日本書紀巻第1・2、神代紀と古事記との訳と解説をしたページです  奈良の名所案内を書くうちに、天皇についての記述の関係で、天皇の事績を書き始めましたが、いつの間にかに、日本書紀巻第3〜30の大雑把な訳になってしまいました。  そこで、今回は、順序は逆ですが、日本書紀巻第1・2、所謂、神代紀の大雑把な訳に挑戦します。  日本書紀巻第3以降は、年月日が記載されていますので、文を区切ることができますが、日本書紀巻第1・2には日付がありませんので、文の区切り方を決める必要があります。  書記は、まず本文(だと思います)があり、続いて異伝(一書)が書かれています。本文によって異伝の数はまちまちで、多いときには10を超えます。そのため、本文・異伝を確実に示す必要があります。  そこで、今回の訳については、次の条件で記載していきます。 1 日本書紀と古事記とは同じ内容を記述しているので、古事記を最初に記載して、訓み等の参考にする 2 本文を一つの区切りとし、段で表す 3 「一書」は複数あるので、「一書」ごとに下位の区切りとし、節で表す    第一段三節とは、最初の本文の三番目の一書です。  「一書」以外にも、文中に「或は、……と云う」と、異説が書かれています。異説が短い場合や小さな字で書かれていると、判りやすいのですが、そうでないと判りづらくなります。  例えば、日本書紀第二段本文中に、「次の~は、大戸之道尊(おほとのぢのみこと)一つには、大戸之辺(おほとのべ)と云うと大苫辺尊(おほとまべのみこと) または、大戸摩彦尊(おほとまひこのみこと)・大戸摩姫尊(おほとまひめのみこと)と云う。または、大富道尊(おほとまぢのみこと)・大富辺尊(おほとまべのみこと)と云う」と書かれています。  これは、「次の~は、大戸之道尊(=大戸之辺)と大苫辺尊である。または、大戸摩彦尊と大戸摩姫尊と云う。或は、大富道尊と大富辺尊と云う」ということです。 この場合は、異説が小さな字で書かれているため判りやすいですが、同じ大きさの字で書かれていると意味合いを取るのがむつかしくなります。 同じ大きさの字にすると、「次の~は、大戸之道尊、一つには、大戸之辺と云う。大苫辺尊。または、大戸摩彦尊・大戸摩姫尊と云う。または、大富道尊・大富辺尊と云う」となります。  その為、判りづらいと思う個所については、本文にはありませんが、{……}で囲みます。  日本書紀には、古事記の奉上文に当たる部分がありませんので、これについては、こちらをご覧ください。  日本書紀の各段に相当する古事記に移動します。  第一段、第二段、第三段、第四段、第五段、第六段、 第七段、第八段、第九段、第十段、第十一段 古事記 原文(第一段相当) 天地初發之時 於高天原成~名 天之御中主~訓高下天云阿麻下效此 次高御産巣日~ 次~産巣日~ 此三柱~者 並獨~成坐而 隱身也 次國稚如浮脂而 久羅下那洲多陀用幣流之時流字以上十字以音 如葦牙因萌騰之物而 成~名 宇摩志阿斯訶備比古遲~此~名以音 次天之常立~訓常云登許訓立云多知 此二柱~亦獨~成坐而 隱身也 上件五柱~者 別天~ 訳  天地(あめつち)が初めて分かれた時に、高天原(たかあまのはら)に成られた~の御名は、天之御中主~(あめのみなかぬしのかみ) 訓高下天云阿麻下效比(高の下(しも)の天は訓よみで阿麻(あま)と云う。下(しも)これに效(なら)え(=以下同じ)(メモ010001)、次に高御産巣日~(たかみむすひのかみ)、次に~産巣日~(かむむすひのかみ)である。  この三柱(みはしら)の~はみな獨~(ひとりがみ)で、お姿を現されることはありませんでした。  その後、世界(宇宙)ができたてで、水に浮かぶ脂(あぶら)のように、或は、海を彷徨(さまよ)う久羅下(くらげ)のように定めなく漂(流)っている時流の字以上十字は音訓み、葦(あし)の芽のように息吹き萌え上がるものから成られた~の御名は、宇摩志阿斯訶備比古遲~この~の名は音訓み(うましあしかびひこちぢのかみ)、次に天之常立~常を登許(とこ)と云う。立を多知(たち)と云う(あめのとこたちのかみ)である。  この二柱の~もまた獨~で、お姿を現されることはありませんでした。 以上の五柱の~は別天~(ことあまつかみ)である。 日本書紀 第一段 本文 日本書紀 巻第一(やまとのくにつふみ まきのついで はじめのまきに あたるまき)  ~代上(かみのよのかみのまき)  「古(いにしへ)の未だ天地が離れず、陰と陽とも分かれておらず、廻りならが漂う姿は、あたかも鶏の卵のようであり、暗くてよくわからない中で何らかの芽生えの気配が生まれた。その輝くものは薄く広がって天となり、重く濁ったものは留まって地となった。  清く明るいものは集まりやすく、重く濁ったものは固まりにくかった。そこで、まず、天ができ、その後に地ができた。かくして後に、~がその中で生まれた」と、云われている。  かようなことから、我が国では、次のように伝えられている。  天地ができ始める時の地が浮かび漂う様子は、例えると、魚が水の上に浮いているようなものであった。その時、天地の中に一つのものが生まれた。形は萌え出(いづ)る葦の芽のようで、それが~となった。國常立尊(くにのとこたちのみこと)と申し上げる。 大変貴い方を尊と表し、それ以外を命と表す。二つとも美擧等(みこと)と云う。以下、皆これに倣(なら)え(メモ010002)。 次に國狹槌尊(くにのさつちのみこと)、次に豐斟渟尊(とよくむぬのみこと)で、すべてで三柱の~である。この三柱の~は乾道(あめのみち=陽)だけで生まれたものである。よって、純粋な男~である。 第一段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天地が初めて分かれ始めた時、あるものが空にあった。形状しがたきものであった。その中に自然と~が生まれた。國常立尊と云う。または國底立尊(くにのそこたちのみこと)と云う。 次に國狹槌尊(くにのさつちのみこと)、または國狹立尊(くにのさたちのみこと)と云う。 次に豐國主尊(とよくにぬしのみこと)、または豐組野尊(とよくむののみこと)と云う。または豐香節野尊(とよかぶののみこと)と云う。または浮経野豐買尊(うかぶののとよかふのみこと)と云う。または豐國野尊(とよくにののみこと)と云う。または豐齧野尊(とよかぶののみこと)と云う。または葉木國野尊(はこくにののみこと)と云う。または見野尊(みののみこと)と云う。 第一段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  古(いにしへ)の国も地も誕生したばかりの頃は、例えれば、膏(あぶら)が水に浮かんでいるようなものであった。ある時、国の中にものが生まれた。その形は葦の芽が芽生え出たようであった。  かようにして、生まれた~がおられた。可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と云う。次に國常立尊。次に國狹槌尊。  葉木國、これを播挙矩爾(はこくに)と云う。可美、これを于麻時(うまし)と云う。 メモ010201 第一段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天と地とが混じり合っていた時に、初めて~人(かみ、メモ010301)が生まれた。可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と云う。次に國底立尊。  彦舅は、比古尼(ひこぢ)と云うメモ010302。 第一段 第四節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天地が初めて分かれた時、始めに共に生まれた~がある。國常立尊と云う、次に國狹槌尊と云う。  また、高天原(たかまのはら)に生まれた~の御名は天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)と云う。次に高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、次に~皇産靈尊(かむみむすひのみこと)。  皇産靈はこれを美武須毘(みむすひ)と云うメモ010401 第一段 第五節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天地が未だ生まれていない時は、例えれば、海の上に浮かぶ雲がどこにも繋がれていないようなものであった。その中に一つのものが生まれた。それは、葦の芽が初めて?(どろ)の中から出てくるようであった。それが、人(かみ)となったメモ010501。國常立尊と云う 第一段 第六節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天地が初めて分かれた時、そこにあるものがあった。それは、あたかも葦の芽のようなもので、空の中に生まれた。これから生まれた~を天常立尊(あまのとこたちのみこと)と云う。次に可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と云う。  また、あるものがあり、それはあたかも浮かんでいる膏(あぶら)のようなもので、空の中に生まれた。これから生まれた~を國常立尊と云う。 古事記 原文(第二段・第三段段相当) 次成~名 國之常立~訓常立亦如上 次豐雲上野~(メモ020001) 此二柱~亦 獨~成坐而 隱身也 次成~名 宇比地邇上~ 次妹須比智邇去~此二~名以音 次角杙~ 次妹活杙~二柱 次意富斗能地~ 次妹大斗乃辨~此二~名亦以音 次於母陀流~ 次妹阿夜上訶志古泥~此二~名皆以音 次伊邪那岐~ 次妹伊邪那美~此二~名亦以音如上 上件自國之常立~以下 伊邪那美~以前 并稱~世七代上二柱獨~ 各云一代 次雙十~ 各合二~云一代也 訳  次に成られた~の御名は、國之常立~常立の訓みは上(かみ)と同じである(くにのとこたちのかみ)。次に豐雲野~(とよくもののかみ)。この二柱~もまた獨~であり、お姿を現されることはありませんでした。  次に成られた~の御名は、宇比地邇~(うひぢこのかみ)、次に妹(いも、メモ020002)の須比智邇~(すひぢこのかみ)この二~の名は音訓み。  次に角杙~(つのぐひのかみ)。次に妹の活杙~(いくぐひのかみ)。二柱。  次に意富斗能地~(おほとのぢのかみ)。次に妹の大斗乃辨~(おほとのべのかみ)この二~の名もまた音訓みメモ020003。  次に淤母陀流~(おもだるのかみ)。次に妹の阿夜訶志古泥~(あやかしこねのかみ)この二~の名はみな音訓み。  次に伊邪那岐~(いざなきのかみ)。次に妹の伊邪那美~(いざなみのかみ)この二~の名また音訓みで上(かみ)と同じである。 上(かみ)の件(くだり)の國之常立~から伊邪那美~までを併せて~世七代(かみのよ ななよ)と云う。上(かみ)の二柱の獨~はそれぞれで一代。次の対の十~は、各二~で一代と云う 日本書紀 第二段 本文メモ020004  次の~は、?土(煮の?を火)尊?土を于(田+比)尼(うひぢ)と云う(うひぢにのみこと)と沙土(煮の?を火)尊(すひぢにのみこと)沙土を須(田+比)尼(すひぢ)と云う。または、泥土根尊(うひぢねのみこと)・沙土根尊(すひぢねのみこと)と云う。  次の~は、大戸之道尊(おほとのぢのみこと)ある話では、大戸之辺(おほとのべ)と云うと大苫辺尊(おほとまべのみこと) または、大戸摩彦尊(おほとまひこのみこと)と大戸摩姫尊(おほとまひめのみこと)と云う。または、大富道尊(おほとまぢのみこと)と大富辺尊(おほとまべのみこと)と云う。  次の~は、面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)と云うまたは吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)と云う。または忌橿城尊(いむかしきのみこと)と云う。または青橿城根尊(あをかしきねのみこと)と云う。または吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)と云う。  次の~は、伊弉諾尊(いざなきのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)と云う。 第二段 第一節メモ020101  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  この二柱の~は、青橿城根尊(あをかしきねのみこと)の子である。 第二段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  國常立尊が天鏡尊(あまのかがみのみこと)を生み、天鏡尊が天萬尊(あまのよろづのみこと)を生み、天萬尊が沫蕩尊(あわなぎのみこと)を生み、沫蕩尊が伊弉諾尊を生んだ。  沫蕩は阿和那伎(あわなぎ)と云う。 日本書紀 第三段 本文  すべてで、八柱の~である。この~は、乾坤(あめつち=陰陽)の道が混じり合って生まれたので、男(をとこ)女(をみな)である。  國常立尊から伊弉諾尊・伊弉冊尊までを、~世七代(かみのよ ななよ)と云う。 第三段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  男女の性がある~は、先ず?土(煮の?を火)尊と沙土(煮の?を火)尊。次に角?尊(つのくひのみこと)と活?尊(いくくひのみこと)。次に面足尊と惶根尊。次に伊弉諾尊と伊弉冊尊である。  ?は?(くひ)である。 古事記 原文(第四段相当) 於是天~諸命以 詔伊邪那岐命 伊邪那美命 二柱~ 修理固成是多陀用幣流之國 賜天沼矛而 言依賜也 故 二柱~立訓立云多多志天浮橋而 指下其沼矛以畫者 鹽許袁呂許袁呂邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而 引上時 自其矛末垂落鹽之累積 成嶋 是淤能碁呂嶋 自淤以下四字以音 於其嶋天降坐而 見立天之御柱 見立八尋殿 於是問其妹伊邪那美命曰 汝身者如何成 答白 吾身者 成成不成合處一處在 爾伊邪那岐命詔 我身者 成成而成餘處一處在 故以此吾身成餘處 刺塞汝身不成合處而 以爲生成國土 生奈何訓生云宇牟下效此 伊邪那美命 答曰然善 爾伊邪那岐命詔 然者吾與汝行迴逢是天之御柱而 爲美斗能揺具波比此七字以音 如此之期 乃詔 汝者自右迴逢 我者自左迴逢 約竟迴時 伊邪那美命 先言阿那邇夜志愛袁登古袁此十字以音下效此 後伊邪那岐命 言阿那邇夜志愛袁登賣袁 各言竟之後 告其妹曰 女人先言不良 雖然久美度邇此四字以音興而生子 水蛭子 此子者入葦船而流去 次生淡嶋 是亦不入子之例 於是二柱~議云 今吾所生之子不良 猶宜白天之~所 即共參上 請天~之命 爾天~之命以 布斗麻邇爾此五字以音卜相而詔之 因女先言而不良 亦還降改言 故爾反降 更往迴其天之御柱如先 於是伊邪那岐命 先言阿那邇夜志愛袁登賣袁 後妹伊邪那美命 言阿那邇夜志愛袁登古袁 如此言竟而御合 生子 淡道之穗之狹別嶋訓別云和氣下效此 次生伊豫之二名嶋 此嶋者 身一而有面四 毎面有名 故 伊豫國謂愛比賣此三字以音下效此也 讚岐國謂飯依比古 粟國謂大宜都比賣此四字以音 土左國謂建依別 次生隱伎之三子嶋 亦名天之忍許呂別許呂二字以音 次生筑紫嶋 此嶋亦身一而有面四 毎面有名 故 筑紫國謂白日別 豐國謂豐日別 肥國謂建日向日豐久士比泥別自久至泥以音 熊曾國謂建日別曾字以音  次生伊伎嶋 亦名謂天比登都柱自比至都以音 訓天如天 次生津嶋 亦名謂天之狹手依比賣 次生佐度嶋 次生大倭豐秋津嶋 亦名謂天御?空豐秋津根別 故 因此八嶋先所生 謂大八嶋國 然後 還坐之時 生吉備兒嶋 亦名謂建日方別 次生小豆嶋 亦名謂大野手比賣 次生大嶋 亦名謂大多麻流別自多至流以音 次生女嶋 亦名謂天一根訓天如天 次生知訶嶋 亦名謂天之忍男 次生兩兒嶋 亦名謂天兩屋自吉備兒嶋至天兩屋嶋 并六嶋 訳  ここに、諸々の天つ~が、伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の~に「この漂へる国を整え固めよ」と仰せられて、天沼矛(あめのぬぼこ)を授けて、依頼された。  そこで、二柱の~は、天浮橋(あめのうきはし、メモ040001)にお立ちになって立を多多志(たたし)と云ふ、その沼矛を刺し下ろして回されると、塩が許袁呂許袁呂邇此七字以音(こをろこをろ と)鳴り鳴を那志(なし)と云ふ、引き上げられると、矛の末より垂り落ちたる塩が重なり積もって島になった。これを淤能碁呂島淤より以下の四字、音訓み(おのごろじま)と云う  その島に天降(あまくだ)りされて、天御柱(あめのみはしら=立派な柱)を建て、八尋殿(やひろのとの=大きな家)を建てられた。そして、男~の伊邪那岐命が、女~の伊邪那美命に「汝(あなた)の体に何か変化がありましたか」とお尋ねになると、「私の体に、成り整って、なお成り合わさらない処が一つできました」と答えられた。伊邪那岐命も「私の体には、成り整って、なお、成り余る処が一つあるので、私の成り余る処を、あなたの成り合わさらない処に刺し塞(ふさ)いで、国土(くに)を生もうと思うが、どうだろうか」とお尋ねになると 生を宇牟(うむ)と云ふ。下(しも)これに效(なら)へ、伊邪那美命は「よろしいでしょう」とお答えになられた。  そこで、伊邪那岐命は「それなら、私とあなたとで、この天御柱を廻りまわって、美斗能揺具波比此の七字、音訓み(みとのまぐはひ)をしましょう」と仰せられた。かように約して、「あなたは右よりまわり、私は左よりまわって逢いましょう」と仰せられ、そのとおりに廻り周った時に、伊邪那美命が、先に、「阿那邇夜志愛袁登古袁此の十字、音訓み。下これに效へ(あなにやし えをとこを=まあ、なんといい男なのでしょう)」と仰せられた。後で、伊邪那岐命が「阿那邇夜志愛袁登賣袁(あなにやし えをとめを=ああ、なんといい女なんだろう)」と仰せられた。  二人が仰せられてから、妹(いも=妻)に「女性が先に語り掛けるのは良くない」と仰せられましたが、久美度邇此の四字、音訓み(くみど(寝屋)に(で))交わり、水蛭子(ひるこ)をお生みになられた。この子は葦船(あしぶね)に入れて流された。次に淡島(あはしま)をお生みになられた。この子も子の数には入れられていない。  このため、二柱~(ふたはしらのかみ)は相談されて、「今私たちの生んだ子は良くないので、天~(あまつかみ)へ報告に行きましょう」と仰せられ、共に参上(まいのぼ)って、天~にご相談された。天~の命により、布斗麻邇此の五字、音訓み(ふとまに、メモ040002)で占われた結果、「女性が先に話掛けたのが良くなかったのだ。また天降って、やりなおせ」と仰せられた。  その為、天降って、更めて天御柱を先のとおりに廻りまわり、先に、伊邪那岐命が「ああ、なんといい女なんだろう」と仰せられ、後に伊邪那美命が「まあ、なんといい男なのでしょう」と仰せられた。そのあとで、御合ひ(みあ(ひ)=交わり)して、生まれた子を淡道之穂之狹別嶋別を和氣(わけ)と云ふ。下これに效へ(あはぢのほのさわけのしま)と云う。  次に伊豫(いよ)の二名嶋(ふたなのしま、メモ040003)をお生みになられた。この嶋は、身は一つで、面(おも=顔)が四つあり、顔ごとに名前がある。それは、伊豫國を愛比賣この三字、音訓み。下これに效へ(えひめ)と云い、讃岐國を飯依比古(いひよりひこ)と云い、粟國を大宜都比賣この四字、音訓み(おほげつひめ)と云い、土左國を建依別(たけよりわけ)と云う。  次に隠伎の三子嶋(みつごのしま、メモ040004)をお生みになられた。またの名は天之忍許呂別許呂の二字、音訓み(あめのおしころわけ)と云う。  次に筑紫嶋(つくしのしま)をお生みになられた。この嶋も身一つで、顔が四つあり、顔ごとに名前がある。それは、筑紫國を白日別(しらひわけ)と云い、豐國(とよくに)を豐日別(とよひわけ)と云い、肥國(ひのくに)を建日向日豐久士比泥別久より泥までは、音訓み(たけひむかひとよくじひねわけ)と云い、熊曾國曾の字は音訓み(くまそのくに)を建日別(たけひわけ)と云う。  次に伊伎嶋(いきのしま)をお生みになられた。またの名を天比登都柱比より都までは、音訓み。天を訓むは天の如し(「あま」ではなく「あめ」と訓む、 メモ010001)(あめひとるばしら)と云う。  次に津嶋(つしま)をお生みになられた。また名を天之狹手依比賣(あめのさでよりひめ)と云う。  次に佐度嶋(さどのしま)をお生みになられた。  次に大倭豐秋津嶋(おほやまととよあきづしま)をお生みになられた。またの名を天御虚空豐秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)と云う。  この八つの嶋を先に生まれたので、大八嶋國(おほやしまのくに)と云う。  その後(のち)、天上にお帰りになられる時に、吉備兒嶋(きびのこじま)をお生みになられた。またの名を建日方別(たけひかたわけ)と云う。  次に、小豆嶋(あづきしま)をお生みになられた。まの名を大野手比賣(おほのてひめ)と云う。  次に大嶋をお生みになられた。まの名を大多麻流別多より流までは、音訓み(おほたまるわけ)と云う。  次に女嶋(ひめじま)をお生みになられた。まの名を天一根天を訓むは天の如し(あめひとつね)と云う。  次に知訶嶋(ちかのしま)をお生みになられた。まの名を天之忍男(あめのおしを)と云う。  次に兩兒嶋(ふたごのしま)をお生みになられた。またの名を天兩屋(あめふたや)と云う。吉備兒嶋より天兩屋嶋まで、併せて六嶋である。 日本書紀 第四段 本文  伊弉諾尊と伊弉冊尊とが、天浮橋(あまのうきはし、メモ040001)の上で相談させて、「下の地に国ができよ」と仰せられ、天之瓊瓊は玉である。これを努(ぬ)と云う矛(あまのぬほこ)を差し入れて、回し探られると、滄溟(あをうなはら=青海原)ができ、矛の鋒(さき)から滴った潮が固まって一つの嶋ができた。名を?馭慮嶋(おのごろしま)と云う。二~(ふたはしらのかみ)はその嶋に降(くだ)られて、夫婦の交わりにより洲国(くに)を生もうとされた。  そこで、?馭慮嶋を国の中心の柱柱を美簸旨邏(みはしら)と云うとして、陽~(をのかみ)が左周りに、陰~(めのかみ)が右周りに回られ、柱の向こう側で逢われた。  その時、陰~が先に「なんと嬉しいことか。良き少男少男を烏等孤(をとこ)と云う(男)と逢えました」と仰せられた。陽~は快く思わず「私は男子(ますらを)だから、最初に私から言葉を掛けるのが筋だ。それなのに、どうして婦人(たわやめ)から先に声を掛けたのか。これは良くないことだから、改めて周り直そう」と仰せられた。  そのため、二~はもう一度回られて、お逢いになられた。今度は陽~が先に「なんと嬉しいことか。良き少女少女を烏等刀iをとめ)と云うと逢えるとは」と仰せられた。陽~が陰~に「あなたの体に何かでてきたところはあるか」とお尋ねになられると、陰~は「私の体に、一つの雌元(めのはじめ)ができました」と答えられ、陽~は「私の体には、雄元(をのはじめ)ができた。私の雄元をあなたの雌元に合わせようと思う」と仰せられた。 原文 「於是陰陽始遘合為夫婦」 訓み 「是(ここ)に、陰(め)陽(を)始(はじ)めて遘合(みとのまぐはひ)して夫婦(をうとめ、いもせ)と為(な)る」 訳 「かようにして、陰~と陽~とは初めて交わり夫婦となられた」  子を生まれる時に、先ず、淡路洲(あはじのしま)を胞(え=第一子)として生まれた。しかし、心すぐれない感があったので、淡路洲と名付けられた。そのため、すぐに、大日本日本を耶麻騰(やまと)と云う。下皆此れに效(なら)え豐秋津洲(おほやまと とよあきづしま)をお生みになられた。  次に伊予二名洲(いよのふたなのしま)をお生みになられた。次に筑紫洲(つくしのしま)をお生みになられた。次に億岐洲(おきのしま)と佐度洲(さどのしま)の双子をお生みになられた。世の人に双子が生まれることがあるのは、これに因んでいる。次に越洲(こしのしま=北陸)をお生みになられた。次に大洲(おほしま)をお生みになられた。次に吉備子洲(きびのこしま=岡山県の児島半島)をお生みになられた。  これで、初めて大八洲國(おほやしまのくに)の名が付いたのである。  なお、対馬嶋(つしま)・壱岐嶋(いきのしま)とあちこちの小嶋(をしま)は、みな潮の沫(あわ)が固まってできたものである。或は、水の沫が固まってできた、とも云う。 第四段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天~(あまつかみ)が伊弉諾尊と伊弉冊尊に「豐葦原千五百秋瑞穂之地(とよあしはら の ちいほあき の みつほ の くに)があるので、あなた方が行って治めなさい」と仰せらて、天瓊戈(あまのぬほこ)をお授けになられた。  そこで、二~は天上浮橋(あまのうきはし)にお立ちになられて、戈を刺し下して地を求められた。滄海(あをうなはら)をかき回して、引き上げられる時に、その戈鋒(ほこさき)から垂(したた)り落ちた潮が固まって嶋ができた。名を?馭慮嶋(おのごろしま)と云う。二~はその嶋に天降りされて、八尋之殿(やひろのとの)を建て、また天柱(あまのみはしら)をお建てになられた。  陽~が陰~に「あなたの体に何かできたところはあるか」とお尋ねになられると、「私の体が成り整って、陰元という一つの処ができました」と答えられ、陽~が「私の体にも成り整って、陽元という一つの処ができた。そこで、私の陽元と、あなたの陰元とを合わせようと思う」と仰せられた。云爾(しかいふ=以上のように云われている)。  そこで、二~は天柱を回るに際して、陽~が「あなたは左から回り、私は右から回ることにしようメモ040101」と約束された。周り廻りて二~が逢われた時、先に、陰~が「なんと良き男でしょう」と仰せられ、その後で、陽~が「なんと良き乙女なのだ」と仰せられた。  かようにして、夫婦となり、最初に蛭兒(ひるこ)をお生みになられた。そのため、葦船に乗せて流してしまわれた。  次に淡洲(あわのしま)をお生みになられた。これも、子供の数には入れない。  二~は天上に還へられ、ことの次第を詳しく報告された。天~は太占(ふとまに、メモ040002)で占われた結果「原因は、女性が先に言葉を掛けたからだ。戻って、やり直しなさい」と仰せられ、天~が占われた時日(とき ひ)に天降られた。  二~は改めて、陽~が左から、陰~が右から柱(みはしら)を廻られてメモ040101、向こう側で逢われた時に、陽~が先に「なんと良き乙女なのだ」と仰せられ、次に、陰~が「なんと良き男でしょう」と仰せられた。  かようにして後、同じ家で共に住んで子をお生みになり、名を大日本豐秋津洲(おほやまととよあきづしま)と云う。次に淡路洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に億岐三子洲。次に佐度洲。次に越洲。次に吉備子洲(きびのこしま)。これらを大八洲國(おほやしまのくに)と云う。  瑞を弥図(みつ)と云う。妍哉を阿那而恵夜(あなにゑや)と云う。可愛を哀(え)と云う。太占を布刀磨爾(ふとまに)と云う。 第四段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾尊と伊弉冊尊との二~は、天霧(あまのさぎり)の中にお立ちになり、「国よできよ」と仰せられて、天瓊矛を刺し入れ、探されると、?馭慮嶋(おのごろしま)が生まれた。矛を抜いて喜ばれ「国があって良かった」と仰せられた。 第四段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾と伊弉冊の二~は、高天原に居られて「きっと国があるだろう」と仰せられて、天瓊矛で?馭慮嶋(おのごろしま)をかき探られ造られた。 第四段 第四節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾と伊弉冊の二~は、相談されて、「水の上の膏(あぶら)のように浮いているものがある。その中に国があるだろう」と仰せられて、天瓊矛で一嶋をかき探りだされた。名を?馭慮嶋と云う。 第四段 第五節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  陰~が先ず「なんと良き男でしょう」と仰せられた。その時、陰~が先に声を掛けるのは良くないこととして、もう一度改めて廻られた。そして、陽~が先に「なんと良き乙女なのだ」と仰せられた。とうとう合交(みあはせ)しようとされたが、その方法が判らなかった。その時、鶺鴒(セキレイ)が飛んできて、首と尾を振り動かした。二~はこれをご覧になり、交道(とつぎのみち、まぐはいのみち)を理解された。 第四段 第六節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  二~は合(まぐはい)して夫婦となり、先ず淡路洲・淡洲を胞(え)として、大日本豐秋津洲をお生みになられた。次に伊予洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲とを双子としてお生みになられた。次に越洲。次に大洲。次に子洲(こしま)をお生みになられた。 第四段 第七節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  先づ淡路洲をお生みになられた。次に大日本豐秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬洲をお生みになられた。 第四段 第八節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  ?馭慮嶋を胞として、淡路洲をお生みになられた。次に大日本豐秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲とを双子としてをお生みになられた。次に越洲をお生みになられた。 第四段 第九節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  淡路洲を胞とし、大日本豐秋津洲をお生みになられた。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に億岐三子洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲をお生みになられた。 第四段 第十節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  陰~が先ず「なんと良き男でしょう」と仰せられ、陽~の手を取って、夫婦となり、淡路洲をお生みになられた。次に蛭兒(ひるこ)をお生みになられた。 古事記 原文(第五段相当) 既生國竟 更生~ 故生~名 大事忍男~ 次生石土毘古~ 訓石云伊波。亦毘古二字以音。下效此也 次生石巣比賣~ 次生大戸日別~ 次生天之吹上男~ 次生大屋毘古~ 次生風木津別之忍男~訓風云加邪。訓木以音 次生海~ 名大綿津見~ 次生水戸~ 名速秋津日子~ 次妹速秋津比賣~ 自大事忍男~至秋津比賣~并十~ 此速秋津日子 速秋津比賣二~ 因河海持別而 生~名 沫那藝~那藝二字以音。下效此 次沫那美~那美二字以音。下效此 次?那藝~ 次?那美~ 次天之水分~訓分云久麻理。下效此 次國之水分~ 次天之久比奢母智~自久以下五字以音。下效此 次國之久比奢母智~自沫那藝~至國之久比奢母智~并八~ 次生風~ 名志那都比古~此~名以音 次生木~名 久久能智~此~名以音 次生山~ 名大山上津見~ 次生野~ 名鹿屋野比賣~ 亦名謂野椎~自志那都比古~至野椎并四~ 此大山津見~ 野椎~二~ 因山野持別而 生~名 天之狹士~訓土云豆知。下效此 次國之狹士~ 次天之狹霧~ 次國之狹霧~ 次天之闇戸~ 次國之闇戸~ 次大戸惑子~訓惑云麻刀比。下效此 次大戸惑女~自天之狹土~至大戸惑女~并八也 次生~名 鳥之石楠船~ 亦名謂天鳥船 次生大宜都比賣~此~名以音 次生火之夜藝速男~夜藝二字以音 亦名謂火之R毘古~ 亦名謂火之迦具土~迦具二字以音 因生此子 美蕃登此三字以音見炙而病臥在 多具理邇此四字以音生~名 金山毘古~訓金云迦那。下效此 次金山毘賣~ 次於屎成~名 波邇夜須毘古~此~名以音 次波邇夜須毘賣~ 此~名亦音 次於尿成~名 彌都波能賣~ 次和久産巣日~ 此~之子 謂豐宇氣毘賣~自宇以下四字以音 故 伊邪那美~者 因生火~ 遂~避坐也自天鳥船至豐宇氣毘賣~并八~ 凡伊邪那岐 伊邪那美二~ 共所生嶋壹拾肆嶋 ~參拾伍~是伊邪那美~未~避以前所生。唯意能碁呂嶋者非所生。亦姪子與淡嶋 不入子之例 故爾伊邪那岐命詔之 愛我那邇妹命乎那邇二字以音下效此 謂易子之一木乎 乃匍匐御枕方 匍匐御足方而哭時 於御涙所成~ 坐香山之畝尾木本 名泣澤女~ 故其所~避之伊邪那美~者 葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也 於是伊邪那岐命 拔所御佩之十拳劍 斬其子迦具士~之頚 爾著其御刀前之血 走就湯津石村 所成~名 石拆~ 次根拆~ 次石筒之男~三~ 次著御刀本血亦 走就湯津石村 所成~名 甕速日~ 次樋速日~ 次建御雷之男~ 亦名建布都~布都二字以音下效此 亦名豐布都~三~ 次集御刀之手上血 自手俣漏出 所成~名訓漏云久伎 闇淤加美~淤以下三字以音下效此 次闇御津羽~ 上件自石拆~以下 闇御津羽~以前 并八~者 因御刀 所生之~者也  所殺迦具土~之於頭所成~名 正鹿山上津見~ 次於胸所成~名 淤縢山津見~淤縢二字以音 次於腹所成~名 奧山上津見~ 次於陰所成~名 闇山津見~ 次於左手所成~名 志藝山津見~志藝二字以音 次於右手所成~名 羽山津見~ 次於左足所成~名 原山津見~ 次於右足所成~名 戸山津見~ 自正鹿山津見~至戸山津見~ 并八~ 故所斬之刀名 謂天之尾羽張 亦名謂伊都之尾羽張伊都二字以音 於是欲相見其妹伊邪那美命 追往黄泉國 爾自殿縢戸出向之時 伊邪那岐命語詔之 愛我那邇妹命 吾與汝所作之國 未作竟 故可還 爾伊邪那美命答白 悔哉 不速來 吾者爲黄泉戸喫 然愛我那勢命那勢二字以音下效此 入來坐之事恐 故欲還 旦具與黄泉~相論 莫視我 如此白而 還入其殿内之間 甚久難待 故刺左之御美豆良 三字以音下效此 湯津津間櫛之男柱一箇取闕而 燭一火入見之時 宇士多加禮許呂呂岐弖此十字以音 於頭者大雷居 於胸者火雷居 於腹者黒雷居 於陰者拆雷居 於左手者若雷居 於右手者土雷居 於左足者鳴雷居 於右足者伏雷居 并八雷~成居 於是伊邪那岐命 見畏而逃還之時 其妹伊邪那美命 言令見辱吾 即遣豫母都志許賣此六字以音 令追 爾伊邪那岐命 取黒御縵投棄 乃生蒲子 是?食之間 逃行 猶追 亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄 乃生笋 是拔食之間 逃行 且後者 於其八雷~ 副千五百之黄泉軍 令追 爾拔所御佩之十拳劍而 於後手布伎都都此四字以音逃來 猶追 到黄泉比良此二字以音坂之坂本時 取在其坂本桃子三箇持撃者 悉迯返也 爾伊邪那岐命 告其桃子 汝如助吾 於葦原中國所有 宇都志伎此四字以音 人草之 落苦瀬而患惚時 可助告 賜名號意富加牟豆美命自意至美以音 最後其妹伊邪那美命 身自追來焉 爾千引石引塞其黄泉比良坂 其石置中 各對立而 度事戸之時 伊邪那美命言 愛我那勢命 爲如此者 汝國之人草 一日絞殺千頭 爾伊邪那岐命詔 愛我那邇妹命 汝爲然者 吾一日立千五百産屋 是以一日必千人死 一日必千五百人生也 故號其伊邪那美~命謂黄泉津大~ 亦云 以其追斯伎斯此三字以音而 號道敷大~ 亦所塞其黄泉坂之石者 號道反之大~ 亦謂塞坐黄泉戸大~ 故其所謂黄泉比良坂者 今謂出雲國之伊賦夜坂也 是以伊邪那伎大~詔 吾者到於伊那志許米上志許米岐此九字以音穢國而在祁理此二字以音 故吾者爲御身之禊而 到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐此三字以音原而 禊祓也 故於投棄御杖所成~名 衝立船戸~ 次於投棄御帶所成~名 道之長乳齒~ 次於投棄御?