『倭国とは何かU』への招待状1       室伏志畔 2012年08月09日 | 現代詩              待望久しい『倭国とは何かU』が不知火書房からようやく発刊を見た。ここ二〇年にわたる九州古代史の会の会誌に掲載を見たより抜きの三十二論文が、多くの写真と図表がふんだんに盛り込み、松尾紘一郎の写真が花を添えている。すでにこれまで会誌はCD化されてきたとはいえ、本としてまとまって読めるのはまた格別である。何よりも会を長年にわたりリードしつつも想い半ばにして倒れた灰塚照明、相良祐二、片岡格、淵江順三郎の論がまとまって読めるのは嬉しい。その執筆者個々についての高橋勝明の行き届いた紹介がまた素晴らしい。編集に当たった兼川晋・加茂孝子・恵内慧瑞子・高橋勝明のこよなく会を愛することなしにこれはありえない成果に深く感謝しつつ、これに劣らぬ会誌の発行についての責任を感じざるをえない。これはその『倭国とは何かU』への招待状である。       一.自立した会形成と情況  齊の太史(正史の記述者)は、崔杼という権力者がその君・荘公を殺したことを、「崔杼、荘公を弑す」と記したがために殺された。それを継いだ次弟も同じくそう記したところ、また殺される。三弟もまた同じくそう記したが、さすがにその太史を殺すことを崔杼は躊躇したという。この話を武田泰淳は『司馬遷―史記の世界』の自序に書きつけ出征した。そこに中国における史家の気概を武田泰淳は見、匈奴に敗れた李陵を擁護し、宮刑にあった『史記』の著者・司馬遷の行為が、その第一義に重なるものとしたのである。そのように史書は真実を語ってこそ何ものかであった。しかし、この島国では史家とは名ばかりで、権力の思うがままに曲筆を弄する者だけが史家の名を今もほしいままにしている。それが『日本書紀』以来の正史記述で、現在、通説として行き渡り、この国の歴史を偽り、日々、学校教育を通じて子女を今も洗脳し、現在及び明日を歪めている。  この記紀以来の大和中心の皇統史に異議を呈し、大和朝廷に先在する倭国を説く、九州王朝説が内外文献を整合さす中で、古田武彦により一九七〇年代初頭に提起された。それは一三〇〇年にわたる記紀史観の皇統一系のドグマからの解放で、王朝交代論として一世風靡したが、九〇年代を潮目に、偽書論争にマスコミを巻き込んだ謀略に足を取られかつての勢いを失った。  本書は、この九州王朝説に同調する中で八〇年代の終わりに誕生した本会が、九〇年代の九州王朝説への逆風の中で、それに呼応するように生まれた原理主義的反動に抗し、九州王朝説を手放すことなく、「主人持ち」の会からの自立をはかり、師説以上に「徹底して倭国を研究する」ものへ深めた会誌に掲載を見た会員の二〇年に及ぶ論文撰である。 それは一九八九年の「市民の古代」九州支部の設立に始り、一九九四年に「多元的古代研究会・九州の会」と名を変え、さらに一九九八年の「「倭国」を徹底して研究する−九州古代史の会」へと、三度、会名を変更し、二〇一〇年七月の一五二号までの会誌からピックアップされたものである。 七〇年代後半から九州王朝説を中心ににわかに全国的に簇出した、市民による歴史研究運動の幾多の会の一つとして本会も誕生する。そうした中で、この論文撰が貴重なのは、通説に対し地方からの異議申し立てと、九〇年代の逆風の中で多くの会が大和中心史観にお里帰りと古田説への原理主義的回帰かという二者択一をとった中で、唯一、反動化も「主人持ち」の会にもなることなく、民主的に開かれた会として自立した形成を行ってきたところに、他会に真似できない成果を生んできた。つまり九州王朝説を手放さずに、自立を目指す第三の道を選び、師説以上に会員が九州王朝説を手探りで深める新たな提起へ躍り出たところに本会の意義があった。そこに「徹底して倭国を研究する」ことを期した九州魂が躍動していたと云えようか。 本会会員の特徴は、定年組が中心となり壮年層を組織したことは、他会が青壮年の若気の至りを免れない中で、大人の会としての風格を持ち、また、諸々のしがらみから自由なのびのびしたものに会を暗黙に位置づけた。