古代史探訪 Profile  名 前 佐藤 章司 趣味/苦手       右手におむすび左手にスケッチブック、首にデジカメをかけて、てくてくと急がず慌てず歩くこと。・・・立ち止まったところでシャッターをきる。ついでに一首ひねる。 最近、昔読んだ「日本古代史」に再興味を覚えている。 アルコールが体内でアセトアルデヒトになったまま吸収されません。 これって結構苦しい。 血液型/DNA B型/不明・・・・ 行動形態を自然と規定していたりすると思う。 座右の銘 平凡ですが「一隅を照らす」 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ はじめに 十数年前のこと、帰宅途中に駅前の小さな本屋さんに立ち寄って、ふと手に持った文庫本をぱらぱらとめくっていると目に飛び込んできた文字「漢委奴国王」・・・・志賀島(九州福岡市)から江戸時代に発見された金印に刻印されていた文字・・・・「漢委奴国王」  さて、この「漢委奴国王」これをどう読むか? 漢の委の奴國王の3段国名にあらず、漢の委奴國王の2段国名と読むべき。これが印文の国名表記法のルール。漢の天子が蛮夷の王に金印を下賜するのは中心の統一された王と認定時はじめて与えられるもの。     天子→倭國王→奴國王 (従来読まれていた左図のような国名表記法のルールはない)      ↓          ↑       →→→金印→→ 中国の歴史書にも @「建武中元二年(57)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬〜」(後漢書) A「漢光武時遺使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之[イ妥]奴國〜」(隋書) B「倭国は古の倭奴国なり、京師を去ること〜」旧唐書  1世紀の倭奴國=3世紀の倭國=7世紀の[イ妥]國・倭国=連続した同一王朝・・・・ これが中国側(史書)から見た倭國の大観です。 ・1世紀後漢光武帝から下賜された金印は志賀島から出土 よって1世紀〜7世紀のこの同一王朝は「九州王朝」でなくてはならぬ。 概略このように手に取った本に書いてありました。 その本の名は『失われた九州王朝』古田武彦著でした。  (従来説のように漢の天子が奴國王に金印を贈ったなら、倭國王には何の印綬を贈るのだろうか?・・・・) その時から、古田武彦さんの語る日本列島内の「古代の真相」に興味を覚え、今は、日本列島の古代の実像が古田説によって一変したと・・・・そう思っています。 このHPに記述した古代史探訪のベースとなっているものは「古田」説です。 それに、フィ-ルドワークした時々のことを自分なりに加え記しました。そうしたら私の目にどのような古代像が見えてきたか? ・・・・・そして3世紀実在した女王卑弥呼や壱与の末裔達はその後どのようにして歴史の彼方に消え去っていったか? ・・・・それを私なりに検証していこうとするのが、この「古代史探訪」の旅です。   A:1世紀後漢光武帝から「倭奴國王」に下賜された金印は志賀島から出土 B:3世紀の女王卑弥呼の都したところは博多湾岸周辺(三国史魏志倭人伝) C:7世紀初頭「日の出るところの天子」である、多利思北孤の都には阿蘇山あり(隋書) D:3世紀〜7世紀に渡る都は九州内・・・5世紀の「倭の五王」の都も九州となります(宋書) E:倭国は古の倭奴国なり、京師を去ること〜〜〜或は云う、「日本は旧小国、倭國の地を併せたり」と・・・・・(旧唐書) @中国側の史書からおおよそ倭国を俯瞰すると、「倭奴國王→帥升→卑弥呼・壱与→倭の五王→多利思北孤」は連続した王朝・・・・。やがて日本国に併合され滅亡する。 A一方、目を転じて日本側史書を概要すれば、神話(神代)の描く世界は天(あま)国・出雲・筑紫が中心となっています。 それが九州の一端(筑紫)を出発した神武天皇の困窮を極めた大和への侵入の後、橿原の地で大和王朝の元が築かれると記述されています。 結局、これらの@Aの記述の骨格部は共に史実を反映していて、正しいのではないのか!?これを出発点として ・・・・以下、@とAの織成す古代史探訪へと続きます。 2002.5.28記                       ――――――――――――――――――――― 何が歴史上の真実であったか? 当事者の自白(古事記・日本書紀等)、関係者・第三者の証言(中国史書等)、物的証拠の提示(遺跡等からの出土物)、これらが揃って突き合せてみた結果、フィツトして隙間がなく、まさに疑い様も無い事実となった。 これが確かにかってあった歴史的事実といえるのでしょう。・・・・・遠い道程です。 2003.11.26 記 法隆寺創建の謎 法隆寺は現存する世界最古の木造建築と言われていますが建立年は不明となっています。 先般の各新聞社のニュース(2001.2.21)では「法隆寺五重塔の心柱は年輪年代法で測定して、伐採されたのは594年と確定できた」と報道されていましたが、それから十数年で建立されたと思うのは、ごくごく自然な理解と思いますが(建立するためにこそ伐採されたはずですから)その法隆寺創建の謎を語ります。 日本書紀に「天智九年(670年)夏四月三十日、暁に法隆寺に出火があった、一舎も残らずに焼けた」との記述があります。五重塔も金堂も中門も回廊も、数々の仏像も燃失したと思われます。・・・が、「釈迦三尊像」はこの際に、運び出され災禍にあわずに済んだとされています。 ですが、「本当に一舎も無く焼け尽きていまう程の暁の火災に、あの金銅仏でもある釈迦三尊像は持ち出せたのか?」という疑問が生じます。 そして、法隆寺西院南東に若草伽藍といわれている礎石のみを残す遺跡に今にその痕跡を残しています。その遺跡の一角に乗っかる形で再建されて世界最古の木造建築である、現法隆寺伽藍が建っています。 ところが、2001.2.21に「法隆寺五重塔の心柱は年輪年代法で測定して、伐採されたのは594年と確定できた」と各新聞社を通じて発表されました。 その結果、従来から言われてきた法隆寺焼失(670)後再建説は成立不可となり、その説に代えて「法隆寺は移築された」とならざるを得ません。ここに、7世紀初頭に創建されたであろう現法隆寺の移築元はどこからか?との疑問も又生じるわけです。 日本の歴史書である「日本書紀」に、国家プロジェクトともいえる、この法隆寺の創建の記載がありません。日本書紀編者が創建の事実を知らなかったり、書き忘れたとも思われませんから、書いてないことに何らかの意味があるかもしれません。 推古元年(593) @春一月十五日仏舎利を法興寺の仏塔の心礎の中に安置した。十六日塔の心柱を建てた。 Aこの年、はじめて四天王寺を難波の荒陵に造りはじめた。・・・・・ とあるように寺院建立の記載があるにもかかわらず、法隆寺出火(670)の記事があって、法隆寺建立の記載がない。不思議なことです。 これに先立つこと『日本書紀』祟峻天皇元年(588) A:「百済が使いに合わせて、僧恵総・令斤・恵□らを使わせて仏舎利を献上した。 B:百済国は恩率首信・徳率蓋文・那率福富味身らを使わせて調を献上し、同時に仏舎利と僧の聆照律師・令威・恵衆・恵宿・道厳・令開らと寺院建築工太良未太・文賈古子、露盤博士の将徳白味淳、瓦博士の麻奈文奴・陽貴文・崚貴文・昔麻帯弥、画工白加を奉った。」 との記述がありますが仏師の記載がない。又、仏舎利献上は重複した記事となっています。 この重複記事は百済から倭国(九州王朝B)へのルートと百済から日本国(大和王朝A)に渡来したグループがあったとする別々の原資料があったのではないか、それを日本書紀編纂者はその際、百済王の名前を伏せて(年代を伏せる意味で)、祟峻天皇元年(588)に一括挿入して記していると推定することが出来ます。 ・・・なぜか?日本書紀の完成が急がれたから、と言うか遅れを取り戻そうとしたからでしょう。 百済王○○が△△を使わせて××を献上(奉る)した。 ○○:王の名前 △△:使者の名前 ××:目的物等 このようになっていることが本来の文構成だと思います。 例えば「欽明12年(552年)冬10月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒[口利]斯致契らを遣わして釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を奉った」という風に。 日本書紀では、上のAやBのように、外交交渉上の相手国の「王名」が書かれていない(名前を伏せて)ケースがままあります。この様なケースは注意が必要です。 いずれにせよ、隋による南朝の陳滅亡(589)を受けて、仏舎利を入手して、五重塔の建立計画が着々と進んでいく様子が覗えます。 法隆寺の本尊でもある、釈迦三尊像には光背銘があり、その解読にあっては本ブログでは「多利思北孤は上宮法皇」に記しています。 すなわち、 多利思北孤≠聖徳太子 聖徳太子≠上宮法皇 多利思北孤=上宮法皇 であり、移築前の法隆寺は「聖徳太子」の寺とするものではありません。 上の立場と言うか見解からすれば釈迦三尊像に年号の法興元とあるように、法隆寺の創建時の寺名は法興寺ではなかったか?とも思えますが法隆寺心柱の伐採年と創建記事に一年のズレがあり、推古四年(597)冬十一月法興寺が落成していることからも一致しません。 ・・・本稿のテーマは594年に伐採された心柱を持つ五重塔は法隆寺焼失後から平城京遷都までの間に「釈迦三尊像」と共に九州王朝領域から移築されたとするものです。 更に云えば多利思北孤の都した筑紫にこの原法隆寺は建立されていたってことです。 そこを探す事が今後の課題です。 続く・・・ 参考文献 『法隆寺の中の九州王朝』古田武彦著:朝日新聞社 『法隆寺は移築された』米田良三薯:新泉社 『日本の歴史 2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公文庫 古代史探訪・・・・「倭王武の上表文」から見えてくる倭国発展史 2002.9.7記  2007.5.25修正 5世紀も又戦乱の世だったのでしょうか・・・・中国の史書『宋書』488年沈約の編纂(沈約441〜513薯)に倭王武の上表文が残されています。「順帝昇明2年(478年)遣使上表曰〜」 ・・・・この上表文から見えてくる倭国発展史に迫ります。   先ず最初にその上表文(『日本の歴史1』 神話から歴史へ 井上光貞薯 中央公論社)から記載します。 「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。 昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。 王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。 わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。 自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。 ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。 そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。 わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。 しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。 そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。 いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。 正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。 もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。 みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います」 ・・・・以下、この上表文の検討です。 1、累葉朝宗 不愆于歳 わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。と「倭国朝貢」史を述べている。 これを具体的に列記してみると A:建武中元2年(57)倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を以ってす。・・・後漢に朝貢 B:景初2年(238)6月。倭の女王、大夫〜〜天子に詣りて朝献せんことを求む。〜〜・・・魏に朝貢 C:義煕9年(413)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師並びに方物を献ず・・・晋に朝貢 D:永祖2年(421)詔していわく、「倭讃万里を修む。遠誠宜しくあらわすべく、除授を賜うべし」と・・・宋に朝貢 「後漢から宋に至るまでわが祖先達は途切れることなく朝貢してきた。 そして、誤まることはなかった」と自らを「臣」という立場をとって倭王武は述べています。 「倭奴国王→卑弥呼→讃→武」 に至るまで、同一王朝。それを証明する上表文です。 このことは、後の『南斉書』(箒子顕489-537)にも受け継がれ「倭国在帯方東南大海島中漢末以来立女王土俗巳見前史建元元年(479)新進除使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・()・六国諸事安東大将軍倭王武号為鎮東大将軍」とあり、倭王武は後漢書倭伝に記載されている卑弥呼の後裔と記述されています。 2、倭国の支配領域 倭王武の主張する当時の倭の支配領域は @東(毛人)55国 A西(衆夷)66国 B海北(朝鮮半島)95国 合わせて216国・・・・・・上表文を読んだ順帝(宋の上層部の人達を含めて)は、これが倭王武の主張する支配領域であり、その都はA衆夷にあると理解した。 なにせ、「倭国は高麗の東南大海の中にあり、世々貢職を修む〜」と認識しているのだから。 これは魏志倭人伝の「倭人は帯方の東南大海の中にあり」を受けたものでしょう。 「3世紀の倭人の国は5世紀の倭国であって連続した同一の国」この認識の上にたっている。 海北 ↑ 西衆夷→東毛人 一方、『日本の歴史1』 神話から歴史へ 井上光貞薯 中央公論社には 海北 ↑ 西衆夷←大和およびその周辺→東毛人 とし @東(毛人)55国・・・・関東から東北 A西(衆夷)66国・・・・九州から中国・四国地方 B海北(朝鮮半島)95国 C武の本拠地大和及びその周辺・・・・大和・近畿(α国?) 合わせると 216国+αとしてその結果は倭国の国数不明となってしまい。およそ、有り得ない外交文面となってしまいます。 順帝の視点から倭国を概観した場合に ”216国+α=不明”などというケースが有り得ることだろうか?必ず倭王武の主張する支配領域は216国と理解したでしょうし、倭王武も倭国の支配領域は216国と記した(国の数不明となるような記述は有り得ない)はずです。 天監元年(502年)鎮東大将軍倭王武を征東将軍に進号せしむ(梁書)とあります。雄略死後23年後の進号となりますが @日本書紀の雄略の在位期間が間違っているのか A梁書のうかつな進号記事なのか Bそもそも倭王武は雄略でない。・・・・・のか 注目すべき記事として「まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い」とあります。これをありのままに素直に読めば高句麗との戦闘準備途中の思いもよらなかった突然の事故死、例えば海難事故にあって、【奄喪父兄】あっという間に父兄を失う・・・そう理解します。 @讃(?-425) A珍(425-?) B済(?-451) C興(451-462) D武(462-502以降も在位) しかし、『日本の歴史 T』神話から歴史へ井上光貞 370頁や『日本古代国家の成立』直木孝次郎 129頁では倭王武(在位462-502以降も在位)は雄略天皇(在位456-479)と比定しています。 3、海北95国 そして、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称すとあります。これに対して、詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除すとあり、百済が除かれていますが、宋書夷蛮伝は高句麗・百済・倭国となっていますから当然でしょうが、宋に承認された、「朝鮮半島南部に新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」の倭地あり、となります。 (新羅は倭国領と記述されていることは注目点でしょう) 4、衆夷66国 「〜その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず」 @その八年、太守王キ官に至る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越等を遣わして郡に訪り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・横幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。 …・・(魏志倭人伝) A女王国より東、海を渡ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりといえども、女王に属せず。……・(後漢書) さて、女王国に属さず、相攻撃しあった狗奴国(拘奴国)との結末はどうなったのでしょうか?魏志倭人伝・後漢書ともそれは記してありませんが、倭王武の上表文に、衆夷を服すること66国とありますから3世紀から5世紀にかけて倭国(邪馬壱国)が「鉄器と騎馬」という新しい戦法をもって狗奴国を吸収したのでしょう。邪馬壱国の南にあったのか(魏志倭人伝)、東にあったのか(後漢書)。隣接しあっていたことは間違いないでしょう。 その結果30国から66国へと支配権の拡張をなした。先に記したように卑弥呼・壱與の後裔が倭王武ですから。 倭王武は「自仮開府義同三司〜」とありますから、倭国都督府に居していたはずです。 それではどこに都督府はあったか・・・・・たとえば”都府楼跡”。589年、南朝「陳」が隋によって滅びるまで九州にあった。 5、毛人55国 和銅元年(708)武蔵国秩父郡から発見された和銅献上があり、よって改元する。とありますが改元理由を和銅発見としているようですがこの時代に銅の発見と献上では改元までして祝うことはないでしょう。 真の理由は関東の一角、武蔵国が始めて大和朝廷の支配下に入ったからでしょう。その喜びが和銅改元となった。 このことは、倭王武の言う東毛人55国は関東を含んでいない。ということです。又、倭建命の東方十二国平定のための遠征では最初の征伐地とされている地は焼津(古事記では相模・日本書記では駿河)であり、毛人55国の東辺は、大井川周辺ではないか、と思われます。 『日本書紀』では、下図のような大和及びその周辺を支配領域の中心としたため、蝦夷まで持ち出して関東から東北にかけて「毛人の国」として、古事記以上に虚構を作り出しています。 大井川以西で55国の領域は衆夷66国と対比してみると下図のようです。そして衆夷と毛人とは国を隣接しています。 6、「衆夷」と「毛人」の違いについて 神武達の困窮を極めて大和の地に侵入を成功させた後、10代後の崇神の時、大和の地をほぼ手中におさめ、四方へ侵略を始めた大和の地を拠点に、かっての銅鐸圏がすっぽり入る領域、それを倭王武上表文は衆夷と分けて、毛人(銅鐸圏の被征服者達)55国と記しています。   海北95国   ↑   西衆夷→東毛人………合わせて216国で倭王武は衆夷にいて、毛人は銅鐸圏の被征服者達   66国   55国 倭王武にとって、「天の下」大和を治める神武〜雄略天皇は毛人の地を支配する配下のひとりと思っていたし、祟神〜雄略天皇は卑弥呼〜倭王武を同じ「天つ神」を祭る宗主国と思っていたこと疑えない。 7、句驪無道 圖欲見呑 掠抄邊隷 この倭地を拠点に晋の滅亡(316)と高句麗による楽浪郡・帯方郡の滅亡(313)による政治的・軍事的空白地となった朝鮮半島を馬韓が百済に、辰韓が新羅へ、弁韓が任那へと自立の道を歩み、他方北から高句麗が南下し、倭が北上して共に支配権を争い、倭と百済が軍事同盟を結び北の高句麗と応戦した。 この軍事同盟を証明するものが百済王(近肖古王在位346〜374)・世子(近仇首王375〜383)から倭王旨に贈られた「七支刀」(泰和4年369年造)でしょう。特異な形態と金象眼の剣もさることながら、鉄剣に大きな意味があるのでしょう。 その銘文には <表> 泰和四年五月十六日丙午正陽造百錬鉄七支刀□辟百兵宜供供侯王□□□□作 <裏> 先世以来未有此刃百済王世子奇生聖晋故為倭王旨造伝示□世                                 □は不明な文字 -------百済王世子奇生聖晋は「奇生聖音なる百済王及び世子」と読みました。 倭王旨は「倭王名」を示す。-------     と象嵌されています。 このことは『日本書記』に記載され、神功皇后52年秋9月10日久?らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山からでています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲みこの山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と申しあげた。〜とあります。なぜか、百済王の名前が伏せてありますが…・(百済王・世子が贈った相手は倭王(旨)であり(神功)皇后ではない…別述したい。) これに先立つこと3世紀「弁辰〜〜国出鉄 韓・[ミ歳(ワイ)]・倭皆従取之 諸市買皆用鉄 如中国用銭 又以供給二郡〜」(魏史韓伝)と記載されています。 いつの時代でも「鉄は国家を制する」のでしょう。武器として、農具として、貨幣替わりとして…・3世紀〜5世紀にかけても又、弁辰をはじめ韓地が倭国への主要な鉄の供給源(ルート)だった。 この鉄の産地を安定して確保出来たからこそ、魏志倭人伝記載当時の倭国30国から216国へとおよそ、百年におよぶ領土拡張政策やその軍事行動の基盤をなしていたものと思われます。 弁慶ヶ穴古墳の壁画 高句麗は高原を疾走する騎馬民族(元嘉16年(439)太祖欲北討 高句麗王[王連]献馬800匹 宋書夷蛮伝高句麗)。一方倭国は二つの海流に挟まれた大海の山島に居し、山川を跋渉する海洋民族。この激突は一進一退だったのでしょうか? 「太祖元嘉2年(425)讃又遣司馬曹達奉表献方物」とあり、騎馬の役職が記載されていますが倭国においても、朝鮮半島での長い戦いの中で、騎馬の戦術も取り入れていった。 8、「好太王碑文」の証言 414年建立の好太王(在位391〜412)碑によると(日本列島の大王たち160〜162ページから) A: 永楽9年(399) 百残は太王への誓いを違い、倭と和通した。そこで太王は平壌に巡下した。そこへ新羅が使を遣わしてきて太王のもとに訴えて来て言うには「倭人が その国境に満ち、城池を壊し破り、従属民としています。太王に帰属し、その命に従います」と。  B: 永楽10年(400) 将に命じて歩騎五万を遣わして、新羅を救いに行かせた。男居城より新羅城に至ると、倭は其の中に満ちていた。官兵方に至り、倭賊は退いた。さらに任那・加羅に至り城を抜いた。城はすぐさま官兵に帰属した。 C: 永楽14年(404) 而るに倭、軌ならず帯方界に侵入した。太王は兵を率い石城島より…船を連ね海を渡り速く帯方郡にいたった。倭は退いた。これを追って勾満城に至った。倭に相遇った。王は倭寇を切り殺し尽くして、潰やし敗り、斬り殺すこと無数であった。 D: 永楽17年(407) 太王は歩騎五万を遣わして倭寇を掃い尽くした。官兵はこれを追って平壌を過ぎ、合戦し斬り殺しそそぎ尽くした。〜 高句麗は新羅、任那、加羅まで南下し、他方倭は帯方界や時には平壌(旧楽浪郡)まで北上して戦った様子が生々しく記載されています。そして、それぞれの大義の立場から「倭王武の上表文」では高句麗をさして“無道”とし「好太王碑」では倭国をさして“無軌“と糾弾し合っています。 そんなさなか、先を争うように「晋の安帝義煕9年(413)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師並びに方物を献ず」『晋書』安帝紀、とあり倭国も高句麗も東晋へ貢献しています。自己の朝鮮半島での戦いに、東晋朝からの正当性を認めてもらおうとする外交上の配慮によるものでしょう。 この様に4世紀から5世紀は倭国と百済国が同盟を結び、北の高句麗と軍事激突した様子が生生しいわけです。 倭王武の上表文(478年)からみた倭国支配領域を想定した地図 倭国の支配領域を証言するもの 稲荷山古墳・江田船山古墳出土の鉄刀の銘文と七支刀 9、記紀説話から 『日本古代国家の成立』直木孝次郎著:講談社学術文庫、129頁には「武王は雄略のことと考えて良さそうである」と記しているが『宋書』倭国伝と『日本書紀』『古事記』では「一致するものは何も無い」これが事実。 それを示す例として 「河内の志畿の大県主の家が、棟に鰹木をあげ、天皇の御舎に似せて作ったという話がみえる。大県主の家家は雄略のために焼かれるが、この話も、天皇は畿内においてもまだ絶対の地位に登ってはいないことを示唆している。この絶対の地位を確保するために戦ったのが雄略であった。宋への遣使もそれと無関係ではあるまい。そうして宋から得た「六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号は、そうした地位の保障として役立つたことだろう」『日本古代国家の成立』署:直木孝次郎 134ページ 近畿の一角の河内さえも手中にしていない状況で、朝鮮半島への渡海を含めた高句麗へと派兵ができる状態になっていると、この本の著者は本当に思っているのだろうか?検証をしたことがあるのだろうか? 倭王武の上表文から 〜わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い〜 倭王武の「父」・「兄」の突然とも云えるこの不慮の事故死など『古事記』にも『日本書紀』のどこにも書かれていないではないか。 あるのは『宋書』であれ『隋書』であれ、「倭王とあれば『日本書紀」記載の大和の大王の誰かに当たるには違いない」という思考だけが卓越し、先行してしまっている。結局のところ、この近畿天皇家一元主義思考が災いして、真実を把握出来ないでいるのだ。 <倭王武の上表文原文> 「封國偏遠 作藩于外 自昔祖禰 躬[*環]甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人 五十五國 西服衆夷 六十六國 渡平海北 九十五國 王道融泰 廓土遐畿 累葉朝宗 不愆于歳 臣雖下愚 忝胤先緒 驅率所統 歸崇天極 道遥百濟 裝治船舫 而句驪無道 圖欲見呑 掠抄邊隷 虔劉不已 毎致稽滯 以失良風 雖曰進路 或通或不 臣亡考濟 實忿寇讎 壅塞天路 控弦百萬 義聲感激 方欲大擧 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣 居在諒闇 不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵 申父兄之志 義士虎賁 文武效功 白刃交前 亦所不顧 若以帝徳覆載 摧此彊敵 克靖方難 無替前功 竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節」 参考文献 『日本の歴史 T 神話から歴史へ』井上光貞 中央公論社 『失われた九州王朝』古田武彦 角川文庫 古代史探訪・・・「日本列島交流史」雑感 どこから日本列島に人が来たのか?そしてどこへ行ったか?その交流はどのようなもなだったのか? ・・・日本人の祖先はだれ?・・・ 大変興味のあるテーマです。興味のままに、空想を思いっきり広げて取り組んでみたいと思っています。 ・・・・・まずは日本人ルーツ探しの旅のスタートです。 A 徐福伝説から 徐福航海ルート想定図 北西からの風にあおられながらも出航し、黒潮の流れに乗ったものと思われます。 その際に対馬海流にも乗った一団があったことが想定されますが、東方の彼方というには黒潮ルートの方がより東を指し示すでしょう。 黒潮が日本列島に最も近づくのは紀伊半島ですから、ここ、新宮に立寄った。 徐福一団は新宮市より先、関東をめざしていたと思う。 徐福伝承地が太平洋側と日本海側の両方に存在している限りにおいて、黒潮と対馬海流の共に流れ来る先からの航路をとったこと。上図の航海ルートだったと思う。 1982年徐福村発見:江蘇省連雲港市 徐福航海ルートは殷時代(BC1200)からの「たから貝」の交易ルートを利用した?1、新宮市(三重県)には徐福公園があり、「秦の始皇帝(BC246-BC210在位?)が方士徐福を遣わせて童男女数千人をひきいて海に入り蓬莱の神仙を求めさせたが得られず。 徐福はその罪(失敗)による死罪をおそれて、帰ろうとはせず遂にこの洲(クニ)にとどまった」その地がここ。とのこと。 きっと東シナ海を横切って、黒潮に乗って着けたのでしょう。当然、不老不死の妙薬を得て帰り、始皇帝の元に届ける使命を持っていますから彼らの乗った船は「風と海流と夜間航行」をコントロール出来る「帆のある船」だと思います。 数千人とは二千、三千、四千、五千人?船の数は?それらの人はどこへ?