所成~名 時量師~ 次於投棄御衣所成~名 和豆良比能宇斯能~此~名以音 次於投棄御褌所成~名 道俣~ 次於投棄御冠所成~名 飽咋之宇斯能~自宇以三字以音 次於投棄左御手之手纒所成~名 奧疎~訓奧云淤伎下效此 訓疎云奢加留下效此 次奧津那藝佐毘古~自那以下五字以音下效此 次奧津甲斐辨羅~自甲以下四字以音下效此 次於投棄右御手之手纒所成~名 邊疎~ 次邊津那藝佐毘古~ 次邊津甲斐辨羅~ 右件自船戸~以下 邊津甲斐辨羅~以前 十二~者 因脱著身之物 所生~也 於是詔之 上瀬者瀬速 下瀬者瀬弱而 初於中瀬隨迦豆伎而滌時 所成坐~名 八十禍津日~訓禍云摩賀 下效此 次大禍津日~ 此二~者 所到其穢繁國之時 因汚垢而所成~之者也 次爲直其禍而所成~名 ~直毘~毘字以音下效此 次大直毘~ 次伊豆能賣~并三~也 伊以下四字以音 次於水底滌時 所成~名 底津綿上津見~ 次底筒之男命 於中滌時 所成~名 中津綿上津見~ 次中筒之男命 於水上滌時 所成~名 上津綿上津見~訓上云宇閇 次上筒之男命 此三柱綿津見~者 阿曇連等之祖~以伊都久~也伊以下三字以音下效此 故阿曇連等者 其綿津見~之子 宇都志日金拆命之子孫也宇都志三字以音 其底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命三柱~者 墨江之三前大~也 於是洗左御目時 所成~名 天照大御~ 次洗右御目時 所成~名 月讀命 次洗御鼻時 所成~名 建速須佐之男命須佐二字以音 右件八十禍津日~以下 速須佐之男命以前 十四柱~者 因滌御身 所生者也 此時伊邪那伎命 大歡喜詔 吾者生生子而 於生終得三貴子 即其御頸珠之玉緒母由良邇此四字以音下效此取由良迦志而 賜天照大御~而詔之 汝命者 所知高天原矣 事依而賜也 故其御頸珠名 謂御倉板擧之~訓板擧云多那 次詔月讀命 汝命者 所知夜之食國矣 事依也訓食云袁須 次詔建速須佐之男命 汝命者 所知海原矣 事依也 故 各隨依賜之命 所知看之中 速須佐之男命 不治所命之國而 八拳須至于心前 啼伊佐知伎也自伊下四字以音下效此 其泣状者 山如枯山泣枯 河海者悉泣乾 是以惡~之音 如狹蝿皆滿 萬物之妖悉發 故伊邪那岐大御~ 詔速須佐之男命 何由以 汝不治所事依之國而 哭伊佐知流 爾答白 僕者欲罷妣國根之堅州國 故哭 爾伊邪那岐大御~大忿怒詔 然者汝不可住此國 乃~夜良比爾夜良比賜也自夜以下七字以音 故其伊邪那岐大~者 坐淡海之多賀也 訳  国を生み終えてから、更に~をお生みになられた。その~の名は、大事忍男~(おほことおしをのかみ)。次に石土豐古~石を伊波(いは)と云ふ。また、豐古の二字は音訓み。下これに效え(=以下同じ) (いはつちびこのかみ)をお生みになり、次に石巣比賣~(いはすひめのかみ)をお生みになり、次に大戸日別~(おほとひわけのかみ)をお生みになり、次に天之吹男~(あめのふきをのかみ)をお生みになり、次に大屋毘古~(おほやびこのかみ)をお生みになり、次に風木津別之忍男~風を加邪(かざ)と云ふ。木は音訓み(かざもつわけのおしをのかみ)をお生みになり、次に海(うなはら)の~、名は大綿津見~(おほわたつみのかみ)をお生みになり、次に水戸(みなと)の~、名は速秋津日子~(はやあきづひこのかみ)、次に妹(いも=妻)の速秋津比賣~(はやあきづひめのかみ)をお生みになられた。 大事忍男~より秋津比賣~まで併せて十~である  この速秋津日子と速秋津比賣との二~(ふたはしらのかみ)が、河と海とをそれぞれ受け持つ~としてお生みになられた~の名は、沫那藝~那藝の二字は音訓み。以下同じ(あわなぎのかみ)、次に沫那美~那美の二字は音訓み。以下同じ(あわなみのかみ)、次に?那藝~(つらなぎのかみ)、次に?那美~(つらなみのかみ)、次に天之水分~分を訓みて久麻理(くまり)と云ふ。以下同じ(あめのみくまりのかみ)、次に國之水分~(くにのみくまりのかみ)、次に天之久比奢母智~久より以下五字は音訓み。以下同じ(あめのくひざもちのかみ)。次に國之久比著母智~(くにのくひざもちのかみ)である。沫那藝~より國之久比奢母智~まで、併せて八~である  次に風の~、名は志那都比古~この~の名は音訓み(しなつひこのかみ)をお生みになり、次に木の~、名は久久能智~この~の名も音訓み(くくのちのかみ)をお生みになり、次に山の~、名は大山津見~(おほやまつみのかみ)をお生みになり、次に野の~、名は鹿屋野比賣~(かやのひめのかみ)をお生みになられた。またの名を野椎~(のづちのかみ)と云う。 志那都比古~より野椎まで、併せて四~である  この大山津見~と野椎~との二~が、山と野とをそれぞれ受け持つ~としてお生みになられた~の名は、天之狹土~土を豆知(づち)と云ふ。以下同じ(あめのさづちのかみ)、次に國之狹土~(くにのさづちのかみ)、次に天之狹霧~(あめのさぎりのかみ)、次に國之狹霧~(くにのさぎりのかみ)、次に天之闇戸~(あめのくらとのかみ)、次に國之闇戸~(くにのくらとのかみ)、次に大戸惑子~惑を麻刀比(まとひ)と云ふ。以下同じ(おほとまとひこのかみ)、次に大戸惑女~(おほまとひめのかみ)と云う。天之狹土~より大戸惑女~まで、併せて八~である  次にお生みになられた~の名(メモ050001)は、鳥之石楠船~(とりのいはくすふねのかみ)、またの名を天鳥船(あめのとりふね)と云う。次に大宜都比賣~この~の名は音訓み(おほげつひめのかみ)をお生みになられた。次に火之夜藝速男~夜藝の二字は音訓み(ひのやぎはやをのかみ)をお生みになられた。またの名を火之R毘古~(ひのかがびこのかみ)と云い、またの名を火之迦具土~迦具の二字は音訓み(ひのかぐちのかみ)と云う。  この子をお生みになられた時に、美蕃登この三字は音訓み(み ほと)を焼かれて病に伏せられた。多具理(たぐり=吐きもの)から生まれた~の名は、金山毘古~金を迦那(かな)と云ふ。以下同じ(かなやまびこのかみ)、次に金山毘賣~(かなやまびめのかみ)と云う。  次に屎(くそ)から生まれた~の名は、波邇夜須毘古~この~の名は音訓み(はにやすびこのかみ)、次に波邇夜須毘賣~この~の名も音訓み(はにやすびめのかみ)と云う。  次に尿(ゆまり)から生まれた~の名は、彌都波能賣~(みつはのめのかみ)、次に和久産巣日~(わくむすひのかみ)。この~の子を豐宇氣毘賣~宇より以下の四字は音訓み(とようけびめのかみ)と云う。  そして、伊邪那美~が火の~をお生みになられたことで、最後には~避(かむさり=お亡くなりに)なられた。天鳥船より豐宇氣毘賣~まで、併せて八~である 伊邪那岐と伊邪那美との二~が二人でお生みになられた嶋は、すべてで壱拾肆(とをあまりよ=14)嶋、~はすべてで参拾伍(みそぢあまりいつはしら=35)~であるメモ050001。 これらは伊邪那美~の未だお亡くなりになられる前にお生みになられたものである。ただし、意能碁呂島(おのころじま)は、お生みになられたものではなく、また、蛭子と淡島とは、子の数には入れていない  この時、伊邪那岐命は、「愛(いと)しい妻を、たった一人の子と取り替えて、失ってしまった」と仰せられて、枕元に腹ばいになったり、足元に腹ばいになったりしてお泣きになられた。その涙からお生まれになられた~は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木本(このもと=橿原市木之本町)に坐(ま)します泣澤女~(なきさはめのかみ)である。  亡くなられた伊邪那美~は、出雲國と伯伎國(ははきのくに=鳥取県)の境にある比婆之山(ひばのやま=島根県安来市伯太町、広島県比婆郡)に埋葬申し上げた。  伊邪那岐命は持っていた十拳劔(とつかのつるぎ、メモ050002)で子の迦具土~(かぐつちのかみ)の首を斬った。その時、切っ先についた血が、湯津岩村(ゆついはむら=多くの岩)に飛び散ってお生まれになられた~の名は、石拆~(いはさくのかみ)。次が根拆~(ねさくのかみ)、次が石筒之男~(いはつつのをのかみ)である三~。  次に、刀の刀身についた血が、湯津岩村に飛び散ってお生まれになられた~の名は、甕速日~(みかはやひのかみ)。次が樋速日~(ひはやひのかみ)、次が建御雷之男~(たけみかづちのをのかみ)で、またの名を建布都~布都の二字は音訓み。以下同じ(たけふつのかみ)、またの名を豐布都~(とよふつのかみ)と云う三~。  次に、刀の柄(つか)に付いた血が、指の間から漏れ漏を久伎(くき)と云う出てお生まれになられた~の名は、闇淤加美~淤以下三字は音訓み。以下同じ(くらおかみのかみ)、次が闇御津羽~(くらみつはのかみ)と云う。 上の件の石拆~より闇御津羽~までの併せて八~は、御刀によってお生まれになられた~である。  殺された迦具土~(かぐつちのかみ)の頭からお生まれになられた~の名は、正鹿山津見~(まさかやまつみのかみ)。次に胸からお生まれになられた~の名は、淤縢山津見~淤縢の二字は音訓み(おどやまつみのかみ)。次に腹からお生まれになられた~の名は、奥山津見~(おくやまつのかみ)。次に陰(ほと)からお生まれになられた~の名は、闇山津見~(くらやまつみのかみ)。次に左手からお生まれになられた~の名は、志藝山津見~志藝の二字は音訓み(しぎやまつみのかみ)。次に右手からお生まれになられた~の名は、羽山津見~(はやまつみのかみ)。次に左足からお生まれになられた~の名は、原山津見~(はらやまつみのかみ)。次に右足からお生まれになられた~の名は、戸山津見~(とやまみつのかみ)。 正鹿山津見~より戸山津見~まで、併せて八~  斬った刀の名は、天之尾羽張(あめのをはばり)と云う。またの名を伊都之尾羽張伊都の二字は音訓み(いつのをはばり)と云う  伊邪那岐命は、妻の伊邪那美命に会いたいと思い、黄泉國(よみのくに)まで追って行かれた。御殿の上げ戸から出迎えられた時に、伊邪那岐命は「愛しい妻よ。私とあなたとで国を生むことは、まだ終わっていない。だから帰ろう」と仰せられると、伊邪那美命は「残念です、来られるのが遅すぎました。私は黄泉戸喫(よもつへぐひ、メモ050003)をしてしまいました。しかし、愛しい我那勢命那勢二字は音訓み。以下同じ(わがなせ(汝夫=夫)のみこと)が来て呉れたことのは、畏れ多いことですから、私も戻ろうと思います。少しの間、黄泉~(よもつかみ)と相談してきますので、私を見に来ないでください」と仰せられた。  このように告げて、御殿の中に入られたが、なかなか戻らなかった、伊邪那岐命は待ちきれなくなり、左の御美豆良三字は音訓み。以下同じ(み みづら=角髪、メモ050004)に挿してある湯津津間櫛(ゆつつまぐし、メモ050005)の太い歯を一本折り取り、それに火を点け中に入って見てみると、伊邪那美命には、宇士多加禮斗呂呂岐弖此十字は音訓み(うじたかれ とろろきて、メモ050006=蛆(うじ)が集まって大きな声で鳴いており)、頭には大雷(おほいかづち)が居り、胸には火雷(ほのいかづち)が、腹には黒雷(くろいかづち)が、陰(ほと)には拆雷(さきいかづち)が、左手には若雷(わかいかづち)が、右手には土雷(つちいかづち)が、左足には鳴雷(なりいかづち)が、右足には伏雷(ふしいかづちが)がそれぞれ居り、併せて八雷~(やつはしらのいかづちのかみ)が居られた。メモ050007  これを見た伊邪那岐命は、怖くなり、逃げ帰ろうとされると、伊邪那美命が「私に恥をかかせたな」と仰せられて、豫母都志許賣此六字は音訓み(よもつしこめメモ050008=黄泉の醜女(しこめ))を遣わして追いかけさせた。この為、伊邪那岐命は黒い鬘(かづら、メモ050009)を取って投げ捨てると、蒲子(えびかづらのみ=山葡萄の実)が生(な)った。これを黄泉醜女が拾って食べている間に逃げだが、なお追いかけて来たので、今度は、右の角髪(みづら)の湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の歯を折って投げ捨てると、笋(たかむな=筍(たけのこ)?)が生った。これを黄泉醜女が抜いて食べている間に逃げられた。  その後(のち)、伊邪那美命は、八雷~に千五百(ち い ほ)の黄泉の軍を付けて、追いかけさせた。伊邪那岐命は差しておられた十拳劔を抜いて、後ろ手で振り払いながら、逃げ進んだが、なお追って来た。黄泉比良此二字は音訓み坂(よもつ ひら さか、メモ050010)まで逃げ来たときに、そこに実っていた桃の実を三つ取って、投げつけると、黄泉の軍はことごとく逃げ帰った。このことにより、伊邪那岐命は、桃の実に「おまえが私を助けたように、葦原中國(あしはらなかつくに、メモ050011)にいる宇都志伎此四字は音訓み (うつしき=現(うつ)しき=現世(うつしよ))の人々が苦難に遭い、苦しんでいる時に助けなさい」と仰せられて、名を与えて意富加牟豆美命自意至美以音(おほかむづみのみこと)と名付けられた。  最後には伊邪那美命ご自身が追いかけて来られた。そこで、伊邪那岐命が千引石(ちびきのいは、メモ050012)で黄泉比良坂(よもつひらさか)を塞いで、その石を間に挟んで向かい合って立ち、事戸(ことど=離別のことば)を仰せられると、伊邪那美命が「愛しい我が夫が、そのようなことを言うのであれば、私はあなたの国の人々を、一日に千人殺してしまいます」と仰せられた。答えて、伊邪那岐命は「愛しい我が妻がそのようにするのなら、私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう」と仰せられた。  かような訳で、一日に必ず千人が死に、一日に必ず千五百の子が生まれるのである。  このことにより、伊邪那美命を黄泉津大~(よもつおほかみ)とも云い、伊邪那岐命に追いついたので道敷大~(ちしきのおほかみ)と名付けたとも云う。  また、黄泉の坂を塞いだ石を道反之大~(ちがへしのおほかみ)と名付け、または、塞坐黄泉戸大~(さやりますよみどのおほかみ)とも云う。  そして、黄泉比良坂は、今は出雲國の伊賦夜坂(いふやさか=島根県松江市東出雲町、出雲市猪目町)と云う。  かような次第で、伊邪那伎大~は「私は、伊那志許米上志許米岐此九字は音訓み(いな しこめ しこめき、メモ050013=意に反して、醜く・汚らわしい)国を訪れてしまった。だから、身の禊(みそぎ)をしよう」と仰せられて、竺紫(つきし)の日向(ひむかい)の橘(たちばな)の小門(をど=小さな港、河口)の阿波岐此三字は音訓み原(あはきのはら)に行かれて、禊祓(みそぎはらい)をされた。  この時、投げ捨てた杖から生まれた~の名は、衝立船戸~(つきたつふなどのかみ)。 次に、投げ捨てた帶(おび)から生まれた~の名は、道之長乳齒~(ちのながちはのかみ)。 次に、投げ捨てた嚢(ふくろ)から生まれた~の名は、時量師~(ときはかしのかみ)。 次に、投げ捨てた衣から生まれた~の名は、和豆良比能宇斯能~此~名音訓み(わづらひのうしのかみ)。 次に、投げ捨てた褌(はかま)から生まれた~の名は、道俣~(ちまたのかみ)。 次に、投げ捨てた冠(かぶり)から生まれた~の名は、飽咋之宇斯能~宇より以三字音訓み(あきぐひのうしのかみ)。 次に、投げ捨てた左手の手纒(たまき=腕輪)から生まれた~の名は、奧疎~奧は於伎(おき)と云う。以下同じ。疎は奢加留(ざかる)と云う。以下同じ(おきざかるのかみ)。次に奧津那藝佐毘古~那より以下五字音訓み。以下同じ(おきつなぎさびこのかみ)。次に奧津甲斐辨羅~甲より以下四字音訓み。以下同じ(おきつかひべらのかみ)。 次に、投げ捨てた右手の手纒から生まれた~の名は、邊疎~(へざかるのかみ)。次に邊津那藝佐毘古~(へつなぎさびこのかみ)。次に邊津甲斐辨羅~(へつかひべらのかみ)である。 上の件の船戸~(ふなどのかみ)より邊津甲斐辨羅~(へつかひべらのかみ)までの十二~(とをあまりふたはしらのかみ)は、身に着けていた物を脱ぐことによって生まれた~である。  そして、「上の瀬(せ)は流れが速く、下の瀬は流れは弱い」と言って、初めて中の瀬に完全に身を沈ませて滌(すす)がれた時に生まれた~の名は、八十禍津日~禍を摩賀(まが)と云う。以下同じ(やそまがつひのかみ)。次に大禍津日~(おほまがつひのかみ)。この二~(ふたはしらのかみ)は、あの穢(けが)らわしい国の汚(よご)れによって生まれた~である。  次に、その禍(ま=穢(けが)れ)を直すために生まれた~の名は、~直毘~毘は音訓み。以下同じ(かむなほびのかみ)。次に大直毘~(おほなほびのかみ)。次に伊豆能賣~併せて、三~。伊以下四字は音訓み(いづのめのかみ)。  次に、水底で滌(すす)いだ時に生まれた~の名は、底津綿津見~(そこつわたつみのかみ)。次に底筒之男命(そこつつのをのみこと)。  中程で滌いだ時に生まれた~の名は、中津綿津見~(なかつわたつみのかみ)。次に中筒之男命(なかつつのをのみこと)。  水の上で滌いだ時に生まれた~の名は、上津綿津見~上は宇閇(うは)と云う(うはつわたつみのかみ)。次に上筒之男命(うわつつのをのみこと)である。  この三柱の綿津見~は、阿曇連等(あづみのむらじら)の祖~(おやがみ=先祖の~)として祭祀されている~である。阿曇連等は、その綿津見~の子の宇都志日金拆命宇都志三字は音訓み(うつしひかなさくのみこと)の子孫である。  底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の~は、墨江(すみのえ=大阪市住吉区住吉)の三前(みまえ)の大~(おほかみ=住吉の三柱の~)である。  そして、左の目を洗った時に生まれた~の名は、天照大御~(あまてらすおほみかみ、メモ010001)。 次に、右の目を洗った時に生まれた~の名は、月讀命(つくよみのみこと)。 次に、鼻を洗った時に生まれた~の名は、建速須佐之男命須佐二字は音訓み(たけはやすさのをのみこと)である。 上の件の八十禍津日~より速須佐之男命までの十四柱の~は、身を滌(すす)ぐことによって生まれた~である。  この時、伊邪那伎命は大いに喜んで、「私は子を生み続けて、最後に三人の貴い子を得た」と仰せられて、首飾りの玉を、音がするほど揺らしながら天照大御神にお与えになり、「あなたは高天原を治めなさい」と任命された。その首飾りの玉の名を御倉板擧之~板擧を多那(たな)と云う(みくらたなのかみ)と云う。  次に月讀命に「あなたは夜之食國(よるのをすくに、メモ050014)を治めなさい」と任命された。  次に建速須佐之男命に、「あなたは海原(うなはら)を治めなさい」と任命された。  それぞれ任命された通りに治めていた中で、速須佐之男命だけは命じられた国を治めず、八拳須(やつかのひげ、メモ050002=長い鬚(ひげ))が胸元に届くようになるまで、長い間泣きわめいていた。その様子は、青く茂る山が枯山のようになる程に泣き枯れ、河や海がことごとく泣き乾くほどであった。そのため、悪しき~の声が狹蝿(さばえ、メモ050015=騒々しいハエ)のように満ち溢れ、あらゆる災いが起こった。  そこで、伊邪那岐大御神は速須佐之男命に「どうしておまえは任命した国を治めずに、泣きわめいているのだ」とお尋ねになられると、「私は妣国(ははのくに)の根之堅州國(ねのかたすくに、メモ050016)に行きたい思って泣いているのです」とお答えした。伊邪那岐大御神は大変お怒りになり、「ならば、おまえはこの国に住んではならない」と仰せられて、追放してしまわれた。  その後(のち)、伊邪那岐大神は淡海之多賀(あふみのたが)に坐(ま)しまされた。 日本書紀 第五段 本文  次に海をお生みになられた。次に川をお生みになられた。次に山をお生みになられた。次に木の祖(おや)の句句廼馳(くくのち)をお生みになられた。次に草の祖の草野姫(かやのひめ)をお生みになられた。またの名を野槌(のつち)と名づけられた。  その後、伊弉諾尊と伊弉冊尊とは「我々はすでに大八洲國(おほやしまのくに)や山川草木を生んだ。天下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生もうではないか」と相談された。  そこで、日の~をお生みになられた。大日?貴(おほひるめのむち)と云う 大日?貴は於保比屡灯\武智(おほひるめのむち)と云う。?音力丁反(?の音は力と丁の反(かへし)、メモ050017)。一書(あるふみ)では、天照大~(あまてらすおほみかみ)と云う。一書では天照大日?尊(あまてらすおほひるめのみこと)と云う。この子(みこ)は光り輝くように美しく、六合(くに、メモ050018)中を照り輝やかせた。二~は喜んで「我が子はたくさんいるが、こんなに輝いて神々しい子はいない。長くこの国に留めるべきではない。速やかに天上に上らせて、天上の事を任せよう」と仰せられた。この時は、天と地とは未だ遠く離れていなかったので、天柱(あめのみはしら)を使って、天上にお送りになられた。  次に月の~をお生みになられた一書では、月弓尊(つくゆみのみこと)・月夜見尊(つくよみのみこと)・月読尊(つくよみのみこと)と云う。この~の光り輝く美しさは、日~に次ぐものであった。そこで、日~と並んで治めさせようとされて、天上にお送りになられた。  次に蛭兒(ひるこ)をお生みになられた。三歳になっても立つことができなかった。そこで、天磐?樟船(あまのいはくすのふね)に乗せて、風のままに流された。  次に素戔鳴尊(すさのをのみこと)一書では、~素戔鳴尊(かむすさのをのみこと)・速素戔鳴尊(はやすさのをのみこと)と云う。この~は、勇ましく・強くて、かつ残忍であった。また、常に大声で泣いておられた。そのため、国中の人民(おほみたから)の多くを早死にさせた。また、青く茂った山を枯らしてしまった。そこで、父母の二~は素戔鳴尊に「おまえは、大変無軌道なので、この国を治(しらし)めることはできない。遠い根國(ねのくに)に行け」と仰せられて、追放された。 第五段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾尊が「御寓(あめのしたしらしめす=天下を治める)珍(うづ=立派な)子を生もうと思う」と仰せられて、左手に白銅鏡(ますみのかがみ、メモ050101)を取られた時に生まれた~を大日?尊と申し上げる。右手に白銅鏡を取られた時に生まれた~を月弓尊(つくゆみのみこと)と申し上げる。又、首を回して顧眄之間(みる ま さかり に=ちょうど横を見た時に)生まれた~を素戔鳴尊と申し上げる。  大日?尊と月弓尊は、お二人とも質性が明るく麗しい~であったので、お二人に天地をお任せになられた。素戔鳴尊は性格が乱暴で協調性がなかったので、天から下りて根國を治めさせた。  珍を于図(うづ)と云う。顧眄之間を美屡摩沙可利爾(みるまさかりに)と云う。 第五段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  日~と月~とをお生みになられた後に、蛭兒をお生みになられた。この児は満三歳になっても立つことができなかった。この訳は、最初に伊弉諾尊と伊弉冊尊とが柱(みはしら)を回られた時、陰~(めのかみ=伊弉冉尊)が先に言葉を掛けられたことが、陰陽の理に適わなかったために、蛭兒が生まれたのである。  次に素戔鳴尊をお生みになられた。この~の性格は荒々しく、いつも泣いたり、怒ったりしておられた。そのために、多くの国民(おほみたから)が亡くなったり、青く茂った山が枯れ山になってしまった。その為、父母が「あなたが、この国を治めたならば、国民を傷つけることになるので、あなたは大変遠い根國を治めなさい」と仰せられた。  次に鳥磐?樟橡船(とりのいはくすふね)をお生みになられた。この船に蛭兒を乗せて、流れに任せて棄てられた。  次に火~軻遇突智(ひのかみ かぐつち)をお生みになられた。この時、伊弉冊尊は、軻遇突智のために、焼かれてお亡くなりになられた。亡くなられる時に、臥(ふ)しながら土~埴山姫(つちのかみ はにやまひめ)と水~罔象女(みずのかみ みつはのめ)をお生みになられた。  軻遇突智は埴山姫を娶って、稚産靈(わくむすひ)をお生みになられた。この~の頭の上に蚕(かいこ)と桑ができ、その臍(へそ)の中に五穀ができた。  罔象を美都波(みつは)と云う 第五段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉冊尊は火産靈(ほむすひ)をお生みになられた時に、子の為に焼かれて~退(かむさり=~去り=お亡くなりに)なられた。または~避(かむさる)と云う。~退される時に、水~罔象女と土~埴山姫とをお生みになられた。又、天吉葛(あまのよさつら)をお生みになられた。  天吉葛は阿摩能与佐図羅(あまのよさつら)と云う。或は、与曾豆羅(よそづら)と云う 第五段 第四節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉冊尊は火~軻遇突智をお生みになられた時に、その熱で体をこわして、吐(は)かれた。これが~となり、金山彦(かなやまびこ)と申し上げる。次に小便が~となり、罔象女と申し上げる。次に大便が~となり、埴山媛と申し上げる。 第五段 第五節メモ050501  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉冊尊が火~をお生みになられた時に、やけどでお亡くなりになられた。その為、紀伊國の熊野の有馬村に埋葬申し上げた。ここの地の人は、この~の魂(みたま)をお祀りするために、花の季節に花を供えて祀り、鼓(つづみ)・吹(ふえ)・幡旗(はた)で、唄い舞いながらお祀りしている 第五段 第六節メモ050601  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾尊と伊弉冊尊とが大八洲國(おほやしまのくに)をお生みになられた後で、伊弉諾尊が「我々が生んだ国は、ただ朝霧(あさぎり)だけが立ちこめているようだ」と仰せられて、その朝霧を吹き払う息が~となられた。級長戸辺命(しなとべのみこと、しながとめのみこと)と申し上げる。また、級長津彦命(しなつひこのみこと、しながつひこのみこと)メモ050602と申し上げる。風の~である。  また、飢えた時にお生みになられた子を倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と申し上げる。  また海~等(わたつみのかみら)をお生みになられた。少童命(わたつみのみこと)と申し上げる。  山~等(やまのかみら)を山祇(やまつみ)と申し上げる。  水門~等(みなとのかみら)を速秋津日命(はやあきつひのみこと)と申し上げる。  木~等(きのかみら)を句句廼馳(くくのち)と申し上げる。  土~(つちのかみ)を埴安~(はにやすのかみ)と申し上げる。  かくして後に、万物悉(すべて)をお生みになられた。  火~軻遇突智をお生みになられた時に、母の伊弉冊尊は焼かれお亡くなりになられた。伊弉諾尊は恨んで「子供ひとりと、我が愛する妻とを交換するとは」と仰せられ、枕元に伏せって泣かれた。その涙から~が生まれた。畝丘(うね)の樹下(このもと)に坐(ま)します~で、啼澤女命(なきさはめのみこと)と申し上げる。  ついに、お持ちになられていた十握劒で軻遇突智を三段(みきだ)にお切りになられた。それらが、それぞれ~となったメモ050603。  また、劒の刃から滴(したた)り落ちた血が、天安河辺(あまのやすのかはら)にある五百箇磐石(いほついは)となった。これが経津主~(ふつぬしのかみ)の祖(おや)である。  また、劒の鐔(つば)より滴り落ちた血が激しく散って~となった。甕速日~(みかはやひのかみ)と申し上げる。次に?速日~(ひのはやひのかみ)。この甕速日~は武甕槌~(たけみかづちのかみ)の祖である。{或は、甕速日命。次に?速日命。次に武甕槌~と云う。メモ050604}  また、劒の鋒(さき)より滴り落ちた血が、激しく散って~となった。磐裂~(いはさくのかみ)と申し上げる。次に根裂~(ねさくのかみ)。次に磐筒男命(いはつつをのみこと)。或は、磐筒男命と磐筒女命(いはつつのめのみこと)と云う。  また、劒の頭(つか、古事記=手上)から滴り落ちた血が激しく散って~となった。闇?(くらおかみ)と申し上げる。次に闇山祇(くらやまつみ)。次に闇罔象(くらみつは)と申し上げる。  その後(のち)、伊弉諾尊は伊弉冊尊を追って黄泉(よもつくに)に行かれ、共に語られた。伊弉冊尊は「夫の尊よ。何故、遅くやってきたのですか。私はすでに?泉之竈(よもつへぐり、メモ050003)を食べてしまいました。 原文 「雖然 吾当寝息 請勿視之」 訓み 「然(しかれ)ども 吾(われ)当(まさ)に寝息(ねやむ) 請(こ)ふ 勿(な)視(み)たまひしそ」 訳 「しかし、私は今から寝ようと思います。どうか、お願いですから、寝ているところを見ないでください」と仰せられた」 (訳はこうですが、なんとなくすっきりしませんね。誤訳かも)  伊弉諾尊は、そのことを聞き入れないで、湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取って、雄柱(をばしら)を折り、明かりを照らしてご覧になると、伊弉冉尊の体には膿(うみ)が流れ出し、虫(うじ)が湧いていた。今の世の人が、夜に一つ火を灯すのを嫌い、又、夜に擲櫛(なげくし=投櫛)を嫌うのは、このためである。 この時、伊弉諾尊は大変驚かれて「私は、思いもよらずに、汚れて穢れた国に来てしまった」と仰せられて、急いで戻ろうとされた時、伊弉冊尊が恨んで「どうして、約束を違えて、私に恥をかかせたのですか」と仰せられ、泉津醜女(よもつしこめ){或は、泉津日狹女(よもつひさめ)と云う}八人メモ050605で追いかけさせ、留めようとされた。  そこで、伊弉諾尊は、劒を抜いて、後ろで振り払いながら逃げられた。黒鬘(くろきかづら)を投げられると蒲陶(葡萄=ぶどう)となった。醜女はこれを見て、採って食べ、食べ終わるとまた追いかけてきた。伊弉諾尊は、また、湯津爪櫛を投げられると筍(たけのこ)となった。醜女は、また、それを抜いて食べ、食べ終わるとまた追いかけてきた。最後には、伊弉冊尊が自ら追いかけて来られた。この時、伊弉諾尊は、泉津平坂(よもつひらさか)に着いておられた。  一云(ある話では)メモ050606、伊弉諾尊が大樹に小便をされると、それがたちまち大きな川となり、泉津日狹女がその川を渡ろうとする間に、伊弉諾尊は泉津平坂にお着きになられた。  そこで、伊弉諾尊は、千人所引磐石(ちびきのいは)でその境界を塞いでしまわれて、磐石(いは)を挟んで、伊弉冊尊と向かい合って、離縁を宣告された。その時、伊弉冊尊は「愛しい我が夫よ。そのようなことを言われるのならば、私は、あなたが治めている国の民を、毎日千人ずつ殺しましょう」と仰せられ、これに応えて、伊弉諾尊は「愛しい我が妻よ。あたがそう言われるのならば、私は、毎日千五百人の民を生みましょう」と仰せられ、更に「ここから出て来ないように」と仰せられて、杖を投げられた。これが~となり、岐~(ふなとのかみ)と申し上げる。また、帯を投げられると~となり、長道磐~(ながちいはのかみ)と申し上げる。また、衣(ころも)を投げられると~となり、煩~(わづらひのかみ)と申し上げる。また、褌(はかま)を投げられると~となり、開齧~(あきくひのかみ)と申し上げる。また、履(はきもの)を投げられると~となり、道敷~(ちしきのかみ)と申し上げる。  その泉津平坂{所謂(いわゆる)泉津平坂と云うのは、ある場所を云うのではなくて、死に際で息を引き取ろうとする瞬間のことをいう、とも云うメモ050607}を塞いでいる磐石を泉門塞之大~(よみとに ふたがるる おほかみ)と申し上げる。またの名を道返大~(ちがえしのおほかみ)と申し上げる。  伊弉諾尊は逃げ帰られてから、後悔され「私は何とも汚れ穢れた処に行ってしまったので、この身の汚れ穢れを洗い清めよう」と仰せられた。そこで、筑紫の日向の小戸の橘之檍原(たちばなのあはきばら)にお着きになられて、秡除(みそぎ)をされた。  まず、身の穢れを濯ぐ時に「上の流れは速く、下の流れは遅い」と仰せられ、中程の流れで濯がれた。この濯ぎで~が生まれた。名を八十枉津日~(やそまがつひのかみ)と申し上げる。  次にそのまがっているのを直そうとされてお生みになられた~は、~直日~(かむなほひのかみ)と申し上げる。次に大直日~(おほなほひのかみ)。  また、海の底に潜って濯がれたことによって生まれた~は、底津少童命(そこつわたつみのみこと)と申し上げる。次に底筒男命(そこつつのをのみこと)。  また、潮の中で濯がれたことによって生まれた~は、中津少童命(なかつわたつみのみこと)と申し上げる。次に中筒男命(なかつつのをのみこと)。  また、潮の上で濯がれたことによって生まれた~は、表津少童命(うはつわたつみのみこと)と申し上げる。次に表筒男命(うはつつのをのみこと)。すべてで、九~である。  この底筒男命・中筒男命・表筒男命は、住吉大~(すみのえのおほかみ、メモ050608)である。底津少童命・中津少童命・表津少童命は、阿曇連等(あづみのむらじら)がお祀りする~である。  かようにして後、左眼を洗われたことによって生まれた~は、天照大~と申し上げる。また、右眼を洗われたことによって生まれた~は、月読尊と申し上げる。また鼻を洗われたことによって生まれた~は、素戔鳴尊と申し上げる。すべてで三~である。  その後、伊弉諾尊は三人の子に「天照大~は高天原を治めよ。月読尊は滄海原(あをうなはら)の潮之八百重(しほのやほへ、メモ050609)を治めよ。素戔鳴尊は天下(あめのした=地上)を治めよ」と仰せられた。  この時、素戔鳴尊は既に長じて、八握鬚髯(やつかのひげ)が生えていたが、天下を治めず泣いてばかりいた。伊弉諾尊は「おまえは、どうしていつも泣きじゃくっているのか」とお尋ねになると、「私は、ただ母のいる根國に行きたいと思って泣いているだけです」とお答えしたので、伊弉諾尊は不愉快になって「好きにせよ」と仰せられ、素戔鳴尊を行かせられた。 第五段 第七節メモ050701  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾尊は、劒を抜いて軻遇突智(かぐつち)を三段に斬られた。その一つは雷~(いかづちのかみ)となり、一つは大山祇~(おほやまつみのかみ)となり、一つは高?(たかおかみ)となった。 {或は、伊弉諾尊が軻遇突智をお斬りになられた時に、激しく散った血が、天八十河中(あめのやそのかはら)の五百箇磐石(いほつのいは)に付いて生まれた~は、磐裂~。次に根裂~。その子の磐筒男~(いはつつのをのかみ)。次に磐筒女~(いはつつのめのかみ)。その子の経津主~(ふつぬしのかみ)と云う}  倉稲魂を宇介能美?磨(うかのみたま)と云う。少童を和多都美(わたつみ)と云う。頭辺を摩苦羅陛(まくらへ)と云う。脚辺を阿度陛(あとへ)と云う。?は火である。音は而善の反。?を於箇美(おかみ)と云う。音は力丁の反。吾夫君を阿我儺勢(あがなせ)と云う。?泉之竈を誉母都俳遇比(よもつへぐひ)と云う。秉炬を多妣(たひ)と云う。不須也凶目汚穢を伊儺之居梅枳枳多儺枳(いなしこめききたなき)と云う。醜女を志許賣(しこめ)と云う。背揮を志理幣提爾布倶(しりへでにふく)と云う。泉津平坂を余母都比羅佐可(よもつひらさか)と云う。(尿+毛)を愈磨理(ゆまり)と云う。音は乃弔の反。絶妻之誓を許等度(ことど)と云う。岐~を布那斗能加微(ふなとのかみ)と云う。檍を阿波岐(あはき)と云う 第五段 第八節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾尊は軻遇突智命を五段に斬られた。それらは五山祇(いつはしらのやまつみ)となった。その一つ目は首(かしら)で大山祇となり、二つ目は身中(むくろ=体)で中山祇となり、三つ目は手で麓山祇(はやまつみ)となり、四つ目は腰で正勝山祇(まさかつやまつみ)となり、五つ目は足で(?+隹)山祇(しぎやまつみ)となった。  この時、血が激しく飛び散り、石礫(いはつぶて=小石)・樹・草に付いた。これが、草・木・沙石(さざれいは=小さな石)が火を含んでいる由縁である。メモ050702  麓は、山の足(ふもと)を麓と云い、これを簸耶磨(はやま)と云う。正勝を麻沙柯(まさか)と云う。或は、麻左柯豆(まさかつ)と云う。(?+隹)を之伎(しぎ)と云う。音は鳥含の反。 第五段 第九節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾尊は、妻を見ようと思われて、殯(もがり、天皇事績メモ0133)の場所に行かれた。この時、伊弉冊尊は生前のお姿で出迎えられ、話をされた。伊弉冊尊は伊弉諾尊に「私の夫よ。お願いですから、私を見ないでください」と仰せられ、言い終るや否や姿は見えなくなった。 ここは暗かったので、伊弉諾尊は一片の火を灯されると、そこには伊弉冊尊の膨れ上がった体の上に、八色雷公がいた。伊弉諾尊は驚いて逃げ帰った。この時、雷等(いかづちら)はみな追いかけてきた。  時に、道の辺(ほとり)に大きな桃の樹があり、伊弉諾尊はその樹の陰に隠れ、桃の実を採って雷に投げられた。すると雷等はみな逃げ去った。これが、桃で鬼を追い払う由縁である。  この時、伊弉諾尊は桃の木の杖を投げつけて「ここからこちらへは、雷は来られない」と仰せられた。この杖を岐~(ふなとのかみ)と申し上げる。この~の本来の名は来名戸之祖~(くなとのおやのかみ)と申し上げる。  八雷(やくさのいかづち)と云うのは、首にいるのが大雷。胸にいるのが火雷(ほのいかづち)。腹にいるのが土雷。背にいるのが稚雷(わかいかづち)。尻にいるのが黒雷。手にいるのが山雷。足の上にいるのが野雷。陰(ほと)の上にいるのが裂雷(さくいかづち)である。 