教えた通り、すこしおいでになりましたところ、すべて言つた通りでしたから、その桂の木に登つておいでになりました。ここに海神の女《むすめ》のトヨタマ姫の侍女が玉の器を持つて、水を汲《く》もうとする時に、井に光がさしました。仰いで見るとりつぱな男がおります。不思議に思つていますと、ホヲリの命が、その侍女に、「水を下さい」と言われました。侍女がそこで水を汲《く》んで器に入れてあげました。しかるに水をお飮みにならないで、頸《くび》にお繋けになつていた珠をお解きになつて口に含んでその器にお吐き入れなさいました。しかるにその珠が器について、女が珠を離すことが出來ませんでしたので、ついたままにトヨタマ姫にさし上げました。そこでトヨタマ姫が珠を見て、女に「門の外に人がいますか」と尋ねられましたから、「井の上の桂の上に人がおいでになります。それは大變りつぱな男でいらつしやいます。王樣にも勝《まさ》つて尊いお方です。その人が水を求めましたので、さし上げましたところ、水をお飮みにならないで、この珠を吐き入れましたが、離せませんので入れたままに持つて來てさし上げたのです」と申しました。そこでトヨタマ姫が不思議にお思いになつて、出て見て感心して、そこで顏を見合つて、父に「門の前にりつぱな方がおります」と申しました。そこで海神が自分で出て見て、「これは貴い御子樣だ」と言つて、内にお連れ申し上げて、海驢《あじか》の皮八枚を敷き、その上に絹《きぬ》の敷物を八枚敷いて、御案内申し上げ、澤山の獻上物を具えて御馳走して、やがてその女トヨタマ姫を差し上げました。そこで三年になるまで、その國に留まりました。  ここにホヲリの命は初めの事をお思いになつて大きな溜息をなさいました。そこでトヨタマ姫がこれをお聞きになつてその父に申しますには、「あの方は三年お住みになつていますが、いつもお歎きになることもありませんですのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたのは何か仔細がありましようか」と申しましたから、その父の神樣が聟の君に問われるには、「今朝わたくしの女の語るのを聞けば、三年おいでになるけれどもいつもお歎きになることも無かつたのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたと申しました。何かわけがありますか。また此處においでになつた仔細はどういう事ですか」とお尋ね申しました。依つてその大神に詳しく、兄が無くなつた鉤《はり》を請求する有樣を語りました。そこで海の神が海中の魚を大小となく悉く集めて、「もしこの鉤を取つた魚があるか」と問いました。ところがその多くの魚どもが申しますには、「この頃|鯛《たい》が喉《のど》に骨をたてて物が食えないと言つております。きつとこれが取つたのでしよう」と申しました。そこで鯛の喉を探りましたところ、鉤があります。そこで取り出して洗つてホヲリの命に獻りました時に、海神がお教え申し上げて言うのに、「この鉤を兄樣にあげる時には、この鉤は貧乏鉤《びんぼうばり》の悲しみ鉤《ばり》だと言つて、うしろ向きにおあげなさい。そして兄樣が高い所に田を作つたら、あなたは低い所に田をお作りなさい。兄樣が低い所に田を作つたら、あなたは高い所に田をお作りなさい。そうなすつたらわたくしが水を掌《つかさど》つておりますから、三年の間にきつと兄樣が貧しくなるでしよう。もしこのようなことを恨んで攻め戰つたら、潮《しお》の滿《み》ちる珠を出して溺らせ、もし大變にあやまつて來たら、潮《しお》の乾《ひ》る珠を出して生かし、こうしてお苦しめなさい」と申して、潮の滿ちる珠潮の乾る珠、合わせて二つをお授け申し上げて、悉く鰐《わに》どもを呼び集め尋ねて言うには、「今天の神の御子の日《ひ》の御子樣《みこさま》が上の國においでになろうとするのだが、お前たちは幾日にお送り申し上げて御返事するか」と尋ねました。そこでそれぞれに自分の身の長さのままに日數を限つて申す中に、一丈の鰐《わに》が「わたくしが一日にお送り申し上げて還つて參りましよう」と申しました。依つてその一丈の鰐に「それならばお前がお送り申し上げよ。海中を渡る時にこわがらせ申すな」と言つて、その鰐の頸にお乘せ申し上げて送り出しました。はたして約束通り一日にお送り申し上げました。その鰐が還ろうとした時に、紐の附いている小刀をお解きになつて、その鰐の頸につけてお返しになりました。そこでその一丈の鰐をば、今でもサヒモチの神と言つております。  かくして悉く海神の教えた通りにして鉤を返されました。そこでこれよりいよいよ貧しくなつて更に荒い心を起して攻めて來ます。攻めようとする時は潮の盈ちる珠を出して溺らせ、あやまつてくる時は潮の乾る珠を出して救い、苦しめました時に、おじぎをして言うには、「わたくしは今から後、あなた樣の晝夜の護衞兵となつてお仕え申し上げましよう」と申しました。そこで今に至るまで隼人《はやと》はその溺れた時のしわざを演じてお仕え申し上げるのです。 [#5字下げ]トヨタマ姫[#「トヨタマ姫」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――前の説話の續きで、男が禁止を破ることによつて、別離になることを語る。この種の説話の常型である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ここに海神の女、トヨタマ姫の命が御自身で出ておいでになつて申しますには、「わたくしは以前から姙娠《にんしん》しておりますが、今御子を産むべき時になりました。これを思うに天の神の御子を海中でお生《う》み申し上ぐべきではございませんから出て參りました」と申し上げました。そこでその海邊の波際《なぎさ》に鵜《う》の羽を屋根にして産室を造りましたが、その産室がまだ葺き終らないのに、御子が生まれそうになりましたから、産室におはいりになりました。その時夫の君に申されて言うには「すべて他國の者は子を産む時になれば、その本國の形になつて産むのです。それでわたくしももとの身になつて産もうと思いますが、わたくしを御覽遊ばしますな」と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、今盛んに子をお産みになる最中《さいちゆう》に覗《のぞ》いて御覽になると、八丈もある長い鰐になつて匐《は》いのたくつておりました。そこで畏れ驚いて遁げ退きなさいました。しかるにトヨタマ姫の命は窺見《のぞきみ》なさつた事をお知りになつて、恥かしい事にお思いになつて御子を産み置いて「わたくしは常に海の道を通つて通《かよ》おうと思つておりましたが、わたくしの形を覗《のぞ》いて御覽になつたのは恥かしいことです」と申して、海の道をふさいで歸つておしまいになりました。そこでお産《う》まれになつた御子の名をアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命と申し上げます。しかしながら後には窺見《のぞきみ》なさつた御心を恨みながらも戀しさにお堪えなさらないで、その御子を御養育申し上げるために、その妹のタマヨリ姫を差しあげ、それに附けて歌を差しあげました。その歌は、 [#ここから3字下げ] 赤い玉は緒《お》までも光りますが、 白玉のような君のお姿は 貴《たつと》いことです。 [#ここで字下げ終わり]  そこでその夫の君がお答えなさいました歌は、 [#ここから3字下げ] 水鳥《みずとり》の鴨《かも》が降《お》り著《つ》く島で 契《ちぎり》を結んだ私の妻は忘れられない。 世の終りまでも。 [#ここで字下げ終わり]  このヒコホホデミの命は高千穗の宮に五百八十年おいでなさいました。御陵《ごりよう》はその高千穗の山の西にあります。  アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました。 [#改ページ] [#1字下げ]古事記 中の卷[#「古事記 中の卷」は大見出し] [#3字下げ]一、神武天皇[#「一、神武天皇」は中見出し] [#5字下げ]東征[#「東征」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――日向から發して大和にはいろうとして失敗することを語る。速吸の門の物語の位置が地理の實際と合わないのは、諸氏の傳來の合併だからである。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになつて御相談なさいますには、「何處の地におつたならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもつと東に行こうと思う」と仰せられて、日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。そこで豐後《ぶんご》のウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰《あが》りの宮を作つて、御馳走を致しました。其處からお遷りになつて、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、備後《びんご》の高島の宮に八年おいでになりました。 [#5字下げ]速吸《はやすい》の門《と》[#「速吸の門」は小見出し]  その國から上《のぼ》つておいでになる時に、龜の甲《こう》に乘つて釣をしながら勢いよく身體《からだ》を振《ふ》つて來る人に速吸《はやすい》の海峽《かいきよう》で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知つているか」とお尋ねになりますと「よく知つております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹《さお》をさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました。 [#5字下げ]イツセの命《みこと》[#「イツセの命」は小見出し]  その國から上つておいでになる時に、難波《なにわ》の灣《わん》を經て河内の白肩の津に船をお泊《と》めになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向つて戰いましたから、御船に入れてある楯を取つて下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日下《くさか》の蓼津《たでつ》と言《い》つております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネ彦の矢の傷をお負いになりました。そこで仰せられるのには「自分は日の神の御子として、日に向つて戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて行つて日を背中にして撃とう」と仰せられて、南の方から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになる時に、和泉《いずみ》の國のチヌの海に至つてその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。其處から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになつて、紀伊《きい》の國のヲの水門《みなと》においでになつて仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負つて死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの水門《みなと》と言います。御陵は紀伊の國の竈山《かまやま》にあります。 [#5字下げ]熊野から大和へ[#「熊野から大和へ」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――神話の要素の多い部分で、神話の成立過程も窺われる。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  カムヤマトイハレ彦の命は、その土地から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになつて、熊野においでになつた時に、大きな熊がぼうつと現れて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイハレ彦の命は俄に氣を失われ、兵士どもも皆氣を失つて仆れてしまいました。この時熊野のタカクラジという者が一つの大刀をもつて天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤《さ》めになつて、「隨分寢たことだつた」と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、かの正氣を失つた軍隊が悉く寤《さ》めました。そこで天の神の御子がその大刀を獲た仔細をお尋ねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、「わたくしの夢に、天照らす大神と高木の神のお二方の御命令で、タケミカヅチの神を召して、葦原の中心の國はひどく騷いでいる。わたしの御子《みこ》たちは困つていらつしやるらしい。あの葦原の中心の國はもつぱらあなたが平定した國である。だからお前タケミカヅチの神、降つて行けと仰せになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、その時に國を平定した大刀がありますから、これを降しましよう。この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて其處から墮し入れましようと申しました。そこでわたくしに、お前は朝目が寤《さ》めたら、この大刀を取つて天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依つてこの大刀を奉るのです」と申しました。この大刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今|石上《いそのかみ》神宮にあります。  ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏《やたがらす》をよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌《うえ》を入《い》れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光つております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等《おびとら》の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖《くず》の祖先です。それから山坂を蹈み穿《うが》つて越えてウダにおいでになりました。依つて宇陀《うだ》のウガチと言います。 [#5字下げ]久米歌[#「久米歌」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――幾首かの久米歌に結びついている物語である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  この時に宇陀《うだ》にエウカシ・オトウカシという二人《ふたり》があります。依つてまず八咫烏《やたがらす》を遣つて、「今天の神の御子がおいでになりました。お前方はお仕え申し上げるか」と問わしめました。しかるにエウカシは鏑矢《かぶらや》を以つてその使を射返しました。その鏑矢の落ちた處をカブラ埼《さき》と言います。「待つて撃とう」と言つて軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、「お仕え申しましよう」と僞つて、大殿を作つてその殿の内に仕掛を作つて待ちました時に、オトウカシがまず出て來て、拜して、「わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子のお使を射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りその内に仕掛を作つて待ち取ろうとしております。それで出て參りましてこのことを申し上げます」と申しました。そこで大伴《おおとも》の連等《むらじら》の祖先《そせん》のミチノオミの命、久米《くめ》の直等《あたえら》の祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵《ののし》つて言うには、「貴樣が作つてお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入つてお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ」と言つて、刀の柄《つか》を掴《つか》み矛《ほこ》をさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張つて置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇陀《うだ》の血原《ちはら》と言います。そうしてそのオトウカシが獻上した御馳走を悉く軍隊に賜わりました。その時に歌をお詠みになりました。それは、 [#ここから3字下げ] 宇陀の高臺《たかだい》でシギの網《あみ》を張る。 わたしが待《ま》つているシギは懸からないで 思いも寄らないタカが懸かつた。 古妻《ふるづま》が食物を乞うたら ソバノキの實のように少しばかりを削つてやれ。 新しい妻が食物を乞うたら イチサカキの實のように澤山に削つてやれ。 [#ここから5字下げ] ええやつつけるぞ。ああよい氣味《きみ》だ。 [#ここで字下げ終わり]  そのオトウカシは宇陀の水取《もひとり》等の祖先です。  次に、忍坂《おさか》の大室《おおむろ》においでになつた時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあつて威張《いば》つております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩《は》かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立つて武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は、 [#ここから3字下げ] 忍坂《おさか》の大きな土室《つちむろ》に 大勢の人が入り込んだ。 よしや大勢の人がはいつていても 威勢のよい久米《くめ》の人々が 瘤大刀《こぶたち》の石大刀《いしたち》でもつて やつつけてしまうぞ。 威勢のよい久米の人々が 瘤大刀の石大刀でもつて そら今撃つがよいぞ。 [#ここで字下げ終わり]  かように歌つて、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました。  その後、ナガスネ彦をお撃ちになろうとした時に、お歌いになつた歌は、 [#ここから3字下げ] 威勢のよい久米の人々の アワの畑《はたけ》には臭いニラが一|本《ぽん》生《は》えている。 その根《ね》のもとに、その芽《め》をくつつけて やつつけてしまうぞ。 [#ここで字下げ終わり]  また、 [#ここから3字下げ] 威勢のよい久米の人々の 垣本《かきもと》に植えたサンシヨウ、 口がひりひりして恨みを忘れかねる。 やつつけてしまうぞ。 [#ここで字下げ終わり]  また、 [#ここから3字下げ] 神風《かみかぜ》の吹く伊勢の海の 大きな石に這い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まわ》つている 細螺《しただみ》のように這い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて やつつけてしまうぞ。 [#ここで字下げ終わり]  また、エシキ、オトシキをお撃ちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌い遊ばされたお歌、 [#ここから3字下げ] 楯《たて》を竝《なら》べて射《い》る、そのイナサの山の 樹《こ》の間《ま》から行き見守つて 戰爭《いくさ》をすると腹が減《へ》つた。 島《しま》にいる鵜《う》を養《か》う人々よ すぐ助けに來てください。 [#ここで字下げ終わり]  最後にトミのナガスネ彦をお撃《う》ちになりました。時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參つて申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになつたと聞きましたから、後を追つて降つて參りました」と申し上げて、天から持つて來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部《もののべ》の連・穗積の臣・采女《うねめ》の臣等の祖先です。そこでかようにして亂暴な神たちを平定し、服從しない人どもを追い撥《はら》つて、畝傍《うねび》の橿原《かしはら》の宮において天下をお治めになりました。 [#5字下げ]神の御子[#「神の御子」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――英雄や佳人などを、神が通つて生ませた子だとすることは、崇神天皇の卷にもあり、廣く信じられていたところである。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  はじめ日向《ひうが》の國においでになつた時に、阿多《あた》の小椅《おばし》の君の妹のアヒラ姫という方と結婚して、タギシミミの命・キスミミの命とお二方の御子がありました。しかし更に皇后となさるべき孃子《おとめ》をお求めになつた時に、オホクメの命の申しますには、「神の御子と傳える孃子があります。そのわけは三嶋《みしま》のミゾクヒの娘《むすめ》のセヤダタラ姫という方が非常に美しかつたので、三輪《みわ》のオホモノヌシの神がこれを見て、その孃子が厠《かわや》にいる時に、赤く塗つた矢になつてその河を流れて來ました。その孃子が驚いてその矢を持つて來て床の邊《ほとり》に置きましたところ、たちまちに美しい男になつて、その孃子と結婚して生んだ子がホトタタライススキ姫であります。後にこの方は名をヒメタタライスケヨリ姫と改めました。これはそのホトという事を嫌つて、後に改めたのです。そういう次第で、神の御子と申すのです」と申し上げました。  ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混《まじ》つていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、 [#ここから3字下げ] 大和の國のタカサジ野《の》を 七人行く孃子《おとめ》たち、 その中の誰をお召しになります。 [#ここで字下げ終わり]  このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前《さき》に立つておりました。天皇はその孃子たちを御覽になつて、御心にイスケヨリ姫が一番|前《さき》に立つていることを知られて、お歌でお答えになりますには、 [#ここから3字下げ] まあまあ一番先に立つている娘《こ》を妻にしましようよ。 [#ここで字下げ終わり]  ここにオホクメの命が、天皇の仰せをそのイスケヨリ姫に傳えました時に、姫はオホクメの命の眼の裂目《さけめ》に黥《いれずみ》をしているのを見て不思議に思つて、 [#ここから3字下げ] 天地間《てんちかん》の千|人《にん》勝《まさ》りの勇士《ゆうし》だというに、どうして目《め》に黥《いれずみ》をしているのです。 [#ここで字下げ終わり] と歌いましたから、オホクメの命が答えて歌うには、 [#ここから3字下げ] お孃さんにすぐに逢おうと思つて目に黥《いれずみ》をしております。 [#ここで字下げ終わり] と歌いました。かくてその孃子は「お仕え申しあげましよう」と申しました。  そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになつて一夜お寢《やす》みになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合《やまゆり》草が澤山ありましたから、その名を取つて名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです。後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、 [#ここから3字下げ] アシ原のアシの繁つた小屋に スゲの蓆《むしろ》を清らかに敷いて、 二人《ふたり》で寢たことだつたね。 [#ここで字下げ終わり]  かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です。 [#5字下げ]タギシミミの命の變[#「タギシミミの命の變」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――自分の家の祖先は、天皇の兄に當るのだが、なぜ臣下となつたかということを語る説話。前にも隼人の話はそれであり、後にも例が多い。カムヤヰミミの命の子孫というオホの臣が、古事記の撰者の太の安萬侶の家であることに注意。