(環東シナ海を囲む国々のうち九州・四国・紀伊半島に流れ着いたとしても地理上から不思議ではありません)それらの内に一船か二船が成功すれば良いわけだから相当のリスクをもった大冒険だった。 ・・・・・およそ2千2百年前の事実に基づいた話しだと思います。 ”海の東方の彼方に蓬莱の神仙がありそこには不老不死の薬がある。求めれば手に入るかもしれない”との、秦始皇帝と徐福の二人の共通認識があったのでしょう。 この情報源はどこからもたらされたのか?もちろん倭人から。 『論衡』王充には A:「周(BC1000ごろ)の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す」 B:「成王の時(BC1115-1079)、越常雉を献じ、倭人暢(ちょう)を献す」 との記述があります。 倭人と周は交易していた。その時の情報が残り、秦始皇帝と徐福の二人の共通認識となったものと思われます。 2003.5.20新聞社報道より 国立歴史民俗博物館は5月19日加速器質量分析計を使った放射性炭素(C14)年代測定法で北部九州出土の土器を調べた結果、水田稲作が伝来し弥生時代が始まった実年代は、紀元前10世紀ごろとわかったと発表した。殷から周への変化がアジア変動のきっかけだったことになる。--- 2、夷洲と[シ亶](せん)洲 @続いて後漢書には、「流れ着いたところで先住の民と同化して世々続いて数万家あり、その子孫達は時に会稽(中国)に至り交易をする」との記述がありますが、これが、黒潮の分流である対馬海流に乗って、この有明海沿岸の最深部佐賀県諸富町一帯に着いたのではなかろうか。 これが夷洲ではないかと考えています。 A「会稽東冶の県人海に入りて行き風に遭いて流移し[シ亶]洲に至る者あり所在遠絶にして往来することが出来ない」この[シ亶]洲が、黒潮の流れる南九州から四国の南岸そして紀伊半島の南岸を結ぶ海岸線帯が彼らの生活圏。ではないだろうか。 A:会稽海外、東[魚是]人有り、分かれて20余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う(漢書地理志呉地) B:楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う(漢書地理志燕地) とあり、東[魚是]人の国は、倭人の国の1/5程の大きさを持った国だった。ここでいう、「海外」・「海中」の海は東シナ海を指し示しています。 「環東シナ海」を挟んだ・・・中国文明との交流の一端を感じます。 3、「辰韓在馬韓之東 其耆老伝世 自言古之亡人避秦役来適韓国 馬韓割其東界地與其」(魏志韓伝)・・・ とあるように韓・趙・魏・燕・楚・斉の六国を滅ぼし戦国時代を終わらせ、統一中国をなした秦始皇帝は革命的に諸制度を打ち立てるけれども、過重な使役(万里の長城・始皇帝陵)や思想弾圧(焚書坑儒)のため、怨嗟も多く始皇帝の死後4年にして滅亡しますが、その動乱の中、離反し各地に去っていった人々も多かった。 ・・・・徐福も又そんな一員だった。 秦始皇帝の圧政から逃れた人達が倭国に来到るとの記述は倭人伝にはありません。 このことから倭人伝に記述されている30国の内、主要国9国の中には徐福一団の到着地を含んでいないということでしょう。 「その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず」とあるように他の21国は不明でしょうけれども。 そして、日本列島のいずれの地にか、徐福一団は必ず「漢字」と「絹」をもたらしているのは疑えない。と考えます。  日本各地に伝わる徐福伝説を紹介しているHPのひとつ「古代史の扉」が参考になります。 B 海の交流史 1、『古事記』神代記から・・・ いざなきの大神が筑紫の日向の橘の小門のあはき原で、みそぎはらへをしたときに左の目を洗われたときになった神の名は天照大神、次に右の目を洗われたときになった神の名は月読の命、次に鼻を洗ったときになった神の名は建速すさの男の命とあります。 そして天照大神には特に首飾り(管玉で連なっている勾玉?)を賜って高天の原の統治を委任し、月読の命には夜の統治を委任し、建速すさの男の命には海原の統治を委任したとあります。(日本書紀もほぼ同じ内容)「ここの”海原”領域の範囲はどこから? ・・どこまでか?」との疑問が生じますが、それは夜の統治を委任した”月読”にあると思います。 失われた月神(月読の命) 月を観察し日数を数え日にちを知ることです。もちろん月を観察しますが、星座をも観察したでしょう。 (例えば毎年七夕の夜、天空には”天の川”が輝いていたでしょうし又、北の方向には変わることのない北極星が輝いている) ・・・何の為に知り得る必要があったか?・・・ それは夜間航行(航海)。風を読み、海流を知っていることも又当然だったでしょう。 こう考えた時、月も太陽と同じように「神」として、信仰の対象になったこと間違いないでしょう。 「月神」は今、どのように祭られているのか・・・その伝承はないけれど、もともとの海洋国家である九州王朝では太陽神と月神はワンセットとして祭られていた、と想定できます。 しかし、内陸化された大和の地を基点に発展した大和王朝(朝廷)では、海洋国家の持つ祭祀の必要もなく、この2神の伝統に変えて天照大神の内宮と豊受・・神の外宮にとって変えられたものと思います。 古事記の語られる神代記の中心舞台は「筑紫〜出雲〜越」です。そこには対馬海流が流れていますから、この対馬海流を横断する技術を持っていたこと。 古事記が語る神代記は”海洋の民”の物語でもありますから、その海洋の民が月や星座を頼りに幾昼夜をかけて、東シナ海を縦横断したこと『後漢書』記載のとおりでしょう。 2、『古代船の構造』から・・・ 推進力を風を受ける帆から、櫂で舵を取り外洋を縦横断する古代船 @対馬海流・黒潮を横断する技術 Aそのためには海流に流されてしまわないだけの横断できる速度と、大波にあっても安定する構造を備えていることが必要。 国譲りに記載されている「天の鳥船」は帆船であり、風にたなびく帆が鳥の羽ばたく様をみて、そう名付けたのでしょう。 船を停留する時もちろん錨を降ろし波の高い時は安定させ、復元させる必要もありますが当然そういった手当が為されている構造だと思います。でないと外洋は渡れない。 今も昔も海流・風・高波・干潮・満潮の潮の満引き、それは変わらないでしょうから、これらをコントロールできる技術を持っていること必須であり、「天」と付くのは天国の船で他と厳しく峻別していたのでしょう。これらの構造要素は既に弥生時代はもちろんのこと、縄文時代に遡れるものと思っています。 3、『後漢書』倭伝から〜 (2003.9.11 加筆) 永初元年(AD107)倭国王帥升らが、生口160人を献じ朝見を願った。 この時の遣使の一団をイメージすると随行者は「統制の執れた船団を組んで」の遣使だったと思われます。 食料を積み、手こぎの交代要員も積んで、時には夜間航海もあったでしょう。 ・・・こうイメージした時、この船団は人力に頼るだけでなく、風を推進力とした船で、統制された一団と思わざるを得ません。 はるか、時代を遡って帆の使用はあったと。 ・・・・ 少なくてもここでは、カヌーやボートや古墳から出土する埴輪の船から予想される手漕ぎの船などの入り込む余地は無いと思われます。 「弓矢」や「釣り針」や「網」を発明した縄文人の知性の一端に「帆」の発明もあったと思うわけです。そして、この帆の使用が、「AD107の倭国王帥升らが、生口160人を献じの・・・・・」 古代史の背後にあると・・・そう思います。 2007.12.15以下消去 永初元年(AD107)の倭国王帥升の朝見。・・・・倭国王帥升が直接、安帝に面会している。以下その理由 理由その1 『後漢書』を書いた范曄(398-445)遣使によるか、そうでないかを書き分けている。 理由その2 何よりも、朝鮮半島にいる倭人に向けた、倭国統一の一大デモンストレーションを行った。それには生口160人の存在が必須だった。生口160人の中には、被征服者側の支配層がいたのでしょう。・・・その勢いで安帝に会うことを願った。この時の倭国側の認識が「自昔祖禰 躬[*環]甲冑 跋渉山川 不遑寧處」として「倭王武の上表文」に表れている。と思われる。 倭国王帥升の時、30国に統合された倭国が出現した。その30国の上に乗っかるかたちで3世紀、卑弥呼の共立があったと思います。 光武帝紀:中元2年(57)春正月辛未初立北郊祀后土東夷倭奴国王遣使奉獻 安帝紀:永初元年(106)冬十月倭国遣使奉獻 A及びBとも使を遣わして(遣使)であるので倭国王帥升が直接、安帝に面会はしていない。 4、『日本書紀』祟神紀から・・・ 『日本書紀』祟神紀に17年秋7月1日「船は天下の大切なもの〜 冬10月、初めて船舶を造った。・・・・ 上の記述ほど、大和王は倭国王では無いことを雄弁に語っていることは無いでしょう。直接、祟神が語っているのですから。 5、ヒョウタン(ひさご)・・・ ヒョウタンに飲料水を詰め、時には果実酒も、燻製の魚・肉、どんぐり等で出来ていたビスケットを保存食として、出航したのでしょう。ヒョウタンは縄文時代の遺跡(鳥浜・曽畑等)からも出土していますから、幅広く使用され、航海時にこそ、必需品として使用されたでしょう。携帯が可能ですし水の有無こそが、アクシデントにあった時に生死を分けたことでしょうから。その時、煮炊き用はどうしたか?・・・・土器と燃料・・・・持って航海したと思います。そういった心に余裕がないと、充分に力を発揮できずに渡れないのではないか。  ヒョウタンはアフリカ〜インド〜東南アジアが原産地とされるものですから、日本列島にBC4000頃の出土が発見されるのは、古代の大航海時代があったことが想像されます。 アジアモンスーン地帯の交易という視点からは「竹」が主で「ひょうたん」が従か? ヒョウタンの出土遺跡 ・曽畑貝塚:(熊本県宇土市)BC4000ごろ  ・鳥浜貝塚:(福井県三方町)BC3500ごろ ・三内丸山遺跡:(青森県青森市)BC3500〜BC2000 ・河姆渡遺跡:(中国折江省)BC5000ごろ C 日本列島の貝文化 1、貝製品のペンダント・ブレスレットを「神」のよりしろとした古代の信仰跡 ゴボウラ貝の腕輪 A:ゴボウラ貝等の原産地の奄美・沖縄諸島 B:貝製品の見つかる北九州の各遺跡 C:1988年貝製品の発見があった有珠10遺跡(北海道伊達市) D:貝文化の変形の車輪石、鍬形石の近畿を主とした出土地 縄文時代にはA〜Bへ南海産の貝、B〜Aには腰岳産の黒曜石の相互交易があり、縄文後期から弥生早々にかけてはB〜Cへの日本海ルートの人と文化(宗教)の移動があったことをうかがわせますし、前期古墳時代のB〜Dへ形を変えた貝文化の伝播があったことをうかがわせます。 貝塚の断面 蜆塚遺跡の交易 静岡県浜松市 A:八ヶ岳の黒曜石 B:姫川の翡翠 C:二上山のサヌカイト 太平洋〜日本海に至る 交易路の中継点は諏 訪湖? 2、貝塚・・・安定的に確保できた貴重なタンパク質の食料とともに、貝を介した貴重な塩分の供給ルートであり、海から山への交易品だった。 一方、山から海へは黒曜石等の石器類ではなかったか?貝が主要な交易品だった。その痕跡を示すものが各地の貝塚遺跡ではないか?そんな感想を持ちます。 この図は蜆塚遺跡(静岡県浜松市):縄文後期ですが、この遺跡の中から屈葬して埋葬された人骨から貝の腕輪が出てきています。ここでも貝が宝物として、扱われています。 B〜Dのルートは弥生時代の北九州にあった貝文化(宗教)が形を変えて(車輪石、鍬形石等が)前期古墳時代の遺跡から出土しています(註1)が北九州から近畿に伝播したのでしょう。これは神武東行説話の実在性なしには有り得ないのでは?と思っています。 さらに重要なのはA〜Dのルート(沖縄・奄美から近畿の交易路)がなかったということです。 だからこそ近畿においては貝ではなくその代用品の石になっているのです。 この意味は「邪馬台国東遷説」が成立たないことを意味するようです。東遷したならばその伝統と交易圏を引継いで貝製の腕輪があって当然でしょうが、しかしそれは出土していない。 註1 車輪石、鍬形石の出土地   黄金塚古墳:大阪府和泉市   島の山古墳:奈良県川西町 塩分摂取のイメージ・・・・ 土器に海水を入れて、沸騰させてその中に貝(アサリ・ハマグリ)を入れて水が無くなる程に煮る。それを何回か繰り返した後に取り出して乾燥させる。これで塩分のたっぷり入った日干し貝が出来あがり。 生きていくのに必要な塩分と料理のベースとなる滋味の完成。これを水で戻す。 今も昔も日本人の味覚のベースではないでしょうか? もし、土器の無い旧石器時代ならば大型の巻貝や二枚貝がその役割を持っていたのでしょう。 焼く・蒸す・干す・燻製にするという料理方法から「煮る」という方法が始めて可能となったでしょうから。 今まで食べることの出来なかった食料源が新たに加わって、あるいは無駄なく食料を活用することができるようになって、生活の豊かさや人口増加をもたらせた。 そして、この貝をモデルとして、土器が発明された。 貝文化は食文化をベースに出来上がったものと思われます。 『魏志倭人伝』に「キョウ・橘・椒・ジョウカあるも滋味を知らず」とありますが、中国とは違う食文化であることを言っているのでしょう。 それを象徴するものが入手困難(稀少価値の高い)なA点の海南産のゴボウラ貝・イモ貝・オオツタノハ貝が東アジア共通の貝文明の原点となったものだと思います。 3、「記紀説話」から 特にB〜Cのダイレクトなルートは何だったのか?水田稲作の伝播ルートに良く似ています(例えばAの板付・菜畑遺跡やBの津軽海峡を挟んだ南側の砂沢・垂柳遺跡)し、そこに歴史上の何かしらの痕跡がないかを探るのが、今回の主テーマです。最初に日本神話において、貝を介した神話について『古事記』から追ってみました。 「〜〜サルタビコ大神は、あざかにいらっしゃったとき、漁をなさろうとしてひらぶ貝という貝にその手をくい合わされて海水中に沈み溺れられました。その時、海底に沈んでいた時の名を底着くみ霊と言い、海中がつぶつぶ泡立つ時はつぶ立つみ霊と言い、その泡がはじけ裂ける時の名を、泡裂くみ霊と言います。〜〜こういうことで、御代御代、志摩の国(福岡県糸島半島の志摩)の海人部が急ぎの便で天つ神の御子(ニニギの命)にお供えの魚介類等を奉る時には、「サルメ(猿女)の君」(猿田びこの神+うずめの命=サルメの君とした合成語でしょう)らにそれをわけて下さるのです」と、語られます。 このように猿田びこの神は国つ神の中で特別な存在です。それを列記すると @高天原や葦原の中つ国に輝く神 A天孫降臨の際の国つ神側の協力者として取り込んでいる B貝文化(宗教)の主宰者の性格を持ち C-A サルメの君とはヒルコ・ヒルメと同等の名前(太陽神)を持つ女神。ヒルメは天照大神の又の名(日本書紀)。おそらく太陽神の誕生にかかわる名前ではないか?と思います。太陽が地平線から昇る前の海底での誕生・・・・?太陽は毎日、海底の貝から生まれるものと思っていたのでしょう。その太陽誕生説話。 C-B あるいは、サルメの君とは「月神」かも知れません。海洋の民にとっては潮の満引きは月の周期に関係していることの認識は持っていたでしょうから。そして、干満差から生じる海流を利用して航海していた。 Dニニギの命に次ぐ(no2)の扱いを受けている。これは豊葦原の瑞穂の国側を代表して服従した結果なのでしょう。(少人数が多人数を支配する統治方法の結果?) 猿田びこの大神が漁をしたとありますが大神が「漁」をすることはなどありません。これは、天つ神系に立った伝承改訂の一文でしょう。 豊葦原の瑞穂の国側には @天孫降臨に協力した者 A抵抗し敗れ殺された者あるいは生きて生口とされた者 B逃亡(亡命)する者、が生じたことでしょう。 このうちBの亡命した人々の亡命先はどこだろうか?と考えると「貝のブレスレットを身に付け、稲種を持って」上の地図で示せばC地点(北海道有珠と津軽海峡対岸の青森県砂沢等)と思われます。 これは天孫降臨に先立って行われた大国主神の国譲りの交渉の際、建御雷の神が建御名方の神を信濃の国の諏訪湖まで追い詰めて国譲りを迫っていますから出雲〜越〜諏訪湖は既知のルートです(更に言えば諏訪湖〜太平洋側の蜆塚遺跡まで既知ルート)。 それを避ければ津軽海峡の外(北海道)となるものだと思うのです。ここは、対馬海流の流れ行く先の終焉地です。 こう考えれば、ここに突然にゴボウラ貝等の腕輪が出土するのも不思議ではありません。むしろ、史実の必然とさえ思われます。 上記のうち@天孫降臨に協力した人達はどうなったか?古事記の語る猿田びこの神がその後どういう運命をたどったかは古事記には語られていません(この部分は非常にわかり難い)。 天つ神(天孫族)系は小人数で国つ神(豊葦原の瑞穂の国)系が多人数の「少数が多数を支配する」支配構造になっていると思われますが、その結果勾玉・鏡・剣の三種の神器の下に、貝腕輪の宝器を祭祀とした一群の存在が弥生遺跡から出土しています。 4、貝は富を生みだし、蓄えられるものと漢字発明以前の東アジアの古代人は考えたのでしょうか、日本列島にも北九州を中心とした地域に貝文化があったことが覗い知れます。 まだ、土器の発明以前には容器となるものは沖縄や奄美諸島の珊瑚礁の海に産する大型の貝、水を蓄え場合によっては沸かせて飲むことのできる湯、そんなゴボウラの貝に混じって偏光色に輝く「タカラ貝」を宝石と見たのでしょう。 しかも中国では産しなく通常手に入らない貝を貨幣としたこと・・・そこには数々の神話を伴う、土器文明に先立つ貝文明の存在を感じさせます。 その一端に倭人もいた。ここに「殷と琉球と倭人」の東シナ海を結ぶ接点が生じます 「貝交易の語る琉球史」 (木下尚子熊本大学教授) が参考にないます。 D ピンポイントの航海術 神津島の黒曜石     古代(縄文時代以前)にあっても、黒曜石の分布によって、確かな航海術があったことが偲ばれます。 黒曜石は「原産地推定」と「年代測定」の分析が可能となっています。 A:黒曜石の産地の神津島 B:関東の遺跡に残る神津島産の黒曜石 D:神津島の黒曜石が残る八丈島 さて、人はどのようにして黒曜石を持って海を渡ったのか考えます。 ―――――――――――――――――――― 古代の航海術 @(A〜B)往路 南から吹く風を利用して伊豆諸島の島伝いを経由して房総半島か伊豆半島を目標にして舟を進める。 半島が見えたら、沿岸部に平行して進み東京湾の最深部に上陸する。一年のうちでも、可能な時期は限られたでしょう。 6月〜7月の間か?夜間航海となっても方向を見失うことはないのは月・星によって進む方向がわかる技術を持っていた。 A(B〜A)復路 往路の逆を進むのだが、違うのは進む方向が厳密であることが必要です。ようするにピンポイントの航海にならざるを得ないでしょう。なにしろ太平洋の真っ只中の小さな小さな島をめざすのですから。それを可能にするには紀伊半島まで沿岸航海をして、そこから黒潮に乗って一気に神津島まで航海する。神津島が見えたら黒潮を離れてたどり着いたのでしょう。もし、その時が夜間であっても神津島を見分けることの出来る能力(視力?)を持っていた。 B(A〜D・D〜A)の黒潮横断航海 A〜D間には幅50〜100Km、深さ200〜1000m、最大時速7ノットの黒潮が流れていますから、これを横断することになりますが、どのようにして横断したのか?黒潮を遡上してC点(紀伊半島)まで行き半島が見えたところで黒潮にのって黒潮の端から端へ漕ぐ(移動する)。近づいたら黒潮から降りる。・・・で、行き来きできる。 舟は4〜5人のチームを組んだ安定性のある「イカダ」。推進力は人力では無理。やはり風利用の帆と方向を調整する舵とかロールは必要でしょう。(海上航行に丸木舟を使用したとする説が有力のようですが、丸木舟であれ、筏であれ帆の使用による推進力を得た・・・・でないと黒潮の横断や黒潮を遡上して、相互交易ができないではないか!) 必須条件の水はヒョウタン、大型の巻貝、竹、土器のどれかの容器に詰めて持参。イカダとの組み合わせを考えると量も多い「竹」の可能性が大きいのではなかろうか。 神津島産黒曜石の交易 黒曜石の原産地推定と年代測定 3万2千年前頃に武蔵野台地(東京都)の旧石器遺跡から、神津島産の黒曜石を使用した石器が発見されています。又、神津島から黒潮を横切って、八丈島に渡り海上航海が行われたことが判明されています。 スンダランド→黒潮→神津島→武蔵野台地に到達・・・これが日本列島最古の渡来人ではないか? 土器発明以前の旧石器時代のこと。このスンダランドで「海流の発見」と「帆の発明」があったのではないか。そのことが大航海を可能にしたものと思います。 黒潮圏の考古学 が参考になりました。 古代人はどのような方法で海を渡ったのだろうか? NO-1 事例ー1 ↓の写真は伊豆諸島の八丈島倉輪遺跡(縄文前期末頃)出土の石製装身具 左からペンダント、?状耳飾り、ペンダント2本 上の遺跡の3メートル積もった火山灰層の中から人骨と共に副葬品と思われる石製装身具が1985年に見つかった。(新・古代史発掘1983-1987) ーーーーここから引用ーーー 縄文人がどこから島に渡ってきたのか、伊豆半島の南東から島伝いに約190キロ、東京から300キロも離れた海上に浮かぶ八丈島。しかも、北にある御蔵島との間には、黒潮の本流が流れている。 ーーーー引用ここまでーーーー さて、記されているように、この縄文人はどのようにして八丈島に往来(渡海)していたのか? 丸木舟であれ、いかだであれ、推進力は人力ではまず無理であるとの認識が初めに必要だと思う。やはり、黒潮の流れに沿った風の利用であり、それを巧みに帆で受けて進んだ。と考える他は無い。それもかなりのスピードで。そうでないと黒潮に流されてしまうこと自明。・・・・ではないか! 古代人はどのような方法で海を渡ったのだろうか? NO-2 ↑上の写真は石製けつ状耳飾 左:鹿児島上野原遺跡出土の耳飾(縄文時代早期末 6400年前頃) 右:八丈島倉輪遺跡出土の耳飾(縄文時代前期末から中期初頭) 日本列島の遺跡から出土する遺品のうち、耳飾が縄文・弥生・古墳と各時代を超え、地域的にも西日本を中心に各地から出土をし、石製から土製へそして金属製へと技術変化があったにも関われず捨てられることなく、古代における普遍的な日本人の文化(精神)を特徴づける、ひとつになっています。 上の二つの耳飾りは鹿児島県の上野原から黒潮に乗って、黒潮の流れを横断して八丈島に辿り着いた人のつけていたものではなかろうか?と想像するのです。 上野台遺跡の石製耳飾は、アカホヤ火山灰層より下位しており、火山灰降下の被害を避けるため、海へ脱出した人たちが居て、脱出した人たちの子孫が八丈島から出土した人骨や石製耳飾ではなかろうか。そういう異常事態への適応結果が、日本各地へと文化を伝播したものと思いここに記しました。 追記 この上野台遺跡には文化の伝播を及ぼしたと思われるものに、燻製施設を思われる連結炉穴があり、西日本の鮎、東(北)日本における鮭の季節を同じくする大量の定期的な貴重な食料保存と確保に道を開いたのだろうと思う。 特に西日本においては『古事記』記述のように「鮎」に関する逸話が数多く語られていますし、鵜飼という職制が(鵜飼部や鵜飼伴)が語られ、保存食としての「鮎」を伺わせます。 古事記・日本書紀の編纂方針を解く 「古事記真福寺本」について 北野山真福寺宝生院(大須観音)名古屋市中区大須2-21-47 → 最古の古事記写本「真福寺本」(国宝)の所有されている宝生院。南北朝時代、ここの僧、賢瑜が1371-1372年にかけて尾張に秘蔵されていた古事記を写書しながら、南朝・北朝の正統性を吟味したのでしょうか。 古事記について 1、1979年1月24日 奈良市日笠町の茶畑の改植中に「太安万侶の墓」が発見され、(新聞社各社報道)その墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶以癸亥年七月六日率之養老七年十二月十五日乙己」と刻まれていた。723年7月6日に死亡し同年12月15日に火葬のうえ埋葬?された。712年『古事記』撰上時は正五位上勲五等ですから、少しばかり昇級したようです。 これにより太安万侶の実在が証明されましたが、「一度見たものはいつでも口に諳んじ、一度聞いた事はいつまでも記憶して忘れない」とされる、聡明な「語り部」でもある、舎人の稗田阿礼の人物像等は今だ謎のままです。 2、従来からある『古事記』偽書説は、古事記序文が『五経正義』の尚書正義序文を参考にして作られていることと、『日本書紀』の天武紀には「稗田阿礼に帝皇の日継と先代の旧辞とを読み習わせた」とする記事がなく又、続日本紀 712年に『古事記』撰上の記事も無く、これが『古事記』偽書説の主とした理由となっていますが、これは『古事記』は偽書ではなくて、大和朝廷(元明天皇)によって”あっては、ならない”書とされ、放棄(廃棄)されたからでしょう。 これは、同一王朝によって作られた歴史書が違う内容をもって、並列して存在することなど有り得ないことです。 3、太安万侶の言として「上古の伝えは、その言葉も内容もまことに素朴で、これをもっぱら漢字で記して文を連ね句を構えるということは至難のわざでございます〜〜必要によりましては短い一句のうちでも音と訓を交え用いますし、時によりましては、まとまった一事を語る上でも訓だけによって記載することに致しました」とあり、万葉かなで記載されていますが、このわずか8年後完成(720年)の日本書紀には同一内容と思われる上古の伝えが「一書に云う」という内容をもって漢文表記となっています。 4、『古事記』上表文には天武天皇の直接の言で「聞くところによると諸家に伝わっている帝紀及び本辞の類がすでに正実に違い、多くの虚偽を加えたものになっている〜〜帝紀をきちんと書物にまとめあげ、旧辞を良く調べ上げ正しいものに”偽を削り実を定め”て後の世に伝えたいと思う」と有ります。(注目すべきは「諸家にも帝紀と本辞があった」です。帝紀を持つ諸家とは、これは九州王朝を除いては他にはないでしょうし、本辞類とは『倭国古事記』と、いったものだった。 さて、天武天皇はいつ、誰から「諸家に伝わっている帝紀及び本辞の類」を聞いて、あるいは見て、その結果「正実に違い、多くの虚偽を加えたものになっている」と判断したのでしょうか。 『日本書紀』天武10年(681)3月17日 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子( ー691)・忍壁皇子( ー705)・広瀬王・竹田王( ー715)・桑田王・三野王( ー708)・大錦下上毛野君三千( ー681)・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大島・大山下平群臣子首の12人に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。大島・子首が自ら筆をとって記した。 この時の取りまとめられた「帝紀及び上古の諸事」の内容は極めて簡単だった。 これの結果を見て、これではダメだ。「邦家の経緯、王化の鴻基」になっていない、「旧辞を良く調べ上げ、正しいものに”偽削実定”(大和王朝の唯一の正統性)して」の必要性を強く、思い立った。 これに先立つこと、同年2月25日には「草壁皇子を立てて皇太子とし、一切の政務に預からせられた」とありますから政権の安定がなされ、時間的な余裕が生じ、そして、歴史編纂(古事記)や律令制定準備に専念することが出来たのではないかと思われます。 そのためには、常に身近に居る舎人である阿礼とのマンツーマン方式で歴史編纂となったのではなかろうか。天武天皇は『古事記』作成において、極めて濃厚に関与していたものと思われます。 この諸家に伝わっている帝紀及び本辞の類を手元において、記述内容を検討し、天武天皇の判断する真偽によって改纂を加えていったのでしょう。 本辞類とは『倭国古事記』といった類のものだった。この倭国古事記に記載されていたであろう内容を想定してみると (1)神代記のこととして天地開闢から国譲りまでを記し、 天照大神とスサノオノ命は姉弟の関係と記述されていますが、これは既に九州王朝側(『倭国古事記』に先だって『出雲古事記』なるものが存在したと思う。出雲神話の段階では天照大神とスサノオノ命は語られる時間帯が違っていたと思う。)に立った説話になっていた。で、ないと大和の地で創作された神話(古事記)と考えた場合には出雲神話や筑紫神話が語られることの出来た可能性はほとんど無かったでしょうから。(出雲神話は出雲の地で語られ、筑紫神話は筑紫の地で語られていた。それらを結合する際に天照大神とスサノオノ命は姉弟の関係と記述された。しかし、そこには大きな矛盾が生じている) (2)人の世のこととしてニニギ命による天孫降臨から約290年間(倭人の2倍年暦で580年間)15〜20代程の各王名(帝紀類)とその事績が述べられていた。 それらを、大和を基点とした物語へと時代と場所を変え、主語を替えて、改纂したと同時に、大幅なカッテングが為された。そのカッテングを示すものがホホデミ命一代による580年間の統治記述でしょう。 それを阿礼に記憶させた。そして、記憶保持の意味から何度も、何度もその記憶を反芻した。その過程で、この物語自身が文学的にも洗練なものになっていった。 これらの事業は天武15年(686)9月9日崩御によって中断された。天武の死をもって、2〜9代(いわゆる欠史8代)の説話、仁賢天皇以降の説話欠落が生じた。これまでに、天武の視点にたった「説話精査」が行われていなかった。 それから、約二十五年後、和銅4年9月18日(711年)には、日本書紀にいう「一書」類や百済系史書を入手していた元明天皇からの命令で太安万侶が稗田阿礼(この時53才か?)の記憶していた旧辞を聞き取って書物化して翌年1月28日(4ヶ月ほどでまとめあげ)その際の、この聞き取ってからの日本語の漢字表記方法の難しさを述べ、上梓されたものが『古事記』。 日本書紀について 5、上梓された『古事記』を見て、元明・元正天皇はじめ時の大和朝廷の人々は(その上層部の人達も)不満だった。