第五段 第十節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾尊が後を追いかけて、伊弉冊尊がおられる所に着いた時に「あなたを恋しく思ってやってきたよ」と仰せられた。伊弉冊尊は「族(うがら=夫、あなた)よ。私を見ないでください」と仰せられたが、伊装諾尊はそれを聞き入れずに、見てしまわれた。そのため、伊弉冊尊は恥じ恨んで「あたたは私の情メモ051001を見られたので、私もあなたの情を見ましょう」と仰せられたので、伊弉諾尊もまた恥じられた。そのため、帰ろうとされたが、黙って帰られずに「離婚しよう」と仰せられ、さらに、「族(妻、あなた)には負けないぞ」と仰せられて、誓いの唾を吐かれた。その唾から生まれた~を速玉之男(はやたまのを)と申し上げる。次に黄泉の国との関係を掃(はら)われた時に生まれた~を泉津事解之男(よもつことさかのを)と申し上げる。併せて、二~である。  泉平坂で争った時に伊弉諾尊は「初めに私があなたのことを悲しみ愛おしく思ったのは、私が弱かったからだ」と仰せられた。その時、泉守道者(よもつ みちまもりのかみ、メモ051002)が「伊弉冊尊からの伝言があります。「私は、あなたと共に既に国を生み終えました。どうして、また更に生きることを望みましょうか。私はこの国に留まり、一緒に戻りません」とのことです」と申し上げた。この時、菊理媛~(きくりひめのかみ)が更に申し上げた。伊弉諾尊はそれ(メモ051003)をお聞きになり、喜ばれて、お帰りになられた。  伊弉諾尊は自ら泉國(よもつくに)を見られたのは汚らわしいことなので、その穢悪(けがれ)を濯ぎ払おうとされて、粟門(あはのと)の速吸名門(はやすいなと、メモ051004)をご覧になり、この二つの門の間の潮の流れは大変早いので、橘の小門に戻られて、そこで濯ぎをされた。水に入った時に磐土命(いはつちのみこと)をお生みになり、水から上がった時に大直日~(おほなほひのかみ)をお生みになられた。また、水に入られて、底土命(そこつちのみこと)をお生みになり、水から上がられた時に、大綾津日~(おほあやつひのかみ)をお生みになられた。また、水に入られて、赤土命(あかつちのみこと)をお生みになり、水から上がられた時に、大地海原之諸~(おほつちうなはらのもろもろのかみ)をお生みになられた。  不負於族を宇我邏磨(禾+既)茸(うがらまけじ)と云う 第五段 第十一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  伊弉諾尊は三人の子に「天照大~は高天之原を治めなさい。月夜見尊は日~と並んで天上の事を治めなさい。素戔鳴尊者は滄海之原を治めなさい」と仰せられた。かようにして、天照大~は天上に居られて、「葦原中國(あしはらのなかつくに=地上)に保食~(うけもちのかみ)がいると聞いている。月夜見尊よ、行って見てきて欲しい」と仰せられた。  月夜見尊は詔を受けて天降りされ、保食~の所に着かれた。保食~が首を回して、陸地に向けると、口から飯(いひ)が出てきて、顔が海に向くと口から鰭広(ひれのひろもの、はたのひろもの)・鰭狹(ひれのさもの、はたのさもの)メモ051101が出てきて、顔が山に向くと口から毛麁(けのあらもの)・毛柔(けのやはもの)が出てきた。それらのすべての物を食卓に乗せて、月夜見尊を饗応された。  この時、月夜見尊は血相を変えてお怒りになり「穢らわしいぞ。卑しいぞ。どうして、口から吐き出したもので私を接待すののか」と仰せられ、劒を抜いて保食~を切り殺された。その後、戻られて、ことの次第を報告された。  天照大~は大変お怒りになり「あなたは悪しき~だ。二度と見たくない」と仰せられて、月夜見尊と日と夜とに別々に離れて住まわれた。  その後、天照大~は、天熊人(あまのくまひと)を保食~の看護のために遣わされた。しかし、その時には、保食~は既に亡くなってをり、保食~の頭の上には牛馬が生まれており、顱(ひたひ)の上には粟が生まれ、眉の上には繭(まゆ、かひこ)が生まれ、眼の中には稗(ひえ)が生まれ、腹の中には稲が生まれ、陰には麦と大豆・小豆とが生まれていた。天熊人はすべてを持ち帰り、天照大~に奉った。天照大~は喜んで「これらのものは顕見蒼生(うつしきあをひとくさ=現世の人々)が生活の糧にすべきものです」と仰せられ、粟・稗・麦・豆を陸田(はたけ=畑)の種子とされ、稲を水田の種子とされた。  また、天の邑君(むらのきみ=長)を定められた。そして、その稲の種を、初めて天狹田(あまのさだ)と長田(ながた)とに植えられた。秋には穂は八握(やつか)の大きさで、立派に育った。 また、蚕は口に繭を含んで、糸を吐き出したので、初めて、養蚕之道(こがひのみち=養蚕)ができるようになった。 保食~を宇気母知能加微(うけもちのかみ)と云う。顕見蒼生を宇都志枳阿鳥比等久佐(うつしきあをひとくさ)と云う 古事記 原文(第六段相当) 故於是速須佐之男命言 然者請天照大御~將罷 乃參上天時 山川悉動 國土皆震 爾天照大御~聞驚而詔 我那勢命之上來由者 必不善心 欲奪我國耳 即解御髮 纒御美豆羅而 乃於左右御美豆羅 亦於御縵 亦於左右御手 各纒持八尺勾?之五百津之美須麻流之珠而自美至流四字以音下效此 曾毘良邇者 負千入之靭訓入云能理下效此 自曾至邇以音比良邇者 附五百入之靭 亦所取佩伊都此二字以音之竹鞆而 弓腹振立而 堅庭者 於向股蹈那豆美三字以音 如沫雪蹶散而 伊都二字以音之男建訓建云多祁夫 蹈建而待問 何故上來 爾速須佐之男命答白 僕者無邪心 唯大御~之命以 問賜僕之哭伊佐知流之事 故 白都良久三字以音 僕欲往妣國以哭 爾大御~詔 汝者不可在此國而 ~夜良比夜良比賜 故以爲請將罷往之状參上耳 無異心 爾天照大御~詔 然者汝心之C明 何以知 於是速須佐之男命答白 各宇氣比而生子自宇以三字以音下效此 故爾各中置天安河而 宇氣布時 天照大御~ 先乞度建速須佐之男命所佩十拳劍 打折三段而 奴那登母母由良邇此八字以音下效此 振滌天之眞名井而 佐賀美邇迦美而自佐下六字以音下效此 於吹棄氣吹之狹霧所成~御名 多紀理毘賣命此~名以音 亦御名 謂奧津嶋比賣命 次市寸嶋上比賣命 亦御名 謂狹依毘賣命 次多岐都比賣命三柱 此~名以音 速須佐之男命 乞度天照大御~所纏左御美豆良八尺勾?之五百津之美須麻流珠而 奴那登母母由良爾 振滌天之眞名井而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧所成~御名 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命 亦乞度所纏右御美豆良之珠而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧所成~御名 天之菩卑能命自菩下三字以音 亦乞度所纏御縵之珠而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧所成~御名 天津日子根命 又乞度所纏左御手之珠而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧所成~御名 活津日子根命 亦乞度所纏右御手之珠而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧所成~御名 熊野久須毘命自久下三字以音 并五柱 於是天照大御~ 告速須佐之男命 是後所生五柱男子者 物實因我物所成 故自吾子也 先所生之三柱女子者 物實因汝物所成 故乃汝子也 如此詔別也 故其先所生之~ 多紀理毘賣命者 坐胸形之奧津宮 次市寸嶋比賣命者 坐胸形之中津宮 次田寸津比賣命者 坐胸形之邊津宮 此三柱~者 胸形君等之以伊都久三前大~者也 故此後所生五柱子之中 天菩比命之子 建比良鳥命此出雲國造 无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直 遠江國造等之祖也 次天津日子根命者凡川内國造 額田部湯坐連 茨木國造 倭田中直 山代國造 馬來田國造 道尻岐閇國造 周芳國造 倭淹知造 高市縣主 蒲生稻寸 三技部造等之祖也 訳  かようにして、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)が「天照大御~(あまてらすおほみかみ)に事情を申し上げてから行こう」と仰せられて、天に昇った時は、山や川が轟き、大地が地震のように震えた。天照大御~がこれをお聞きになり「弟がやって来るのは、きっと誠実な思いからではなく、我が国を奪おうと思っているに違いない」と仰せられて、髪結いを解いて御美豆羅(みみづら、メモ050004)に結って、左右の美豆羅や縵(かづら)や左右の手に、八尺勾?(やさかのまがたま)の五百津之美須麻流之珠(いほつのみすまるのたま、メモ060001)を巻きつけ、背(そびら)には千入之靫(ちのりのゆき、メモ060002)を背負い、比良(ひら、メモ060003)には五百入之靫(いほのりのゆき)を付け、また伊都之竹鞆(いつのたかとも、メモ060004)を付け、弓を地に立て、両股が地にのめり込むほどに踏みしめ、沫雪(あわゆき)のように土を蹴散らし、伊都二字以音之男建訓建云多祁夫(いつのをたけふ、メモ060005)されて メモ060006、「どうして上って来たのか」と訊ねられた。  速須佐之男命は「私は、別に悪意があって来たのではありません。大御~(おほみかみ=父の伊邪那岐大神)が、私が泣き続けている訳をお尋ねになられたので、「私は、妣國(ははのくに)に行きたいと思って泣いています」とお答えすると、大御~は「おまえはこの国にいるべきではない」と仰せられて、私を(根の国に)追い出されました。そこで、事の次第を申し上げようと思ってやって来ました。これ以外の意図はありません」とお答えした。 すると、天照大御~は「ならば、おまえの心の正しさをどのようにして証明するのか」と仰せられたので、速須佐之男命は「それでは、お互いに宇氣比(うけひ、メモ060007)をして子を生みましょう」とお答えした。  そこで、それぞれ天安河(あめのやすのかは)を挟んで宇氣比される時、最初に、天照大御~が建速須佐之男命の腰に佩かれておられた十拳劍(とつかのつるぎ)を乞い受け取って、その劔を三つに打ち折り、奴那登母母由良邇此八字以音下效此(ぬなとももゆらに、メモ060008)、天之眞名井(あめのまなゐ、メモ060009)の水で振り濯(すす)いで、佐賀美邇迦美而自佐下六字以音(さがみにかみて、メモ060010)、吹き出した息の霧から成り出でた~を多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)と云う。またの名は奥津嶋比賣命(おきつしまひめのみこと)と云う。 次が市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)。またの名は狹依毘賣命(さよりびめのみこと)と云う。 次が多岐都比賣命(たきつひめのみこと)と云う。三柱~である  次ぎに、速須佐之男命は、天照大御~の左の美豆良(みづら)に巻きつけておられた多くの大きな勾玉の数珠を乞い受け取って、玉の音も爽やかに、天之眞名井の水で振り濯(すす)いで、噛(か)みに噛(か)んで、吹き出した息の霧から成り出でた~の名を正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)と云う。 右の美豆良(みづら)に巻きつけておられた数珠を乞い受け取ってけ、噛みに噛んで、吹き出した息の霧から成り出でた~の名を天之菩卑能命(あめのほひのみこと)と云う。 鬘(かづら)に巻きつけておられた数珠を乞い受け取って、噛みに噛んで、吹き出した息の霧から成り出でた~の名は、天津日子根命(あまつひこねのみこと)と云う。 左手に巻きつけておられた数珠を乞い受け取って、噛みに噛んで、吹き出した息の霧から成り出でた~の名は、活津日子根命(いくつひこねのみこと)と云う。 右手に巻きつけておられた数珠を乞い受け取って、噛みに噛んで、吹き出した息の霧から成り出でた~の名は、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)と云う。併せて五柱である。  その結果、天照大御~は速須佐之男命に、「後で生まれた五柱の男子のそもそもの基は、私の持ち物から成り出でたので、私の子である。先に生まれた三柱の女子のそもそもの基は、おまえの持ち物から成り出でたので、おまえの子である」と仰せられて、それぞれ引き取られた。  多紀理毘賣命は、胸形之奥津宮(むなかたのおきつみや、メモ060011)に坐(ま)しまし、市寸嶋比賣命は、胸形之中津宮(むなかたのなかつみや)に坐(ま)しまし、田寸津比賣命(たきつひめのみこと、メモ060012)は、胸形之邊津宮(むなかたのへつみや)に坐(ま)しましておられる。この三柱の~は胸形君(むなかたのきみ)らがお祀りしている三前大~(みまへのおほかみ)である。  後で生まれた五柱の子の中の天菩比命の子が建比良鳥命(たけひらとりのみこと)であるこの命は、出雲國造(いづものくにのみやつこ)・无邪志國造(むざしのくにのみやつこ)・上菟上國造(かみつうなかみのくにのみやつこ)・下菟上國造(しもつうなかみのくにのみやつこ)・伊自牟國造(いじむのくにのみやつこ)・津嶋縣直(つしまのあがたのあたひ)・遠江國造(とほつあふみのくにのみやつこ)の祖(おや)である。  天津日子根命は、凡川内國造(おふしかふちのくにのみやつこ)・額田部湯坐連(ぬかたべのゆゑのむらじ)・茨木國造(いばらきのくにのみやつこ)・倭田中直(やまとのたなかのあたひ)・山代國造(やましろのくにのみやつこ)・馬来田國造(うまきたのくにのみやつこ)・道尻岐閇國造(みちのしりのきへのくにのみやつこ)・周芳國造(すはのくにのみやつこ)・倭淹知造(やまとのあうちのみやつこ)・高市縣主(たけちのあがたぬし)・蒲生稲寸(かまふのいなき)・三枝部造(さきくさべのみやつこ)の祖である。メモ060013 日本書紀 第六段 本文  素戔鳴尊は「お言葉により、根國(ねのくに)に参ります。が、その前に高天原に出向き、姉上にお会いし、別れを述べ、それからに行きたいと思います」と申し上げると、伊弉諾尊は「許す」と仰せられた。そこで、天に昇り詣でた。  この後、伊奘諾尊は、~としての勤めを全て終え、御隠れになろうとされ、幽宮(かくれみや)を淡路に造って、静かに長く御隠れになった。ある話では、天に登ってなされたことを話されてから、て日少宮(少宮 此云倭柯美野(わかみや))に御住みになったと云う。  素戔鳴尊は天に昇られる時、大海(おほうなばら)は逆巻き、大地は揺れ動いた。これは、~としての性質が勇ましいく力強いからである。 天照大~は、そもそも素戔鳴尊が粗野であることを知っておられたので、やってくる時の様子をお聞きになり、大変驚かれ顔色を変えて「弟がやって来るのは、良い心からではないはずだ。きっとこの国を奪おうと考えているのだろう。そもそも、父母は、すでにそれぞれの子供らに治めさせる場所と境をお決めになられた。それなのに、どうして治めるべき国を棄て置いて、敢えてこの国の様子を窺おうとするのか」と仰せられて、髪を結いあげて髻(みづら)にし、裳(みも、メモ060014)を巻き付け袴(はかま)とし、八坂瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統此云美須磨屡(みすまる)を、頭や腕に巻き、背には千箭之靭(千箭此云知能梨(ちのり)のゆき)と五百箭の靭とを付け、腕には稜威之鞆(稜威此云伊都(いつ)のたかとも、メモ060004)を付け、弓を大地に振り立て、劒の柄を握りしめ、しっかりと地面を踏み締め、固まった土を淡雪のように蹴散(蹴散此云倶穢簸邏邏箇須(くゑはららかす)=蹴散らし)、仁王立ちになり、清らかに雄詰(雄詰此云嗚多稽眉(をたけび)、メモ060005)され、堂々と嘖譲(嘖譲此云(? 石を手)廬毘(ころひ)=高飛車に詰問)された。  素戔鳴尊は「私には初めから悪意などありません。ただ父母(メモ060015)の命により、永遠(とは)に根國に行こうと思っています。しかし、姉上に会わずして、去り行くことなどできませんので、雲や霧を踏み越え、やって来ました。姉上がこのようにお怒りになられるとは、全く考えられないことでした」と答えられた。すると、天照大~は「そうだとしたら、どのようにしてその清い心を明らかにするのか」と訊ねると、「姉様と共に誓(うけい、メモ060007)を行いたい。誓約之中(此云宇気譬能美難箇(うけひのみなか)、誓として)私は子を生みます。私の生んだ子が、もし女ならば私に悪意があると云うことであり、もし男ならば私に悪意がないと云う証明です」と答えられた  そこで、天照大~は素戔鳴尊の十握劒を乞い受け取って、三つに折って、天眞名井(あまのまなゐ、メモ060009)の水で振り濯いで、(齒+吉)然咀嚼(此云佐我弥爾加武(さがみにかむ)、メモ060010=噛み砕いて)、吹棄気噴之狹霧此云浮枳于都屡伊浮岐能佐擬理(ふきうつるいふきのさぎり)(=吹き出した息の霧)から生まれた~を、名付けて田心姫(たこりひめ)と云う。 次が湍津姫(たぎつひめ)と云い、次が市杵嶋姫(いつきしまひめ)と云う。これらは三柱の女~である  続いて、素戔鳴尊が、天照大~の頭や腕に巻き付けていた八坂瓊の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)を乞い受け取って、天眞名井の水で振り濯ぎ、噛み砕いて、吹き出した息吹の霧から生まれた~を、名付けて正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさ か あ かつ かち はや ひ あま の おし ほ みみ の みこと)と云う。次が天穂日命(あまのほひのみこと)出雲臣(いづものおみ)・土師連(はじのむらじ)らの祖(おや)であると云う。次が天津彦根命(あまつひこねのみこと)凡川内直(おほしかふちのあたひ)・山代直(やましろのあたひ)らの祖であると云う。次が活津彦根命(いくつひこねのみこと)と云う。次が熊野?樟日命(くまののくすびのみこと)と云う。すべて五柱の男~である。  天照大~は「素戔鳴尊が生んだ~々の元は、八坂瓊の五百箇の御統であり、それは私の物であるから、この五柱の男~はすべて私の子である」と仰せられて、引き取って育てられた。また「この十握劒は、素戔鳴尊の物であるから、三柱の女~はすべてお前の子である」と仰せられて、素戔鳴尊に授けられた。これらの女~は筑紫の胸肩君等(むなかたのきみら)が祀る~である。 第六段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  日~(ひのかみ=天照大~)は、そもそも素戔嗚尊が勇ましく乱暴であることを知っておられたので、上って来るとすぐに、「弟が来る訳は善意(よきこころ)からではない。きっと我が天原(あまのはら)を奪おうとするだろう」と仰せられて、勇ましい身支度をされた。即ち、身には十握劒・九握劒(ここのつかのつるぎ)・八握劒(やつかのつるぎ)を佩(お)び、背には靫を負い、また腕には稜威之鞆を着け、手には弓矢を持ち、ご自身で防ごうとされた。  素戔嗚尊は「私にはそもそも悪意など持っておりません。唯々姉上に会いたいと思って、少しだけお邪魔しただけです」と申し上げた。そこで日~は、素戔嗚尊と向かい合って立ち、誓(うけひ)として「もしおまえの心が清らかで、この国を奪おうとする心がないのであれば、おまえが生む子は必ず男だろう」と仰せられた。 原文 「言訖 先食所帯十握劒生兒 號瀛津嶋姫」 訓み 「言(のたま)ひ訖(をは)りて 先(ま)づ所帯(はか)せる十握劒を食(を)して生(う)みし兒(みこ)を、瀛津嶋姫(おきつしまひめ)と號(まを)す」 訳 「言い終わって、まず、佩びていた十握劒を食べて生まれた子を瀛津嶋姫と云う」メモ060101  また、九握劒を食べて生まれた子を湍津姫(たぎつひめ)と云う。また、八握劒を食べて生まれた子を田心姫(たこりひめ)と云う。すべてで三柱の女~である。 原文 「已而素戔鳴尊 以其頸所嬰五百箇御統之瓊」 訓み 「已(すで)にして素戔鳴尊 其(そ)の頸(くび)に嬰(うな)がける五百箇(いほつ)の御統(みすまる)の瓊(に)を以(も)ちて」 訳 「かようにして、素戔嗚尊は、その首に掛けていた五百箇の御統の瓊(=玉)を」 天渟名井(あまのぬなゐ、メモ060009)またの名を去来之眞名井(いざのまなゐ、メモ060009)と云う、の水で濯(すす)いで食べた。そして生まれた子を正哉吾勝勝速日天忍骨尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみこと)尊と云う。次に天津彦根命(あまつひこねのみこと)。次に活津彦根命(いくつひこねのみこと)。次に天穂日命(あまのほひのみこと)。次に熊野忍蹈命(くまののおしほみのみこと)。すべてで五柱の男~である。  この結果、素戔嗚尊が誓(うけひ)に勝ったことになったので、日~は、素戔嗚尊に悪意がないことをお知りになられて、日~がお生みになられた三柱の女~を筑紫洲(つくしのくに)に降(くだ)らせられた。 原文 「因教之曰 汝三~ 宜降居道中 奉助天孫 而為天孫所祭也」 訓み 「因(よ)りて教(を)しへ曰(のたま)はく 汝三~(いまし みはしらのかみ)、道の中に降(くだ)り居(お)りて、天孫(あめみま)を助け奉(たてまつ)りて、天孫の為に祭(まつ)られよ」 訳 「そこで、「おまえたち三柱の~は、海路の途中に降りて坐(ま)しまして、天孫をお助け申し上げて、天孫のために祀られなさい」と教えられた」メモ060102 第六段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  素戔嗚尊が天に昇ろうとされた時に、一柱の~がいた。名を羽明玉(はあかるたま)と云う。この~がお迎えして、瑞八坂瓊之曲玉(みつのやさかにのまがたま)を献上した。そこで、素戔嗚尊はその玉を持って天上に上られた。この時、天照大~が弟に悪意があるのだろうとお疑いになられて、兵を集めて詰問されると、素戔嗚尊は、「私が来たのは、本当に姉上に会いたかったからです。また、宝である瑞八坂瓊之曲玉を献上しようと思っただけです。他意はありません」と答えた。 天照大~がまた、「おまえの言葉の真偽をどのようにして証明するのか」と問われると、「どうか私と姉上とで誓(うけひ)を立てさせてください。誓によって女を生んだら悪意があると思ってください。男を生んだら悪意がないと思ってください」とお答えした。  そこで、天眞名井を三か所を掘って、向かい合って立たれた。  しこうして、天照大~は素戔嗚尊に「私が佩びている劒を今おまえに与えよう。おまえは持っている八坂瓊の曲玉を私に与えよ」と仰せられ、そのように交換された。そうして、天照大~がその八坂瓊の曲玉を天眞名井に浮かべ手に取り、曲玉の端を噛み切って、吹き出した息の中から生まれた~を市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)と云う。これは、遠瀛(おきつみや)に坐(ま)します~である。 また、曲玉の中ほどを噛み切って、吹き出した息の中から生まれた~を田心姫命(たこりひめのみこと)と云う。これは、中瀛(なかつみや)に坐(ま)します~である。 また、曲玉の尾を噛み切って、吹き出した息の中から生まれた~を湍津姫命(たぎつひめのみこと)と云う。これは、海濱(へつみや)に坐(ま)します~である。すべてで、三柱の女~である。  そこで、素戔嗚尊は、天照大~が佩びておられた劒を天眞名井に浮かべ手に取り、劒の先を噛み切って、吹き出した息の中から生まれた~を天穂日命と云う。 次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次に天津彦根命。次に活津彦根命。次に熊野?樟日命。すべてで、五柱の男~であった。云爾(しかいう=以上のように云われている) 第六段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。   日~は素戔嗚尊と天安河(あまのやすのかは)を挟んで向かい合って、誓(うけひ)をされて「もしおまえに?賊之心(卑しきこころ)がないのであれば、おまえが生む子は必ず男であろう。もし男を生んだら、私の子として天原を治めさせよう」と仰せられた。  そこで、日~が、最初に十握劒を食べて生まれた子が瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)である。またの名を市杵嶋姫命と云う。また、九握劒を食べて生まれた子が湍津姫命である。また、八握劒を食べて生まれた子が田霧姫命である。  次に、素戔嗚尊が、左の髻(みづら)に巻き付けていた五百箇統之瓊(いほつみすまるのたま)を口に含み、左の掌(たなごころ、手のひら)に置くと、男が生まれた。そこで、「今まさに私が勝った」と仰せられたので、名を勝速日天忍穂耳尊(かちはやひあまのおしほみみのみこと)と云う。また、右の髻の瓊(たま)を口に含み、右の掌に置くと、天穂日命が生まれた。また、首にかけた瓊を口に含み、左の腕に置くと、天津彦根命が生まれた。また、右の腕から活津彦根命が生まれた。また、左の足から?之速日命(ひのはやひのみこと)が生まれた。また、右の足から熊野忍蹈命が生まれた。またの名を熊野忍隅命(くまののおしくまのみこと)と云う。素戔嗚尊の生んだ子はすべて男であった。  その為、日~は、素戔嗚尊にはそもそも悪意が無かったことをお知りになられ、その六柱の男~を引き取られて、日~の子として天原を治めさせられた。  そして、日~の生んだ三柱の女~は、葦原中國の宇佐嶋(うさのしま)に降らせ坐(ま)しまされた。今は、北の海路の中に坐(ま)しまし、道主貴(みちぬしのむち)と云う。これは筑紫の水沼君(みぬまのきみ)らが祀る~である。  ?は于であり、備(ひ)と云う 古事記 原文(第七段相当) 爾速須佐之男命 白于天照大御~ 我心C明 故我所生子 得手弱女 因此言者 自我勝云而 於勝佐備此二字以音 離天照大御~之營田之阿此阿字以音 埋其溝 亦其於聞看大嘗之殿 屎麻理此二字以音散 故雖然爲 天照大御~者 登賀米受而告 如屎 醉而吐散登許曾此三字以音我那勢之命爲如此 又離田之阿埋溝者 地矣阿多良斯登許曾自阿以下七字以音我那勢之命 爲如此登此一字以音詔雖直 猶其惡態不止而轉 天照大御~ 坐忌服屋而 令織~御衣之時 穿其服屋之頂 逆剥天斑馬剥而 所墮人時 天服織女見驚而 於梭衝陰上而死訓陰上云富登 故於是天照大御~見畏 閇天石屋戸而 刺許母理此三字以音坐也 爾高天原皆暗 葦原中國悉闇 因此而常夜往 於是萬~之聲者 狹蝿那須此二字以音滿 萬妖悉發 是以八百萬~ 於天安之河原 ~集集而訓集云都度比 高御産巣日~之子 思金~令思訓金云加尼而 集常世長鳴鳥 令鳴而 取天安河之河上之天堅石 取天金山之鐵而 求鍛人天津麻羅而麻羅二字以音 科伊斯許理度賣命自伊以六字以音 令作鏡 科玉祖命 令作八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠而 召天兒屋命 布刀玉命布刀二字以音下效此而 内拔天香山之眞男鹿之肩拔而 取天香山之天之波波迦此二字以音 木名而 令占合麻迦那波而自麻下四字以音 天香山之五百津眞賢木矣 根許士爾許士而自許下五字以音 於上枝 取著八尺勾瓊之五百津之御須麻流之玉 於中枝 取繋八尺鏡訓八尺云八阿多 於下枝 取垂白丹寸手 丹寸手而訓垂云志殿 此種種物者 布刀玉命 布刀御幣登取持而 天兒屋命 布刀詔戸言祷白而 天手力男~ 隱立戸掖而 天宇受賣命 手次繋天香山之天之日影而 爲縵天之眞拆而 手草結天香山之小竹葉而訓小竹云佐佐 於天之石屋戸伏汚氣此二字以音 蹈登杼呂許志此五字以音 爲~懸而 掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也 爾高天原動而 八百萬~共咲 於是天照大御~ 以爲怪 細開天石屋戸而 内告者 因吾隱坐而 以爲天原自闇 亦葦原中國皆闇矣 何由以 天宇受賣者爲樂 亦八百萬~諸咲 爾天宇受賣白言 益汝命而貴~坐故 歡喜咲樂 如此言之間 天兒屋命 布刀玉命 指出其鏡 示奉天照大御~之時 天照大御~ 逾思奇而 稍自戸出而 臨坐之時 其所隱立之天手力男~ 取其御手引出 即布刀玉命 以尻久米此二字以音繩 控度其御後方白言 從此以内 不得還入 故天照大御~出坐之時 高天原及葦原中國 自得照明 於是八百萬~共議而 於速須佐之男命 負千位置戸 亦切鬚及手足爪令拔而 ~夜良比夜良比岐 又食物乞大氣都比賣~ 爾大氣都比賣 自鼻口及尻 種種味物取出而 種種作具而進時 速須佐之男命 立伺其態 爲穢汚而奉進 乃殺其大宜津比賣~ 故所殺~於身生物者 於頭生蠶 於二目生稻種 於二耳生粟 於鼻生小豆 於陰生麥 於尻生大豆 故是~産巣日御祖命 令取茲 成種 訳 原文 「爾速須佐之男命 白于天照大御~ 我心C明 故我所生子 得手弱女 因此言者 自我勝云而」 訓み 「ここに速須佐之男命、天照大御~に白(まを)しく「我が心Cく明(あか)し。故(かれ)我が生める子は手弱女(たわやめ)を得たり。此(これ)に因(より)て言さば、自(おのづ)から我勝ちぬ」と云(もを)して、」 訳 「そこで、速須佐之男命は天照大御~に「私の心に悪意がないので、私が生んだ子は女であった。だから私の勝ちです」と仰せられて、」 訓み2 「ここに速須佐之男命、天照大御~に「我が心Cく明(あか)し。故(かれ)我子を生めるに所(よって)手弱女(たわやめ)を得たり。此(これ)に因(より)て言さば、自(おのづ)から我勝ちぬ」と云(もを)して、」 訳2 「そこで、速須佐之男命は天照大御~に「私の心に悪意がないので、私が子を生んだ結果、女を得た。だから私の勝ちです」(メモ070001)と仰せられて、」 勝ちにまかせて、天照大御~が耕しておられる田の畔(あぜ)を壊し、溝を埋め、また、大嘗(おほにへ)を召し上がる祭殿に屎麻理此二字以音(くそまり、メモ070002)を撒き散らした。  このような行いに対しても、天照大御~はお咎めにならず、「糞に見えるのは、弟が酔って吐き散らしたものでしょう。田の畔を壊し溝を埋めたのは、弟がその土地を利用したかったのでしょう」と仰せられましたが、速須佐之男命の悪態は止まるどころか、更に激しくなった。  天照大御~が忌服屋(いみはたや)に居られ、~に奉納する衣を織らせている時、速須佐之男命は機屋(はたや)の屋根に穴を開け、天斑馬(あめのふちこま)を逆さに剥(は)いで、中に落とし入れたので、天服織女(あめのはたおりめ)がこれを見て驚き、梭(ひ)が陰(ほど)に刺さって死んでしまった。  ここに至って、これを見た天照大御~は恐れて、天石屋戸(あめのいはやと)を開けて、籠もってしまわれた。すると、高天原すべてが暗闇となり、葦原中國もことごとく闇となった。その為、ずっと夜が続いた。そして、あらゆる~の声が狹蝿(さばえ=メモ050015うるさい蝿)のように満ち溢れ、あらゆる災が起こった。  その為に、八百萬~(やほよろづのかみ)が天安之河原(あめのやすのかはら)に集(つど)い、高御産巣日~(たかみむすひのかみ)の子の思金~訓金云加尼(かね)(おもひかねのかみ)に対策を考えさせた。  その結果、常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせ(メモ070003)、天安河(あめのやすのかは)の川上にある天堅石(あめのかたいは)を取り、天金山(あめのかなやま)の鉄を採取して、鍛冶の天津麻羅麻羅二字以音(あまつまら)を招いて、伊斯許理度賣命自伊以六字以音(いしこりどめのみこと)に命じて鏡を作らせた。メモ070004 また、玉祖命(たまのおやのみこと)に命じて八尺勾瓊(やさかのまがたま)の五百津之御須麻流之珠(いほつのみすまるのたま)を作らせた。 また、天兒屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命布刀二字以音下效此(ふとたまのみこと)を呼び、天香山の雄鹿の肩の骨を抜き、天香山の天之波波迦此二字以音 木名(あめのははか)を取り、占いをさせた。  そして、天香山の五百津眞賢木(いほつまさかき、メモ070005)を根許士爾許士而自許下五字以音ねこじにこじて(根こそぎ掘り出して)、上の枝には八尺勾瓊(やさかのまがたま)の五百津之御須麻流之玉(いほつのみすまるのたま)で飾り、中の枝には八尺鏡訓八尺云八阿多(やあたのかがみ)で飾り、下の枝には白い幣(ぬさ)と青い幣を垂らした。  それらの物は布刀玉命が見事な供え物として捧げ持ち、天兒屋命が厳かな祝詞(のりと)を唱え、天手力男~(あめのたぢからをのかみ)が岩屋戸の脇に隠れ、天宇受賣命(あめのうづめのみこと)が、天香山の天之日影(あめのひかげ)を襷(たすき)に掛け、天之真拆(あめのまさき、メモ070006)を縵(かづら)にして、天香山の小竹葉而訓小竹云佐佐(ささのはを)束ね持ち、天之石屋戸(あめのいはやと)の前に伏せ置いた汚氣此二字以音(おけ=桶)を蹈登杼呂許志此五字以音ふみとどろこし(踏み轟かし)、~懸(かむかがり)をして、胸乳をさらけ出し、裳緒(もひも、メモ070007)を陰(ほと)の前に垂らして、踊った。それで、高天原がどよめき、八百萬~(やほよろづのかみ)みなが笑い面白がった。  この騒ぎを聞かれた天照大御~は怪しまれて、天之石屋戸を少しだけ開けて、「私が隠れているので、天原(あめのはら)は暗闇となり、葦原中國も全て暗闇であるはずなのに、どうして天宇受賣命が楽しそうに踊り、八百萬~共咲(八百萬~が皆笑)っているのか」とお尋ねになられた。天宇受賣命が「あなた様にも勝る貴い~が居られたので、喜び笑って踊っています」とお答えすると同時に、天兒屋命と布刀玉命が鏡を天照大御~にお見せすると、天照大御~はますます不思議にお思いになり、ゆっくりと石屋戸からお出になられた。  この時とばかりに、隠れて立っていた天手力男~がその御手を取ってお出しし、布刀玉命が尻久米此二字以音繩(しりくめ縄、メモ070008)を後ろに引き張って、「これより中にはお戻りになってはなりません」と申し上げた。天照大御~がお出になられると、高天原も葦原中國も自(おの)づと明るくなった。  かような訳で、八百萬~は相談し、速須佐之男命に多くの贖罪(しょくざい)の品物を出させ、速須佐之男命の鬚を切り置き、手足の爪を抜かせ置いて(メモ070009)、追放した。  また(メモ070010)、食物を大氣都比賣~(おほげつひめのかみ)に求めた。大氣都比賣~は、鼻や口や尻から種種の食べ物を取り出して、様々に調理して差し上げた。すると、速須佐之男命は、大氣都比賣~の行いを見て、汚れ穢して献上したのだと思い、大宜津比賣~(おほげつひめのかみ、メモ070010)を殺してしまった。  殺された~の体から生まれたものがあった。頭には蚕(かいこ)が生まれ、二つの目には稲の種が生まれ、二つの耳には粟が生まれ、鼻には小豆(あずき)が生まれ、陰には麦が生まれ、尻には大豆が生まれた。  そこで、~産巣日御祖命(かむむすひのみおやのみこと)がこれらを取らせて、種とされた。 日本書紀 第七段 本文  それからの素戔嗚尊の行いは全く手がつけられないほどになった。その所業は、例えば、天照大~は天狹田(あまのさなだ)と長田(ながた)をご自身の田としおられましたが、素戔嗚尊は、その田に、春には、重播種子璽枳磨枳(しきまき)重ね蒔き)をし、畔(あぜ)を壊し、秋には、天斑駒(あまのぶちのこま=まだら毛の馬)を田に放ち、農作業の邪魔をし、また、天照大~の新嘗(にひなへ)の神事を行われる時に、秘かに新宮(にひなへのみや)に糞をして、神事を穢し、また、天照大~が~衣(かむみそ)を織るために斎服殿(いみはたどの=神聖な機屋(はたや))に居られる時に、毛を剥いだ天斑駒を、機屋の屋根に穴を開けて投げ入れたので、天照大~は驚かれて、梭(ひ)で体を傷つけてしまわれた、と云う如きである。  天照大~はお怒りになり、天石窟(あまのいはや)にお入りになり、磐戸(いはと)を閉じて籠もられた。そのため、国中が常に暗闇となり、昼夜の区別がつかなくなってしまった。その為、八十萬~は天安河辺(あまのやすのかはら)に集まり、対策を相談した。  思兼~(おもひかねのかみ)が深く思慮をめぐらして、常世之長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて、長く鳴かせた。また、手力雄~(たちからをのかみ)を磐戸の側(わき)に立たせた。