2010/04/21 安本美典氏の「最近の邪馬台国論争批判」を聴く 「古代を学ぶ会」の今月の月例講演会 元産能大学教授で、現在も「邪馬台国の会」主宰し季刊「邪馬台国」編集責任者でもある安本美典(やすもとびてん)氏は、特異な日本史研究家である。数理文献学という独自の手法に基づいて日本古代史の謎に迫り、30数年来「邪馬台国=甘木・朝倉説」および「大和への東遷説」を主張し続けておられる。とかく恣意的で主観に満ちた古代史論が多い中で、統計的な手法を用い数値データと客観的な史料の基づいた氏の論説は極めて新鮮で説得力がある。 aaaaa 講師の安本美典氏 この一年間、「邪馬台国=畿内説」や「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」を補強するような次の研究発表や遺跡発掘があった。 ●国立歴史民俗博物館(以下、歴博)は箸墓古墳から出土した「布留0式」土器に付着していた炭化物を放射性炭素(C14)年代測定法で調査し、この古墳の築造時期を240〜260年とする調査結果をマスコミに発表した(2009/05/29)。邪馬台国の女王・卑弥呼の死はこの年代幅におさまるため、マスコミは箸墓古墳は卑弥呼の墓で決まり、といった論調でこの発表を報道した。 ●奈良県の桜井市教育委員会は、現在発掘調査中の纒向遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかったと、記者発表した(2009/03/20)。マスコミはそれを受けて、卑弥呼の宮殿の一角が見つかったと大々的に報じた。 ●橿原考古学研究所(以下、橿考研)は現在発掘調査中の桜井茶臼山古墳の石室から多数の銅鏡の破片が見つかり、国内最多の13種、81面の銅鏡が副葬されていたことを明らかにした(2010/01/07)。その中には、「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡の破片があった。 aaaaa 熱弁をふるわれる安本美典氏 東京都の中野区には、古代の歴史と文化を学ぶ目的で1986(昭和61)年に発足した「古代を学ぶ会」があり、第一線で活躍している専門家を招いて毎月一回講演会を開催している。本日は安本美典氏を講師に招いて「最近の邪馬台国論争批判」という演題で講演をいただくことになっているという。 そのことをインターネットで知って、久しぶりに中野区勤労福祉会館に出向いた。筆者も最近のセンセーショナルなマスコミ報道の内容には、いささか疑問を感じていたので、邪馬台国九州説の旗手である安本氏が、最近の考古学の報道にどのような反論を展開されるのか非常に興味を持った。氏の講義は、長年の研究成果をベースにしたマスコミ批判であり、その内容は十分に首肯すべきものだった。備忘録の意味を兼ねて、その主要部分を以下に記すことにする。 C14年代測定のからくり−箸墓古墳の築造時期は4世紀中頃 歴博は、放射性炭素(C14)年代法によって箸墓古墳から出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器片など16点に付着した炭化物を測定し、得られた測定データから箸墓古墳の築造時期は240〜260年であるとマスコミに発表した。昨年の5月29日のことである。その年代幅は、卑弥呼が死去したとされる248年に合致し、発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず(箸墓古墳は)卑弥呼の墓であることが確定的になった」と述べた。 歴博が測定に使用した布留0式土器片 歴博が測定に使用した布留0式土器片 放射性炭素(C14)年代測定法とは、植物などに含まれる炭素の一種「C14」が5730年で半減する特性を生かし、残存する炭素量を調べることで出土遺物の年代を測定する方法である。この方法を用いた歴博の測定結果は、従来350年頃と推定されていた箸墓古墳の築造時期を一気に100年早め、卑弥呼の死期と重なった。さあ大変である。とかくこの種のニュースに冷静さを欠くマスコミ各紙は歴博の発表をセンセーショナルに報道した。 歴博は歴史学や考古学、民俗学に関する調査研究を行う国立の機関である。