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  天皇がお隱れになつてから、その庶兄《ままあに》のタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚した時に、三人の弟たちを殺《ころ》そうとして謀《はか》つたので、母君《ははぎみ》のイスケヨリ姫が御心配になつて、歌でこの事を御子たちにお知らせになりました。その歌は、 [#ここから3字下げ] サヰ河の方から雲が立ち起つて、 畝傍《うねび》山の樹の葉が騷いでいる。 風が吹き出しますよ。 畝傍山は晝は雲が動き、 夕暮になれば風が吹き出そうとして 樹の葉が騷いでいる。 [#ここで字下げ終わり]  そこで御子たちがお聞きになつて、驚いてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカハミミの命が、兄君のカムヤヰミミの命に、「あなたは武器を持つてはいつてタギシミミをお殺しなさいませ」と申しました。そこで武器を持つて殺そうとされた時に、手足が震えて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカハミミの命が兄君の持つておられる武器を乞い取つて、はいつてタギシミミを殺しました。そこでまた御名《みな》を讚《たた》えてタケヌナカハミミの命と申し上げます。  かくてカムヤヰミミの命が弟のタケヌナカハミミの命に國を讓つて申されるには、「わたしは仇を殺すことができません。それをあなたが殺しておしまいになりました。ですからわたしは兄であつても、上にいることはできません。あなたが天皇になつて天下をお治め遊ばせ。わたしはあなたを助けて祭をする人としてお仕え申しましよう」と申しました。そこでそのヒコヤヰの命は、茨田《うまらた》の連《むらじ》・手島の連の祖先です。カムヤヰミミの命は、意富《おお》の臣《おみ》・小子部《ちいさこべ》の連・坂合部の連・火の君・大分《おおきた》の君・阿蘇《あそ》の君・筑紫の三家《みやけ》の連・雀部《さざきべ》の臣・雀部の造《みやつこ》・小長谷《おはつせ》の造・都祁《つげ》の直《あたえ》・伊余《いよ》の國の造・科野《しなの》の國の造・道の奧の石城《いわき》の國の造・常道《ひたち》の仲の國の造・長狹《ながさ》の國の造・伊勢の船木《ふなき》の直・尾張の丹羽《にわ》の臣・島田の臣等の祖先です。カムヌナカハミミの命は、天下をお治めになりました。すべてこのカムヤマトイハレ彦の天皇は、御歳《おとし》百三十七歳、御陵は畝傍山の北の方の白檮《かし》の尾《お》の上《え》にあります。 [#3字下げ]二、綏靖《すいせい》天皇以後八代[#「二、綏靖天皇以後八代」は中見出し] [#5字下げ]綏靖天皇[#「綏靖天皇」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――以下八代は、帝紀の部分だけで、本辭を含んでいない。この項など、帝紀の典型的な例と見られる。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  カムヌナカハミミの命(綏靖天皇《すいせいてんのう》)、大和の國の葛城《かずらき》の高岡の宮においでになつて天下をお治め遊ばされました。この天皇、シキの縣主《あがたぬし》の祖先のカハマタ姫と結婚してお生みになつた御子はシキツ彦タマデミの命お一方です。天皇は御年四十五歳、御陵は衝田《つきだ》の岡にあります。 [#5字下げ]安寧《あんねい》天皇[#「安寧天皇」は小見出し]  シキツ彦タマデミの命(安寧天皇)、大和の片鹽《かたしお》の浮穴《うきあな》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はカハマタ姫の兄の縣主《あがたぬし》ハエの女のアクト姫と結婚してお生みになつた御子は、トコネツ彦イロネの命・オホヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子たち合わせてお三方の中、オホヤマト彦スキトモの命は、天下をお治めになりました。次にシキツ彦の命の御子がお二方あつて、お一方の子孫は、伊賀の須知の稻置《いなき》・那婆理《なはり》の稻置・三野の稻置の祖先です。お一方の御子ワチツミの命は淡路の御井《みい》の宮においでになり、姫宮がお二方おありになりました。その姉君《あねぎみ》はハヘイロネ、またの名はオホヤマトクニアレ姫の命、妹君はハヘイロドです。この天皇の御年四十九歳、御陵は畝傍山のミホトにあります。 [#5字下げ]懿徳《いとく》天皇[#「懿徳天皇」は小見出し]  オホヤマト彦スキトモの命(懿徳天皇)、大和の輕《かる》の境岡《さかいおか》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はシキの縣主《あがたぬし》の祖先フトマワカ姫の命、またの名はイヒヒ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ミマツ彦カヱシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カヱシネの命は天下をお治めなさいました。次にタギシ彦の命は、血沼《ちぬ》の別《わけ》・多遲麻《たじま》の竹の別・葦井《あしい》の稻置《いなき》の祖先です。天皇は御年四十五歳、御陵は畝傍山のマナゴ谷の上にあります。 [#5字下げ]孝昭天皇[#「孝昭天皇」は小見出し]  ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上《わきがみ》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は尾張《おわり》の連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになつた御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました。兄のアメオシタラシ彦の命は・[#「・」はママ]春日の臣・大宅《おおやけ》の臣・粟田の臣・小野の臣・柿本の臣・壹比韋《いちひい》の臣・大坂の臣・阿那の臣・多紀《たき》の臣・羽栗の臣・知多の臣・牟耶《むざ》の臣・都怒《つの》山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡海の國の造の祖先です。天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博多《はかた》山の上にあります。 [#5字下げ]孝安天皇[#「孝安天皇」は小見出し]  オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は姪《めい》のオシカ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホキビノモロススの命とオホヤマトネコ彦フトニの命とお二方です。このオホヤマトネコ彦フトニの命は天下をお治めなさいました。天皇は御年百二十三歳、御陵は玉手の岡の上にあります。 [#5字下げ]孝靈天皇[#「孝靈天皇」は小見出し]  オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸《いおと》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春日《かすが》のチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになつた御子は、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子《みこ》は合わせて八|人《にん》おいでになりました。男王五人、女王三人です。  そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました。オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨《はりま》の氷《ひ》の河《かわ》の埼《さき》に忌瓮《いわいべ》を据《す》えて神《かみ》を祭《まつ》り、播磨からはいつて吉備《きび》の國を平定されました。このオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です。次にヒコサメマの命は、播磨の牛鹿《うしか》の臣の祖先です。次にヒコサシカタワケの命は、高志《こし》の利波《となみ》の臣・豐國の國|前《さき》の臣・五百原の君・角鹿の濟《わたり》の直の祖先です。天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂《うまさか》の上にあります。 [#5字下げ]孝元天皇[#「孝元天皇」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――タケシウチの宿禰の諸子をあげているのは豪族の祖先だからである。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原《さかいはら》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積《ほずみ》の臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになつた御子は大彦《おおびこ》の命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになつた御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五方《いつかた》おいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました。その兄、大彦の命の子タケヌナカハワケの命は阿部の臣等の祖先です。次にヒコイナコジワケの命は膳《かしわで》の臣の祖先です。ヒコフツオシノマコトの命が、尾張《おわり》の連の祖先のオホナビの妹の葛城《かずらき》のタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿禰《すくね》、これは山代《やましろ》の内の臣の祖先です。また木の國《くに》の造《みやつこ》の祖先のウヅ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿禰です。このタケシウチの宿禰の子は合わせて九|人《にん》あります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿禰は波多の臣・林の臣・波美の臣・星川の臣・淡海の臣・長谷部の君の祖先です。コセノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰は蘇我の臣・川邊の臣・田中の臣・高向《たかむく》の臣・小治田《おはりだ》の臣・櫻井の臣・岸田の臣等の祖先です。ヘグリノツクの宿禰《すくね》は、平群の臣・佐和良の臣・馬の御※[#「識」の「言」に代えて「木」、第4水準2-15-49]《みくい》の連等の祖先です。キノツノの宿禰《すくね》は、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。次にクメノマイト姫・ノノイロ姫です。葛城《かずらき》の長江《ながえ》のソツ彦は、玉手の臣・的《いくは》の臣・生江の臣・阿藝那《あきな》の臣等の祖先です。次に若子《わくご》の宿禰《すくね》は、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御陵《ごりよう》は劒の池の中の岡の上にあります。 [#5字下げ]開化天皇[#「開化天皇」は小見出し]  ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)、大和の春日のイザ河の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は、丹波《たんば》の大縣主《おおあがたぬし》ユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになつた御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸邇《わに》の臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヒコイマスの王《みこ》お一方です。また葛城《かずらき》のタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになつた御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命は天下をお治めなさいました。その兄ヒコユムスミの王の御子は、オホツツキタリネの王とサヌキタリネの王とお二方で、この二王の女は五人ありました。次にヒコイマスの王が山代《やましろ》のエナツ姫、またの名はカリハタトベと結婚して生んだ子はオホマタの王とヲマタの王とシブミの宿禰の王とお三方です。またこの王が春日のタケクニカツトメの女のサホのオホクラミトメと結婚して生んだ子がサホ彦の王・ヲザホの王・サホ姫の命・ムロビコの王のお四方です。サホ姫の命はまたの名はサハヂ姫で、この方はイクメ天皇の皇后樣におなりになりました。また近江の國の御上《みかみ》山の神職がお祭するアメノミカゲの神の女オキナガノミヅヨリ姫と結婚して生んだ子は丹波ノヒコタタスミチノウシの王・ミヅホノマワカの王・カムオホネの王、またの名はヤツリのイリビコの王・ミヅホノイホヨリ姫・ミヰツ姫の五人です。また母の妹オケツ姫と結婚して生んだ子は山代のオホツツキのマワカの王・ヒコオスの王・イリネの王の三人です。すべてヒコイマスの王の御子は合わせて十五人ありました。兄のオホマタの王の子はアケタツの王・ウナガミの王の二人です。このアケタツの王は、伊勢の品遲部《ほんじべ》・伊勢の佐那の造の祖先です。ウナガミの王は、比賣陀の君の祖先です。次にヲマタの王は當麻《たぎま》の勾《まがり》の君の祖先です。次にシブミの宿禰の王は佐佐の君の祖先です。次にサホ彦の王は日下部《くさかべ》の連・甲斐の國の造の祖先です。次にヲザホの王は葛野《かずの》の別・近つ淡海の蚊野《かや》の別の祖先です。次にムロビコの王は若狹の耳の別の祖先です。そのミチノウシの王が丹波の河上のマスの郎女《いらつめ》と結婚して生んだ子はヒバス姫の命・マトノ姫の命・オト姫の命・ミカドワケの王の四人です。このミカドワケの王は、三川の穗の別の祖先です。このミチノウシの王の弟ミヅホノマワカの王は近つ淡海の安の直の祖先です。次にカムオホネの王は三野の國の造・本巣《もとす》の國の造・長幡部《ながはたべ》の連の祖先です。その山代《やましろ》のオホツツキマワカの王は弟君イリネの王の女の丹波《たんば》のアヂサハ姫と結婚して生んだ御子は、カニメイカヅチの王です。この王が丹波《たんば》の遠津の臣の女のタカキ姫と結婚して生んだ御子はオキナガの宿禰の王です。この王が葛城のタカヌカ姫と結婚して生んだ御子がオキナガタラシ姫の命・ソラツ姫の命・オキナガ彦の王の三人です。このオキナガ彦の王は、吉備の品遲《ほむじ》の君・播磨の阿宗の君の祖先です。またオキナガの宿禰の王が、カハマタノイナヨリ姫と結婚して生んだ子がオホタムサカの王で、この方は但馬《たじま》の國の造の祖先です。上に出たタケトヨハヅラワケの王は、道守の臣・忍海部の造・御名部の造・稻羽の忍海部・丹波の竹野の別・依網《よさみ》の阿毘古等の祖先です。この天皇は御年六十三歳、御陵はイザ河の坂の上にあります。 [#3字下げ]三、崇神天皇[#「三、崇神天皇」は中見出し] [#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――帝紀の前半と見られる部分である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木《しき》の水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。  この天皇は、木の國の造のアラカハトベの女のトホツアユメマクハシ姫と結婚してお生みになつた御子はトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の命お二方です。また尾張の連の祖先のオホアマ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の命・トホチノイリ姫の命のお四方です。また大彦《おおびこ》の命の女のミマツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイクメイリ彦イサチの命・イザノマワカの命・クニカタ姫の命・チヂツクヤマト姫の命・イガ姫の命・ヤマト彦の命のお六方です。この天皇の御子たちは合わせて十二王おいでになりました。男王七人女王五人です。そのうちイクメイリ彦イサチの命は天下をお治めなさいました。次にトヨキイリ彦の命は、上毛野《かみつけの》・下毛野の君等の祖先です。妹のトヨスキ姫の命は伊勢の大神宮をお祭りになりました。次にオホイリキの命は能登の臣の祖先です。次にヤマト彦の命は、この王の時に始めて陵墓に人の垣を立てました。 [#5字下げ]美和の大物主[#「美和の大物主」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神《みわ》氏、鴨氏等の祖先の物語。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寢《やす》みになつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、「かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつてわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう」と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました。そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡《よろこ》びになつて仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主《かんぬし》としてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀《うだ》の墨坂《すみさか》の神に赤い色の楯《たて》矛《ほこ》を獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛《へいはく》を獻りました。これによつて疫病《えきびよう》が止んで國家が平安になりました。  このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿《かたち》威儀《いぎ》竝《なら》びなき一人の男が夜中にたちまち來ました。そこで互に愛《め》でて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその孃子《おとめ》が姙《はら》みました。そこで父母が姙娠《にんしん》したことを怪しんで、その女に、「お前は自然《しぜん》に姙娠《にんしん》した。夫が無いのにどうして姙娠したのか」と尋ねましたから、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自然《しぜん》に姙《はら》みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物《きもの》の裾に刺せ」と教えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴《かぎあな》から貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知つて絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つたのです。その麻の三輪殘つたのによつて其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神《みわ》の君・鴨の君の祖先です。 [#5字下げ]將軍の派遣[#「將軍の派遣」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――いわゆる四道將軍の派遣の物語。但しヒコイマスの王を、日本書紀では、その子丹波のミチヌシの命とし、またキビツ彦を西の道に遣したとある。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  またこの御世に大彦の命をば越《こし》の道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました。その大彦の命が越の國においでになる時に、裳《も》を穿《は》いた女が山城《やましろ》のヘラ坂に立つて歌つて言うには、 [#ここから3字下げ] 御眞木入日子さまは、 御自分の命を人知れず殺そうと、 背後《うしろ》の入口から行き違《ちが》い 前の入口から行き違い 窺《のぞ》いているのも知らないで、 御眞木入日子さまは。 [#ここで字下げ終わり] と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思つて、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌つただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依つて大彦の命は更に還つて天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行つていらつしやい」と仰せになつて、丸邇《わに》の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂《わにさか》に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。  さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待つており、互に河を挾んで對《むか》い立つて挑《いど》み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言つております。ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中《あ》てることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放つた矢はタケハニヤスの王に射中《いあ》てて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依つて逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎《くそ》が出て褌《はかま》にかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言つております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜《う》のように河に浮きました。依つてその河を鵜河《うがわ》といいます。またその兵士を斬り屠《ほお》りましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終つて、朝廷に參つて御返事申し上げました。  かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津《あいず》で行き遇いましたから、其處を會津《あいず》というのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢《たてまつ》らしめました。そこでその御世を讚《たた》えて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網《よさみ》の池を作り、また輕《かる》の酒折《さかおり》の池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅《つちのえとら》の年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾《まがり》の岡の上にあります。 [#3字下げ]四、垂仁天皇[#「四、垂仁天皇」は中見出し] [#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]  イクメイリ彦イサチの命(垂仁天皇)、大和の師木《しき》の玉垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、サホ彦の命の妹のサハヂ姫の命と結婚してお生《う》みになつた御子《みこ》はホムツワケの命お一方です。また丹波《たんば》のヒコタタスミチノウシの王の女のヒバス姫の命と結婚してお生みになつた御子はイニシキノイリ彦の命・オホタラシ彦オシロワケの命・オホナカツ彦の命・ヤマト姫の命・ワカキノイリ彦の命のお五方です。またそのヒバス姫の命の妹、ヌバタノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヌタラシワケの命・イガタラシ彦の命のお二方です。またそのヌバタノイリ姫の命の妹のアザミノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイコバヤワケの命・アザミツ姫の命のお二方です。