中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖(とほつおや、天皇事績メモ0110)である天兒屋命(あまのこやねのみこと)と忌部(いみべ)の遠祖である太玉命(ふとたまのみこと)とに、天香山(あまのかぐやま、メモ070011)の良く茂った榊(さかき)を掘り起こさせ、上の枝には八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいほつのみすまる)を掛けさせ、中の枝には八咫鏡(やたのかがみ)ある話では、眞経津鏡(まふつのかがみ)と云うを掛けさせ、下の枝には青和幣和幣を尼枳底(にきて)と云う(青い幣(ぬさ))と白い幣を掛けさせて、皆で祈祷申し上げた。  また、猿女君(さるめのきみ)の遠祖である天鈿女命(あまのうづめのみこと)が、茅(ちがや)を巻きつけた矛(ほこ、メモ070012)を手に持ち、天石窟戸(あまのいはやと)の前に立って見事に舞い踊った。更に、天香山の榊を鬘(かづら=髪飾り)とし、蘿此舸礙(ひかげ=ヒカゲノカズラ(植物名)だそうです)を手繦多須枳(たすき)にし、火を焚き、覆槽置覆槽を于該(うけ)と云う(桶を伏せ置いてメモ070013)、叩き舞い踊り、顕~明之憑談歌牟鵝可梨(かむがかり)した。  すると、天照大~はこれをお聞きになられ、「私が石窟に籠っているので、豊葦原中國はずっと夜になっているはずなのに、どうして、天鈿女命はあのように笑い楽しんでいるのだろう」と思われて、細めに磐戸を開けて、様子を御覧になられた。  将にその時、手力雄~が天照大~の御手を取って、お出し申し上げ、中臣~と忌部~が端出之縄縄。亦云、左縄端出。斯梨倶梅儺波(しりくめなは)と云う。メモ070014を張り渡し、「再びお入りになられてはなりません」と申し上げた。  しこうして後(のち)、~々は素戔嗚尊に罪があるとし、祓い物として千座置戸(ちくらおきと、メモ070015)を科し納めさせ、髪を抜いてその罪を償わさせた。{ある話では、手足の爪を剥(は)いで償せた、と云う。}かようにして後、素戔嗚尊を追放した。 第七段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  誓(うけひ)の後、稚日女尊(わかひるめのみこと)が斎服殿(いみはたどの)で~聖な衣を織っている時に、素戔嗚尊が、斑駒(ぶちこま)を逆剥ぎにして中に投げ入れた。稚日女尊は驚いて機(はた)から転げ、持っていた梭(ひ)で体を傷つけ、亡くなってしまった。  このため、天照大~は素戔嗚尊に「おまえには邪心がある。おまえとは会いたくない」と仰せられて、天石窟(あまのいはや)に入って、磐戸(いはと)を閉じてしまわれた。この為、天下(あめのした)は常に暗闇となり、昼夜の区別もつかなくなった。  そこで、八十萬~たちは天高市(あまのたけち)に集まって相談された。高皇産靈(たかみむすひ)の子に思兼~(おもひかねのかみ)と云う~がいて、思慮深く知恵豊かであった。思兼~が思案して、「天照大~の姿を映し出すものを作って、招き寄せましょう」と提案した。  そこで、石凝姥(いしこりどめ)を鍛冶とし、天香山の金(かね)を採らせ、日矛(ひほこ)を作らせ、また、眞名鹿之皮(まなかのかは=立派な鹿の皮)をまるごと剥いで天羽鞴(あまのはぶき、メモ070101)を作らせた。  このようにして造った鏡が、紀伊國に坐します日前~(ひのまえのかみ)である。  石凝姥を伊之居梨度刀iいしこりどめ)と云う。全剥を宇都播伎(うつはぎ)と云う 第七段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  日~尊は天垣田(あまのかきた)をご自身の田としておられましたが、その田を、素戔嗚尊は、春には溝を埋め畔を壊し、秋には穀物が実ると縄を張って奪ってしまった。また、日~が織殿に居られる時に、皮を剥いだ生きたままの斑駒を、その中に投げ入れた。これらすべての所業は、全く手がつけられないほどであった。  しかし、日~は優しいお心で、咎めず恨むことなく、すべてを大きなお心でお許しになられた。  日~が新嘗の神事を行う時になり、素戔嗚尊は新宮(にひなへのみや)の日~がお座りになる席の下にこっそりと糞をされたが、日~は、それにお気づきにならずに座られた。その為、日~はお体が不平(やくさ、メモ070201=不調に)おなりになり、大変お怒りになられ、天石窟に入って、その磐戸を閉じられてしまわれた。  この為、~々は困り、鏡作部の遠祖である天糠戸者(あまのあらとのかみ、あまのぬかとのかみ)に鏡を作らせ、忌部の遠祖である太玉に幣(ぬさ)作らせ、玉作部の祖先である豊玉に玉を作らせた。また、山雷者(やまつちのかみ=山祗、メモ051002)によく茂った榊(さかき)で八十玉籤(やそたまくし、メモ070202)を作らせ、野槌者(のつちのかみ=野祗、メモ051002)に多くの野薦(こも)で八十玉籤を作らせた。そして、これら品々を持ち寄って、中臣の祖先である天兒屋命(あまのこやねのみこと)が恭しく祝詞(のりと)を奉上した。  すると、日~は磐戸を開けて出てこられた。この時、鏡を石窟に差し入れたところ、戸にぶつけて小さな傷がついた。その傷は今も残っている。この鏡が、伊勢で祀られている大~である。  その後、罪を素戔嗚尊に科して、その祓物を納めさせた。即ち、手の爪を吉棄物(よしきらいもの=福招物、メモ070009)として、足の爪を凶棄物(あしききらいもの=破魔物、メモ070009)として納めさせた。また、唾(つばき)を白い幣とし、涎(よだれ)を青い幣とし、厄払いをし、その後、追放した。  送糞を倶蘇摩屡(くそまる)と云う。玉籤を多摩倶之(たまくし)と云う。秡具を波羅閉都母能(はらへつもの)と云う。手端吉棄を多那須衛能余之岐羅(田+比)(たなすゑのよしきらひ)と云う。~祝祝之を加武保佐枳保佐枳枳(かむほさきほさきき)と云う。遂之を波羅賦(はらふ)と云う 第七段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  この後、日~の営む田は三か所あり、天安田(あまのやすた)・天平田(あまのひらた)・天邑并田(あまのむらあはせた)と云う。これらはすべて良い田で、長雨や日照りになっても損なわれなかった。素戔嗚尊の田もまた三か所あり、天杙田(あまのくひた)・天川依田(あまのかはよりた)・天口鋭田(あまのくちとた)と云う。これらはすべて痩せた土地で、雨が降れば土が流され、日照りになれば干上がった。  そこで、素戔嗚尊は妬(ねた)んで姉の田に害を与えた。春には、水路を壊し、溝を埋め、畔を壊し、重ね蒔きをし、秋には、串を立ててその場所を奪い、馬を放って、田を荒らした。これら様々な所業は止む様子がなかった。しかし、日~は咎めず、常に穏やかな御心で許されておられた。云々(しかいう)。  日~が天石窟に籠られると、~々は中臣連の遠祖である興台産靈(こごとむすひ)の子の天兒屋命(あまのこやねのみこと)を遣わして祈祷をさせた。そこで、天兒屋命が天香山の榊を掘り起こし、上の枝には鏡作の遠祖である天抜戸(あまのぬかと)の子の石凝戸邊(いしこりとべ)が作った八咫鏡(やたのかがみ)を掛け、中の枝には玉作の遠祖である伊弉諾尊の子の天明玉(あまのあかるたま)が作った八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を掛け、下の枝には粟國之忌部(あはのくにのいみべ)の遠祖である天日鷲(あまにひわし)が作った木綿(ゆふ=綿のような白い幣?)を掛けた。その飾った榊を忌部首(いみべのおびと)の遠祖である太玉命(ふとたまのみこと)に持たせて、荘厳な言葉によって祝詞(のりと)を奉らせた。  すると、日~はこれを聞いて、「今まで、人は私にいろいろな祝詞を申してきたが、未だかつてこのように美しい祝詞は聞いたことはない」と仰せられて、細めに磐戸を開けて、外の様子を御覧になられた。その時に、天手力雄~(あまのたちからをのかみ)が磐戸の側(そば)に隠れていて、即座に磐戸を引き開けると、日~の光が六合(くにうち、メモ050018)に満ち溢れた。  そこで、~々は大いに喜び、素戔嗚尊に多くの祓物を納めさせ、手の爪を吉爪棄物吉(よしきらいもの=福招物)とし、足の爪を凶爪棄物凶(あしききらいもの=破魔物)とし、天兒屋命にその厄払いの祝詞を奉上させた。世の人が自分の爪を丁寧に始末するのは、これが由縁ある。  かようにして、~々は素戔嗚尊を責め、「おまえの仕業はとても許されるものではないので天上に住んではならないし、葦原中國にいてもならない。すぐに底根之國(そこつねのくに)に行け」と言って、皆で追放した。この時、長雨が降っていて、素戔嗚尊は青草を束(たば)ねて笠蓑とし、宿を~々に求めた。~々は「おまえは自分の行いが悪くて、追われ責められている者だ。どうして宿を我々に求められるのか」と言って皆で断った。この為、風雨が激しかったけれども、休むこともできず、苦労しながら降(くだ)って行った。  これより後、世の人は、笠蓑を着たまま他人の家の中に入ることを嫌い、また束ねた草を背負って他人の家の中に入ることを嫌うようになったのである。この慣(なら)わしを破った者は必ず祓(はらへ)を負わされるのである。これは太古(いにしえ)より残っている掟(おきて)である。  その後(メモ070301)、素戔嗚尊は「~々は私を追い払い、私は高天原から永久に去ることになったが、姉上に会わずに、勝手に一人で去ることはできない」と仰せられて、また、天を轟(とどろ)かせ国を轟(とどろ)かせて天に上り参上した。これを見た天鈿女(あめのうずめ)が、日~にお伝えした。日~は「弟が上って来るのは、清き心からではなく、きっと、我が国を奪おうとしているのだろう。私は婦女(たをやめ)ではあるが、これを避けたりはしない」と仰せられ、身支度を整えられた。云々。  そこで、素戔嗚尊は誓(うけひ)をして、「私に悪意があって、またふたたび上って来たのならば、私が玉を噛んで生む子はきっと女でしょう。そのようになれば、その女を葦原中國に降(くだ)してください。もし、清き心であるのならば、きっと男を生むでしょう。そのようになれば、その男に天上を治めさせてください。また、姉上の生む子も、またこの誓(うけひ)と同じようにしましょう」と仰せられた。 そこで、日~が、まず十握劒を噛まれた。云々。  素戔嗚尊は、その左の髻(みづら)に巻いていた五百箇統之瓊の数珠を解き、玉の音をさせながら、天渟名井(あまのぬなゐ)の水で濯ぎ、浮かべ、その玉の端を噛んで、左の掌(たなごころ)に置いて生まれた子が正哉吾勝勝速日天忍穂根尊である。 右の玉を噛んで、右の掌に置いて生まれた子が天穂日命である。これは出雲臣・武蔵國造(むさしのくにのみやつこ)・土師連(はじのむらじ)らの遠祖である。 次が天津彦根命。これは茨城國造(うばらきのくにのみやつこ)・額田部連(ぬかたべのむらじ)らの遠祖である。 次が活目津彦根命(いくめつひこねのみこと)。次に?速日命(ひのはやひのみこと)。次が熊野大角命(くまののおほくまのみこと)、すべてで六柱の男~である。  そこで、素戔嗚尊は、日~に「私がふたたびた上って来たのは、~々が私を根國に追い払ったので、これから向かうところです。しかし、姉上にお会いせずに去ることなど、どうしてできましょうか。そこで、本当に清き心でまた上って来たのです。お会いすることができましたので、~々の云うとおりに、これより永久に根國に向かいます。どうか姉上は天國(あまつくに)をお治めになられて、平安にお過ごしください。また、私が清き心で生んだ子たちを姉上に奉(たてまつ)ります」と仰せられて、また、天降(あまくだ)られた。 廃渠槽を秘波鵝都(ひはがつ)と云う。捶籤を久斯社志(くしざし)と云う。興台産靈を許語等武須毘(こごとむすひ)と云う。太諄辞を布斗能理斗(ふとのりと)と云う。?轤然を乎謀苦留留爾(をもくるるに)と云う。??乎を奴儺等母母由羅爾(ぬなとももゆらに)と云う 古事記 原文(第八段相当) 故所避追而 降出雲國之肥上河上 名鳥髮地 此時箸從其河流下 於是須佐之男命 以爲人有其河上而 尋?上往者 老夫與老女二人在而 童女置中泣 爾問賜之汝等者誰 故其老夫答言 僕者國~ 大山上津見~之子焉 僕名謂足上名椎 妻名謂手上名椎 女名謂櫛名田比賣 亦問汝哭由者何 答白言 我之女者 自本在八稚女 是高志之八俣遠呂智此三字以音 毎年來喫 今其可來時 故泣 爾問其形如何 答白 彼目如赤加賀智而 身一有八頭八尾 亦其身生蘿及檜榲 其長度谿八谷峽八尾而 見其腹者 悉常血爛也此謂赤加賀知者今酸醤者也 爾速須佐之男命 詔其老夫 是汝之女者 奉於吾哉 答白恐不覺御名 爾答詔 吾者天照大御~之伊呂勢者也自伊下三字以音 故今自天降坐也 爾足名椎、手名椎~ 白然坐者恐 立奉 爾速須佐之男命 乃於湯津爪櫛取成其童女而 刺御美豆良 告其足名椎手名椎~ 汝等釀八鹽折之酒 亦作迴垣 於其垣作八門 毎門結八佐受岐此三字以音 毎其佐受岐置酒船而 毎船盛其八鹽折酒而待 故隨告而如此設備待之時 其八俣遠呂智 信如言來 乃毎船垂入己頭 飮其酒 於是飮醉 醉留由伏寢 爾速須佐之男命 拔其所御佩之十拳劔 切散其蛇者 肥河變血而流 故切其中尾時 御刀之刄毀 爾思怪以御刀之前 刺割而見者 在都牟刈之大刀 故取此大刀 思異物而 白上於天照大御~也 是者草那藝之大刀也那藝二字以音 故是以其速須佐之男命 宮可造作之地 求出雲國 爾到坐須賀此二字以音下效此地而詔之 吾來此地 我御心須賀須賀斯而 其地作宮坐 故其地者於今云須賀也 茲大~ 初作須賀宮之時 自其地雲立騰 爾作御歌 其歌曰  夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁 於是喚其足名椎~ 告言 汝者任我宮之首 且負名號 稻田宮主須賀之八耳~ 故其櫛名田比賣以 久美度邇起而 所生~名謂八嶋士奴美~自士下三字以音下效此 又娶大山津見~之女 名~大市比賣 生子 大年~ 次宇迦之御魂~二柱 宇迦二字以音 兄八嶋士奴美~ 娶大山津見~之女 名木花知流此二字以音比賣 生子 布波能母遲久奴須奴~ 此~ 娶淤迦美~之女 名日河比賣 生子 深淵之水夜禮花~夜禮二字以音 此~娶天之都度閇知泥上~自都下五字以音 生子 淤美豆奴~此~名以音 此~ 娶布怒豆怒~此~名以音之女 名布帝耳上~布帝二字以音 生子 天之冬衣~ 此~ 娶刺國大上~之女 名刺國若比賣 生子 大國主~ 亦名謂大穴牟遲~牟遲二字以音 亦名謂葦原色許男~色許二字以音 亦名謂八千矛~ 亦名謂宇都志國玉~宇都志三字以音 并有五名 故此大國主~之兄弟八十~坐 然皆國者 避於大國主~ 所以避者 其八十~ 各有欲婚稻羽之八上比賣之心 共行稻羽時 於大穴牟遲~負? 爲從者率往 於是到氣多之前時 裸菟伏也 爾八十~謂其菟云 汝將爲者 浴此海鹽 當風吹而 伏高山尾上 故其菟從八十~之教而伏 爾其鹽隨乾 其身皮悉風見吹拆 故痛苦泣伏者 最後之來大穴牟遲~ 見其菟言 何由汝泣伏 菟答言 僕在淤岐嶋 雖欲度此地 無度因 故欺海和邇 此二字以音下效此言 吾與汝竸 欲計族之多少 故汝者隨其族在悉率來 自此嶋至于氣多前皆列伏度 爾吾蹈其上 走乍讀度 於是知與吾族孰多 如此言者 見欺而列伏之時 吾蹈其上讀度來 今將下地時 吾云 汝者我見欺言竟 即伏最端和邇 捕我悉剥我衣服 因此泣患者 先行八十~之命以 誨告浴海鹽當風伏 故爲如教者 我身悉傷 於是大穴牟遲~ 教告其菟 今急往此水門 以水洗汝身 即取其水門之蒲黄 敷散而 輾轉其上者 汝身如本膚必差 故爲如教其身如本也 此稻羽之素菟者也 於今者謂菟~也 故其菟白大穴牟遲~ 此八十~者必不得八上比賣 雖負? 汝命獲之 於是八上比賣答八十~言 吾者不聞汝等之言 將嫁大穴牟遲~ 故爾八十~怒 欲殺大穴牟遲~ 共議而 至伯岐國之手間山本云 赤猪在此山 故和禮此二字以音共追下者 汝待取 若不待取者 必將殺汝云而 以火燒似猪大石而轉落 爾追下取時 即於其石所燒著而死 爾其御祖 命哭患而 參上于天 請~産巣日之命時 乃遣(討+下に虫)貝比賣與蛤貝比賣 令作活 爾(討+下に虫)貝比賣岐佐宜此三字以音集而 蛤貝比賣持水而 塗母乳汁者 成麗壯夫訓壯夫云袁等古而出遊行 於是八十~見 且欺率入山而 切伏大樹 茹矢打立其木 令入其中 即打離其氷目矢而拷殺也 爾亦其御祖命 哭乍求者 得見即 拆其木而取出活 告其子言 汝有此間者 遂爲八十~所滅 乃違遣於木國之大屋毘古~之御所 爾八十~覓追臻而 矢刺乞時 自木俣漏逃而云 可參向須佐能男命所坐之根堅州國 必其大~議也 故隨詔命而 參到須佐之男命之御所者 其女須勢理毘賣出見 爲目合而相婚 還入 白其父言 甚麗~來 爾其大~出見而 告此者謂之葦原色許男 即喚入而 令寢其蛇室 於是其妻須勢理毘賣命 以蛇比禮二字以音授其夫云 其蛇將咋 以此比禮三擧打撥 故如教者 蛇自靜 故 平寢出之 亦來日夜者 入呉公與蜂室 且授呉公蜂之比禮 教如先 故 平出之 亦鳴鏑射入大野之中 令採其矢 故人其野時 即以火迴燒其野 於是不知所出之間 鼠來云 内者富良富良此四字以音 外者須夫須夫此四字以音巳 如此言故 蹈其處者 落隱入之間 火者燒過 爾其鼠 咋持其鳴鏑 出來而奉也 其矢羽者 其鼠子等皆喫也 於是其妻須世理毘賣者 持喪具而 哭來 其父大~者 思已死訖 出立其野 爾持其矢以奉之時 率入家而 喚入八田間大室而 令取其頭之虱 故爾見其頭者 呉公多在 於是其妻 以牟久木實與赤土 授其夫 故咋破其木實 含赤土 唾出者 其大~ 以爲咋破呉公 唾出而 於心思愛而寢 爾握其大~之髮 其室毎椽結著而 五百引石 取塞其室戸 負其妻須世理毘賣 即取持其大~之生大刀與生弓矢 及其天詔琴而 逃出之時 其天沼琴拂樹而 地動鳴 故 其所寢大~ 聞驚而 引仆其室 然解結椽髮之間 遠逃  故爾追至黄泉比良坂 遙望 呼 謂大穴牟遲~曰 其汝所持之生大刀 生弓矢以而 汝庶兄弟者 追伏坂之御尾 亦追撥河之瀬而 意禮二字以音爲大國主~ 亦爲宇都志國玉~而 其我之女須世理毘賣 爲嫡妻而 於宇迦能山三字以音之山本 於底津石根 宮柱布刀斯理此四字以音於高天原 冰椽多迦斯理此四字以音而居 是奴也 故持其大刀 弓 追避其八十~之時 毎坂御尾追伏 毎河瀬追撥而 始作國也 故其八上比賣者 如先期美刀阿多波志都此七字以音 故其八上比賣者 雖率來 畏其嫡妻須世理毘賣而 其所生子者 刺狹木俣而返 故 名其子云木俣~ 亦名謂御井~也 此八千矛~ 將婚高志國之沼河比賣 幸行之時 到其沼河比賣之家 歌曰 夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖 登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇 阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母 伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理 迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能加多理其登母 許遠婆 爾其沼河日賣 未開戸 自内歌曰 夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿礼婆 和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米 能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾 伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆 阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能 恵美佐迦延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志 夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆 故 其夜者不合而 明日夜爲御合也 又其~之嫡后 須勢理毘賣命 甚爲嫉妬 故其日子遲~和備弖三字以音 自出雲將上坐倭國而 束裝立時 片御手者 繋御馬之鞍 片御足 蹈入其御鐙而 歌曰 奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖 夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇 斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能 疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆 爾其后 取大御酒坏 立依指擧而 歌曰 夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐邪岐 加岐微流 伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世 如此歌 即爲宇伎由比四字以音而 宇那賀氣理弖六字以音 至今鎭坐也 此謂之~語也 故此大國主~ 娶坐胸形奧津宮~ 多紀理毘賣命 生子 阿遲二字以音?高日子根~ 次妹高比賣命 亦名 下光比賣命 此之阿遲?高日子根~者 今謂迦毛大御~者也 大國主~ 亦娶~屋楯比賣命 生子 事代主~ 亦娶八嶋牟遲能~自牟 下三字以音之女 鳥耳~ 生子 鳥鳴海~訓鳴云那留 此~ 娶日名照額田毘道男伊許知邇~田下毘 又自伊下至邇 皆以音 生子 國忍富~ 此~ 娶葦那陀迦~自那下三字以音 亦名 八河江比賣 生子 速甕之多氣佐波夜遲奴美~自多下八字以音 此~ 娶天之甕主~之女 前玉比賣 生子 甕主日子~ 此~ 娶淤加美~之女 比那良志毘賣此~名以音 生子 多比理岐志麻流美~此~名以音 此~ 娶比比羅木之其花麻豆美~木上三字 花下三字以音之女 活玉前玉比賣~ 生子 美呂浪~美呂二字以音 此~ 娶敷山主~之女 沼馬沼押比賣 生子 布忍富鳥鳴海~ 此~ 娶若盡女~ 生子 天日腹大科度美~度美二字以音 此~ 娶天狹霧~之女 遠津待根~ 生子 遠津山岬多良斯~  右件自八嶋士奴美~以下 遠津山岬帶~以前 稱十七世~ 故大國主~ 坐出雲之御大之御前時 自波穂 乘天之羅摩船而 内剥鵝皮剥 爲衣服 有歸來~ 爾雖問其名不答 且雖問所從之諸~ 皆白不知 爾多邇具久白言自多下四字以音 此者久延毘古必知之 即召久延毘古問時 答白此者~産巣日~之御子 少名毘古那~自毘下三字以音 故爾白上於~産巣日御祖命者 答告 此者實我子也 於子之中 自我手俣久岐斯子也自久下三字以音 故與汝葦原色許男命 爲兄弟而 作堅其國 故自爾 大穴牟遲與少名毘古那 二柱~相並 作堅此國 然後者 其少名毘古那~者 度于常世國也 故顯白其少名毘古那~ 所謂久延毘古者 於今者山田之曾富騰者也 此~者 足雖不行 盡知天下之事~也 於是大國主~ 愁而告 吾獨何能得作此國 孰~與吾能相作此國耶 是時有光海依來之~ 其~言 能治我前者 吾能共與相作成 若不然者 國難成 爾大國主~曰 然者治奉之状奈何 答言吾者 伊都岐奉于倭之垣東山上 此者坐御諸山上~也 故其大年~ 娶~活須毘~之女 伊怒比賣 生子 大國御魂~ 次韓~ 次曾富理~ 次白日~ 次聖~五~ 又娶香用比賣此~名以音 生子 大香山戸臣~ 次御年~二柱 又娶天知迦流美豆比賣訓天如天 亦自知下六字以音 生子 奧津日子~ 次奧津比賣命 亦名 大戸比賣~ 此者諸人以拜竈~者也 次大山上咋~ 亦名 山末之大主~ 此~者 坐近淡海國之日枝山 亦坐葛野之松尾 用鳴鏑~者也 次庭津日~ 次阿須波~此~名以音 次波比岐~此~名以音 次香山戸臣~ 次羽山戸~ 次庭高津日~ 次大土~ 亦名 土之御祖~九~  上件大年~之子 自大國御魂~以下 大土~以前 并十六~ 羽山戸~ 娶大氣都比賣下四字以音~ 生子 若山咋~ 次若年~ 次妹若沙那賣~自沙下三字以音 次彌豆麻岐~自彌下四字以音 次夏高津日~ 亦名 夏之賣~ 次秋毘賣~ 次久久年~久久二字以音 次久久紀若室葛根~久久紀三字以音  上件羽山之子以下 若室葛根以前 并八~ 訳  速須佐之男は、追い払われて、出雲國の肥河(ひのかは)の川上の地で鳥髪(とりかみ)と云う処に降(くだ)られた。箸が河から流れてきたので、須佐之男命は川上に人がいると思い、尋ねて行くと、老夫(おきな)と老女(おみな)の二人が、童女(をとめ)を間に置いて泣いていた。  「おまえたちは誰か」とお尋ねになると、老夫は「私は國~の大山津見~(おほやまつみのかみ)の子で、名を足名椎(あしなづち)と言い、妻の名を手名椎(てなづち)と言い、娘の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)と言います」とお答えした。「おまえは何故泣いているのか」とお尋ねになると、「私の娘は元々八人いましたが、高志(こし)の八俣遠呂智此三字以音(やまたのをろち、メモ080001)が毎年来ては食べてしまいます。ちょうど今、遣ってこようとしているので泣いているのです」とお答えした。「どのような姿をしているのか」とお尋ねになると、「その目は赤加賀智(あかかがち=酸漿(ほおずき))のようで、胴体は一つですが、八つの頭と八つの尾があり、体には苔や檜(ひのき)・杉が生え、長さは八つの谷、八つの峰(みね)に亘(わた)り、腹を見れば、ことごとく常に血がにじんでいます」とお答えした。 赤加賀知(あかかがち)と云うのは、今の酸醤(ほおずき)である  そこで、速須佐之男命が老夫に「おまえの娘を私の嫁に呉れないか」と仰せられると、「畏(おそ)れ多いことですが、まだお名前を存じません」とお答えしたので、「私は天照大御~の伊呂勢者也自伊下三字以音(いろせ=(同母)弟)です。今、天から降りてきたところです」とお答えした。足名椎と手名椎~は、「それは畏れ多いことです。嫁に出しましょう」と申し上げた。  そこで、速須佐之男命は、その童女を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変身させ、美豆良(みずら)に挿して、足名椎・手名椎~に、「おまえたちは八度醸(かも)した酒(メモ080002)を作り、そして、垣根を廻らし、その垣根に八つの門を設け、毎門結八佐受岐此三字以音(それぞれの門にやさずき(八つの桟敷)を用意し)、桟敷ごとに酒船を置き、酒船に先ほどの八度醸した酒を満たして待ちなさい」と仰せられた。  言われた通りに準備して待っていると、八俣遠呂智が前の言葉通りの姿でやって来て、それぞれの酒船ごとに頭を突っ込んで酒を飲み、酔いつぶれて寝てしまった。そこで、速須佐之男命は、佩びていた十拳劔で蛇(をろち)を斬り刻むと、肥河(ひのかは)が血となって流れた。この時、蛇の中の尾を斬った時、刀の刃が欠けたので、不思議に思い、刀の先で、蛇の腹を切り開いてみると、都牟刈之大刀(つむがりのたち)があった。この大刀を取り、尋常の太刀ではないと考えられて、天照大御~に献上された。これが草那藝之大刀也那藝二字以音(くさなぎのたち)である。  かくして後、速須佐之男命は、宮を造る地を出雲國で探し、須賀此二字以音下效此(すが)に着いたところで、「私はここに来て、心は清々(すがすが)しくなった」と仰せられ、その地に宮を造ってお住まいになられた。そこで、この地を今、須賀(すが)と言う。大~(おほかみ=速須佐之男命)が、初めて須賀宮(すがのみや)をお造りになられた時に、その地から雲が立ち昇った。そこで歌を作って詠まれた。 原文 「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」 訓み 「八雲(やくも)たつ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻(つま)ごみに 八重垣つくる その八重垣を」 訳 「出雲に妻を迎える家を造ろうとしたら、幾重もの雲が立ち昇り、まるで八垣根を作って呉れているようだ、我が家の八重垣を。」  かようなわけで、足名椎~を呼んで、「おまえを私の宮の宮主(みやぬし)に任じよう」と仰せられ、稲田宮主須賀之八耳~(いなだのみやぬし すがのやつみみのかみ)と名付けられた。  櫛名田比賣との間に生まれた~の名は、八嶋士奴美~自士下三字以音下效此(やしまじぬみのかみ)と云う。また、大山津見~(おほやまつみのかみ、メモ080003)の娘の~大市比賣(かむおほいちひめ)を娶って生んだ子は、大年~(おほとしのかみ)。次に宇迦之御魂~宇迦二字以音(うかのみたまのかみ)。二柱である。  兄の八嶋士奴美~が、大山津見~の娘の木花知流此二字以音比賣(このはなのちるひめ)を娶って生んだ子は、布波能母遅久奴須奴~(ふはのもぢくぬすぬのかみ)。この~が淤迦美~(おかみのかみ)の娘の日河比賣(ひかはひめ)を娶って生んだ子は、深淵之水夜禮花~夜禮二字以音(ふかぶちのみづやれはなのかみ)。この~が天之都度閇知泥上~自都下五字以音(あめのつどへちねのかみ)を娶って生んだ子は、淤美豆奴~此~名以音(おみづぬのかみ)。この~が布怒豆怒~此~名以音(ふのづののかみ)の娘の布帝耳上~布帝二字以音(ふてみみのかみ)を娶って生んだ子は、天之冬衣~(あめのふゆきぬのかみ)。この~が刺國大~(さしくにおほのかみ)の娘の刺國若比賣(さしくにわかひめ)を娶って生んだ子は、大國主~(おほくにぬしのかみ)。またの名は大穴牟遲~牟遲二字以音(おほなむぢのかみ)と云う。またの名は葦原色許男~色許二字以音(あしはらしこをのかみ、メモ080004)と云う。またの名は八千矛~(やちほこのかみ)と云う。またの名は宇都志國玉~宇都志三字以音(うつしくにたまのかみ)と云う。併せて五つの名前がある。 **  ((私注) ここからは日本書紀に該当する記事はありません)  **  この大國主~には八十~(やそがみ=多く)の兄弟がいたが、皆は国を大國主~に譲った。その理由は、下(しも)の次第である。  八十~は皆が稲羽(いなば)の八上比賣(やがみひめ)を妻にしたいと思っていて、一緒に稲羽に出掛けた時、大穴牟遅~(おほなむぢのかみ=大國主~)に袋を背負わせ、僕(しもべ)として連れて行った。氣多(けた)の岬に着いた時、丸裸の菟(皮を剥がれたうさぎ=素兎(しろうさぎ))が伏せっていた。八十~は菟に、「海の水を浴びて、風が体によく当たるように高い山の峰で伏せっていると良い」と言った。そこで、菟は八十~の教えどおりにした。すると、潮が乾くにつれて、体の皮はことごとく風に吹かれてひびが入ってしまった。  その為、痛み苦しんで泣き伏していると、最後にやって来た大穴牟遅~がその菟を見て、「どうしておまえは泣き伏しているのか」と尋ねられた。菟は「私は、淤岐嶋(おきのしま、メモ080005)に住んでおり、この地に渡ろうと思いましたが、渡る手立てがありませんでした。そこで、海和邇此二字以音下效此(うみのわに、メモ080006)をだまして、「私とおまえとでどちらが仲間が多いを競おうではないか。その為、おまえは仲間を皆連れてきて、この島から氣多の岬まで、横になって並んで呉れ。私はその上を走りながら数えて渡ろう。そうすれば、私の仲間といずれが多いかが判るだろう」と言いました。  すると、だまされて横一列に並んで呉れたので、数えながらその上を踏んで行き、この地に下りようとした時、「おまえらは私にだまされたのだ」と言い終わるや否や一番最後の和邇が私を捕まえ、私の衣服(=毛)を剥いでしまいました。  その為に泣き悲しんでいると、先にやって来た八十~が「海の潮を浴び、風に当たって伏せっていろ」と教えて呉れましたので、教えられた通りにすると、体中すべてが傷ついてしまいました」とお答えした。  大穴牟遅~は、菟に「今すぐに河口に行き、水で体をきれいに洗い、河口にはえている蒲黄(か(が)まのはな)を敷き詰めて上に転がれば、おまえの体は元の肌のようにきっと治るだろう」と教えられた。教えられた通りにすると、体は元通りになった。この菟が稲羽之素菟(いなばのしろうさぎ)である。今は菟~(うさぎがみ)と云われている。  菟は、大穴牟遅~に「あの八十~は、絶対に八上比賣を得ることはできません。袋を背負ってはいても(=身分は賤しくても)、あなた様が得られることでしょう」と申し上げた。  八上比賣は、八十~に「私はあなた方の言うことは聞き入れません。大穴牟遅~に嫁ぎます」と言った。そこで、八十~は怒り、大穴牟遅~を殺そうと思い相談し、伯伎國(ははきのくに)の手間山(てまのやま、メモ080007)の麓に着いたときに、「赤い猪がこの山にいる。和禮此二字以音共(われとも(我々))が追い下ろすので、おまえは待って捕えよ。もし捕えなければ、必ずおまえを殺すぞ」と言って、猪に似た大石を火で焼いて転がし落とした。大穴牟遅~は、追い下ろされた石を捕えようとして、石に焼かれて死んでしまった。  御祖命(みおやのみこと=母)は泣き悲しんで、天に参上して~産巣日之命(かむむすひのみこと)にお願いすると、(討+下に虫)貝比賣(きさがひめ=赤貝だそうです)と蛤貝比賣(うむぎひめ)とを遣わし、治療させ生き返らせさせた。(討+下に虫)貝比賣が岐佐宜此三字以音集而(ささげあつめて=自分の貝殻を削った粉を集め)、蛤貝比賣がその粉に自分の母乳汁(おものちしる)で捏ねたものを大穴牟遅~に塗ると、成麗壯夫訓壯夫云袁等古(麗しい「をとこ=素敵な男」となって)生き返った。  これを見た八十~は、また騙そうとして、大穴牟遅~を山に連れて入り、大木を切り倒し、茹矢(ひめや)を木に打ち立てて、その割れ目に大穴牟遅~を入れ、氷目矢(ひめや)を引き抜いて、挟み殺した。そこでまた大穴牟遅~の御祖命が、泣きながら探し見つけだして、木を裂き取り出して生き返らせ、「おまえは、ここにいたら、八十~に殺されてしまう」と言って、木國(きのくに、和歌山県)の大屋毘古~(おほやびこのかみ)の所に逃がした。  八十~が追い求めて来て、大屋毘古~を矢で脅し、大穴牟遅~の引き渡しを求めた。大屋毘古~は、大穴牟遅~を木の股をくぐらせて逃がし、「須佐能男命のおられる根堅州國に行きなさい。大~が、きっと良いようにしてくださるだろう」と仰せられた。  そこで、言われた通りに須佐之男命の所にやって来ると、その娘の須勢理毘賣(すせりびめ)が出てきて、目合而相婚(まぐはいされて)、父に、「とても立派な~が来られました」と申し上げた。大~(おほかみ)が御覧になり、「これは葦原色許男(あしはらしこを)だ」と仰せられ、呼び入れ蛇の部屋で寝かせた。  妻の須勢理毘賣命は、蛇比禮二字以音(へびのひれ、メモ080008)を夫に与えて、「もし、蛇が噛もうとしたら、この領巾(ひれ)を三度振って打ち払ってください」と申し上げた。教えられた通りにすると、蛇は自然におとなしくなり、安らかに眠ることができた。  次の日の夜は、呉公(むかで)と蜂(はち)の部屋に入れられたので、須勢理毘賣命は、今度は、百足(むかで)と蜂の領巾を与えて、同じようにお教えられたので、大穴牟遅~は穏やかに一夜を過ごすことができた。  次は、鳴鏑(なりかぶら、メモ080009)を野原に射込(いこ)み、その矢を拾わせ、大穴牟遅~が野に入った時に、火を点けて野を焼き囲んだ。大穴牟遅~が逃げ出す場所が判らずにいるところに、鼠が遣ってきて、「内者富良富良此四字以音外者須夫須夫此四字以音巳(うちは ほらほら そとは すぶすぶメモ080010))」と言った。言われた処を踏んでみると、中に落っこちてしまった。落ちている間に火は収まり、鼠が鳴鏑を持って来た。矢の羽は鼠の子がすべて齧(かじ)っていた。  さて、妻の須世理毘賣は夫が既に亡くなったと思い、葬式の道具を持って泣きながら野に来て、また、その父の大~も大穴牟遅~が既に死んだと思って、野に来てみると、大穴牟遅~が鳴鏑を大~に奉ったので、家に連れ帰り八田間大室(やたまのおほむろや、メモ080002)に案内して、頭の虱(しらみ)を取らせた。頭を見ると、百足(むかで)がたくさんいたので、妻は、牟久(むく)の木の実と赤土(はにつち)を夫に与えた。そこで、大穴牟遅~が牟久の木の実を噛み砕き、赤土を口に含んで唾とともに吐き出した。それを見た大~は、百足を噛み砕いて吐き出したものだと勘違いし、「なかなかやるな」と思って寝てしまった。  大穴牟遅~は、大~の髪を大室の垂木ごとに結びつけ、五百引石(いほびきのいは)で室の戸を塞(ふさ)ぎ、妻の須世理毘賣を背負い、大~の生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と天詔琴(あめののりごと)を盗み取って逃げ出そうとした時、天詔琴が木に触れて大地が鳴り轟くような音がした。寝ていた大~は、これを聞いて驚き、起きた拍子に大室を引き倒してしまったが、垂木に結ばれていた髪を解いている間に大穴牟遅~らは遠くへと逃げ去った。  大~が、黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追いかけて来て、遥(はる)か遠くの大穴牟遅~に、「おまえが持っている生大刀と生弓矢で、おまえの庶兄弟たちを坂の裾まで追い払い、川の瀬まで追い払って(メモ080011)、意禮二字以音(おれ=おまえ)は大國主~となり、また、宇都志國玉~(うつしくにたまのかみ)となれ(メモ080012)。