そこの専門家グループがC14年代測定法という最新の科学手法で導き出した調査結果となると、誰しもその大胆な研究発表を信用したくなる。だが、歴博の「箸墓=卑弥呼の墓」説のインチキ性をいち早く指摘した専門家がいる。その一人が安本美典氏だった。 上空から見た箸墓古墳 上空から見た箸墓古墳 歴博の調査結果は、5月31日に開催された日本考古学協会の総会で発表された。その総会に出席した安本氏は、歴博の研究は 「はじめに「箸墓古墳=卑弥呼の墓」の結論があって、そこにデータを当てはめたとしか思えない」 とコメントしておられる(2009/10/22 週刊文春)。 本日の講演でも、安本氏は2つの点を指摘して、歴博発表のインチキ性を指摘し、2010年の「平城遷都1300年祭」祝賀のための打ち上げ花火ではなかったか、とこき下ろされた。 安本氏が着目された最初の点は、調査結果が日本考古学協会の総会で正式に発表される2日も前にマスコミで報道された点だ。氏はそれを歴博の意図的なリークと見なされる。歴博は年間4億円の研究費を国から貰っている。そのため、何らかの注目すべき研究の成果を出さなければならない。世間の注目を浴びる最も効果的手段はマスコミの利用である。多少インチキな情報でも、マスコミがセンセーショナルに報道してくれることで、世間は認めてくれる。そうしたしたたかな思惑が歴博グループにはある、とは安本氏の弁だ。 安本氏が指摘された第二の問題点は、放射性炭素(C14)年代測定法の限界である。この科学的手法でどこまで正確な年代が出せるのかはまだ研究段階にある。加速器質量分析(AMS)法の導入によって微量の試料で測定できるようになり、考古学的な編年の物差しである土器の付着炭化物(こげ、すす)を測定する方法が1990年代に開発された。歴博が箸墓の年代推定に用いたのもこの方法であるが、何によってできた炭化物かわかりにくいという難点があるという。 最近の研究では、大気循環の変化でC14濃度に局所的なムラができることが分かってきており、樹木年輪を照合して作成した国際標準のデータベースでC14年代を実年代に直すと、日本では古墳出現期を含む1〜3世紀に最大100年古くずれるという。C14年代法は条件が良くても20〜30年の測定誤差があり、正確に実年代に直す方法はまだ研究の途上にある。 安本氏は講演のレジメで、庄内3式、布留0式、布留1式の土器と一緒に出土した桃の核と土器付着炭化物に関して、現在まで公表されているC14年代測定の全データを示された。それによると、桃核から得られたデータよりも土器付着炭化物から得られたデータが、いずれの型式の土器でも実際に100年以上古いという結果が出ている。そこで、安本氏は、歴博は自説に都合の良い測定データだけで箸墓古墳の築造年代をはじき出しているのであって、都合の悪いデータは公表しておらず、研究方法が恣意的である、と指摘される。 歴博は、年代推定に用いた日本樹木年輪による日本版データベースを公開していない。一方、国際標準のデータベースで布留0式土器のC14年代(1800BP)を実年代に変換すると、214〜244年となり、歴博の日本版データベースで推定した年代よりも古くなることも報告されている(2009/07/28 毎日新聞夕刊)。こうした諸々の点を勘案すると、安本氏が言われるように歴博の発表は為にする研究成果発表だったのであり、箸墓古墳=卑弥呼の墓を証明する根拠にはならない。ちなみに、橿考研の関川尚功(せきがわひさよし)氏も、箸墓古墳出土の土器は古くても布留1式期のもので、箸墓の築造は4世紀中頃と推定しておられるとのことだ。 魏志倭人伝の記述を無視した卑弥呼の宮殿騒動 aaaaa 纒向遺跡の建物跡配置図 (産経新聞インターネット版より) 桜井市の教育委員会は昨年2月から、纒向遺跡の中心部の学術調査を開始した。その付近は1978年度の調査で神殿風の特殊な建物跡が見つかった場所である。3月になって、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかり、過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことが確認された。当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。 