その不満を埋めるものが『日本書紀』作成(720年)の動機になったようです。そして『日本書紀』の完成を待って、古事記が捨てられた。一つの王朝に違う内容が書かれている歴史書が並列して存在することなどあり得ません。 この不満の最大原因は『古事記』における @外交交渉記事の希薄さ(卑弥呼・倭の五王・多利思北孤等の記載) A大和王朝の発展史 ・・・それをいかに取入れ組み立てるか・・・これが『日本書紀』の最大テーマになった。 その骨格部を「倭王武の上表文」を基に構成した。・・・・・ 天武天皇在位(672-686)以降720年この間、なんと云っても701年の大宝律令の発令による大和朝廷の樹立と九州王朝の滅亡があります @大和王朝の正当性・絶対性の確立と唯一性 Aかって、九州王朝が存在した Bその九州王朝に協力していた。あるいは支配を受けていたことなど元明天皇にとっては“あってはならないこと”だった。 6、日本書紀編纂過程 A:和銅7年(714) 2月10日従六位上紀朝臣清人・正八位下三宅臣藤麻呂に詔して国史を撰修させる。 (続日本紀) B:養老4年(720) 五月21日、是より先、一品舎人親王勅を奉じて日本紀を修む。是に至りて功成り、紀30巻、系図1巻を奏上す。(続日本紀) と、日本書紀編纂過程を含めて極めて異例とも思える、簡単な記述になっています。(大宝律令制定における記述に比しても) @上表文・序文の記載がなく編纂目的が不明である A編纂事業に参加した者の名前が記載されていない B編纂過程や経過の記述がない・・・・・等々 さて、上のBに「是より先、一品舎人親王勅を奉じて」と記述されていますが、これは何時の事かを想定すれば和銅7年(714) 2月10日ではあり得ません。 おそらく養老2年(718)の紀朝臣清人の表彰された時以降でしょう。この時が和銅7年(714)から始まった『日本書紀』が完成に至ったものと思われます。この時には上表文や序文が既に作成されていたが、結果は反古にされた。 この養老2年(718)の『日本書紀』完成の記載が無いのはこの事実に対して大幅なカッテングがなされた。何故か?この年の養老2年(718)に遣唐使が中国から史料を持ち帰って来た。そこには、『魏志倭人伝』や『隋書』が含まれていた。その記述されているところのものと、養老2年(718)に完成されていた『日本書紀』の記述内容に大幅な相違点があった。 特に、この相違点を埋める仕事をおおせつかったのが舎人親王の果たした役割ではないかと考えます。  具体的には @ 神功皇后に『魏志倭人伝』から倭王、卑弥呼や壱與の朝貢記事を挿入 A 『隋書』から多利思北孤の外交交渉を推古期の事として、本来、遣唐使だったものを時間を遡って遣隋使と改編し『日本書紀』に記載した。 B 『宋書』から倭王武の事績(上表文)を古事記に比してより徹底させた。 これは、編纂時から完成時にかけて、書名を含めて(『日本書紀』とするか『日本紀』とするか)かなり混乱し、この混乱を解決することなく完成した。(『日本の歴史』3 奈良の都 青木和夫著 132ページでは散逸したため、と記す) 日本書紀編纂時には『一書』(書名を伏せて)・『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』・ 『日本旧記』・『魏誌(晋の起居注を含む)』・…・・等々が手元に揃い、それらを参考にして編纂しています。 魏志倭人伝にいう…… 百済記にいう……・とあるように。   さて、これらの書名を持つ本はどこから、いつ、誰の手に入ったのでしょうか。 6-1:百済系史書は673年の百済滅亡・白村江敗北による百済からの亡命者によって、もたらされた。 6-2:和銅元(708) 山沢に逃げ(亡命)、「禁書」をしまい隠して、百日経っても自首しない者は本来のように罪にする。(続日本紀) 禁書とは『一書』類や 『日本旧記』の九州王朝系史書類や外交文書類でしょう。それらを入手出来た。 6-3:開元の初(713-741)又使を遣わせて来朝する〜〜この題、得るところの錫賓尽く文籍を市(かい)海に浮んで還る。(旧唐書日本国伝) 遣唐使が持ち帰った。そのひとつに、『日本書記』引用の魏志(晋の起居注)のあったこと疑えない。 『続日本紀』には神護景雲3年(769)10月10日のこととして次のように記している。 「大宰府は次のように言上した。この府は人や物が多く賑やかで、天下有数の都会です。青年は学問をしょうとする者が多いのですが、府の蔵にはただ五経(易経・書経・詩経・礼記・秋春)があるだけで、未だ三史(史記・漢書・後漢書)の正本がなく、本を読みあさる人でも学ぶ道が広くありません。〜略〜天皇は詔して史記・漢書・後漢書・三国志・晋書を其々一部賜わった」と。 これらの史書の多くは開元の初(713-741)の遣唐使から、もたらされた史書も多く在ったであろうと思われるが、魏徴(580-643)が編纂した『隋書』や沈約(441-513)の著わした『宋書』の記載がありません。日本書紀編纂に『隋書』や『宋書』を利用していること確実なのに。これなども注意して検証が必要でしょう。『隋書』・『宋書』は大和朝廷にとって禁書扱いだったのではないか? 7、自国の歴史編纂に他国の資料を使っている理由として日本書記では、さりげなく『国記』焼失事件をあげています。 例えば皇極3年6月13日(645年)蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺はその時すばやく、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。この一文は日本書紀中なくてはならない最重要な文面でしょう。 焼けた部分をもって記録の喪失とし、その喪失した部分を外国史から補い、焼け残った部分をもって日本書紀は編纂されているとする、一種の言い訳が用意されています。 2006.4.25 記 何故に国記や天皇記が蘇我臣蝦夷の所にあるのか?又、天皇の称号が何時の時点から始まっているのか不明となっている。 その原因として考えられるのが、元々は九州王朝にその起源があるのではないか?ということ。 又、『日本旧記』という書物が日本書記に先立って存在していたようですが、「〜或いは云う、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。」・・・・・『旧唐書』日本伝からも、日本という国号の起源も九州王朝にあるのではないかと考えています。 2006.7.18 記 『国記』・『天皇記』とは九州王朝に起った表記ではないのか?という疑いです。蘇我臣系譜は九州王朝サイドに出自があると推定すると、これを、「中大兄にたてまつった」こと事態、不思議でもなくなります。又、いち早く大和に仏教を取り入れたのが、蘇我氏ということも、うなずけるではないか。 魏志倭人伝を読む 壹與の朝貢と張政の帰国      2007.1.5 1、「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上〜異文雑錦二十匹を貢す」・・・・・魏志倭人伝 さて、上の文の魏志倭人伝の文末に記述のある「張政の帰国と壱与の朝貢」は何時のことなのかを考えます。 魏志倭人伝記載の外交年譜 漢 倭→漢 漢の時朝見する者あり*1     景初2年(238)6月*2 倭→魏 卑弥呼の第1回朝貢       正始元年(240) 魏→倭 梯儁の来倭 詔書・「親魏倭王」の金印等を賜う 正始4年(243) 倭→魏 卑弥呼の第2回朝貢    正始6年(245) 魏→倭 帯方郡で難升米に黄幢を賜う     正始8年(247) 倭→魏 魏→倭 卑弥呼が魏に救援要請 張政等の来倭 狗奴国と相攻撃し合う情況を説明     ? 倭→魏 壱与の朝貢 張政を送り、因って台に詣り朝貢する 注1 具体的には建武中元2年(57)倭奴国の朝貢「漢委奴国王」金印紫綬と永初元年(107)倭国王帥升の朝貢・・・・・『後漢書』を示すこと疑えない。当然、史家として陳寿は知っていたでしょうが、魏志倭人伝には要約して「漢の時朝見する者あり」とした。これは記載対象時代が漢ではなく魏であるための処置である。 注2 景初2年(238)6月の朝貢を景初3年の間違いとするものがありますが、例えば『日本書紀』記述の「明帝景初3年6月は・・・・」明帝は景初3年元旦に死亡しているため、存在しない。日本書紀編纂者は何故「明帝景初3年6月」と記述したかと云えば魏志倭人伝を直接見ているが、その際の史料として『梁書』をも見て比較、検討をしている。その結果、朝貢は『梁書』の景初3年の公孫淵滅亡後の「戦後朝貢」こととする説の方を採用したようであるが詔書内容を検討すると詔書は明帝のものであって、同時代史料としての魏志倭人伝の記載とおり景初2年6月の公孫淵滅亡前の「戦中朝貢」であろう。以下理由。 イ、「〜太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ」とあるように、公孫淵を取り巻く包囲網をなしている中、その混乱と危険を避ける意味からも倭国の使者に配下の将兵をつけて郡から洛陽に送って行っているのも「戦中朝貢」ならばこその配慮でしょう。 ロ、景初2年12月詔書して〜金印は装封して帯方郡守に付し、下賜の品々は装封して難升米・牛利に付して〜・・・難升米等が持ち帰るよう詔書に記載されているので、景初3年に難升米らによって倭国に齎されるはずであったものが、実際は正始元年(240)に郡使の梯儁が来倭して金印・詔書・下賜の品々を渡すことになったのは、景初3年元旦に明帝の突然の死によって、一切の諸行事は中止され、難升米等は帰国する。正始元年(240)になって再開され、倭国に帰国している難升米等に代わって郡使の梯儁が来倭し詔書・金印・下賜の品々を齎した。 すなわち、詔書は魏志倭人伝に記述されているとおりの景初2年12月の明帝による詔書である。【景初3年12月の少帝(代筆)の詔書ではない】・・・・この事からも景初3年銘のある鏡は卑弥呼の貰った鏡ではない、と云える。・・・・・ 魏志倭人伝では壱与の朝貢記事が何時のことか記載がないのは、単なる記載漏れではなくて、執筆対象時代が「魏」であるため「晋」の時代である泰始2年(266)は書かなかった。 これは倭人伝文頭の「漢の時朝貢する者あり」と文末で晋の時の「壱与の朝貢」が対となっていて、その中に挟まれた魏時代を記述した陳寿の筆法は見事です。 A:泰始の初め、使を遣わして訳を重ねて入貢する・・・・・『晋書』倭人伝 B:神功66年・・・起居注に武帝の泰初2年10月、倭の女王が重訳して貢献したと記している・・・・・『日本書紀』 C:壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上・・・・『魏志』倭人伝 上のA・B・Cとも同一のことを指し、泰始2年(266年)のことである。 2、正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの19年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えたのは嘉平元年(249)司馬懿クーデターの成功による曹爽の誅殺にあるのではないかと思う。 すなわち、倭国サイドの嘉平元年のクーデタの評価が司馬懿への不信感が生じたのではないか、と考えています。これが後々までに尾を引くことになり泰始2年(266年)の朝貢までの17年間の外交(朝貢)途絶と、その後の倭国外交に大きな影響を与えた。 他国(魏)の困難や災難を自国(倭国)のチャンスと受け止めた外交展開をするには、当時の倭国の首脳達は魏朝に傾き過ぎていたのだろう(卑弥呼は間違いなく魏朝に、取分け思いもかけない明帝からのプレゼントの数々に心を奪われていた?・・・。 3、正始8年(247年)の来倭から泰始2年(266年)の帰国まで伊都国に常にとどまって、倭国を観察していたであろう張政の『倭国報告書』を参考に魏志倭人伝は書かれている。因って、その内容は細部においても正確に実情を把握することが出来ている。 卑弥呼と狗奴国       2006.12.10   2007.2.14加筆 「女王に属さずに、素より和せず」と記述されている狗奴国の男王卑弥弓呼やその官の狗古智卑狗とは如何なる存在だったのか、又如何なる理由で相攻撃し合っているのかを推定します。 その骨格は @狗奴国の反乱か A狗奴国からの倭国に対する侵略・征服戦か Aだと思う。 すなわち、狗奴国は倭国を構成する(卑弥呼の共立)三十国の一国ではなくて、魏に通じていない。倭国30国に対する狗奴国の戦いであって、それゆえに魏に軍事支援を求める必要が生じたのだろう。女王国の邪馬壱国と狗奴国の戦いである単なる内乱・反乱とは違う。それが「女王に属さずに、素より和せず」である。 1、・・・・・張政は狗奴国王及びその官の狗古智卑狗とも対談(外交交渉)している。その外交交渉はいかなるものであったかは大変興味のあるところです。 @正始八年(247)〜塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。 A政等、檄を以って壱與を告喩す。 さてさて、張政の来倭に至る発端となった卑弥呼の魏朝への救援要請に対して、何故、要の卑弥呼へ檄がないかを問うと張政が来倭に至る直前に卑弥呼が死んでしまっていたからではないのか。そして、張政は卑弥呼に会うことなく「卑弥呼の葬儀」を目撃することになった。 さて、上の@Aの檄の内容は如何なるものであったかを推定すると、卑弥呼側の要求は狗奴国に勝利することであったが檄の内容はそれを満たすものではなく、第一に魏朝の利益を引き出すものだった。と思う。端的に云えば何よりも、魏と倭国の共通の敵国としての「呉朝」の存在確認や朝鮮半島(韓)の安定化のために倭国を活用したいのだろう。 当然のように狗奴国から勝利したい倭国側は不満であったろうと思われる。その違いによって生じたであろうギャップを埋めようとするものが、告喩(さとす)の意味なわけです。魏朝側から見れば倭国と狗奴国との相攻撃しあう状態は「いざこざ」に過ぎなかったのだろう。 差出された「黄幢」を観て狗奴国サイドはさすがに攻撃をして来なかったと理解して良いと思う。倭国と狗奴国の間に入った、この魏朝の黄幢はすなわち、「停戦」のシンボルとなったと思う。・・・・・そしてそれは実行された。 倭国における張政の役割は九州の地(伊都国)にあって「呉朝動向の収集と監視」と「倭国・狗奴国の停戦監視」ではなかろうか。 2、卑弥呼側の倭国と狗奴国との戦いはどのように決着したかは魏朝滅亡を受けて、魏のシンボルである「黄幢」も既に役割を終えて、「停戦」も終焉に至ったと思われる。そして晋の泰初(始)2年(266年)張政の帰国となった。 その後は『隋書』に記載されているように「・・・魏より斉・梁に至り代々中国と相通ず・・・」の倭国に吸収合併されて消滅していった。 3、狗奴国の位置 A:〜次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、男子を王となす(魏志倭人伝) B:女王国より東、海を度ること千余里、拘奴国に至る(後漢書倭伝) 上のAとBを比べてみると『後漢書』編纂者の范曄は『魏志倭人伝』を観ていて、その中で「〜次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり」についての境界の尽くる所が理解することが出来なかったと思う。 そこで、それに代えて「女王国の東、海を渡る千余里、又国あり皆倭種なり」の記載から特に「皆」に注目して、狗奴国は倭人伝の中にある事実からも、倭種との理解の基に、女王国より東、海を度ること千余里に拘奴国ありと簡略に記述した。 狗奴国の位置を探すポイントは女王の境界の尽くる所を先ず、調べあげることだろうと思う。 卑弥呼を共立する国々     2006.11.23 倭人の国々の中でも、卑弥呼を共立して中国(魏)に朝貢してくる国は三十国である。その倭人の代表者として卑弥呼は倭王(倭国王)であると認められ「親魏倭王」の金印が授与された。使訳所通三十国は親魏倭王を構成する国々が三十国であるという意味である。 倭人の国と倭国の領域 国名 戸数 王・官等 倭人の国 倭 国 三 十 国 狗邪韓国 記述なし 記述なし 旧百余国 対海国 千余戸 大官:卑狗 副:卑奴母離 一大国 三千許家 官:卑狗 副:卑奴母離 末盧国  四千余戸 記述なし 伊都国 千余戸 王:(王名の記述なし) 官:爾支 副:泄謨觚、柄渠觚 奴国 二万余戸 官:凹馬觚 副:卑奴母離 不弥国 千余家 官:多模 副:卑奴母離 投馬国  五万余戸 官:彌彌 副:彌彌那利 邪馬壱国 七万余戸 女王の都する所:卑弥呼・壱与 官:伊支馬 次:彌馬升、彌馬獲支、奴佳[革是] その余の 旁国21国 戸数と道里は遠絶にして得て詳かにすべからずと記述 狗奴国 記述なし 女王に属さず、素より和せず 男王:卑弥弓呼 官:狗古智卑狗 倭種の国 女王国の東、渡海千余里又国あり皆倭種 侏儒国 倭種の国の南、女王を去る四千余里 裸国 黒歯国 侏儒国の東南、船行一年して至る さて、魏志倭人伝によれば ■伊都国について 1、王のいる国として「邪馬壱国(女王卑弥呼)・伊都国(王名不明)・狗奴国(男王卑弥弓呼)」の3国ですが、伊都国の官・副は伊都国王から任命された官(爾支)・副(泄謨觚、柄渠觚)ではなくて、邪馬壱国の女王(卑弥呼・壱与)から任命され、派遣されたのでしょうが、官と副の名前が記載されているのに何故か!伊都国王の名前が記載されていない。 これは、「〜伊都国〜世有王皆統属女王国〜」の世が今ではなくて旧のこと、すなわち後漢時代には既に伊都国王の不在時代になっていたからではなかろうか?これが「〜世有」であって、「〜世々有」となっていない理由であると同時に、王名の記述が無いことからも言えるのではないか! かっては伊都国と邪馬壱国の両国との共同統治の王が其々にいたのが、今は(卑弥呼の時代)には男弟がいて政治を助けている兄弟統治時代へと移り変わった状態なのだろう。これが上の「皆」の意味であると思う。 2、この伊都国は「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記述されていますが、その理由はここで、常に郡使が旅の疲れを解き、皇帝の名代として、倭王との会見の準備を整えた。一方、倭国側もその間に使節との会見準備等を行った。その迎賓館といったところ。倭国の首都である邪馬壱国と郡使の常に留まる伊都国は遠からず、近からずと云った相互依存の位置関係にあるということです。 伊都国が九州で邪馬壱国がはるか彼方の「大和の地」にあったとするなど、およそ成立するはずもありません。 特に「常に留まった人物」としては正始8年(247年)に倭国の要請によって来倭し、魏から晋へと禅譲されて泰初2年(266年)帰国した張政等であろう。 3、伊都国に治していた一大率とは元々は一大国の軍事集団であり、天孫降臨時に一大国に天(海人)族集団が結集して、筑紫の日向に侵入した。その、伝承と伝統の中にある軍事集団であって、この一大率が諸国を検察すると同時に諸国はこの一大率を恐れるのは、この軍事集団が倭国内部に向けて治安維持部隊に特化されているからではなかろうか? 卑弥呼が住する宮城には精鋭の親衛隊が常に警護していたが、この身辺護衛の他に一大率は内乱などの反乱のリスクを避ける意味からも邪馬壱国から一定の距離(反乱と救援)を保つ位置の伊都国に治していたのだろう。 ニニギの天孫降臨は歴史事実を反映いていると考えています。紀元前2世紀頃九州筑紫の地にあって「鉄」という今までにない新たな武器と、「帆船」という機動力を得て先住の民である倭人を圧倒し征服支配した。このニニギが卑弥呼・壱與の始祖。と、このHP製作者は考えています。 ■倭国三十国について 国名や戸数(戸・家)官、副の名前が記載されていますが、これらの情報は正始元年(240)と正始八年(247)に来倭した郡使の梯儁や張政等による倭国内での活動内容を記した『帰国報告書』を基に陳寿によって取捨選択された内容なのでしょう。 戸数は倭国の国力の総体を示すものであり、納税・徴兵・兵糧の基礎となるものですから、なにをおいても第一に調査した。 そもそも納税・徴兵・兵糧によって得られる収益というか、利益は誰のものになるのか?といえば、「王」のものになるということではないか?すなわち「伊都国王」と「邪馬壱国王」と「狗奴国王」の三者であり、それを再配分することによって、支配権を確立していた。・・・と中国(魏・晋)からは見えていたものと思われます。それが倭人の「王」と記述された。 三十国の国名は張政が倭人の案内を得て、倭国内を探査した結果、倭国は「山島」であると新たな認識を得た。 A:楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う(漢書地理志燕地) B:倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて、国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり今、使訳通ずる所三十国(魏志倭人伝) 前漢時代では、「海中にある百余国」という認識だったものが、魏晋時代になって「親魏倭王」を共立した倭国は「海中の山島よって三十国の国邑となしている」と新たな認識になっている。 そして @「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり皆倭種なり、また侏儒国あり、その南にあり、〜〜女王を去る四千余里」 A「南、投馬国に至る水行二十日」 B「会稽東治の東にあるべし」と理解できた。 その理由は、特に魏と敵対している呉朝との関連について呉からの攻撃に備えたり(そのため、九州の西海岸の探査を含む)、東[魚是]人との交易路を含めて綿密に調査したでしょう。 C: 会稽海外、東[魚是]人有り、分かれて20余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う(漢書地理志呉地) この東[魚是]人について、張政は「呉」との関連を軍事上からも知る必要があって、かなり詳しく実態を調べた。『後漢書』にはこの東[魚是]人が記述されているが、『魏志倭人伝』には記述がないのは、卑弥呼の時代には既に滅亡していたのではなかろうか?だから記述がない。 @ABから云えることは張政達が九州を海上から一周し、その実施探査の結果、倭国は「山島」であると、理解するに及んだ。 「倭の地を参問するに海中洲島の上に絶在し、あるいは絶え、あるいは連なり周施五千余里ばかりなり」や「次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、男子を王となす」はその具体的な様子を記したもの。 官・副の名前はその探査時に対談した相手だった。 ■狗邪韓国について 正始元年(240)に来倭した梯儁は韓国内全行程を陸行して洛東江の河口にある狗邪韓国に立ち寄ったものと思われる。 狗邪韓国に戸数と官の名前が記載されていない。これは、張政は狗邪韓国経由で倭国に来ていない。ということ。急を要するということもあって、韓国西海岸〜対馬〜壱岐〜筑紫を水行して、最短コースを来たものと思う。すなわち、「戸数と官の名前」のデータソースは張政の報告書だと思う。 ■その余の旁国21国 その余の旁国21国は遠絶と記述されていますが、これは実施探査した張政の「帰国報告書」に記載されていなかった結果、その理由を遠絶と陳寿が理解した?・・・・・ 国名記載が可能だった理由は「卑弥呼の上表文」に卑弥呼を共立した三十国の国名が記載たれていた?・・・・・可能性の中のひとつでもあるでしょう。 ・・・・「倭王、使に因って上表し、詔恩に答謝す」 ■末盧国について 末盧国に官や副が居たか、居なかったのか・・・記述されていない理由は、記述漏れなのか、それとも、元々ここには官も副も居なかった。すなわち、邪馬壱国の直轄領だったのではないか。 「郡の倭国に使するや皆、津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に訪らしめ差錯するを得ず」、この「津」の場所は末盧国の港であって、目録を基に魏の船から降ろされた「文書・賜遺の物」をチェックして確認した。この役割を果たしているのが邪馬壱国から派遣された「漢字読解能力」のある役人ではないか。倭国内において外交交渉権や交易利権の厳しい監視機構を当時の国際港として末盧国に集約していた。と、すると末盧国は邪馬壱国の直轄領であるが故に官・副が不在であった、と思われる。 卑弥呼以死大作冢 1、「死」の用語の用い方 崩:天子の死に用いる ?:君主の死を忌みはばかっていう言葉 薨:諸侯の死に用いる 卒:大夫やしもべの死に用いる 死:身分の無い者の死に用いる        晋の史官だった陳寿は「親魏倭王」である卑弥呼といえども、卑弥呼の死は単なる「死」という文字しか用いていない。 ・・・・改めて文字使いというか、中華思想の厳しさを知る・・ 2、「以死」について @もって死す・死するをもって・死んだので Aすでに死す ここでは@の意味で 「卑弥呼が死んだので、*1大いに(盛大に)冢を作った」と、訳す。 註*1:大きな冢ではない。(作大冢でない) 註*2:「冢」と「墳」の使い分けや違いを明確にした上で論議することが今後の課題なんだろう。 3、冢について @「冢」の大きさは・・・径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。 A〜その死には棺あるも槨なく、土を封じて冢を作る。 これは冢の形状は円形でその直径は百余歩。これをメートル換算すると25メートル程度の円形の冢(墳ではなくて)で棺とは甕棺のことで、北部九州にある弥生時代の土で封じられた「甕棺墓」、徇死者百余人に囲まれて、その中に「朱丹」に彩られた身体の卑弥呼が眠っている。 倭人は元々海洋の民であって、「鯨面文身」は水禽の難を避けるためのもの、と同じように「朱丹」はいかなるものなのかを考えると、倭人の原郷は黒潮の流れ来る先の「常世の国」すなわち、スンダランドにあって、その地への「あこがれや回帰としての赤い肌合い」にあるのではないかと思う。 4、長さの度量衡 1里=300歩 1里=76〜77メートル(『周髀算径』の一寸千里の法によれば1里は76〜77メートルとなる。)の周以来の度量衡が存在する。 一寸千里の法 周の地で夏至の日の南中時に、地面に垂直に立てた八尺の周髀の影の長さは一尺六寸である。南に千里の地にあっては影は一尺五寸、北に千里の地において影は一尺七寸である。因って八尺の周髀に対する影の差一寸は地上の距離にして千里にあたる。 上によれば 卑弥呼の墓径百余歩は 100歩≒25メートルとなる。 魏晋朝の時代には上に記した短里が使われていた。自郡至女王国万二千余里を「短里」でひも解いていくと魏志倭人伝記述の里程誇張説は成り立たない。 女王の都する所 ■自郡至女王国万二千余里 1、「郡より女王国に至る万二千余里」は総距離数で7千余里+5千余里 2、「郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴(ヘ)て乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」(魏志倭人伝) 上の文の「その」は倭を示す。すなわち、倭の「北岸狗邪韓国」に到る〜であって、それ以外の読みはない。そしてこの狗邪韓国に着くと郡から女王国までの全行程のおおよそ6割方を済ませたことになる。 3、「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり周旋五千余里ばかりなり」 周旋とは曲がりくねった部分をも辺周として加えて(省略せずに)計測する計り方、ここでは魏使の歩みのままの軌跡どおりという意味で、その具体的な行動は イ、対海国では〜居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く道路は禽鹿の径の如し〜 ロ、一大国では〜方三百里ばかり。竹林・叢林多く〜 ハ、末盧国では〜山海に浜うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え水深浅となく皆沈没してこれを取る〜 上のイ、ロ、ハの現地に即したリアリティのある記述内容は正始元年(240)来倭した郡使・梯儁の『報告書』を基に記述されたものであろう。その行路を陳寿は周旋と表現した。 倭地五千余里のうち、狗邪韓国から末盧国までの海を渡る距離数は3千余里(直線距離)であるから、女王国までの倭地の陸地は周旋して残り2千余里ということになります。 これによって、マクロ的に女王国を俯瞰すれば、北部九州に存在する。 □ 「女王国=邪馬壱国=北九州」説をさらに補強するものとして、「女王国の東、海を渡る千余里また国あり、皆倭種なり。」この海は千余里からも関門海峡でしょう。 □ 「また、侏儒国ありその南にあり。人の長け三、四尺。女王を去る四千余里(倭種の国からは三千余里)」と、あって侏儒国=四国内と思われます。 □ さらに、この侏儒国の東南船行一年で黒歯国・裸黒があるとの記述からも、東南方向に大海が広がっているわけです。このような状況は北九州説を一層補強します。 そして北部九州の中でも、上の要件を満たす場所を絞り込んでゆけば女王国はここにあった、ということができます。 「倭人は〜山島に依りて国邑をなす」この記事は倭人からの伝聞ではなくて、魏使の現地踏査の結果の認識ですから、山島とは九州を示す以外はない。・・・・・・本州が島であるとの認識は未だにこの時点では至っていなかったわけですし「山島に依りて国邑をなす」の山島と言えば九州以外には無いではないか!と、思っています。 上で、述べてきたように「大和説」は最初に大和ありき!なんだと思う。これを基に魏志倭人伝を読む。 これが、邪馬壱国にあらず「邪馬台」国=「やまと」説なのでしょう。