またオホツツキタリネの王の女のカグヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヲナベの王お一方です。また山代《やましろ》の大國《おおくに》のフチの女のカリバタトベと結婚してお生みになつた御子はオチワケの王・イカタラシ彦の王・イトシワケの王のお三方です。またその大國のフチの女のオトカリバタトベと結婚して、お生みになつた御子は、イハツクワケの王・イハツク姫の命またの名はフタヂノイリ姫の命のお二方です。すべてこの天皇の皇子たちは十六王おいでになりました。男王十三人、女王三人です。  その中でオホタラシ彦オシロワケの命は、天下をお治めなさいました。御身《おみ》の長さ一丈二寸、御脛《おんはぎ》の長さ四尺一寸ございました。次にイニシキノイリ彦の命は、血沼《ちぬ》の池・狹山《さやま》の池を作り、また日下《くさか》の高津《たかつ》の池をお作りになりました。また鳥取《ととり》の河上《かわかみ》の宮においでになつて大刀一千|振《ふり》をお作りになつて、これを石上《いそのかみ》の神宮《じんぐう》にお納《おさ》めなさいました。そこでその宮においでになつて河上部をお定めになりました。次にオホナカツ彦の命は、山邊の別・三枝《さきくさ》の別・稻木の別・阿太の別・尾張の國の三野の別・吉備の石无《いわなし》の別・許呂母《ころも》の別・高巣鹿《たかすか》の別・飛鳥の君・牟禮の別等の祖先です。次にヤマト姫の命は伊勢の大神宮をお祭りなさいました。次にイコバヤワケの王は、沙本の穴本部《あなほべ》の別の祖先です。次にアザミツ姫の命は、イナセ彦の王に嫁ぎました。次にオチワケの王は、小目《おめ》の山の君・三川の衣の君の祖先です。次にイカタラシ彦の王は、春日の山の君・高志《こし》の池の君・春日部の君の祖先です。次にイトシワケの王は、子がありませんでしたので、子の代りとして伊登志部を定めました。次にイハツクワケの王は羽咋《はくい》の君・三尾の君の祖先です。次にフタヂノイリ姫の命はヤマトタケルの命の妃《きさき》になりました。 [#5字下げ]サホ彦の叛亂[#「サホ彦の叛亂」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――サホ彦は天皇を弑殺しようとした叛逆者であるが、その子孫は、日下部の連、甲斐の國の造等として榮えている。要するに一の物語であつて、それが天皇の記に結びついたものと見るべきである。後に出る大山守の命の物語も同樣である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向つて「夫と兄とはどちらが大事であるか」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう」と言つて、色濃く染めた紐のついている小刀を作つて、その妹に授けて、「この刀で天皇の眠つておいでになるところをお刺し申せ」と言いました。しかるに天皇はその謀をお知り遊ばされず、皇后の膝を枕としてお寢《やす》みになりました。そこでその皇后は紐のついた小刀をもつて天皇のお頸《くび》をお刺ししようとして、三度振りましたけれども、哀《かな》しい情に堪えないでお頸をお刺し申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顏の上に落ち流れました。そこで天皇が驚いてお起ちになつて、皇后にお尋ねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降つて來て、急に顏を沾《ぬ》らした。また錦色《にしきいろ》の小蛇がわたしの頸《くび》に纏《まと》いついた。こういう夢は何のあらわれだろうか」とお尋ねになりました。そこでその皇后が隱しきれないと思つて天皇に申し上げるには、「わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かと尋ねました。目の前で尋ねましたので、仕方《しかた》がなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに註文して、自分とお前とで天下を治めるから、天皇をお殺し申せと言つて、色濃く染めた紐をつけた小刀を作つてわたくしに渡しました。そこでお頸をお刺し申そうとして三度振りましたけれども、哀《かな》しみの情がたちまちに起つてお刺し申すことができないで、泣きました涙がお顏を沾《ぬ》らしました。きつとこのあらわれでございましよう」と申しました。  そこで天皇は「わたしはあぶなく欺《あざむ》かれるところだつた」と仰せになつて、軍を起してサホ彦の王をお撃ちになる時、その王が稻の城を作つて待つて戰いました。この時、サホ姫の命は堪え得ないで、後の門から逃げてその城におはいりになりました。  この時にその皇后は姙娠《にんしん》しておいでになり、またお愛し遊ばされていることがもう三年も經つていたので、軍を返して、俄にお攻めになりませんでした。かように延びている間に御子がお生まれになりました。そこでその御子を出して城の外において、天皇に申し上げますには、「もしこの御子をば天皇の御子と思しめすならばお育て遊ばせ」と申さしめました。ここで天皇は「兄には恨みがあるが、皇后に對する愛は變らない」と仰せられて、皇后を得られようとする御心がありました。そこで軍隊の中から敏捷な人を選り集めて仰せになるには、「その御子を取る時にその母君をも奪い取れ。御髮でも御手でも掴まえ次第に掴んで引き出し申せ」と仰せられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心の程をお知りになつて、悉く髮をお剃りになり、その髮でお頭を覆《おお》い、また玉の緒を腐らせて御手に三重お纏きになり、また酒でお召物を腐らせて、完全なお召物のようにして著ておいでになりました。かように準備をして御子をお抱きになつて城の外にお出になりました。そこで力士たちがその御子をお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髮を取れば御髮がぬけ落ち、御手を握れば玉の緒が絶え、お召物を握ればお召物が破れました。こういう次第で御子を取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが還つて來て申しましたには、「御髮が自然に落ち、お召物は破れ易く、御手に纏いておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子は取つて參りました」と申しました。そこで天皇は非常に殘念がつて、玉を作つた人たちをお憎しみになつて、その領地を皆お奪《と》りになりました。それで諺《ことわざ》に、「處《ところ》を得ない玉作《たまつくり》だ」というのです。  また天皇がその皇后に仰せられるには、「すべて子《こ》の名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか」と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、「今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」と仰せられましたところ、「乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう」と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫《えひめ》・弟姫《おとひめ》という二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました。 [#5字下げ]ホムチワケの御子[#「ホムチワケの御子」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――種々の要素の結合している物語であるが、出雲の神のたたりが中心となつている。ヒナガ姫の部分は、特に結びつけたものの感が深い。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあつた二俣《ふたまた》の杉をもつて二俣の小舟を作つて、持ち上つて來て、大和の市師《いちし》の池、輕《かる》の池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡つたのをお聞きになつて始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊《やまべ》のオホタカという人を遣つて、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追つて因幡《いなば》の國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わつて信濃の國に追い、遂に越《こし》の國に行つて、ワナミの水門《みなと》で罠《わな》を張つてその鳥を取つて持つて來て獻りました。そこでその水門《みなと》をワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になつて、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした。  そこで天皇が御心配遊ばされてお寢《やす》みになつている時に、御夢に神のおさとしをお得になりました。それは「わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう」と、かように夢に御覽になつて、そこで太卜《ふとまに》の法で占いをして、これはどの神の御心であろうかと求めたところ、その祟《たたり》は出雲の大神の御心でした。依つてその御子をしてその大神の宮を拜ましめにお遣りになろうとする時に、誰を副えたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。依つてアケタツの王に仰せて誓言を申さしめなさいました。「この大神を拜むことによつて誠にその驗があるならば、この鷺の巣の池の樹に住んでいる鷺が我が誓によつて落ちよ」かように仰せられた時にその鷺が池に落ちて死にました。また「活きよ」と誓をお立てになりましたら活きました。またアマカシの埼《さき》の廣葉のりつぱなカシの木を誓を立てて枯らしたり活かしたりしました。それでアケタツの王に、「大和は師木《しき》、登美《とみ》の豐朝倉《とよあさくら》のアケタツの王」という名前を下さいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛《ちんば》だの盲《めくら》だのに遇うだろう。二上《ふたかみ》山の大阪の道から行つても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊《きい》の道こそは幸先《さいさき》のよい道であると占《うらな》つて出ておいでになつた時に、到る處毎に品遲部《ほむじべ》の人民をお定めになりました。  かくて出雲の國においでになつて、出雲の大神を拜み終つて還り上つておいでになる時に、肥《ひ》の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造つてお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石※[#「石+炯のつくり」、U+2544E、282-5]《いわくま》の曾《そ》の宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔《あじまさ》の長穗《ながほ》の宮に御案内して、急使を奉つて天皇に奏上致しました。  そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺《のぞ》いて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思つて、海上を光らして船に乘つて追つて來るのでいよいよ畏れられて、山の峠《とうげ》から御船を引き越させて逃げて上つておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによつて、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになつて、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘《とりかい》・品遲部《ほむじべ》・大湯坐《おおゆえ》・若湯坐をお定めになりました。 [#5字下げ]丹波の四女王[#「丹波の四女王」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――丹波地方に傳わつた説話が取りあげられたものであろう。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟《おと》姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方《ふたかた》はお留めになりましたが、妹のお二方は醜かつたので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻《は》じて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによつて返されることは、近所に聞えても耻《は》ずかしい」と言つて、山城の國の相樂《さがらか》に行きました時に木の枝に懸かつて死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木《さがりき》と言いましたのを今は相樂《さがらか》と言うのです。また弟國《おとくに》に行きました時に遂に峻《けわ》しい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國《おちくに》と言いましたが、今では弟國《おとくに》と言うのです。 [#5字下げ]時じくの香《かぐ》の木の實[#「時じくの香の木の實」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――タヂマモリの子孫の家に傳えられた説話。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世《とこよ》の國に遣して、時じくの香《かぐ》の木の實を求めさせなさいました。依つてタヂマモリが遂にその國に到つてその木を採つて、蔓《つる》の形になつているもの八本、矛《ほこ》の形になつているもの八本を持つて參りましたところ、天皇はすでにお隱れになつておりました。そこでタヂマモリは蔓《つる》四本|矛《ほこ》四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香《かぐ》の木の實を持つて參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです。この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野《みたちの》の中にあります。  またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部《はにしべ》をお定めになりました。この皇后は狹木《さき》の寺間《てらま》の陵にお葬り申しあげました。 [#3字下げ]五、景行天皇・成務天皇[#「五、景行天皇・成務天皇」は中見出し] [#5字下げ]景行天皇の后妃と皇子女[#「景行天皇の后妃と皇子女」は小見出し]  オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、吉備《きび》の臣等の祖先のワカタケキビツ彦の女の播磨《はりま》のイナビの大郎女《おおいらつめ》と結婚してお生みになつた御子は、クシツノワケの王・オホウスの命・ヲウスの命またの名はヤマトヲグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の女《むすめ》ヤサカノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ワカタラシ彦の命・イホキノイリ彦の命・オシワケの命・イホキノイリ姫の命です。またの妾の御子は、トヨトワケの王・ヌナシロの郎女、またの妾の御子は、ヌナキの郎女・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命です。また日向のミハカシ姫と結婚してお生みになつた御子は、トヨクニワケの王です。またイナビの大郎女の妹、イナビの若郎女と結婚してお生みになつた御子は、マワカの王・ヒコヒトノオホエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫のスメイロオホナカツ彦の王の女のカグロ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホエの王です。すべて天皇の御子たちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、合わせて八十の御子《みこ》がおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイホキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名を負われ、他の七十七王は悉く諸國の國の造《みやつこ》・別《わけ》・稻置《いなき》・縣主《あがたぬし》等としてお分け遊ばされました。そこでワカタラシ彦の命は天下をお治めなさいました。ヲウスの命は東西の亂暴な神、また服從しない人たちを平定遊ばされました。次にクシツノワケの王は、茨田の下の連等の祖先です。次にオホウスの命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。次にカムクシの王は木の國の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。次にトヨクニワケの王は、日向の國の造の祖先です。  ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫《えひめ》弟姫《おとひめ》の二人の孃子が美しいということをお聞きになつて、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞つて獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになつて、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須《うねす》の別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都《むげつ》の君等の祖先です。この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水門《みなと》をお定めになり、また膳《かしわで》の大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作つてその堤に竹を植えさせなさいました。 [#5字下げ]ヤマトタケルの命の西征[#「ヤマトタケルの命の西征」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――英雄ヤマトタケルの命の物語ははじまる。劇的な構成に注意。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  天皇がヲウスの命に仰せられるには「お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ」と仰せられました。かように仰せられて五日たつてもやはり出て來ませんでした。そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには「どうしてお前の兄が永い間出て來ないのだ。もしやまだ教えないのか」とお尋ねになつたので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか」と仰せられましたので、お答えして「朝早く厠《かわや》におはいりになつた時に、待つていてつかまえてつかみひしいで、手足を折つて薦《こも》につつんで投げすてました」と申しました。  そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。この時に、その御髮を額で結つておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命のお衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室《むろ》を作つて居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依つてその近所を歩いて宴會をする日を待つておいでになりました。いよいよ宴會の日になつて、結つておいでになる髮を孃子の髮のように梳《けず》り下げ、叔母樣のお衣裳をお著《つ》けになつて孃子の姿になつて女どもの中にまじり立つて、その室の中におはいりになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その孃子を見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴の盛んになつた時に、命は懷から劒を出し、クマソタケルの衣の襟を取つて劒をもつてその胸からお刺し通し遊ばされる時に、その弟のタケルが見て畏れて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追つて行つて、背の皮をつかんでうしろから劒で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かし遊ばしますな。申し上げることがございます」と言いました。そこでしばらく押し伏せておいでになりました。「あなた樣《さま》はどなたでいらつしやいますか」と申しましたから、「わたしは纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮においで遊ばされて天下をお治めなされるオホタラシ彦オシロワケの天皇の御子のヤマトヲグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服從しないで無禮だとお聞きなされて、征伐せよと仰せになつて、お遣わしになつたのだ」と仰せられました。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還つておいでになつた時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました。 [#5字下げ]イヅモタケル[#「イヅモタケル」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――日本書紀では、全然ヤマトタケルの命と關係のない物語になつている。種々の物語がこの英雄の事として結びついてゆく。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃《う》とうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。まずひそかに赤檮《いちいのき》で刀の形を作つてこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥《ひ》の河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになつて、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになつて、「大刀を換《か》えよう」と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上つて、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑《いど》まれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠みになつた歌、 [#ここから3字下げ] 雲《くも》の叢《むらが》り立つ出雲《いづも》のタケルが腰にした大刀は、 蔓《つる》を澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。 [#ここで字下げ終わり]  かように平定して、朝廷に還つて御返事申し上げました。 [#5字下げ]ヤマトタケルの命の東征[#「ヤマトタケルの命の東征」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまつて、美しい物語になつている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備《きび》の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊《ひいらぎ》の長い矛《ほこ》を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思つていらつしやるのでしようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになつて、還つてまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによつて思えば、やはりわたくしを早く死ねと思つておいでになるのです」と申して、心憂く思つて泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢《ふくろ》をお授けになつて、「もし急の事があつたなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。  かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造《みやつこ》の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還つて來た時にしようとお思いになつて、約束をなさつて東の國においでになつて、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました。ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐《いつわ》つて言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになつて、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになつた嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打《ひうち》がありました。そこでまず御刀をもつて草を苅り撥《はら》い、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津《やいず》といつております。  其處からおいでになつて、走水《はしりみず》の海をお渡りになつた時にその渡《わたり》の神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪《な》いで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、 [#ここから3字下げ] 高い山の立つ相摸《さがみ》の國の野原で、 燃え立つ火の、その火の中に立つて わたくしをお尋ねになつたわが君。 [#ここで字下げ終わり]  かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取つて、御墓を作つて收めておきました。  それからはいつておいでになつて、悉く惡い蝦夷《えぞ》どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還つてお上りになる時に、足柄《あしがら》の坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端《かたはし》をもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻《あずま》とはいうのです。  その國から越えて甲斐に出て、酒折《さかおり》の宮においでになつた時に、お歌いなされるには、 [#ここから3字下げ] 常陸の新治《にいはり》・筑波《つくば》を過《す》ぎて幾夜《いくよ》寢《ね》たか。 [#ここで字下げ終わり]  ここにその火《ひ》を燒《た》いている老人が續いて、 [#ここから3字下げ] 日數《ひかず》重《かさ》ねて、夜《よ》は九夜《ここのよ》で日《ひ》は十日《とおか》でございます。 [#ここで字下げ終わり] と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻《あずま》の國の造になさいました。  かくてその國から信濃の國にお越えになつて、そこで信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにおはいりになりました。ここで御馳走を獻る時に、ミヤズ姫がお酒盃を捧げて獻りました。しかるにミヤズ姫の打掛《うちかけ》の裾に月の物がついておりました。それを御覽になつてお詠み遊ばされた歌は、 [#ここから3字下げ] 仰《あお》ぎ見る天《あめ》の香具山《かぐやま》 鋭《するど》い鎌のように横ぎる白鳥《はくちよう》。 そのようなたおやかな弱腕《よわうで》を 抱《だ》こうとはわたしはするが、 寢《ね》ようとはわたしは思うが、 あなたの著《き》ている打掛《うちかけ》の裾に 月《つき》が出ているよ。 [#ここで字下げ終わり]  そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。 [#ここから3字下げ] 照り輝く日のような御子《みこ》樣 御威光すぐれたわたしの大君樣。 新しい年が來て過ぎて行けば、 新しい月は來て過ぎて行きます。 ほんとうにまああなた樣をお待ちいたしかねて わたくしのきております打掛の裾に 月も出るでございましようよ。 [#ここで字下げ終わり]  そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。 [#5字下げ]望郷の歌[#「望郷の歌」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――クニシノヒ歌の歌曲を中心として、英雄の悲壯な最後を語る。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこで「この山の神は空手《からて》で取つて見せる」と仰せになつて、その山にお登りになつた時に、山のほとりで白い猪に逢《あ》いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になつたものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨《だいひようう》を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であつたのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還つておいでになつて、玉倉部《たまくらべ》の清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤《さ》めになりました。そこでその清水を居寤《いさめ》の清水と言うのです。  其處からお立ちになつて當藝《たぎ》の野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝《たぎ》といいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝《つえつき》坂といいます。尾津《おつ》の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、 [#ここから3字下げ] 尾張の國に眞直《まつすぐ》に向かつている 尾津の埼の 一本松よ。お前。 一本松が人だつたら 大刀を佩《は》かせようもの、着物を著せようもの、 一本松よ。お前。 [#ここで字下げ終わり]  其處からおいでになつて、三重《みえ》の村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。  其處からおいでになつて、能煩野《のぼの》に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、 [#ここから3字下げ] 大和は國の中の國だ。 重《かさ》なり合つている青い垣、 山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だつた人は、 大和の國の平群《へぐり》の山の りつぱなカシの木の葉を 頭插《かんざし》にお插しなさい。お前たち。 [#ここで字下げ終わり] とお歌いになりました。この歌は思國歌《くにしのびうた》という名の歌です。またお歌い遊ばされました。 [#ここから3字下げ] なつかしのわが家《や》の方《ほう》から雲が立ち昇つて來るわい。 [#ここで字下げ終わり]  これは片歌《かたうた》でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌《みうた》を、 [#ここから3字下げ] 孃子《おとめ》の床《とこ》のほとりに わたしの置いて來た良《よ》く切れる大刀《たち》、 あの大刀《たち》はなあ。 [#ここで字下げ終わり] と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。 [#5字下げ]白鳥の陵[#「白鳥の陵」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――大葬に歌われる歌曲を中心としている。白鳥には、神靈を感じている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりの田に這い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてお泣きになつてお歌いになりました。 [#ここから3字下げ] 周《まわ》りの田の稻の莖《くき》に、 稻の莖に、 這い繞《めぐ》つているツルイモの蔓《つる》です。 [#ここで字下げ終わり]  しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹《しのだけ》の苅株《かりくい》に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、 [#ここから3字下げ] 小篠《こざさ》が原を行き惱《なや》む、 空中からは行かずに、歩《ある》いて行くのです。 [#ここで字下げ終わり]  また、海水にはいつて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、 [#ここから3字下げ] 海《うみ》の方《ほう》から行《ゆ》けば行き惱《なや》む。 大河原《おおかはら》の草のように、 海や河《かわ》をさまよい行く。 [#ここで字下げ終わり]  また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、 [#ここから3字下げ] 濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。 [#ここで字下げ終わり]  この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔《た》つておいでになつて、河内の志幾《しき》にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するために※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになつた時に、久米の直《あたえ》の祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました。 [#5字下げ]ヤマトタケルの命の系譜[#「ヤマトタケルの命の系譜」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――實際あり得ない關係も記されている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  このヤマトタケルの命が、垂仁天皇の女、フタヂノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、タラシナカツ彦の命お一方です。またかの海におはいりになつたオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになつた御子はワカタケルの王お一方です。また近江のヤスの國の造の祖先のオホタムワケの女のフタヂ姫と結婚してお生みになつた御子はイナヨリワケの王お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお生みになつた御子は、タケカヒコの王お一方です。また山代《やましろ》のククマモリ姫と結婚してお生みになつた御子はアシカガミワケの王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命の御子たちは合わせて六人ありました。  それでタラシナカツ彦の命は天下をお治めなさいました。次にイナヨリワケの王は、犬上の君・建部の君等の祖先です。次にタケカヒコの王は、讚岐の綾の君・伊勢の別・登袁《とお》の別・麻佐の首《おびと》・宮の首の別等の祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石代《いわしろ》の別・漁田《すなきだ》の別の祖先です。次にオキナガタワケの王の子、クヒマタナガ彦の王、この王の子、イヒノノマクロ姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イヒノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオホナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの女のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オホタラシ彦の天皇がこのカグロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオホエの王のお一方です。この王が庶妹シロガネの王と結婚して生んだ子はオホナガタの王とオホナカツ姫のお二方です。そこでこのオホナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。  このオホタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります。 [#5字下げ]成務天皇[#「成務天皇」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――國縣の堺を定め、國の造、縣主を定め、地方行政の基礎が定められた。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の國の志賀《しが》の高穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積《ほづみ》の臣の祖先、タケオシヤマタリネの女のオトタカラの郎女《いらつめ》と結婚してお生みになつた御子はワカヌケの王お一方です。そこでタケシウチの宿禰を大臣となされ、大小國々の國の造をお定めになり、また國々の堺、また大小の縣の縣主《あがたぬし》をお定めになりました。天皇は御年九十五歳、乙卯の年の三月十五日にお隱れになりました。御陵は沙紀《さき》の多他那美《たたなみ》にあります。 [#3字下げ]六、仲哀天皇[#「六、仲哀天皇」は中見出し] [#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]  タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門《あなと》の豐浦《とよら》の宮また筑紫《つくし》の香椎《かしい》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命と結婚なさいました。この皇后のお生みになつた御子はホムヤワケの命・オホトモワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになつた時に腕に鞆《とも》の形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになつて天下をお治めなさいました。この御世に淡路の役所を定めました。 [#5字下げ]神功皇后[#「神功皇后」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――御母はシラギ人天の日矛の系統で、シラギのことを知つておられたのだろうという。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸《かみがか》りをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊曾の國を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお彈《ひ》きになり、タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。ここに皇后に神懸りして神樣がお教えなさいましたことは、「西の方に國があります。金銀をはじめ目の輝く澤山の寶物がその國に多くあるが、わたしが今その國をお授け申そう」と仰せられました。しかるに天皇がお答え申されるには、「高い處に登つて西の方を見ても、國が見えないで、ただ大海のみだ」と言われて、詐《いつわり》をする神だとお思いになつて、お琴を押し退けてお彈きにならず默つておいでになりました。そこで神樣がたいへんお怒りになつて「すべてこの國はあなたの治むべき國ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい」と仰せられました。そこでタケシウチの宿禰が申しますには、「おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお彈き遊ばせ」と申しました。そこで少しその琴をお寄せになつて生々《なまなま》にお彈きになつておいでになつたところ、間も無く琴の音が聞えなくなりました。そこで火を點《とも》して見ますと、既にお隱《かく》れになつていました。  そこで驚き恐懼《きようく》して御大葬の宮殿にお遷し申し上げて、更にその國内から幣帛《へいはく》を取つて、生剥《いけはぎ》・逆剥《さかはぎ》・畦離《あはな》ち・溝埋《みぞう》め・屎戸《くそへ》・不倫の結婚の罪の類を求めて大祓《おおばらえ》してこれを清め、またタケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを願いました。そこで神のお教えになることは悉く前の通りで、「すべてこの國は皇后樣のお腹においでになる御子の治むべき國である」とお教えになりました。  そこでタケシウチの宿禰が、「神樣、おそれ多いことですが、その皇后樣のお腹《はら》においでになる御子は何の御子でございますか と[#「ございますか と」はママ]申しましたところ、「男の御子だ」と仰せられました。そこで更にお願い申し上げたことは、「今かようにお教えになる神樣は何という神樣ですか」と申しましたところ、お答え遊ばされるには「これは天照らす大神の御心だ。またソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウハツツノヲの三神だ。今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣帛《へいはく》を奉り、わたしの御魂《みたま》を御船《みふね》の上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠《ひさご》に入れ、また箸《はし》と皿とを澤山に作つて、悉く大海に散《ち》らし浮《うか》べてお渡《わた》りなさるがよい」と仰せなさいました。  そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負つて渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新羅《しらぎ》の國に押し上つて國の半にまで到りました。依つてその國王が畏《お》じ恐れて、「今から後は天皇の御命令のままに馬飼《うまかい》として、毎年多くの船の腹を乾《かわか》さず、柁※[#「楫+戈」、第3水準1-86-21]《かじさお》を乾《かわか》さずに、天地のあらんかぎり、止まずにお仕え申し上げましよう」と申しました。かような次第で新羅の國をば馬飼《うまかい》とお定め遊ばされ、百濟《くだら》の國をば船渡《ふなわた》りの役所とお定めになりました。そこで御杖を新羅の國主の門におつき立て遊ばされ、住吉の大神の荒い御魂を、國をお守りになる神として祭つてお還り遊ばされました。 [#5字下げ]鎭懷石と釣魚[#「鎭懷石と釣魚」は小見出し]  かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。  また筑紫の松浦縣《まつらがた》の玉島の里においでになつて、その河の邊《ほとり》で食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯粒《めしつぶ》を餌《えさ》にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河《おがわ》といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません。 [#5字下げ]カゴサカの王とオシクマの王[#「カゴサカの王とオシクマの王」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――ある戰亂の武勇譚が、歌を插入して誇張されてゆく。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  オキナガタラシ姫の命は、大和に還りお上りになる時に、人の心が疑わしいので喪《も》の船を一つ作つて、御子をその喪の船にお乘せ申し上げて、まず御子は既にお隱れになりましたと言い觸らさしめました。かようにして上つておいでになる時に、カゴサカの王、オシクマの王が聞いて待ち取ろうと思つて、トガ野に進み出て誓を立てて狩をなさいました。その時にカゴサカの王はクヌギに登つて御覽になると、大きな怒り猪《じし》が出てそのクヌギを掘つてカゴサカの王を咋《く》いました。しかるにその弟のオシクマの王は、誓の狩にかような惡い事があらわれたのを畏れつつしまないで、軍を起して皇后の軍を待ち迎えられます時に、喪の船に向かつてからの船をお攻めになろうとしました。そこでその喪の船から軍隊を下して戰いました。  この時にオシクマの王は、難波《なにわ》の吉師部《きしべ》の祖先のイサヒの宿禰《すくね》を將軍とし、太子の方では丸邇《わに》の臣の祖先の難波《なにわ》ネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立つて雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀つて、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶つて詐《いつわ》つて降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏《しま》いました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張つて追い撃ちました。かくて逢坂《おおさか》に逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追い迫《せま》り敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫《せ》められて、湖上に浮んで歌いました歌、 [#ここから3字下げ] さあ君《きみ》よ、 フルクマのために負傷《ふしよう》するよりは、 カイツブリのいる琵琶の湖水に 潛り入ろうものを。 [#ここで字下げ終わり] と歌つて海にはいつて死にました。 [#5字下げ]氣比《けひ》の大神[#「氣比の大神」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――敦賀市の氣比神宮の神の名の由來。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊《みそぎ》をしようとして近江また若狹《わかさ》の國を經た時に、越前の敦賀《つるが》に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀《やぶ》れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食《みけ》つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦《ちうら》と言いましたが、今では敦賀《つるが》と言います。 [#5字下げ]酒の座の歌曲[#「酒の座の歌曲」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――酒宴の席に演奏される歌曲の説明。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  其處から還つてお上りになる時に、母君のオキナガタラシ姫の命がお待ち申し上げて酒を造つて獻上しました。その時にその母君のお詠み遊ばされた歌は、 [#ここから3字下げ] このお酒はわたくしのお酒ではございません。 お神酒《みき》の長官、常世《とこよ》の國においでになる 岩になつて立つていらつしやるスクナビコナ樣が 祝つて祝つて祝い狂《くる》わせ 祝つて祝つて祝い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まわ》つて 獻上して來たお酒なのですよ。 盃をかわかさずに召しあがれ。 [#ここで字下げ終わり]  かようにお歌いになつてお酒を獻りました。