そして、我が娘の須世理毘賣を嫡妻(むかひめ=正妻)とし、宇迦能山三字以音(うかのやま)の麓に 原文 「於底津石根 宮柱布刀斯理此四字以音於高天原 冰椽多迦斯理此四字以音而居 是奴也」 訓み 「底津石根(しきついはね)に 宮柱布刀斯理此四字以音(みやはしら ふとしり) 高天原(たかあまのはら)に 冰椽多迦斯理此四字以音(ひぎ たかしりて)居(を)れ、この奴(やっこ)」 訳 「大地の下の大きな岩に宮殿の太い柱をしっかりと据えて、大空く千木を立てた立派な宮殿を造って住め、この野郎め。」 」と仰せられた。  言われたように、大刀と弓で、八十~を追い払う時に、坂の裾まで追い払い、川の瀬まで追い払って、国をお造りになられた。 原文 「故其八上比賣者 如先期美刀阿多波志都此七字以音 故其八上比賣者 雖率來 畏其嫡妻須世理毘賣而 其所生子者 刺狹木俣而返」 訓み 「故(かれ)、その八上比賣は、先(さき)の期(ちぎり)の如く、美刀阿多波志都此七字以音(みとあたはしつ)。故(かれ)、その八上比賣を率(ゐ)て來(き)つれ雖(ども)、その嫡妻(むかひめ)須世理毘賣を畏(かしこ)みて、その生める子を、木俣(きのまた)に刺狹(さしはさみ)て返(かえ)りぬ。」 訳 「そして、八上比賣と前の約束通りに(メモ080013)夫婦となり、八上比賣を連れては来たものの、嫡妻(=正妻)の須世理毘賣のことを憚って、八上比賣との間の子を木の股に刺し挟んで帰ってきた。」  その為、その子の名を木俣~(きのまたのかみ)と云う。またの名を御井~(みゐのかみ)と云う。  八千矛~(やちほこのかみ、メモ080014)が、高志國(こしのくに)の沼河比賣(ぬなかはひめ)と結婚しようとして、沼河比賣の家に着いた時に歌を詠まれた。 原文 「夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖 登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇 阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母 伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理 迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能加多理其登母 許遠婆」 訓み 「八千矛(やちほこ)の ~(かみ)の命(みこと)は 八嶋國(やしまくに) 妻(つま)枕(ま)きかねて 遠遠(とほとほ)し 高志國(こしのくに)に 賢(さか)し女(め)を ありと聞(き)かして 麗(くは)し女(め)を ありと聞(き)こして さ婚(よば)ひに あり立(た)たし 婚(よば)ひに あり通(かよ)はせ 大刀(たち)が緒(を)も いまだ解(と)かずて 襲(おすひ)をも いまだ解(と)かねば 嬢子(をとめ)の 寝(な)すや板戸(いたと)を 押(お)そぶらひ 我(わ)が立(た)たせれば 引(ひ)こづらひ 我(わ)が立(た)たせれば 山(あをやま)に 鵺(ぬえ)は鳴(な)きぬ さ野(の)つ鳥(とり) 雉(きぎし)はとよむ 庭(には)つ鳥(とり) 鶏(かけ)は鳴(な)く うれたくも 鳴(な)くなる鳥か この鳥も 打ち止めこせね いしたふや 天馳使(あまはせづかひ) 事の 語言(かたりごと)も 是(こ)をば」 訳 「八千矛~は、八嶋國で妻を娶ることができず、遠い遠い越國(こしのくに)に賢明な女性がいると聞き、美しい女性がいると聞いて、結婚しようと出掛け、夜這いし、太刀の紐(ひも)もほどかないうちに、上着脱がないうちに、乙女の寝ている板戸を、揺さぶったり引いたりしていると、山では鵺(ぬえ=トラツグミ)が鳴き、野では雉(きじ)も騒ぎ出し、庭の鶏も鳴きだした。いまいましい鳥だ。鳥を鳴きやませて呉れ。天を翔ける使いの鳥よ。このことをあの方に伝えて呉れ。」  そこで、沼河比賣は、戸を開けずに内から歌を詠んだ。 原文 「夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿礼婆 和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米 能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾 伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆 阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能 恵美佐迦延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志 夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆 故 其夜者不合而 明日夜爲御合也」 訓み 「八千矛(やちほこ)の ~の命(みこと) ぬえ草の 女(め)にしあれば 我が心 浦渚(うらす)の鳥ぞ 今こそば 我鳥(わどり)にあらめ 後(のち)は 汝鳥(などり)にあらむを 命(いのち)は な殺(し)せたまひそ いしたふや 天馳使(あまはせづかひ) 事の 語言(かたりごと)も 是(こ)をば   山に 日が隠(かく)らば ぬば玉(たま)の 夜は出(い)でなむ 朝日の 笑(ゑ)み栄え来て 栲綱(たくづの)の 白き腕(ただむき) 沫雪(あわゆき)の 若やる胸を そだたき たたきまながり 真玉手(またまで) 玉手(たまで)さし枕(ま)き 百長(ももなが)に 寝(い)は寝(な)さむを あやに な恋ひ聞こし 八千矛の ~の命(みこと) 事の 語言(かたりごと)も 是(こ)をば」 訳 「八千矛~よ。私はか弱い女ですから、私の心は裏庭にいる鳥のようです。裏庭にいる鳥は、今は私の鳥ですが、やがてはあなた様の鳥になるでしょうから、殺さないでください。天を翔(か)ける使いの鳥よ。このことをあの方に伝えてください。 山に日が沈んだら、お出迎え致します。にこやかにやさしく、白い腕を溶け入りそうな若き血潮にそっと触れ、玉のような綺麗な手を手枕にして、いつまでも添い寝いたしましょう。そんなに逢瀬を急がないでください。八千矛~よ。このことをあの方に伝えてください。」  その夜は逢わずに、明くる日の夜に結ばれた。  ~の正妻の須勢理毘賣命(すせりびめのみこと)がひどく嫉妬したので、日子遲~和備弖三字以音(ひこじのかみ(夫のかみ=八千矛~)は詫びて)、出雲から倭國に逃げようとして、旅支度を整え、片手を馬の鞍に掛け、片足を鐙(あぶみ)に掛けて歌を詠んだ。 原文 「奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖 夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇 斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能 疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆」 訓み 「ぬば玉(たま)の 黒き御衣(みけし)を まつぶさに 取り装(よそ)ひ 沖つ鳥 胸(むな)見る時 はたたぎも 此(こ)も適(ふさ)はず 辺(へ)つ波 そに脱き棄(う)て そに鳥の き御衣(みけし)を まつぶさに 取り装(よそ)ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此(こ)も適(ふさ)はず 辺(へ)つ波 そに脱き棄(う)て 山県(やまがた)に 蒔(ま)きし あたね舂(つ)き 染(そめ)木が汁に 染(し)め衣(ころも)を まつぶさに 取り装(よそ)ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此(こ)し宜(よろ)し いとこやの 妹(いも)の命(みこと) 群鳥(むらとり)の 我が群れ往(い)なば 引け鳥の 我が引け往(い)なば 泣(な)かじとは 汝(な)は言ふとも 山処(やまと)の 一本(ひともと)薄(すすき) 項(うな)傾(かぶ)し 汝(な)が泣かさまく 朝雨(あさあめ)の 霧に立(た)たむぞ 若草の 妻の命(みこと) 事(こと)の 語言(かたりごと)も 是(こ)をば」 訳 「黒い衣装にしてみたが、沖の水鳥のように胸元を見ると、似合っていない装いであった。浜辺に脱ぎ捨て、翡翠(カワセミ)のようない衣装にしてみたが、沖の水鳥のように胸元を見ると、これも似合っていませんでした。これも浜辺に脱ぎ捨て、山間(やまあい)の畑に蒔(ま)いた茜(あかね)の汁で染めた衣装にして、沖の水鳥のように胸元を見ると、これはよく似合っていた。  愛(いと)しい妻よ、私が大勢で一緒に行ったならば、私が大勢に引き連れられて行ったならば、泣かないとあなたは言うだろうが、山の一本の薄(すすき)のようにうなだれて、あなたは泣くことだろう。朝の雨で霧(きり)が立ち込めるように。若々しい妻よ。このことをあの方に伝えてください。」  そのときに妻が大きな杯(さかづき)を取って、近づいて杯を奉げて、歌を詠まれた。 原文 「夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐邪岐 加岐微流 伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世」 訓み 「八千矛の~の命(みこと)や 吾(あ)が大國主(おほくにぬし) 汝(な)こそは 男(を)に坐(いま)せば 打ち廻(み)る 嶋の崎崎(さきざき) かき廻(み)る 磯の崎(さき)落ちず 若草の 妻持たせらめ 吾(あ)はもよ 女(め)にしあれば 汝(な)を除(き)て 男(を)は無(な)し 汝(な)を除(き)て 夫(つま)は無(な)し 綾垣(あやかき)の ふはやが下に 苧(むし)衾(ぶすま) にこやがしたに 栲(たく)衾(ぶすま) さやぐがしたに 沫雪(あわゆき)の 若やる胸を 栲綱(たくづの)の 白き腕(ただむき) そだたき たたきまながり 真(ま)玉手(たまで) 玉手(たまで)さし枕(ま)き 百長(ももなが)に 寝(い)をし寝(な)せ 豊(とよ)御酒(みき) 奉(たてまつ)らせ」 訳 「八千矛~よ。私の大國主~よ。あなたは男性でいらっしゃるので、あなたが行かれる島の岬(みさき)ごとに、磯(いそ)の港ごとに、妻を持たれることでしょう。 しかし、私は女ですから、あなたを除いて男はいません。あなた以外には夫はいません。綾織(あやおり)の帷(とばり)の下で、柔らかな布団に包まれて、さわさわと心地よいなか、溶け入りそうな若き血潮を白い腕でそっと触れ、玉のような綺麗な手を手枕にして、いつまでも添い寝をしてください。さあ、御酒を召し上がってくださいませ。」 原文 「如此歌 即爲宇伎由比四字以音而 宇那賀氣理弖六字以音 至今鎭坐也 此謂之~語也」 訓み 「かく歌ひて、坏(うき)結(ゆひ)して、頷(う)な掛(が)けりて、今に至るまで鎮(しづ)まり坐(ま)す。これを~語(かむかたり)と謂(い)ふ」 訳 「このように歌われて、宇伎由比四字以音而(うきゆひして(酒坏(さかづき)を交わし)、宇那賀氣理弖六字以音(うながけりて=首に手を掛け合って)、今に至るまで坐(まし)ましておられる。この歌を~語(かむがたり)と云う」 **  ((私注) ここまで日本書紀に該当する記事はありません)  **  大國主~が胸形奥津宮(むなかたのおきつみや)に坐(ま)します~の多紀理毘賣命(たきりびめのみこと、メモ080015)を娶って生んだ子は、阿遲二字以音?高日子根~(あぢすきたかひこねのかみ)。次が妹の高比賣命(たかひめみこと)。またの名は下光比賣命(したてるひめのみこと)。この阿遅鋤高日子根~は、今は迦毛大御~(かものおほみかみ)と云われえてる。  また、大國主~が~屋楯比賣命(かむやたてひめのみこと)を娶って生んだ子は、事代主~(ことしろぬしのかみ)。  また、八嶋牟遲能~自牟下三字以音(やしまむぢのかみ)の娘の鳥耳~(とりみみのかみ)を娶って生んだ子は、鳥鳴海~訓鳴云那留(とりなるみのかみ)。この~が日名照額田毘道男伊許知邇~田下毘 又自伊下至邇 皆以音(ひなてりぬかたびちをいこちにのかみ)を娶って生んだ子は、國忍富~(くにおしとみのかみ)。この~が葦那陀迦~自那下三字以音(あしなだかのかみ)、またの名は八河江比賣(やかはえひめ)を娶って生んだ子は、速甕之多氣佐波夜遲奴美~自多下八字以音(はやみかのたけさはやぢぬみのかみ)。この~が天之甕主~(あめのみかぬしのかみ)の娘の前玉比賣(さきたまひめ)を娶って生んだ子は、甕主日子~(みかぬしひこのかみ)。この~が淤加美~(おかみのかみ)の娘の比那良志毘賣此~名以音(ひならしびめ)を娶って生んだ子は、多比理岐志麻流美~此~名以音(たひりきしまるみのかみ)。この~が比比羅木之其花麻豆美~木上三字 花下三字以音(ひひらきのそのはなまづみのかみ)の娘の活玉前玉比賣~(いくたまさきたまひめのかみ)を娶って生んだ子は、美呂浪~美呂二字以音(みろなみのかみ)。この~が敷山主~(しきやまぬしのかみ)の娘の沼馬沼押比賣(あをぬまうまぬまおしひめ)を娶って生んだ子は、布忍富鳥鳴海~(ぬのおしとみとりなるみのかみ)。この~が若盡女~(わかつくしめのかみ)を娶って生んだ子は、天日腹大科度美~度美二字以音(あめのひはらおほしなどみのかみ)。この~が天狹霧~(あめのさぎりのかみ)の娘の遠津待根~(とほつまちねのかみ)を娶って生んだ子は、遠津山岬多良斯~(とほつやまさきたらしのかみ)である。  以上の八嶋士奴美~(やじまじぬみのかみ)より遠津山岬帯~(とほつやまさきたらしのかみ)までを十七世~(とをあまりななよのかみ)と云う。メモ080016  大國主~が出雲の御大之御前(みほのみさき=島根県松江市美保関町だそうです)に居られた時、白波の中から天之羅摩船(あめのかがみぶね)に乗って、「内剥鵝皮剥 爲衣服(鵝皮(がちょうのかわ)を剥いで(=ガチョウの羽若しくは羽毛で)作った衣服)」をまとった~がやって来た。お名前を尋ねたけれど、答えて呉れなかった。一緒に来た~々に尋ねたけれど、皆、「知らない」とのことであった。  多邇具久自多下四字以音(たにくぐ、メモ080017)が「久延毘古(くえびこ、メモ080018)ならきっと知っているでしょう」と申し上げたので、久延毘古を呼んで尋ねると、「この方は、~産巣日~(かむむすひのかみ)の子の少名毘古那~(すくなびこなのかみ、メモ080019)です」と答えた。  そこで、~産巣日御祖命(かむむすひのみおやのみこと)に申し上げると、「これは確かに私の子である。子の中で、自我手俣久岐斯子也自久下三字以音(わが(我が)たなまた(手間)よりく(漏)しきこなり=私の指の間からこぼれ落ちた子である)。おまえは、葦原色許男命(あしはらしこをのみこと)と兄弟となって、その国を作り整えよ」と仰せられた。  そこで、大穴牟遅(おほなむぢ=葦原色許男命=大國主~、メモ080020)と少名毘古那の二柱の~でこの国を作り整えられた。  しこうして後、少名毘古那~は常世國(とこよのくに)に行かれた。  少名毘古那~のお名前を知っていた久延毘古は、今は山田之曾富騰(やまだのそほど)と呼ばれている。この~は、足で歩くことは出来ないけれども、天下(あめのした)の事はすべてご存知の~である。  この為、大國主~は悲しんで、「私一人で、どうしてこの国を作ることができるだろうか。どの~と一緒にこの国を作れるというのか」と仰せられた。この時、海を光照らして遣って来る~があり、「私を祀ったならば、私が共に作り上げよう。もしそうでなければ、国は出来上がらないだろう」と仰せられた。大國主~が「どのようにして祀ればよいでしょうか」と尋ねると、「私を倭之垣(やまとのあをがき)の東の山の上に祀りなさい」と答えられた。これが御諸山(みもろのやま)の上に坐します~メモ080021である。 **  ((私注) ここからは日本書紀に該当する記事はありません)  **  大年~(おほとしのかみ、メモ080022)が、~活須毘~(かむいくすびのかみ)の娘の、伊怒比賣(いのひめ)を娶って生んだ子は、大國御魂~(おほくにみたまのかみ)。次に韓~(からのかみ)。次に曾富理~(そほりのかみ)。次に白日~(しらひのかみ)。次に聖~(ひじりのかみ)。五~  また、香用比賣此~名以音(かよひめ)を娶って生んだ子は、大香山戸臣~(おほかがやまとおみのかみ)。次に御年~(みとしのかみ)。二柱  また、天知迦流美豆比賣訓天如天 亦自知下六字以音(あめちかるみづひめ)を娶って生んだ子は、奥津日子~(おきつひこのかみ)。次に奥津比賣命(おきつひめのみこと)。またの名は大戸比賣~(おほべひめのかみ)。この~は人々が信仰している竈~(かまどのかみ)である。 次に大山咋~(おほやまくひのかみ)。またの名は山末之大主~(やますゑのおほぬしのかみ)。この~は近淡海國(ちかつあふみのくに)の日枝山(ひえのやま)に坐しまし、また葛野之松尾(かづののまつのを)にも坐します~であり、鳴鏑(なりかぶら)を持つ~であるメモ080023。次に庭津日~(にはつひのかみ)。次に阿須波~此~名以音(あすはのかみ)。次に波比岐~此~名以音(はひきのかみ)。次に香山戸臣~(かがやまとおみのかみ)。次に羽山戸~(はやまとのかみ)。次に庭高津日~(にはたかつひのかみ)。次に大土~(おほつちのかみ)。またの名は土之御祖~(つちのみおやのかみ)。九~(ここのはしらのかみ)。 上の件の大年~の子の大國御魂~より大土~まで併せて十六~である。  羽山戸~(はやまとのかみ)が大氣都比賣下四字以音~(おほげつひめのかみ)を娶って生んだ子は、若山咋~(わかやまくひのかみ)。次に若年~(わかとしのかみ)。次に妹の若沙那賣~自沙下三字以音(わかさなめのかみ)。次に彌豆麻岐~自彌下四字以音(みづまきのかみ)。次に夏高津日~(なつたかつひのかみ)。またの名は夏之賣~(なつのめのかみ)。次に秋毘賣~(あきびめのかみ)。次に久久年~久久二字以音(くくとしのかみ)。次に久久紀若室葛根~久久紀三字以音(くくきわかむろつなねのかみ)。 上の件の羽山の子メモ080024より若室葛根までは、併せて八~である。 日本書紀 第八段 本文  素戔嗚尊は天から出雲國の簸之川(ひのかは)の川上に降(くだ)られた。その時、川上で泣き声が聞こえたので、その声の方へ行くと、老公(おきな)と老婆(おみな)が、一人の少女(をとめ)を間に挟んで撫でながら泣いていた。素戔嗚尊が「おまえたちは誰か。何故、泣いている」とお尋ねになると、「私はこの地の國神で、脚摩乳(あしなづち)と言い、妻は手摩乳(てなづち)と言います。この童女(をとめ)は私たちの娘で奇稲田姫(くしなだひめ)と言います。泣いている訳は、私たちには八人の娘(天皇事績メモ1002)がいましたが、毎年、八岐大蛇(やまたのをろち)に呑み込まれてしまいました。今、この娘が呑まれようとしていますが、逃れる術(すべ)もないので、泣き悲しんでいるのです」と答えた。素戔嗚尊が「もしそうなら、あなたたちの娘を私に呉れないか」と仰せられると、「おっしゃられるように差し上げます」と答えた。  素戔嗚尊は、奇稲田姫を湯津爪櫛(ゆつつまぐし=神聖な爪櫛)に変身させ、御髻(みみづら)に挿された。そして、脚摩乳と手摩乳に、八度(何度、天皇事績メモ1002)も醸(かも)した(=発酵させた)強い酒を作らせ、併せて、假? 假? 此云佐受枳(さずき=桟敷(さじき))を八面作らせ、それぞれに一つずつ酒桶を置き、酒を満たして待った。  時が経ち、大蛇(をろち)が現れた。頭と尾とはそれぞれ八つずつあり、眼如赤酸醤 赤酸醤 此云阿箇箇鵝知 (眼はあかかがち(赤酸漿(ほおずき))のようであった)。その体は、背には松や柏の木が生えており、八つの丘、八つの谷の間に横たわっていた。大蛇は、酒を飲もうとして、頭をそれぞれの酒桶に入れて飲み、酔って眠った。その時、素戔嗚尊は佩びていた十握劒を抜いて、大蛇を切り刻んだ。尾を斬った時、劒の刃が少し欠けたので、尾を裂いて見てみると、中に一振りの劒があった。これが、所謂、草薙劒也 草薙劒 此云倶娑那伎能都留伎(くさなぎのつるぎ)である。 一書(あるふみ)では、元の名は天叢雲劒(あまのむらくものつるぎ)と云う。それは、思うに、大蛇の上に常に雲があったことによって名づけられたものであろう。日本武皇子(やまとたけるのみこと、メモ080025)の時に、名を改めて草薙劒と云うようになった、と云う。  素戔嗚尊は「これは神々(こうごう)しい劒である。私などが持つべき劒ではない」と仰せられて、天神(あまつかみ)に献上された。  しこうして後、結婚の地を探し、出雲のC地C地 此云素鵝(すが、メモ080026)を訪れ、「私の心は清清(すがすが)しい」と言った。今、この地をC(すが)と云う。そこに宮を建てた。  ある話では、その時に武素戔嗚尊(たけすさのをのみこと)が歌を詠んだ、と云う。 原文 「夜句茂多菟 伊弩毛夜覇餓岐 (菟の廾を刀)磨語昧爾 夜覇餓枳都倶盧 贈廼夜覇餓岐廻」 訓み 「八雲(やくも)たつ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻(つま)ごめに 八重垣つくる その八重垣ゑ」 訳 「出雲に妻と一緒に住む家を造ろうとしたら、幾重もの雲が立ち昇り、まるで八垣根を作って呉れているようだ、我が家の八重垣よ」  結婚されて、子の大己貴神(おほおのむちのかみ、おほなむちのかみ)を生んだ。そして、「我が子の宮の首(つかさ)は脚摩乳と手摩乳である」と仰せられ、二神に名を贈られ、稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)と云う。  その後(のち)、素戔嗚尊はついに根國に向かわれた。 第八段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  素戔嗚尊は天から出雲の簸之川(ひのかは)の川上に降り立たれた。そして、稲田宮主(いなだのみやぬし)の簀狹之八箇耳(すさのやつみみ)の娘の稲田姫(いなだひめ)を娶って生んだ子をC(すが)の湯山主(ゆやまぬし)の三名狹漏彦八嶋篠(みなさるひこやしましの)と云う。{ある話では、C(すが)の繋名坂軽彦八嶋手命(ゆひなさかかるひこやしまでのみこと)、と云う。または、C(すが)の湯山主の三名狹漏彦八嶋野(みなさるひこひこやしまの)と云う。}   この~の五世(いつよ)の孫が大國主~(おほくにぬしのかみ、メモ080101)である。  篠は、小竹で、斯奴(しの)と云う。 第八段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  この時、素戔嗚尊は安藝國(あぎのくに=広島県)の可愛之川(えのかは)の川上に降り立たれた。そこには、國~が居られ、脚摩手摩(あしなづてなづ)と言い、妻の名を稲田宮主(いなだのみやぬし)の簀狹之八箇耳(すさのやつみみ)と云う。この~は身籠(みごも)っていたが、夫婦ともに悲しみにくれ、素戔嗚尊に「私たちが生んだ子は多いのですが、生むたびに八岐大蛇がやって来て呑み込んでしまい、一人も残っていません。今生まれようとしていますが、恐らくまた呑み込まれるでしょう。それで悲しんでいます」と申し上げた。素戔嗚尊は「おまえたちは、果実を使って甕(かめ)八つ分の酒を作れ。私がおまえたちのために蛇(をろち)を殺してやろう」と仰せられたので、二~は仰せの通りに酒を用意した。子が生まれると、話のとおりに大蛇が現れ、その子を呑もうとした。  素戔嗚尊は蛇に、「あなたは畏(おそ)れ多い~です。おもてなししましょう」と仰せられ、八つの甕の酒をそれぞれの口に入られた。蛇は酒を飲んで眠り、素戔嗚尊は劒を抜いて斬った。尾を斬った時に劒の刃が少し欠けたので、尾を割(さ)いて見てみると一振りの劒があった。これを草薙劒(くさなぎのつるぎ)と云う。この劒は、今、尾張國(をはりのくに=愛知県)の吾湯市村(あゆちのむら=熱田神宮)にあり、熱田祝部(あつたのはふり)がお祀りしている~である。蛇を斬った劒を蛇之麁正(をろちのあらまさ)と云い、今は石上(いそのかみ=石上神宮)にある。  この後、稲田宮主の簀狹之八箇耳が生んだ子の真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)を出雲國の簸之川(ひのかは)の川上に移して育てた。しこうして後、素戔嗚尊が妃(みめ)とされ、生まれた六世(むつよ)の孫を大己貴命大己貴 此云於褒婀娜武智(おほあなむちのみこと)と云う。(メモ080101) 第八段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  素戔嗚尊は奇稲田媛(くしいなだひめ)を娶(めと)ろうとして、申し出ると、脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)は、「お願いです。まず、蛇(をろち)を殺してください。その後で嫁にしてください。大蛇(をろち)は頭ごとに石松(いわまつ)があり、両脇には山があり、とても恐ろしいのです。どのようにして殺すおつもりですか」と申し上げた。素戔嗚尊は、計略を立て、毒の酒を作って飲ませた。蛇が酔って寝ると、素戔嗚尊は蛇韓鋤之劒(をろちのからすき(さひ)のつるぎ)で頭を斬り腹を斬った。尾を斬った時に劒の刃が少し欠けたので、尾を裂いて見てみると、一振りの劒があった。名を草薙劒と云う。この劒は、昔は素戔嗚尊がお持ちであったが、今は尾張國にある。 原文 「其素戔鳴尊 斷蛇之劒 今在吉備~部許也 出雲簸之川上山是也」 訓み 「其(そ)の素戔鳴尊の蛇を斷(き)りたまへる劒は、今、吉備(きび)の~部(かむとものを)の許(ところ)に在(あ)り。出雲の簸(ひ)の川上(かはかみ)の山、是(これ)也(なり)」 訳 「素戔嗚尊が蛇を斬った劒は、今は、吉備(きび=岡山県)の~部(かむとものを)の処に在る。出雲の簸之川(ひのかは)の川上の山が、それである。」メモ080301 第八段 第四節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  素戔嗚尊の所業が手がつけられなかったので、~々は、素戔嗚尊に多くの祓い物を収めさせて、最後には追い払った。素戔嗚尊は子の五十猛~(いたけるのかみ、メモ080401)と供に新羅國(しらきのくに、メモ080402)に降られて、曾尸茂梨(そしもり)に着いた。素戔嗚尊は「この地は私には適さない」と仰せられて、植土(はにつち=粘土)で舟を作り、東に進まれて、出雲國の簸川(ひのかは)の川上にある鳥上之峯(とりかみのたけ)に着かれた。  そこには、人を呑み込む大蛇(をろち)がいた。素戔嗚尊は、天蠅斫劒(あまのはは(はえ)きりのつるぎ)でその大蛇を斬られた。その時、蛇の尾を斬って刃が欠けたので、そこを裂いてみると、尾の中に~々(こうごう)しい一振りの劒があった。素戔嗚尊は、「これは私が自分で用いるべきではない」と仰せられて、五世の孫の天之葺根~(あまのふきねのかみ)を遣わして、天に献上された。これが、今で云う草薙劒(くさなぎのつるぎ)である。  最初に、五十猛~が天降(あまくだ)られた時に、多くの樹木の種を持って降られた。しかし韓地(からくに、メモ080402)には植えず、すべて持ち帰られた。そして、筑紫(つくし)から蒔き始められ、大八洲國(おほやしまのくに)の国中に蒔き植えられて、木々が生茂らない山はない程になった。このため、五十猛~を有功之~(いさをしのかみ)と云う。紀伊國(きのくに)に坐します大~(おほかみ、メモ080403)がこの~である。 第八段 第五節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  素戔嗚尊は「韓郷(からくに)の嶋には金銀(こがね しろがね)がある。もし、我が子が治める国に浮寶(うくたから、メモ080501)がないなら、それは良くないことだ」と仰せられて、髯(ひげ)を抜いて散らすと、杉の木になった。また、胸の毛を抜いて散らすと、檜(ひのき)になった。尻の毛は、艨iまき(槙))になった。眉の毛は、?樟(くす(楠))になった。  後に、その用途(ようと)を定め、「杉と?樟の二つの樹木は浮寶(うくたから)とせよ。檜は宮殿を作る木材とせよ。艪ヘこの世の人々の奥津棄戸(おきつすたへ、メモ080502)の材料とせよ。また、食用とするための多くの木の実の種は、皆で播いて育った」と仰せられた。  時に、素戔嗚尊の子を五十猛~と云い、妹を大屋津姫命(おほやつひめのみこと)、次が柧津姫命(つまつひめのみこと)と云う。この三~も皆、樹木の種を国中に撒かれたので、紀伊國に渡って、そこで祀られておられる。  しこうして後、素戔嗚尊は熊成峯(くまなりのたけ)に坐しまされていたが、最後に根國(ねのくに)に入られた。  棄戸を須多杯(すたへ)と云う。艪磨紀(まき)と云う。 第八段 第六節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  大國主~は、またの名は大物主~。または國作大己貴命(くにつくりのおほなむちのみこと)と云い、または葦原醜男(あしはらのしこを)と云う。または八千戈~(やちほこのかみ)と云う。または大國玉~(おほくにたまのかみ)と云う。または顕國玉~(うつしくにたまのかみ)と云う。その子は併(あわ)せて一百八十一~(ももはしら あまり やそはしら あまり ひとはしら の かみ)である。  大己貴命は少彦名命(すくなひこのみこと)と力を合わせ心を一つにして天下(あめのした)を営んだ。この世の人々や家畜のために、病を癒す方法を定め、鳥獣や昆虫の害を払うための呪(まじな)いを定められた。これによって、人々は今に至るまで、ことごとくその恩恵を受けている。  昔、大己貴命は少彦名命に「我らの作った国は良く仕上がったと言えるだろうか」とお尋ねになられると、少彦名命は「仕上がった所もあれば、仕上がっていない所もある」と答えられた。 原文 「是談也 蓋有幽深之致焉」 訓み 「是(こ)の談(かたりごと) 蓋(けだ)し幽深(ふか)き致(むね)有(あ)らん」 訳 「この会話には、思うに、深遠な哲理が隠されているのであろう。」メモ080601 その後、少彦名命は熊野之御碕(くまののみさき、メモ080602)に行き、ついに常世郷(とこよのくに)に行かれた。ある話では、淡嶋(あはのしま、メモ080603)に行き、粟(あわ)の茎に登ったら、弾かれて常世郷に着いた、とも云う。  これより降、国の中のまだ仕上がっていない所を、大己貴~一人で巡りながら良いように作り上げられた。最後に、出雲國に着かれ、「そもそも葦原中國(あしはらのなかつくに)は荒れ果てた広野であり、磐岩や草木に至るまでことごとく荒々しかった。しかし、私が摧(くだ)き伏せて、従わないものは無くなった」と仰せられ、最後に「今この国を治めているのは私一人だけである。私と共に天下を治めるべき者は、果たしているのだろうか」と仰せられた。  その時、~々しい光が海を照らし、忽然(こつぜん)と浮かんで来る~があり、「もし、私がいなければ、おまえはどうしてこの国を平定することができた、と云えようか。私がいたからこそ、おまえはその大きな功績を立てることができたのだ」と仰せられた。大己貴~が「それならばあなたは誰ですか」とお尋ねになると、「私はおまえの幸魂奇魂(さきみたま くしみたま、メモ080604)である」とお答えになられた。大己貴~が「そのとおりです。判りました。あなたは私の幸魂奇魂です。今から、どこに住むおつもりですか」とお尋ねになられると、「私は日本國の三諸山(みもろのやま、メモ080605)に住もうと思う」と答えになられた。そこで、宮をその地に造り、そこに坐しまされた。これが大三輪之~である。この~の子が甘茂君等(かものきみら)、大三輪君等であり、また、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)である。{ある話ではメモ080606、事代主~(ことしろぬしのかみ)が八尋熊鰐(やひろわに)に化けて、三嶋溝杙姫(みしまのみぞくひひめ)、或は玉櫛姫(たまくしひめ)と云う、の元へ通って、姫蹈鞴五十鈴姫命を生まれた、と云う。}この姫命が、~日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと=~武天皇)の后(きさき)である。  初め、大己貴~が国を平定された時に、出雲國(いづものくに)の五十狹狹之小汀(いささのをはま)を訪れて、食事をされようとした時、海上から突然人の声がした。驚いて探してみたが、どこにも何も見えなかった。しばらくして、一人の小さな人が白斂(かがみ)の殻を舟にし、鷦鷯(ささき)の羽を身にまといメモ080607、潮流に乗ってやって来た。大己貴~が、この小さな人を取り上げ、手のひらに置いて玩(もてあそ)んでいると、小さな人が飛び跳ねて頬に咬みついた。この小さな人の容姿を不思議に思い、使いを出して天~にお尋ねになられた。すると、高皇産靈尊が、これをお聞きになられ、「私が産んだ子は併せて一千五百柱(ちはしら あまり いほはしら)いるが、その中の一人は無鉄砲で教えに従わず、指の間から漏れ落ちたのが、きっとその子だろう。慈しみ育てよ」と仰せられた。これが少彦名命(すくなひこのみこと)である。 顕を于都斯(うつし)と云う。蹈鞴を多多羅(たたら)と云う。幸魂を佐枳弥多摩(さきみたま)と云う。奇魂を倶斯美?磨(くしみたま)と云う。鷦鷯を娑娑岐(ささき)と云う。 古事記 原文(第九段相当) 天照大御~之命以 豐葦原之千秋長五百秋之水穂國者 我御子 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命之所知國 言因賜而 天降也 於是天忍穂耳命 於天浮橋多多志此三字以音而詔之 豐葦原之千秋長五百秋之水穂國者 伊多久佐夜藝弖此七字以音有那理此二字以音 下效此 告而 更還上 請于天照大~ 爾高御産巣日~ 天照大御~之命以 於天安河之河原 ~集八百萬~集而 思金~令思而詔 此葦原中國者 我御子之所知國 言依所賜之國也 故 以爲於此國道速振荒振國~等之多在 是使何~而 將言趣 爾思金~及八百萬~ 議白之 天菩比~ 是可遣 故 遣天菩比~者 乃媚附大國主~ 至于三年 不復奏 是以高御産巣日~ 天照大御~ 亦問諸~等 所遣葦原中國之天菩比~ 久不復奏 亦使何~之吉 爾思金~答白 可遣天津國玉~之子 天若日子 故爾以天之麻迦古弓自麻下三字以音 天之波波此二字以音矢 賜天若日子而遣 於是天若日子 降到其國 即娶大國主~之女 下照比賣 亦慮獲其國 至于八年 不復奏 故爾天照大御~ 高御産巣日~ 亦問諸~等 天若日子 久不復奏 又遣曷~以問天若日子之淹留所由 於是諸~及思金~ 答白 可遣雉名鳴女時 詔之 汝行 問天若日子状者 汝所以使葦原中國者 言趣和其國之荒振~等之者也 何至于八年 不復奏 故爾鳴女 自天降到 居天若日子之門湯津楓上而 言委曲如天~之詔命 爾天佐具賣此三字以音 聞此鳥言而 語天若日子言 此鳥者 其鳴音甚惡 故可射殺云進 即天若日子 持天~所賜天之波士弓 天之加久矢 射殺其雉 爾其矢 自雉胸通而 逆射上 逮坐天安河之河原 天照大御~ 高木~之御所 是高木~者 高御産巣日~之別名 故 高木~ 取其矢見者 血著其矢羽 於是高木~ 告之此矢者 所賜天若日子之矢 即示諸~等詔者 或天若日子不誤命 爲射惡~之矢之至者 不中天若日子 或有邪心者 天若日子 於此矢麻賀禮此三字以音 云而 取其矢 自其矢穴衝返下者 中天若日子 寢朝床之高胸坂 以死此還矢之本也 亦其雉不還 故於今諺曰雉之頓使本是也 故 天若日子之妻 下照比賣之哭聲 與風響到天 於是在天 天若日子之父 天津國玉~ 及其妻子聞而 降來哭悲 乃於其處作喪屋而 河鴈爲岐佐理持自岐下三字以音 鷺爲掃持 翠鳥爲御食人 雀爲碓女 雉爲哭女 如此行定而 日八日夜八夜遊也 此時 阿遲志貴高日子根~自阿下四字以音到而 弔天若日子之喪時 自天降到 天若日子之父 亦其妻 皆哭云 我子者不死有祁理此二字以音 下效此 我君者不死坐祁理云 取懸手足而哭悲也 其過所以者 此二柱~之容姿 甚能相似 故是以過也 於是阿遲志貴高日子根~ 大怒曰 我者愛友故弔來耳 何吾比穢死人云而 拔所御佩之十掬劔 切伏其喪屋 以足蹶離遣 此者在美濃國藍見河之河上 喪山之者也 其持所切大刀名 謂大量 亦名謂~度劔度字以音 故 阿治志貴高日子根~者 忿而飛去之時 其伊呂妹高比賣命 思顯其御名 故歌曰  阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也 此歌者夷振也 於是天照大御~詔之 亦遣曷~者吉 爾思金~及諸~白之 坐天安河河上之天石屋 名伊都之尾羽張~ 是可遣伊都二字以音 若亦非此~者 其~之子 建御雷之男~ 此應遣 且其天尾羽張~者 逆塞上天安河之水而 塞道居故 他~不得行 故別遣天迦久~可問 故爾使天迦久~ 問天尾羽張~之時 答白 恐之仕奉 然於此道者 僕子建御雷~可遣 乃貢進 爾天鳥船~ 副建御雷~而遣 是以此二~ 降到出雲國伊那佐之小濱而伊那佐三字以音 拔十掬劔 逆刺立于浪穂 趺坐其劔前 問其大國主~言 天照大御~ 高木~之命以 問使之 汝之宇志波祁流此五字以音葦原中國者 我御子之所知國 言依賜 故 汝心奈何 爾答白之 僕者不得白 我子八重言代主~ 是可白 然爲鳥遊取魚而 往御大之前 未還來 故爾遣天鳥船~ 徴來八重事代主~而 問賜之時 語其父大~言 恐之 此國者 立奉天~之御子 即蹈傾其船而 天逆手矣 於青柴垣打成而隱也訓柴云布斯 故爾問其大國主~ 今汝子 事代主~ 如此白訖 亦有可白子乎 於是亦白之 亦我子有建御名方~ 除此者無也 如此白之間 其建御名方~ 千引石フ〓[敬+手]手末而來 言誰來我國而 忍忍如此物言 然欲爲力競 故我先欲取其御手 故令取其御手者 即取成立氷 亦取成劔刄 故爾懼而退居 爾欲取其建御名方~之手 乞歸而取者 如取若葦 ?