この具体的な解読方法が帯方郡から女王の都する所までの行程に「水行十日陸行一月」の日程を入れて計算するわけです。 しかも南を東に原文を改定までしています。(そうしないと大和にはたどり着けない? ・・・・魏使が実際に自分達が行動した(進行)40日間づっと東を南に進行していたのだと間違えることなど、あり得ないことです。 この誤りの本質は「郡より女王国に至る万二千余里」を含む三国史全体の里程の解析を行っていないことにある。そのことによって、「最初に大和(ヤマト)ありき」の論たてが可能になっている。 ■「郡より倭に至るには@海岸に循って水行し、A韓国を歴(ヘ)てB乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る」の解読 「水行十日陸行一月」は韓国内は全行程陸行説を支持する。 「南、邪馬壱国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月」帯方郡から女王の都する所まで一万二千余里の総距離とし、他方、帯方郡から女王の都する所までの総日程が水行十日陸行一月である。とする古田武彦説がもっとも合理的だと思う。 このように読解すると、必然的に魏使達は韓国内の全行程を陸行したことになります。そうで、ないと「歴韓国」の韓国を経て、という道程が存在しないことになる。 夜間や暴風時の避難先として、港に立ち寄ったとしても、それを指して歴(へる)とは言わないだろう。 そればかりではなく、倭国内においても最大限陸行しております。 (1)陸行区間 @韓国内の全行程と狗邪韓国まで。具体的なこの陸路行程は漢江から洛東江沿った当時のメインロードをジグザクに南に東にを繰り返しながら東南方向へ進み、洛東江の河口付近である狗邪韓国に到着した。これが「韓国を歴(ヘ)て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る」の意味である。 その結果、「その?廬國、倭と界を接す」・・・韓伝(弁辰)と、認識することができた。この情報源は正始元年(240)に来倭した郡使の梯儁の帰国報告書類だろうと思う。 (この界を接すとは「韓の土地」と「倭の土地」が隣接して境界をなして存在している状況を説明している文面だと思う) A対海国島内歩行 B一大国島内歩行 C末盧国から女王の都する所までの陸路 @〜Cを合わせて所要日数が陸行一月である。 (2)そして、水行区間は @帯方郡から韓国に入るまで「海岸に循って水行」 A狗邪韓国から対海国までの海路 B対海国から一大国までの海路 C一大国から末盧国までの海路 @〜Cを合わせて所要日数が水行十日である。 従来、この韓国内は全水行して、狗邪韓国に至ったとする説で占められていましたが、この説の不合理性は狗邪韓国に立ち寄る必然性がないことですが、 韓国内全行程陸行説にたてば洛東江沿いにある狗邪韓国に立ち寄ること必然です。 (3)帯方郡から狗邪韓国まで全行程水行したとすると、韓国は方四千里とあるから帯方郡から韓国(水行)+四千里(西辺)+四千里(南辺)で八千里以上となって七千余里にならない。すなわち「韓国内全水行」説は元々、成立不可能です。 更に云えば、帯方郡から韓国を歴て(水行)+韓国内陸行としてルート2*4千里=七千余里 帯方郡から韓国(水行)+五千六百里=七千余里 帯方郡から韓国(水行)=千四百余里 これが韓国内全行程(北西から南東へ進む)陸行説の論理性です。この論理性を最初に誤読して、水行と理解したのは『後漢書』編纂者の范曄(398-445)ではないかと思う。 これは 楽浪郡徼〜拘邪韓国=五千余里(魏志倭人伝では帯方郡から狗邪韓国まで七千余里)とし、拘邪韓国の位置を朝鮮半島の南西部に置いたのは楽浪郡徼〜拘邪韓国の行程を水行と理解したための記述であって、間違いである。 朝鮮半島南部に倭地あり 「3世紀以前から6世紀にかけて朝鮮半島南部に倭地があった」とする説です。と共に、そう考える理由を記しました。 ■中国史資料から A: 「楽浪郡徼を去るその国まで万二千里、その西北界の拘邪韓国から七千余里」 (後漢書倭伝) で、あるから楽浪郡徼から拘邪韓国(朝鮮半島の南西部とする。倭国から観ると西北部であり、拘邪韓国は倭地であるとしている)まで五千里。この五千里は水行しているとする文面です。 B:「郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴(ヘ)て乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」(魏志倭人伝) 上のAとBの文面(その北岸は倭の北岸を示す)は朝鮮半島南部に魏・晋から宋に至るまで倭地があるとする陳寿(233-297)と范曄(398-445)の共通の認識の上に書かれた文面となっている。 これを前提にして、『宋書』倭国伝(沈約:441-513)の倭王武の上表文を読むと「朝鮮半島南部には東アジアに承認されていた倭地があった」と無理なく読めます。 C:「自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す」とあり、これに対して、詔して「武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に徐す」とあって、百済が除かれていますが、『宋書』夷蛮伝は高句麗・百済・倭国となっていますから当然でしょうが、宋に承認された、「朝鮮半島南部に新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の倭地」があった。(新羅は倭国領と記述されていることは注目点でしょう) このHPでは倭の五王は近畿天皇家の内の誰なのか?と云う理解はしていません。もちろん、倭王武は雄略天皇である、とも思ってはいません。詳しくは「倭王武の上表文から見えてくる倭国発展史」をご覧ください。 D:韓は帯方の南にあり東西は海を以って限りとして、南は倭と接し方四千里ばかりである。・・・・・(魏志韓伝) 上の文の南は倭と接し、の「接する」とは土地と土地が接し境界をなしている状態を云うのであるから朝鮮半島に倭地ありの「直接証言」文でしょう。そうでないとすれば、東西は海を限りと同じように、南も海を限りにしていたと表現されるでしょう。 E:「〜その?廬國、倭と界を接す」・・・・・韓伝(弁辰) 正始元年(240)魏使の梯儁が来倭するに当たって韓を歴て朝鮮半島の北西から南東へ向けて洛東江沿いに陸行し、狗邪韓国に着いた際にその経路上にあった国が?廬國である。この国が倭と接しているわけです。朝鮮半島南部に倭地があり、狗邪韓国は倭国を構成する一国である。 邪馬壱国か邪馬台国か?    A:「南、邪馬壱国に至る、女王の都する所」・・・・・魏志倭人伝 B:「国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬台国に居る」・・・・・後漢書倭伝 さて、邪馬壱国か邪馬台国か。『後漢書』の編纂者の范曄は何故に邪馬壱国を邪馬台国に変えたのか?を考えます。 A:『三国史魏志倭人伝』のすべての版本は邪馬壱国であって、邪馬台国との記載例はまったく無い。 「台」は当時、天子の宮殿を指し示す至高文字であって、中華思想に基づいた、卑字の大海の中で、東夷の倭人の国名に使用されることなど、有り得ない。 (参考:「因詣臺、獻上男女生口三十人・・・・・・」(魏志倭人伝) よって、3世紀当時の国名は三国志魏志倭人伝記述のとおり、「邪馬壱国」が正しい。 三国志全版本の全用例調査結果、壱と台の文字の類似性による、写し間違えもなかった。 B:現存する版本では、『三国志魏志倭人伝』の国名は確かに邪馬壱国であるけれども、『後漢書』を始め、それ以降の中国正史は邪馬台国であって、邪馬壱国との記述のものは一切無い。 『隋書』では「邪靡堆に都す、則ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」と、あるように、魏志には邪馬台の記述があった。 故に今は現存しないけれども、三国志魏志倭人伝にも邪馬台国と記載された版本・写本があって、それを基に『後漢書』以後の正史は記述された。と、考えられる。原本が存在しない以上、「邪馬台国」として支障がない。 さて、A)かB)か・・・?それとも?・・・やはり「台」という天子の宮殿を指す至高文字で蛮夷の国名を表すことは無いと思う。 もし、邪馬台国が正しいと論じるならば、現存する『魏志倭人伝』の版本はなぜ、邪馬壱国だけの表示なのかを併せて論じるべきでしょうね。それを欠いた後追いの理由付けの「邪馬台国」論が多すぎる。 「〜政等の環るを送らしむ。因って台に訪り、男女生口三十人を献上し〜」・・・・・魏志倭人伝 上の「台」を『魏志倭人伝』岩波文庫版54ページでは魏都洛陽の中央官庁と解説しているが、これは明らかに違う。中央官庁ではなくて天子の宮殿である。朝貢は天子(ナンバー1)にして初めて意味が生じるのであってこの、「中央官庁説」解説はいただけない。 (男女生口三十人以下の貢ぎものは天子への貢ぎであり、魏朝(晋朝への朝貢)という国家への貢ぎではありません) 歴史の謎をひも解いて真相を突き止めるためには、「邪馬台国=ヤマト国」と読むからの決別が必要でしょう。 後漢書には注意書きとして邪馬台国の直後に「今、名を案ずるに邪摩惟(やまい)音の訛なり」とあり、本々「ヤマト」とは読んでいない。 倭人の二倍年暦 ■魏略曰「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」 上の文は春から秋までを1年・秋から春まで又1年春から春までを2年と数える倭国の二倍年暦ですが A:其の人の寿考或いは百年或いは八、九十年。(魏志倭人伝) これと対のなる記事のその痕跡が『日本書紀』・『古事記』でも記すように歴代の天皇の””長寿”記載だと思う。(例えば、応神130才・仁徳64才・允恭78才・雄略124才・・・・古事記) 仲哀天皇崩御52歳、在位9年 神功皇后崩御100歳、在位69年 以上「日本書紀」記述 この、年齢からして当時(仲哀時代)は倭国固有の二倍年暦が採用されていたと思われ、実年齢は仲哀は26歳、神功は50歳で崩御した。 応神天皇の出生に関しても、この二倍年暦で解けば仲哀天皇の死から5ヶ月経って誕生したことになり、何ら不思議とするものではありません。 この様に日本の古代では二倍年暦が実際に使用されていた。 この2倍暦の発見者は正始8年(247)に来倭した張政が13歳の女王壱与の後ろ盾(後見人)として、壱与と関わりの中から、その13歳の少女が成長していく過程で、倭人の暦は二倍年暦となっていると発見した。その張政の『倭国報告書』が情報源の可能性は極めて高い。(以下1、2が理由) 1、張政の来倭が正始8年(247)、帰国が泰始2年(266)で、19年間倭国に滞在し、壱与と関わりを持った。・・・・・『すべての日本国民に捧ぐ古代史ー日本国の真実』古田武彦著 2、『日本古代国家の成立』直木孝次郎著72ページでは張政の帰国と壱余の朝貢は250年ごろとしているが、その根拠は示されていない。壱与の朝貢が魏朝ならば魏志倭人伝に年号記載がないのはいかなる理由なのか?の説明は必須でしょうね。 3、壱与と張政は親子程の年齢差?で、張政は教師役も担っていた。その結果、壱与は直接張政と会話が出来、文字も読め、当時の倭国きっての国際派・知性派に成長していった。と考えています。特に張政が帰国の際には、使者二十人つけて送っていることからも壱与の張政への思慕の深さが偲ばれる。壱与13歳に出会って32歳での別れである。 今でも、この二倍年暦は各神社の主要な行事として行われている6月30日、12月31日の晦日に行われている大祓えにその残像が今日まで引継がれている。 ■「不知正歳四節」について アジアモンスーン地域にあって、春夏秋冬に恵まれ日本固有の自然美を持った日本文化の基底に豊かな四季がありますが、3世紀、魏使の見た倭人の世界は四季の伝統や生活様式では無くて、むしろ、一年を耕・収の二期に分ける生活形態を持っていたようです。 これは元々倭人は、この日本列島の住民ではなくて南方系海洋の民の「春耕秋収為年紀」の地帯から、その北限地帯である日本列島への移住者なのだろうと思われる。倭人の原郷は黒潮の流れ来る先にある「常世の国」そんなイメージが浮かんできます。 この様に、倭人の世界では「二倍年暦」が使用されていて、実際に『古事記』や『日本書紀』にも「二倍年暦」を前提とした説話として語られているということを考慮して紐解くことが必要です。 それでは、何時ごろまで二倍年暦が使用され、太陰暦に切り替わったのは何時ごろか?を検討してみます。 ■暦について   各新聞社のニュース(2003.2.27)で石神遺跡(奈良県明日香村)から持統3年(689)3月と4月の暦を表裏に1週間分書き写した木簡が見つかったと報道されました。 現物の暦としては国内最古の宋で作成された元嘉暦。これまでの日本最古の暦は城山遺跡(静岡県浜松市)で出土した神亀6年(729)の儀鳳暦木簡。 日本書紀等から暦について検討すると ・欽明14年(553)暦博士の任期が切れたので交代の博士を派遣するように百済に使者を送る。 ・欽明15年(554)百済から暦博士固徳王保孫らに交代する。(前年の要請に対して来日) ・推古10年(602)百済から観勒という学僧が暦本・天文地理書・遁甲方術の書をもって来日。暦法については玉陳という人物が習う。 ・持統4年(690)元嘉暦(宋の元嘉年間に出来た暦)と儀鳳暦(唐の暦で儀鳳年間に伝わったもの)の併用して使用する。 ・文武元年(697)儀鳳暦を採用する。(続日本紀) とあり、いくつかの疑問が生じます。 @欽明14年以前には既に暦が伝わり使用されていたものと思われます。しかしその記述がない。 でないと暦博士の交代など生じないでしょうから。日本書紀編纂者は当然疑問にも思い調べたのでしょうがそれは記載されなかった。 では暦が初めて伝わったことが日本書紀に記載がない理由は何故でしょうか? A持統4年の勅で元嘉暦・儀鳳暦の併用使用。・・・・同一時間帯に同一場所での併用は大混乱を生じるだけであり、これはありえないでしょう。 ・・・本来は儀鳳暦の使用を大和の地で初めて使用したものと思われます。それまでは元嘉暦が使用されていた。それが今回の石神遺跡から出土した木簡が語っているようです。 5世紀宋との交流は「倭王武の上表文」によっても覗えますが、その交流の結果、暦についての認識とその必要性が生じ宋で作られた元嘉暦の使用が始まったものでしょう。 倭王武は「ひそかに自ら開府義同三司を仮し」と、云っているわけですから、その実行には暦を宋に合わせなくては三司の義を同じくすることはできません。 倭王武〜多利思北孤に連なる倭國・[イ委]國王朝が元嘉暦の使用を始めていた。その事実のうえに記載された、元嘉暦・儀鳳暦の併用使用記事ではないか! そして文武元年倭國(九州王朝)を併合し統一した大和王朝が全國に向かって配付したものが「文武元年(697)の儀鳳暦を採用」と考えます。 隋書?国伝を読む  ?国の首都 『隋書』?国伝から大業四年(608)、?国の多利思北孤と裴清とが会談した?国の首都はどこにあったのか?を記します。 ?国の首都 1、 A:?国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において、山島に依って居る。 B:魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国〜 C:古よりいう「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして会稽の東にあり、?耳に近し」と・・・・・『隋書』?国伝 上のA、B、Cとも要約すれば『魏志』倭人伝でいう3世紀の「卑弥呼の倭国」と同一国と云っています。 百済・新羅の東南で水陸三千里といえば九州の竹斯国。 これを通常の理解である「大和」とすれば百済・新羅の東が妥当であって東南とは云えないのではないか? さらに、大海の中・・・・・この大海は東シナ海で山島によっての・・・・・この山島は九州?四国?本州?と問えば九州以外にないでしょう。(本州が島であるという認識は隋使には未だもっていなかった・・・・・隋使の認識は瀬戸内海沿岸まで) Cの文面と「〜郡より女王国に至る万二千余里〜」・・・・・の『魏志』倭人伝を比較すると卑弥呼の都も多利思北孤の都も同じ場所にある。といえる文面となっている。これが魏徴の認識でもあるわけです。 D:百済を度り、行きて竹島に至り、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、はるかに大海の中にあり。又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る〜〜又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆?に附庸す。 竹斯国が『隋書』で初見ですが、博多湾を中心とした筑紫であり、後の筑前と筑後を合わせた規模の国であろうと思われる。ここでいう、十余国のひとつひとつの国の規模(大きさ)は竹斯国という標記からも、肥・豊・長門・周防等々・・・・といった国々ではなかろうか。 ですから、「又十余国を経て」は九州内にはとても納まりきらない国の規模であり、東という方向から云っても瀬戸内海に臨む国々であろう。 「又十余国を経て海岸に達す」の記述は隋の使者の裴清が?国の国家規模(支配領域)を知る上でも、現地踏査して調べまとめた、その帰国報告書をみて魏徴が編纂したものと思われる。 さて、Dの文面から?国の首都をひも解くキーワードは「附庸」。?国を附庸していない国は竹斯国・一支国・都斯麻国でこの中心が竹斯国すなわち首都となるわけです。が、マクロ的には先のA、B、Cの文面から既に多利思北孤の都は卑弥呼の都でもあったといっているわけです。 E:?王、小徳阿輩台を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け鼓角を鳴らして来り迎えしむ。後十日、また大礼哥多○を遣わし、二百余騎を従え郊労せしむ。既に彼の都に至る。 さて、裴清を迎え出た所はどこ? 「〜又十余国を経て海岸に達す」この海岸に小徳阿輩台以下が迎え来たかと思ったがそうではなくて、竹斯国の海岸に迎え出たわけです。この海岸近辺に迎賓館があり、ここから「彼の都に至る」・・・・これが本テーマの結論。 で、なければ他国の陸路を案内もなしには進めるはずもなかった。 これを近畿の難波津と見た場合『日本書紀』に記述されているように、まず難波津には飾船で迎え、大和川を遡上して海石榴市で船を降りて先に迎えに来ている飾り馬で迎えられる。・・・・・つまり難波津から大和の海石榴市までは大和川を遡上する水行(船行)行程があるわけです。この意味からも「彼の都=大和」ではあり得ません。 「阿蘇山あり」とする文面から?国の首都を有明海沿い或いは肥後(熊本)とする説を見受けますが、 「行きて竹島に至り、南に[身冉]羅国を望み、都斯麻国を経て、はるかに大海の中にあり。又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る〜〜又十余国を経て海岸に達す。 竹斯国より以東は〜」とあって、竹斯国から東を示していて有明海或いは熊本のある「南」を記述していないってことが重要です。 しかも、竹斯国から肥後(熊本)では隣接する国であってこの間に十余国など、どこにも入り込む余地の空間など無い。 竹島・[身冉]羅国・都斯麻国・一支国の国名が記載されているにも関わらず、肥後等(大和も)の国名など、どこにも記述されていない。この無記載の国名が?国の首都に成り得る理由など、どこにも無い。 「?国の「首都=肥後や大和」説は最初から成立していないのだ。 2、秦王国とは? A:「〜都斯麻国を経て、はるかに大海の中にあり。又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る〜(略)〜又十余国を経て海岸に達す」 B:「?王は天を以って兄となし、日を以って弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねん」     A、Bとも『隋書』「?国伝」より この?国は↑に記したような兄弟統治の政治形態をとっていて、王は?王(兄)と秦王(弟)の二人がいたわけです。その弟が統治する国を秦王国と云っていたのであろう。 しかも、かなり中国化をしていた。 1、その第一は仏教を取り入れていたこと。仏教の文字は漢字であり、読み(読経)は「呉音」によって発声されていた。 2、「内官に十二等あり」とし、冠・服装等隋の制度を取り入れていた。 3、「正月一日に至るごとに、必ず射戯・飲酒す。その余の節はほぼ華と同じ」この?国の生活の様相はほぼ、中国化していたことが読み取れます。 1〜3の記述は隋の使者である裴清が?国滞在中(1年以上2年弱か?)に見聞したことの報告書類を参考にして記述したものであろうが、「秦王国」と称しているこの国を「以って夷洲(徐福が蓬莱の神仙を求めて東夷の洲(島国)に渡ったと伝わっているあの洲)じゃないか?と、疑って見たが、明らかにすることはできない(できなかった)」と、記述されている。・・・・・これは?国の後裔達は徐福の子孫ということではありませんよ。って、(子孫であるならば、私達は徐福の子孫ですよ、と証拠品の提示と共に裴清に語ったことでしょう)ことでしょうね。 それよりも、多利思北孤は秦の「始皇帝」を知っていて、その上で「秦王(国)」と名乗っているわけです。このことからも自らを「天子」と称している意味がわかってきます。 しかし、中国サイドは天子など、決して認めていない。それが「?王」であり「その妻」 との表示であるわけです。 倭国(?国)の中国化の始まりは、倭王武の昇明2年(478)の朝貢の際の上表文に「窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸な仮授して、以って忠節を勧む」・・・・と記述され、倭国府として三司の儀式を執り行うために暦をこれまでの倭国二倍年暦から宋で行われていた、「元嘉暦」を取り入れたこと当然ではなかろうか?・・・・・そのほかにも「上表文」に見られるように漢字の導入等々、数々の中国化(その人華夏と同じ)のあったことが伺えます。 3、 「山島と阿蘇山」&「大海と魚の眼精」 A:倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす・・・・・『魏志』倭人伝 B:倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす・・・・・『後漢書』倭伝 C:?国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において、山島に依って居る。・・・・・『隋書』?国伝 3世紀の倭国は7世紀初頭の?国は同じ「山島」・・・・即ち九州島。 さて、上のA〜Cの記述のように、歴代の中国の歴史編纂者が感じた、倭国の特徴の中に「大海の中」と「山島」にありますが中でも、裴清一行の見た倭国の風景の中に噴煙をあげている阿蘇山があります。 「その石、故なくして火起こり天に接する者、俗以って異となし、因って祷祭を行う」かれはそれをどこで見ているのかといえば阿蘇山の西に広がる台地に立って見ているようです。山島によっている?国の首都から倭人の案内をうけて、説明を受けた印象の強かった火山噴火を記録して報告した。 「如意宝珠あり。その色青く、大きさ鶏卵の如く、夜は即ち光あり、いう魚の眼精なりと」裴清はその如意宝珠と阿蘇山を?国の迎賓館から?人の使者から説明を受けて見ている。 『日本書紀』に仲哀天皇2年に「〜皇后、豊浦津(山口県下関市)に泊りたまう。この日皇后、如意珠を海中に得たまう」とあり、翌年には橿日宮に住まっていますから、裴清の見た「如意宝珠」はこの時のものでしょう。 1、山島を特徴的に示すものが「噴火する阿蘇山」 2、大海を特徴的に示すものが「如意宝珠のような青玉で魚の眼精という」 この二点を書いたのは大海の中の山島を?国の象徴的なこととして、裴清の『帰国報告書』の中から特に選んで魏徴は記述したのだろう。 多利思北孤と裴清の会談 多利思北孤と裴清の会談内容が『隋書』に記載されています。 (概略) 多利思北孤 : 我聞く、海西の大魏礼義の国ありと。〜〜我は夷人、海隅に僻在して礼義を聞かず。 〜我は夷人、海隅に僻在して礼義を聞かず。これを以って境内に稽留し、即ち相見えず〜 裴清 : 皇帝、徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以って行人を遣わして来らしめ、ここに宣諭す この後に、敵国となる可能性のある?国の支配領域や軍事能力、納税構造や統治組織等の調査を行ったものと思う。 その結果が 1、「又東して秦王国に至る〜〜又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆?に附庸す」という支配領域がわかり、 2、 「軍尼が百二十人あり、ちょうど中国の牧宰のようである。八十戸に一伊尼翼をおくが、今の里長のようなものである。十伊尼翼は一軍尼に属する」等々の統治組織の情報を直接見聞して知り得ることが出来た。 そして、来倭目的も達して 裴清 : 朝命既に達せり、請う即ち塗を戒めよ 上の会談内容を吟味すると、大業3年(607)の国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々〜」と裴清との直接応対の差が余りにも大きい。 @海西の菩薩天子・日没する処の天子を大魏礼義の国と言い。 A日出づる処の天子を我は夷人、海隅に僻在して礼義を聞かずと謙遜する。 1年の間にこの大きなギャップの差は何によって生じたのか。 そして大業4年(608)の裴清の帰国をもって突然に"此後遂絶"と「国交断絶」があります。 一体・・・この間に何がおきたのかを推定すると、この裴清との会談結果いかんによっては、煬帝の武力を伴う実力行使があると危機を感じ取ったからではないか。 それを避けるため隋との外交方針の大幅な軌道修正ではなかったか、と思います。 先の大業3年(607)の国書記載の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや〜〜」が東アジアの国際舞台で、いかに通用しないことだったかを実感したことでしょう。 これを、『隋書』琉球伝から見ると @ 大業4年(608)朱寛に琉球国を慰撫するよう命じたが琉球国は従わなかった。 A よって、琉球国の兵士の布甲を取って還る。 B この布甲を、この時に遣隋使として来朝していた?国使に見せる。 C ?国使、これ「夷邪久国人の使用するものなり」と言う D 更に、陳稜に命じて慰諭するが、琉球国は従わず逆に隋軍を拒む。 E 陳稜、琉球国を撃走し都に軍を進め、その宮室を焼き払い男女数千人を虜にして、軍船に積んで還る。 この情報が琉球国から?国の多利思北孤の元に届けられた。他方、隋に来朝していた遣隋使達からも、この情報が多利思北孤の元に届けられた。これを聞いて「?国を攻撃する意図あり」と驚愕したのではないか。そして、外交路線を軌道修正するに至った。 具体的には @ ?国から倭国へ冊封体制下の国名に復した。 A 国内の防衛体制を一層強固なものに固めた。 B ?国の背後にある、関東・蝦夷との友好な関係保持に努めた。 この様に内部を固めながら琉球国とともに国交断絶に進展して、此後遂絶に至った。 もしも、大業3年(607)の国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々〜」がなければ、琉球国の兵禍も無かったかも知れない。と、思います。 多利思北孤と裴清の会談とは、「琉球国の兵禍は煬帝が多利思北孤に刃を突き付け、多利思北孤がそれを鋭く感知した」そういうこと。「其國境 東西五月行 南北三月行各至於海」という?国の「言い分」の一端に、琉球国があったという風に見なされた結果ではなかったか。この隋との外交は裴清の一方的とも言える勝利におわったようです。それを示すものが裴清の「宣諭」であり、それを不満とする?国の「此後遂絶」でしょう。 ?国の領域・東西五月行 南北三月行を解読する 「其國境 東西五月行 南北三月行各至於海」・・・・・『隋書』 この領域を探ります。 「夷人里数を知らず、ただ計るに日を以ってす」とあるように東西五月行 南北三月行は倭人(多利思北孤或いは?国の首脳部)からの伝聞ですが、これは船行すると東西五月間を要し、南北は三月間かかるという意味であり、これは支配領域と言うよりも「海東の天子菩薩の徳が行き渡っている範囲」と考えているエリアを示すもので、東西は九州からアムール川の河口までの日本海を囲む交易圏。 南北は百済の北辺から沖縄(琉球)までの東シナ海を囲む交易圏であり、東西・南北のクロスする所が九州であり、海洋国家?国の首都すなわち自称するところの「日出ずる処の天子=海東の天子菩薩」の居するところ。この南北軸の一端に琉球国があり他方の一端には百済があったのではなかろうか? このように隋と対比して考えないと自称とは云え「天子」という発想自体が生じないではなかろうか!・・・・と思う。 東西五月行 南北三月行」の想定エリア図 隋書東夷伝記載の国々 高麗・百済・新羅・靺鞨・?國・琉球國 多利思北孤が「天子」と自負する背景として 1、政治は律令体制が始まり 2、元号を持ち(例えば「法興」) 3、十二等の官位があり、身分秩序があって 4、時を支配する暦を持ち 5、貨幣制度を備え 6、統一された?國の度量衡等が存在していた。 そして海西の菩薩天子と呼びかけている姿と数十名の沙門派遣に仏教による国家統治をめざしていることが偲ばれます(自らは海東の菩薩天子?)。 