さらに11月には、3世紀前半では国内最大規模の大型建物遺構が見つかり、市教委は「遺跡中枢部の居館域で、中心的な人物がいた建物」と説明した。例によって、なにかとセンセーショナルに報道したがる我が国のマスコミ各社は、桜井市教育委員会の発掘発表に飛びついた。そして、卑弥呼の王宮が見つかった、邪馬台国論争は畿内大和説で決まり、といった論調でこの発掘報道を伝えた。 発掘された4棟の建物の復元模型 大型建物跡発見で大勢の見学者が訪れた 現地説明会の様子(2009/11/15) こうした卑弥呼の宮殿騒動に対して、安本氏はよほど苦々しく思われたのであろう。後に、太平洋戦争中の大本営の発表と、人々が先導されていったあの時の苦い歴史を思い出したと述懐しておられる(2010/02/05 西日本新聞)。そして、纒向の地で宮殿遺構が発掘されたとなると、記紀に記された崇神・垂仁・景行天皇の宮に関係しているのではないかと専門家の頭に浮かぶはずだが、誰もそのことに言及していないのは、日本の考古学者がいかに日本の歴史書を無視または軽視している証左である、と苦言を呈された。 言うまでもなく、邪馬台国の女王・卑弥呼が居所とした宮殿は魏志倭人伝に記されているだけである。そうであれば、纒向遺跡で発見された建物跡が倭人伝の記述に合致するかどうかの検討がまず行われなければならない。倭人伝には、卑弥呼の居所には「宮室、楼観(たかどの)、城柵をおごそかに設け、つねに人がいて、兵器を持ち守備をしている」「兵器には矛(ほこ)を用いる」「竹の箭(や)は鉄の鏃(やじり)あるいは骨の鏃である」などと記されている。 発掘された4棟の建物の復元模型 発掘された4棟の建物の復元模型 (製作は黒田龍二・神戸大大学院准教授) 纒向遺跡の4棟の建物跡は、いずれも中軸線を東西の同一直線上におき、同じ方向を向いて建てられている。 同一直線上に複数の建物を配置した例は、3世紀代の纒向遺跡より古い遺跡では見つかっていない。それどころか、7世紀の飛鳥時代に建てられた王宮まで例を見ない。そのため邪馬台国畿内説の論者はこの点を重視し、この居館域は卑弥呼の宮殿跡であると強弁される。しかし、安本氏によれば、そんなことは倭人伝には何も書かれておらず卑弥呼の宮殿である論拠にならない。卑弥呼の宮殿であるためには、魏志倭人伝が伝える景観を満足しなければならない。 佐賀県の吉野ヶ里遺跡は弥生時代を通じて発達したクニの遺跡で、邪馬台国九州説の候補の一つにされているが、こちらの北内郭は二重の環壕に囲まれており、その中に斎場棟、主祭殿、物見櫓と思われる建物跡があった。卑弥呼の宮殿をイメージするなら、むしろこちらが近い。纒向遺跡でも建物を囲むように柵が敷設されていたが、これは区画用の柵であり、防御用に設けられた城柵ではない。 発掘された4棟の建物の復元模型 吉野ヶ里遺跡の北内郭 さらに、西暦300年を基準としてそれ以前とそれ以後の弥生時代の出土遺物を福岡県と奈良県で比較すると、顕著な特徴が観られるという。そのための資料を安本氏はレジメに用意されていた。例えば、300年以前に出土した鉄鏃、鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈といった武具の数は圧倒的に福岡県が多くて、奈良県の出土例はほとんどゼロに近い。10種類の魏晋鏡も福岡県では37面出土しているが、奈良県ではたった2面にすぎない。ところが、300年以後になると、古墳時代の遺物とされる三角縁神獣鏡の出土数は、福岡県が49面であるのに対して、奈良県が100面とはるかに凌駕する。もちろん80m以上の大型前方後円墳の数も、奈良県が福岡県より圧倒的に多い。 魏志倭人伝に記されている事物で、考古学的の検証できるものはすべて福岡県の方が奈良県より何倍も多く出土している。したがって、邪馬台国の所在地はこうした厳然たる考古学的知見に基づいて考察すべきであると、安本氏は主張される。邪馬台国が奈良県にあって欲しいというのは、ある特定の人々の思いこみに過ぎず、マスコミが勝手に騒いでいる珍現象にすぎない。ちなみに、纒向遺跡の発掘を担当している桜井市教育委員会は、纒向遺跡が卑弥呼の宮殿跡だったとは今まで一言も言及していない。 