その時にタケシウチの宿禰が御子のためにお答え申し上げた歌は、 [#ここから3字下げ] このお酒を釀造した人は、 その太鼓を臼《うす》に使つて、 歌いながら作つた故か、 舞いながら作つた故か、 このお酒の 不思議に樂しいことでございます。 [#ここで字下げ終わり]  これは酒樂《さかくら》の歌でございます。  すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、壬戌《みずのえいぬ》の年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀《えが》の長江にあります。皇后樣は御年百歳でお隱《かく》れになりました。狹城《さき》の楯列《たたなみ》の御陵にお葬り申し上げました。 [#3字下げ]七、應神天皇[#「七、應神天皇」は中見出し] [#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]  ホムダワケの命(應神天皇)、大和の輕島《かるしま》の明《あきら》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はホムダノマワカの王の女王お三方と結婚されました。お一方は、タカギノイリ姫の命、次は中姫の命、次は弟姫の命であります。この女王たちの御父、ホムダノマワカの王はイホキノイリ彦の命が、尾張の直の祖先のタケイナダの宿禰の女のシリツキトメと結婚して生んだ子であります。そこでタカギノイリ姫の生んだ御子《みこ》は、ヌカダノオホナカツヒコの命・オホヤマモリの命・イザノマワカの命・オホハラの郎女《いらつめ》・タカモクの郎女《いらつめ》の御《おん》五|方《かた》です。中姫の命の生んだ御子《みこ》は、キノアラタの郎女《いらつめ》・オホサザキの命・ネトリの命のお三方です。弟姫の命の御子は、阿部《あべ》の郎女・アハヂノミハラの郎女・キノウノの郎女・ミノの郎女のお五方です。また天皇、ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫と結婚してお生《う》みになつた御子《みこ》は、ウヂの若郎子《わきいらつこ》・ヤタの若郎女《わきいらつめ》・メトリの王のお三方です。またそのヤガハエ姫の妹ヲナベの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ウヂの若郎女お一方です。またクヒマタナガ彦の王の女のオキナガマワカナカツ姫と結婚してお生みになつた御子はワカヌケフタマタの王お一方です。また櫻井の田部《たべ》の連の祖先《そせん》のシマタリネの女のイトヰ姫と結婚してお生みになつた御子はハヤブサワケの命お一方です。また日向のイヅミノナガ姫と結婚してお生みになつた御子はオホハエの王・ヲハエの王・ハタビの若郎女のお三方です。またカグロ姫と結婚してお生みになつた御子はカハラダの郎女・タマの郎女・オシサカノオホナカツ姫・トホシの郎女・カタヂの王の御五方です。またカヅラキノノノイロメと結婚してお生みになつた御子は、イザノマワカの王お一方です。すべてこの天皇の御子たちは合わせて二十六王おいで遊《あそ》ばされました。男王十一人女王十五人です。この中でオホサザキの命は天下をお治めになりました。 [#5字下げ]オホヤマモリの命とオホサザキの命[#「オホヤマモリの命とオホサザキの命」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――天皇が、兄弟の御子に對してテストをされる。その結果弟が帝位を繼承することになる。これもきまつた型で、兄の系統ではあるが、臣下となつたという説明の物語である。これはあとに後續の説話がある。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ここに天皇がオホヤマモリの命とオホサザキの命とに「あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか」とお尋ねなさいました。天皇がかようにお尋ねになつたわけは、ウヂの若郎子に天下をお授けになろうとする御心がおありになつたからであります。しかるにオホヤマモリの命は、「上の子の方がかわゆく思われます」と申しました。次にオホサザキの命は天皇のお尋ね遊ばされる御心をお知りになつて申されますには、「大きい方の子は既に人となつておりますから案ずることもございませんが、小さい子はまだ若いのですから愛らしく思われます」と申しました。そこで天皇の仰せになりますには、「オホサザキよ、あなたの言うのはわたしの思う通りです」と仰せになつて、そこでそれぞれに詔《みことのり》を下されて、「オホヤマモリの命は海や山のことを管理なさい。オホサザキの命は天下の政治を執つて天皇に奏上なさい。ウヂの若郎子は帝位におつきなさい」とお分《わ》けになりました。依つてオホサザキの命は父君の御命令に背きませんでした。 [#5字下げ]葛野《かずの》の歌[#「葛野の歌」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――國ほめの歌曲の一つ。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになつて葛野《かずの》を御覽になつてお詠みになりました御歌、 [#ここから3字下げ] 葉の茂《しげ》つた葛野《かずの》を見れば、 幾千も富み榮えた家居が見える、 國の中での良い處が見える。 [#ここで字下げ終わり] [#5字下げ]蟹の歌[#「蟹の歌」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――蟹と鹿とは、古代の主要な食料であつた。その蟹を材料とした歌曲の物語である。ここではワニ氏の女が關係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に女を奉り、歌物語を多く傳えた家である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  かくて木幡《こばた》の村においでになつた時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依つて父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言つて、その家をりつぱに飾り立て、待つておりましたところ、あくる日においでになりました。そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞《さかずき》を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、 [#ここから3字下げ] この蟹《かに》はどこの蟹だ。 遠くの方の敦賀《つるが》の蟹です。 横歩《よこある》きをして何處へ行くのだ。 イチヂ島・ミ島について、 カイツブリのように水に潛《くぐ》つて息《いき》をついて、 高低のあるササナミへの道を まつすぐにわたしが行《ゆ》きますと、 木幡《こばた》の道で出逢つた孃子《おとめ》、 後姿《うしろすがた》は楯のようだ。 齒竝びは椎《しい》の子《み》や菱《ひし》の實のようだ。 櫟井《いちい》の丸邇坂《わにさか》の土《つち》を 上《うえ》の土《つち》はお色《いろ》が赤い、 底の土は眞黒《まつくろ》ゆえ 眞中《まんなか》のその中の土を かぶりつく直火《じかび》には當てずに 畫眉《かきまゆ》を濃く畫いて お逢《あ》いになつた御婦人、 このようにもとわたしの見たお孃さん、 あのようにもとわたしの見たお孃さんに、 思いのほかにも向かつていることです。 添つていることです。 [#ここで字下げ終わり]  かくて御結婚なすつてお生《う》みになつた子がウヂの若郎子《わきいらつこ》でございました。 [#5字下げ]髮長姫[#「髮長姫」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――酒宴で孃子を贈り、また孃子を得た喜びの歌曲。古く諸縣舞《むらがたまい》という舞があつたが、關係があるかもしれない。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また天皇が、日向の國の諸縣《むらがた》の君の女《むすめ》の髮長姫《かみながひめ》が美しいとお聞きになつて、お使い遊ばそうとして、お召《め》し上げなさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になつて、その容姿のりつぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿禰《すくね》にお頼みになるには「この日向からお召し上げになつた髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにしてくれ」と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏葉《かしわ》を取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお詠み遊ばされた歌は、 [#ここから3字下げ] さあお前《まえ》たち、野蒜《のびる》摘《つ》みに 蒜《ひる》摘《つ》みにわたしの行く道の 香《こう》ばしい花橘《はなたちばな》の樹、 上の枝は鳥がいて枯らし 下の枝は人が取つて枯らし、 三栗《みつぐり》のような眞中《まんなか》の枝の 目立つて見える紅顏のお孃さんを さあ手に入れたら宜いでしよう。 [#ここで字下げ終わり]  また、 [#ここから3字下げ] 水のたまつている依網《よさみ》の池の 堰杙《せきくい》を打《う》つてあつたのを知《し》らずに ジュンサイを手繰《たぐ》つて手の延びていたのを知《し》らずに 氣のつかない事をして殘念だつた。 [#ここで字下げ終わり]  かようにお歌いになつて賜わりました。その孃子を賜わつてから後に太子のお詠みになつた歌、 [#ここから3字下げ] 遠い國の古波陀《こはだ》のお孃さんを、 雷鳴《かみなり》のように音高く聞いていたが、 わたしの妻《つま》としたことだつた。 [#ここで字下げ終わり]  また、 [#ここから3字下げ] 遠い國の古波陀《こはだ》のお孃さんが、 爭わずにわたしの妻となつたのは、 かわいい事さね。 [#ここで字下げ終わり] [#5字下げ]國主歌《くずうた》[#「國主歌」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――吉野山中の土民の歌曲。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また、吉野のクズどもがオホサザキの命の佩《お》びておいでになるお刀を見て歌いました歌は、 [#ここから3字下げ] 天子樣の日の御子である オホサザキ樣、 オホサザキ樣のお佩《は》きになつている大刀は、 本は鋭く、切先《きつさき》は魂あり、 冬木のすがれの下の木のように さやさやと鳴り渡る。 [#ここで字下げ終わり]  また吉野のカシの木のほとりに臼を作つて、その臼でお酒を造つて、その酒を獻つた時に、口鼓を撃ち演技をして歌つた歌、 [#ここから3字下げ] カシの木の原に横の廣い臼を作り その臼に釀《かも》したお酒、 おいしそうに召し上がりませ、 わたしの父《とう》さん。 [#ここで字下げ終わり]  この歌は、クズどもが土地の産物を獻る時に、常に今でも歌う歌であります。 [#5字下げ]文化の渡來[#「文化の渡來」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――大陸の文化の渡來した記憶がまとめて語られる。多くは朝鮮を通して、また直接にも。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  この御世に、海部《あまべ》・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。劒の池を作りました。また新羅人《しらぎびと》が渡つて來ましたので、タケシウチの宿禰がこれを率《ひき》いて堤の池に渡つて百濟《くだら》の池を作りました。  また百濟《くだら》の國王|照古王《しようこおう》が牡馬《おうま》一疋・牝馬《めうま》一疋をアチキシに付けて貢《たてまつ》りました。このアチキシは阿直《あち》の史等《ふみひと》の祖先です。また大刀と大鏡とを貢りました。また百濟の國に、もし賢人があれば貢れと仰せられましたから、命を受けて貢つた人はワニキシといい、論語十卷・千|字文《じもん》一卷、合わせて十一卷をこの人に付けて貢りました。また工人の鍛冶屋《かじや》卓素《たくそ》という者、また機《はた》を織る西素《さいそ》の二人をも貢りました。秦《はた》の造《みやつこ》、漢《あや》の直《あたえ》の祖先、それから酒を造ることを知《し》つているニホ、またの名《な》をススコリという者等も渡つて參りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、 [#ここから3字下げ] ススコリの釀《かも》したお酒にわたしは醉いましたよ。 平和《へいわ》なお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。 [#ここで字下げ終わり]  かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。それで諺《ことわざ》に「堅い石でも醉人《よつぱらい》に遇うと逃げる」というのです。 [#5字下げ]オホヤマモリの命とウヂの若郎子[#「オホヤマモリの命とウヂの若郎子」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――オホヤマモリの命を始祖と稱する山部の人々の傳えた物語。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  かくして天皇がお崩《かく》れになつてから、オホサザキの命は天皇の仰せのままに天下をウヂの若郎子に讓りました。しかるにオホヤマモリの命は天皇の命に背いてやはり天下を獲《え》ようとして、その弟の御子を殺そうとする心があつて、竊に兵士を備えて攻めようとしました。そこでオホサザキの命はその兄が軍をお備えになることをお聞きになつて、使を遣つてウヂの若郎子に告げさせました。依つてお驚きになつて、兵士を河のほとりに隱し、またその山の上にテントを張り、幕を立てて、詐つて召使を王樣として椅子にいさせ、百官が敬禮し往來する樣はあたかも王のおいでになるような有樣にして、また兄の王の河をお渡りになる時の用意に、船※[#「楫+戈」、第3水準1-86-21]《ふねかじ》を具え飾り、さな葛《かずら》という蔓草の根を臼でついて、その汁の滑《なめ》を取り、その船の中の竹簀《すのこ》に塗つて、蹈めば滑《すべ》つて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て、賤しい者の形になつて棹を取つて立ちました。ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧《よろい》を衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになつたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、 [#ここから3字下げ] 流れの早い宇治川の渡場に 棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ。 [#ここで字下げ終わり]  そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起つて矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこでカワラの埼《さき》に到つて沈みました。それで鉤《かぎ》をもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかつてカワラと鳴りました。依つて其處の名をカワラの埼というのです。その屍體を掛け出した時に歌つた弟の王の御歌、 [#ここから3字下げ] 流れの早い宇治川の渡場に 渡場に立つている梓弓とマユミの木、 切ろうと心には思うが 取ろうと心には思うが、 本の方では君を思い出し 末の方では妻を思い出し いらだたしく其處で思い出し かわいそうに其處で思い出し、 切らないで來た梓弓とマユミの木。 [#ここで字下げ終わり]  そのオホヤマモリの命の屍體をば奈良山に葬りました。このオホヤマモリの命は、土形《ひじかた》の君・幣岐《へき》の君・榛原《はりはら》の君等の祖先です。  かくてオホサザキの命とウヂの若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に、海人《あま》が貢物を獻りました。依つて兄の王はこれを拒んで弟の王に獻らしめ、弟の王はまた兄の王に獻らしめて、互にお讓りになる間にあまたの日を經ました。かようにお讓り遊ばされることは一度二度でありませんでしたから、海人は往來に疲れて泣きました。それで諺に、「海人だから自分の物ゆえに泣くのだ」というのです。しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。 [#5字下げ]天の日矛[#「天の日矛」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――異類婚姻説話の一つ、朝鮮系統のものである。終りに出石神社の由來がある。但馬の國の語部が傳えたのだろう。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また新羅《しらぎ》の國王の子の天《あめ》の日矛《ひほこ》という者がありました。この人が渡つて參りました。その渡つて來た故は、新羅の國に一つの沼がありまして、アグ沼といいます。この沼の邊で或る賤の女が晝寢をしました。其處に日の光が虹のようにその女にさしましたのを、或る賤の男がその有樣を怪しいと思つて、その女の状を伺いました。しかるにその女はその晝寢をした時から姙んで、赤い玉を生みました。  その伺つていた賤の男がその玉を乞い取つて、常に包《つつ》んで腰につけておりました。この人は山谷の間で田を作つておりましたから、耕作する人たちの飮食物を牛に負わせて山谷の中にはいりましたところ、國王の子の天の日矛が遇いました。そこでその男に言うには、「お前はなぜ飮食物を牛に背負わせて山谷にはいるのか。きつとこの牛を殺して食うのだろう」と言つて、その男を捕えて牢に入れようとしましたから、その男が答えて言うには、「わたくしは牛を殺そうとは致しません。ただ農夫の食物を送るのです」と言いました。それでも赦しませんでしたから、腰につけていた玉を解いてその國王の子に贈りました。依つてその男を赦して、玉を持つて來て床の邊に置きましたら、美しい孃子になり、遂に婚姻して本妻としました。その孃子は、常に種々の珍味を作つて、いつもその夫に進めました。しかるにその國王の子が心|奢《おご》りして妻を詈《ののし》りましたから、その女が「大體わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる國に行きましよう」と言つて、竊に小船に乘つて逃げ渡つて來て難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。  そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡つて來て難波にはいろうとする時に、その海上の神が、塞いで入れませんでした。依つて更に還つて、但馬《たじま》の國に船|泊《は》てをし、その國に留まつて、但馬のマタヲの女のマヘツミと結婚して生《う》んだ子はタヂマモロスクです。その子がタヂマヒネ、その子がタヂマヒナラキ、その子は、タヂマモリ・タヂマヒタカ・キヨ彦の三人です。このキヨ彦がタギマノメヒと結婚して生《う》んだ子がスガノモロヲとスガカマユラドミです。上に擧げたタヂマヒタカがその姪《めい》のユラドミと結婚して生んだ子が葛城のタカヌカ姫の命で、これがオキナガタラシ姫の命(神功皇后)の母君です。  この天の日矛の持つて渡つて來た寶物は、玉つ寶という玉の緒に貫いたもの二本、また浪振る領巾《ひれ》・浪切る領巾・風振る領巾・風切る領巾・奧つ鏡・邊つ鏡、合わせて八種です。これらはイヅシの社《やしろ》に祭《まつ》つてある八神です。 [#5字下げ]秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫[#「秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――同じく異類婚姻説話であるが、前の物語に比してずつと日本ふうになつている。海幸山幸物語との類似點に注意。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ここに神の女《むすめ》、イヅシ孃子という神がありました。多くの神がこのイヅシ孃子を得ようとしましたが得られませんでした。ここに秋山の下氷壯夫《したひおとこ》・春山の霞壯夫《かすみおとこ》という兄弟の神があります。その兄が弟に言いますには、「わたしはイヅシ孃子を得ようと思いますけれども得られません。お前はこの孃子を得られるか」と言いましたから、「たやすいことです」と言いました。そこでその兄の言いますには、「もしお前がこの孃子を得たなら、上下の衣服をゆずり、身の丈《たけ》ほどに甕《かめ》に酒を造り、また山河の産物を悉く備えて御馳走をしよう」と言いました。そこでその弟が兄の言つた通りに詳しく母親に申しましたから、その母親が藤の蔓を取つて、一夜のほどに衣《ころも》・褌《はかま》・襪《くつした》・沓《くつ》まで織り縫い、また弓矢を作つて、衣裝を著せその弓矢を持たせて、その孃子の家に遣りましたら、その衣裝も弓矢も悉く藤の花になりました。そこでその春山の霞壯夫が弓矢《ゆみや》を孃子の厠に懸けましたのを、イヅシ孃子がその花を不思議に思つて、持つて來る時に、その孃子のうしろに立つて、その部屋にはいつて結婚をして、一人の子を生みました。  そこでその兄に「わたしはイヅシ孃子を得ました」と言う。しかるに兄は弟の結婚したことを憤つて、その賭けた物を償いませんでした。依つてその母に訴えました。母親が言うには、「わたしたちの世の事は、すべて神の仕業に習うものです。それだのにこの世の人の仕業に習つてか、その物を償わない」と言つて、その兄の子を恨んで、イヅシ河の河島の節のある竹を取つて、大きな目の荒い籠を作り、その河の石を取つて、鹽にまぜて竹の葉に包んで、詛言《のろいごと》を言つて、「この竹の葉の青いように、この竹の葉の萎《しお》れるように、青くなつて萎れよ。またこの鹽の盈《み》ちたり乾《ひ》たりするように盈ち乾よ。またこの石の沈むように沈み伏せ」と、このように詛《のろ》つて、竈《かまど》の上に置かしめました。それでその兄が八年もの間、乾《かわ》き萎《しお》れ病《や》み伏《ふ》しました。そこでその兄が、泣《な》き悲しんで願いましたから、その詛《のろい》の物をもとに返しました。そこでその身がもとの通りに安らかになりました。 [#5字下げ]系譜[#「系譜」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――允恭天皇の皇后の出る系譜であり、後に繼體天皇が、この系統から出る。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  このホムダの天皇の御子のワカノケフタマタの王が、その母の妹のモモシキイロベ、またの名はオトヒメマワカ姫の命と結婚して生んだ子は、大郎子、またの名はオホホドの王・オサカノオホナカツ姫の命・タヰノナカツ姫・タミヤノナカツ姫・フヂハラノコトフシの郎女・トリメの王・サネの王の七人です。そこでオホホドの王は、三國の君・波多の君・息長《おきなが》の君・筑紫の米多の君・長坂の君・酒人の君・山道の君・布勢の君の祖先です。またネトリの王が庶妹ミハラの郎女と結婚して生んだ子は、ナカツ彦の王、イワシマの王のお二方です。またカタシハの王の子はクヌの王です。すべてこのホムダの天皇は御年百三十歳、甲午の九月九日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀《えが》の裳伏《もふし》の岡にあります。 [#改ページ] [#1字下げ]古事記 下の卷[#「古事記 下の卷」は大見出し] [#3字下げ]一、仁徳天皇[#「一、仁徳天皇」は中見出し] [#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]  オホサザキの命(仁徳天皇)、難波《なにわ》の高津《たかつ》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、葛城のソツ彦の女の石《いわ》の姫《ひめ》の命(皇后)と結婚してお生みになつた御子は、オホエノイザホワケの命・スミノエノナカツの王・タヂヒノミヅハワケの命・ヲアサヅマワクゴノスクネの命のお四方です。また上にあげたヒムカノムラガタの君ウシモロの女の髮長姫と結婚してお生みになつた御子《みこ》はハタビの大郎子、またの名はオホクサカの王・ハタビの若郎女、またの名はナガメ姫の命、またの名はワカクサカベの命のお二方です。また庶妹ヤタの若郎女と結婚し、また庶妹ウヂの若郎女と結婚しました。このお二方は御子がありません。すべてこの天皇の御子たち合わせて六王ありました。男王五人女王一人です。この中、イザホワケの命は天下をお治めなさいました。