そのことは、九〇年代以後の九州王朝説の反動期の中で他会にない自立精神の砦の形成を促す。その一方、七〇年代以後の大衆消費社会と高度情報社会の転換に遅れを取ったことも否めない。会結成から二〇年ほどして息切れするのは、その中心が高齢化し、論文撰に名を連ねる一四人中で、四人がすでに鬼籍に入っていることでもそれは知れる。執筆者の肩書きは、警察官1、民間テレビ勤務者2,教職員2、公務員3、銀行員2、医者1,会社員2、不明1と、公務関係と民間がほぼ同数で、男女比率は12:2であったことは、フォローする女性陣の苦労を窺わせる。この雑多な寄り合い集団の八〇年代終焉からの二〇年の成果を見定めたい。    二.灰塚照明と古田九州王朝説          一九八九年一〇月の「市民の古代」九州支部の設立に始まった本会が、翌九〇年一月の第一回例会に引き続き、三月に「市民の古代」本部主催とはいえ、シンポジウム「倭国の源流と九州王朝」の九州開催の舞台回しを多元的古代の会の九州支部である本会が引き受けたことは、九州王朝説の激流に一気に身を投じるもので、役員はきりきり舞いする忙しさの中で意識改革は一気に進んだかに見える。 九州王朝・倭国の中央機関としての太宰府の表記の復権要求は、通説が大和朝廷の地方機関名とする大宰府の官製表記の押しつけに対する反発は、荒金卓也の「だざいふは「太」宰府だ」を狼煙に、九州歴史資料館への申し入れに至る多くの論を生んでいる。それは畿内中心主義に対する基本的な疑問で、多くの太宰府論が本会で生まれたのは当然であった。おそらく九州王朝説の一斉風靡は、この畿内中心主義の押しつけによる地方蔑視に対する反発にあった。しかし、それに先立つ本誌七号で灰塚照明が「「天一根」大分県姫島説への疑い」は、その後の本会のあり方を暗示する一歩ではなかったか。それは天孫降臨の故郷・天国(あまくに)を、出雲、九州、韓国への三降臨地から古田武彦は、それに囲まれた対馬海流上の島々としたのは、それらの島々がそれぞれに天を頭にもつ別名を持っていたことによる。その中の天一根の別名をもつ姫島を古田武彦は国東半島沖の姫島に比定した。それは通説に重なる。この古田武彦の一連の比定を画期のものとした灰塚照明は天孫降臨地の糸島半島横にある姫島に気づく。現地調査し、縁起書に伊弉諾尊と天一根が祀られているのを確認し、これこそが記紀記載の姫島でないかと異論を呈した。それに一時、同調した古田武彦が近年、自説に復帰し、灰塚説を蒸し返した私をフォローする論を書いた高橋勝明に対し反論を本誌に寄せたのは記憶に新しい。しかし、この灰塚説の延長に相良祐二が、九八年に「「天国」はどこか」を書き、古田武彦が天両屋を沖の島近くにある両子島としたのに対し、糸島水道で半分に分かった志摩郡こそがふさわしいとする論を結果したことを思えば、二人がこれら島々の比定を天孫降臨事件に関連させ比定したことは明かである。天孫降臨事件は天国から糸島半島への直接侵攻ではなく、松浦半島経由の迂回路を取るカムフラージュ作戦として姫島の陰から糸島水道を一気に陥れ、金印国家・委奴国の中枢を襲ったことを古田武彦は見ていない。ここにある問題は古田武彦が天国を対馬海流上の島々とし、九州侵攻である天孫降臨を南九州の日向から糸島半島の日向(ひなた)に奪回した不朽の業績を踏まえてあった。しかし、その細部に至る島々の比定に現地認識を踏まえての異論を、古田武彦は年を重ねるにつれ、度し難いものとして排除したところに、「多元的古代研究会九州支部」であった本会が、「「倭国」を徹底して研究する―九州古代史の会」と会名を改め、古田説と一線を画さざるをえない理由も胚胎したのは見やすい。 なぜなら、我々は古田武彦の九州王朝説に多くを教えられながら、誰の信徒でもなく、自由に自立した思考をもって古代史に対していたからだ。出雲国を島根と呼ぶ由縁が、今は宍道湖を成す水道の前にあった島に、天国の根を海人族が見たところにあったことを思えば、天一根とする別名をもつ姫島が、天孫降臨の足がかりを国東半島沖の姫島に見ていたとは思えない。 