古賀達也氏 (講演概要) 平成21年6月28日(日)名古屋市市政資料館 第1部「九州年号に関する最新の情報」 第2部「学問の方法論」             ・    平成21年6月28日(日)に名古屋市市政資料館で行われた古田史学の会の古賀事務局長が行った講演について報告します。  講演の内容は、第1部で「九州年号に関する最新の情報」について、第2部で「学問の方法論」についてであり、その発表の概要は次のとおりです。 <第1部>九州年号に関する最新の情報について 1 九州年号は九州王朝説を支える根幹の一つである。 2 一つの王朝に一つの年号があるというのが基本原則である。中世の南北朝の王朝が分裂した時はそれぞれ年号を立てたものの、大和朝廷でも一つの年号が原則である。 3 年号は中国で始められ、日本はそれを輸入し利用している。 4 私が小さい頃には大化が年号の始めで白雉、朱鳥、その後断絶した後、大宝以降ずっと年号が続いたと教えられた。 5 しかし、大宝以前に連続した年号があったという資料がたくさんある。そうした資料の中で『二中暦』が最も有名で、その中の年代暦には、いわゆる九州年号が記載されている。 6 しかし、明治以降は『二中暦』はほとんど学問の対象とされていない。 7 新井白石は、この『二中暦』の古代年号は本物であるとしている。『新井白石全集』の巻末に三戸学の友人に古代年号を本物であるという観点から質問状を出している。また、鶴峯戊申は『襲国偽潜考(そのくにぎせんこう)』で九州地方の豪族が造った年号説を発表している。なお、幕末から明治初期には『九州年号』という書物があったとされる。一方、貝原益軒は僧侶が勝手に造ったという偽作説である。このように江戸時代はさかんに九州年号について議論されていた、しかし、その後は九州年号についての議論がされなかった。 8 『失われた九州王朝』で古田先生が九州王朝の概念を提言された。九州年号は701年以前の九州王朝説の根拠の一つにされた、しかし歴史学会では九州年号について議論されてこなかったので、私たち古田史学の会では九州年号について国民に提示したいと考えてきた。それを同時代資料の金石文である、次のとおり動かぬ証拠で研究し確認してきた。 (1)茨城県で出土した「大化五子年」(699年)と書かれた土器について、大化という年号が使われた資料として確認されている。 (2)滋賀県で朱鳥年号が書かれた墓碑がある。 (3)芦屋市で発見された木簡は「元壬子年」(652年)と記載されていることを古賀事務局長が確認している。 9 「元壬子年」の木簡については、木簡学会では「三壬子年」と読んでいるが、奈良文化研究所の木簡データベースにおいて「三」の文字で三本線目の最後が上にはねるものはない。 10 つまり、この木簡は、「元壬子年」であり、西暦652年である。また、九州年号の『二中暦』の「元壬子年」は白雉元年であることから、この木簡は『二中歴』の記述に合致していることがわかった。 11 日本書紀の白雉元年は、650年であり、間違っている。 12 この木簡は一緒に土器が出土し7世紀中頃と判断されており考古学でも時期が裏付けされている。 13 なお、この木簡は紀年名木簡で2番目に古いものであるが、古田史学で「元壬子年」と主張するようになってからはこの木簡に言及される事が無くなった。それは研究者に意識されているからだと思われる。 14 茨城県で出土した「大化五子年」の土器は、土器の専門家が7世紀末頃(7世紀中頃〜8世紀中頃)と判断している。 15 これらの3つの同時代資料である動かぬ証拠を学会に提示しているが、さらに、これら以外に新たな証拠、白雉二年が書かれた能面があるので、これについて紹介する。 16 NO1レジメ右側にあるが、昭和42年朝日新聞の記事で、愛媛県西条市(伊予の越智の国)の福岡八幡神社にある能面について、地元の研究者の真鍋さんが裏側に「奉納 白雉二年九月吉日」と書かれていることを発表された。 