三角縁神獣鏡は邪馬台国畿内説の根拠になりえず 橿考研が昨年発掘調査した奈良県桜井市の市街地にある桜井茶臼山古墳は、実にさまざまな発見をもたらした。まず、死者の魂と外界を区別する結界施設と思われる「丸太垣」の存在が明らかになった。 桜井茶臼山古墳の石室内部 多くの銅鏡片が見つかった桜井茶臼山古墳の石室内部 ついで、竪穴式石室の壁面に積み上げられた石や天井石の全面に、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれる水銀朱が塗られていることが判明した。使用された水銀朱の量を推定すると、約200キロにも達し、国内の古墳で使用された量としては最大であるという。 そして、今年の1月、石室には国内最多の13種、81面の銅鏡が副葬されていたことをマスコミに公表した。 興味深いのは、これらの銅鏡は完形また破損した形で出土したしたのではない。大きさが1cmから2cm程度の鏡の破片として見つかったものがほとんどで、完全に元の鏡の形に復元できるものは一面もなかった。 並べられた銅鏡の破片 並べられた銅鏡の破片 その中の三角縁神獣鏡の破片の一つに、「是」という字が刻まれているものがあった。この縦1.7cm、横1.4cmの小さな破片を橿考研が作成した「三次元デジタル・アーカイブ」のデータと照合した結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)から出土した「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで、同じ鋳型から作られた鏡であることが判明した。正始(せいし)元年は西暦240年。卑弥呼が魏の都洛陽に派遣した使節が、魏の皇帝から下賜された銅鏡100枚を含む品々を携えて帰国した年の魏の年号である。 副葬されていた銅鏡 種類 面数 三角縁神獣鏡 26面 内行花文鏡(国産) 10面 内行花文鏡(舶載) 9面 画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面 半肉彫神獣鏡 5面 環状乳神獣鏡 4面 だ龍鏡 4面 細線獣帯鏡 3面 方格規矩鏡 2面 単き鏡 1面 盤龍鏡 1面 三角縁神獣鏡には、さまざまな謎がある。まずその出土枚数である。魏志倭人伝の記述を信用するなら、景初3年(239)に卑弥呼が派遣した遣魏使節が、魏の都洛陽を訪れ即位したばかりの皇帝・曹芳(そうほう)に拝謁したのは、その年の暮の12月である。魏帝は詔を下して卑弥呼を親魏倭王に叙して金印紫綬を与えることとし、数々の下賜品を帰国する使節の一行に託した。しかし、魏帝はまだ8歳の幼帝、すべてを取り仕切ったのは補佐役の大将軍曹爽と太尉司馬懿だった。使節の一行が洛陽を離れたのは、年が明けて年号が正始元年と改まった西暦240年である。一行に託された下賜品の中に、邪馬台国論争で話題になっている「銅鏡百枚」があった。 三角縁神獣鏡の出土枚数は1982年の時点で375枚。その後も続々と発見され2010年現在で545枚に達している。講演では、安本氏は考古学者森浩一氏の面白い見解を紹介された。平安時代初期の頃中国に呉越という国が成立し、貿易立国を目指して「銭弘俶塔」(せんこうしゅくとう)というものを500基日本にくれた。銭弘俶塔は阿育王塔とも通称される仏舎利小塔で、経塚などに埋められたが、現在日本で出土しているのはたった4例だけだそうだ。すなわち我が国に送られた数の1%に満たない。三角縁神獣鏡は古墳から発見される割合がもう少し高く、仮に10%程度と想定すると、今世紀半ばにはおそらく1000面以上は出土しているだろうとのことだ。 椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡 京都府椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡 こうしたことは、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された魏鏡ではなかったことを意味している。以前は、服属の印として三角縁神獣鏡を地方豪族に分かち与えたとの説があった。しかし、一つの古墳から複数枚、多い時には30枚以上も副葬されている古墳がいくつも奈良県で見つかっている。