〓[手+益]批〓[手+此]而投離者 即逃去 故 追往而 迫到科野國之州羽海 將殺時 建御名方~白 恐 莫殺我 除此地者 不行他處 亦不違我父大國主~之命 不違八重事代主~之言 此葦原中國者 隨天~御子之命獻 故 更且還來 問其大國主~ 汝子等 事代主~ 建御名方~二~者 隨天~御子之命 勿違白訖 故 汝心奈何 爾答白之 僕子等二~隨白 僕之不違 此葦原中國者 隨命既獻也 唯僕住所者 如天~御子之 天津日繼所知之登陀流此三字以音 下效此天之御巣而 於底津石根 宮柱布斗斯理此四字以音 於高天原 氷木多迦斯理多迦斯理四字以音而 治賜者 僕者於百不足八十?手隱而侍 亦僕子等百八十~者 即八重事代主~ 爲~之御尾前而仕奉者 違~者非也 如此之白而 乃隠也 於出雲國之多藝志之小濱 造天之御舍多藝志三字以音而 水戸~之孫 櫛八玉~ 爲膳夫 獻天御饗之時 ?白而 櫛八玉~化鵜 入海底 咋出底之波邇此二字以音 作天八十毘良迦此三字以音而 鎌海布之柄 作燧臼 以海蓴之柄 作燧杵而 鑚出火云  是我所燧火者 於高天原者 ~産巣日御祖命之 登陀流天之新巣之凝烟訓凝姻云州須之 八拳垂摩弖燒擧摩弖二字以音 地下者 於底津石根燒凝而 栲繩之 千尋繩打延 爲釣海人之 口大之尾翼鱸訓鱸云須受岐 佐和佐和邇此五字以音 控依騰而 打竹之 登遠遠登遠遠邇此七字以音 獻天之眞魚咋也 故 建御雷~ 返參上 復奏 言向和平葦原中國之状 爾天照大御~ 高木~之命以 詔太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命 今平訖葦原中國之白 故 隨言依賜 降坐而知看 爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命答白 僕者將降裝束之間 子生出 名天邇岐志國邇岐志自邇至志以音天津日高日子番能邇邇藝命 此子應降也 此御子者 御合高木~之女 萬幡豐秋津師比賣命 生子 天火明命 次日子番能邇邇藝命二柱也 是以隨白之 科詔日子番能邇邇藝命 此豐葦原水穂國者 汝將知國 言依賜 故隨命以可天降 爾日子番能邇邇藝命 將天降之時 居天之八衢而 上光高天原 下光葦原中國之~ 於是有 故爾天照大御~ 高木~之命以 詔天宇受賣~ 汝者雖有手弱女人 與伊牟迦布~自伊至布以音面勝~ 故 專汝往將問者 吾御子爲天降之道 誰如此而居 故問賜之時 答白 僕者國~ 名?田毘古~也 所以出居者 聞天~御子天降坐故 仕奉御前而 參向之侍 爾天兒屋命 布刀玉命 天宇受賣命 伊斯許理度賣命 玉祖命 并五伴緒矣支加而天降也 於是副賜其遠岐斯此三字以音八尺勾? 鏡 及草那藝劔 亦常世思金~ 手力男~ 天石門別~而詔者 此之鏡者 專爲我御魂而 如拜吾前 伊都岐奉 次思金~者 取持前事爲政 此二柱~者 拜祭佐久久斯侶 伊須受能宮自佐至能以音 次登由宇氣~ 此者坐外宮之度相~者也 次天石戸別~ 亦名謂櫛石?~ 亦名謂豐石?~ 此~者 御門之~也 次手力男~者 坐佐那那縣也 故其天兒屋命者中臣連等之祖 布刀玉命者忌部首等之祖 天宇受賣命者?女君等之祖 伊斯許理度賣命者作鏡連等之祖 玉祖命者玉祖連等之祖  故爾詔天津日子番能邇邇藝命而 離天之石位 押分天之八重多那此二字以音雲而 伊都能知和岐知和岐弖自伊以下十字以音 於天浮橋 宇岐士摩理 蘇理多多斯弖自宇以下十一字亦以音 天降坐于竺紫日向之 高千穂之久士布流多氣自久以下六字以音 故爾天忍日命 天津久米命 二人 取負天之石靫 取佩頭椎之大刀 取持天之波士弓 手挾天之眞鹿兒矢 立御前而仕奉 故 其天忍日命此者大伴連等之祖 天津久米命此者久米直等之祖也 於是詔之 此地者 向韓國 眞來通笠紗之御前而 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地詔而 於底津石根 宮柱布斗斯理 於高天原 氷椽多迦斯理而坐也 故爾詔天宇受賣命 此立御前所仕奉 ?田毘古大~者 專所顯申之汝 送奉 亦其~御名者 汝負仕奉 是以?女君等 負其?田毘古之男~名而 女呼?女君之事是也  故 其?田毘古~ 坐阿邪訶此三字以音 地名時 爲漁而 於比良夫貝自比至夫以音 其手見咋合而 沈溺海鹽 故其沈居底之時名 謂底度久御魂度久二字以音 其海水之都夫多都時名 謂都夫多都御魂自都下四字以音 其阿和佐久時名 謂阿和佐久御魂自阿至久以音  於是送?田毘古~而 還到 乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以 問言汝者天~御子仕奉耶之時 諸魚皆仕奉白之中 海鼠不白 爾天宇受賣命 謂海鼠云 此口乎 不答之口而 以紐小刀拆其口 故 於今海鼠口拆也 是以御世 嶋之速贄獻之時 給?女君等也 於是天津日高日子番能邇邇藝能命 於笠紗御前 遇麗美人 爾問誰女 答白之 大山津見~之女 名~阿多都比賣此~名以音 亦名謂木花之佐久夜毘賣此五字以音 又問有汝之兄弟乎 答白我姉石長比賣在也 爾詔 吾欲目合汝奈何 答白僕不得白 僕父大山津見~將白 故 乞遣其父大山津見~之時 大歡喜而 副其姉石長比賣 令持百取机代之物奉出 故爾其姉者 因甚凶醜 見畏而返送 唯留其弟木花之佐久夜毘賣以 一宿爲婚 爾大山津見~ 因返石長比賣而 大恥 白送言 我之女二並立奉由者 使石長比賣者 天~御子之命 雖雨零風吹 恆如石而 常堅不動坐 亦使木花之佐久夜毘賣者 如木花之榮 榮坐 宇氣比弖自宇下四字以音貢進 此令返石長比賣而 獨留木花之佐久夜毘賣 故 天~御子之御壽者 木花之阿摩比能微此五字以音坐 故 是以至于今 天皇命等之御命不長也 故 後木花之佐久夜毘賣 參出白 妾妊身 今臨産時 是天~之御子 私不可産 故請 爾詔 佐久夜毘賣 一宿哉妊 是非我子 必國~之子 爾答白 吾妊之子 若國~之子者 産不幸 若天~之御子者幸 即作無戸八尋殿 入其殿内 以土塗塞而 方産時 以火著其殿而産也 故 其火盛燒時 所生之子名 火照命此者隼人阿多君之祖 次生子名 火須勢理命須勢理三字以音 次生子御名 火遠理命 亦名 天津日高日子穂穂手見命  三柱 訳  天照大御~は「豊葦原之千秋長五百秋之水穂國(とよあしはらの ちあきの ながいほ あきの みづほのくに)は我が御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさ かつ あ かつ かち はや ひ あめ の おし ほ みみ の みこと)が治めるべき国である」と仰せられ、天降(あまくだ)らせた。  この時、天忍穂耳命(あめのおしほのみみのみこと)が天浮橋(あめのうきはし)に立ち、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂國はひどく騒がしいようだなぁ」と言われ、再び帰り上って天照大御~に申し上げた。  そこで、高御産巣日~(たかみむすひのかみ)が、天照大御~の命(みこと)により、天安河(あめのやすのかは)の河原に八百万~(やほよろづのかみ)を集め、思金~(おもひかねのかみ)に思案させて、「天照大御~が仰せられるには、葦原中國(あしはらのなかつくに)は我が御子の治めるべき国である。しかし、その国には乱暴で荒々しい國~(くにつかみ)が多くいると思われる。そこで、どの~を遣わして説得させたらよいか」と尋ねられた。思金~が八百万~と相談し、「天菩比~(あめのほひのかみ)を遣わすべきでしょう」と申し上げた。そこで、天菩比~を遣わしたが、大國主~(おほくにぬしのかみ)に媚(こ)びへつらい、三年経っても報告に戻らなかった。  その為、高御産巣日~と天照大御~が、また~々に「葦原中国に遣わした天菩比~は永らく報告に戻って来ないので、今度はどの~を遣わせば良いか」と尋ねられると、思金~が「天津國玉~(あまつくにたまのかみ)の子の天若日子(あめのわかひこ)を遣わすべきでしょう」と答えた。そこで、天之麻迦古弓自麻下三字以音(あめのまかこゆみ)と天之波波此二字以音矢(あめのははや)を天若日子に授けて遣わした。  天若日子は、葦原中国に降り着き、大國主~の娘の下照比賣(したてるひめ)を娶り、その国を自分のものにしようと考えて、八年経っても報告に戻らなかった。  この為、天照大御~と高御産巣日~は、また~々に「天若日子も長らく報告に戻って来ないので、どの~を遣わして天若日子が長らく留まっている理由を尋ねさせたらよいか」と尋ねられた。~々や思金~が「雉(きぎし(=きじ))の鳴女(なきめ)を遣わすべきでしょう」と答えたので、「天若日子に、「あなたを葦原中國に遣わした理由は、その国の荒々しい~どもを説得させ従わせるためである。何故、八年経っても報告に戻らないのか」と、訊ねよ」と鳴女に命じられた。  雉の鳴女は、天から降り着くと、天若日子の家の門のよく茂った楓(ふう=桂?、メモ090001)の小枝に留まって、天~の言葉の通りに伝えた。天佐具賣此三字以音(あめのさぐめ)がこの鳥の言葉を聞いて、天若日子に「この鳥の鳴き声はとても不吉ですから、射殺(いころ)してください」と言い寄ったので、天若日子は、天~から授かった天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)メモ090002で、雉を射殺した。その矢は雉の胸を貫いて、天上まで射上げられ、天安河(あめのやすのかは)の河原に居られた天照大御~と高木~(たかきのかみ)の所にまで届いた。この高木~は高御産巣日~のまたの名である。  高木~が、その矢を取って見てみると、血が矢の羽に着いていたので、「この矢は天若日子に授けた矢である」と仰せられ、~々に示し、「もし、天若日子が勅(みことのり)に背(そむ)かず、悪しき~を射た矢が届いたのであれば、天若日子に当たるな。しかし、邪(よこし)まな心があるのであれば、天若日子は此矢麻賀禮此三字以音(このやにまがれ=この矢によってまがれ(死ね))」と仰せられて、その矢を取り、矢が開けた穴から下に突き返すと、朝の床で寝ていた天若日子の盛り上がった胸に当たって死んでしまったこれが還矢(かへしや)の謂(いわ)れである。また、その雉は帰ってこなかった。これが、諺(ことわざ)の雉之頓使(きぎしのひたづかひ=なしのつぶて)の謂れである。  天若日子の妻の下照比賣(したてるひめ)の泣く声が風に乗って天上にまで届いた。天上の天若日子の父の天津國玉~(あまつくにたまのかみ)やその妻子がこれを聞いて、降(くだ)り下(お)り、泣き悲しんで、その地に喪屋(もや)を作り、河鴈(かはかり)を岐佐理持自岐下三字以音(きさりもち=葬送のとき、死者に供える食物を持つ役)とし、鷺(さぎ)を掃持(ははきもち=墓所などを掃き清めるほうきを持つ役)とし、翠鳥(そにとり(=しょうびん))を御食人(みけびと=死者に供える食物を作る役)とし、雀(すずめ)を碓女(うすめ=米を搗く女)とし、雉を哭女(なくめ=泣く女)と、それぞれ定めて、八日八夜に亘って歌舞(うた まい)をしたメモ090003。  この時、阿遲志貴高日子根~自阿下四字以音(あぢしきたかひこねのかみ)が天若日子の葬儀に参列すると、天若日子の父や妻が皆で泣いて、「我が子は死なずに生きていた。我が君(きみ=夫)は死なずに生きておられた」と言って、手足に取り縋(すが)って泣き悲しんだ。間違えた理由は、この二柱の~の姿形がとてもよく似ていたからである。  しかし、阿遅志貴高日子根~は大変怒って、「私は天若日子が親友なればこそお悔やみに来たのに、どうして私を死人と間違えるのだ」と言って、帯びていた十掬劔(とつかのつるぎ)で喪屋を斬り倒し、蹴飛ばしてしまった。これが美濃國(みののくに)の藍見河(あゐみがは=岐阜県長良川)の河上にある喪山(もやま)である。その大刀(たち)の名は大量(おほはかり)と云う。またの名を~度劔度字以音(かむどのつるぎ)と云う。  阿治志貴高日子根~(=阿遲志貴高日子根~)が怒って飛び去った時、その同母妹(いろも)の高比賣命(たかひめのみこと)は阿治志貴高日子根~の名を明らかにしようと思い、歌を詠(よ)んだ。 原文 「阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也」 訓み 「天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 頸(うな)がせる 玉(たま)の御統(みすまる) 御統に 穴玉(あなだま)はや み谷(たに) 二渡(ふたわた)らす 阿治志貴高(あぢしきたか) 日子根(ひこね)の~(かみ)そや」 訳 「天上にいるうら若き機織女(はたおりめ)が首に掛けている玉の首飾り。その首飾りの穴の開いた玉のように、谷二つに渡って輝いておられるのは阿治志貴高日子根~だよ。」  この歌を夷振(ひなぶり)と云う。  天照大御~が「またどの~を遣わせば良いか」とお尋ねになると、思金~や~々は「天安河の河上の天石屋(あめのいはや)にいる伊都之尾羽張~伊都二字以音(いつのをはばりのかみ)を遣わしましょう。もしこの~でなければ、その~の子の建御雷之男~(たけみかづちのをのかみ)を遣わしましょう。天尾羽張~は天安河の水を噴き上げて道を塞いでいて訪れることはできませんので、特に天迦久~(あめのかくのかみ)を遣わして尋ねさせましょう」と申し上げた。そこで、天迦久~を遣わして天尾羽張~に尋ねると、「承知致しました。しかし、この用件には我が子の建御雷~(=建御雷之男~)を遣わしましょう」と申し上げ、天鳥船~(あめのとりふねのかみ)を建御雷~と共に遣わした。  この二~は、出雲國の伊那佐之小濱伊那佐三字以音(いなさのをはま)に降りて、十掬劔を浪の穂に逆さまに立て、その剣先に胡座(あぐら)をかいて、大國主~に「我々は天照大御~と高木~の命により遣わされ者である。「あなたが宇志波祁流此五字以音(うしはける=治めている)葦原中國は我が御子が治めるべき国である」、と仰せられている。如何に」と尋ねた。「私は申し上げられません。我が子の八重言代主~(やへことしろぬしのかみ)がお答えします。今は、鳥捕りや魚釣りに御大之前(みほのさき)に出掛けていて、まだ帰って来ていません」と答えた。  そこで、天鳥船~を遣わして、八重事代主~を呼び戻して尋ねると、父の大~に「判りました。この国は天~の御子に奉りましょう」と言って、乗っておられた船を踏み傾けて、天逆手(あめのさかて?)で拍手を打って船を青柴垣訓柴云布斯(あをふしかき)に変えて、その中に隠れられた。  大國主~に、「あなたの子の事代主~の言い分は聞いてのとおりだ。他に訊ねる子はいるか」と尋ねると、「まだ建御名方~(たけみなかたのかみ)がいます。これ以外にはおりません」と答えた。このやり取りの間に、建御名方~が千引石(ちびきのいは=千人掛かりでないと動かない重い岩)を手に引っさげて遣ってきて、「我が国に来て、こそこそぶつぶつ言っているのは誰だ。文句があるなら力比べで決めよう。まず、私があなたの手を掴むぞ」と言った。手を掴ませると、手は氷柱(つらら)となり、剣の刃となった。その為、建御名方~は恐れ慄いて引き下がった。今度は逆に、建御名方~の手を掴み、柔らかい葦(あし)を摘み取るように握り潰して放り投げると、建御名方~は逃げ去ってしまった。追い掛けて、科野國(しなののくに)の州羽海(すはのうみ=諏訪湖)に追い詰めて殺そうとすると、「恐れ入りました。私を殺さないで下さい。この地以外には何処にも行きません。また父の大國主~の命令にも背きません。八重事代主~の言葉にも背きません。この葦原中國は天~の御子の命の通りに奉ります」と申し上げた。  二~は、また戻って、大國主~に「あなたの子の事代主~と建御名方~の二~は天~の御子の命に背かない、とのことである。あなたは如何に」と尋ねると、「我が子の答えと私の答えは違いません。この葦原中國は命のままに奉ります。ただ、天~の御子が治められる登陀流此三字以音 下效此(とだる?)天之御巣(あめのみす=宮殿)のように、私の住む為に「底津石根(しきついはね)に宮柱布斗斯理此四字以音(みやばしらふとしり)て、高天原(たかまのはら)に氷木多迦斯理多迦斯理四字以音(ひぎたかしり)て」(=立派な宮殿を造ってくださり)祀(まつ)りくださるのであれば、私は百不足八十?手(ももたらずやそくまで=遠く離れた片隅)に隠れております。八重事代主~が天~の御子の先頭や殿(しんがり)となってお仕えするならば、我が子の百八十~(ももやそがみ)も、皆従うでしょう」と答えた。  それから、出雲國の多藝志之小浜多藝志三字以音(たぎしのをはま)に天之御舎(あめのみあらか=宮殿、出雲大社)を創った。水門~(みなとのかみ)の孫の櫛八玉~(くしやたまのかみ)が膳夫(かしはで=料理役)となり、天御饗(あめのみあへ=豪華な食事)を献上するに際して、櫛八玉~が鵜に変身して海底に潜り、海底の赤土(はに)を取ってきて、天八十毘良迦此三字以音(あめのやそびらか=多くの平らな皿)を作り、海草の茎を燧臼(ひきりうす=後述の燧杵を押し当てる板)とし、海蓴(こも)の茎を燧杵(ひきりきね=前述の燧臼に押し当てて、摩擦によって火を熾す棒)として、火を鑽(き)り出して(=熾して)、お祝いを述べた。 原文 「是我所燧火者 於高天原者 ~産巣日御祖命之 登陀流天之新巣之凝烟訓凝姻云州須之 八拳垂摩弖燒擧摩弖二字以音 地下者 於底津石根燒凝而 栲繩之 千尋繩打延 爲釣海人之 口大之尾翼鱸訓鱸云須受岐 佐和佐和邇此五字以音 控依騰而 打竹之 登遠遠登遠遠邇此七字以音 獻天之眞魚咋也」 訓み 「この我(わ)が燧(き)れる火(ひ)は 高天原(たかまのはら)には ~産巣日御祖命(かむむすひのみおやのみこと)の 登陀流天之新巣(とだるあめのにひす)の凝烟(すす)の 八拳垂(やつかた)るまで燒(た)き擧(あ)げ 地(つち)の下(した)は 底津石根(そこついはね)に燒(た)き凝(こ)らして 栲縄(たくなは)の 千尋繩(ちひろなは)打(う)ち延(は)へ 釣(つり)せし海人(あま)の 口大(くちおほ)の尾翼鱸(をはたすずき) さわさわに 控(ひ)き依(よ)せ騰(あ)げて 打竹(さきたけ)の とををとををに 天之眞魚咋(あめのまなぐひ) 獻(たてまつ)る」 訳 「私が熾した火は、高天原では、~産巣日御祖命の登陀流(とだる=立派?)宮殿の煤(すす)が、長く垂れさがるまで焚きあげることでしょう。地の下では、底の岩盤を焚き固めるでしょう。楮(こうぞ)で編(あ)んだ長い網を投げ入れて、海人が獲った口が大きく尾鰭の見事な鱸(すずき)のピチピチとしているところを引き寄せ上げて、竹の皿が撓(たわ)むほどの魚料理を奉ります。」  そこで、建御雷~は帰り上って、葦原中國を説得し平定した様子を申し上げた。  天照大御~と高木~は太子(ひつぎのみこ)の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)に、「今、葦原中國を平定し終えたと報告がありました。命により降り下って治めなさい」と仰せられた。太子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が、「私は降りる準備をしている間に子が生まれました。名は天邇岐志國邇岐志自邇至志以音天津日高日子番能邇邇藝命(あめ に き し くに に き し あま つ ひ こ ひ こ ほ の に に ぎ の みこと)と申します。この子を降しましょう」と申し上げた。  この御子は高木~の娘の萬幡豊秋津師比賣命(よろづ はた とよ あき つ し ひめ の みこと)との間の子で、第一子が天火明命(あめのほあかりのみこと)、第二子が日子番能邇邇藝(ひこほのににぎのみこと)である。二柱  そこで、申出の通りに日子番能邇邇藝命に、「豐葦原水穂國はあなたが治める国とするので、天降って治めよ」と仰せられた。  日子番能邇邇藝命が天降ろうとする時、天之八衢(あめのやちまた=分かれ道)に、上は高天原を照らし、下は葦原中國を照らす~がいた。天照大御~と高木~は、天宇受賣~(あめのうずめのかみ)に、「あなたはか弱い女ではあるけれど、『與伊牟迦布~自伊至布以音面勝神』(いむかふかみ(威対~)と おもかつかみなり=どの~(誰)に対しても気おくれしないので)、あなたが行って「我が御子が天降ろうとする道にいるのは誰で目的は何か」と尋ねてきて欲しい」と仰せられた。そのように尋ねると、「私は國~で、名を?田毘古~(さるたひこのかみ)と言う。天~の御子が天降りされると聞いて、御先導しよと思い参上し待って居りました」と答えた。  そこで、天兒屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとたまのみこと)、天宇受賣命、伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)とその五伴緒(いつとものを=五~の関係者)を従えさせて天降らせた。また、天照大御~を天岩戸からお出しした際の八尺勾?(やさかのまがたま)と鏡、それと草那藝劔(くさなぎのつるぎ)、更に常世思金~(とこよのおもひかねのかみ)、手力男~(たぢからをのかみ)、天石門別~(あめのいはとわけのかみ)を就けて、「この鏡を我が御魂として、我が身を拝むように祀(まつ)れ。思金~は今までと同じ役割を果たせ」と仰せられた。  この二柱~(メモ090004)は、『佐久久斯侶 伊須受能宮自佐至能以音』(さくくしろ いすずのみや=伊勢~宮)で御祀りしている。次に登由宇氣~(とゆうけのかみ)は、伊勢~宮外宮の度相(わたらい)に坐します~である。次に天石戸別~(あめのいはとわけのかみ=天石門別~)、またの名を櫛石?~(くしいはまどのかみ)、またの名を豐石?~(とよいはまどのかみ)は御門~(みかどのかみ)である。次に手力男~は佐那那縣(さななあがた=三重県多気郡多気町大字仁田の佐那~社)に坐します~である。  天兒屋命者(あめのこやねのみこと)は中臣連等の祖(おや)である。布刀玉命(ふとたまのみこと)は忌部首等(いみべのおびとら)の祖である。天宇受賣命は?女君等(さるめのきみら)の祖である。伊斯許理度賣命は作鏡連等(かがみすりのむらじら)の祖である。玉祖命は玉祖連等の祖である。  そこで、天津日子番能邇邇藝命は、命により、天之石位(あまのいはくら=天上の御座)から、八重にたなびく幾えもの雲を押し分けて、『伊都能知和岐知和岐弖自伊以下十字以音』(いつのちわきちわきて=靈威の道(風)別き道(風)別きて=風を巻き起こしながら道を分け進んでいき)、『於天浮橋 宇岐士摩理蘇理多多斯弖自宇以下十一字亦以音』(あまのうきはしに うきじまりそりたたして=天浮橋が掛かる浮島に立たれてから、メモ090005)、『于竺紫日向之 高千穂之久士布流多氣自久以下六字以音』(竺紫日向(つくしのひむか)の高千穂の「くじふるたけ」メモ090006)に降臨された。  天忍日命(あめのおしひのみこと)と天津久米命(あめのつくめのみこと)の二人は天之石靫(あめのいはゆき)を背負い、頭椎之大刀(くぶつちのたち)を帯び、天之波士弓(あめのはじゆみ)を持ち、天之真鹿兒矢(あめのまかこや)を握り持ち、前方に立って警護に当たった。天忍日命は大伴連等の祖である。天津久米命は久米直等の祖である。  「この地は韓國(からのくに)に面しており、また、笠沙之御前(かささのみさき)から真っ直ぐに朝日が射す国であり、夕日が照る国である。ここは大変良い処だ」と申されて、立派な宮を建てられて住まわれた。  天宇受賣命に「先導して呉れた?田毘古大~を、名前を聞き出したあなたが送ってあげなさい。そして、その~の御名をおまえの名前としなさい」と仰せられた。このため、?女君等(さるめのきみら)は、?田毘古男~の名をもらって、女であるにも拘らず?女君(さるめのきみ)と呼ぶこととなった。  ?田毘古~は、阿邪訶此三字以音 地名(あざか)に居られるときに、漁をされて、比良夫貝自比至夫以音(ひらぶがい)に手を挟まれ、溺れられた。海底に居られたときの名を底度久御魂度久二字以音(そこどくのみたま)と云い、海水之都夫多都時名(海水がつぶたつ時の名、メモ090007)を都夫多都御魂自都下四字以音(つぶたつのみたま)と云い、阿和佐久時名(あわさく時の名、メモ090008)を阿和佐久御魂自阿至久以音(あわさくのみたま)と云う。  天宇受賣命が?田毘古~を送り、戻って来て、鰭廣物鰭狹物(はたのひろもの はたのさもの=海の大小の魚すべて)を集めて、「あなたたちは天~の御子にお仕えするか」と尋ねると、魚たちが皆「お仕えします」と申し上げた中で、海鼠(なまこ)だけが申し上げなかった。そこで、天宇受賣命は海鼠に「この口は答えぬ口だ」と言って、紐小刀(ひもかたな)でその口を裂いた。その為、今でも海鼠の口は裂けているのである。  こういう訳で、代々の嶋之速贄(しまのはやにへ=志摩からの初物)が献上されると、?女君等に分け与えられるのである。  天津日高日子番能邇邇藝能命は笠沙御前(かささのみさき)で麗しい美人(をとめ=乙女)と出逢った。「誰の娘か」と尋ねると、「大山津見~(おほやまつみのかみ)の娘で、名は~阿多都比賣此~名以音(かむあたつひめ)とか木花之佐久夜毘賣此五字以音(このはなのさくやびめ)と言います」と申し上げた。「あなたに姉妹はいますか」と尋ねると、「姉の石長比賣(いはながひめ)がいます」と申し上げた。そこで、「あなたと目合(まぐはひ=結婚)したいと思うのだが」と訊ねると、「私からは答えられません。父の大山津見~からお答え致します」と申し上げた。  そこで、父の大山津見~に使者を遣わせて訊ねさせると、大変喜んで、木花之佐久夜毘賣と姉の石長比賣の二人に多くの品物を持たせて献上した。姉はとても醜かったので、見るなり送り返し、妹の木花之佐久夜毘賣だけを留めて、一夜の交わりを持たれた。  父の大山津見~は石長比賣を返されたことを深く恥じて、「我が娘二人一緒にして献上したのは、「石長比賣を娶るならば、天~の御子の命(いのち)は、雪が降り風が吹いても常に岩のように常磐(ときわ)に揺るぎないでしょう。また、木花之佐久夜毘賣を娶るならば、木の花が咲き乱れるように栄えるでしょう」、と宇氣比弖自宇下四字以音(うけひて=祈(うけ)いして、天皇事績メモ0112)献上したものを。石長比賣を返し、木花之佐久夜毘賣だけを留めてしまったので、天~の御子の寿命は木花之阿摩比能微此五字以音 (このはなのあまひのみ=木の花のように「あまひ」の実、メモ090009)になるでしょう」と言った。このようなわけで、今に至るまで天皇命等(すめらみことら)の寿命は長くはないのである。  その後、木花之佐久夜毘賣が来て、「私は身籠り、出産の日となりました。天~の御子を私一存で産むべきではありませんので、お伝えに来ました」と申し上げた。すると、「佐久夜毘賣は一夜(ひとよ)で身籠ったのか。さすれば、我が子ではなく、きっと國~の子だ」と申されたので、「私の身籠った子が、もし國~の子であれば無事に産まれないでしょう。しかし、天~の御子であれば無事でしょう」と答えて、出口のない八尋殿(やひろどの=大きな産屋)を作り、中に入り戸を土で塗り塞(ふさ)いでしまい、出産間際に産屋に火を点けた。火が盛んに燃え上がる時に生まれた子の名は火照命(ほでりのみこと)隼人阿多君(はやとのあたのきみ)の祖である。次に生まれた子の名は火須勢理命(ほすせりのみこと)。次に生まれた子の御名は火遠理命(ほをりのみこと)、またの名は天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)である。三柱 日本書紀 第九段 本文 日本書紀 巻第二(やまとのくにつふみ まきのついで ふたまきに あたるまき)  ~代下(かみのよのしものまき)  天照大~の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさ か あ かつ かち はや ひ あま の おし ほ みみ の みこと)は、高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)の娘の栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あま つ ひこ ひこ ほ の に に ぎ の みこと)を生んだ。皇祖(みおや)の高皇産靈尊は特に慈しみ深く育てた。  皇孫(すめみま、メモ090010)の天津彦彦火瓊瓊杵尊を葦原中國(あしはらのなかつくに)の主(きみ)にしようと考えたが、その地には多くの『蛍火光神(蛍火(ほたるび)の光(かかや)く~=自ら光る~=実力のある~、メモ090011』や、『蠅声邪神(蠅声(さばへな)す邪(あ)しき~=実力の無い騒がしいだけの悪しき~)』がいた。また、草木さえもが話すことができた。  そこで、高皇産靈尊は八十諸~(やそもろかみたち=多くの~々)を集め、「葦原中國の邪(あ)しき鬼(=存在するがはっきりしないもの)を平定しようと思うが、誰を遣わせばよいだろうか。忌憚の無い意見を聞きたい」と尋ねた。皆は「天穂日尊(あまのほひのみこと)は勝れた~です。いかがでしょうか」と答えた。そこで、皆の言葉に従って天穂日尊を平定させるために遣わした。しかし、この~は大己貴~(おほなむちのかみ)に媚(こ)びへつらって、三年経っても報告に戻らなかった。  そこで、その子の大背飯三熊之大人大人、これを于志(うし)と云う(おほそひのみくまのうし)またの名は武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣わしたが、これもまた、その父と同じように報告に戻らなかった。  高皇産靈尊は、再度諸~を集めて、遣わすべき~を尋ねた。皆は「天國玉(あまつくにたま)の子の天稚彦(あまのわかひこ)はしっかりした方です。いかがでしょうか」と答えた。そこで、高皇産靈尊は天稚彦に天鹿兒弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を授けて遣わしたが、この~もまた忠実ではなかった。降るとすぐに顕國玉(うつしくにたま、メモ090012)の娘の下照姫(したてるひめ) またの名は高姫(たかひめ)、或は稚國玉(わかくにたま)を娶って留まり住み、「自分もまた葦原中国を治めよう」と思って、報告に戻らなかった。  高皇産靈尊は天稚彦が長く戻らないことを怪しみ、無名雉(ななしきぎし)を遣わして戻らない理由を尋ねさせた。雉は飛んで降りると天稚彦の家の門の前に植植、これを多底婁(たてる)と云うよく茂った杜木これを可豆邏(かつら)と云うメモ090001 (桂)の木の枝に止まった。天探女これを阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)と云うがこれを見て天稚彦に、「奇妙な鳥が桂の枝に止まっている」と言うと、天稚彦は、高皇産靈尊から授かった天鹿兒弓と天羽羽矢で雉を射殺した。矢は雉の胸を貫いて、高皇産靈尊の前にまで届いた。高皇産靈尊はその矢を見て、「この矢は、昔、私が天稚彦に授けた矢である。血が矢についている。思うに國~と戦ってそうなったのだろう」と言い、その矢を投げ返した。矢は天稚彦の胸に突き刺さった。その時は、新嘗(にひなへ)の儀式の後で寝ていたので、矢が胸に当たって死んでしまった。これが、世の人が「反矢(かへしや)畏るべし」と言うことの謂れである。  天稚彦の妻の下照姫が大変泣き悲しみ、その声は天にまで達した。この時、天國玉(=天稚彦の父)がその泣き声を聞いて、天稚彦がすでに死んだことを知り、疾風(はやち)を遣わして、屍(しかばね)を天に運び上げさせ、すぐに喪屋(もや、天皇事績メモ0133)を造って殯(もがり、天皇事績メモ0133)を行った。  川雁(かわかり)を持傾頭者(きさりもち)と持帚者(ははきもち)とにしたある話では、鶏を持傾頭者とし、川雁を持帚者とした、と云う。雀(すずめ)を舂女(つきめ)としたある話では、川雁を持傾頭者と持帚者とにした。?(そび=しょうびん)を尸者(ものまさ、かたしろ=身代わり)とし、雀を舂女とし、鷦鷯(ささき、さざき)を哭者(なきめ)とし、鳶(とび)を造綿者(わたつくり=衣装を作る人)とし、烏を宍人者(ししひと=肉料理を作る人)とした。いろいろな鳥に役を任せたと云う。そのようにして、八日八夜、泣き・悲しみ、歌ったメモ090003。  これより前、天稚彦が葦原中國にいた頃、味耜高彦根~(あぢすきたかひこねのかみ)と善き友であったので味耜、これを婀膩須岐(あぢすき)と云う、味耜高彦根~は天に昇って葬儀に参列した。味耜高彦根~が天稚彦に生き写しだったので、天稚彦の両親・妻子らは皆「我が君(きみ)は生きていた」と言って、衣服にすがりついて、喜びあった。味耜高彦根~は怒りながら、「友として葬儀に参列すべきだと思い、穢れもはばからず遠くから弔問に来て悲しんでいるのに、どうして死人と間違えるのか」と言って、帯びていた大葉刈(おほはがり)刈、これを我里(がり)と云う。またの名は~戸劒(かむどのつるぎ)と云うを抜いて、喪屋を斬り倒した。これが落ちて山となった。今、美濃國(みののくに)の藍見川上(あゐみのかはかみ)にある喪山(もやま)がこれである。世の人が生者を死者と間違えることを忌むのは、これが謂れである  この後、高皇産靈尊は、また諸~を集め、葦原中國に遣わすべき~を選んだ。皆は「磐裂これを以簸娑窶(いはさく)と云う根裂(ねさく)~の子である磐筒男(いはつつのを)・磐筒女(いはつつのめ)が生んだ經津これを賦都(ふつ)と云う主~(ふつぬしのかみ)が良いでしょう」と申し上げた。その時、天石窟(あまのいはや)に住む~の稜威雄走~(いつのをはしりのかみ)の子に甕速日~(みかのはやひのかみ)がおり、その甕速日~の子に?速日~(ひのはやひのかみ)がおり、その?速日~の子に武甕槌~(たけみかづちのかみ)がいた。この武甕槌~が「どうして經津主~だけが丈夫(ますらを)で、私は丈夫ではないのか」と語気荒く不満そうに迫ったので、經津主~とともに葦原中國に向かわせた。  二~は、出雲國の五十田狹之小汀(いたさのをばま)に降り立ち、十握劒を抜いて逆さに地面に突き立て、その剣先にあぐらをかいて、大己貴~(おほなむちのかみ)に、「高皇産靈尊が皇孫(すめみま)を降臨させて、この地の君にされようとしておられる。そこで、まず我ら二~が前捌きとして地均しを行うために遣わされた。あなたはどう対応されるのか。退去するか否や」と尋ねた。大己貴~は「我が子に尋ねた後で返事をしましょう」と答えた。  大己貴~の子の事代主~(ことしろぬしのかみ)は、出雲國の三穂美保(みほ)と云う之碕(みほのさき)で漁師をしていた。或は猟師をしていたとも云う。そこで、熊野諸手船(くまののもろたふね)またの名は天鴿船(あまのはとふね)と云うに使いの稲背脛(いなせはぎ)を乗せて遣わした。  高皇産靈尊の命を事代主~に伝え、返事を尋ねると、「父はお譲りすべきでしょう。私に異存はありません」と答え、海中に八重蒼柴籬(やへのあをふしかき)を造り 柴、これを府璽(ふし)と云う、船竄アれを浮那能倍(ふなのへ)と云う(=舳先、船の側板)を踏んで隠れられた。  使いが戻って報告すると、大己貴~は、二~に子の言葉どおりに話して、「我が頼みとした子はすでに隠れ去りましたので、私も去りましょう。もし私が抵抗すれば、国中の諸~もきっと同じように抵抗するでしょう。しかし、私が隠れ去ったならば、皆も従うでしょう」と申し上げた。そして、国を平定した時に使った広矛(ひろほこ)を二~に授け、「私はこの矛で事を成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国を治めるならば、きっと上手くいくでしょう。これから百不足之八十隅隅、これを矩磨泥(くまで)と云う(ももたらずやそくまでに=遠く離れた見えない世界に)隠居します」と言って、隠れてしまわれた。  二~は様々な従わない鬼~等(かみたち)を誅殺し、天に戻り報告した。ある話では、二~は、悪しき~や草・木・石の類を誅殺し、平定し終えた。ただ、星~(ほしのかみ)の香香背男(かかせを)だけが従わなかった。そこで、倭文~(しとりがみ)の建葉槌命(たけはつちのみこと)を遣わせると服従した。そこで、二~は天に登った、と云う。