次にタヂヒノミヅハワケの命も天下をお治めなさいました。次にヲアサヅマワクゴノスクネの命も天下をお治めなさいました。この天皇の御世に皇后|石《いわ》の姫《ひめ》の命の御名の記念として葛城部をお定めになり、皇太子イザホワケの命の御名の記念として壬生部をお定めになり、またミヅハワケの命の御名の記念として蝮部《たじひべ》をお定めになり、またオホクサカの王の御名の記念として大日下部《おおくさかべ》をお定めになり、ワカクサカベの王の御名の記念として若日下部をお定めになりました。 [#5字下げ]聖の御世[#「聖の御世」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――撫民厚生の御事蹟を取りあつめている。聖の御世というのは、外來思想で、文字による文化が行われていたことを語る。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  この御世に大陸から來た秦人《はたびと》を使つて、茨田《うまらだ》の堤、茨田の御倉をお作りになり、また丸邇《わに》の池、依網《よさみ》の池をお作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小椅《おばし》の江を掘り、墨江《すみのえ》の舟つきをお定めになりました。  或る時、天皇、高山にお登りになつて、四方を御覽になつて仰せられますには、「國内に烟が立つていない。これは國がすべて貧しいからである。それで今から三年の間人民の租税勞役をすべて免せ」と仰せられました。この故に宮殿が破壞して雨が漏りますけれども修繕なさいません。樋《ひ》を掛けて漏る雨を受けて、漏らない處にお遷り遊ばされました。後に國中を御覽になりますと、國に烟が滿ちております。そこで人民が富んだとお思いになつて、始めて租税勞役を命ぜられました。それですから人民が榮えて、勞役に出るのに苦《くる》しみませんでした。それでこの御世を稱えて聖《ひじり》の御世と申します。 [#5字下げ]吉備の黒日賣[#「吉備の黒日賣」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――吉備氏の榮えるに至つた由來の物語。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  皇后石の姫の命は非常に嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになつた女たちは宮の中にも入りません。事が起ると足擦《あしず》りしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備《きび》の海部《あまべ》の直《あたえ》の女、黒姫《くろひめ》という者が美しいとお聞き遊ばされて、喚《め》し上げてお使いなさいました。しかしながら皇后樣のお妬みになるのを畏れて本國に逃げ下りました。天皇は高殿においで遊ばされて、黒姫の船出するのを御覽になつて、お歌い遊ばされた御歌、 [#ここから3字下げ] 沖《おき》の方《ほう》には小舟《おぶね》が續いている。 あれは愛《いと》しのあの子《こ》が 國へ歸るのだ。 [#ここで字下げ終わり]  皇后樣はこの歌をお聞きになつて非常にお怒りになつて、船出の場所に人を遣つて、船から黒姫を追い下して歩かせて追いはらいました。  ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣に欺《いつわ》つて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めになつてお歌いになつた御歌、 [#ここから3字下げ] 海の照り輝く難波の埼から 立ち出でて國々を見やれば、 アハ島やオノゴロ島 アヂマサの島も見える。 サケツ島も見える。 [#ここで字下げ終わり]  そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました。そこで黒姫がその國の山の御園に御案内申し上げて、御食物を獻りました。そこで羮《あつもの》を獻ろうとして青菜を採《つ》んでいる時に、天皇がその孃子の青菜を採む處においでになつて、お歌いになりました歌は、 [#ここから3字下げ] 山の畑に蒔いた青菜も 吉備の人と一緒に摘むと 樂しいことだな。 [#ここで字下げ終わり]  天皇が京に上つておいでになります時に、黒姫の獻つた歌は、 [#ここから3字下げ] 大和の方へ西風が吹き上げて 雲が離れるように離れていても 忘れは致しません。 [#ここで字下げ終わり]  また、 [#ここから3字下げ] 大和の方へ行くのは誰方樣《どなたさま》でしよう。 地の下の水のように、心の底で物思いをして 行くのは誰方樣《どなたさま》でしよう。 [#ここで字下げ終わり] [#5字下げ]皇后石の姫の命[#「皇后石の姫の命」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――靜歌の歌い返しと稱する歌曲にまつわる物語。それに鳥山の歌が插入されている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  これより後に皇后樣が御宴をお開きになろうとして、柏《かしわ》の葉を採りに紀伊の國においでになつた時に、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后樣が柏の葉を御船にいつぱいに積んでお還りになる時に、水取の役所に使われる吉備の國の兒島郡の仕丁《しちよう》が自分の國に歸ろうとして、難波の大渡《おおわたり》で遲れた雜仕女《ぞうしおんな》の船に遇いました。そこで語りますには「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすつて、夜晝戲れておいでになります。皇后樣はこの事をお聞き遊ばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしよう」と語りました。そこでその女がこの語つた言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁の言いました通りに有樣を申しました。  そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏《かしわ》の葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津《みつ》の埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上つておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、 [#ここから3字下げ] 山また山の山城川を 上流へとわたしが溯れば、 河のほとりに生い立つているサシブの木、 そのサシブの木の その下に生い立つている 葉の廣い椿の大樹、 その椿の花のように輝いており その椿の葉のように廣らかにおいでになる わが陛下です。 [#ここで字下げ終わり]  それから山城から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、 [#ここから3字下げ] 山また山の山城川を 御殿の方へとわたしが溯れば、 うるわしの奈良山を過ぎ 青山の圍んでいる大和を過ぎ わたしの見たいと思う處は、 葛城《かずらき》の高臺の御殿、 故郷の家のあたりです。 [#ここで字下げ終わり]  かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木《つつき》の韓人のヌリノミの家におはいりになりました。天皇は皇后樣が山城を通つて上つておいでになつたとお聞き遊ばされて、トリヤマという舍人《とねり》をお遣りになつて歌をお送りなさいました。その御歌は、 [#ここから3字下げ] 山城《やましろ》に追《お》い附《つ》け、トリヤマよ。 追い附け、追い附け。最愛の我が妻に追い附いて逢えるだろう。 [#ここで字下げ終わり]  續《つづ》いて丸邇《わに》の臣《おみ》クチコを遣して、御歌をお送りになりました。 [#ここから3字下げ] ミモロ山の高臺《たかだい》にある オホヰコの原。 その名のような大豚《おおぶた》の腹にある 向き合つている臟腑《きも》、せめて心だけなりと 思わないで居られようか。 [#ここで字下げ終わり]  またお歌い遊ばされました御歌、 [#ここから3字下げ] 山《やま》また山《やま》の山城の女が 木の柄のついた鍬《くわ》で掘つた大根、 その眞白《まつしろ》な白い腕を 交《か》わさずに來たなら、知らないとも云えようが。 [#ここで字下げ終わり]  このクチコの臣がこの御歌を申すおりしも雨が非常に降つておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方に參り伏せば入れ違つて後《うしろ》の方においでになり、御殿の後の方に參り伏せば入れ違つて前の方においでになりました。それで匐《は》つて庭の中に跪《ひざまず》いている時に、雨水がたまつて腰につきました。その臣は紅い紐をつけた藍染《あいぞめ》の衣を著ておりましたから、水潦《みずたまり》が赤い紐に觸れて青が皆赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后樣にお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌、 [#ここから3字下げ] 山城《やましろ》の筒木《つつき》の宮《みや》で 申し上げている兄上を見ると、 涙ぐまれて參ります。 [#ここで字下げ終わり]  そこで皇后樣がそのわけをお尋ねになる時に、「あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます」と申し上げました。  そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、「皇后樣のおいで遊ばされたわけは、ヌリノミの飼つている蟲が、一度は這《は》う蟲になり、一度は殼《から》になり、一度は飛ぶ鳥になつて、三色に變るめずらしい蟲があります。この蟲を御覽になるためにおはいりなされたのでございます。別に變つたお心はございません」とかように申しました時に、天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上つておいでになつて、ヌリノミの家におはいりになつた時に、ヌリノミが自分の飼つている三色に變る蟲を皇后樣に獻りました。そこで天皇がその皇后樣のおいでになる御殿の戸にお立ちになつて、お歌い遊ばされた御歌、 [#ここから3字下げ] 山また山の山城の女が 木の柄のついた鍬で掘つた大根、 そのようにざわざわとあなたが云うので、 見渡される樹の茂みのように 賑《にぎ》やかにやつて來たのです。 [#ここで字下げ終わり]  この天皇と皇后樣とお歌いになつた六首の歌は、靜歌の歌い返しでございます。 [#5字下げ]ヤタの若郎女[#「ヤタの若郎女」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――八田部の人々の傳承であろう。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  天皇、ヤタの若郎女をお慕いになつて歌をお遣しになりました。その御歌は、 [#ここから3字下げ] ヤタの一本菅は、 子を持たずに荒れてしまうだろうが、 惜しい菅原だ。 言葉でこそ菅原というが、 惜しい清らかな女だ。 [#ここで字下げ終わり]  ヤタの若郎女のお返しの御歌は、 [#ここから3字下げ] 八田《やた》の一本菅《いつぽんすげ》はひとりで居りましても、 陛下が良いと仰せになるなら、ひとりでおりましても。 [#ここで字下げ終わり] [#5字下げ]ハヤブサワケの王とメトリの王[#「ハヤブサワケの王とメトリの王」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――もと鳥のハヤブサとサザキとが女鳥を爭う形で、劇的に構成されている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また天皇は、弟のハヤブサワケの王を媒人《なこうど》としてメトリの王をお求めになりました。しかるにメトリの王がハヤブサワケの王に言われますには、「皇后樣を憚かつて、ヤタの若郎女をもお召しになりませんのですから、わたくしもお仕え申しますまい。わたくしはあなた樣の妻になろうと思います」と言つて結婚なさいました。それですからハヤブサワケの王は御返事申しませんでした。ここに天皇は直接にメトリの王のおいでになる處に行かれて、その戸口の閾《しきい》の上においでになりました。その時メトリの王は機《はた》にいて織物を織つておいでになりました。天皇のお歌いになりました御歌は、 [#ここから3字下げ] メトリの女王の織つていらつしやる機《はた》は、 誰の料でしようかね。 [#ここで字下げ終わり]  メトリの王の御返事の歌、 [#ここから3字下げ] 大空《おおぞら》高《たか》く飛《と》ぶハヤブサワケの王のお羽織の料です。 [#ここで字下げ終わり]  それで天皇はその心を御承知になつて、宮にお還りになりました。この後にハヤブサワケの王が來ました時に、メトリの王のお歌いになつた歌は、 [#ここから3字下げ] 雲雀は天に飛び翔ります。 大空高く飛ぶハヤブサワケの王樣、 サザキをお取り遊ばせ。 [#ここで字下げ終わり]  天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、クラハシ山に登りました。そこでハヤブサワケの王が歌いました歌、 [#ここから3字下げ] 梯子《はしご》を立てたような、クラハシ山が嶮《けわ》しいので、 岩に取り附きかねて、わたしの手をお取りになる。 [#ここで字下げ終わり]  また、 [#ここから3字下げ] 梯子《はしご》を立てたようなクラハシ山は嶮しいけれど、 わが妻と登れば嶮しいとも思いません。 [#ここで字下げ終わり]  それから逃げて、宇陀《うだ》のソニという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました。  その時に將軍山部の大楯《おおだて》が、メトリの王の御手に纏《ま》いておいでになつた玉の腕飾を取つて、自分の妻に與えました。その後に御宴が開かれようとした時に、氏々の女どもが皆朝廷に參りました。その時大楯の妻はかのメトリの王の玉の腕飾を自分の手に纏いて參りました。そこで皇后|石《いわ》の姫の命が、お手ずから御酒《みき》の柏《かしわ》の葉をお取りになつて、氏々の女どもに與えられました。皇后樣はその腕飾を見知つておいでになつて、大楯の妻には御酒の柏の葉をお授けにならないでお引きになつて、夫の大楯を召し出して仰せられましたことは、「あのメトリの王たちは無禮でしたから、お退けになつたので、別の事ではありません。しかるにその奴《やつ》は自分の君の御手に纏いておいでになつた玉の腕飾を、膚《はだ》も温《あたたか》いうちに剥ぎ取つて持つて來て、自分の妻に與えたのです」と仰せられて、死刑に行われました。 [#5字下げ]雁の卵[#「雁の卵」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――御世の榮えを祝う歌曲。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また或る時、天皇が御宴をお開きになろうとして、姫島《ひめじま》においでになつた時に、その島に雁が卵を生みました。依つてタケシウチの宿禰を召して、歌をもつて雁の卵を生んだ樣をお尋ねになりました。その御歌は、 [#ここから3字下げ] わが大臣よ、 あなたは世にも長壽の人だ。 この日本の國に 雁が子を生んだのを聞いたことがあるか。 [#ここで字下げ終わり]  ここにタケシウチの宿禰は歌をもつて語りました。 [#ここから3字下げ] 高く光り輝く日の御子樣、 よくこそお尋ねくださいました。 まことにもお尋ねくださいました。 わたくしこそはこの世の長壽の人間ですが、 この日本の國に 雁が子を生んだとはまだ聞いておりません。 [#ここで字下げ終わり]  かように申して、お琴を戴いて續けて歌いました。 [#ここから3字下げ] 陛下《へいか》が初《はじ》めてお聞き遊ばしますために 雁は子を生むのでございましよう。 [#ここで字下げ終わり]  これは壽歌《ほぎうた》の片歌《かたうた》です。 [#5字下げ]枯野《からの》という船[#「枯野という船」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――琴の歌。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切つて船に作りましたところ、非常に早《はや》く行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。この船が壞《こわ》れましてから、鹽を燒き、その燒け殘つた木を取つて琴に作りましたところ、その音が七郷に聞えました。それで歌に、 [#ここから3字下げ] 船《ふね》のカラノで鹽を燒いて、 その餘りを琴に作つて、 彈きなせば、鳴るユラの海峽の 海中の岩に觸れて立つている 海の木のようにさやさやと鳴《な》り響く。 [#ここで字下げ終わり] と歌いました。これは靜歌《しずうた》の歌《うた》い返《かえ》しです。  この天皇は御年八十三歳、丁卯《ひのとう》の年の八月十五日にお隱れなさいました。御陵は毛受《もず》の耳原にあります。 [#3字下げ]二、履中天皇・反正天皇[#「二、履中天皇・反正天皇」は中見出し] [#5字下げ]履中天皇とスミノエノナカツ王[#「履中天皇とスミノエノナカツ王」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――大和の漢《あや》氏、多治比部などの傳承の物語。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  御子のイザホワケの王(履中天皇)、大和のイハレの若櫻《わかざくら》の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、葛城《かずらき》のソツ彦の子《こ》のアシダの宿禰の女の黒姫《くろひめ》の命と結婚してお生《う》みになつた御子《みこ》は、市《いち》の邊《べ》のオシハの王・ミマの王・アヲミの郎女《いらつめ》、又の名はイヒトヨの郎女のお三|方《かた》です。  はじめ難波の宮においでになつた時に、大嘗の祭を遊ばされて、御酒《みき》にお浮かれになつて、お寢《やす》みなさいました。ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和の漢《あや》の直《あたえ》の祖先のアチの直《あたえ》が、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになつて、目がお寤《さ》めになつて「此處は何處だ」と仰せられましたから、アチの直が申しますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。そこで天皇がお歌いになつた御歌、 [#ここから3字下げ] タヂヒ野で寢ようと知つたなら 屏風をも持つて來たものを。 寢ようと知つたなら。 [#ここで字下げ終わり]  ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになつた御歌、 [#ここから3字下げ] ハニフ坂にわたしが立つて見れば、 盛んに燃える家々は 妻が家のあたりだ。 [#ここで字下げ終わり]  かくて二上山《ふたかみやま》の大坂の山口においでになりました時に、一人の女が來ました。その女の申しますには、「武器を持つた人たちが大勢この山を塞いでおります。當麻路《たぎまじ》から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、越えておいでなさいませ」と申し上げました。依つて天皇の歌われました御歌は、 [#ここから3字下げ] 大坂で逢《あ》つた孃子《おとめ》。 道を問えば眞直《まつすぐ》にとはいわないで 當麻路《たぎまじ》を教えた。 [#ここで字下げ終わり]  それから上つておいでになつて、石《いそ》の上《かみ》の神宮においで遊ばされました。  ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御許《おんもと》においでになりました。天皇が臣下に言わしめられますには、「わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」と仰せられたから、「わたくしは穢《きたな》い心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。また言わしめられますには、「それなら今還つて行つて、スミノエノナカツ王を殺して上つておいでなさい。その時にはきつとお話をしよう」と仰せられました。依つて難波に還つておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼人《はやと》を欺《あざむ》いて、「もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ」と仰せられました。ソバカリは「仰せのとおりに致しましよう」と申しました。依つてその隼人に澤山物をやつて、「それならお前の王をお殺し申せ」と仰せられました。ここにソバカリは、自分の王が厠にはいつておられるのを伺つて、矛《ほこ》で刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和に上つておいでになる時に、大坂の山口においでになつてお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行つたら、かえつてその心が恐しい。依つてその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリに仰せられますには、「今日は此處に留まつて、まずお前に大臣の位を賜わつて、明日大和に上ることにしよう」と仰せられて、その山口に留まつて假宮を造つて急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わつて百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成つたと思つていました。そこでその隼人に「今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう」と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになつて、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになつた大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明くる日に上つておいでになりました。依つて其處を近つ飛鳥《あすか》と名づけます。大和に上つておいでになつて仰せられますには、「今日は此處に留まつて禊祓《はらい》をして、明日出て神宮に參拜しましよう」と仰せられました。それで其處を遠つ飛鳥と名づけました。かくて石《いそ》の上《かみ》の神宮に參つて、天皇に「すべて平定し終つて參りました」と奏上致しました。依つて召し入れて語られました。  ここにおいて、天皇がアチの直《あたえ》を大藏の役人になされ、また領地をも賜わりました。またこの御世に若櫻部の臣等に若櫻部という名を賜わり、比賣陀《ひめだ》の君等に比賣陀の君という稱號を賜わりました。また伊波禮部をお定めなさいました。天皇は御年六十四歳、壬申《みずのえさる》の年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります。 [#5字下げ]反正天皇[#「反正天皇」は小見出し]  弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比《たじひ》の柴垣《しばがき》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は御身のたけが九尺二寸半、御齒の長さが一寸、廣さ二分、上下同じように齊《そろ》つて珠をつらぬいたようでございました。  天皇はワニのコゴトの臣の女のツノの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カヒの郎女・ツブラの郎女のお二方です。また同じ臣の女の弟姫と結婚してお生みになつた御子はタカラの王・タカベの郎女で合わせて四王おいでになります。天皇は御年六十歳、丁丑《ひのとうし》の年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。 [#3字下げ]三、允恭天皇[#「三、允恭天皇」は中見出し] [#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]  弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホホドの王の妹のオサカノオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子《みこ》は、キナシノカルの王・ヲサダの大郎女・サカヒノクロヒコの王・アナホの命・カルの大郎女・ヤツリノシロヒコの王・オホハツセの命・タチバナの大郎女・サカミの郎女の九王です。