これらの古墳の被葬者は威信財として倭王から下賜された銅鏡を死出の旅路に持って行ったとは言えない。むしろ、遺体を悪霊から守るために破邪を目的として縁者が被葬者を埋葬するとき副葬したと考えた方が分かりやすい。 さらに、安本氏は興味深い指摘もされた。現代中国を代表する考古学者の王仲殊(おうちゅうしゅ)氏や徐苹芳(じょへいほう)氏は、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された鏡でないことを繰り返し否定しておられるとのことだ。すなわち、魏の領域では三角縁の神獣鏡はもともと全く存在せず、平縁の神獣鏡すら絶無に近く、中国で出土する平縁神獣鏡はどの種類であれ、すべて揚子江流域の呉鏡であり、黄河流域の魏鏡ではない、とのことだ。 それにも関わらず、邪馬台国畿内説を唱える専門家は、魏の特注説まで持ち出して相変わらず三角縁神獣鏡は魏から下賜されたと主張する。こうなると、もはや学問ではなくオーム真理教のように信仰にはまった狂信者としか言いようがない。 位至三公」銘鏡(出典:西川寿勝著 「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」) 位至三公」銘鏡 (出典:西川寿勝著「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」) では、邪馬台国が存在した3世紀代に魏で制作された銅鏡にはどのような鏡があったのか。安本氏は2種類の鏡に着目される。「位至三公鏡(いしさんこうきょう)」と「蝙蝠鈕座内行花文鏡(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)」 である。 徐苹芳氏によれば、位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく作られ始めた鏡で、西晋時代(265〜316)に大層流行したが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったとのことだ。一方、魏が成立すると、その官営工房では内行花文鏡や獣首鏡などすべて後漢以来の旧式鏡が制作されるようになったが、いくつかの鏡で文様が簡略化された。「蝙蝠鈕座内行花文鏡」とは、内行花文鏡の鈕座(紐を通す穴)の周囲のスペード形の文様が蝙蝠の形になってしまったものをいう。 蝙蝠鈕座内行花文鏡 蝙蝠鈕座内行花文鏡 興味深いのは、位至三公鏡は、わが国では29面出土しているが、近畿では大阪府下で6例が報告されているにすぎず、その他な福岡県・佐賀県・大分県を中心とする北九州からの出土である。蝙蝠鈕座内行花文鏡に関しても、福岡県からは10枚出土しているが、奈良県からは1枚の出土例もない。 さらに、安本氏は、興味深い資料も講演で提示された。卑弥呼が貰った可能性が大きい10種類の魏晋鏡の県別の出土数である。10種類の魏晋鏡とは上記の2種類の他に双頭竜鳳文鏡や方格規矩鳥文鏡なども含めた銅鏡であるが、出土数は福岡県では37面、奈良県は2面と圧倒的に福岡県が多い。 卑弥呼の後を継いだ台与(とよ)も魏に使節を派遣してさまざまなものを献上している。その中に異文雑錦二十匹が含まれていて、当時我が国でも絹織物の生産が行われていたことを物語っている。しかし、弥生時代から古墳時代前期の絹製品出土地を県別に区分した場合、福岡県が15カ所と他県より圧倒的に多く、奈良県は2カ所に過ぎない。 こうした考古学のデータは、あきらかに邪馬台国は奈良県ではなく、福岡県だったことを示している。一方、西暦300年以降の古墳時代に出土する三角縁神獣鏡の場合は、立場が逆転する。奈良県で100面出土したのに対して、福岡県はその半分の49面である。 安本氏は三角縁神獣鏡に関してその特徴を次のように列挙された。 1.三角縁神獣鏡は中国から1面も出土していない 2.紋様が中国南方系のものであって、中国北方系のものではない 3.銅同位体比による研究で、鏡の原料である銅も中国南方系のものである 4.日本では、確実な3世紀の古墳からは出土例がない 5.出土した数が多すぎる 6.中国鏡に比べて形が大きい 大陸では、220年に後漢が滅亡して魏・呉・蜀の三国時代が続いたが、司馬炎が265年に三国を統一して西晋を建てた。