倭文神、これを斯図梨俄未(しとりがみ)と云う。  高皇産靈尊は、真床追衾(まとこおふふすま)で皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆い降臨させた。皇孫は天磐座阿麻能以簸矩羅(あまのいはくら)と云うを離れ、幾重もの雲を払い分け、風を舞い上げながら進み、日向(ひむか)の襲之高千穂峯(そのたかちほのたけ))に天降(あまくだ)られたメモ090006。そこから、皇孫は、?日(くしひ)の二つの頂を持つ山から天浮橋(あめのうきはし)を使って、立於浮渚在平処羽企爾磨梨陀(田+比)邏而陀陀志(うきじまりたひらにたたし)と云う(浮島があったので、そこの平らな処に降り立ち、メモ090005)、而膂宍之空国(そししのむなくに(からのくに)、メモ090013)、自頓丘覓国行去頓丘、これを(田+比)陀烏(ひたを)と云う。覓国、これを矩弐磨儀(くにまぎ)と云う。行去、これを騰褒屡(とほる)と云う (日田尾(メモ090014宮崎県日向市東郷町山陰乙日田尾)から国(土地の状況)を調べながら)、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狹碕(かささのみさき)に着いた。  そこに、事勝國勝長狹(ことかつくにかつながさ)という者がおり、皇孫が「ここに国はあるのか」と尋ねると、「国はあります。どうぞ御随意にしてください」と答えので、その地に住まわれた。この地に美人がいた。名を鹿葦津姫(かしつひめ)と言う。またの名は~吾田津姫(かむあたつひめ)。またの名は木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)と云う。皇孫が美人に「あなたは誰の子か」と尋ねると、「天~が大山祇~(おほやまつみのかみ)を娶って生んだ子です」とお答えした。皇孫が召され、一夜にして妊娠した。皇孫は信じられず、「たとえ天~と云えども、一晩で人を身籠らせるだろうか。あなたが身籠ったのはきっと私の子ではない」と言うと、鹿葦津姫は怒り恨んで、出口のない小屋を作り中に入り、祈(うけい)して、「私が妊娠したのが天孫の子でなければ、きっと焼け滅びるでしょう。もし本当に天孫の子であれば、火の害を受けないでしょう」と言って、火をつけて小屋を焼き払った。  最初に立ち昇った煙の先から生まれ出た子を火闌降命(ほのすそりのみこと)と言うこれは隼人等(はやとら)の始祖(はじめのおや)である。火闌降、これを褒能須素里(ほのすそり)と云う。次に熱が治まって生まれ出た子を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と言う。次に生まれ出た子を火明命(ほのあかりのみこと)と言うこれは尾張連等(をはりのむらじら)の始祖である。併せて三子(みはしらのみこ)である。  久しくして、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)が崩御され、筑紫の日向の可愛これを埃(え)と云う之山陵(のみささぎ)に埋葬申し上げた。 第九段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天照大~は天稚彦(あめのわかひこ)に、「豊葦原中國は我が子が王(きみ)となるべき地である。しかし、強暴で悪しき~どもがいるので、あなたがまず鎮めてきてください」と命じ、天鹿兒弓(あまのかごゆみ)と天眞鹿兒矢(あまのまかごや)を授けて遣わした。天稚彦は命を受けて降(くだ)るや、多くの國~の娘を娶り、八年経っても報告に戻らなかった。  天照大~は思兼~(おもひかねのかみ)に天稚彦が戻らない訳を尋ねた。思兼~は「雉(きじ)を遣わして調べましょう」と申し上げたので、雉を使いとされた。雉は、飛び下ると、天稚彦の家の門の前のよく茂った桂の枝に止まって、「天稚彦、どうして八年の間、一度も報告に戻らないのか」と訊ねた。それを天探女(あまのさぐめ)と云う國~が聞いて、「不吉な鳴き声の鳥が木の上にいるので、射てください」と言うと、天稚彦は天~から授かった天鹿兒弓と天眞鹿兒矢で射殺した。矢は雉の胸を貫き、天~の所にまで届いた。その矢を見た天~は「これは昔、私が天稚彦に授けた矢である。今頃、何故届いたのだろう」と矢を取り「もし悪心(きたなきこころ)で射たのならば、天稚彦はきっと禍に遭うだろう。もし平心(きよきこころ)で射たのならば、何事もないだろう」と祈(うけい)して、投げ返された。矢は天稚彦の胸に当たり、たちどころに死んだ。これが世の人が「返矢(かへしや)恐るべし」と言う謂れである。  天稚彦の妻子が天から降りて来て、柩(ひつぎ)を持ち帰り、天に喪屋(もや)を作って殯(もがり)をして泣いた。  以前より、天稚彦と味耜高彦根~(あぢすきたかひこねのかみ)とは友であった。味耜高彦根~は天に登って弔問に訪れ、泣き悲しんだ。この~の容姿は天稚彦と瓜二つであったので、天稚彦の妻子たちは味耜高彦根~を見て喜び、「我が君(きみ)は生きていた」と言って、衣服にすがりついて離そうとしなかった。味耜高彦根~は怒り、「友が亡くなり弔問に来たのに、どうして死者と私を間違えるのか」と言い、十握劒を抜いて喪屋を斬り倒した。その喪屋が落ちて山となった。これが美濃國(みののくに)の喪山(もやま)である。世の人が死者を自分と間違えることを忌(い)むのは、これが謂れである。  その時、味耜高彦根~は光儀華艶(容姿端麗)で、二つの丘二つの谷の間に照り輝いていたので、弔問の人が歌を詠んだ。{ある話では、味耜高彦根~の妹の下照媛(したてるひめ)が、集まった人たちに、丘や谷に照り映えているのは味耜高彦根~である、と教えようと思って歌を詠んだ、と云う。} 原文 「阿妹奈屡夜 乙登多奈婆多廼 汚奈餓勢屡 多磨廼弥素磨屡廼 阿奈陀磨波夜 弥多爾 輔柁和柁邏須 阿泥素企多伽避顧禰」 訓み 「天(あめ)なるや 弟織機(おとたなばた)の 頸(うな)がせる 玉(たま)の御統(みすまる)の 穴玉(あなたま)はや み谷(たに) 二渡(ふたわた)らす 味耜高彦根(あぢすきたかひこね)」 訳 「天にいる若い機織女(はたおりめ)が首にかけている玉の首飾り。その穴の開いた玉のように、谷二つにも渡って輝いているのが味耜高彦根~です」 また、歌を詠んだ。 原文 「阿磨佐箇屡 避奈菟謎廼 以和多邏素西渡 以嗣箇播箇柁輔智 箇多輔智爾 阿弥播利和柁嗣 妹慮予嗣爾 予嗣予利拠禰 以嗣箇播箇柁輔智」 訓み 「天離(あまさか)る 夷(ひな)つ女(め)の い渡(わた)らす迫門(せと) 石川片淵(いしかはかたふち) 片淵(かたふち)に 網張(あみは)り渡(わた)し 目(め)ろ寄(よ)しに 寄(よ)し寄(よ)り来(こ)ね 石川片淵(いしかはかたふち)」 訳 「田舎(いなか)の娘が渡る川幅の狹い所、石川の片側の淵(ふち)よ。その淵に網を張り渡し、網の目を引き寄せるように、寄って来なさい。石川の淵よ」  この二首の歌は今では夷曲(ひなぶり)と言う。  天照大~は、思兼~の妹の萬幡豊秋津媛命(よろづはたとよあきつひめのみこと)を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)に娶らせ妃(きさき)とし、葦原中國に降(くだ)らせた。この時、勝速日天忍穂耳尊は天浮橋(あまのうきはし)に立って見下ろし、「あの地は鎮まっていない。気に入らないし、穢れた国だ」と思われ戻どり、降りなかった理由を詳しく申し上げた。  そこで、天照大~は武甕槌~(たけみかづちのかみ)と經津主~(ふつぬしのかみ)を先に平定させるために遣わされた。この時、二~は出雲に降り立ち、大己貴~(おほなむちのかみ)に、「あなたはこの国を天~に奉るか否か」と尋ねた。「我が子の事代主(ことしろぬし)は猟師で、三津之碕(みつのみさき)にいますので、尋ねてからご返事します」と答えた。使いを遣わし尋ねると、「天~が御求めならば、奉ります」と答えたので、大己貴~はそのとおりに二~に返事をした。そこで、二~は天に昇り、「葦原中國はすっかり平(たい)らげ終えました」と報告申し上げた。  そこで、天照大~が「それでは、我が子を降らせよ」と申され、まさに降ろうとした矢先に皇孫(すめみま)が生まれ、名を天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)と言う。その為、勝速日天忍穂耳尊が「皇孫を代わりに降らせようと思う」と申し上げた。  そこで、天照大~は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)、草薙劒(くさなぎのつるぎ)の三種宝物(みくさのたから)を授け、中臣の上祖(とほつおや)である天兒屋命(あまのこやねのみこと)・忌部(いみべ)の上~である太玉命(ふとたまのみこと)・?女(さるめ)の上~である天鈿女命(あまのうずめのみこと)・鏡作(かがみつくり)の上~である石凝姥命(いしこりどめのみこと)、玉作(たますり)の上~である玉屋命(たまのやのみこと)、併せて五氏族の~を従わせた。皇孫に「葦原千五百秋之瑞穂國は、我が子孫が王(きみ)となるべき地である。皇孫のあなたが行って治めなさい。恙無く暮らし、皇室の繁栄は、天地と同じように末永く続くでしょう」と勅された。  降ろうとしていると、先見の者が戻って来て、「一人の~が天の分かれ道の処にいます。鼻の長さは七咫(ななあた)、座高は七尺(ななさか)余りですから、背丈は七尋(ななひろ)でしょうメモ090101。口元は輝き、目は八咫鏡のようで、輝きは酸漿(ほおずき)に似ています」と報告した。近習の~を遣わせて訊ねさせようとしたが、八十萬~がいたが気迫で相手を負かすものはいなかった。  そこで、天鈿女命に「『汝是目勝於人者(あなたは気迫が人より優れているので、メモ090102)、何処の誰か調べてきてください」と命じた。天鈿女命は胸乳を露(あらわ)にし、服の紐を臍の下に垂らし、にこやかに向かい合った。衢~(ちまたのかみ)が「天鈿女よ。何故そんな格好で来たのか」と言うと、「天照大~の御子の行く手を遮るあなたこそ何者か」と尋ねた。衢~は「天照大~の御子がちょうど降りて来るところだと聞いて、お迎えに待っていました。私は?田彦大~(さるたひこのおほかみ)である」と答えた。天鈿女命が「あなたが私を導くのか、それとも私が導くのか」と尋ねると、「私が先に立って導きましょう」と答えた。天鈿女命が「あなたは何処に行くつもりか、皇孫を何処に導くのか」と尋ねると、「天~の子は、筑紫の日向の高千穂?触之峯(たかちほのくじふるのたけ)に行くと好いでしょう。私は伊勢の狹長田(さなだ、さながた)の五十鈴川上(いすずのかはかみ)に向かいます」と答え、「私の素性を明らかにさせたのはあなたですから、あなたが私を送ってください」と言った。  天鈿女命が戻り報告すると、皇孫は、天磐座(あまのいはくら)を発ち、天八重雲(あめのやへたなくも)を払い除け、風を巻き起こしながら天降りし、先の言葉とおり高千穂?触之峯に降り立った。  ?田彦~は伊勢の狹長田の五十鈴の川上に着き、天鈿女命は?田彦~の求め通りに送り届けた。そこで、皇孫は天鈿女命に「あなたが素性を明らかにした~の名を姓氏(うぢ、天皇事績メモ0105)としなさい」と申されて、?女君(さるめのきみ)の名を与えられた。?女君らの男女が皆、「君(きみ)」と呼ばれるのはこのためである。 高胸、これを多歌武娜娑歌(たかむなさか)と云う。頗傾也、これを歌矛志(かぶし)と云う。 第九段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天~は經津主~(ふつぬしのかみ)と武甕槌~(たけみかづちのかみ)とを遣わして葦原中國を平定させようとした。二~は「天に悪しき~がいます。名を天津甕星(あまつみかほし)、またの名を天香香背男(あまのかかせを)と言います。まずこの~を誅殺してから、葦原中國に向かいます」と申し上げた。この時の齋主(いはひ、メモ090201)の~の名を齋之大人(いはひのうし)と言う。この~は今、東國(あづまのくに)の楫取(かとり=千葉県香取市香取神社)の地に坐します。  その後、二~は出雲の五十田狹之小汀(いたさのをばま)に降り立ち、大己貴~に「あなたはこの国を天~に奉るか否か」と尋ねた。すると、「どう云うことだ。あなたたちが私の処に来たのではないのか。許す訳にはいかない」と答えたので、經津主~は帰って報告した。  高皇産靈尊は、二~を再び遣わし、大己貴~に「あなたの言い分をお聞きしました。ご尤もなことです。そこで次のように致しましょう。まず、あなたが治めている顕露之事(あらはのこと、メモ090202)は、吾孫(すめみま)が治めます。あなたは~事(メモ090203)をお治めください。また、あなたが住む天日隅宮(あまのひすみのみや)を今からお造りします。それは、『即以千尋栲縄(すなはち ちひろのたくなわをもちて=長い楮(こうぞ)の縄を用い)結為百八十紐(むすびて ももあまりやそむすびとなし=多くの結び目でしっかりと編み結びます、メモ090204)』。宮を造るに当たっては、柱は高く太くし、板は広く厚くし、田をお付けします。更に、海で釣りをする場合に備えて、高い橋や浮橋や天鳥船(あまのとりふね)をお造りします。天安河(あまのやすのかは)までの掛け橋も造ります。沢山の皮を縫い合わせた白い楯をお造りします。あなたの祭祀の齋主を天穂日命(あまのほひのみこと)とします」と伝えた。  これにより、大己貴~は「天~の申出は過分なほどに行き届いており、おっしゃるように致しましょう。私が治めているこの地は皇孫が治めてください。私は退(しりぞ)いて幽事(かくれたること=~事)を司りましょう」とお答えし、岐~(ふなとのかみ、メモ090205)を二~に薦めて、「この~が私に代わってお仕えします。私はこれから隠れます」と申されて、八坂瓊(やさかに=大きな玉)を身につけて永久(とこしえ)に隠れられた。  そこで、經津主~は岐~を先導役とし、国中を巡りながら平定していった。反抗する者がいれば斬り殺し、従う者には褒美を与えた。この時、従った~の長は大物主~(おほものぬしのかみ)と事代主~(ことしろぬしのかみ)で、八十萬~を天高市(あまのたけち)に集め、皆を伴って天に昇り、本心を述べさせた(=服従の誓をした)。高皇産靈尊は大物主~に「あなたが國~を娶るようなら、先の誓いを疑ってしまうので、私の娘の三穂津姫(みほつひめ)を妻にして欲しい。そして、八十萬~を率いて、永遠に皇孫を守って欲しい」と言われて、帰り降らせた。  紀國(きのくに)の忌部(いみべ)の祖~(とほつおや)の手置帆負~(たおきほおひのかみ)を作笠者(かさぬい、メモ090206)と定め、彦狹知~(ひこさちのかみ)を作盾者(たてつくり、たてぬい、メモ090206)とし、天目一箇~(あまのまひとつのかみ)を作金者(かなつくり)とし、天日鷲~(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆふつくり、メモ090206)とし、櫛明玉~(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たますり、メモ090206)とした。太玉命(ふとたまのみこと)が、『以弱肩被太手繦而代御手(よわかいなにふとたすきをかけて、みてしろとして=若輩ではあるが立派な襷を掛けて、天孫に代わって)、大己貴~を祀るようになったのは、これが始まりである。天兒屋命(あまのこやねのみこと)は『主神事之宗源者也メモ090207』、太占(ふとまに、メモ040002)によって仕えさせた。  高皇産靈尊は「私は天津~籬(あまつひもろき、メモ090208)と天津磐境(あまついはさか、メモ090208)を造り、皇孫のために祭祀をしよう。天兒屋命と太玉命は、天津~籬を守って、葦原中國に降り皇孫のために祭祀をしなさい」と命じ、二~を天忍穂耳尊に従わせて降らせた。  この時、天照大~は寶鏡(たからのかがみ)を天忍穂耳尊に授けて、「我が子よ、この寶鏡を見ることは、私を見るのと同じだと心得よ。ともに床を同じくし、殿(おほどの=住まい)を同じにして、齋鏡(いはひのかがみ=祭祀の対象の鏡)としなさい」と申された。天兒屋命と太玉命に「あなたたち二~も、ともに殿の内側に居て、この鏡をお守りしなさい」と命じた。  また、「私が高天原にある齋庭之穂(ゆにはのいなのほ、メモ090209)を我が子に譲り渡しなさい」と命じた。そして、高皇産靈尊の娘の萬幡姫(よろづはたひめ)を天忍穂耳尊に娶らせて妃(みめ)とさせ、天降(あまくだ)らせた。天降る途中で生まれた子を天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)と言う。そこで、この皇孫(すめみま)を自分に代わって天降らせようと思われ、天兒屋命と太玉命及び諸部の~々のことごとくを皇孫に授け、~(天皇)の衣服も一緒に授けた。その後、天忍穂耳尊は再び天に上った。  天津彦火瓊瓊杵尊は日向の?日高千穂峯(くしひのたかちほのたけ)に降り立ち、『而膂宍胸副国(メモ090210』、日田尾から国(土地の状況)を調べながら進み、浮島に至って、そこの國主(くにのぬし)の事勝國勝長狹(ことかつくにかつながさ)を呼んで尋ねると、「ここに国があります。ご髄になさいませ」と答えた。  そこで、皇孫は宮殿を立て住まわれた。海辺で一人の美人(をとめ)を見つけ、「あなたは誰の子か」と尋ねると、「大山祇~の子です。名は~吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、またの名は木花開耶姫と言います。姉に磐長姫(いはながひめ)がいます」と申し上げた。皇孫が「あなたを妻にしようと思うがどうか」と尋ねると、「父の大山祇~にお尋ねください」と答えた。そこで、皇孫が大山祇~に「あなたの娘を見初めたので、妻にしたいと思う」と言われると、二人の娘に多くの進物を持たせて奉った。  皇孫は、姉の方は醜いと思って召されず、妹の方は『有國色(かほきらきら=器量が良い)』ので召されると、一夜にして身籠った。磐長姫は大変恥じ入り、「もし天孫が私を退けずに召されておられれば、生まれる子は長寿で、堅い岩のように永久(とわ)に栄えたでしょう。しかし、その様にはなさらずに妹だけを召されたので、生まれる子は木の花のように散り落ちることでしょう」と恨み呪った。{ある話では、磐長姫は恥じ恨んで、唾を吐いて泣き、「この世の人々は木の花のように儚(はかな)く移ろい、衰えることでしょう」と言った、と云う。} これが世の人の命が脆(もろ)い謂れである。  この後、~吾田鹿葦津姫が皇孫に「天孫(あめみま)の子を身籠りました。私一存で生むことはできません」と言うと、「たとえ天~の子であっても、一夜にして人を身籠らせることはできない。我が子ではないだろう」と言った。この為、木花開耶姫は大変な辱めを受けたので、出口のない小屋を作り、祈(うけい)して、「私が身籠った子が他の~の子ならば、無事ではないでしょう。本当に天孫の子ならば、無事に生まれるでしょう」と言って、小屋の中に入り、火をつけて小屋を焼いた。  炎が最初に立ち昇りはじめた時に生まれた子を火酢芹命(ほのすせりのみこと)と言う。次に、火が燃え盛る時に生まれた子を火明命(ほのあかりのみこと)命と言う。次に、生まれた子を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と言う。またの名は火折尊(ほのをりのみこと)と言う。 齋主、これを伊播毘(いはい)と云う。顕露、これを阿羅播弐(あらはに)と云う。齋庭、これを踰弐波(ゆには)と云う 第九段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  最初に炎が明るい時に生まれた子が火明命(ほのあかりのみこと)。次に、炎が燃え盛る時に生まれた子が火進命(ほのすすみのみこと)または火酢芹命(ほのすせりのみこと)と云う。次に、炎が鎮まった時に生まれた子が火折彦火火出見尊(ほのをりひこほほでみのみこと)である。三子はすべて火の害を受けることなく、母もまた少しも害を受けなかった。そして、竹の刀で臍(へそ)の緒を切った。その捨てた竹の刀が竹林となり、その地を竹屋(たかや)と云う。  ~吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)が、『卜定田(うらへた、メモ090301』を狹名田(さなだ)と言う。この田の稲で天甜酒(あめのたむさけ)を醸造して嘗(にひなへ)に供した。渟浪田(ぬなた、メモ090302)の稲でご飯を炊いて嘗に供えた。 第九段 第四節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  高皇産靈尊は、真床覆衾(まとこおふふすま)を天津彦國光彦火瓊瓊杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと)に着せて、天磐戸を引き開けて、天八重雲(あめのやえたなくも)を押し分けて天降らせた。この時、大伴連の遠祖(とほつおや)の天忍日命(あまのおしひのみこと)が、来目部(くめべ)の遠祖である天?津大来目(あまのくしつのおほくめ)を率い、背に天磐靫(あまのいはゆき)を背負い、腕には立派な高鞆(たかとも)をつけ、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を持ち、八目鳴鏑(やつめのかぶら)も一緒に持ち、また頭槌劒(かぶつちのつるぎ)を帯びて、天孫の前に立って進み降り、日向の襲之高千穂(そのたかちほ)の?日(くしひ)の二上峯(ふたがみのたけ)に着き、そこから天浮橋で浮島に降り立ち、『膂宍空國メモ090013』、日田尾から国(土地の状況)を調べながら進み、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狹之御碕(かささのみさき)に降り立った。  そこに~がおり、名を事勝國勝長狹(ことかつくにかつながさ)と言う。天孫が「国があるか」と尋ねると、「あります。意のままに奉ります」と答えたので、そこに留まった。  事勝國勝長狹は伊弉諾尊(いざなきのみこと)の子である。またの名は塩土老翁(しほつちのをぢ、しほつつのをぢ)と云う。 第九段 第五節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天孫は大山祇~の娘の吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)を娶った。一夜にして身籠り、四人の子を生んだ。吾田鹿葦津姫は子を抱いてやって来て、「天~の子を私一存で育てられませんので、ご相談に参りました」と言った。天孫はその子たちを見て、「なんと、我が子がこんなにも生まれたか」と冷やかに言ったので、吾田鹿葦津姫は怒り、「どうして私を嘲(あざけ)るのですか」と尋ねられた。天孫は「すっきりしないから怪しんでいるのだ。天~の子と云っても、一夜にして身籠らせることができるだろうか。本当は私の子ではあるまい」と答えた。吾田鹿葦津姫は一段と恨みに思い、出口のない屋(むろ)を作って入り、祈(うけい)して、「私が生んだ子が天~の子でなければ、焼け死ぬでしょう。しかし、天~の子であれば、害を受けることはないでしょう」と言って、屋に火を点けた。  最初に火が明るくなりはじめた時に元気に出てきた子が「私は天~の子、名は火明命(ほのあかりのみこと)。我が父はどこにおられますか」と言った。次に、火が燃え盛った時に元気に出てきた子が「私は天~の子。名は火進命(ほのすすりのみこと)。我が父と兄はどこにおられますか」と言った。次に、炎が衰えた時に元気に出てきた子が「私は天~の子。名は火折尊(ほのをりのみこと)。我が父と兄たちはどこにおられますか」と言った。次に、火の熱が鎮まった時に元気に出てきた子が「私は天~の子。名は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。我が父と兄たちはどこにおられますか」と言った。その後、母の吾田鹿葦津姫が焼け跡から出て来て、「私が生んだ子も私の身も火の難(わざはひ=禍)にあいましたが、少しも害を受けませんでした。天孫は見られました」と言うと、天孫は「私は最初からこの子らが我が子であると判っていた。しかし、一夜にして身籠ったことを疑う者もいるだろうと思って、この子らが我が子であり、天~は一夜にして身籠らせることができるのだと人々に教えようと思ったのだ。あなたは優れた力を持っており、子たちも人を超えた気を持っていることを明らかにしようと思ったのだ。そのため、先日はあのように言ったのだ」とおっしゃった。  梔、これを波茸(はじ)と云う。音は之移の反(かへし、メモ050017)。頭槌、これを箇歩豆智(かぶつち)と云う。老翁を烏膩(をぢ、メモ090501)と云う。 第九段 第六節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  天忍穂根尊(あまのおしほねのみこと)は、高皇産靈尊の娘の栲幡千千姫萬幡姫命(たくはたちぢひめよろづはたひめのみこと、メモ090601)、ある話では、高皇産靈尊の子の『火之戸幡姫兒千千姫命(火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の子の千千姫命(ちぢひめのみこと)、メモ090602)と云う、を娶り、天火明命(あまのほのあかりのみこと)を生んだ。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)を生んだ。天火明命の子の天香山(あまのかぐやま、メモ090603)が尾張連等の遠祖である。  皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原中國に天降らせる時に、高皇産靈尊は多くの~々に「葦原中國は磐根・木株・草葉までもがものを言う。夜は火の粉のようにやかましく、昼は蝿のように騒がしい」と言った。云々  高皇産靈尊は「昔、天稚彦(あめのわかひこ)を葦原中國に遣わしたが、今に至るまで永らく戻って来ないのは、國~が抵抗しているからだろうか」と言い、無名雄雉(ななしのをきぎし)を物見に遣わした。雉は降りて粟畑や豆畑に留まって帰らなかった。これが世に言う、雉頓使(きぎしのひたつかひ)の謂れである。  そこで、無名雌雉(ななしのめきぎし)を遣わした。この雉は降りて、天稚彦に射られて、その矢が天上に戻って報告をした。云々  高皇産靈尊は真床覆衾(まとこおふふすま)を皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲を押し分けて、天降らせた。そこで、この~を天國饒石彦火瓊瓊杵尊(あめ くに にぎ し ひこほのににぎのみこと)と言う。天降った所を日向の襲之高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)と言う。そこから先に進む時。云々  吾田(あた)の笠狹之御碕(かささのみさき)に着き、長屋(ながや)の竹嶋(たかしま)に登って、周りを見渡すと、人がいた。名を事勝國勝長狹(ことかつくにかつながさ)と言う。天孫が「ここは誰の国か」と尋ねると、「ここは長狹(ながさ)の住む国ですが、今、天孫に奉ります」と答えた。天孫が「あの波が寄せている処に大きな屋敷を建てて、手玉(ただま=腕輪)をゆらゆらさせながら機(はた)を織っている少女(をとめ)は誰の娘か」と尋ねると、「大山祇~の娘たちで、姉を磐長姫(いはながひめ)と言い、妹を木花開耶姫(このはなのさくやひめ)、またの名は豊吾田津姫(とよあたつひめ)と言います」と答えた。云々  皇孫が豊吾田津姫を召されると、一夜にして身籠った。皇孫は疑った。云々  そして、火酢芹命(ほのすせりのみこと)を生んだ。次に、火折尊(ほのおりのみこと)を生んだ。またの名は彦火火出見尊と言う。母の祈(うけい)が、皇孫(すめみま)の子であると証明したが、母の豊吾田津姫は皇孫を恨んで口をきかなかったので、皇孫は寂しくなり歌を詠んだ。 原文 「憶企都茂播 陛爾播?戻耐母 佐禰耐據茂 阿黨播怒介茂? 播磨都智耐理?」 訓み 「沖(おき)つ藻(も)は 邊(へ)には寄(よ)れども さ寝床(ねどこ)も 与(あた)はぬかもよ 濱(はま)つ千鳥(ちどり)よ」 訳 「沖の藻は浜辺に打ち寄せられるのに、愛しき妻は私に寝床も許して呉れない。浜の千鳥よ(あなたたちが羨ましいよ)」  ?火、これを褒倍(ほほ)と云う。喧響、これを淤等娜比(おとなひ)と云う。五月蠅、これを左魔倍(さばへ)と云う。添山、これを曾褒里能耶麻(そほりのやま)と云う。秀起、これを左岐陀豆屡(さきたつる)と云う 第九段 第七節メモ090701 原文 「一書曰高皇産靈尊之女天万栲幡千幡姫一云高皇産靈尊兒万幡姫兒玉依姫命此神為天忍骨命妃生兒天之杵火火置瀬尊一云勝速日命兒天大耳尊此神娶丹?姫生兒火瓊瓊杵尊一云神高皇産靈尊之女栲幡千幡姫生兒火瓊瓊杵尊一云天杵瀬命娶吾田津姫生兒火明命次火夜織命次彦火火出見尊」 訳 「 一書(あるふみ)には次のように伝えている。  {1 高皇産靈尊の娘の天萬栲幡千幡姫(あまのよろづたくはたちはたひめ) 1}{1 ある話では、高皇産靈尊の子の萬幡姫(よろづはたひめ)の子の玉依姫命(たまよりびめのみこと)メモ090702と云う 1}が天忍骨命の妃(みめ)となって、{2 天之杵火火置瀬尊(あまのきほほおきせのみこと)を生んだ 2}。 {2 ある話では、勝速日命(かちはやひのみこと)の子の天大耳尊(あまのおほみみのみこと) 2}が、丹?姫(にくつひめ)を娶って、{3 火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと) 3} を生んだと云う。 ある話では、{1 ~皇産靈尊(かむみむすひのみこと)の娘の栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ) 1}が{3 火瓊瓊杵尊 3}を生んだと言う。 ある話では、{2 天杵瀬命(あまのきせのみこと) 2}が吾田津姫(あたつひめ)を娶って、火明命(ほのあかりのみこと)を生み、次に火夜織命(ほのよりのみこと)、次に{3 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) 3}を生んだと云う。」 第九段 第八節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)が高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)の娘の天萬栲幡千幡姫(あまのよろづたくはたちはたひめ)を娶って妃とし、天照國照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと)を生み、尾張連等(をはりのむらじら)の遠祖である。次に天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめ にぎ し くに にぎ し あま つ ひこ ほ の に に ぎ の みこと)を生む。この~が大山祇~の娘の木花開耶姫命を娶って妃とし、火酢芹命(ほのすせりのみこと)、次に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだ。 古事記 原文(第十段相当) 故 火照命者 爲海佐知毘古此四字以音 下效此而 取鰭廣物鰭狹物 火遠理命者 爲山佐知毘古而 取毛麁物毛柔物 爾火遠理命 謂其兄火照命 各相易佐知欲用 三度雖乞 不許 然遂纔得相易 爾火遠理命 以海佐知釣魚 都不得魚一魚 亦其鉤失海 於是其兄火照命 乞其鉤曰 山佐知母 己之佐知佐知 海佐知母 已之佐知佐知 今各謂返佐知之時佐知二字以音 其弟火遠理命答曰 汝鉤者 釣魚不得一魚 遂失海 然其兄強乞徴 故 其弟破御佩之十拳劔 作五百鉤 雖償不取 亦作一千鉤 雖償不受 云猶欲得其正本鉤 於是其弟 泣患居海邊之時 鹽椎~來 問曰 何虚空津日高之泣患所由 答言 我與兄易鉤而 失其鉤 是乞其鉤故 雖償多鉤不受 云猶欲得其本鉤 故 泣患之 爾鹽椎~ 云我爲汝命 作善議 即造无間勝間之小船 載其船以教曰 我押流其船者 差暫往 將有味御路 乃乘其道往者 如魚鱗所造之宮室 其綿津見~之宮者也 到其~御門者 傍之井上 有湯津香木 故坐其木上者 其海~之女 見相議者也訓香木云加都良 故 隨教少行 備如其言 即登其香木以坐 爾海~之女 豐玉毘賣之從婢 持玉器將酌水之時 於井有光 仰見者 有麗壯夫訓壯夫云遠登古 下效此 以爲甚異奇 爾火遠理命 見其婢 乞欲得水 婢乃酌水 入玉器貢進 爾不飮水 解御頸之? 含口唾入其玉器 於是其?著器 婢不得離? 故 ?任著以 進豐玉毘賣命 爾見其? 問婢曰 若人有門外哉 答曰 有人坐我井上香木之上 甚麗壯夫也 益我王而甚貴 故 其人乞水故 奉水者 不飮水 唾入此? 是不得離 故 任入將來而獻 爾豐玉毘賣命 思奇 出見 乃見感 目合而 白其父曰 吾門有麗人 爾海~自出見 云此人者 天津日高之御子 虚空津日高矣 即於内率入而 美智皮之疊敷八重 亦?疊八重敷其上 坐其上而 具百取机代物 爲御饗 即令婚其女豐玉毘賣 故至三年 住其國 於是火遠理命 思其初事而 大一歎 故 豐玉毘賣命 聞其歎以 白其父言 三年雖住 恆無歎 今夜爲大一歎 若有何由 故 其父大~ 問其聟夫曰 今旦聞我女之語 云三年雖坐 恆無歎 今夜爲大歎 若有由哉 亦到此間之由奈何 爾語其大~ 備如其兄罰失鉤之状 是以海~ 悉召集海之大小魚 問曰 若有取此鉤魚乎 故 諸魚白之 頃者 赤海?魚 於喉? 物不得食愁言 故 必是取 於是探赤海?魚之喉者 有鉤 即取出而 清洗 奉火遠理命之時 其綿津見大~ 誨曰之 以此鉤 給其兄時 言状者 此鉤者 淤煩鉤 須須鉤 貧鉤 宇流鉤 云而 於後手賜淤煩及須須 亦宇流六字以音 然而其兄 作高田者 汝命營下田 其兄作下田者 汝命營高田 爲然者 吾掌水故 三年之間 必其兄貧窮 若恨怨其爲然之事而 攻戰者 出鹽盈珠而溺 若其愁請者 出鹽乾珠而活 如此令惚苦云 授鹽盈珠 鹽乾珠 并兩箇 即悉召集和邇魚問曰 今天津日高之御子 虚空津日高 爲將出幸上國 誰者 幾日送奉而覆奏 故 各隨己身之尋長 限日而白之中 一尋和邇白 僕者一日送 即還來 故 爾告其一尋和邇 然者汝送奉 若渡海中時 無令惶畏 即載其和邇之頸 送出 故 如期一日之内送奉也 其和邇將返之時 解所佩之紐小刀 著其頸而返 故 其一尋和邇者 於今謂佐比持~也 是以備如海~之教言 與其鉤 故 自爾以後 稍兪貧 更起荒心迫來 將攻之時 出鹽盈珠而令溺 其愁請者 出鹽乾珠而救 如此令惚苦之時 稽首白 僕者自今以後 爲汝命之晝夜守護人而仕奉 故至今 其溺時之種種之態 不絶仕奉也 於是海~之女 豐玉毘賣命 自參出白之 妾已妊身 今臨産時 此念 天~之御子 不可生海原 故 參出到也 爾即於其海邊波限 以鵜羽爲葺草 造産殿 於是其産殿 未葺合 不忍御腹之急 故 入坐産殿 爾將方産之時 白其日子言 凡佗國人者 臨産時 以本國之形産生 故 妾今以本身爲産 願勿見妾 於是思奇其言 竊伺其方産者 化八尋和邇而 匍匐委蛇 即見驚畏而遁退 爾豐玉毘賣命 知其伺見之事 以爲心恥 乃生置其御子而 白妾恆通海道 欲往來 然伺見吾形 是甚?之 即塞海坂而返入 是以名其所産之御子 謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命訓波限云那藝佐 訓葺草云加夜 然後者 雖恨其伺情 不忍戀心 因治養其御子之縁 附其弟玉依毘賣而 獻歌之 其歌曰  阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理 爾其比古遲三字以音 答歌曰  意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇 故 日子穂穂手見命者 坐高千穂宮 伍佰捌拾歳 御陵者 即在其高千穂山之西也 訳  火照命(ほでりのみこと)は海佐知毘古此四字以音 下效此(うみさちひこ=漁師)として、海の大小の魚を獲り、火遠理命(ほをりのみこと)は山佐知毘古(やまさちひこ=猟師)として、いろいろな獣(けもの)を獲っていた。  火遠理命が兄の火照命に「それぞれの佐知(さち=幸=(恵を得る)道具)を取り替えてみましょう」と三度お願いしてもダメだったが、やっと、わずかな間だけ交換することができた。しかし、火遠理命が海佐知(うみさち=釣針)で魚を釣ろうとしたが、ただの一匹の魚も獲れず、おまけに釣針を海に失ってしまった。  兄の火照命が「山佐知(やまさち=弓矢)も海佐知もそれぞれの幸だから、それぞれ幸を元に戻そう佐知二字以音」と自分の釣針を求めると、弟の火遠理命は「あなたの釣針で魚を釣ろうとしたが一匹の魚も獲れず、おまけに釣針を海で失ってしまいました」と答えた。