17 あわせて「大永2年」(1111年)に奉納したと記載された能面も発見された。この能面の様式は編年に合致しており白雉二年奉納面が本物であることを傍証する。 18 ただ、白雉二年奉納の能面が本当に同時代資料かどうかは文字だけではわからないので、実物を確認した。 19 次の3点で本物との心証を持った。 (1)神社はこの能面に文字が書いてあったことを知らずに、ほったらかしにしていたことから、後で記載したなどのでっち上げではないと思った。 (2)日本人のメンタリティからして神様に奉納しているわけだから、嘘を書くことはないと思われるので偽物ではないと思った。 (3)この能面には奉納した者の名前がない。、偽物であれば奉納者の名前を書いて体裁を整えるはずであるから、むしろ逆に偽物ではないという感覚を持った。なお、名前を書かなくてもわかる場合はいちばん偉い人、名前抜きで通用する人、つまり九州王朝の天子ではないかと思われる。 20 これらの考えは私の心証である。 21 そこで実物があるので本当にその能面が7世紀中頃より古い木であるかどうかをC14測定で明確にしたい。神社側はもし古い能面ではなかったとしたらダメージがあると思うが、C14測定を宮司さんに粘り強く頼む。 22 実物が無くなっている九州年号資料も結構ある。黒田藩の歴史書『筑前国続風土記』に「白鳳壬申年」と書かれた骨蔵器もあったが無くなってしまった。近年C14測定は精度も高く価格も安くなったので試したいと考えている。 (以上、録音1 09062801.mp3)09062801.mp3 23 C14測定以外では白黒ハッキリ出来ないのかと言えばそうでもない。この越智の地方では白雉年間にいろんなことを行ったということがわかった。 24 NO2のレジメだが、古田史学・四国の会員の今井久さんが『無量寺文書に見える九州年号』で、九州年号について記載された資料をまとめられた。 25 越智の『聖帝山実報寺縁起』に「白雉二年に始めて一丈六尺の仏像を作り、そのほか千仏を刻む」とある。 26 この縁起には、実報寺を開山した恵音の弟子の恵照が、白雉二年に大事業である仏像を造った事が書かれている。 27 同じ白雉二年の奉納面は、この仏像を造った事業と無関係とは考えられず、文献史学と実物とが年代も地域も一致していることから信憑性が高いと考える。 28 この縁起資料は有力な根拠であり、ますますこの白雉二年の奉納面が偽物ではないという理解に進んだ。 29 しかし、その後二転三転と思考が変わり苦しんだ。というのはNO4上段のレジメだが、孝徳天皇白雉元年十月に、『無量寺文書』の『聖帝山実報寺縁起』の一丈六尺の仏像を造ったこととそっくりの記述がある。 30 この『聖帝山実報寺縁起』は、『日本書紀』の記述を知りながら聖帝山で自分たちが造ったと主張している。一方、日本書紀は、大和朝廷が造ったとしている。どちらかが間違いである。 31 レジメNO5であるが、孝徳天皇の4,5十年前、日本書紀推古天皇十三年条にも、「始めて丈六の繍仏を造った」とあり、日本書紀は「始めて丈六の繍仏を造った」ことを2回書いており、日本書紀には間違いがある。嘘がある。 32 従って『聖帝山実報寺縁起』が正しい。 33 さらに、『聖帝山実報寺縁起』の方が『日本書紀』より確からしいことは、天平十九年の『大安寺伽藍縁起』資財帳にも同じ繍像の内容があり、越智天皇が造ったと書かれているが、越智天皇は大和朝廷にはいない。 34 つまり越智の国の『聖帝山実報寺縁起』の記述については、他の同じ内容を記述した資料からも裏打ちされている。 35 日本書紀の記述を利用して、自分たちが造ったという古代の伝承を正しく伝えているのは『聖帝山実報寺縁起』である。なお、越智天皇の越智は地域の名称である可能性がある。 36 レジメNO4上段に孝徳天皇白雉元年二月の条に千仏を刻んだ漢山口直大口が出てくるが、レジメNO5下段に、この山口直は法隆寺の仏像を造った人物であるとされており、実在の人物である。