しかし、西晋の時代は長く続かず、北方民族に攻められ317年に建康(現在の南京)に遷都した。それ以降、この国を東晋と呼んでいる。倭の五王の時代、我が国は東晋に使者を派遣していたことが中国の史書に記されているが、それ以前から東晋との通交はあったと思われる。三角縁神獣鏡の原料となる銅はおそらく東晋から得ていたのであろう。図案もおそらく浙江省で制作されていた神獣鏡から学んだものだろう。 それでも残る三角縁神獣鏡の謎 安本美典氏は代表的な邪馬台国九州論者である。当然のことながら、邪馬台国大和説に対する批判は舌鋒が鋭い。その根拠となるデータが今回の講演のレジメに示されていた。それらのデータの中で、弥生時代から古墳時代前期にかけての古墳からの出土遺物や前方後円墳の数などを県別に示したグラフは分かりやすい。一瞥しただけでも、当時の権力の中心が日本列島の何処にあったかが、素人にも容易に推測できる。 景初三年銘三角縁神獣鏡 景初三年銘三角縁神獣鏡 (島根県の加茂神社古墳出土) 今回の講演では、安本氏は3世紀に政治勢力が福岡県に存在したことに言及されたが、持論の邪馬台国=甘木・朝倉説は展開されなかった。講演の主題が最近の邪馬台国論争の批判に置かれたためであろう。だが、三角縁神獣鏡が出土するのは西暦300年以降の古墳からだと安本氏は言われるが、それは事実なのだろうか。最近は年輪年代学の成果で、古墳時代の開始は3世紀に繰り上がっており、3世紀に編年される古墳から出土している三角縁神獣鏡の例はないのだろうか。気になるところである。 一方、講演のレジメには、我が国で出土した銅鏡のうち銘文中に紀年が記された鏡14面のリストが掲載されていて、そのうち次の5面が三角縁神獣鏡になっている。 ・神原神社古墳(島根県雲南市加茂町大字神原、推定築造時期:4世紀中頃)出土の「景初三年」鏡 ・蟹沢古墳(群馬県高崎市柴崎町蟹沢、推定築造時期:5世紀初頭)出土の「正始元年」鏡 ・森尾古墳(兵庫県豊岡市森尾字市尾、推定築造時期:4世紀末から5世紀初頭)出土の「正始元年」鏡 ・竹島御家老屋敷古墳(山口県周南市、推定築造時期:5世紀初頭)出土の「正始元年」鏡 ・桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市外山、推定築造時期:3世紀末から4世紀初め)出土の「正始元年」鏡の破片 桜井市の茶臼山古墳から見つかった銅鏡の破片は、蟹沢古墳から出土した「正始元年」銘の三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで、同じ鋳型から作られた鏡と考えられている。安本氏が言われるように、三角縁神獣鏡は卑弥呼とは関係なく4世紀以降に鋳造された銅鏡ならば、なぜその銘文に卑弥呼が遣使した時期に合致する景初3年や正始元年の銘がこれらの鏡に刻まれているのだろうか。残念ながら、その説明は氏の講義の中にはなかった。 広峯15号墳出土の景初四年銘鏡 広峯15号墳出土の景初四年銘鏡 さらに興味深いことがある。三角縁神獣鏡とは異なる斜縁盤龍鏡が、京都府の広峯15号墳と宮崎県(出所地不明)から出土していて、これらの鏡には全く同じ銘文が刻まれている。しかも、その銘文には制作年として「景初四年」と記されている。魏の2代皇帝・曹叡は景初三年正月初一丁亥日(239年1月22日)に死亡したが、後を継いだ曹芳は年号をそのまま継続して使用し、その年の12月(子月)になって、次の丑月を景初3年の後12月とし、その次の寅月から正始元年正月とする詔を出している。したがって、景初3年の次の年号は正始元年であり、景初4年という年号は存在しない。 そのため、これらの鏡は魏の改元の実情を知らない我が国で鋳造されたと見なされている。だが、景初4年は正始元年であり、上記の5面の三角縁神獣鏡と同様に卑弥呼が魏の都洛陽に遣使した時期との強いつながりが意識されている。邪馬台国=九州説論者の主張のように、これらの鏡が邪馬台国と無関係とするならば、それこそ不自然ではなかろうか。それとも、卑弥呼遣使の伝承が4世紀にも大和の鏡制作集団に語り伝えられていて、鋳造時期を古く見せるための方便として、景初や正始という魏の国の年号を用いたのだろうか。