私は、このとき大阪の「古田史学の会」にあって会誌交換で手にした灰塚説に注目し、「九州には『点と線』の鳥飼刑事以上の、てごわい刑事コンビでおるからな」と、今一人の痩身の鬼塚敬二郎を想いつつ、その線上での思考を壱岐・対馬に向けていた。それはシュリーマンのトロイの発見を踏まえ、現代ではその下層に本来のトロイの町を比定するに至ったとしても、それはシュリーマンの発見を受け継ぐ進展で、その名誉を決して傷つけるものではないと確信していたからである。 しかし、『東日流外三郡誌』を巡り、季刊誌「邪馬台国」の編集長・安本美典の「偽書疑惑」キャンペーンに乗せられたマスコミ報道に、「古田武彦と共にある」はずの「市民の古代」幹部の多くが浮き足立ち、ついには屈折し、多数派を形成し、会を奪取する事態が、これを前後して起こっていた。これに対し「古田武彦と共にある」ことを当然とする者は、「多元的古代研究会」を立ち上げ、本会もその九州支部に名を改めたのが九四年の五月であった。 この新たな市民の歴史研究運動の再編に際し、本会が、会としての意向を全体で確かめつ民主的手続きを取り進んだのに対し、他会は古田武彦の意向を優先させる「主人持ち」の会としてあることをアプリオリに会幹部が選択し、それを会員に押しつけることに何の疑問ももたなかった。この違いは決定的であった。なぜなら、戦後、幾多の会が政治的な「主人持ち」の会に堕したため、会員から遊離し、戦後革命をおシャカにしたことへの反省を他会は想いもしなかった。また自身の意向を市民組織に押しつけることに、「偽書疑惑」報道で追いつめられ、依拠した「市民の古代の会」を失った古田武彦に顧慮する余裕はなかった。 ここにおいて古田説に対する部分的修正を説いた灰塚照明の異論は政治化する危険性をもった。古田武彦の業績の顕彰することを目的とする「古田史学の会」やそれに同調した「多元的古代研究会」関東支部は、古田説の原理主義的な行き方にとって、古田説を検証する異論に神経質になった。このことはさらに灰塚照明より一歩、踏み込んだ提起である相良祐二の一九九八年の両子島・志摩郡説は大阪ではまったく無視された。私は古田武彦はいま、自説をどこまで修正する必要があるかが問われているように、その支持者は主体的に自説を古田武彦の顔色を窺うことなく展開できるかが問われていると思う。 なぜなら、灰塚照明がそれから一〇年して放った「「比田勝」――それは比田方だった」は、古田武彦が天孫・瓊瓊杵尊を比田勝の海軍長官としたが、比田勝は比田方(比田潟)で、万葉集の歌にも載り、宗上野介茂久が宗賀茂の叛乱をそこで斥け、その勝利を記念し比田勝と改めたと『新対馬島誌』にもあったからで、それは古田論証の瑕疵を正すもので、その論証は糸島沖姫島説のそれとちがうものではなかったからだ。それら異論への目配りなしに九州王朝説は師説にある瑕疵を含め化石化させる「古田史学の会」等の親衛隊の在り方に私は危惧を覚えていた。     三.「古田枠」と九州シンポジウム この「九州古代史の会」の古田説を踏まえてのさらなる主体的な提起と反対に、「市民の古代」の畿内説への復帰派とは別に、「古田武彦と共にある」ことからさらに、その顕彰に進んだ関西の会の組織者は、会名を「古田史学の会」とし、機関誌を古田本『邪馬壹国の道標』のサブタイトルそのままの「古代に真実を求めて」と臭い選択をした。そこにあった私は、古田武彦が倭国主神(大神)を日本国の主神である天照大神に同値したのを疑い、そこにあるねじれから、高皇産霊命の尊崇した月読命こそが倭国主神にふさわしいとする『伊勢神宮の向こう側』(一九九七年)を刊行した。今から思えばそれを北馬系史観内での限界思考で、私はその出版に際し、古田武彦の異論に対する寛容度が知りたく、序文を求めたところ、それに快く応じてくれた古田武彦に大人(たいじん)の風格を見て、私は危惧を取り下げた。しかし、次著『法隆寺の向こう側』(一九九八年)で「倭国の別顔」を書き、筑紫と豊前を二中心とする倭国楕円国家論を提起したあたりから、にわかに雲行きがおかしくなった。