しかし、兄は自分の釣針をどうしても返せと言い張ったので、帯びていた十拳劔で五百本の釣針を作って償(つぐな)おうとしたが受け取ってもらえず、一千本の釣針を作って償おうとしても受け取ってもらえなかった。兄は「どうしても自分の釣針が欲しい」と言い張った。  弟が泣き悩んで海辺にいると、鹽椎~(しおつちのかみ)が来て、「虚空津日高(そらつひこ、メモ100001)が泣き悩んでおられるのはどうしてか」と尋ねたので、「私と兄とで佐知(幸)を交換して、兄の幸の釣針を失いました。兄が自分の釣針を返せと求められたので、沢山の釣針で償おうとしましたが、受け取って貰えず、兄が持っていた釣針を返せと言うので、泣き悩んでいるのです」と答えた。すると、鹽椎~は「私があなた様のために良い計(はか)らいをしましょう」と言って、尤間勝間之小船(まなしかつまのをぶね、メモ100002)を造り、その船に乗せて、「私がこの船を押し出しますから、暫くはそのまま進むに任せてください。よい潮路がありますから、その流れに乗って進めば、魚の鱗のように屋根を葺いた宮があり、それが綿津見~(わたつみのかみ=海~)の宮です。海~の門に着いたら、門の近くにある井戸の傍の香木香木を加都良(かつら)と云う(=桂)の木があるので、その木の上にいれば、海~(わたつみのかみ)の娘が見つけて好いようにしてくれるでしょう」と教えた。  教えられた通りに少し進むと、すべてがその言葉通りであったので、桂の木に登った。そこに海~の娘の豊玉毘賣(とよたまびめ)の侍女が玉器(たまもひ)を持って水を汲みに来て、井戸に影を見つけた。上を見ると麗壯夫壯夫を遠登古(をとこ)と云う 下效此(えをとこ=立派な男)がいたので、とても不思議に思った。火遠理命が水を求められたので、侍女は水を汲んで玉器に入れて差しあげた。しかし、水を飲まずに、首飾りの?(たま)を解いて口に含み、玉器に吐き入れると、?は器にくっついてしまった。侍女は?を離すことができなかったので、?をつけたまま豊玉毘賣命に差し上げた。?を見て「門の外に人がいるのですか」と尋ねると、「人がいます。井戸の傍の桂の木の上にいます。とても立派な男の方です。我が王にも益してとても貴い方です。その方が水をお求めになられたので差し上げますと、飲まずに器に?を吐き入れられました。その?を除くことができないので、そのまま持って参りました」と答えた。そこで、豊玉毘賣命は不思議なことだと思い、出て見るなり一目惚れして、父に「門に立派な方がおられます」と申し上げると、海~自(みづか)ら出て御覧になり、「あの方は天津日高之御子(あまつひこのみこ)だ。虚空津日高(そらつひこ)だ」と言って中に連れて入り、美智皮(みちのかは=海驢(みち=アシカ)の皮)の敷物を何枚も敷き、その上に何枚もの絹の敷物を敷いて、その上に座らせ、多くの品物でもてなして、娘の豊玉毘賣と結婚させた。そして三年の間住まわれた。  ある日、火遠理命(ほをりのみこと)は、海~の宮に来た目的を思い出して、大きな溜息をついた。豊玉毘賣命は、その溜息を聞かれて、父に「三年住んで居られて一度も溜息をつくことはありませんでしたが、昨夜大きな溜息をつかれました。何か理由があるのでしょうか」と申し上げた。その為、大~が婿に「今日の朝の娘の話では、「三年居られて一度も溜息をつくことがなかったのに、昨夜大きな溜息をつかれた」と言う。何か訳がおありなのですか。ここにやってこられた訳は何なのですか」と尋ねた。そこで、兄の佐知(幸=釣針)を失い、それを返せと迫られた様子を詳しく話した。  そこで、海~は、海の大小の魚をすべて呼び集めて、「釣針を取った魚はいるか」と尋ねると、「この頃、赤海?魚(たひ=鯛)が喉に骨が刺さって物が食べられないと嘆いていますので、きっと鯛が取ったのでしょう」と申し上げた。鯛の喉を調べてみると、釣針があったので、取り出して洗い清め、火遠理命にお返しした。その時、綿津見大~は「この釣針を兄さんに返す時に「此鉤者 淤煩鉤 須須鉤 貧鉤 宇流鉤淤煩及須須 亦宇流六字以音、 メモ100003」と言って、片手を後ろに回してお返しください。もし、兄さんが高い処に田んぼを作ったなら、あなたは低い処に田んぼを作り、兄さんが低い処に田んぼを作ったなら、あなたは高いところに田んぼをお作りください。そうすれば、私は水を自在に操れるので、三年間できっと兄さんは貧しくなるでしょう。もし、このことを怨みに思って兄さんが怒って来られたら、鹽盈珠(しほみつたま)と鹽乾珠(しほひるたま)を差し上げますので、鹽盈珠を出して溺れさせ、助けを求めたら、鹽乾珠を出して助けてあげてください。このようにして悩み苦しませなさい」と教えて、鹽盈珠と鹽乾珠塩とをお渡しした。  すべての和邇魚(わに=サメ・フカ)を呼び集めて、「天津日高之御子である虚空津日高様が海上の国(=葦原中國)にお戻りになる。何日で送り申して報告に戻れるか」と尋ねると、それぞれ身の丈(たけ)に応じて日数を申し上げる中で、一尋和邇(ひとひろわに)が「私なら一日でお送りして、帰って来ます」と申し上げた。そこで、その一尋和邇に、「それならば、あなたが送って差し上げなさい。海中では決して怖がらせてはならないぞ」と言って、和邇(わに)の首に御子を乗せて送り出した。約束通りに一日でお送り申し上げた。和邇が帰ろうとした時、御子は腰につけていた紐の付いた小刀を和邇の首に付けて返された。この一尋和邇は、今、佐比持~(さひもちのかみ)と云う。  その後、海~の教え通りに釣針を兄に渡した。すると、兄は段々貧しくなって、遂に怒って遣ってきた。暴力を振るう時には鹽盈珠を出して溺れさせ、助けを求めたら鹽乾珠を出して救った。このように悩み苦しめ続けると頭を下げて、「これから後、私は、あなた様の守護人(まもりびと)としてお仕えいたします」と申し上げた。その為、今に至るまで、溺れた時の様々な仕種を演じて、仕えている。  海~の娘の豊玉毘賣命が自ら遣ってきて、「私は身籠っており、出産の時となりました。天~の御子は海原で生むべきではありませんので出向いて来ました」と申し上げた。そこで、渚に鵜の羽で葺(ふ)いた産屋を造ったが、まだ葺き終わらないうちに急に陣痛が耐えられなくなり、産屋に入った。出産間際に、「異郷(いきょう)のものは、出産の時になると本國(もとつくに)の姿になって産みます。私も本来の姿になって産みますので、お願いですから、私を見ないで下さい」と申し上げた。その言葉に興味をもたれて、出産時の姿を覗き見ると、八尋和邇(やひろのわに=大きなワニ)の姿で這い回って身をくねらせていたので、驚き恐れて逃げ出された。豊玉毘賣命は覗き見られた事を知って、恥ずかしく思い、御子を置いたまま「私は海の道を通って行き来しようと思っていました。けれども、私の本当の姿を覗き見られて、恥をかきました」と申し上げるや否や海と陸との界(さかい)を閉じて帰られた。かような訳で、産まれた御子の名を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命訓波限云那藝佐 訓葺草云加夜(あま つ ひ こ ひ こ なぎさ たけ う がや ふき あへず の みこと)と云う。  その後、覗き見した心根を恨んだけれど、恋しい心には耐えられず、御子を育てるために妹の玉依毘賣(たまよりびめ)に託して、歌を差し上げた。 原文 「阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理」 訓み 「赤玉(あかだま)は 緒(を)さへ光(ひか)れど 白玉(しらたま)の 君(きみ)が装(よそひ)し 貴(たふと)くありけり」 訳 「赤い玉は緒さえ光りますが、白い玉のようなあなたの装いは貴くていらっしゃいます」  夫がそれに答えて詠んだ。 原文 「意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇」 訓み 「沖つ鳥 鴨どく島に 我が率寝(ゐね)し 妹(いも)は忘れじ 世のことごとに」 訳 「鴨の飛んで来る遠い島で、共寝(ともね)したあなたのことは、決して忘れないよ。生きている限り」  日子穂穂手見命は高千穂宮で五百八十年間を過ごされた。御陵(みささぎ)は高千穂山の西にある。 日本書紀 第十段 本文  兄の火闌降命(ほのすそりのみこと)には海幸(うみさち、うみのさち)幸、これを左知(さち)と云うの力があり、弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)には山幸(やまさち、やまのさち)の力があった。兄弟二人は「ためしに幸(=道具)を交換しよう」と言って幸を取り換えたが、どちらも獲物を得ることができなかった。兄は悔やんで弟の弓矢(=幸)を返し、自分の釣針(つりばり=幸)を求めた。しかし、弟は兄の釣針を失ってしまい、見つけ出せないでいた。そこで、新しい釣針を作って兄に渡したが、兄は受け取らず、元の自分の釣針を求めた。弟は悩んで自分の刀で新しい釣針をいっぱい作って兄に渡したが、兄は怒って、「私の元々の釣針でなければ、数が多くても受け取らない」と言って、激しく責め立てた。  その為、彦火火出見尊が、大変悩み苦しまれて海辺をさまよっていると、鹽土老翁(しほつちのをぢ)と出会った。老翁(をぢ)が「どうしてこんなところで悩(なや)んでおるのか」と尋ねたので、正直に事情を説明した。老翁は「心配することはない。私があなたのために段取りをしましょう」と言って、無目籠(まなしかたま、まなしこ、メモ100004)を作って、彦火火出見尊をその籠(こ、かご)の中に入れて海に沈めた。すると、おのずと『有可怜小汀可怜、これを于麻師(うまし)と云う。汀、これを波麻(はま)と云う(うましをはま=美しい小浜)』に着いた。そこに籠を捨てて進むと、すぐに海~(わたつみ)の宮に着いた。宮には立派な垣根が巡らされ、御殿は光り輝いていた。門の前には井戸が1つあり、井戸のほとりに立派なよく茂った桂の木があった。彦火火出見尊がその桂の近くに居ると、しばらくして一人の美人(をとめ)が宮の扉を開けて出て来たて、玉鋺(たまのまり)で水を汲もうとした時、目が合った。娘は驚いて戻り、父母に「一人の珍しい人が門の前の樹の下にいます」と申し上げた。海~(わたつみ)は、畳を重ね敷きにして、そこに尊を座らせ、ここに来た理由を尋ねた。彦火火出見尊は事情を正直に話すと、海~は大小のすべての魚を集めて尋ねた。皆は「知りませんが、ただ赤女(あかめ)赤女は鯛の名であるが近頃、口に怪我をして、来ていません」と答えた。呼んでその口を探すと、予想どおり失った釣針があった。  かようにして、彦火火出見尊は海~の娘の豊玉姫(とよたまびめ)を娶り、海宮(わたつみのみや)に留まって三年が過ぎた。  安らかで楽しい日々であったが、やはり故郷を思う心が募り、大きな溜息(ためいき)をつかれた。それを聞いた豊玉姫は、父に「天孫は、悲しそうにしばしば溜息をつかれます。もしかして、陸地を思って寂しいのではないでしょうか」と語った。海~は彦火火出見尊に「天孫がもし国に帰りたいとお思いなら、私が送って差し上げよう」と穏やかに語った。そして、見つけ出した釣針をお返しして、「この釣針をあなたの兄さんに渡す時に、分からないように、この釣針に「貧鉤(まぢち)」と言ってから、渡しなさい」と教えた。また、潮満瓊(しほみちのたま)と潮涸瓊(しほひのたま)をお渡しして、「潮満瓊を海に浸ければ潮がたちまち満ちるので、これで兄さんを溺れさせなさい。兄さんが後悔して助けを求めたら、潮涸瓊を水に浸けると潮が自然と引くので、助けてあげなさい。このようして攻めて悩ませれば、兄さんもあなたに従ってくるでしょう」と教えた。帰ろうとする時に豊玉姫は天孫(あめみま)に「私は妊娠していて、もうすぐ産まれます。波風の速い日に浜辺に出向きますので、どうか私のために産屋を作って待っていてください」と申し上げた。  彦火火出見尊は元の宮に帰り、海~の教えどおりに行った。すると、兄の火闌降命(ほのすそりのみこと)は、困り果てて「今より後は、あなたの俳優之民(わざのたみ、メモ100005)となります。どうか、助けてください」と言った。そこで、願いの通りに許した。火闌降命は、吾田君小橋等(あたのきみ をはしら)の本祖(とほつおや)である。  その後、豊玉姫は、前の約束どおりに妹の玉依姫(たまよりびめ)を連れて、波風に逆らって海辺にやって来た。出産する時に、「出産の時はどうか見ないでください」とお願いした。天孫は我慢できず、こっそり様子を覗くと、豊玉姫は出産に際して龍の姿になっていた。見られたことを恥じて、「もし、私を辱しめることがなかったら、海と陸とは通い合って、永久に閉ざされることはなかったでしょう。しかし、辱しめを受けてしまったので、仲睦まじく心を通わせることができなくなりました」と言って、萱(かや)でその子を包んで海辺に捨て、海への道を閉ざしててすぐに帰って行った。そこで、その子の名を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこ なぎさ たけ う かや ふき あへず の みこと)と言う。  久しき後、彦火火出見尊が崩御されて、日向の高屋山上陵(たかやのやまのうへのみささぎ)に埋葬申し上げた。 第十段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  兄の火酢芹命(ほのすせりのみこと)は上手に海の幸を得て、弟の彦火火出見尊は上手に山の幸を得ていた。ある時、兄弟で互いの道具を取り換えようと思った。兄は弟の幸弓(さちゆみ)を持ち、山に入って獣を探したが、足跡さえ見つけらてなかった。弟も兄の幸釣(さちち=釣針)を持ち、海に行って釣りをしたが、全く釣れず、しかも釣針を失ってしまった。幸を返す時、兄は弟の弓矢を返して自分の釣針を求めると、弟は悩んで刀で釣針をたくさん作り、兄に渡した。しかし、兄は「やはり自分の釣針が欲しいのだ」と受け取らなかった。彦火火出見尊は、どこを探していいかもわからず、落ち込んで海辺で座り込んでいると、一人の老人がやってきた。老人は、鹽土老翁(しほつちのをぢ)と名乗り、「どうしてふさぎ込んでいるのか」と尋ねたので、彦火火出見尊は事情を正直に話した。老翁は、袋の中の黒櫛を取りだし、地面に投げつけると、竹林になり、その竹で大目麁籠(おほまあらこ、メモ100101)を作り、その中に火火出見尊を入れて海に投げ入れた。ある話では、無目堅間(まなしかたま、メモ100101)で木舟を作り、細い縄で彦火火出見尊を結びつけて沈めた。堅間(かたま)と言うのは、今の竹の籠(こ)のことである、と云う。  海の底に美しい小浜があり、浜に沿っていくと、すぐに海~(わたつみ)の豊玉彦(とよたまびこ)の宮に着いた。宮には大きな美しい城門があり、宮殿は美しかった。門の外に井戸があり、井戸のほとりに桂の木があった。桂の木に持たれて立っていると、しばらくして一人の美人(をとめ)が現れた。容貌絶世で、侍女たちを大勢従えて出てきた。玉壺(たまのつぼ)に水を汲もうとして、彦火火出見尊を見つけた。驚いて宮殿に戻り、父に「門の前の井戸のほとりの木の下に、一人の立派な方が居られます。漂うものは普通ではありません。天から降りてきたなら、天垢(てまのかほ=天の雰囲気)があるはずですし、地上から来たのなら、地垢(つちのかほ=地上の雰囲気)があるはずですが、本当に不思議なかたです。虚空彦(そらつひこ、メモ100001)と云う方でしょうか」と申し上げた。 {ある話では、豊玉姫(とよたまひめ)の侍女が玉瓶(たまのつるべ)で水を汲もうとしたが、釣瓶(つるべ)が一杯にならなかったので、中を覗き込むと、人が笑っているのが見えた。見上げると、一人の美しい~が桂の木に寄り掛かっていた。そこで、戻って王(きみ)にそのことを申し上げた、と云う。}  そこで、豊玉彦が人を遣わして、「あなたは何者か。どうしてここにやって来たのか」と尋ねると、火火出見尊は「私は天~の孫である」と答えて、ここに来た理由を話した。海~は出迎えて、恭(うやうや)しくお仕えし、娘の豊玉姫を妻とさせた。海の宮での生活が三年過ぎた。  火火出見尊はしばしば溜息をつくことがあり、豊玉姫が「もしや故郷に帰りたいとお思いですか」と尋ねると、「そうだ」と答えた。豊玉姫が父に「高貴な方は上國(うはつくに=地上)に帰りたいと思っておられます」と申し上げた。海~が、すべての海の魚を集め、釣針を探すと、一尾の魚が「赤女(あかめ)が長いこと口に怪我をしています。ある話では、赤鯛、と云う。もしやこれが呑んだのではないでしょうか」と言った。赤女を呼んで口の中を見ると、釣針が口の中にあった。釣針を取って、彦火火出見尊に渡し、「釣針を兄さんに渡す時に、「『貧窮之本(まぢのもと)・飢饉之始(うゑのはじめ)・困苦之根(くるしみのもと)』」と言ってから渡してください。また、あなたの兄さんが海に出ようとした時には、私が必ず波風を起こして溺れさせましょう」と教えた。そして火火出見尊を大鰐(おほわに)に乗せて故郷に送り届けた。  これより前、別れる時に、豊玉姫は「私はすでに身籠っています。波風の速い日に海辺に参りますので、どうか私のために産屋を作って待っていてください」とお願いした。その後、豊玉姫は言葉通りにやって来て、火火出見尊に「私は今夜、子を産みます。どうか見ないでください」と申し上げた。火火出見尊はそれを聞き容れずに、櫛に火を灯して覗き見た(メモ100102)。豊玉姫は八尋大熊鰐(やひろのわに)に姿を変え、くねくねと這い回っていた。辱(はずか)しめを受けたことを恨み、直ぐに海の国に帰り、妹の玉依姫(たまよりびめ、メモ100103)を留めて、子を育てさせた。  子の名を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と云う訳は、浜辺の産屋をすべて鵜の羽で草(かや)のように葺(ふ)こうとしたのに、甍(いらか=屋根)が葺き終えないうちに子が生まれたので、名付けたのである。  上國、これを羽播豆矩?(うはつくに)と云う 第十段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  門の前に井戸が一つあり、井戸の近くにたくさんの枝葉が茂った桂の木があり、その桂の木に彦火火出見尊は登り立った。そこに、海~の娘の豊玉姫が玉鋺(たまのまり)を持ってやって来て、水を汲もうとして井戸の中を見ると、人影が映っていたので仰ぎ見て驚き、鋺を落とした。鋺は砕け散ったが、かまわずに戻り、父母に「井戸の近くの木の上に人がいるのを見ました。美男子で気品があります。きっと普通の人ではありません」と語った。父は不思議に思い、畳を重ね敷いて迎え入れ、座についてから、来られた理由を尋ねた。事情を正直に話すと、海~は気の毒だと思って、大小の魚をすべて集めて尋ねた。皆は「知りませんが、ただ、赤女(あかめ)だけが口に怪我をしていて来ていません」と言った。ある話では、口女(くちめ)が口に怪我(けが)をしていた、と云う。急いで呼び寄せて、口の中を探すと失った釣針が見つかった。そこで、海~は「口女(くちめ、メモ100201)よ。これから先、おまえは餌を飲み込んではならない。また天孫の食卓には乗せない」と禁じた。口女を天皇の御膳に出さないのは、これが謂れである。  彦火火出見尊が帰ろうとする時になり、海~は「このたび、天~の孫が私のところにおいでになられたことは、心からの慶びであり、いつまでも忘れないでしょう」と申し上げた。そして、潮溢之瓊(しほみちのたま)と潮涸之瓊(しほひのたま)を釣針とともに奉り、「皇孫よ。どんなに遠く離れていようとも、どうか時には思い出して、忘れないでください」と言い、更に「この釣針をあなたの兄さんに渡す時に、「『貧鉤(まぢち)・滅鉤(ほろびち)・落薄鉤(おとろへち)』」と言ってから、後に投げ捨てて渡しなさい。面と向かって渡してはいけません。もし、兄さんが怒って害を及ぼそうとしたら、潮溢瓊で溺れさせなさい。苦しんで救いを求めたら、潮涸瓊で救ってあげなさい。このように攻めて悩ませれば、自然と従ってくるでしょう」と教えた。  彦火火出見尊はその玉と釣針とを受け取り、元の宮に帰って来た。そして、海~の教えた通りに、まず釣針を兄に渡した。しかし、兄は怒って受け取らなかった。そこで、弟の彦火火出見尊が潮溢瓊を出すと潮が満ちて、兄は溺れてた。兄が「あなたに仕えて奴僕(しもべ)となります。どうか助けてください」と救いを求めた。弟が潮涸瓊を出すと潮は自然と引き、兄は助かった。すると、兄は前言を翻して、「私はおまえの兄だ。どうして兄でありながら弟に仕えるのか」と言った。弟は潮溢瓊を出すと、兄はこれを見て高い山に逃げ登ったが、潮は山も沈め、高い木に登っても、潮は木も沈めた。兄は追い詰められて逃げ場もなくなり、過ちを認めて、「私は間違っていました。これから後は、私の『子孫八十連屬(うみのこのやそつつき=子々孫々)』までもあなたの俳人(わざひと)となります。ある話では、狗人(いぬひと、メモ100202)と云う。どうか、憐れんでください」と言った。弟が潮涸瓊を出すと潮は自然と引いた。兄は、弟には不思議な能力があることを知り、弟の家臣となった。こういう訳で、火酢芹命(ほのすせりのみこと)の末裔の隼人(はやと)らは、今に至るまで天皇の宮に居て、『代吠狗而奉事者也(代(よよ)に吠(ほ)ゆる狗(いぬ)にして奉事者(つかへまつるもの)なり=代々、儀式の際の厄払いの音頭(吠声)を執る役目を果たしているのである)』。世の人が失った釣針を催促しないのは、これが謂れである。 第十段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  兄の火酢芹命(ほのすせりのみこと)は海幸を得る能力が優れていたので海幸彦と呼ばれ、弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)はよく山幸を得る能力が優れていたので山幸彦と呼ばれた。兄は風雨のたびに幸(=獲物)を得られなかったが、弟は風雨であっても幸を得られた。ある時、兄が弟に「ためしにおまえと道具を取り換えようと思うが」と語り、弟も賛成した。そこで、兄は弟の弓矢を持って、山に入って獣(けもの)を狩り、弟は兄の釣針を持って、海に入って魚を釣ったが、ともに獲物を得られず、手ぶらで帰って来た。兄は弟の弓矢を返し、自分の釣針を求めたが、弟はすでに釣針を海で失っていて、見つけることができなかった。そこで、新しい釣針を数千本も作って渡したが、兄は怒って受け取らず、どうしても自分の釣針を返せと言った。云々。  弟が浜辺でしょんぼり歩いていると、川雁(かわかり)が罠に掛かって苦しんでいたので、哀れに思い、罠を解いて放してやった(メモ100301)。暫らくして、鹽土老翁(しほつちのをぢ)が現れて、無目堅間(まなしかたま)の小舟を作り、火火出見尊を乗せて海へと押し出した。小舟は自然と沈み、良い海流に乗り、流れのままに進むと、海~の宮に着いた。海~が自ら出迎え、海驢(みち)の皮を重ね敷いて座らせ、多くの品々でもてなして、主人としての礼を尽くした。それから徐(おもむろ)に「天~の孫がどのような訳で来られたのでしょうか」と尋ねた。ある話では、「この頃、我が子が「天孫が浜辺で悩んでいると言っていますが、本当のことかどうかは分かりません」と言っていましたが、本当でしょうか」と尋ねた、云う。彦火火出見尊は詳しく正直に話した。そして、そこに住んで、海~の娘の豊玉姫を妻とし、『纒綿篤愛(むつまやかに にたしみて(うつくしみて)=睦まじく愛し合い』、三年の月日が過ぎた。  帰る時になって、海~が鯛女(たひ)を呼んで口の中を探すと、釣針が見つかったので、彦火火出見尊にお渡しした。その時「これをあなたの兄さまに渡す時に、「『大鉤(おほぢ)・踉[足+旁]鉤(すすのみぢ)・貧鉤(まぢち)・痴矣鉤(うるけぢ)、メモ100302』」と言ってから後に投げて与えてください」と教えてた。そして、鰐魚(わに)を集めて、「天~の孫が帰ろうとしている。おまえたちは何日でお送りできるか」と尋ねると、鰐魚はそれぞれの体に応じて日数を申し出た。その中に一尋鰐(ひとひろのわに)がいて、「一日のうちにお送りましょう」と申し出たので、一尋鰐魚に送らせた。また、潮満瓊(しほみちのたま)と潮涸瓊(しほひのたま)の二種の宝物を差し上げて、玉の使い方を教え、「あなたの兄さまが高い処に田を作ったならば、あなたは低い処に田を作りなさい。兄さまが低い処に田を作ったならば、あなたは高い処に田を作りなさい」と教えた。このように、海~は誠を尽くして助けて差し上げたのである。  彦火火出見尊は帰って来て、海~の教えの通りに行った。すると、火酢芹命は日に日にやつれてきて、「私は貧しくなってしまった」と言って、弟に従った。弟が潮満瓊を出すと、兄は溺れ苦しみ、反対に潮涸瓊を出すと助かった。(メモ100303)  これより前に、豊玉姫は天孫に「私はすでに身籠っています。天孫の子を海の中で産むべきではないので、産む時には必ずあなたのところに参ります。私のために海辺に産屋を作って待っていてください。お願い致します」と申し上げた。そこで、彦火火出見尊は国に帰ると、鵜(う)の羽で屋根を葺(ふ)いて産屋を作ったが、屋根が葺き終えないうちに、豊玉姫が大亀に乗り、妹の玉依姫を連れ、海から訪ねて来た。すでに臨月を迎えていて、出産が目前に迫っていたので、屋根を葺き終えるのを待たずに産屋に入り、天孫に「私が産む際は見ないでください。お願いします」とねんごろにお願いした。天孫は内心その言葉を不思議に思って、こっそりと覗くと、豊玉姫は八尋熊鰐(やひろのわに)に姿を変えていた。しかも、天孫が覗いたことに気づいて深く恥じ入った。  子が生まれた後、天孫が訪れて、「子の名を何と名付けようか」と尋ねると、「彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と名付けてください」と答えたが、言い終わると直ぐに海に戻ってしまった。この時、彦火火出見尊は歌を詠んだ。 原文 「飫企都ケ利 軻茂豆勾志磨爾 和我謂禰志 伊茂播和素邏珥 譽能據ケ馭(登+?)母」 訓み 「沖(おき)つ鳥(とり) 鴨(かも)づく嶋(しま)に 我(わ)が率寝(ゐね)し 妹(いも)は忘(わす)らじ 世(よ)の尽(ことごと)も」 訳 「沖の鴨の寄り着く島で、私が共寝した妻のことは、この世の続く限り決して忘れることなどできないだろう」  {ある話では、彦火火出見尊は、別の女性を乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)・飯嚼(いひかみ)・湯坐(ゆゑびと)(メモ100304)とし、様々なことをして育てた。母親の代わりに他の女性の乳によって皇子を育てた。これが世間で乳母を決めて子を育てることの謂れである、と云う。} この後、豊玉姫は子が立派に育ったと聞いて、母の情が募り戻って育てたいと思ったが、海・陸との先の言に反するので、妹の玉依姫(たまよりびめ)を遣わして、育てに行かせた。その時、豊玉姫は玉依姫に託して返歌を奉った。 原文 「阿軻娜磨廼 比訶利播阿利登 比ケ播伊珮耐 企弭我譽贈比志 多輔妬勾阿利計利」 訓み 「赤玉(あかだま)の 光(ひかり)はありと 人(ひと)は言(い)へど 君(きみ)が装(よそひ)し 貴(たふと)くありけり」 訳 「赤玉の輝きは素晴らしいと人は言いますが、あなた様の姿はそれ以上に貴くご立派です」  この二首の歌を挙歌(あげうた)と言う。  海驢、これを美知(みち)と云う。踉[足+旁]鉤、これを須須能美膩(すすのみぢ)と云う。痴?鉤、これを于楼該膩(うるけぢ)と云う 第十段 第四節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  兄の火酢芹命(ほのすせりのみこと)は山幸を持っており、弟の火折尊(ほのをりのみこと)は海幸を持っていた。云々。  弟が悩みながら浜辺にいると、鹽筒老翁(しほつつのをぢ)に出会った。老翁が「何を悩んでおるのか」と尋ねたので、火折尊が答えた。云々。  老翁が「心配しなくても、私が何とかしましょう」と言って、「海~の乗る駿馬(はやきうま)は八尋鰐で、背鰭(せびれ)を立てて橘之小戸(たちばなのをど、メモ100401)に居ります。彼と相談しましょう」と言い、火折尊を連れて出向いた。  鰐魚(わに)は考えて、「私は八日のうちに天孫を海~の宮にお送りしますが、我が王(きみ)の駿馬の一尋鰐魚なら一日のうちに必ずお送りすることができます。そこで、私が帰って、彼を迎えに寄越しますそで、彼に乗って海にお入りください(メモ100402)。海に入ると、海の中に美しい小浜があります。その浜に沿って進めば、必ず我が王の宮に着きます。宮の門の井戸のほとりによく茂った桂の木がありますので、その木の上に登っていてください」と言って、言い終わるや否や海に入り去った。天孫が鰐の言った通りに留まり、待って八日になった。すると、一尋鰐魚がやって来たので、乗って海に入り、教えられたとおりに行った。  豊玉姫(とよたまひめ)の侍女が玉鋺(たまのまり)を持って水を汲もうとすると、水底に人影があったので、汲み取ることができずに上を見て、天孫を見つけた。戻ってその王(きみ)に、「私は我が王が最も美しい方だと思っていましたが、今おいでのお客様の方が遥かに勝っておられます」と告げた。海~(わたつみ)は「ためしに見てみよう」と言って、三段の床を敷いて招き入れた。天孫は、最初の床で両足を拭き、中の床で両手を押さえ、内の床の眞床覆衾(まとこおふふすま)の上に胡坐をかいて座った。海~はこの様子を見て、天~の孫であることを知り、ますます崇めた。云々。  海~が赤女(あかめ)と口女(くちめ)を呼んで尋ねると、口女が口から釣針を出して奉った。赤女は赤鯛のことで、口女は鯔魚(なよし、ぼら)のことである。  海~は、釣針を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)に渡して、「兄さまに釣針を返す時に、『おまえの子々孫々まで、貧鉤(まぢち)・狭狭貧鉤(ささまぢち、メモ100403)』と言い、言い終わったら三度唾を吐いて渡しなさい。また兄さまが海で釣りをする時には、あなたは海辺で風招(かざをき、メモ100404)をしなさい。風招とは、嘯(うそぶき、メモ100404)のことです。そうすれば、私が沖風や浜辺の風を起こし、激しい波で溺れさせませましょう」と教えた。  火折尊(ほのをりのみこと)は帰ると、海~の教えどおりに行った。兄が釣りをする日に弟は浜辺で嘯いた。すると疾風(はやち)がたちまち起こって、兄は溺れ苦しみ、助かりそうになかった。遠くにいる弟に頼んで、「おまえは長い間海にいたので、きっと助かる方法を知ってるだろう。どうか助けて呉れ。もし私を助けて呉れたら、八十連屬(やそつづき)まであなた様にお仕えし、俳優之民(わざをきのたみ)となります」と言った。そこで、弟が嘯きを止めると、風が止んだ。その為、兄は弟の不思議な力を知り、自ら従った。しかし、弟は慍色(おもほてり=怒りで顔が赤くなり)口をきかなかった。そこで、兄は著犢鼻(たふさ=(褌(ふんどし)、メモ100405)をし、赤土で手と顔に塗り(メモ100406)、「私はこの通り身を汚した。永久にあなたの俳優(わざをき)となります」と言い、足を上げてぶるぶる振るわせ溺れ苦しむ真似をした。即ち、最初に潮が足首まで来たときは足占(あしうら、メモ100407)をした。潮が膝まで来たときは足を上げ、股になると飛び上がり、腰になると腰に手をやり、腋になると手を胸に当て、首に達した時には飄掌(たひろかす、メモ100408)。この所作は、今に至るまで絶えることなく続いている。  これより前、豊玉姫がやって来て、出産する間際に皇孫にお願いをした。云々。  皇孫が願いを聞き入れなかったので、豊玉姫は大変恨んで、「私のお願いを聞き入れないで、私に恥をかかせました。だから今より後は、私の使いがあなたの元に行っても、返さないでください。あなたの使いが私の元に来ても返しません」と言って、眞床覆衾(まとこおふふすま)と萱で生まれた子を包んで渚に置くと、海に入り帰って行った。これが海と陸とで行き来できなくなった謂れである。 {ある話では、子を渚に置いて去るのはよくないので、豊玉姫命自身が抱いて戻った。久しくして、「天孫の子を海の中に置いておくべきではない」と言って、玉依姫(たまよりびめ)に抱かせて送り出した、と云う。}  最初に、豊玉姫が別れ去る時に、しきりに恨み事を言ったので、火折尊は、再び会うことはないと思い、歌を贈った。これはすでに上文に書かれている。  八十連屬、これを野素豆豆企(やそつづき)と云う。飄掌、これを陀毘盧箇須(たひろかす)と云う。 古事記 原文(第十一段相当) 是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 娶其姨 玉依毘賣命 生御子名 五瀬命 次稻氷命 次御毛沼命 次若御毛沼命 亦名豐御毛沼命 亦名~倭伊波禮毘古命四柱 故 御毛沼命者 跳波穂 渡坐于常世國 稻氷命者 爲妣國而 入坐海原也 古事記 上卷 完 訳  天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命は、姨(おば)の玉依毘賣命を娶って生んだ御子の名は、五瀬命(いつせのみこと)。次が稻氷命(いなひのみこと)。次が御毛沼命(みけぬのみこと)。次が若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、またの名を豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)、またの名を~倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)四柱である。  御毛沼命は波の穂を踏み越えて常世國(とこよのくに)に行かれ、稻氷命は妣國(ははのくに)である海原に入られた。(巻第3神武天皇即位前期戊午年六月二十三日の記事参照) 古事記 上巻 完 日本書紀 第十一段 本文  彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)は、姨(おば)の玉依姫(たまよりひめ)を妃(みめ)として、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生んだ。次に稻飯命(いなひのみこと)、次に三毛入野命(みけいりののみこと)命、次に~日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)、併(あわ)せて四人の男を生んだ。  久しき後、彦波瀲武盧茲草葺不合(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)は西洲之宮(にしのくにのみや)で崩御され、日向(ひむか)吾平山上陵(あひらのやまのうえのみささぎ)に埋葬申し上げた。 第十一段 第一節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  まず、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生んだ。次に稻飯命(いなひのみこと)、次に三毛入野命(みけいりののみこと)、次に狹野尊(さののみこと)、または~日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)と言う。狹野というのは、幼い時の名で、後に天下(あめのした)を平定し、八洲(やしま)を治めた。そのため、名を加えて~日本磐余彦尊と言う。 第十一段 第二節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  まず、五瀬命(いつせのみこと)を生んだ。次に三毛野命(みけののみこと)、次に稻飯命(いなひのみこと)、次に磐余彦尊(いはれびこのみこと)、または~日本磐余彦火火出見尊(かむやまといはれびこほほでみのみこと)と言う。 第十一段 第三節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  まず、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生んだ。次に稻飯命(いなひのみこと)、次に~日本磐余彦火火出見尊(かむやまといはれびこほほでみのみこと)、次に稚三毛野命(わかみけののみこと)。 第十一段 第四節  一書(あるふみ)には次のように伝えている。  まず、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生んだ。次に磐余彦火火出見尊(いはれびこほほでみのみこと)、次に彦稻飯命(ひこいなひのみこと)、次に三毛入野命(みけいりののみこと)。 日本書紀巻第二  完 Copyright (c)  SAWADASANTI All rights reserved.