男王五人女王四人です。このうちアナホの命は天下をお治めなさいました。次にオホハツセの命も天下をお治めなさいました。カルの大郎女はまたの名を衣通《そとお》しの郎女と申しますのは、その御身の光が衣を通して出ましたからでございます。 [#5字下げ]八十伴の緒の氏姓[#「八十伴の緒の氏姓」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――氏はその家の稱號であり、姓はその家の階級、種別であつてそれが社會組織の基本となつていた。長い間にはこれを僞るものもできたので、これをまとめて整理したのである。朝廷の勢力が強大でなくてはできない。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  初《はじ》め天皇《てんのう》、帝位にお即《つ》きになろうとしました時に御辭退遊ばされて「わたしは長い病氣があるから帝位に即《つ》くことができない」と仰せられました。しかし皇后樣をはじめ臣下たちも堅くお願い申しましたので、天下をお治めなさいました。この時に新羅の國主が御調物《みつぎもの》の船八十一艘を獻りました。その御調の大使は名《な》を金波鎭漢紀武《こみぱちにかにきむ》と言いました。この人が藥の處方をよく知つておりましたので、天皇の御病氣をお癒し申し上げました。  ここに天皇が天下の氏々の人々の、氏姓《うじかばね》の誤《あやま》つているのをお歎きになつて、大和のウマカシの言八十禍津日《ことやそまがつひ》の埼《さき》にクカ瓮《べ》を据えて、天下の臣民たちの氏姓をお定めになりました。またキナシノカルの太子の御名の記念として輕部をお定めになり、皇后樣の御名の記念として刑部《おさかべ》をお定めになり、皇后樣の妹のタヰノナカツ姫の御名の記念として河部をお定めになりました。天皇御年七十八歳、甲午《きのえうま》の年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀《えが》の長枝にあります。 [#5字下げ]木梨の輕の太子[#「木梨の輕の太子」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――幾章かの歌曲によつて構成されている物語。輕部などの傳承であろう。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  天皇がお隱《かく》れになつてから後《のち》に、キナシノカルの太子が帝位におつきになるに定まつておりましたが、まだ位におつきにならないうちに妹のカルの大郎女に戲れてお歌いになつた歌、 [#ここから3字下げ] 山田を作つて、 山が高いので地の下に樋《ひ》を通わせ、 そのように心の中でわたしの問い寄る妻、 心の中でわたしの泣いている妻を、 昨夜こそは我が手に入れたのだ。 [#ここで字下げ終わり]  これは志良宜歌《しらげうた》です。また、 [#ここから3字下げ] 笹《ささ》の葉《は》に霰《あられ》が音《おと》を立《た》てる。 そのようにしつかりと共に寢た上は、 よしや君《きみ》は別《わか》れても。 いとしの妻と寢たならば、 刈り取つた薦草《こもくさ》のように亂れるなら亂れてもよい。 寢てからはどうともなれ。 [#ここで字下げ終わり]  これは夷振《ひなぶり》の上歌《あげうた》です。  そこで官吏を始めとして天下の人たち、カルの太子に背いてアナホの御子に心を寄せました。依つてカルの太子が畏れて大前小前《おおまえおまえ》の宿禰の大臣の家へ逃げ入つて、兵器を作り備えました。その時に作つた矢はその矢の筒を銅にしました。その矢をカル箭《や》といいます。アナホの御子も兵器をお作りになりました。その王のお作りになつた矢は今の矢です。これをアナホ箭《や》といいます。ここにアナホの御子が軍を起して大前小前の宿禰の家を圍みました。そしてその門に到りました時に大雨が降りました。そこで歌われました歌、 [#ここから3字下げ] 大前小前宿禰の家の門のかげに お立ち寄りなさい。 雨をやませて行きましよう。 [#ここで字下げ終わり]  ここにその大前小前の宿禰が、手を擧げ膝を打つて舞い奏《かな》で、歌つて參ります。その歌は、 [#ここから3字下げ] 宮人の足に附けた小鈴が 落ちてしまつたと騷いでおります。 里人《さとびと》もそんなに騷がないでください。 [#ここで字下げ終わり]  この歌は宮人曲《みやびとぶり》です。かように歌いながらやつて來て申しますには、「わたしの御子樣、そのようにお攻めなされますな。もしお攻めになると人が笑うでしよう。わたくしが捕えて獻りましよう」と申しました。そこで軍を罷《や》めて去りました。かくて大前小前の宿禰がカルの太子を捕えて出て參りました。その太子が捕われて歌われた歌は、 [#ここから3字下げ] 空《そら》飛《と》ぶ雁《かり》、そのカルのお孃さん。 あんまり泣くと人が氣づくでしよう。 それでハサの山の鳩のように 忍び泣きに泣いています。 [#ここで字下げ終わり]  また歌われた歌は、 [#ここから3字下げ] 空飛ぶ雁《かり》、そのカルのお孃さん、 しつかりと寄つて寢ていらつしやい カルのお孃さん。 [#ここで字下げ終わり]  かくてそのカルの太子を伊豫《いよ》の國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は、 [#ここから3字下げ] 空を飛ぶ鳥も使です。 鶴の聲が聞えるおりは、 わたしの事をお尋ねなさい。 [#ここで字下げ終わり]  この三首の歌は天田振《あまだぶり》です。また歌われた歌は、 [#ここから3字下げ] わたしを島に放逐《ほうちく》したら 船の片隅に乘つて歸つて來よう。 わたしの座席はしつかりと護つていてくれ。 言葉でこそ座席とはいうのだが、 わたしの妻を護つていてくれというのだ。 [#ここで字下げ終わり]  この歌は夷振《ひなぶり》の片下《かたおろし》です。その時に衣通しの王が歌を獻りました。その歌は、 [#ここから3字下げ] 夏の草は萎《な》えます。そのあいねの濱の 蠣《かき》の貝殼に足をお蹈みなさいますな。 夜が明けてからいらつしやい。 [#ここで字下げ終わり]  後に戀しさに堪えかねて追つておいでになつてお歌いになりました歌、 [#ここから3字下げ] おいで遊ばしてから日數が多くなりました。 ニワトコの木のように、お迎えに參りましよう。 お待ちしてはおりますまい。 [#ここで字下げ終わり]  かくて追つておいでになりました時に、太子がお待ちになつて歌われた歌、 [#ここから3字下げ] 隱れ國の泊瀬の山の 大きい高みには旗をおし立て 小さい高みには旗をおし立て、 おおよそにあなたの思い定めている 心盡しの妻こそは、ああ。 あの槻《つき》弓のように伏すにしても 梓《あずさ》の弓のように立つにしても 後も出會う心盡しの妻は、ああ。 [#ここで字下げ終わり]  またお歌い遊ばされた歌は、 [#ここから3字下げ] 隱れ國の泊瀬の川の 上流の瀬には清らかな柱を立て 下流の瀬にはりつぱな柱を立て、 清らかな柱には鏡を懸け りつぱな柱には玉を懸け、 玉のようにわたしの思つている女、 鏡のようにわたしの思つている妻、 その人がいると言うのなら 家にも行きましよう、故郷をも慕いましよう。 [#ここで字下げ終わり]  かように歌つて、ともにお隱れになりました。それでこの二つの歌は讀歌《よみうた》でございます。 [#3字下げ]四、安康天皇[#「四、安康天皇」は中見出し] [#5字下げ]マヨワの王の變[#「マヨワの王の變」は小見出し]  御子のアナホの御子(安康天皇)、石《いそ》の上《かみ》の穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は、弟のオホハツセの王子のために、坂本の臣たちの祖先のネの臣を、オホクサカの王のもとに遣わして、仰せられましたことは「あなたの妹のワカクサカの王を、オホハツセの王と結婚させようと思うからさしあげるように」と仰せられました。そこでオホクサカの王は、四度拜禮して「おそらくはこのような御命令もあろうかと思いまして、それで外にも出さないでおきました。まことに恐れ多いことです。御命令の通りさしあげましよう」と申しました。しかし言葉で申すのは無禮だと思つて、その妹の贈物として、大きな木の玉の飾りを持たせて獻りました。ネの臣はその贈物の玉の飾りを盜み取つて、オホクサカの王を讒言していうには、「オホクサカの王は御命令を受けないで、自分の妹は同じほどの一族の敷物になろうかと言つて、大刀の柄《つか》をにぎつて怒りました」と申しました。それで天皇は非常にお怒りになつて、オホクサカの王を殺して、その王の正妻のナガタの大郎女を取つて皇后になさいました。  それから後に、天皇が神を祭つて晝お寢《やす》みになりました。ここにその皇后に物語をして「あなたは思うことがありますか」と仰せられましたので、「陛下のあついお惠みをいただきまして何の思うことがございましよう」とお答えなさいました。ここにその皇后樣の先の御子のマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、その時にその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることを御承知なさらないで、皇后樣に仰せられるには「わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長した時に、わたしがその父の王を殺したことを知つたら、わるい心を起すだろう」と仰せられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取つて、ひそかに天皇のお寢《やす》みになつているのを伺つて、そばにあつた大刀を取つて、天皇のお頸《くび》をお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。  ここにオホハツセの王は、その時少年でおいでになりましたが、この事をお聞きになつて、腹を立ててお怒りになつて、その兄のクロヒコの王のもとに行つて、「人が天皇を殺しました。どうしましよう」と言いました。しかしそのクロヒコの王は驚かないで、なおざりに思つていました。そこでオホハツセの王が、その兄を罵つて「一方では天皇でおいでになり、一方では兄弟でおいでになるのに、どうしてたのもしい心もなくその兄の殺されたことを聞きながら驚きもしないでぼんやりしていらつしやる」と言つて、着物の襟をつかんで引き出して刀を拔いて殺してしまいました。またその兄のシロヒコの王のところに行つて、樣子をお話なさいましたが、前のようになおざりにお思いになつておりましたから、クロヒコの王のように、その着物の襟をつかんで、引きつれて小治田《おはりだ》に來て穴を掘つて立つたままに埋めましたから、腰を埋める時になつて、兩眼が飛び出して死んでしまいました。  また軍を起してツブラオホミの家をお圍みになりました。そこで軍を起して待ち戰つて、射出した矢が葦のように飛んで來ました。ここにオホハツセの王は、矛《ほこ》を杖として、その内をのぞいて仰せられますには「わたしが話をした孃子は、もしやこの家にいるか」と仰せられました。そこでツブラオホミが、この仰せを聞いて、自分で出て來て、帶びていた武器を解いて、八度も禮拜して申しましたことは「先にお尋ねにあずかりました女《むすめ》のカラ姫はさしあげましよう。また五か處のお倉をつけて獻りましよう。しかしわたくし自身の參りませんわけは、昔から今まで、臣下が王の御殿に隱れたことは聞きますけれども、王子が臣下の家にお隱れになつたことは、まだ聞いたことがありません。そこで思いますに、わたくしオホミは、力を盡して戰つても、決してお勝ち申すことはできますまい。しかしわたくしを頼んで、いやしい家におはいりになつた王子は、死んでもお棄て申しません」と、このように申して、またその武器を取つて、還りはいつて戰いました。そうして力窮まり矢も盡きましたので、その王子に申しますには「わたくしは負傷いたしました。矢も無くなりました。もう戰うことができません。どうしましよう」と申しましたから、その王子が、お答えになつて、「それならもう致し方がない。わたしを殺してください」と仰せられました。そこで刀で王子をさし殺して、自分の頸を切つて死にました。 [#5字下げ]イチノベノオシハの王[#「イチノベノオシハの王」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――播磨の國のシジムの家に隱れていた二少年が見出されて、遂に帝位につく物語の前提である。物語は三六六ページ[#「三六六ページ」は「清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇」の「シジムの新築祝い」]に續く。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  それから後に、近江の佐々紀《ささき》の山の君の祖先のカラフクロが申しますには、「近江のクタワタのカヤ野に鹿が澤山おります。その立つている足は薄原《すすきはら》のようであり、頂いている角は枯松《かれまつ》のようでございます」と申しました。この時にイチノベノオシハの王を伴なつて近江においでになり、その野においでになつたので、それぞれ別に假宮を作つて、お宿りになりました。翌朝まだ日も出ない時に、オシハの王が何心なくお馬にお乘りになつて、オホハツセの王の假宮の傍にお立ちになつて、オホハツセの王のお伴の人に仰せられますには、「まだお目|寤《ざ》めになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。獵場においでなさいませ」と仰せられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオホハツセの王のお側の人たちが、「變つた事をいう御子ですから、お氣をつけ遊ばせ。御身《おんみ》をもお堅めになるがよいでしよう」と申しました。それでお召物の中に甲《よろい》をおつけになり、弓矢をお佩《お》びになつて、馬に乘つておいでになつて、たちまちの間に馬上でお竝びになつて、矢を拔いてそのオシハの王を射殺して、またその身を切つて、馬の桶に入れて土と共に埋めました。それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになつて逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになつて、乾飯《ほしい》をおあがりになる時に、顏に黥《いれずみ》をした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼《ぶたかい》です」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡つて、播磨《はりま》の國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼《うまかい》牛飼《うしかい》として使われておいでになりました。 [#3字下げ]五、雄略天皇[#「五、雄略天皇」は中見出し] [#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]  オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷《はつせ》の朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇はオホクサカの王の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子はございません。またツブラオホミの女のカラ姫と結婚してお生みになつた御子は、シラガの命・ワカタラシの命お二方です。そこでシラガの太子の御名の記念として白髮部《しらがべ》をお定めになり、また長谷部《はつせべ》の舍人、河瀬の舍人をお定めになりました。この御世に大陸から呉人《くれびと》が渡つて參りました。その呉人を置きましたので呉原《くれはら》というのです。 [#5字下げ]ワカクサカベの王[#「ワカクサカベの王」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――以下、多くは歌を中心とした短篇の物語が、この天皇の御事蹟として語り傳えられている。長谷《はつせ》の天皇として、傳説上の英雄となつておいでになつたのである。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  初め皇后樣が河内の日下《くさか》においでになつた時に、天皇が日下の直越《ただごえ》の道を通つて河内においでになりました。依つて山の上にお登りになつて國内を御覽になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作つた家があります。天皇が、お尋ねになりますには「あの高く木をあげて作つた家は誰の家か」と仰せられましたから、お伴の人が「シキの村長の家でございます」と申しました。そこで天皇が仰せになるには、「あの奴《やつ》は自分の家を天皇の宮殿に似せて造つている」と仰せられて、人を遣わしてその家をお燒かせになります時に、村長が畏れ入つて拜禮して申しますには、「奴のことでありますので、分を知らずに過つて作りました。畏れ入りました」と申しました。そこで獻上物を致しました。白い犬に布を※[#「執/糸」、U+7E36、353-17]《か》けて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬の繩を取らせて獻上しました。依つてその火をつけることをおやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御許《おんもと》においでになつて、その犬をお贈りになつて仰せられますには、「この物は今日道で得ためずらしい物だ。贈物としてあげましよう」と言つて、くださいました。この時にワカクサカベの王が申し上げますには、「日を背中にしておいでになることは畏れ多いことでございます。依つてわたくしが參上してお仕え申しましよう」と申しました。かくして皇居にお還りになる時に、その山の坂の上にお立ちになつて、お歌いになりました御歌、 [#ここから3字下げ] この日下部《くさかべ》の山と 向うの平群《へぐり》の山との あちこちの山のあいだに 繁つている廣葉のりつぱなカシの樹、 その樹の根もとには繁つた竹が生え、 末の方にはしつかりした竹が生え、 その繁つた竹のように繁くも寢ず しつかりした竹のようにしかとも寢ず 後にも寢ようと思う心づくしの妻は、ああ。 [#ここで字下げ終わり]  この歌をその姫の許に持たせてお遣りになりました。 [#5字下げ]引田部の赤猪子[#「引田部の赤猪子」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――三輪山のほとりで語り傳えられた物語。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部《ひけたべ》の赤猪子《あかいこ》と申します」と申しました。そこで仰せられますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待つていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待つておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました。しかるに天皇は先に仰せになつたことをとくにお忘れになつて、その赤猪子に仰せられますには、「お前は何處のお婆さんか。どういうわけで出て參つたか」とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには「昔、何年何月に天皇の仰せを被つて、今日まで御命令をお待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たのでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになつて、「わたしはとくに先の事を忘れてしまつた。それだのにお前が志を變えずに命令を待つて、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ」と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄つているのをおくやみになつて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、 [#ここから3字下げ] 御諸《みもろ》山の御神木のカシの樹のもと、 そのカシのもとのように憚られるなあ、 カシ原《はら》のお孃さん。 [#ここで字下げ終わり]  またお歌いになりました御歌は、 [#ここから3字下げ] 引田《ひけた》の若い栗の木の原のように 若いうちに結婚したらよかつた。 年を取つてしまつたなあ。 [#ここで字下げ終わり]  かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすつかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、 [#ここから3字下げ] 御諸山に玉垣を築いて、 築き殘して誰に頼みましよう。 お社の神主さん。 [#ここで字下げ終わり]  また歌いました歌、 [#ここから3字下げ] 日下江《くさかえ》の入江に蓮《はす》が生えています。 その蓮の花のような若盛りの方は うらやましいことでございます。 [#ここで字下げ終わり]  そこでその老女に物を澤山に賜わつて、お歸しになりました。この四首の歌は靜歌《しずうた》です。 [#5字下げ]吉野の宮[#「吉野の宮」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――吉野での物語二篇。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。そこでこの孃子を召して宮にお還りになりました。後に更に吉野においでになりました時に、その孃子に遇いました處にお留まりになつて、其處にお椅子を立てて、そのお椅子においでになつて琴をお彈きになり、その孃子に舞《ま》わしめられました。その孃子は好く舞いましたので、歌をお詠みになりました。その御歌は、 [#ここから3字下げ] 椅子にいる神樣が御手《みて》ずから 彈かれる琴に舞を舞う女は 永久にいてほしいことだな。 [#ここで字下げ終わり]  それから吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻《あぶ》が御腕を咋《く》いましたのを、蜻蛉《とんぼ》が來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、 [#ここから3字下げ] 吉野のヲムロが嶽《たけ》に 猪《しし》がいると 陛下に申し上げたのは誰か。 天下を知ろしめす天皇は 猪を待つと椅子に御座《ぎよざ》遊ばされ 白い織物のお袖で裝うておられる 御手の肉に虻が取りつき その虻を蜻蛉《とんぼ》がはやく食い、 かようにして名を持とうと、 この大和の國を 蜻蛉島《あきづしま》というのだ。 [#ここで字下げ終わり]  その時からして、その野をアキヅ野というのです。 [#5字下げ]葛城山[#「葛城山」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――葛城山に關する物語二篇。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また或る時、天皇が葛城山の上にお登りになりました。ところが大きい猪が出ました。天皇が鏑矢《かぶらや》をもつてその猪をお射になります時に、猪が怒つて大きな口をあけて寄つて來ます。天皇は、そのくいつきそうなのを畏れて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお歌いになりました御歌、 [#ここから3字下げ] 天下を知ろしめす天皇の お射になりました猪の 手負い猪のくいつくのを恐れて わたしの逃げ登つた 岡の上のハンの木の枝よ。 [#ここで字下げ終わり]  また或る時、天皇が葛城山に登つておいでになる時に、百官の人々は悉く紅い紐をつけた青摺《あおずり》の衣を給わつて著ておりました。その時に向うの山の尾根づたいに登る人があります。ちようど天皇の御行列のようであり、その裝束の樣もまた人たちもよく似てわけられません。そこで天皇が御覽遊ばされてお尋ねになるには、「この日本の國に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であるか」と問わしめられましたから、答え申す状もまた天皇の仰せの通りでありました。そこで天皇が非常にお怒りになつて弓に矢を番《つが》え、百官の人々も悉く矢を番えましたから、向うの人たちも皆矢を番えました。そこで天皇がまたお尋ねになるには、「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主《ひとことぬし》の大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏《かしこ》まつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました。かくて天皇のお還りになる時に、その大神は山の末に集まつて、長谷《はつせ》の山口までお送り申し上げました。