それは九州王朝・倭国傍流の神武による畿内大和への東征に始まる大和朝廷の成立という、記紀史観に接続した「歴史的枠組み」を提起しつつあった古田武彦にとって、そのヤマト朝廷の成立を豊前に見る倭国楕円国家論の提起は、部分的異論を越え、古田枠の変更を迫るものであったことによろう。そうした中、私はその豊前王朝説の提起者・大芝英雄の話を聞く必要があるとし、水野孝夫会長も了承し、「古田史学の会」に大芝英雄を招請した。このとき別府から堺に戻った大芝英雄の会での発表は、あいにく私が当日、体育祭前日の準備に重なり、出席できない中、行われたが、怒号で発表が進まないまでに古田原理主義に染まった会員の拒否反応に遭ったという。その一九九八年は、本会が古田武彦との軋轢が激化し、「九州古代史の会」に名を改めざるをえなかった年に重なったのは偶然でない。 この三年後の二〇〇一年に灰塚照明は「「比田勝」は‥‥「比田方」だった」を書いたわけだ。それまでに発表を見た「接尾語(ら)は海神であった」(一九九五年)や「葺不合命の生育地と生誕地」(一九九六年)も、古田説を一歩進める刮目すべき論であったが、比田方論は、古田武彦が『古事記』に日高番能邇邇芸命とあるところから、対馬の比田勝を日高津と解し、邇邇芸命をその海軍長官にしたのを、灰塚照明は現地調査し、比田勝は元、比田潟での戦いの勝利を記念して比田勝と改められたので、『万葉集』にも比田潟の歌があることを例示し、古田武彦が邇邇芸命や天照大神を対馬に結びつけた幻想に疑義を呈した。その論証は先の姫島糸島沖説や一連の論証とちがったものではなく、糸島沖姫島説を否定するなら、この比田方説を否定する勇気があるかを私は問いたい。すでに私は先の『伊勢神宮の向こう側』で、壱岐の志原こそが邇邇芸命の出自地とし、古田武彦の対馬出自説を改めたが、それは古田武彦に叛旗を掲げるものではなく、その瑕疵を指摘するのは灰塚照明とて同じであった。 この灰塚論稿の発表された二〇〇一年の秋に、私は灰塚照明から来年(二〇〇〇二年)の九州シンポジウム「「磐井の乱」とは何か」への招待を受けた。そのとき、私は先に述べた筑紫と豊前に二中心を置く倭国楕円国家論を踏まえ、もっと豊前へ目を向けるべきとし、「古田史学の会」幹部との軋轢を深め、ついに私の会費納入を会は拒否することで、私は自動的に退会を余儀なくされた。 ところで、これまで磐井の乱は、大和朝廷に対する九州豪族・磐井の反乱とする通説に対し、古田武彦は九州王朝・倭国王・磐井に対する大和朝廷の継体の反乱と逆転させたが、畿内と九州の土俵を疑うことはなかった。しかし、倭国楕円国家論かを取るなら、原大和を豊前に置く大芝英雄や私にとって、磐井の乱は筑紫の倭国王統に対する豊前の倭国皇統の継体側のクーデターとするほかないのは、もはや自明であった。 そのとき、本誌で兼川晋は埋まらぬ誌面を埋めるため「「磐井の乱」を考える」を書き継いでいた。それは行きつ戻りつするところがあって、私はそれを途中から読むのを投げ出した。しかし、九州訪問の際に、それを書き直した優に一冊の本になる『「磐井の乱」を考える』の原稿を預かった。そこで、兼川晋は、倭国楕円国家論に百済王統論を持ち込み、伽耶問題に絡む因縁が磐井の乱の背景にあるとする、複雑に混戦した糸をねばり強く解きほぐし、継体年代の再編を試み、通説に一三年遡行する継体年代を隅田八幡宮の人物画像鏡からし、磐井の乱を五一五年とし、「二中歴」の継体に始まる九州年号開始の意味を解き明かしているのを見て、私は磐井の乱を畿内対九州の土俵から、豊前対筑紫の九州域内の内部葛藤として活写されているのを見て、兼川晋が新たなパラダイムを拓きつつあるのを見た。 その兼川晋の論の進展の中に、通説や古田説の枠組みを越えた展開を重く見た灰塚照明は、九州シンポジウムの開催を決意し、大芝英雄や私に参加を呼びかけた。それは「偽書疑惑」以後、停滞した九州王朝説の新展開を、古田一国枠を突き抜け韓半島に橋架ける提起となっていた。