これは589年の南朝陳の滅亡による衝撃とその南朝への依存(特に仏教)を克服し自立の歩みを始めた結果ではなかろうか。 阿毎多利思北孤 1、阿毎の多利思北孤は聖徳太子ではない 「開皇20年(600)、?王あり、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩?弥と号す。〜(略)王の妻は?弥と号す。後宮に女6、7百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利となす」・・・・・隋書?国伝 『魏志倭人伝』でいう、卑弥呼の宮城で婢千人を侍べらせる、という伝統を規模を幾分縮小して継承していますが、ここでは後宮という比較的私的な空間での祭祀へと変質しているようです。この祭祀に代わって、仏教への帰依を深めています。 「仏法を敬う。百済において仏教を求得し、始めて文字あり」と記述されていますし、沙門数十人に仏法を学ばせています。多利思北孤自身は「結跏趺坐」して理務を執っていたようです。 開皇20年は推古天皇の8年にあたって、阿毎の多利思北孤は推古天皇のことかと問えば推古天皇は女性であって、『隋書』と『日本書紀』の間には何とも奇妙な・・・・というか齟齬がある。今回はこの結跏趺坐する「阿毎の多利思北孤」の人物像について記します。 この、「阿毎」は天(あま)であり、本来の意味は玄界灘の島々を原点とする「海人」であろう。『古事記』に記す、高天原(たかまがはら)・天神(あまつかみ)・天の下・天降る・天の石戸・天の安川・天の香具山・・・のように。 『中国正史日本伝(1)隋書倭国伝』石原道博編訳岩波文庫版では注書で、多利思北孤は多利思比孤で天足彦という一般天皇の称号であろうとしている(67ページ)。 多利思北孤を多利思比孤と改編しているけれど、多利思北孤は天子を名乗っているわけで、一般天皇の「多数の中のひとつ」ではなくて、天子という「たったひとつ」という唯一性を名のっているってことの視点が重要です。左の意味を大切にして、同時代史料である『隋書』原文どおり「多利思北孤」で扱います。 「大業3年(607)その王、多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。〜その国書にいわく、日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無きや、云々と。」・・・・・隋書 上の文のように多利思北孤は自らを菩薩天子と呼び、日出ずる処の天子とも名乗っています。この「天子」を唐の視点からは、隋書編纂者の魏徴(580-643)は当然の如く、皇(帝)の呼称など許すはずもなく、単に「王」と記述しています。又、その「妻」であって「后」ではありません。東夷の国の王が肩肘張って天子と名乗った理由は南朝陳の隋による滅亡があったからだろうと思う。 陳を引き継ぐものはこの?国であるとした強い自覚と、隋のライバル視があったのではないか?その心が「日出る処の天子」になったものでしょう。 ・・・・しかしこの外交姿勢は失敗したようです。それを示すものが「その後、遂に絶つ」ってことで総括されていることです。 その後とは大業四年(608)?国の首都での多利思北孤と隋使裴清との会談後であって、これ以降、隋との外交を止めたことが、その後の国家(九州王朝)の存続に大きな影響を及ぼすことになっていくのだが・・・・。 2、卑弥呼と多利思北孤の祭祀 『隋書』?国伝に、多利思北孤は卑弥呼の後裔だと明記され(魏より斎・梁に至り代々中国と相通ず) @「〜卑弥呼と名づく、能く鬼道を以って衆を惑わす。〜その王、侍婢千人あり〜」 A「王の妻は?弥と号す。後宮に女6、7百人あり」 との記述があって、卑弥呼の「鬼道」の祭祀は多利思北孤にあっては、後宮である「妻」に委ねられて執り行われていたのではないか?それが、後宮の「女6、7百人あり」の意味であろう。 これに対して多利思北孤は深く仏法に帰依していました。大業三年(607)には沙門数十人を派遣して仏法を学ばせています。自らは「海東の菩薩天子」という自覚を持っていた。 さて、この卑弥呼から引き継がれていた鬼道と、仏法を敬うという宗教上のトラブルや背後にいたであろうそれぞれの宗教の支持者間の不満や齟齬は?国にあっても有ったのだろうか?との問いが生れます。『隋書』にはその記述は見られませんが、今後の課題です。 多利思北孤は九州王朝の天子(自称日出る処の天子)だと考えているので、『日本書紀』記述の廃仏派と推仏派の争いとは別に九州王朝内においても、それに類する争いはあったであろうと想像されます。 「男女多く臂に鯨し、面に点し、身に文し水に没して魚を捕う」とあって『魏志倭人伝』の記述の鯨面文身と一致をみます。「多く」とあって「皆」ではないので、この風習も徐々に変化していることを感じさせます。「仏法」を取り入れた影響が表れ始めたかな?・・・そんな事が感じられる一文です。 『隋書』?国伝に、多利思北孤は卑弥呼の後裔だと明記され(魏より斎・梁に至り代々中国と相通ず)ている。このことから、多利思北孤は多利思比孤が正しく聖徳太子であるはずであり、その都の所在地は大和に決まっている。だから魏に朝貢した卑弥呼の都も大和にあること、間違いない。・・・・大和説は、こう思考しているのだ。 だが、?国の首都は大和ではなくて筑紫にあったんです。 3、多利思北孤は上宮法王 1、多利思北孤 『隋書』には大業三年(607)隋に朝貢し、その国書に「日出る処の天子」との記述があり更に多利思北孤の使者の言として隋の煬帝を「海西の菩薩天子」と呼びかけています。 自らは「海東の菩薩天子」との自覚に達しているほどに仏法を敬い、帰依していたからこその菩薩天子なのでしょうがこの自覚はどのようにして自覚に至らしめたのか? 多利思北孤自らが「日出る処の天子」と記し、煬帝を「日没する処の天子」呼べる程の自負する背景として、 1、政治は律令体制が始まり 2、元号を持ち(例えば「法興」) 3、十二等の官位があり、身分秩序があって 4、時を支配する暦を持ち 5、貨幣制度を備え 6、統一された?國の度量衡等が存在していた。 そして、その領域を「その国境は東西五月行、南北三月行。それぞれ海に至る」とする広がりがあると、その支配圏を述べています。これが天子の自覚の背後にある多利思北孤の拠り所とするものでしょう。 このように、既に中国(南朝)化していた。そして海西の菩薩天子と呼びかけている姿と数十名の沙門派遣には仏教による国家統治をめざしていることが偲ばれます。 そして?國内において、卑弥呼時代からの「左治天下」の伝承であろうが、「天を兄とし、日を以って弟と為す」という、兄弟統治の形態をもっていたと『隋書』は記します。そして、「天未だ明けざる時、出でて政を聞き跏趺して座し、日出れば便ち理務を停め〜」とも記されている。結跏趺坐している菩薩天子像が偲ばれます。 2、上宮法皇 『日本の歴史−2 古代国家の成立』(直木孝次郎著中公文庫)141ページには「法隆寺金堂の本尊釈迦三尊像の光背銘がある。これによると、この像は聖徳太子が622年に病気になったので、王后や王子が平癒を祈って造像に着手したが、太子は同年2月に世を去り、像は翌年の癸未の年623年3月に完成した〜」 と記しているがこの像は「聖徳太子」を記しているのではなくて「上宮法皇」である。 一般的に聖徳太子が日本において仏法を広めたとされているが、『隋書』や「釈迦三尊像銘文」の誤読によっていると思われるので、下に記したい。 釈迦三尊像銘文<読み下し> 『法隆寺の中の九州王朝』著:古田武彦 235ページから --------------------------- 法興元31年、歳次辛巳(621)十二月、鬼前太后崩ず。 明年(622)正月二十二日、上宮法皇、枕病してよからず。 千食王后、よりて以って労疾し、並びに床につく。 時に王后・王子等、及び諸臣と共に、深く愁毒を懐き、共に相発願す。 「仰いで三宝に依り、当に釈像を造るべし、尺寸の王身、此の願力を蒙り、病を転じ、寿を延べ、世間に安住せんことを。若し是れ定業にして、以って世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らんことを」と。 二月二十一日、癸酉王后即世す。 翌日(二月二十二日)法皇、登遐す。 癸未年(623)三月中、願の如く、釈迦尊像ならびに侠侍及荘厳の具を敬造し竟る。 斯の微福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出て死に入り、三主に随奉し、三宝を紹降し遂に彼岸を共にせん。六道に普遍する、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。 使司馬・鞍首・止利仏師、造る。 ---------------------------------------引用ここまで @「鬼前太后崩ず」の太后は天子の母親であり、その死を天子の死である「崩」で表示している。推古天皇の死を「崩」で表しても、聖徳太子の母親の死を「崩」で表示することはない。 A「王后」は天子の正夫人である。 @・Aまでの用語の示すところは天子であって、太子(聖徳太子に用いる用語ではない。太子の夫人は妃であって后は使用できないこと道理ではないか)すなわち、法皇とは佛法の帰依した天子の意味であり、隋書でいう「日出る処の天子(海東の菩薩天子)」でもある。 B法興元31年は元号である。上宮法皇の在位期間は591〜622年であり、多利思北孤の在位期間を含んでいる。(600〜608) C上宮法皇の死亡年月日は622年2月22日であり、聖徳太子は621年2月5日に死亡。(『日本書紀』推古29年春2月5日夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去された。〜この月、太子を磯長陵に葬った) 上宮法皇(その死を「登遐」と記す)と聖徳太子(その死を「薨去」と記す)では死亡年月日が違う。 @〜Cからも 「上宮法皇は多利思北孤であり、聖徳太子ではない」ということが確認できる。 さて、「癸未年(623)三月中、願の如く、釈迦尊像ならびに侠侍及荘厳の具を敬造し竟る」と記されている、この「尺寸の王身」と刻まれ、僧衣をまとっている上宮法皇の法隆寺釈迦三尊像は建立されたばかりの「法興寺」に安置されたはずである。 『日本の歴史−2 古代国家の成立』(直木孝次郎著中公文庫)142ページには釈迦像は法隆寺の本尊になっているのだから、像のできた623年(推古31年)の前後には建立されていた、と考えられる。と記すのだが、不思議にも『日本書紀』に法隆寺建立の記事はないのはどうしてか?・・・・不記載理由も明確化する必要がありそうです。 『日本書紀』に法隆寺の創建記事がないのは、↑にも書きましたが 「釈迦三尊像」は元々、法隆寺の本尊ではない、ということなんだろう。「多利思北孤の首都は筑紫にある」とし、大和の聖徳太子ではないとする説では、もともとは九州の地にあった法興寺から、大和の地の法隆寺に持ち込まれたものが今日の「釈迦三尊像」の姿である。と、考えます。 その際に釈迦三尊像だけでなく、九州(筑紫)にあった法興寺の伽藍ごと、移築したのが今日の法隆寺だと・・・・そう考えています。 4、多利思北孤と裴清・推古天皇と裴世清 1、多利思北孤と裴清の会談 大業4年(608)煬帝の命を受けて隋の文林郎裴清が?国に来ます。その時の多利思北孤と裴清の会談内容が『隋書』に記載されています。その概略を先ずは下に記す。 <多利思北孤> 「我聞く、海西の大魏礼義の国ありと。故に遣わせて朝貢せしむ。我は夷人、海隅に僻在して礼義を聞かず。これを以って境内に稽留し、即ち相見えず〜〜願わくは大国惟新の化を聞かんことを」 日出る処の天子であるはずの、多利思北孤はここでは我は夷人で、海の隅っこの僻地にあって、礼儀知らず者です。そのために、あのような前年の国書を送ってしまったのです。と云うような言い方(訳)を裴清に言っているわけです。 海東と海西にあった、二つの「世界の中心」のひとつである海東の日出る処はどうした!と、チャチャを入れたくなります。 <裴清> 「皇帝、徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以って行人を遣わして来らしめ、ここに宣諭す」 この会談で裴清は多利思北孤に向かって、?王である多利思北孤よ、あなたが、煬帝を慕うので、私がこの?国に来て諭すのです。皇帝の「徳」は全世界に広がり影響を与えるものです。?王よ!わかりますね。・・・・というような意味を述べて、「天子は煬帝だけであって、お前は天子ではない」と言っているわけです。 ですから、『隋書』では?「王」であり、「后」ではなくて、その「妻」で表記されているわけです。裴清の来?目的は「天子呼称など決して許さない・・・・ってことを言に来た。それに対して、震え上がった多思利北孤像(優れた感知能力です)が浮んできます。 それを、多利思北孤はこの会談で、しっかりと掴み取って、「其後遂絶」に記されているように裴清の帰国を使者を付けて見送り、合わせて朝貢して後、国交を断絶するに至った。 大業3年(607)の遣隋使派遣から1年後の裴清へのこの応対の変化と、「其後遂絶」理由をはっきりさせることが、歴史を解明することになると思うのだが下記に示すように極めて曖昧です。 2、推古天皇と裴世清 『日本書紀』に記された、大唐に派遣された遣隋使?を列挙してみると @推古15年(607)(第1回遣隋使)大礼小野妹子を大唐へ派遣、鞍作福利を通訳とした。 A608年、小野妹子が裴世清(鴻?寺の掌客)と下客12人を伴って帰国。妹子、煬帝からの国書を紛失したことを奏上する。 B推古16年(608)(第2回遣隋使)小野妹子を大使、吉士雄成を小使として派遣、鞍作福利を通訳とし、裴世清らを送る。学生や学問僧のあわせて8人を唐に送る。 C609年、小野妹子ら大唐から帰国、通訳の福利は帰らず。 D推古22年(614)(第3回遣隋使)犬上君御田鍬・矢田部造を大唐に派遣 E615年、犬上君御田鍬ら大唐から帰国 『日本書紀』編纂担当者は推古26年(618)高麗の使者が「隋の煬帝が三十万の軍を送って攻めたが、かえって高麗軍によって破られた」といった、と記述しているように、唐の建国は推古26年の618年であり、推古15年〜推古22年の建国もしていない「唐」への遣使などあり得ないことなど十分に知っているのに、なぜか、上のように安易な「大唐」への遣使の記述となっています。 また、推古8年(600)の遣隋使記事が『日本書紀』に見当たらないのは、阿毎多利思北孤という男(帝)王の存在を隠すためには必須であり、そのためにカットした。 推古16年(608)の裴世清と推古天皇の面会場面を『日本書紀』では、次のように帰します。 @二人の案内を受けて、唐の進物を庭先に置き、裴世清は「煬帝の国書」を以って言上する。それを終えるとその国書を案内役の阿倍鳥臣が受け取り、推古天皇(帝)の前の机上に置いてこの日の会見を終わる。この時の裴世清の立ち位置は庭先にあって、極めて異常な対面描写になっている。何が異常かといえば端的に言って、裴世清には推古天皇の姿もみえず、声も聞こえないという舞台演出になっているわけです。・・・・・この不思議さ・異様さは何故か・・・日本書紀編纂者の編纂姿勢が伺われる一文です。 日本書紀に煬帝の国書として「皇帝、倭皇に問う。使人長吏大礼蘇因高等、至りて懐ひを具さにす。朕、宝命を欽承し、区宇に臨仰す。〜(略)」を言上した旨の記載がありますが、この国書のポイントは「宝命」の用語にあって、王朝の一代にこそふさわしいが、二代以降の帝位の継承者には用いる用語ではない。 ここで、煬帝の国書とされているものは、「唐の高祖」の国書である。・・・・・法隆寺の中の九州王朝(225ページ)古田武彦著---------------ここまで 推古朝の遣隋使とされていた歴史像は、実際は遣唐使であった。 『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎著 では上の「宝命」の用語検討など一切なく、「推古朝の遣隋使」で終わっているのも、天皇家一元主義という名の、天皇家以外に王朝なしの思考結果なのだろう。残念ではある。 A裴世清の帰国するにあたって、推古天皇が国書をもって言上し、慰労する。 裴世清と推古天皇の会見はこの2回であるが、簡単な記述で終わっていますが、この会見内容からいえば、7世紀もまた女王の国であったと、必ず記述されたであろう『隋書』記事は形を変えて、その内容の要所要所に『隋書』内容が散りばめられている。 さらに、この裴世清との会談や接待に或いは隋への外交方針であるはずの遣使計画の参加に「聖徳太子」や「蘇我馬子」の姿が見えません。 さて、上に記した@ABCDEの本来のあるべき記事は「隋」への遣使ではなくて、『日本書紀』記述どおりの「大唐」への遣使です。それを『日本書紀』は12年程遡って記述している。・・・・何のためにか?『隋書』記述にあわせるためです。 『隋書』には大業4年(608)に「其後遂絶」と記述されていますが、推古22年(614)「犬上君御田鍬・矢田部造を大唐に派遣」する記事を載せて混乱しています。 ここに、7世紀初頭日本列島を代表する王朝(王権)は大和王朝ではなく、九州王朝である。とする「九州王朝」の実在性がクローズアップしてくるわけです。 『日本書紀』編纂担当者と『日本書紀』プロジューサー(舎人親王)間で意思の疎通が生じているのを感じます。 本来の遣唐使であった小野妹子らの派遣を12年遡らせて「隋」のこととしたのは『隋書』?国伝記述に合わる、という舎人親王サイドにたった編集方針からではないのか?その意図するものは「九州王朝隠し」以外にはないと思う。 日本書紀編纂完了間際に大和朝廷は『隋書』を入手し、それまでに記述されていた内容に、『隋書』記事に合うように変更と編集を加えた。その際の残滓が上に述べた「大唐」への遣隋使記事であろう。 元々は、唐への遣使(618年以降の推古天皇の遣唐使)と推定する者の立場からすると、推古22年(614)の第3回遣隋使は本来、推古34年(626)の黎明期の大和王朝の遣唐使です。 『隋書』では九州王朝の隋への遣使、『書紀』では大和王朝の唐への遣使であり、遣使時期も違うものを書紀編纂者は同一記事として扱ったからの混乱の要因だった。・・・けれども、最も重要なことは書紀編纂者が「九州王朝隠し」を書紀成立の最大テーマとしたことに真の原因がある。この実行の責任者が舎人親王の任命(役割)だった。と、考えます。 従来から多利思北孤と会談した裴清と推古天皇と会談した裴世清は同一人物としていますが、 @隋の使者の役職は文林郎であり名前は裴清A唐の使者の役職は鴻?寺の掌客で、名前は裴世清であってこの両者は同一人物か?単に隋書の方が信頼できる。或いは日本書紀の方が信頼できる(どちらかが間違っている)ということとは別に再考が必要です。 5、裴清と裴世清の滞在期間 1、推古16年(608)に裴世清は小野妹子等に随行されて、学生・学問僧を伴って帰国することになるが、この間、大和滞在は約1月間である。この時の遣隋使(?)は推古16年か又は推古17年(609)の早々であろうが、裴世清の帰国先は「唐」。日本書紀の年代は再検討が必要です。 (『日本書紀』の遣隋使は、元々「遣唐使」のこと。それを改竄している。) 2、他方『隋書』では大業4年(608)多利思北孤と裴清の会談の後、人を遣わせて「朝命雅に達せり、請う即ち塗を戒めよ」として、使者をして清に随い来って方物を貢せしむ。と記述されている。 さて、この遣隋使は何時のことか?については「?国伝」には記述されていませんが、帝紀にある大業6年(610)の正月の遣使(?国の出発は大業5年)のことではなかろうか?(?=倭であろう例えば倭奴国=?奴国となっている) すなわち、裴清は?国に1年以上滞在していた。 裴清の「朝命」とは、多利思北孤への宣諭と同時に滞在中に?国の支配エリア(国力)を調べつくすことにあること当然ではないか! @、「軍尼1百20人あり、なお中国の牧宰のごとし。80戸に1伊尼翼を置く、今の里長の如きなり。10伊尼翼は1軍尼に属す」 A、「〜竹斯国にいたり、また東して秦王国に至る。〜また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆?に属す」 上の1、の?国の統治方法や2、はその支配領域の東西軸の東の端部を瀬戸内海の突端である難波であることを突き止めた。・・・・・ そういう意味をもつ文章表現である。 1、2、は同一の事件か?と問えば元々別のこと、1、は「唐」代の大和王朝と唐の外交であり、2、は九州王朝と隋の外交であるが『日本書紀』編纂者は『隋書』を見た上で、同一のこととして、九州王朝の存在したことを隠蔽した。ってこと。 裴清の?国滞在1年以上を要して集められた情報を基に『隋書』?国伝は記述されている。 @死者を斂むるに、棺・槨を以ってす。 A葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを索くに、小?をもってす。 B正月一日に至るごとに、必ず射戯・飲酒す。その余の節はほぼ華と同じ。 ・・・・・・・・等々。 上のこと、裴清の報告なくしては決して記述できませんし、裴世清の1ヶ月程度の滞在でも記述不可能でしょう。 失われた?国の統治組織 1、 『隋書』(魏徴580-643)?国伝には 「軍尼が百二十人あり、ちょうど中国の牧宰のようである。八十戸に一伊尼翼をおくが、今の里長のようなものである。 十伊尼翼は一軍尼に属する」とあり この『日本書紀』に一切記述のない、或いは不記載理由の不明な軍尼?伊尼翼?とはいったい何者であろうか? 『中国正史日本伝(1)』石原道博著:岩波文庫では @軍尼:クニで国造のことであろう。 A伊尼翼はイナギ(稲置)か。伊尼冀の誤りであろう。・・・・としているのだが! 「伊尼翼は今の里長のようなもの」の今は『隋書』を執筆している時ですから里長は唐の組織形態であって、宋→斉→梁と続く南朝サイドに立った組織が伊尼翼ではなかろうか? 軍尼・伊尼翼が如何なるものかが不明となって今に伝わっていないのは、九州王朝の倭国が滅亡し大和王朝の日本国に取って代わった際に、九州王朝の統治組織が解体され記録が消滅してしまったからではないか。 『旧唐書』倭国・日本国伝に二国併用記事があり、「日本国は倭国の別種なり。〜或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」とあるように、「九州王朝」の存在の上に立って歴史を俯瞰すると軍尼・伊尼翼が歴史の中に消え去っていったと、理解できる。 2、 『続日本紀』文武天皇四年六月三日(700)に 「薩末の比売・久売・波豆・衣評(の)督の衣君県・同じく助督の衣君弖自美、又肝衝の難波、これに従う肥人らが武器を持って、先に朝廷から派遣された?国使の刑部真木らをおどして、物を奪おうとした。そこで、筑紫の惣領に勅を下して、犯罪と同じように処罰させた」との記述があり、「比売・久売・波豆・評督・助督・肝衝」等々の役職がいかなるものだったのかが不明である。 ↑いかなる人物達であったのか、今後解明されていくであろうが興味ある文面であるが、これなども「九州王朝」統治組織の残像だと仮定すれば自然に理解できる。 後漢書を読む 「倭奴国」をどう読むか?  ■「漢委奴国王」の金印 @「建武中元2年(57)、倭奴国奉朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜るに印綬を以ってす。安帝の永初元年(107)倭の国王帥升等、生口160人を献じ請見を願う」・・・(後漢書) A「倭国は古の倭奴国なり〜〜」・・・(旧唐書) B「漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時又使を遣わして朝貢す。これを?奴国という。桓・霊の間その国大いに乱れ、逓に相攻伐し、歴年王なし。女子あり。卑弥呼と名づく〜〜」・・・(隋書) C@の「漢委奴国王」(委は倭の略字)の金印は筑紫の志賀島から出土している。(出土状況は『日本の歴史』U 神話から歴史へ P176〜178)参照 このように「倭奴国」は日本の古代史の真相を突き止める中心的なキーワードです。では「倭奴」とは何を意味し、どう読むのか、?それを探ります。 通常「漢の倭の奴国」と3段国名とした(三宅米吉)のように、奴国とし、倭を大和にして、邪馬台国大和説の根拠とし、それに続く卑弥呼・壱与・倭王武・多利思北孤も大和の大王としています。 他方「倭国は古の倭奴国なり〜〜」記載の『旧唐書』倭国伝・日本国伝の二国並列記載記事を不体裁のものと、切って捨てて返り見ることがないわけです。 (たとえば中国正史日本伝旧唐書倭国日本伝・・・・岩波文庫16ページ) しかし、隋からは直接使者の裴政が(大業四年(608))来倭していますし、唐からは使者高表仁が来倭(貞観五年(631))しています。その使者が倭国と日本国の二国並列時代が実在したことを見間違っていることなどあり得ないと思います。この『旧唐書』倭国伝・日本国伝は『後漢書』倭伝と共に古代史の謎を解くキーワードです。 この倭奴国の「奴」は中華思想の表現で、本来の意味は「人」だと思います。人を貶めた表現だと。 例えば奴婢・奴隷・・・・のように。或いは「匈奴の奴」と同じ意味で或いは対として使われているかも知れません。一方では「けたたましい奴」他方では「従順な奴」と云ったような意味で。 いずれにしても「人」の意。ですから、倭奴国は本来の意味は「倭人国」でしょう。後漢書の范曄(398-445)・隋書の魏徴(580-643)や旧唐書の劉[日句](897-946)はこの「奴」=「人」の意味を良く解って記述していると思います。 三国史の陳寿は当然@で記述されている内容を知っていた。そこで、「漢の時朝見する者あり」と簡潔に漢(後漢)代の事として記載したが、明帝の詔書「親魏倭王卑弥呼に制詔す。〜〜この汝の忠孝、我甚だ汝を哀れむ。今、汝を親魏倭王となし、金印紫綬を仮し〜〜」の記述があることをもって、卑字の倭奴とは出来ずに本来の倭人と記し「倭人(倭奴とはせずに)は帯方の東南〜〜」と、魏志倭人伝の文頭を飾った。 これらのことから言えることは@〜Cで示した「倭」は大和ではなく「漢委奴国王」の金印出土の九州(筑紫)を指し示している。と云えるのではないか。・・・・・ここに、「九州王朝説」(古田説)が成立するわけです。 ■金印紫綬理由と倭国の極南界なりの意味 「楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う」・・・・・(漢書地理志燕地) 前漢時代以前の倭人は百余国に分かれて国邑なしていた。それを後漢時代の建武中元2年(57)に至って「倭人を統合」して朝貢してきたことに対して、倭人の代表(王)と認めて金印を紫綬したわけです。 その倭人は対馬海峡・朝鮮海峡を中心として、九州北部から壱岐・対馬、韓国南部にかけた領域に住んでいた。と遺跡・遺物*からも云えるわけです。その「統合の代表」が九州北部側にいたと范曄(398-445)が認識していたいう事でしょう。それが「倭国の極南界」なりの意味です。 ここで云う「倭国の極南界」とは范曄(398-445)の時代の「倭国」の呼称で、光武の時代(AD57)には倭(奴=人)国と卑字を以って呼ばれていた。 *注 遺物から見た朝鮮半島と北部九州のつながり 「倭国の極南界」のイメージ図(グリーンの輪内が倭奴国エリア) 上の理解に先立って 「朝鮮半島南部は倭地」である。へと進みます。 『後漢書』倭伝に云う「倭国の極南界なり」から想定できる倭人の領域は建武中元2年(57)時点ではかなり韓国内部に入る込んでいたのではないか。 漢の武帝が朝鮮に4郡を設置し馬韓・辰韓・弁韓等の騎馬民族の南下してくる以前は 「蓋国は[金巨]燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」・・・・・『山海経』 と、あるように倭人の生活する地域ではなかったか?と思う。 倭奴国を「倭の奴国」と理解し、『魏志倭人伝』には二つの奴国があって、一つは博多の奴国、もう一つは邪馬台国の支配圏の最南端とおぼしき奴国である。後漢書を書いた范曄は光武帝が金印を授けた奴国を後者と考えて、「倭国の極南界」という間違った解釈をそえたのであろう。・・・『日本の歴史T』神話から歴史へ 井上光貞 200ページ と范曄の誤解によって記述されている。というような上の理解はいただけない。二万余戸ある博多湾岸にあったとする奴国と遠絶にして得て詳しくわからないとする21の旁国の一つでもあり、女王国の境界の尽きる奴国(最南端かどうかはわからない)と間違えたなどと、范曄を侮って、何とも安直な理解であろうか? しかも、それが古代史学界の一般的な理解だとすれば、推論に推論を重ねる日本古代史界は病んでいると思うよ。 拘邪韓国及び「邪馬台国」の位置 2008.1.2 記 ■范曄の誤読 その1 A:倭は韓の東南大海の中にあり山島に依りて居をなす。・・・・『後漢書』倭伝 B:〜その大倭王は邪馬台国に居す。楽浪郡徼はその国を去ること万2千里、その西北界拘邪韓国去ること7千余里。・・・・『後漢書』倭伝 上のA、Bは三国志魏志倭人伝の下記の中のA’、B’、C’に依っていること間違いないだろう。 A’:倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。・・・・『魏志』倭人伝 B’:郡より倭に至るには海岸に従い水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る7千余里。〜・・・・『魏志』倭人伝 C’:南邪馬壱国に至る、女王の都する所。〜〜郡より女王国に至る万2千余里・・・・『魏志』倭人伝 後漢書倭伝と魏志倭人伝で 邪馬台国=邪馬壱国 拘邪韓国=狗邪韓国であること間違いなくて、 楽浪郡徼から拘邪韓国まで5千余里、拘邪韓国から邪馬台国まで7千余里、合わせて万2千里。 帯方郡から狗邪韓国まで7千余里、狗邪韓国から邪馬壱国(女王国)まで5千余里、合わせて万2千余里。 