しかし法隆寺は一切残さず焼けたので仏像は他から持ってきたものと考えざるを得ない。 37 『聖帝山実報寺縁起』にも千仏を刻んだとあり、とすれば山口直が造った聖帝山実報寺の仏像の一つが法隆寺に持ち込まれたと推測される。 38 NO4レジメの下段にあるが、白雉三年条夏四月に無量寺教を議くとして恵隠は実在の人物として記述されている。その弟子の恵照は白雉四年の遣唐使として『日本書紀』に出現する。 39 『聖帝山実報寺縁起』を書いた人は、日本書紀を読んだ上で自分たちが丈六の仏像を造ったと主張しているのである。 40 結論として、この白雉二年奉納面は孤立していない。越智は白雉年間に仏教的大行事を行った地域であり、それが日本書紀にも現れてきているし、『大安寺伽藍縁起』にも出ている。全部、現地伝承と関係している。つまり、この白雉二年奉納面は本物であることを指し示している。 41 そして九州王朝の越智の国のことであるので、九州王朝説でないと説明が付かない。 42 ただ、なぜ白雉年間652年から653年にかけて越智に仏教行事が多いのかという疑問がある。 43 それは九州王朝の副都である大阪の前期難波宮との関係で見れば、越智の国は、太宰府と前期難波宮の中間に位置しているだけでなく、また『今昔物語集』に越智の国は白村江の戦いの時にかなり活躍し、大勢捕虜になって帰ってきたことが書かれている。つまり越智は有力な九州王朝の臣下であったと考えられる。 44 それで、九州王朝のナンバーワンである天子は、越智の国のトップが天子に次ぐナンバー2である天皇を名乗ることを許したのだと考えられる。 45 なお、白雉年間の能面があるということは、九州王朝で古くから能があった可能性を示すことにもなり、日本芸能史の通説の変更を迫る可能性がある。 (第一部終了) <第2部>学問の方法論について 1 ドイツの学者アウグスト・ベーグが提唱した「フィロロギー」は、古田先生の東北大学の恩師である村岡末次先生が日本に持ち込んだ。人間が認識したものを再認識するという学問である。たとえば『聖帝山実報寺縁起』を書いた人の気持ちになって、どういうつもりで書いたのかを考えるのが「フィロロギー」という学問である。 2 『聖帝山実報寺縁起』を書いた人は、『日本書紀』の記述を引用しながら、書紀編者と異なることを主張した。また「始めて丈六の繍像を造った」と2回記述した『日本書紀』の編集者の立場に立つと2回のどちらかが嘘である。そうしたことがわかったのは「フィロロギー」という学問の方法論を使ったからである。 3 犯罪捜査も同じである。犯人の気持ちなって考えるのも「フィロロギー」である。 4 歴史学では、反論できない人を対象に行うので、モラルを求められる学問であり、この「フィロロギー」を使わないと結論を間違える。 5 九州年号群資料としては『二中歴』は、その内容が平安時代に遡る古い資料である。また大和朝廷の年号と無関係に書かれており、変更されていないと考えられるので優れている。 6 ただ、『二中歴』には、大きな欠点がある。原型に近いと言われている『二中歴』では、他のほとんどの資料に最後の年号として「大長」があるが、『二中歴』には「大長」は無く最後は「大化」である。 7 ありもしない「大長」という嘘をでっち上げる理由はどこにもないので、疑問として引っかかっていた。 8 もしかしたら701年以降に「大長」という年号があったのではないかとアイデアを抱いた。 9 十六世紀の辞書『運歩色葉集』に、柿本人丸が大長四年丁未(707年)に亡くなったと書かれているが、わざわざ嘘をつく必要がない。 10 大長元年が704年で9年続くので713年が大長の終わり、九州年号の終わりと考えた。 11 これは16世紀の資料でかなり新しいが実証である。しかし実証よりも論証である。たとえば、足利事件でDNAという実証があったが間違っていた。 