私はこの灰塚照明の意気に大いに共鳴し、その基調報告で、磐井の乱を九州域内における内部対立として取り上げることは、通説にも古田説にもできなかった画期の意義を有するもので、それが「九州古代史の会」が取り上げたことが、「どんな大きな意味をもっていたかが、必ずや振り返る時があるだろう」と言祝いだ。 この九州シンポジウムの開催と成功を前後して、「東京古田会」の編集長であった飯岡由紀雄の編集した次号冊子の原版を印刷所から持ち去る事件が起こり、飯岡由紀雄と福永晋三と私は、そこから退会を決意し、東京で「古代史最前線」の発行を企画し、関西で私が「越境としての古代」を立ち上げ、一定の読者層を獲得するのは、九州王朝説が「古田枠」に納まりきれないことを如実に示すものであった。しかし、それは灰塚照明と「九州古代史の会」のこのタイミングでの、九州シンポジウムの呼びかけとその成功なしにそれがあったとは思えない。 倭国から日本国へ  白村江敗戦後論@  http://ameblo.jp/ekkyou/entry-11004534596.htmlより抜粋// 倭国から日本国へ  白村江敗戦後論@  室伏志畔 (太宰府の筑紫都督府址ー唐の倭国占領政府址↓)                             大和中心の戦後史学は天皇史の内に歴史を囲い、すでに自滅して久しい。40年前に古田武彦が提唱した九州王朝説は、倭国とは、かつての日本国の亦の名で はなく九州王朝とし、それを天孫王朝に比定した。その天孫傍流の神武の畿内大和への東征によって近畿王朝・大和朝廷も始まり、それが並立する中で、663 年の白村江の戦いで倭国が敗れたため、棚ぼた式に701年を境に、倭国に代わり大和朝廷が列島の盟主となり、国号を日本国に改めたとしてきた。  九州王朝説内の異論  この古田図式に対し、90年代に入り、九州王朝説内で異論が登場する。一つは、九州王朝は天孫王朝ではなく、「呉の太伯の後」とする平野雅曠 説で、これに兼川晋の韓半島論を踏まえ、私は、日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は中国の長江下流の呉越の南船系王権と、黄河文明を 踏まえた韓半島経由の北方騎馬民族王権(北馬系王権)の興亡とする南船北馬説を唱え、古田九州王朝説の一国枠に異議を呈した。  今一つは、神武は畿内大和ではなく、豊前の倭(やまと)に東征したとする大芝英雄の豊前王朝説の登場である。これら提起により、九州王朝・倭 国とは、南船系の「呉の太伯の後」が筑紫を中心に委奴国→邪馬台国→倭の五王→?国と展開した陰で、北馬系の倭国皇統が豊前で倭(やまと)朝廷を開き、そ れは九州域内で神武から斉明まで続き、九州域内に原大和を特定することで、記紀マジックを初めて突き抜けた。  倭国内対立の近畿展開  この筑紫と豊前を二中心とする九州王朝・楕円国家の基本矛盾は、倭国王統と倭国皇統の対立で、磐井の乱を生み、ついには663年の白村江の倭 国敗戦後、天智が667年に九州から近江に逃亡したのに伴い、歴史の主舞台は畿内へ移った。それを日本書紀は神武東征を畿内大和への侵攻とし、近江遷都を 畿内大和からの遷都に造作し、欺いてきた。  663年の倭国敗戦から701年の日本国のの成立までに、九州王朝内の基本矛盾であるこの王統と皇統の対立は、九州から畿内へ溢れ展開し、近 江朝の成立とは倭国皇統の畿内での成立で、それを壬申の乱で倒した天武朝の成立とは、ほかならぬ大和朝廷の開朝にほかならない。それは白村江の敗戦で解体 した九州王朝・倭国王統の畿内大和での復活であった。この倭国王統の天武による大和朝廷の創出を隠すために、記紀は九州域内の神武東征に瀬戸内海経路を継 ぎ足し、倭国皇統による大和朝廷の創出を造作し、天武を天智の弟と皇統に取り込み、その偉業を隠した。その天武崩御直後の持統称制下での686年の大津皇 子の変とは、天武を大和に招いた大和勢力への九州勢力のクーデターで、持統称制期間(686〜689)に次ぐ即位期間(690〜696)は、高市天皇の統 治期間にほかならない。