さて、『後漢書』編纂者の范曄は独自の視点から魏志倭人伝を誤読したうえで後漢書倭伝を記述している。 楽浪郡徼から韓国(北西)まで千余里で韓国西海岸の長さ4千里合わせて5千余里。ここに韓国の拘邪韓国があると理解した。さらに進むこと韓国の南岸4千里、海を渡ること3千里、合わせて7千里で倭国の北岸に到来し、そこが邪馬台国と理解した。これが上の文面のA、Bである。 すなわち、楽浪郡徼から邪馬台国までの距離は万2千里であり、全行程水行であると理解していて、云うならば范曄は「邪馬台国九州北岸」説である。魏志倭人伝のように「南、邪馬壱国に至る、女王の都する所。水行十日陸行一月」のような日程が記述されていません。ここには、邪馬台国大和説など入り込む余地がありません。 一方、魏志倭人伝からは帯方郡から狗邪韓国まで全行程水行したとすると、韓国は方四千里とあるから帯方郡から韓国(水行)+四千里(西辺)+四千里(南辺)で八千里以上となって七千余里にならない。すなわち「韓国内全水行」説は元々、成立不可能です。 更に云えば、帯方郡から韓国を歴て(水行)+韓国内陸行としてルート2*4千里=七千余里 帯方郡から韓国(水行)+五千六百里=七千余里 帯方郡から韓国(水行)=千四百余里 これが韓国内全行程(北西から南東へ進む)陸行説の論理性です。 この論理性を最初に誤読して、全行程水行と理解したのが『後漢書』編纂者の范曄(398-445)。 これは 楽浪郡徼〜拘邪韓国=五千余里(魏志倭人伝では帯方郡から狗邪韓国まで七千余里)とし、拘邪韓国の位置を朝鮮半島の南西部に置いたのは楽浪郡徼〜拘邪韓国の行程を水行と理解したための記述であって、范曄の魏志倭人伝の誤読の結果である。 倭国大乱 2008.1.11 記 ■范曄の誤読 その2 後漢書倭伝は魏志倭人伝を参考(下敷き)にして後漢書編纂者である范曄の独自の解読によって記述している。 A:その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。・・・・『魏志倭人伝』 A’:桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。・・・・『後漢書倭伝』 Aの文を理解するにあたって3世紀、倭人の暦は「二倍年暦」によっていたということが重要です。 1、男子王の在位7〜80年が続いた。(二倍暦によるため実際の在位は35〜40年) 2、その後、乱が起こる(歴年は2〜3年の数年という意味) 3、女子を共立して王(女王)とする これを范曄は70〜80年は倭人の「二倍年暦」になっていることを見逃し、これ程長く在位する王などいるはずもないと独断し、それに変えて70〜80年を乱の期間と理解した。そのために、この乱を大乱と理解し記述するに至った。 卑弥呼共立の時期を後漢時代とし、それよれも70〜80年前のAD150から220の頃を王もいない状態(主なし)が続いた乱の時期と魏志倭人伝には「乱」と記述してあるのを「大乱」と理解している。 桓帝の在位(147〜167) 霊帝の在位(168〜188) 上に記した様に倭国の乱を大乱と范曄が誤読した原因である「倭人の二倍年暦」は日本の古代を紐解く上で重要なキーワードです。 後漢書によって「倭国大乱」と記述する解説書(HPを含めて)が多く見受けますが、これは無批判に史料を受け入れている。ということで、注意が必要です。 会稽東冶の東 2007.1.22 記 ■范曄の誤読 その3 後漢書倭伝は魏志倭人伝を参考(下敷き)にして後漢書編纂者である范曄の独自の視点によって記述しているものが多い。 そのひとつに長さ(例えば里)が『三国志』と『後漢書』では1里の長さが相互に違うのではないか?例えば陳寿(233-297)は1里76〜77メートルで、范曄(398-445)は1里414メートルの後漢の度量衡によって記述している。のではないか? そもそもAの万二千余里とA’の万二千里は同一の数字ではあるが、実質で長さが違っている。以下はその検討です。 A :郡より女王国に至る万二千余里・・・・・魏志倭人伝 B :その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし・・・・・同上 C :有無する所、?耳や朱崖に同じである・・・・・同上  上のBの文面のポイントは「会稽の東治」にあって、その意味は、------------- かって夏后少康の子が会稽山の東の地に封じられて、その住民の海人に断髪・文身することによって、水禽(サメ等)などからの海難を避けるよう教化した。 今(陳寿の魏志倭人伝執筆時)その断髪・文身の教化、習慣は倭人にも伝わっている。(魏使の帰国時報告書に記述があった) その倭人の国の位置を計算してみると、断髪・文身説話にもなっている「会稽の東治」の東に倭人の女王国はあるはずだ。------------------ この陳寿の倭地の位置計算は1里=76〜77メートルによっている。 『三国史』魏志倭人伝を下敷きに記述した范曄の頭の中は1里414メートルであるため、倭地はもっと南の遠く離れた位置であると見間違った。それを端的に表しているのがC→C’の「有無する所、?耳や朱崖に同じ」を「?耳や朱崖に近し」と書き替えていることである。 そのために「会稽の東治」の故事をBの文面の会稽郡東冶県と東治→東冶(とうや)に改編し地名として記した。范曄も倭地の位置を計算したであろうが、合うはずもなく、その位置を大較(おおむね、おおかた)と概略であると記し、「余」を省略した。 それを示すものが下のA’、B’の文面である。 A’:楽浪郡徼はその国を去る万二千里・・・・・後漢書倭伝 B’:その地、大較(おおむね)会稽の東冶の東にあり・・・・・同上 C’:?耳や朱崖に相近し・・・・・同上 この范曄の誤読の結果、「会稽の東治」の故事に代えて、文末に「会稽の東冶の県人、海に入りて行き風に逢いて流移〜(略)〜絶遠にして往来すべからず」と「不明の彼方」の記述を書き加えた。 魏志倭人伝と後漢書倭伝では上で記したように「里の長さ」が違うのは、范曄はこのことを見逃しているってことを知って『後漢書』を読むことが必要です。 国に女子多し〜 2008.4.12記 ■范曄の誤読 その4 『後漢書』倭伝には倭国の特異なことに、倭国に女子が多いと記されています。後漢書編纂者の范曄(398-445)は何によって、或いはどんな新たな情報を基にこの記述したのか? 以下はその検討です。 A:「国の大人は皆4、5婦、下戸もあるいは2、3婦〜」・・・魏志倭人伝 A’:「国には女子多く、大人は皆4、5妻あり、その余はあるいは両、あるいは3」・・・後漢書倭伝 上の後漢書A'の記述は魏志倭人伝のAの文を基に記述されていること間違いないと思われる。 さて、上のA及びA'の違いについては 倭人の階層には大人→下戸→奴(婢)がありますが 「大人層の皆4、5婦」は魏志倭人伝と後漢書倭伝は同じ 下戸は倭人伝では「或いは2、3婦」→「1或いは2、3婦」=1の省略形 この意味は普通は一人、その(下戸)中にも2人を持つ者があり、更にその中にも3人の婦人を持っている場合もあるという意味である。 奴(婢=女性)階層は普通は使用人層の意味であって、記述は無いが一人の婦人である。がその記述がないのはごく普通の、当たり前のことであるため記述していない(省略している)ってことです。 そう云う意味であるから、倭国にあって男女構成比はあえて女子多しと言う程ではなかろう。実際、魏志倭人伝には女子多しとは書いていないわけだから。 これに対して、後漢書では倭人の階層を大人とその余と2階層のみに分け、その余を或いは両、或いは3とした為に女子の異常とも思える人数の多さを感じる結果になった。 どんな時代でも、人間の出生の男女比率に大差ない。女子多しの状況はあるとすればそれは多くの男が殺される戦乱の時代なんでしょう。後漢書倭伝には「倭国大乱」と記し、後漢時代の倭国を大乱の時代であったとする范曄にとって、その国の王が女王(卑弥呼)であり、後を継いだ壱與も女王であったことが、特異で女子の多い国と映ったのだろう。 このように「女子多し」とは「魏志倭人伝」を范曄が誤読した結果の記述であるが「女子多し」は後漢書倭伝の後に続く中国正史である『隋書』や『梁書』にも記述され、後代に強い影響を与えています。 倭国と日本国 旧唐書から 『旧唐書』には倭国伝と日本国伝との書き分けがなされていて、それぞれ別国として記述されています。『旧唐書』岩波文庫版石原道博編訳本ではこの書き分けを不体裁のこととしていますが・・・・・果たして不体裁なことなのか、それとも中国側にたった証言者として歴史のの真相を語っているのか・・・・以下はその検討結果です。 『旧唐書』東夷伝では倭国・日本国と別国として書き加えられ、不体裁なこととして評価されているようですが、私には極めて古代の真相を語っているように見えますし、改めて旧唐書の再評価をすべきであろうと考えています。 ■倭国の位置 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり。山島に依って居る〜世々中国と通ず。〜四面に小島、五十余国あり、皆これに附属する」・・・・旧唐書倭国 上の文を要約すれば、唐の時代の倭国は昔の志賀島から出土したとされている「漢委奴国王」を授与された後漢時代の倭奴国王であり、倭国王帥升であり、魏の時代には卑弥呼・壱与が、又続いて南北朝時代は倭の五王の朝貢があり、隋に到って?国王の多利思北孤がいて、ずっと中国と通じてきた。 と記述されています。倭国とはまさに、「漢委奴国王」の金印出土の地でもある九州王朝そのものです。 又、この地は『万葉集』で語られる「遠の朝廷」の地でもあります。 ■日本国の位置 「日本国は倭国の別種なり」 1、その国日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。 2、或いは云う、倭国自らその名の雅ならざるを悪に、改めて日本となすと。 3、或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。〜 〜 「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸な大海至り、東界北界は大山ありて限りをなし山外は即ち毛人の国なりと」 東界北界は日本アルプスの山々でしょう。そしてそれよりも東は関東・越で今だ支配地に至っていない。西界南界の南界は太平洋、西界は東シナ界だと考える以外にない。この時点では九州王朝を呑込んだ状態、すなわち「日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」な状態なのでしょう。 日本国の名のいわれについては、はっきりと日本国と倭国は別種と明記されています。それに合わせるかのように、この二国の領域が違うことが記述されています。 上の様に『旧唐書』では明確に倭国と日本国は空間的な違いがあると書き分けられています。 続いて、倭国・日本国の朝貢記事あり、大宝元年(701)を境にそれ以前を倭国、以後は日本国としています。雅に「日本は旧小国、倭国の地を併せたりと〜」の状況を示しています。 又、『新唐書』日本国伝では「隋の開皇末に、初めて中国と通じた」とあり、倭国とは別国であって、推古天皇以降になって初めて外交があったとの認識です。 上の倭国と日本国を地図に落として見ると(↓図) 特に、稲荷山古墳は8世紀初頭において未だ日本国に編入(支配)されていないし、江田船山古墳は倭国内領域であって、大和(雄略天皇)からの支配を受けていない。・・・これが、中国側(旧唐書)の証言するところであって細部は別に論じたい。 (注)上の地図上の×印は下記の1〜4項をプロットした。 1、文武3年(699)多?・夜久・奄美・度感(とく)が献上 2、文武3年(699)越後の蝦夷106人に身分に応じて位を授ける 3、大宝元年(701)対馬国金を献上改元する。(改元前の元号が不明) 4、和銅元年(708)武蔵国和銅献上され改元する ・・・・・等々献上が相続き、支配地の拡大が進む様子が読み取れ『旧唐書』の記述内容の正確さを再評価することが古代の真相を知る上で重要です。 『旧唐書』記述の「或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」の記述を違う視点で日本書紀・続日本紀から概観すると 1、持統5年(691) 11月1日大嘗祭(新嘗祭ではない)を行った・・・・・日本書紀 2、文武元年(697) 8月1日持統天皇から天皇の位を譲位される・・・・・日本書紀・続日本紀 3、大宝元年(701) 大宝律令の施行 とりわけ、始めて大嘗祭を行うとは九州王朝から大和王朝に天皇位が移り変ったことを意味し、祭祀権を持つ実質ナンバーワンになったってことです。(これまでは大嘗祭は九州王朝が執り行ってきた) 『旧唐書倭国・日本伝』岩波文庫著者石原道博では困惑しているようで、「四面に小島、五十余国あり、皆これに付属する」の解釈を省略しています。倭国・日本国の二国併記以外にも石原道博氏自身の理解を超えることをも「不体裁なこと」と記述しているようです。 唐代のこととして下記のように簡潔に2回の外交交渉模様が記載されていますが、これを『日本書紀』と比較検討すると、下のように一致することがありません。 1−A、 貞観五年(631)使を遣わして方物を献ず。〜高表仁を遣わして、節を持して往きてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして環る。 1−B(日本書紀から) 舒明四年(632)に高表仁が来日し翌年一月帰国した。と簡略に記載されているが、「王子と礼を争い、朝命を宣べずして環る」ようなことは記載されていない。来日年が貞観五年と舒明四年とで、違う。 2−A、 貞観二十二年(648)に至り、又新羅に附して表を奉じて、以って起居を通ず。 2−B(日本書紀から) 孝徳四年(648)に該当するような記事はない。 日本国の名のいわれについては、はっきりと日本国と倭国は別種と明記されています。それに合わせるかのように、この二国の領域が違うことも記述されているわけで注意が必要です。 日本国と唐との『旧唐書』記載の下に記した7回の交流模様を、『続日本紀』等と比較検討すると良く一致している。(詳細は『旧唐書』中国正史日本伝(2)岩波文庫参照) 1−A、 長安三年(703)その大臣朝臣真人、来たりて方物を献ず。〜則天これを麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本国に環らしむ。 2−A、 開元(713-741)の初、また使を遣わして来朝す。〜その偏使朝臣仲満(阿倍仲麻呂)、中国の風を慕い因って留まりて去らず。〜 3−A、 天宝十二年(753)、また使を遣わして貢す。 4−A、 上元中(760-761)、衡(仲満のこと)を擢んでて左散常侍・鎮南都護となす。 5−A、 貞元二十年(804)、使を遣わせて来朝す。学生橘免勢・学問僧空海を留む。 6−A、 元和元年(806)、日本の国使判官高階真人上言す。 7−A、 開成四年(839)、また使を遣わして朝貢す。 倭国の記録の有る最後の遣使が貞観二十二年(648)であり、663年の「白村江の戦い」を挟んで、55年後の日本国の最初の遣使が長安三年(703)で「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とする『旧唐書』の記述内容は日本国については『続日本紀』に良く対応し、『旧唐書』の倭国と『日本書紀』とは対応していない。 すなわち、『日本書紀』には「九州王朝の実在と滅亡」の記述が隠されている。とする仮説を矛盾すること無く、良く説明できる。 「国破れて山河あり」と聞くことはあっても、国が白村江で敗北したのち、益々と豊かになっていく『日本書紀』記述の日本国の姿を読み解くうちに、その謎がうっすらと見え出してきた。・・・・ 日本国は「白村江の戦い」の勝者側に立っていた。負けていったのは倭国。そして滅亡し、歴史の彼方に消え去っていった。・・・・・ 『旧唐書』はそのことを微かにではあるが語っていて、決して不体裁ということでは無い。 結局のところ、古より今に至るまで、日本に存在した王朝は近畿天皇家だけなのだという信念なり信仰の「大和朝廷一元主義」思想が「倭国と日本国の並列書き分け」が「不体裁なこと」と、そう観えてしまっているようである。 『新唐書』の日本国      『旧唐書』に見られる倭国と日本国の書き分けがなく、『日本書紀』をベース(注)として記載され、「日本は古の倭奴国なり〜」に始まって、旧唐書の倭国と日本国の記述内容をほぼ、合成して日本国に一本化されている。 長安元年の日本国の朝貢記事以降から貞元末までの外交記録は『旧唐書』日本国に良く一致している。 以下はその検討です。 1、「隋の開皇末に、初めて中国と通じた」とあり、これは、『日本書紀』の描く「推古15年(607)第1回遣隋使、大礼小野妹子を大唐へ派遣、鞍作福利を通訳とした」と推古紀を元に書かれていると思うが、日本国はこの時が始めての外交交渉であるとの記述であり、日本国はそれ以前の倭王である卑弥呼や倭の五王の国とは違う国であるとの『旧唐書』の記述内容になっている。 2、「永徽初」の孝徳天皇による琥珀・瑪瑙の献上を記している。これを『唐会要』では永徽五年(654)十二月のこととしている。 上「永徽初」の記事を検討すると 『日本書紀』ではこの琥珀・瑪瑙の献上記事は下のBのこと。 A、 孝徳天皇(653)四年夏五月十二日、大唐に遣わす大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒・学問僧道厳・道通・道光・恵施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聡・道昭・定恵・安達・道観・学生巨勢臣薬・氷連老人・・・すべて百二十一人が一つの船に乗った。室原首御田を送使とした。第二組の大使大山下高田首根麻呂、副使小乙上掃守連小麻呂、学問僧道福・義尚、すべて百二十人が別の一つの船に乗った。土師連八手を送使とした。秋七月、高田首根麻呂らが薩摩の曲と竹島の間で船が衝突して沈没して死んだ。 孝徳天皇(654)五年秋七月二十四日、吉士長丹らが百済・新羅の送使共に筑紫に着いた。〜筑紫は出発地(有明海側か?)であり到着地(博多湾側)なのだろう。すなわちこの遣使の主体は九州王朝なのではなかろうか。だから第二船が薩摩で沈没するという事故に遭遇したのだろうし、この月(七月)のこと、として西海使が唐の天子にお目にかかった(←意味不明、拝謁した?↓)と、筑紫に着くなり、吉士長丹・吉士駒らに恩賞を賜っている。(筑紫で恩賞授与からして、この遣唐使は筑紫で任務を終えている。この遣使は九州王朝から。) 西海使とは百済・高句麗・新羅への遣使であるから、唐の天子(高宗帝と記述しないのか?)に会うことはない。 B、 「孝徳天皇(654)五年二月大唐に遣わす押使大錦上高向史玄理・大使小錦下河辺臣麻呂・副使大山下薬師恵日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿弥陀・小乙上岡君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老・田辺史鳥らが二船に分乗した。数ヶ月かけて〜高宗帝に拝謁した。東宮監門郭丈挙は、詳しく日本国の地理と国の初めの神の名などを尋ねた。皆、質問に対して答えた。押使高向史玄理は大唐の地で死んだ」 〜 「斉明天皇元年(655)八月一日河辺臣麻呂らが大唐から帰った」 この時の中国側の評価が、『旧唐書』にいう、「その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以って対えず。故に中国焉れを疑う」ということになったものでしょう。 『古事記』や『日本書紀』が未選定のこの時、日本国の使者は如何応対したのだろう。興味が募ります。 AとBの遣唐使達は654年には洛陽か長安の都に居たものと思われる。そこでガチ遇わせとなる?のだと思われる。 Aの遣唐使は九州王朝からの派遣で仏教習得のため学問僧を送ることが主目的。 Bの遣唐使は近畿天皇家からの派遣で琥珀・瑪瑙の献上が主目的。だから、新参者として日本国の地理とか、始めの神の名等を尋ねられた。 ・・・・と、違う国からの派遣だと思う。でないと、わざわざ同年に2回も朝貢するため派遣することはないし、Aの遣唐使の筑紫での恩賞授与が九州王朝の遣使を語っている。 3、天智天皇の即位の翌年、使者が蝦夷人と朝貢する。これを『唐会要』では顕慶四年(659)十月倭国の使者に随伴して入朝したと記され「蝦夷は海島の中の小国である」と、中国史書の中に初めて「蝦夷国」について記載された。 「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸な大海至り、東界北界は大山ありて限りをなし山外は即ち毛人の国なりと」『旧唐書』日本国伝・・・にいう「毛人の国」が上でいう蝦夷国なのでしょう。その国の使者が倭国の使者と共に入朝したと記され、『唐会要』の中では日本列島の中に倭国・日本国・蝦夷国の三国並列記述となっている。 『日本書紀』では「斉明天皇五年(659)秋七月三日小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を唐に遣わした。その時、陸奥の蝦夷男女二人を唐の天子にお目にかけた」と、簡単に記述している。・・・が、本々この記事は「顕慶四年(659)」倭国すなわち九州王朝の事跡を取り込んでいるものと思われる。 4、「咸亨元年(670)使を遣わせて高麗を平定することを賀す」、『旧唐書』の倭国伝にも日本国伝には記載がなく初見です。 希薄であった倭国と唐間の外交内容からいっても、隋時代からの外交からいっても、これに先立つ唐による百済滅亡からも、脅威に感じこそすれ、唐のために「高麗の平定」を祝賀することはないであろうから、後の日本国になる大和王朝サイド(近畿天皇家)の交渉記録がここに記述されている。 『唐会要』倭国・日本国伝には「咸亨元年(670)三月、遺使が高麗を平定を賀し、以後は続いて朝賀に来る〜」と記していることから、この時から近畿天皇家と唐の緊密な外交が始まった。 百済と倭国間の同盟があったと同じように、新羅と日本国の間に密約同盟があった。と、思う。 5、「その国都、方数千里だと妄りに誇る」この数千里を日本国の使者はきっと短里で語り、唐サイドは長里で理解した。そのずれが国土の大きさになって表れ「妄りに誇る」という認識になったのだろう。日本の使者も唐の使者も「短里と長里」の存在を理解していなかった。 『旧唐書』にも日本国の界、東西南北各々数千里なり。とあり「入朝する者、多く自ら矜大、実を以って対えず。故に中国これを疑う」との評価になっている最大理由は「数千里」とする国土の大きさの説明にあると思う。 6、「用明天皇を亦目多利思比孤という」とあり、「目多利思比孤」の意味が不明である。 6−1 多利思比弧(『隋書』では多利思北弧)は開皇20年(600)から大業4年(608)までは在位していたことが『隋書』からわかりますが、この多利思北孤は法隆寺の釈迦三尊像の光背銘記載の上宮法皇と同一人物と考えられるからその在位期間は591-622。 6−2 用明天皇の在位は(585-587)で用明天皇と多利思北孤との在位期間は重なり合うことがないのであるから「目多利思比孤」とはどんな意味があるのだろうか? これは中国側から日本国の使者に『隋書』記載の「日出る処の天子〜」で、印象深い多利思北孤について尋ねたことに対して日本側の使者は「倭国=日本国」とした建前からも、阿毎(あま)多利思北孤を在位年の近い女性の推古天皇(593-628)だとは云えずに用明天皇だと回答したのではなかろうか。・・・しかし一種異様な一文です。 7、「倭名を悪し日本と改号した。使者が自ら云うには国は日の出ずる所に近いので国名とした。或いは云う日本は小国で、倭の併せ所となり、その号を冒す」と、国名のいわれが旧唐書とは一部違いが生じている。 これは「日本は古の倭奴国なり〜」に始まるように倭国の歴史(『魏志倭人伝』の倭人や『隋書」の?国)を日本国である大和朝廷の中に取り入れて、この倭国が名のっていた日本国の国号をそっくりそのまま引き継いだ(その号を冒す)わけです。 「日本」の国号設定記事が『日本書紀』や『続日本紀』に記述されていないことは何故か? と問う時に返ってくる回答は、 日本の国号設定は『日本書紀』や『続日本紀』を作った国ではないのではないか・・・・ということです。 すなわち、滅亡した九州王朝が「日本」の国号設定国だった。近畿天皇家ならば『日本書紀』に、この「日本」の国号設定記事が記述していないことに元明・元正天皇が承認することなど、あり得ないことではないか。 注)中国正史日本伝(2)岩波文庫では「然(ちょうねん)の『王年代紀』を利用したらしいと記載されている。 倭国の滅亡と併合 『旧唐書』には倭国と日本国の記載があって 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり。山島に依って居る〜世々中国と通ず。〜四面に小島、五十余国あり、皆これに附属する」 1、その国日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。 2、或いは云う、倭国自らその名の雅ならざるを悪に、改めて日本となすと。 3、或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。〜 ・・・・・『旧唐書』 又、『南斉書』倭国伝には 「〜漢末以来女王立つ。土俗既に前史に見ゆ。建元元年(479)安東大将軍倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為させしむ〜」とあって卑弥呼であったり、卑弥呼に続く倭武が統治した国が倭国であり、その倭国が、後の日本国にとって代わられた。 更に『隋書』では?国王の多利思北孤は卑弥呼や倭武の後裔でもあると明解です。 そして、やがて滅亡し併合されて消滅していった。その「倭国=九州王朝」の滅亡の様相を以下、調べます。 ■日本の天皇、及び太子、皇子皆死(崩・薨)んでしまった 『日本書紀』の記事の中で、衝撃的な記事の最たるものは「ある本によると〜」という間接的な表現になっていて、一見目立たないが下記の記事であろうと思う。 継体天皇25年(531)継体天皇の崩御記事の後、 「ある本によると、天皇は28年に崩御している。それをここに25年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに「25年3月、進軍して安羅に至り乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を殺した。また聞くところによると日本の天皇、及び太子、皇子皆死(崩・薨)んでしまった。」と。これによって言うと辛亥の年は25年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう」 -------------------------------------------引用ここまで 上の文は『日本書紀』全現代語訳 宇治谷孟著 講談社学術文庫によったが、この本には上の「天皇、皇太子、皇子死亡記事」には注意書きがまったくなく、素通りだ。 また、岩波文庫の『日本書紀』の校注では、「奇怪な記事であって、何か不思議な事件があったように感じられる」と、していますが一歩踏み込んで解明しようとはしていない。 古代史の分野では上の「日本の天皇、太子、皇子皆の死亡記事」は特段、注意を払うことなく奇怪な出来事としてはいるが、細部に検討されている様子はなく、無造作にも、この日本を「ヤマト」とルビをふっている。 この日本という国号は「日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす」であり、東アジアの視点から観ればヒノモト或いはニホンと呼ぶべきであるが、日本国内用語の「ヤマト」との表示など見当違いもはなはだしい。 これにメスを入れたのが古田武彦著「失われた九州王朝」(320-352ページ)である。それによると「天皇、太子、皇子の死亡」は継体ではなくて、筑紫君磐井であり、むしろ反逆は継体側にあるとしていましたが、最近はこの事件には実態が無くて創作であると変わってきています。 ついては、上の事件について思いつくままに、感じるままに概略ではあるが以下に検討を加えた。 1、「日本の天皇、太子、皇子皆死亡記事」の真偽 ここに問いがあります。日本書紀編纂者は上の事件を本当に知らなかったのか? 天皇、太子、皇子皆死んでしまった。の文の中で「皆」 に注目すると、この日本国の後継者は誰ひとりいなくなった。・・・・・そう言う自国の存亡に直結する事件を知らない(他国の百済本紀によるととしている)とする日本書紀編纂者などいるか?いないか? 歴史編纂の事業は天武天皇在世の時に始まっていて、日本書紀完成の720年まで40年間程の時間が経っているわけですし自国の歴史の要諦について知らないなど、そんなことは有り得ない。・・・・・ってことです。←(唐突な意見でもあるまい。) 「実際に無い事件だった」とすれば、日本書紀に記載する必要がない。この事件は事実としてあったのです。それをさも知らないように”トボケテイル”これが日本書紀編纂者の態度であり記述方針です。 継体天皇の死に合せるように太子、皇子が皆死んでいないこと日本書紀を一読すれば自明である。 だから誰も上の「日本の天皇、太子、皇子の死」など信じるものはいない。でも、もしかして、外国史料(中国等の史料)や諸家伝わる文書類に上の記述してあるものが発見されその不明・疑問を問われたならば、「それは継体天皇の治世のことかも知れませんね」と言い訳が出来るようなある種のトリックを仕掛けたわけです。 