12 いかに『日本書紀』に書かれていようが、その実証がいくらあっても嘘であると論証すれば『日本書紀』の記述は間違いである。つまり「学問は実証よりも論証を重んずる」のである。 13 その論証は「フィロロギー」でできる。 (以上、第2部前半) 14 丸山晋司さんが研究された通称「丸山モデル」という九州年号を発表された。 15 しかし、この「丸山モデル」はいろいろな九州年号を調べて全数調査して多数決で造られた。実証の寄り集めである。 16 「丸山モデル」は朱鳥が無く大化が繰り上がり大長が入っている。丸山氏は朱鳥年号は日本書紀編者のでっち上げで架空の年号であるとした。 17 しかしこれは方法論上、間違っている。「数が多い方が正しい」というのは間違っている。化学の実験でも論理が必要で実験を行ったところ、その論理に合っていたらそれが正しいとする。 18 大長元年は、私の説では704年、丸山説では692年である。そのほかの説もある。これらの資料を造った人たちの気持ちになって考えると、大長年号を勝手に造ることはない。しかし歴史認識として大和朝廷は701年に大宝元年があるので、それまでの年号があったのだと考えたのではないか。それまでに九州年号を収まるようにしようとして、『二中歴』編者はスパッと700年で切ってしまった。その他の方法として、丸山モデルのように無理矢理、大長年号を700年までに押し込めた方法もある。 19 『海東諸国記』を書いた人も701年からは大宝年号が始まるので、700年までに九州年号を押し込めた。というように私は考えた。 20 これは論理的仮説であるが、私の仮説であれば、いろいろな文献の年号について全部、うまく説明できる。これが「フィロロギー」である。 21 都合の良いものだけでなく、都合の悪い資料も大切な証拠であり、その実証について考えて論証することが大事である。論証とは難しいことではなく普通に考えて普通に理解できることである。 22 学問的には実証よりも論証である。 <第2部 終了> (以上、録音2 09062802.mp3)09062802.mp3 <質疑>  講演中や講演後に様々な質疑があったので、以下に整理しました。 Q1 「始めて」は、「開始した」という意味合いもある。この時から開始したという読み取り方もあるのではないか?すると2回、「初めて」が出現してもおかしくないのではないか。 A1 「始めて」は文脈で判断するしかない。指摘された資料NO5の上段の線引き部分『大安寺伽藍縁起』の記述については、「三月に始めて、そして終わる」とするので、文脈上、「開始した」という意味で間違いない。冬10月から始めて春3月に作り終わったということから「開始した」というスタートの意味だと判断できる。  一方『日本書紀』の「始めて」の多くはファーストタイムの用例であり、文脈上「始めて繍仏を造った」の「始めて」についてもファーストタイムの用例として考える。 Q2 筑紫舞との関係はどうか?筑紫舞は面を付けているか? A2 特に関係はない。筑紫舞は、訳あって面を付けないとされる。 Q3 大化五子年の壺はどこにあるか? A3 茨城県である。 Q4 無量寺文書には人皇三十七代孝徳天皇の御代などとあり、時代を特定するために権力者時代を記載している。白鳳元年と御世の両方が記載されているのはなぜか。 A4 両方の物差しを書くことがあるが、それはすべて後代の資料である。紹介した同時代資料は年号だけしか書かれていない。 Q5 大化子年は1年ずれるがどうか? A5 大化五子年は699年であるが、ある地方では1年ずれたカレンダーを使っているのではないかと思われる。たとえば武蔵の国は1年ずれている。庚午年積の庚午は670年であるのに対し武蔵国では神明の年になっている。その地方だけ1年ずれているカレンダーの可能性がある。 Q6 関東の地域だけがずれているのか? A6 関東だけとは限らない。