その高市を排し、大和朝廷は倭国王統から倭国皇統へと道をつけ、701年の日本国成立にこぎつけたので、倭国から日本国への転換は 禅譲といった生やさしいものではなかった    姓氏と地名の派生移動について               飛鳥寺である法興寺が元興寺の別名を持つことについて、私はそれが九州の元興寺の移坐に関わるとし、私はそれを豊前の椿市廃寺跡に比定しました。そこに現在、願光寺がひっそりとありますが、それはガンコウジで音を同じくするば かりか、その山号は叡野山で、その地番は福丸とあります。それを知った私はそこに聖徳太子のモデルの一人がいたと確信したのは、死後五〇〇年して成立した 聖徳太子の墓がある二上山の麓の寺が、豊前の元興寺のかつての山号と地番の一字を合成した叡福寺であったからで、そこに何とか歴史の手がかりを残そうとし た先人の知恵を感じたことにあります。 (豊前の椿市廃寺跡に立つ願光寺、元興寺と音を同じくし、その山号は叡野山で、地番は福丸、その頭音を会わせると叡福寺となり、聖徳太子の菩提寺となる) ところで私は大阪に住んでいますが、この大阪の意味は不明で、明治になるまでは大坂と表記されたことから、私は大和への二上山越えの竹内街道が大きな坂を成すことに因むと考え、それが行橋市から大坂山越えしての筑豊の原大和への道の附会にあることに気づきました。   原大和は筑豊の香春岳の三諸山がその象徴をなし、磐井の乱後に物部麁鹿火が筑後に本拠を構えたに伴い住民と共に地名もそこに移り、その三輪町には三輪山を 神奈備山とする三輪神社があり、さらに八世紀に日本国の成立に伴い、その筑後周辺から畿内大和への住民移動に伴い現在の大和地名は誕生したのです。つま り、八世紀初頭に大和朝廷は好字二字の地名奨励をした裏で畿内地名の確立があったので、大和地名は筑豊の原大和幻想を引きずりつつ、筑後の地名配置に重な るのは、権力移動に伴う住民の移動がそこにあったからです。 (写真は筑豊の香春岳、一の岳が削られた三諸山→原・三輪山) 書評―古田武彦著『俾弥呼』(ミネルヴァー書房)―室伏志畔 2011年11月09日 | 書評    九州王朝説の明日のために@         室伏志畔          9月22日付けの西日本新聞に福岡市西区の元岡G6号墳から、銘文入り鉄製太刀が出土したとの報道記事を友人が届けてくれた。そんな記事が載っていたかと産経新聞を広げて見るが、畿内版の新聞には何の痕跡もない。それを確認し送って貰った記事を読むと、その鉄製太刀を「大和朝廷の下賜品」としている。しかし、奥野正男はその元岡の古代製鉄遺跡について200メートルほどの狭い谷に二十八基の製鉄溶鉱炉が並ぶ特筆すべきものとしている。その現地の鉄との成分分析の比較無しに、相変わらず、学者は大和朝廷に関連づけるのに忙しい。  その一方、九州王朝説関係の冊子を見ると、倭国から日本国への転換について、一昨年来の「禅譲・放伐論争」の延長戦にあり、大化の改新や壬申の乱について、通説と変わらぬ天智と天武の皇統争奪戦をあれこれしている。そこには九州王朝・倭国の影はすでに無い。しかし、白村江の倭国敗戦後の壬申の乱とは、唐によって一度は解体を見た倭国権力が、唐に通じ覚え目出度い明日の日本国権力と、明日をめぐる決死の戦いにあったというのに。それは九州を溢れ畿内へ場所を移し戦われたが、九州王朝説論者がことごとく倭国権力を見失い、皇統メガネを愛用し論じているのだから笑わせる。この状況は、九州王朝説のここ二十年の凋落と無関係でなかろう。そうした中、九州王朝説の提唱者・古田武彦が、その四十年に及ぶ古代史研究の「畢生の一冊」とし、『俾弥呼』を提示する。多くを教えられ報いること少なかった私は、今後、氏に話しかける機会がそうあるとは思えないので、少しく述べてみたいと思う。      1.九州王朝説と市民の歴史研究運動  氏の古代史研究の前提に親鸞研究がある。その史料批判から浮き彫りにされた親鸞思想は、本願寺教学からの親鸞の解放と別でなかった。