これによって「日本=倭国=九州王朝の滅亡の真相」を隠蔽しょうとするものです。 その為に、あえて継体紀に筑紫君磐井の反乱記事を合せて記述した。「日本の天皇、太子、皇子の死」は日本書紀編纂者にとって、ひっそりと、でも確実に記述しなければならない必須項目だった。 2、日本の国号の始めはいつからか? 『旧唐書』 には次のような記述があり @その国日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。 A或いは云う、倭国自らその名の雅ならざるを悪に、改めて日本となすと。 B或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。〜 『新唐書』では次のように記述されています。 「〜日本は小国で、倭の併せ所となり、その号を冒す」と。 これらの事象の経過を時系列にして述べると @倭国自らその名の雅ならざるを悪に、改めて日本と国号を変更した。(その日本という名の意味は日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす) (注1) ↓ A「日本の天皇、太子、皇子の死」の事件発生 ↓ B「旧倭国=日本国」の滅亡(大和王朝により滅亡される) ↓ C大和王朝がそっくり、そのまま日本国の国号とした。(倭国の併合) ↓ 単発的に倭国復興の反乱が生じる ↓ D古事記完成(完成するも廃棄される、日本書紀編纂スタート) ↓ その反乱も鎮圧される ↓ E日本書紀完成 (注1)『三国史記』新羅本紀では倭国、改めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以って名と為す。・・・文武王10年(670) 3、倭国=九州王朝の滅亡記録の秘匿 大雑把に倭国の滅亡を俯瞰すれば上の様相が見えて来るが日本国号制定は670年のこととして、ほぼ、間違いないでしょう。 その670年以降701年の大和朝廷(日本国と帽す)樹立間に本テーマでもある「日本の天皇、太子、皇子の死」が生じた。と云うことが真相ではなかろうか。 この、「九州王朝の実在と滅亡」を 「ある本によると、天皇は28年に崩御している。それをここに25年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに「25年3月、進軍して安羅に至り乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を殺した」 上の『百済本記』に記述のあった類似の事件とおぼしき高麗王安の殺害事件の記述に添わせて、また聞くところによると日本の天皇、及び太子、皇子皆死(崩・薨)んでしまった」と。これによって言うと辛亥の年は25年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう」という『日本書紀』の記述を忍び込ませた。 これが「日本の天皇、及び太子、皇子皆死(崩・薨)んでしまった」と記載する真相のラフスケッチです。 ■『万葉集』から検証する。 1、大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ 2、大君は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ 「歌はむろん天武天皇の浄御原宮造営を賛歌したものだが、田井とか水沼とかいわれた低湿地が大規模な土木工事によって埋め立てられ、りっぱな皇都が造り上げられたさまが想像される。〜浄御原宮は天武2年から持統7年で2代21年のあいだ動かなかった。中央権力の強化と安定を語るものといってようであろう」・・・・・上の歌二首は「生きている天皇を神にたとえる」としているのだが・・・・・『日本の歴史』2古代国家の成立:中公文庫 342ページ どんな時代においても、わざわざ、低湿地帯に都を設営することはあり得ないのではないか?周辺から僅かばかり高い微高地は探せばいくらでもあるわけですし、毎年、雨期になれば洪水の被害に見舞われてしまう、そんなわかりきった所に、何で都を造るのか?。上の二首は「田井とか水沼」に都でもある「浄御原宮」を作っ歌ではない。 そんなおろかなことを賛歌した歌ではなく、「死者が神になることによって死者を(鎮魂する)弔う」歌である。以下はその理由を記す。 『万葉集』では「皇→大王」の位取りの使い分けがきっちり、なされているのだが、現代訓読みの万葉集では「皇」・「大王」とも大君と訳している。 例えば『新訓万葉集』薯:佐々木信綱、岩波文庫 「皇」=すめろぎ(すべらぎ)とは九州王朝の天子ないしは皇をいい、絶対的な唯一性を持ち、 「大王」=おおきみとは九州王朝の配下のトップであったり、九州王朝の皇子をいうのであって、「皇」を大君と訳すのは間違いである。 例えば、下の二首を「皇」と「大王」の位取りを最重要なものとして訳した。 A:歌そのものは第一史料(同時代史料) B:前書きや後書きは第二史料(後代史料)・・・・・『古代史の十字路』古田武彦著:東洋書林 9ページ とみなして、 『万葉集』は『日本書紀』にも『続日本紀』にもその選定の経過等記載が無く大和朝廷にとって「禁書」になった歌集であることもあって、前書きの「壬申の年の乱平定りし以後の歌二首」、後書きの「右の件の二首は天平勝宝四年(752)二月二日聞きて、即ちここに載」をひとまず、はずして考えた。その結果、見えてきたもの。 <4260> (原文) 皇者神尓之座者赤駒之腹婆布田為乎京師跡奈之都  右の一首は大将軍贈右大臣大伴卿作れり 従来は「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ」としているが、「 皇(すめろぎ)は神にしませば赤駒のはらばふ田為を京師となしつ」と訳すべきでしょう。 (意味) 皇(すめろぎ)は死して神になっていらっしゃいますから、赤駒もはらばう田居(田んぼの中か?)を京師としておられることでしょう。 <4261> (原文) 大王者神尓之座者水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成通  作者未詳 「大君は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ」 (意味) 大王(太子あるいは皇子)は死して神におなりになり、今では皇(すめろぎ)になって水鳥の多く集まる水沼を皇都としておられることでしょう。     <4260><4261>(「皇」・「大王」)が、田居や水沼で死んで神となって皇や大王を、田居や水沼を天子の都(京師や皇都)と見立て悼らい偲んでいる歌。 それを、前書きに(壬申の年の乱平定りし以後の歌二首)と記述を加えて天武天皇賛歌へと変質させ、後書きに(右の件の二首は天平勝宝四年(752)二月二日聞きて、即ちここに載)を加えて本来1巻〜2巻に当たる歌を万葉集19巻に載せている。 さて、「皇」や「大王」が田居や水沼という所で死んだ事件はあるのだろうか?と考えた場合に浮かぶイメージは「王朝(国家)の滅亡」ということ。 日本書紀には不思議な一文が記載されています。 ある本によれと、天皇は二十八年に崩御している。〜〜百済本記によって記事を書いたのである。「〜この月、高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると日本の天皇及び太子・皇子皆死んでしまった」と。辛亥の年(531)は二十五年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。・・・ 1、日本国の国号設定 2、天皇の称号 3、太子の称号 4、百済本記の対象とする日本は? 5、「高麗はその王、安を殺した」この事件は何時のことか これらの事件や称号が何時から始まったのかというと、辛亥の年(531)には未だ天皇の称号はなかったし、日本の国号も後のこと。 すなわち、「高麗はその王、安を殺した」と対比させて記述している「日本の天皇及び太子・皇子皆死んでしまった」は6世紀ではなくて7世紀の時間帯のできごと。それは九州王朝の滅亡の時間帯でもあった。 この「日本の天皇及び太子・皇子皆死んでしまった」とする敗者側を扱った歌が先に述べた下記の二首。 1、皇(すめろぎ)は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ 2、大王(おおきみ)は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ 上の京師や皇都は天武・持統の浄御原宮ではありません。宮は天皇の住居であっても京師や皇都ではありません。(宮=京とする混乱があります) ・・・未完 三角縁神獣鏡は国産鏡        2008.12.24 1、黒塚古墳の三角縁神獣鏡 平成9〜10年にかけて発掘され、古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)と推定されている竪穴式石室から33面の三角縁神獣鏡(平均直径が22cm)が、木棺跡からは1面(直径13.5cm)の画文体神獣鏡(中国製)が出土しています。 現在は敷地に隣接する公園内にこの竪穴式石室が復元され、出土した銅鏡34面はレプリカですが展示されている。 特に、33面という多量の三角縁神獣鏡が出土し注目されている古墳です。石室が古墳築造時から遅くない時間帯に地震にあって崩落し、その為もあって未盗掘の古墳でした。 三角縁神獣鏡は従来から倭国の女王卑弥呼が魏の明帝から下賜された100面の魏鏡だろうと云われていましたし「邪馬台国」大和説の主柱と為すものでしたが現在は日本国産説が主流になっているようです。 1)、中国内からは1面の三角縁神獣鏡も出土していない。 2)、弥生遺跡からは出土例がなく、すべて古墳からの出土である。 3)、既に各地から100面以上の多量の三角縁神獣鏡が出土している。 等々の理由からである。 従来から1)の理由として三角縁神獣鏡が魏において特注されて卑弥呼に下賜された。2)の理由としては伝世し、古墳時代になって埋設されるようになった結果とするが、この説の特徴はまず、「邪馬台国=ヤマト国と読む」とする結論ありきが先で、そうであろうとする推定であって、突き詰めて「三角縁神獣鏡=魏鏡」とする理由(証明)にはなっていません。 さて、中国製か?国産製か?を判断する基準尺は銅の産地・製作者の国或いは出身地・鏡の製作地等で判断されるものと思うが、製作地が日本であることを持って国産とするのが一般的なんだろう。 製作者が中国から日本に渡来して、携えて持ってきた銅を使って日本人の好みに応じて、例えば姿見の鏡ではなくて、太陽信仰の祭祀の道具として鏡(三角縁神獣鏡)を製作した場合は中国からは出土することはない。であるが故に国産として扱えるはず。・・・・・三角縁神獣鏡はこのような鏡が多いと思う。 棺の中の被葬者の頭付近に1面の画文体神獣鏡があるが、これは他の33面の棺の外に無造作に取巻くように置かれた三角縁神獣鏡よりも、被葬者やその後継者にとって大切であり重要視されていた結果である。 棺に付着している水銀朱が石室を構成する石部に塗られたベンガラ朱よりも大切であるように、この墳墓には重要度のランクがなされている。 古代における太陽信仰の一端を知ることが出来ます。この古墳から出土した三角縁神獣鏡には銘文のあるものがあります。 例えば3号鏡の例では <銘文> 新作明鏡幽律三剛配而■明銅出徐州師出洛陽彫文刻鏤皆作文章取者大吉■子孫 (■不明文字) と、あってこの銘文から読み解くポイントは「銅出徐州師出洛陽」にあります。 徐州で産出された銅を得て洛陽出身の師(工人OR師匠)の指導の下に日本の依頼者から「太陽信仰の祭祀のツールとして使用したい」との要望をくみ取って、日本で製作したと云う意味でしょう。 その証拠として @、この三角神獣鏡の表面は凸面になっていて、鏡本来の姿見としての機能を犠牲にして、太陽の反射する光を周囲に拡散させるようになってる。 A、その大きさが22cm以上あって、かなりの重量です。このため鏡の周囲を三角縁にして、大きさからくる割れやすさや弱さを補強しようと加工されている。 中国からはひとつも出土していない、日本固有の姿・形をした祭祀に使われた鏡です。これらの三角縁をした鏡の中に 2、この三角縁神獣鏡に刻まれた銘文に先に記した「〜銅出徐州師出洛陽〜」があるわけです。 @「洛陽」は前漢末時代までは「?陽」の文字を使用し「洛陽」の文字使用に復したのは魏になってからである。又、宋の永初3年(422)には「?陽」の文字に復した。 A「徐州」は漢時代には「彭城(ほうじょう)」といい、魏になってから「徐州」に改められた。 @、Aから 銅出徐州師出洛陽の文字使いは魏から宋の(220〜422)頃であるから三角縁神獣鏡もこの頃の範囲内での製作となろう。 3、それに「景初3年」銘等の銘文のある鏡の存在です。 魏志倭人伝によれば明帝から卑弥呼に下賜された百枚の銅鏡の経過を下記に時系列で表示すると @景初2年(238)6月女王卑弥呼の使者難升米・都市牛利、朝貢するため帯方郡到着する。 ↓ A景初2年12月洛陽で難升米・都市牛利、明帝に謁見する。両名銀印を青授する。明帝の詔書が作られる。親魏倭王の金印及び下賜品が装封され、難升米・都市牛利に渡される手はずになっていた。 ↓ B明帝景初3年元旦突然に崩御す。同時に喪に服することとなり、諸行事が中止される。 ↓ C正始元年(240)、喪が明け諸行事が再開されて、明帝の詔書・装封された金印・下賜の品々が倭国に齎される。 概要すればこのようなものであろうが、明確なことは景初3年銘のある三角縁神獣鏡等が明帝からの下賜品にまぎれ込む事は上のように景初2年に皆装封されたからあり得ません。ですから「景初3年鏡は卑弥呼の鏡ではないよ」ということです。 (卑弥呼の朝貢は景初2年の「戦中朝貢」であって、景初3年とするは間違いであり、注意が必要です) 『日本書紀』の「神功皇后39年〜魏志倭人伝によると、明帝の景初3年6月に倭の女王は大夫〜」との記述があり、これを3年を正しく明帝を間違いとする論述が多いですが、検討する際の最大のポイントは以下の2点にある。 @明帝の崩御による喪に服した期間が1年 A戦中での朝貢 であって景初3年が間違いで、明帝が正しい。 この景初3年の銘のある和泉黄金塚古墳の3つの埋設施設の内、中央の木棺の中から画文帯神獣鏡が出土し、棺の外側からこの「景初3年」の銘文の鏡が出土している。 この状況からも古墳の埋葬者や後継者にとって、この景初3年銘の鏡が他の鏡と比較して特に重要だとされる扱いはされていないことが読み取れます。 このように三角縁神獣鏡は魏鏡ではなく、日本(国産)生産地説を証明していますが、決定的な証拠としてはこの三角縁神獣鏡鏡の「鋳型の出土」でしょう。・・・今後、銅鐸と同じように「遺蹟=生産地」からの出土に期待したいものです。 4、黒塚古墳出土の19号銅鏡 その銅鏡の銘文は「吾作明竟甚大好上有神守及龍虎身有文章■衛巨古有聖人東王父西王母渇飲玉[?全]飢食棗壽如金石長相保」 ですが、その文字列の中でも「龍虎」・「東王父西王母」は神獣鏡の中にデザイン化されている。と考えるのが自然的な思考だと思うが・・・どうだろう? 中国にはなく日本のみに出土する鏡裏面のデザインに笠松形図形がある。これを発見されたのが奥野正男さん。それは正始八年(247)魏から倭国に齎された「黄幡」をデザイン化したものだとし、そこから壱與の時代に邪馬台国が九州から大和に遷都されたのだろうと言う。 しかし、曖昧模糊としたデザインをベースとするよりも、その鏡(笠松文様のある鏡)の製作年を明確にすることのほうが先だろうと思うのだが!かえって難しいか?・・・ 那須国造碑の碑文を検証する    2008.7.15 那須国造碑は、栃木県大田原市にある石碑であり、延宝4年(1676)僧円順により発見された。 1952年に国宝に指定される。 石碑には19字×8行=152字の碑文が刻まれている。 その碑文の8行19字は下のとおり <原文> 永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造 追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月 二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓 仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳 照一命之期連見再甦砕骨飛髄豈報前恩是以 曾子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之 子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香 助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固 <意訳> 永昌元年(689)己丑四月、飛鳥浄御原大宮より那須国造追大壹を那須直韋提評督は賜わる。 歳次庚子年(700)正月二壬子日、殄(みま)かる。故に意斯麻呂等は碑を立て銘して偲びて云う。 (仰惟から末尾の更固までは略) 検討課題ー1 1)、唐の則天武后の年号である「永昌元年(689年)」を石碑の先頭に刻した碑文が何故、関東の地である栃木県の一角にあるのか。という、疑問が生ずる。 年号のある地域或いは国はその年号を制定した権力者からの支配や規制を受けている。・・・当然ではないか? この道理からすれば、この時間帯のここ関東の一角は唐の支配化にあるってことになる。・・・だが、本当にそうなっているのか? 2)、689年は持統天皇3年であり、持統天皇から那須直韋提は称号と冠位を授与された。この称号や冠位の授与はやはり最高権力者から渡されるものである。 この関東の地にあっては則天武后と持統天皇の二人の権力者によって支配されている。名目的な支配者の則天武后と、その代理でもあり実質の支配者である持統天皇である。 上の「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮」はこのように考えないと成立不可能な文面です。・・・で、なければ偽作か通説の「那須韋提並びにその後継者の意斯麻呂等は渡来人」説。しかし偽作でなくてはならない理由などどこにも無いし、まして那須意斯麻呂等は唐への傾倒が強いわけでもなく、新たにこの地にやって来た唐人というよりも関東の地に昔から土着している民のようであり、進んで唐の元号を刻む理由もない。 検討課題ー2 『旧唐書』倭国・日本国伝によればこの関東は未だ日本国に統治されていない様相を示している。そのような状況の中でじわり、じわりと日本国(大和王朝)による侵食を受け始めたようだ。 これが上の「那須直韋提評督」が新たに持統天皇から「国造と追大壹」の称号と冠位を授与され、評督から国造と昇進と栄達(郡から国といった規模の支配者へ昇進)を得て”大喜び”をしたこの当時の時代の空気を感じる記事である。 侵食を受け始める前の支配者は?と言えば天智天皇二年(663)対新羅戦に出陣して部下と共に消息をたった前軍の将軍、上毛野君稚子であろう。 彼に代わって持統天皇の支配するところとなった。このことを簡潔に石碑は記している。 「唐・新羅」と「倭・百済」の戦いの中で勝者は唐・新羅・日本、敗者は倭国・百済・高句麗ということなんだろう。この東アジア視点で那須国造碑の文頭「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮」を検証してみた。 ・・・未完・・・ 倭国の風景・・・・・隅田八幡神社の人物画像鏡銘文を検証する    2008.6.26 和歌山県橋本市に所在する隅田八幡神社が所蔵する「人物画像鏡」(国宝)の鏡背に48字の銘文があり、正確な出土年代や出土地は定かではありませんが、ここではこの鏡の銘文をひも解きます。 <銘文> 癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟 検討内容 1、画像鏡に表記されている人名は如何なる人物か? @「斯麻」について この時代、銘文入り鏡のプレゼントが出来る人物と言えば大枠限定される。しかも受け取り手は「大王」であり「王」の位取りであって、国と国の外交による献上なり下賜なりのプレゼントと見るのが適切であろう。 すなわち、斯麻は百済国の武寧王(501年即位)と理解すれば、癸未年は503年となる。 ---以下は武寧王墓誌---- 寧東大将軍百済斯 麻王年六十二歳癸 卯月五月丙戌朔七 日壬辰崩到乙巳年八月 癸酉朔十二日甲申安? 登冠大墓立志如左 ------------------------ 人物画像鏡銘文の「斯麻」=武寧王墓誌の「斯麻」で文字が一致する。 A開中費直は名前表記からみて倭人系百済人であろう。今州利は百済系の穢人か?百済国内において多数の民族が混在していたのだろう。そんな状況が覗えます。 武寧王はこの銅鏡製作にあたって、倭人系及び穢人系の百済人に携せたのか?・・・・・その意図がわからない。純粋の百済人の製作ってことが普通だろうと思い、そんな感想を持った。 2、癸未年八月日十大王年男弟王←左の文をどう読むか? 斯麻の中国風一字名は「隆」であり、余は姓+隆(一字名)であり、百済国や倭国においても倭武のように使用されていた。その一字名が「年」である。 上は「癸未年八月」+「日十大王年」+「男弟王」とくぎることが出来る。 「日十大王年」はヒト大王・年(中国風一字名)であり、大王→王となる倭国の兄弟統治体制が偲ばれる。 上を「癸未年八月日十」と区切って更に日と十を前後させて八月十日と解読しているものが多いと思われるが、「日十」を「十日」の間違いとは云えませんよ。上の解読は安易過ぎます。 この「年」は讃(?-425)・珍(425-?)・済(?-451)・興(451-462)・武に続く大王名であろう。 3、意柴沙加宮とは イシサカ?或いはオシサカであろう。 503年に在位していた武烈天皇は 長谷の列木宮(ナミキ)・・・・古事記 泊瀬の列城宮(ナミキ)・・・・日本書紀 であって、銘文とは合致しないし、大和王朝には兄弟統治体制(大王と男弟王)がない。東アジアにおいて百済国と対応している倭国は九州王朝側であることを、この鏡の銘文は語っているのだろう。 <意訳> 癸未年(503年)八月、(倭王)日十大王・年と男弟王が意柴沙加の宮におられる時、(百済王の)斯麻が長寿を念じて開中費直、穢人今州利の二人らを遣わし、白上同二百旱を取ってこの鏡を作る。 4、日本書紀から検証する @「武烈4年(502)百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。これが武寧王である。〜」 A「継体17年(523)百済の武寧王が薨じた」 ・・・・・以上、日本書紀から 癸未年(503年)の百済王は武寧王であるから、このことからも、人物画像鏡銘文の斯麻は日本書紀で記されている嶋王である。 追加   上の解読結果から人物画像鏡は百済製(百済で作られた)としてきましたが『古代金石文の謎』学生社版では共同著者のひとりである直木孝次郎氏の短い一文が載っています。 そこにはこの人物画像鏡の銘文は、日本で作られたとします。 男弟王・・・・ヲオト王と読んで継体天皇にあて 意柴沙加宮を大和盆地南部の忍坂の地名とし、これを根拠に「明らかに日本製」だというわけです。 しかし銘文は○○大王と男弟王の二人の王が刻まれていますし、癸未年(503年)は武烈天皇の在世です。しかも、意柴沙加宮はオシサカ(或いはイシサカ)で忍坂はオサカであってオシサカではありません。 これらからも、人物画像鏡「日本製」説は成り立ちません。 この鏡の発見や出土状況は不明となっていていますが、滅んだ倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)に齎らされたもの。←様に考えて、始めて、「日本書紀に記載されている人物の誰かに違いない」という自縄自縛の歴史観から自由になって、真実が見えてきます。 倭国の風景・・・・・七支刀の銘文を検証する   2008.6.25 石上神社に伝わる特異な形をした金象嵌の銘文のある七支刀(昭和28年国宝に指定)と及びその銘文内容について、なお不明な点があるのでそれを下に記して検証する。 七支刀の銘文 <表> 「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥」  <裏> 「先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世」                (□&アンダーラインは不明な文字) いくつかの検討すべき課題があると思われるので、その概略を下に記しておきたい。 検討課題1 この刀の製造年の泰■四年を東晋の年号である太和四年(369)とするが、それでは何故、正規の「太」とせず、泰という文字を使用しているのは何故か?その理由を明確にすべきだと思うのだが?・・・ 検討課題2 贈り主の百済王・世子とは百済王は近肖古王在位(346〜374)、世子は近仇首王(375〜383)。 対して、受取手は倭王旨。ここに倭国と百済国の軍事同盟があり、その対象国が高句麗・新羅である。 上の銘文の「〜為倭王旨造〜」の旨は倭の五王である「讃・珍・済・興・武」と同じ中国風一字名であり倭国ではこの中国風一字名は魏志倭人伝に記述の壱與(台与=’トヨ’ではない)から始まっている。とするのが自然な理解である。 (『日本の歴史』神話から歴史へ:中公文庫 井上光貞著(390ページ)では、この「旨」を特に考慮することなく意味不明なまま、解読している。) 「旨=倭王名の一字名」この理解の下に上の銘文を解読するが真相を知る手がかりになりと思うのだが! 日本書記には @「神功皇后四十九年三月、荒田別と鹿我別を将軍とした。久?らと共に兵を整えて卓淳国に至り、まさに新羅を襲おうとした。 その時ある人が言うのに「兵が少なくては新羅を破ることはできぬ沙白・蓋廬を送って増兵を請え」と。木羅斤資・沙沙奴跪に命じて、精兵を率いて沙白・蓋廬と一緒に遣わされた。 ともに卓淳国に集まり、新羅を討ち破った。 そして比自[火本]・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七カ国を平定した。 兵を移して西方古奚津に至り、南蛮の耽羅を滅ぼして百済に与えた。 百済王の肖古と皇子の貴須は、また兵を率いてやってきた。比利・辟中・布弥支・半古の四つの邑が自然に降服した。 こうして、百済王父子と荒田別・木羅斤資らは共に意流村で一緒になり、相見て喜んだ。礼を厚くして送った。〜〜」 A「神功皇后52年秋9月10日久?らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そしてわが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山からでています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲みこの山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉りますと申しあげた〜」 と、地名が有り、人名がありで、極めて具体性に富んで記述されています。 百済王と倭王との朝鮮半島での「軍事同盟」を示すものが七支刀の銘文です。 検討課題3 その倭王旨に贈られた七支刀がなぜ、大和の石上神社に秘蔵されていたのか?との疑問は「九州王朝とそれに代わる大和王朝の興亡史」そのものであり、大和王朝への献上として齎された。(時には強奪かも知れません)というものでしょう。 ・・・・・それが石上神社の秘蔵という形になって表れた。ですから、この七支刀が石上神社に齎された経緯や経過(由来)を知るってことが歴史の真相を知ることでもあるわけです。 この齎された。或いは献上によるものとしては ・・・・・他に法隆寺の釈迦三尊像や墨之江(住吉大社)の三座の大神やその他多数あるが、特に妙心寺(京都市右京区花園)の銅鐘には「戊戌年(698)四月十三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」の銘があって、九州王朝領域からの経過(齎される)だとわかります。 検討課題4 倭王旨が神功皇后紀に取り入れられたのは卑弥呼や壱與と同じ女王だったからだと思われる。だから倭国の女王を女性である神功皇后紀の中に一括して取り入れ架空の歴史を作りあげ、九州王朝の存在を隠した。・・・・が、『旧唐書』が倭国である九州王朝の存在を証言しています。 卑弥呼の朝貢(239年)を名を伏せて記述しながら、百済王からの七支刀(七枝刀)のプレゼント記事を同時に記述した。これは日本書紀編纂者は七支刀を見ていない。ってことですし、3世紀の卑弥呼と4世紀の倭王旨を同一人としていることの無理さが『日本書紀』にはあって、その信憑性を疑わせる原因にもなっています。 倭国の風景・・・・・埼玉稲荷山古墳鉄剣銘を検証する   2008.6.6 1968年の学術調査(発掘)で、稲荷山鉄剣が後円部分から発掘される。1978年、この鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が彫られていることが判明。国宝に指定された。 その鉄剣の銘文は↓のとおり 表:辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比 裏:其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也 (注)獲の文字は草冠なし、鹵は口の中の文字が九 現代語訳(訓読)↓のとおり 辛亥の年中記(しる)す。