この一言主の大神はその時に御出現になつたのです。 [#5字下げ]春日のヲド姫と三重の采女[#「春日のヲド姫と三重の采女」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――三重の采女の物語を中に插んで前後に春日のヲド姫の物語がある。春日氏については、中卷の蟹の歌の條參照。三重の采女の歌は、別の歌曲である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  また天皇、丸邇《わに》のサツキの臣の女のヲド姫と結婚をしに春日においでになりました時に、その孃子が道で逢つて、おでましを見て岡邊に逃げ隱れました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、 [#ここから3字下げ] お孃さんの隱れる岡を じようぶな※[#「金+且」、第3水準1-93-12]《すき》が澤山あつたらよいなあ、 鋤《す》き撥《はら》つてしまうものを。 [#ここで字下げ終わり]  そこでその岡を金※[#「金+且」、第3水準1-93-12]《かなすき》の岡と名づけました。  また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになつて御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の三重から出た采女《うねめ》が酒盃《さかずき》を捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮んだのを知らないで大御酒《おおみき》を獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になつて、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには「わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます」と言つて、歌いました歌、 [#ここから3字下げ] 纏向《まきむく》の日代《ひしろ》の宮は 朝日の照り渡る宮、 夕日の光のさす宮、 竹の根のみちている宮、 木の根の廣がつている宮です。 多くの土を築き堅めた宮で、 りつぱな材木の檜《ひのき》の御殿です。 その新酒をおあがりになる御殿に生い立つている 一杯に繁つた槻の樹の枝は、 上の枝は天を背おつています。 中の枝は東國を背おつています。 下の枝は田舍《いなか》を背おつています。 その上の枝の枝先の葉は 中の枝に落ちて觸れ合い、 中の枝の枝先の葉は 下の枝に落ちて觸れ合い、 下の枝の枝先の葉は、 衣服を三重に著る、その三重から來た子の 捧げているりつぱな酒盃《さかずき》に 浮いた脂《あぶら》のように落ち漬《つか》つて、 水音もころころと、 これは誠に恐れ多いことでございます。 尊い日の御子樣。   事の語り傳えはかようでございます。 [#ここで字下げ終わり]  この歌を獻りましたから、その罪をお赦しになりました。そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は、 [#ここから3字下げ] 大和の國のこの高町で 小高くある市の高臺の、 新酒をおあがりになる御殿に生い立つている 廣葉の清らかな椿の樹、 その葉のように廣らかにおいで遊ばされ その花のように輝いておいで遊ばされる 尊い日の御子樣に 御酒をさしあげなさい。   事の語り傳えはかようでございます。 [#ここで字下げ終わり]  天皇のお歌いになりました御歌は、 [#ここから3字下げ] 宮廷に仕える人々は、 鶉《うずら》のように頭巾《ひれ》を懸けて、 鶺鴒《せきれい》のように尾を振り合つて 雀のように前に進んでいて 今日もまた酒宴をしているもようだ。 りつぱな宮廷の人々。   事の語り傳えはかようでございます。 [#ここで字下げ終わり]  この三首の歌は天語歌《あまがたりうた》です。その御酒宴に三重の采女を譽めて、物を澤山にくださいました。  この御酒宴の日に、また春日のヲド姫が御酒を獻りました時に、天皇のお歌いになりました歌は、 [#ここから3字下げ] 水《みず》のしたたるようなそのお孃さんが、 銚子《ちようし》を持つていらつしやる。 銚子を持つならしつかり持つていらつしやい。 力《ちから》を入れてしつかりと持つていらつしやい。 銚子を持つていらつしやるお孃さん。 [#ここで字下げ終わり]  これは宇岐歌《うきうた》です。ここにヲド姫の獻りました歌は、 [#ここから3字下げ] 天下を知ろしめす天皇の 朝戸にはお倚《よ》り立ち遊ばされ 夕戸《ゆうど》にはお倚り立ち遊ばされる 脇息《きようそく》の下の 板にでもなりたいものです。あなた。 [#ここで字下げ終わり]  これは志都歌《しずうた》です。  天皇は御年百二十四歳、己巳《つちのとみ》の年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多治比《たじひ》の高※[#「顫のへん+鳥」、第3水準1-94-72]《たかわし》にあります。 [#3字下げ]六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇[#「六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇」は中見出し] [#5字下げ]清寧天皇[#「清寧天皇」は小見出し]  御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和の磐余《いわれ》の甕栗《みかくり》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がお隱《かく》れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城《かずらき》のオシヌミの高木《たかぎ》のツノサシの宮においでになりました。 [#5字下げ]シジムの新築祝い[#「シジムの新築祝い」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――前に出たイチノベノオシハの王の物語の續きで山部氏によつて傳承したと考えられる。この條は、特殊の文字使用法を有しており、古事記の編纂の當時、既に書かれた資料があつたようである。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ここに山部《やまべ》の連|小楯《おだて》が播磨の國の長官に任命されました時に、この國の人民のシジムの家の新築祝いに參りました。そこで盛んに遊んで、酒|酣《たけなわ》な時に順次に皆舞いました。その時に火焚《ひた》きの少年が二人|竈《かまど》の傍におりました。依つてその少年たちに舞わしめますに、一人の少年が「兄上、まずお舞《ま》いなさい」というと、兄も「お前がまず舞《ま》いなさい」と言いました。かように讓り合つているので、その集まつている人たちが讓り合う有樣を笑いました。遂に兄がまず舞い、次に弟が舞おうとする時に詠じました言葉は、 [#ここから3字下げ] 武士であるわが君のお佩きになつている大刀の柄《つか》に、赤い模樣を畫き、その大刀の緒には赤い織物を裁《た》つて附け、立つて見やれば、向うに隱れる山の尾の上の竹を刈り取つて、その竹の末を押し靡《なび》かせるように、八絃の琴を調べたように、天下をお治めなされたイザホワケの天皇の皇子のイチノベノオシハの王の御子《みこ》です。わたくしは。 [#ここで字下げ終わり] と述べましたから、小楯が聞いて驚いて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、そのお二人の御子を左右の膝の上にお据え申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて假宮を作つて、その假宮にお住ませ申し上げて急使を奉りました。そこでその伯母樣のイヒトヨの王がお喜びになつて、宮に上らしめなさいました。 [#5字下げ]歌垣[#「歌垣」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――日本書紀では、武烈天皇の太子時代のこととし、歌も多く相違している。ある王子とシビという貴公子の物語として傳承されたのが原形であろう。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平群《へぐり》の臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。その孃子は菟田《うだ》の長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、 [#ここから3字下げ] 御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。 [#ここで字下げ終わり]  かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、 [#ここから3字下げ] 大工が下手《へた》だつたので隅が曲つているのだ。 [#ここで字下げ終わり]  シビがまた歌いますには、 [#ここから3字下げ] 王子樣の御心がのんびりしていて、 臣下の幾重にも圍つた柴垣に 入り立たずにおられます。 [#ここで字下げ終わり]  ここに王子がまた歌いますには、 [#ここから3字下げ] 潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば 遊んでいるシビ魚の傍に 妻が立つているのが見える。 [#ここで字下げ終わり]  シビがいよいよ怒《いか》つて歌いますには、 [#ここから3字下げ] 王子樣の作つた柴垣は、 節だらけに結び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してあつて、 切れる柴垣の燒ける柴垣です。 [#ここで字下げ終わり]  ここに王子がまた歌いますには、 [#ここから3字下げ] 大《おお》きい魚の鮪《しび》を突く海人よ、 その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪《しび》を突く鮪《しび》の臣《おみ》よ。 [#ここで字下げ終わり]  かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつと寢《ね》ているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう」と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました。  ここでお二方《ふたかた》の御子たちが互に天下をお讓りになつて、オケの命が、その弟ヲケの命にお讓り遊ばされましたには、「播磨の國のシジムの家に住んでおつた時に、あなたが名を顯わさなかつたなら天下を治める君主とはならなかつたでしよう。これはあなた樣のお手柄であります。ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をお治めなさい」と言つて、堅くお讓りなさいました。それでやむことを得ないで、ヲケの命がまず天下をお治めなさいました。 [#5字下げ]顯宗天皇[#「顯宗天皇」は小見出し]  イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命(顯宗天皇)、河内《かわち》の國の飛鳥《あすか》の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子《みこ》はありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤《いや》しい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上《のぼ》りなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目《おきめ》の老媼《ばば》という名をくださいました。かくて宮の内に召し入れて敦《あつ》くお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、 [#ここから3字下げ] 茅草《ちぐさ》の低い原や小谷を過ぎて 鈴のゆれて鳴る音がする。 置目がやつて來るのだな。 [#ここで字下げ終わり]  ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、 [#ここから3字下げ] 置目よ、あの近江の置目よ、 明日からは山に隱れてしまつて 見えなくなるだろうかね。 [#ここで字下げ終わり]  初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯《ほしい》を奪つた豚飼《ぶたかい》の老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。  天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀《やぶ》ろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘り壞《やぶ》りました」と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。かくて天皇がお隱《かく》れになつてから、オケの命が、帝位にお即《つ》きになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏《いわつき》の岡の上にあります。 [#5字下げ]仁賢天皇[#「仁賢天皇」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――以下十代は、物語の部分が無く、もつぱら帝紀によつている。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  ヲケの王の兄のオホケの王(仁賢天皇)、大和の石《いそ》の上《かみ》の廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオホハツセノワカタケの天皇の御子、春日の大郎女と結婚してお生みになつた御子は、タカギの郎女・タカラの郎女・クスビの郎女・タシラガの郎女・ヲハツセノワカサザキの命・マワカの王です。またワニノヒノツマの臣の女、ヌカノワクゴの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カスガノヲダの郎女です。天皇の御子たち七人おいでになる中に、ヲハツセノワカサザキの命は天下をお治めなさいました。 [#3字下げ]七、武烈天皇以後九代[#「七、武烈天皇以後九代」は中見出し] [#5字下げ]武烈天皇[#「武烈天皇」は小見出し]  ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、大和の長谷《はつせ》の列木《なみき》の宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。そこで御子の代りとして小長谷部《おはつせべ》をお定めになりました。御陵は片岡の石坏《いわつき》の岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇の五世の孫、ヲホドの命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。 [#5字下げ]繼體天皇[#「繼體天皇」は小見出し]  ホムダの王の五世の孫のヲホドの命(繼體天皇)、大和の磐余《いわれ》の玉穗の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、三尾《みお》の君等の祖先のワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、大郎子・イヅモの郎女のお二方《ふたかた》です。また尾張の連等の祖先のオホシの連の妹のメコの郎女と結婚してお生みになつた御子はヒロクニオシタケカナヒの命・タケヲヒロクニオシタテの命のお二方です。またオホケの天皇の御子のタシラガの命を皇后としてお生みになつた御子はアメクニオシハルキヒロニハの命お一方です。またオキナガノマテの王の女のヲクミの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ササゲの郎女お一方です。またサカタノオホマタの女のクロ姫と結婚してお生みになつた御子は、カムザキの郎女・ウマラタの郎女・シラサカノイクメコの郎女、ヲノの郎女またの名はナガメ姫のお四方です。また三尾の君カタブの妹のヤマト姫と結婚してお生みになつた御子は大郎女・マロタカの王・ミミの王・アカ姫の郎女のお四方です。また阿部のハエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ワカヤの郎女・ツブラの郎女・アヅの王のお三方です。この天皇の御子たちは合わせて十九王おいでになりました。男王七人女王十二人です。この中にアメクニオシハルキヒロニハの命は天下をお治めなさいました。次にヒロクニオシタケカナヒの命も天下をお治めなさいました。次にタケヲヒロクニオシタテの命も天下をお治めなさいました。次にササゲの王は伊勢の神宮をお祭りなさいました。この御世に筑紫の君石井が皇命に從《したが》わないで、無禮な事が多くありました。そこで物部《もののべ》の荒甲《あらかい》の大連、大伴《おおとも》の金村《かなむら》の連の兩名を遣わして、石井を殺させました。天皇は御年四十三歳、丁未《ひのとひつじ》の年の四月九日にお隱れになりました。御陵は三島の藍《あい》の陵《みささぎ》です。 [#5字下げ]安閑天皇[#「安閑天皇」は小見出し]  御子のヒロクニオシタケカナヒの王(安閑天皇)、大和の勾《まがり》の金箸《かなはし》の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇は御子がございませんでした。乙卯《きのとう》の年の三月十三日にお隱れになりました。御陵は河内の古市の高屋の村にあります。 [#5字下げ]宣化天皇[#「宣化天皇」は小見出し]  弟のタケヲヒロクニオシタテの命(宣化天皇)、大和の檜隈《ひのくま》の廬入野《いおりの》の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオケの天皇の御子のタチバナのナカツヒメの命と結婚してお生みになつた御子は、石姫《いしひめ》の命・小石《こいし》姫の命・クラノワカエの王です。また川内《かわち》のワクゴ姫と結婚してお生みになつた御子はホノホの王・ヱハの王で、この天皇の御子たちは合わせて五王、男王三人、女王二人です。そのホノホの王は志比陀の君の祖先、ヱハの王は韋那《いな》の君・多治比の君の祖先です。 [#5字下げ]欽明天皇[#「欽明天皇」は小見出し]  弟のアメクニオシハルキヒロニハの天皇(欽明天皇)、大和の師木島《しきしま》の大宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、ヒノクマの天皇の御子、石姫《いしひめ》の命と結婚してお生みになつた御子は、ヤタの王・ヌナクラフトタマシキの命・カサヌヒの王のお三方です。またその妹の小石《こいし》姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カミの王お一方、また春日のヒノツマの女のヌカコの郎女と結婚してお生みになつた御子は、春日の山田の郎女・マロコの王・ソガノクラの王のお三方です。またソガのイナメの宿禰の大臣の女のキタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタチバナノトヨヒの命・イハクマの王・アトリの王・トヨミケカシギヤ姫の命・またマロコの王・オホヤケの王・イミガコの王・ヤマシロの王・オホトモの王・サクラヰノユミハリの王・マノの王・タチバナノモトノワクゴの王・ネドの王の十三方でした。またキタシ姫の命の叔母のヲエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ウマキの王・カヅラキの王・ハシヒトノアナホベの王・サキクサベノアナホベの王、またの名はスメイロト・ハツセベノワカサザキの命のお五方です。すべてこの天皇の御子たち合わせて二十五王おいでになりました。この中でヌナクラフトタマシキの命は天下をお治めなさいました。次にタチバナノトヨヒの命・トヨミケカシギヤ姫の命・ハツセベノワカサザキの命も、みな天下をお治めなさいました。すべて四王、天下をお治めなさいました。 [#5字下げ]敏達天皇[#「敏達天皇」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――岡本の宮で天下をお治めになつたというのが、古事記中最新の事實である。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  御子のヌナクラフトタマシキの命(敏達天皇)、大和の他田《おさだ》の宮においでになつて、十四年天下をお治めなさいました。この天皇は庶妹トヨミケカシギヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はシヅカヒの王、またの名はカヒダコの王・タケダの王、またの名はヲカヒの王・ヲハリダの王・カヅラキの王・ウモリの王・ヲハリの王・タメの王・サクラヰノユミハリの王のお八方です。また伊勢のオホカの首《おびと》の女のヲクマコの郎女と結婚してお生みになつた御子はフト姫の命・タカラの王、またの名はヌカデ姫の王のお二方です。またオキナガノマテの王の女のヒロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオサカノヒコヒトの太子、またの名はマロコの王・サカノボリの王・ウヂの王のお三方です。また春日のナカツワクゴの王の女のオミナコの郎女と結婚してお生みになつた御子はナニハの王・クハタの王・カスガの王・オホマタの王のお四方です。  この天皇の御子たち合わせて十七王おいでになつた中に、ヒコヒトの太子は庶妹タムラの王、またの名はヌカデ姫の命と結婚してお生みになつた御子が、岡本の宮においでになつて天下をお治めなさいました天皇(舒明天皇)・ナカツ王・タラの王のお三方です。またアヤの王の妹のオホマタの王と結婚してお生みになつた御子は、チヌの王、クハタの女王お二方です。また庶妹ユミハリの王と結婚してお生みになつた御子はヤマシロの王・カサヌヒの王のお二方です。合わせて七王です。天皇は甲辰《きのえたつ》の年の四月六日にお隱れになりました。御陵は河内《かわち》の科長《しなが》にあります。 [#5字下げ]用明天皇[#「用明天皇」は小見出し]  弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。この天皇は蘇我《そが》の稻目《いなめ》の大臣の女のオホギタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタメの王お一方です。庶妹ハシヒトノアナホベの王と結婚してお生みになつた御子は上の宮のウマヤドノトヨトミミの命・クメの王・ヱクリの王・ウマラタの王お四方です。また當麻《たぎま》の倉の首ヒロの女のイヒの子と結婚してお生みになつた御子はタギマの王、スガシロコの郎女のお二方です。この天皇は丁未《ひのとひつじ》の年の四月十五日にお隱れなさいました。御陵は初めは磐余《いわれ》の掖上《わきがみ》にありましたが後に科長《しなが》の中の陵にお遷《うつ》し申し上げました。 [#5字下げ]崇峻天皇[#「崇峻天皇」は小見出し]  弟のハツセベノワカサザキの天皇(崇峻天皇)、大和の倉椅《くらはし》の柴垣の宮においでになつて、四年天下をお治めなさいました。壬子《みずのえね》の年の十一月十三日にお隱れなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。 [#5字下げ]推古天皇[#「推古天皇」は小見出し] [#ここから6字下げ] [#ここから37字詰め] ――古事記がここで終つているのは、その材料とした帝紀がここで終つていたによるであろう。―― [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり]  妹のトヨミケカシギヤ姫の命(推古天皇)、大和の小治田の宮においでになつて、三十七年天下をお治めなさいました。戊子《つちのえね》の年の三月十五日|癸丑《みずのとうし》の日にお隱れなさいました。御陵は初めは大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお遷し申し上げました。 底本:「古事記」角川文庫、角川書店    1956(昭和31)年5月20日初版発行    1965(昭和40)年9月20日20版発行 底本の親本:「眞福寺本」 ※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。 ※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。 ※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。 入力:川山隆 校正:しだひろし 2011年8月30日作成 青空文庫作成ファイル: 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