この方法をもって氏は古代史に相渉り「魏志倭人伝」記載の邪馬壹国について、これまでの邪馬台国論は、それを大和と繋ぐために邪馬臺(台)国とした曲学でしかないと断じ、『三国志』全体の「壹」86個と「臺」56個に当たり、そこに一切の誤用がないことを確かめ、邪馬壹国の表記に誤りなしとした。それは大和一元史観からの邪馬壹国の解放と別でなかった。氏はそれを『「邪馬台国」はなかった』(1971年)にまとめ、華々しく70年代初頭に古代史界にデビューした。それに続く『失われた九州王朝』(1973年)は、漢籍に載る倭国は近畿王朝・大和朝廷ではなく、それに先在する九州王朝であったとし、倭国を日本国のかつての亦の名としてきた通説を排し、大和中心の皇統史観の外に九州王朝を屹立させた。これに続く『盗まれた神話』(1975年)は、記紀神話の多くを九州王朝からの盗用とし、天孫降臨神話を対馬海流上の島々からの九州侵攻とし、その天孫降臨地を北九州の高祖山の日向(ひなた)周辺に比定し、そこに倭国の起原を置き、神話を歴史に奪回した。この初期三部作における瞠目すべき発見の連鎖は、大和中心の歴史しか知らない日本人にとって事件であった。 この大和朝廷に先在する九州王朝の提唱は、皇統の枠組みを越えた王権論の提起にほかならない。それは皇統枠内に歴史学を閉じ込めてきた学界との軋轢を生む一方、戦後史学に飽き足らなかった市民の関心を集め、各地で「古田武彦と共に」学ぶ市民の歴史運動が組織されたことは、やはり特筆に値する。それらを全国的な「市民の古代の会」へ組織したのは藤田友治であった。かくして九州王朝説は、氏を頭脳に藤田を組織者にもつことで70年代後半から80年代を席巻し、一時、会員は八百名、非会員シンパはその10倍に及ぶ侮れぬ勢力をもった。この背景に70年代後半に始まった大学闘争が、72年の浅間山荘事件を引き起こすまでに退化し、行き場を失った学生や市民の受け皿として九州王朝説があったことは否めない。その組織者・藤田が学生運動家上がりであったのは偶然ではない。      2.九州王朝説潰しの謀略 本書は、この初期三部作の嚆矢を成す邪馬壹国の女王・俾弥呼(ヒミカ)についての評伝で、氏の四〇年に渉るさらなる論理の到達点を示すものである。そこで言い残すまいとする氏の踏み込みは時に薄氷を踏み危うさと表裏してあるかに見えるが、私は急ぐまい。  その九州王朝説は90年代に入ると一転し冬の時代をえる。2004年に藤田と私が「九州王朝説の現在」を「季刊・唯物論研究」87号で特集したとき、「まだ九州王朝説を云う人がいますか」と左翼知識人から云われたことを想い出す。そのため、近時、久しく出版されること少なかった氏の、それから七年した本書が、発売後、一ヶ月余にしてすでに5千部を売り、すでに第2刷に入ったと聞くのは嬉しい。その本書を刊行したミネルヴァー書房が一昨年から復刊した氏の第一期著作集もよいらしく、第二期著作集の復刊も間近いと聞く。この古田武彦リバイバルの兆しは、90年代に九州王朝説離れを来したが、大和中心の歴史学では何事も始まらないため、それに対し最もトータルな批判をもった九州王朝説の見直しにあるのかも知れない。現在の歴史学の閉塞状況の打開のために古田武彦の著作は、その基礎文献としてもっと読まれる必要があろう。  ところで、私は古田武彦リバイバルの兆しと書いた。7、80年代、向かうところ敵なしの感があった九州王朝説が、なぜ急に90年代に入り冬の時代を迎えたかの反省は、もっとなされる必要がある。それをあらぬ「偽書疑惑」をかけられために起こった不幸な出来事ですますなら、それは大きなまちがいで、そこに思想としての九州王朝説の脆さがあったことの自覚なしに明日の九州王朝説もまたないのだ。  江戸寛政期の再写本『東日流外三郡誌』を持ち上げた氏に、「歴史を贋造する人たち」と悪罵を投げたのは、「季刊・邪馬台国」の編集長で、数理歴史学を説く安本美典であった。その告発にも似た提起は学問的に争われることなく裁判沙汰になる背景に右翼の影も見られた。それは皇国に九州王朝を先在させたことへの反発にあるが、マスコミによる情報操作は、「市民の古代」の会幹部を浮き足立たせ、反対派の機関誌で論を張る体たらくを生んだ。