ヲワケの臣、上つ祖(おや)名はオホヒコ、其(そ)の児タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカハシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、其の児、名はカサハヨ、其の児、名はヲワケの臣。世々杖刀人の首として、事(つか)え奉り来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺、シキの宮に在る時、吾(われ)天下を左(たす)け治む。此の百練の利刀を作らしめ、吾が事え奉る根原を記すなり。 ーーーーーーー以上、ウィキペディアより 上の銘文解読の定説について、以下問題有りと思うので、概略を指摘しておきたい。 1、「獲加多支鹵大王」=大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)としている。 2、「杖刀人首」を貴人の身辺護衛官であり、舎人の前身である。その長とする 3、「辛亥の年」=471年 4、「乎獲居臣」を臣と読んでいる。又稲荷山古墳の被葬者(主)としている。 5、「吾左治天下」は乎獲居臣の身分では使える文字ではない。しかも、世々、杖刀人の首とあるは乎獲居臣の誇張であり、つまりは「ホラ」だとする。 6、臣・足尼(すくね)・獲居(わけ)は敬称であろうとする。 7、「寺」=大王の役所とし、斯鬼宮(しきのみや)を大王の住居と理解している。 1〜7は『日本古代国家の成立』 直木孝次郎著 256〜274ページから要約した。 さて、銘文の問題点等を下記に整理する。 なんといっても獲加多支鹵をワカタケルとは別にワカタシロとも読めて名前からでは(大泊瀬)幼武と決定することは出来ない。 理由1 「左治天下」を乎獲居臣の「オオボラ」とするところです。ホラではなくて自然と左治天下と読める読み方を最初にすること。乎獲居臣は杖刀人として、国の防衛(国防)の最高責任者である大王に代わってその責を果たした。それが左治天下の意味です。その大王が斯鬼宮(しきのみや)に居たってことです。 杖刀人と(呼称)する組織・役職が大和王朝にはない。 武蔵(埼玉)に埋葬された乎獲居臣にとって左治天下する大王が大和に居る雄略天皇では遠すぎます。第一に雄略の宮は朝倉の宮であって、斯鬼(しき)の宮ではありません。 長谷の朝倉の宮・・・古事記 泊瀬の朝倉の宮・・・日本書紀 理由2 「寺」を役所としていること。それゆえに役所と宮(住居)がごちゃごちゃしてしまい、日本語として通じない。倭王武というような倭の五王の読み方の中国風名前一字名の可能性もあろう。 理由3 「辛亥の年」=471年と確定できない。531年の可能性もあります。これは銘文とは別に古墳の築造年代から判断されるものでしょう。雄略天皇とするがための471年であって本末転倒の論理です。 理由4 大王とすれば、「日本書紀や古事記に記述されている天皇以外にないからその系図から探す」という、何でも近畿天皇家という思考に囚われている。・・・関東には関東の大王がいて良い。とすればきっと真相が掴めるだろう。 理由5 隣国の証言とも言うべき『旧唐書』倭国・日本国伝からの検証では5世紀には日本国は関東までその支配の影響を及ぼしていない。支配権を及ぼすのは関東は8世紀初頭です。 日本国とは『旧唐書』から------------------- 「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸な大海至り、東界北界は大山ありて限りをなし山外は即ち毛人の国なりと」 東界北界は日本アルプスの山々。それよりも東は関東・越で今だ支配地に至っていない。西界南界の南界は太平洋、西界は東シナ界だと考える以外にない。この時点では九州王朝を呑込んだ状態、すなわち「日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」な状態なのでしょう。(下図) (注)上の地図上の×印は下記の1〜4項をプロットした。 1、文武3年(699)多?・夜久・奄美・度感(とく)が献上 2、文武3年(699)越後の蝦夷106人に身分に応じて位を授ける 3、大宝元年(701)対馬国金を献上改元する。(改元前の元号が不明) 4、和銅元年(708)武蔵国和銅献上され改元する ------------------------------------------------ 上の図と「稲荷山鉄剣」出土地を照合すると獲加多支(シ)鹵(ロORル)大王・乎獲居臣は未だに大和王朝に支配されていない様相が見えてくる 。 獲加多支(シ)鹵(ロORル)大王≠大泊瀬幼武天皇(雄略天皇) 倭国の風景・・・・・倭国の貨幣制度          2006.12.12 これまでは日本最初に造られた貨幣は「和同開珎」ということが常識になっていましたが 1999.1.20 各新聞社のニュースで「日本最古の貨幣『富本銭』奈良飛鳥池遺跡で出土」と、報道されました。 この富本銭について何故『日本書紀』に記載がされていないのか?等々、日本書紀・続日本紀との相互のズレもあって不明点・疑問点が生じます。以下、その提示です。 1、まず、日本書紀と続日本紀から貨幣に関する内容を時系列に記すと 天武12年(683) 4/15 「今より以降、必ず銅銭を用いよ。銀銭用いてはならぬ」と云われた。 天武12年(683) 4/18 「銀を使用することはやめなくてもよい」といわれた。 持統8年(694) 3/2 大宅朝臣麻呂・台忌寸八嶋・黄書連本実らを鋳銭司に任じる。 文武3年(699) 12/20 初めて鋳銭司を設ける。 和銅元年(708) 5/11 初めて和同開珎の銀銭を発行する。 和銅元年(708) 7/26 近江国に和同開珎の銅銭を鋳造させた。 和銅元年(708) 8/10 初めて銅銭を発行する。 和銅2年(709) 8/2 銀銭の通用を停止させ、専ら銅銭を使用させた。 和銅3年(710) 1/15 大宰府が銅銭を献上した。 和銅3年(710) 1/27 播磨国が銅銭を献上した。 和銅4年(711) 10/23 蓄銭叙位令を出す。私鋳銭の刑罰を改める 2、いくつかの疑問点 (1)天武12年に流通していた銅銭と銀銭があったということと、では最初に発行された貨幣といわれ「和同開珎」との関係は何か。 (2)文武3年の鋳銭司の設置に先立って、持統8年に大宅朝臣麻呂・台忌寸八嶋・黄書連本実らを鋳銭司に任命するとは?道理に合わないのではないか。 (3)和銅2年の前年に発行したばかりの銀銭の使用停止とは・・・どんな不都合が生じたのだろうか。 (4)和銅3年(710)の大宰府及び播磨国からの銅銭の献上とは・・・しかも、和銅元年に発行したばかりの? (5)実際に発行された富本銭は何故『日本書紀』に記載がされていないのか? 等々の疑問を列記しました。 3、貨幣制度の導入仮説 以下の事項を検討していくと、「大和朝廷の和銅元年の貨幣制度に先だって、九州王朝の設定した貨幣制度があった」と、想定すると、疑問点が氷解していきます。 (1)日本最初のの貨幣が和銅元年の和同開珎ならば、それ以前の天武12年の「銀銭用いてはならぬ」のこの銀銭はいったい何?・・・・九州王朝の「無文銀銭」これ以外はないではないか!これの使用を禁じた。何故か?・・・大和王朝(王権)の大和の地での自立宣言でしょう。天下に流通していた無文銀銭を「天武の支配地」での使用を禁じたものでしょう。 では、使用禁止となった銀銭はどうなったか?・・・「銀を使用することはやめなくてもよい」のとおり銀として使用されたでしょう。鋳潰されて。或いは文様を潰されて。これが無紋銀銭となって、わずかに残ったもののようです。 (2)文武3年の鋳銭司の設置から9年の準備期間を経て、和銅元年の初めての貨幣である和同開珎の発行の主体は大和朝廷であってそれ以前の貨幣制度は大和朝廷に先立つ九州王朝が実施したもの。 (3)持統8年の大宅朝臣麻呂等の任命は九州王朝の「鋳銭司」の任命記事から転記したものではないか? (4)和銅2年(709)の天下の銀銭とは「多利思北孤」の発行した貨幣ではないか。それをこの九州王朝に取って代って、最高権力者となった大和朝廷が全国に向かって使用禁止命令を下したのでしょう。その結果は鋳潰されて銀のインゴットに姿を変えたはずです。 (5)和銅3年(710)の大宰府及び播磨国からの銅銭の献上記事は不思議です。発行したばかりの銅銭を大和朝廷に献上してどうなるのでしょうか?、・・・・・この銅銭は滅亡した九州王朝の発行した銅銭それを献上した。他方では使用禁止とした。 (6)日本最古の貨幣とされる富本銭の発行記事が『日本書紀』にないのは、大和朝廷の発行した貨幣ではない・・・・・からである。 (7)魏志韓伝によれば、3世紀には「弁辰〜〜国出鉄 韓・[ミ歳(ワイ)]・倭皆従取之 諸市買皆用鉄 如中国用銭 又以供給二郡〜」とあり貨幣制度の一端が覗えます。そして5世紀には倭王の度重なる南朝への朝貢による外交があり貨幣制度の認識とその必要性が生じていたでしょう。自らを天子と自称した”多利思北孤”にとって、支配地に貨幣制度を持たなかったなど有り得ないではないか。これが本来の無紋銀銭(文様があったがそれを削り取られている)なのだろう。そう思いここに記しておきます。 (8)日本書紀 顕宗天皇二年(486)十月に「〜稲斛に銀銭一文をかう」との記述があり、九州王朝の無紋銀銭をうかがわせる。 倭国の風景・・・・・寧楽の京師と太宰府     2006.10.15     2006.12.20 1、太宰少弐小野老朝臣の歌一首 <0328> (原文) 青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有 (訳) あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今さかりなり (意味) これまでは、自然から切り取ったような掘っ立て柱と草葺きの屋根しかなかった家屋に変わって、朱色の柱や梁、連子窓の緑、真っ白い漆喰の壁、屋根には瓦がのった家並みが碁盤の目のように立ち並んでいる。 人工的な美がすばらしい。 さながら花の香りが漂っているようだ。 この地に赴任してくる前に住んでいた奈良の都はそのように安らかで華やいだ天子(天皇)の住まわれている所だ。 それに比して赴任して来たこの眼前の見える、「遠の朝廷」といわれた、かっての寧楽の京師の太宰府の地はなんと言う惨状だろうか。 すっかりと、荒れ果て、変わり果てているではないか。 納めるべき税もとどこうり 働き手はすっかり意欲を失なって、貧困に困窮している。 又ある者は未だに果たし得ない倭国復興の夢を捨てきれずいる。 いったい、この国の皇(すめろぎ)と名のっていた為政者達はこの状況をどのように思っているのだろう。 この歌のポイントは万葉カナではない熟語の「寧樂・京師」にあると思う。 今(8世紀)の日本国の奈良の都。もう一つはかっての倭国の太宰府(都督)の都。 だからこそ、「奈良の都、あるいは平城京」との漢字表記にしなかったわけです。 それは『旧唐書』に云う「或いは云う日本は旧小国、倭国の地を併せたり」のこと。そのことを歌を通して証言している。 その対比を眼前の太宰府の地で問いかけている。 主題は脳裏に浮ぶ奈良の繁栄している都ではあるが、真の主題は眼前に見えている荒れ果ててしまっている、かっての倭国の都の惨状を歌っている。 この思いは小野老であれ、大伴旅人であれ、山上憶良であれ、この時代を生きた「筑紫歌壇」の人の共通の感慨なんだろう。 2、大原眞人今城、寧樂の故郷を傷み惜しむ歌一首       2006.12.20追記 <01604>8巻 (原文) 秋去者春日山之黄葉見流寧樂乃京師乃荒良久惜毛 (訳) 秋されば春日の山のもみじ見る寧樂(なら)の京師(みやこ)の荒るらく惜しも (意味) 秋も終わりの季節になって春日山の木々も黄葉(黄葉)し、葉も地に落ちて、あるものは風にまい、あるいは土にまみれて汚れて朽ちていく。私の生まれ育った、このかっての九州王朝の旧都も黄葉の落ち葉のように、荒れ果てている。それを見ると、心が痛んで苦しくも悲しい思いになってくる。 この歌のポイントはやはり「寧樂の京師」と「春日の山」の・・・・・作歌場所はどこか?にあると思う。 大原眞人今城は百済滅亡の際に倭国に亡命してきた百済王の末裔のようですが、(彼は倭国生まれの二世で?)、今は大和朝廷に出仕しているのではなかろうか?と思う。その彼が命を受けて、生まれ育った太宰府の地に来て、その荒れようを見て話に聞いていた祖国でもある百済の旧都のことも併せて、歌に託して感慨を述べたものではなかろうか。 「寧樂の京師」とは九州王朝の王都である太宰府の地であって、だからこそ九州王朝の滅亡とともに荒れるがままとなっているのでしょう。 これを平城京と理解した時、遷都後は特別に荒れるままになっていたわけではなく、「春日の山」とは王都であった太宰府に隣接する弥生時代の中心地である春日の地の山々であって、「黄葉」は春日山だけにあるわけではないのだから。 天の原ふりさけ見れば春日なる、三笠の山に出でし月かも・・・・・『古今和歌集』第9巻<0406> 上の「春日」と『万葉集』8巻<01604>の「春日」とは同一の場所を示し、平城京ではなくて、かっての九州王朝の王都を取巻く地の春日である。 『古代史の十字路 万葉批判』古田武彦  P1〜P25参照 倭国の風景・・・・・皇(すめろぎ)と大王(おおきみ)          2006.10.3 1、 1、大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ 2、大君は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ 「歌はむろん天武天皇の浄御原宮造営を賛歌したものだが、田井とか水沼とかいわれた低湿地が大規模な土木工事によって埋め立てられ、りっぱな皇都が造り上げられたさまが想像される。〜浄御原宮は天武2年から持統7年で2代21年のあいだ動かなかった。中央権力の強化と安定を語るものといってようであろう」・・・・・上の歌二首は「生きている天皇を神にたとえる」と、しているのだが・・・・・『日本の歴史』2古代国家の成立:中公文庫 342ページ どんな時代においても、わざわざ、低湿地帯に都を設営することはあり得ないのではないか?周辺から僅かばかり高い微高地は探せばいくらでもあるわけですし、毎年、雨期になれば洪水の被害に見舞われてしまう、わかりきった所に、何で都設営なのか。上の二首は「田井とか水沼」に都を作っ歌ではない。 そんなおろかなことを賛歌した歌ではなく、「死者が神になることによって死者を(鎮魂する)弔う」歌である。以下はその理由を記す。 2、 『万葉集』では「皇→大王」の位取りの使い分けがきっちり、なされているのだが、現代訓読みの万葉集では「皇」・「大王」とも大君と訳している。 例えば『新訓万葉集』薯:佐々木信綱、岩波文庫 「皇」=すめろぎ(すべらぎ)とは九州王朝の天子ないしは皇をいい、絶対的な唯一性を持ち、 「大王」=おおきみとは九州王朝の配下のトップであったり、九州王朝の皇子をいうのであって、「皇」を大君と訳すのは間違いである。 例えば、下の二首を「皇」と「大王」の位取りを最重要なものとして訳した。 A:歌そのものは第一史料(同時代史料) B:前書きや後書きは第二史料(後代史料)・・・・・『古代史の十字路』古田武彦著:東洋書林 9ページ とみなして、 『万葉集』は『日本書紀』にも『続日本紀』にもその選定の経過等記載が無く大和朝廷にとって「禁書」になった歌集であることもあって、前書きの「壬申の年の乱平定りし以後の歌二首」、後書きの「右の件の二首は天平勝宝四年(752)二月二日聞きて、即ちここに載」をひとまず、はずして考えた。 その結果、見えてきたもの。 <4260> (原文) 皇者神尓之座者赤駒之腹婆布田為乎京師跡奈之都  右の一首は大将軍贈右大臣大伴卿作れり 従来は「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ」としているが、「 皇(すめろぎ)は神にしませば赤駒のはらばふ田為を京師となしつ」と訳すべきでしょう。 (意味) 皇(すめろぎ)は死して神になっていらっしゃいますから、赤駒もはらばう田居(田んぼの中か?)を京師としておられることでしょう。 <4261> (原文) 大王者神尓之座者水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成通  作者未詳 「大君は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ」 (意味) 大王(太子あるいは皇子)は死して神におなりになり、今では皇(すめろぎ)になって水鳥の多く集まる水沼を(沼か池か?)を皇都としておられることでしょう。     <4260><4261>(「皇」・「大王」)が神となり、田居や水沼で死んだ、この神となっている死者を、田居や水沼を天子の都(京師や皇都)と見立て悼らい偲んでいる歌。 それを、前書きに(壬申の年の乱平定りし以後の歌二首)と記述を加えて天武天皇賛歌へと変質させ、後書きに(右の件の二首は天平勝宝四年(752)二月二日聞きて、即ちここに載)を加えて本来1巻〜2巻に当たる歌を万葉集19巻に載せている理由としている。 3、 さて、「皇」や「大王」が田居や水沼という所で死んだ事件はあるのだろうか?と考えた場合に浮かぶイメージは「王朝(国家)の滅亡」ということ。 日本書紀には不思議な一文が記載されています。 ある本によれと、天皇は二十八年に崩御している。〜〜百済本記によって記事を書いたのである。「〜この月、高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると日本の天皇及び太子・皇子皆死んでしまった」と。辛亥の年(531)は二十五年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。・・・ 1、日本国の国号 2、天皇の称号 3、太子の称号 4、百済本記の対象とする日本は? 5、「高麗はその王、安を殺した」この事件は何時のことか これらの事件や称号が何時から始まったのかというと、辛亥の年(531)には未だ天皇の称号はなかったし、日本の国号も後のこと。 すなわち、「高麗はその王、安を殺した」と対比させて記述している「日本の天皇及び太子・皇子皆死んでしまった」は6世紀ではなくて7世紀の時間帯のできごとだと思う。それは九州王朝の滅亡の時間帯でもあった。 この「日本の天皇及び太子・皇子皆死んでしまった」とする敗者側を扱った歌が先に述べた下記の二首。 1、皇(すめろぎ)は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ 2、大王(おおきみ)は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ 上の事件が『日本書紀』継体二十五年(531)に記載されている理由は もし、外国史料に「日本の天皇及び太子・皇子皆死んでしまった」の記述があれば、「継体天皇か、または筑紫の反乱者、イワイの事件ですよ。倭国滅亡の事件ではありませんよ」という「九州王朝隠し」の仕掛けになっているわけです。 倭国の風景・・・・・遠の朝廷        2006.7.24    1、 「倭国は古の倭奴国なり、京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世々中国と通ず。その王、姓は阿毎氏なり〜」・・・・・『旧唐書』倭国伝 「日本国は倭国の別種なり、その国日辺にあるを以って、故に日本となすと。〜日本は旧小国、倭国の地を併せたりと〜」・・・・・『旧唐書』日本国伝 上の記事で云わんとすることは倭国は、倭奴国から唐の時代まで、ずっうと中国に通じてきた同一王朝であって、この倭国の都は筑紫にあったということです。そして、やがて日本国(大和王朝)に統合されて滅亡する。とする、1世紀から7世紀までの当時からの外交交渉の相手国であった中国側の証言です。 この『旧唐書』と、『万葉集』を比較すると、ひとつの姿が観えてきます。それは「滅亡した倭国(九州王朝)=遠の朝廷」です。 同一時間帯に並列して二つ以上の朝廷があるのは、戦国の世や動乱の中での朝廷乱立でしょう。そういった乱立状態ではなくて、この「遠の朝廷」とは、『旧唐書』に記載されているように倭国の朝廷であって、これとは別に日本国の朝廷(701年以降)があった。そして今は滅亡してしまったけれども、かっては筑紫の地に「太宰府」が存在し、天子や宰相がいた。そのことをきちんと、おさえておく事が必要でしょう。 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」・・・・・『隋書』?国伝 にあるように天子と自覚した人間が筑紫の地なる九州王朝にいました。そして「遠の朝廷」とは『万葉集』の中のみの、『続日本紀』に記載されたことも無く、当時の一般社会からも隠蔽された用語なのです。 一般に云われているように、遠の朝廷とは大和朝廷の外交交渉のための出先機関ではありません。それは、東アジアで展開された唯一性を持った朝廷という用語が役所の出先機関の呼称に使われるはずもないではないか。 古より今に至るまで朝廷といえば「大和朝廷」それ以外の朝廷が存在していたことなど、考えようともしない大和朝廷一元主義者にとっては、太宰府をさして「遠の朝廷」と呼ぶことの意味は・・・・かって大宰府の地に外交交渉用の出先機関があったのだろう・・・ぐらいにしか理解出来ないのでしょう。 『旧唐書』には倭国と日本国の書き分けがされていることをきっちりと検討しようともせず不体裁なこととして、切って捨てて顧みることがありませんが、今、古代史界にとって本当に必要なことは、「朝廷といえば・・・王朝といえば・・・大和」この自縄自縛から自在になることでしょう。 2、 『万葉集』の中の「遠の朝廷」と歌われる所在地は筑紫をしめす。 <0304>柿本朝臣人麻呂、筑紫国に下りし時、海路にて作れる歌二首 大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ (原文) 大王之 遠乃朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者神代之所念 <0794>日本挽歌一首 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うちなびき 臥(こや)しぬれ 言はむ術 せむ術知らに 石木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか にほ鳥の 二人竝びゐ 語らひし 心そむきて 家離(さが)りいます (原文部分) 大王能等保乃朝庭等斯良農比筑紫國尓泣子那須斯多比枳摩斯提〜(以下省略) 神亀5年7月21日筑前国守山上憶良上 <0973>天皇、酒を節度使の卿等に賜へる 御歌一首並に短歌 食(をす)国の 遠の朝廷に 汝等(いましら)し かく罷(まか)りなば 平らけく 吾は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ 天皇朕(すめらわ)が うづの御手もち 掻き撫でぞ 労ぎたまふ うちなでぞ 労ぎたまふ 還り来む日 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は <3668>筑前國志摩郡の韓亭に至りて、船泊して三日を経たり時に月の光皎皎にして 流照りき。たちまちこの華に対ひて旅の情悽み噎び、各心緒を陳べていささか 以ちて裁(つく)れる歌六首 大君の遠の朝廷と思へれどけ長くしあれば恋ひにけるかも (原文) 於保伎美能等保能美可度登於毛敝礼杼氣奈我久之安礼婆古非尓家流可母 右の一首は大使 <3688>壱岐島に到て、雪連宅満の忽に鬼病に遭ひて死去りし時作れる歌一首並に短歌 天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る吾背は 家人の 斎ひ待たねか 正身(ただみ)かも 過ちしけむ 秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経たぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 未だも着かず 大和をも 遠く離りて 石が根の 荒き島根に 宿する君 (原文部分) 須賣呂伎能等保能朝庭等可良國尓和多流和我世波〜 <4331>防人の別れを悲しむ心を追ひ痛みて作れる歌一首並びに短歌 天皇の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国は 賊守る 鎮の城ぞと 聞し食す 四方の国には 人多に 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は 出で向ひ 顧みせずて 勇みたる 猛き軍卒と 労ぎたまひ 任のまにまに たらちねの 母が目離れて 若草の 妻をもまかず あらたまの 月日数みつつ葦が散る 難波の御津に 大船に 真櫂繁貫き 朝なぎに 水手整へ 夕潮に 楫引きをり 率ひて こぎゆく君は 波の間を い行きさぐくみ 真幸くも 早く到りて 大君の 命のまにま 丈夫の 心を持ちて あり廻り 事し畢らば 恙はず 帰り来ませと 斎瓮を 床べにすえて 白たへの 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは (原文部分) 天皇乃等保能朝廷等之良奴日筑紫國波〜       (新訓万葉集 佐佐木信綱編 岩波書店による) ※ 1、しらぬひの意味 「歌の調子を整えるため、筑紫にかかる枕詞」とされるが・・・???。今に失われた言葉で、かっては明確な意味があったと思われます。万葉人はそれを知った上で作歌した(例えば山上憶良660-733? <794>題詞の日本挽歌が気になります) 2、山上憶良など筑紫歌壇と云われる人達にとって、九州王朝が太宰府の地にあったことは、同時代に生きた彼らは直接・間接を問わず見聞していたこと、当然の道理ではないか。 例えば、山上憶良の800〜805の「山沢に亡命する民」への詩とか、892〜893の貧窮問答の歌と短歌等。 3、「大王(大君)の遠の朝廷」と歌われますが、「大王がお使え致していました今はなき九州王朝(朝廷)の」の意味。  『万葉集』は皇(すめろぎ)と大王(大君)の位取りが明確である。 倭国の風景・・・・・鯨面文身  2006.6.4 古代の倭人の身体的特徴のひとつに鯨面文身がありますが、それがいかなるものだったのかを考えます。 1、『魏志』倭人伝から 「男子は大小と無く、皆鯨面文身す。古よりこのかた、その使の中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以って咬龍の害を避く。 今倭の水人好んで沈没して魚蛤を補う。文身亦以って大魚・水禽を厭う。後やや以って飾りとなす。 諸国の文身各各異なり、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大に、あるいは小に、尊卑差あり。 その道里を計るに、当に会稽東治の東にあるべし」 陳寿の認識では倭人の鯨面文身は中国の夏の時代に会稽の東に住む海人の断髪・文身の習慣が倭人の海人にも伝播して3世紀の倭人は鯨面・文身していると見ていますが、文身ということでは同じですが断髪の習慣は伝わっていない。 また、倭人独特として鯨面がありますし、文身では、朝鮮半島南部の弁辰の海人にも見られたと記述されています。 これらのことから、東シナ海を取巻く海人のルーツである鯨面文身は、海に潜って貝を採る文化(貝文明)から発生したのではないかと思います。 すなわち、イモ貝やゴボウラ貝や宝貝の獲れる南海の珊瑚礁の海であり、海人のルーツでもあるスンダランドではないかと思います。 そこから、黒潮に乗って辿り着いた地に其々の文身の入墨文様が根付き、発展したのでしょう。中国では断髪・文身、倭人は鯨面・文身のように。 特に倭人の世界では独特の鯨面が発達したようです。・・・・鯨面文身の背後に貝文明がある。 この「男子は大小と無く、皆鯨面文身す」から倭国の海洋国家像が浮かんできます。 2、『隋書』?国伝から 「男女多く臂に鯨し、面に鯨し、身に文し、水に没して魚を捕う」 鯨面文身の習慣は倭人の世界では7世紀初頭にもあったと『隋書』の編纂者の魏徴(580-643)は認識していますが、大業4年(608)に来倭した裴清の帰国報告書等を参考にしたのでしょう。 3、『古事記』から 1)「三輪山の西山麓近辺の高さじ野で”いすけよりひめ”と出会った時、筑紫出の大久米の命の目が入れ墨でくまどっているのを見て大和育ちの”いすけよりひめ”が見慣れないと奇妙に思った」とあります。・・・・・・(神武記) これは魏史倭人伝に記載のある「男子は大小となく、皆鯨面文身す」の鯨面です。 そして大和にはその鯨面の習慣がない。すなわち神武達は倭人の出身。 2)「意祁の王、袁祁の王はこの騒動を聞いて、遠くへ逃げて行きました。そして山城の国の苅羽井まで行かれてお弁当を執っていらっしゃる時、目の縁に入墨をした老人が来て、その食物を奪い取ってしまいました。〜」・・・・・(安康記) 元々、海洋の民の危険回避の為の文様としての鯨面なので、内陸地である大和ではその必要がまったくなかったのでしょう。この時代になると、鯨面には、民族の誇りなど、すっかり無くなってしまって、盗賊の役割になり下がっています。 2006.6.25 記 この時、意祁の王、袁祁の王が馬飼い・牛飼いなって、危機から身を隠した場所が播磨国であるのは播磨国が、勢力範囲の最西端であったからではなかろうか?と、同時にそれより西は大和勢力の及ばない地帯(九州王朝の支配下)ではなかったか?・・・・と思う。危機を避けることが出来て、一方では彼らが必要とする情報も入手できる、播磨国はそのぎりぎりの場所だった。