そのことは、それが仕組まれた政治的な九州王朝説潰しであったことを語る。それは今も、この再写文書の中身を検討するのではなく、和田家文書の保管者であった故和田喜八郎の怪しげな手つきをあげつらい、その手の本がジャーナリズム大賞を受けるところに、この問題の根深さある。その賞のバックに戦後史学の屋台骨を築いた津田左右吉を擁する早稲田大学があり、多くの名だたる文化人がこの書を推し、歴史物を売り物にする出版社が、その後押しをしているのもまた事実なのだ。九州王朝説はこれらを向こうに回す歴史思想として足腰を鍛えることなしに、情報操作による袋叩きは、今後も繰り返されないという保障はどこにもない。  この騒動の発端を成す氏の『真実の東北王朝』(駿々堂)が発刊されたのは1990年であった。これと前後するように昭和は終焉し、ベルリンの壁の崩壊を序曲としてドミノ倒しのごとく東欧社会主義国家が倒れ、ついに1991年12月にソ連邦も崩壊する。これらの終焉と九州王朝説は何ら関係ないとはいえ、その組織論が古田本による外部意識の注入論であることは、マルクス・レーニン本による左翼組織論と同じで、それにマスコミが疑惑のキャンペーンを張ると会がひとたまりもなく吹っ飛んだことは、90年代を前後する終焉に重なる一面を持つ。そのことは九州王朝説の再編は、それぞれが九州王朝説を内在化させる道を通してしか保持できないことを教えるが、現状は今も氏の本のオウム返しで、その組織的再編もまたその域をでなかったところに、かつてと違う九州王朝説の苦渋のこの20年が刻まれたのだ。      3.神武東征論と記紀史観  「偽書疑惑」の中でその払拭に敢然と一人、氏は抗する中で、その再編を安易に古田枠で処理しようとしたことは、「君が代」論の新展開の契機を創った「多元的古代・九州支部」(現・九州古代史の会)等の排除を結果し、氏は自ら九州王朝説の情報源の梯子を外す逆説を結果した。そうした中、氏は九州王朝から近畿王朝への架橋を、神武の畿内大和東征論をする中で、かつて多くの者がはまった記紀史観の迷路に分け入った。それはかつての『三国志』を中心とした漢籍から記紀文献への史料分析の移行を意味する。しかし、そこに内外文献の越えがたい位相差があることを氏は見ることなくたやすく二つを繋いだ。  神武東征の出発地を記紀の説く南九州から北九州へ、氏は自ら発見した天孫降臨地に改めたものの、東征地を疑うことなく畿内大和に踏み行った。それは戦後史学の神武架空説に対し、記紀の神武東征説にお墨付きを与えることになった。この逆説は大和を疑わずに、そこを大和と信じ踏み込むものでしかない。ここにある欠落は、神武に先立ち大倭(やまと)に降った饒速日命の天神降臨の無視にあった。対馬海流上の島々である天国(あまくに)からの天孫降臨が北九州への侵攻であるなら、それに先立つ天神降臨が北九州を差し置き、瀬戸内海の奥にある畿内大和へ侵攻したと誰が信じえよう。実際、饒速日命の足跡は、今も畿内河内にあるとはいえ、それに先在し、九州の遠賀川流域周辺に今も見ることができる。それは神武東征の前後に刻まれた饒速日命族の大倭(やまと)侵攻と追放の二つの足跡にほかならない。この意味を押さえることなく、氏は記紀の畿内大和への神武東征を首肯したため、これを境に、氏は九州王朝と近畿王朝との二朝並立論へ移行し、九州王朝説は焦点ボケする。それは結果として九州王朝の陰にあった倭国皇統を見失わせ、九州王朝の影の半分を記紀が造作した畿内大和に丸投げした。そのため、氏はその後、倭をある時はチクシと訓み、ヤマトと訓む二元論を強いられる。のみならず、この神武皇統以前の饒速日命皇統の見落としは、『東日流外三郡誌』出現の幻想的背景がそこにあることさえ見ないのだ。ここにある氏の致命的な欠落は九州王朝・倭国の故郷が、倭(やまと)を淵源とすることの見落としにある。換言すれば、原大和としての倭(やまと)が倭国の共同幻想の淵源にあることに気づかないことにある。それなくして、畿内での大和の復活もまたありえない。