〔古典に親しむ〕  万葉集   巻第一 巻第二 巻第三 巻第四 巻第五  巻第六 巻第七 巻第八 巻第九 巻第十  巻第十一 巻第十二 巻第十三 巻第十四  巻第十五 巻第十六 巻第十七 巻第十八  巻第十九 巻第二十   巻 第一 〜雑歌    二十巻からなる万葉集は、巻第一を原核とし、数次の編纂過程を経て成立したとされる。巻第一は、天皇の御代の順にしたがって歌を配列する構成がとられ、雑歌のみの巻である。作歌年代は、雄略天皇の時代から奈良の宮の時代まで。   (注)雑歌 ・・・ 公的な場で歌われたさまざまの歌。    1 雄略天皇の御製歌(おほみうた)   籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児(こ) 家(いへ)告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(いま)せ われこそば 告らめ 家をも名をも   【現代語訳】  おお、籠よ、良い籠を持ち、おお堀串も、良い堀串を持って、この丘で若菜を摘んでいる娘さん、家はどこか言いなさい、何という名前か言いなさいな、神の霊に満ちた大和の国は、すべて私が従えている、すべて私が治めているのだが、私のほうから告げようか、家も名をも。   (注)雄略天皇 ・・・ 第21代天皇。万葉の時代から約200年も前の天皇であるため、実作ではなく伝承された歌謡と考えられる。 (注)堀串 ・・・ 木や竹でつくったヘラ。 (注)そらみつ ・・・ 「大和」の枕詞。神の霊が行き渡った地、の意味。 (注)名告らさね ・・・ 古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられ、名乗りは重要事だった。男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは承諾を意味した。また、早春、娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式でもあったという。   2 舒明天皇が香具山に登って国見をなさった時の御製歌   大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鴎(かまめ)立つ立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は   【現代語訳】  大和には、数々の山があるけれど、なかでも特別に神聖な天の香具山、そこに登り立って国見をすれば、広々とした平野にはあちらこちらに煙が立ち、広々とした海にはあちらこちらに鴎が飛び立っている、ああ、良い国だ、蜻蛉島、大和の国は。   (注)蜻蛉島 ・・・ 「大和」の枕詞。蜻蛉はトンボ。   3 中皇命が間人連老をして舒明天皇に献上させた歌   やすみしし わが大君(おほきみ)の 朝(あした)には とり撫でたまひ 夕(ゆふべ)には い倚(よ)り立たし 御執(みと)らしの 梓(あづさ)の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし 御執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり   【現代語訳】  天下のすべてをお治めになるわが大君が、朝には手にとってお撫でになり、夕方には側に寄って立っていらっしゃった、ご愛用の梓の弓の中弭の音が聞こえてくる、朝の狩りに今まさに臨もうとしていらっしゃるらしい、夕の狩りに今まさに臨もうとしていらっしゃるらしい、ご愛用の梓の弓の中弭の音が聞こえてくる。   (注)中皇命(なかつすめらみこと) ・・・ 舒明天皇の皇女。 (注)やすみしし ・・・ 「わご大君」の枕詞。 (注)中弭 ・・・ 弓の真ん中で矢をつがえる部分。   4 たまきはる宇智(うち)の大野に馬(うま)並(な)めて朝踏ますらむその草深野   【現代語訳】  今ごろは、宇智の大きい野にたくさんの馬を並べて朝の御狩りをしたまい、その朝草を踏み走らせあそばしておいででしょう。   6 軍王の歌    山越(やまごし)の風を時(とき)じみ寝(ぬ)る夜(よ)落ちず家なる妹をかけて偲(しぬ)びつ   【現代語訳】  山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕っている。   (注)軍王(いくさのおおきみ) ・・・ 伝未詳。   8 額田王の歌   熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな   【現代語訳】  熟田津で、これから船出しようと月の出を待っていると、潮の流れさえ私たちの思い通りとなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出しましょうぞ。   (注)額田王(ぬかだのおおきみ) ・・・ 万葉初期の代表的な女流宮廷歌人。 (注)熟田津 ・・・ 愛媛県松山市の海浜。661年、新羅の侵攻にさらされた百済救援に向かう斉明天皇の船団が一時停泊した港。ここにしばらくとどまった後、出航しようとする時の歌。この遠征には、皇太子の中大兄皇子、大海人皇子ほか皇女たちも従った。この歌は斉明天皇の作だと伝わるが、額田王が天皇になり代わって詠んだとされる。  月の出と潮流とは密接な関係があり、ともに船旅には重要な条件だった。この月を満月とし、ちょうど大潮の満潮にあたったとする見方もある。  なお、斉明天皇は博多に到着の後に崩御、中大兄皇子は翌々年、朝鮮半島に軍を進めたが、白村江で大敗した。   11 中皇命の歌   吾(わが)背子は仮廬(かりほ)作らす草(かや)なくば小松が下の草(かや)を苅らさね   【現代語訳】  あなたがいま旅の宿りに仮小舎をお作りになっていらっしゃいますが、もし屋根を葺く萱草(かや)が不足でしたら、あそこの小松の下の萱草をお刈りなさいませ。   (注)中皇命 ・・・ 伝未詳。   13 中大兄皇子の大和三山の歌   香具山は 畝火を愛(を)しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯(か)くにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき   【現代語訳】  香具山は、畝火山を愛して耳梨山と争った、神代からそうであったらしい、昔からそうであったのだから、今の世においても人々は妻を争うのだろう。   (注)中大兄皇子 ・・・ 後の天智天皇。 (注)大和三山 ・・・ 大和平野の南にある香具山・畝火山・耳梨山。この三山が妻争いをしたという伝説が『播磨風土記』に記されている。それによると、三山が争うと聞いて出雲の阿菩大神が仲裁に来たが、争いが止んだので、播磨の国(兵庫県)印南野に船を逆さに伏せて留まり、それが丘になったという。  この歌は、中大兄皇子が新羅遠征の際、その地を過ぎた時に詠んだもの。また、この歌は弟の大海人皇子との額田王をめぐる妻争いも連想される。額田王ははじめ大海人皇子の妻で、十市皇女を生んだが、後に天智天皇となった中大兄皇子の後宮に入った。   14 13の反歌   香具山と耳梨山とあひしとき立ちて見に来し印南国原(いなみくにはら)   【現代語訳】  香具山と耳梨山が争ったとき、立ち上がって見に来たという、この印南国原よ。   (注)反歌 ・・・ 長歌に添えられる歌。長歌は五音と七音を交互に六句以上並べて最後は七音で結ぶ形。反歌は多くの場合、短歌形式をとる。長歌に歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりする。   15 わたつみの豊旗雲(とよはたぐも)に入日(いりひ)さし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)まさやかにこそ   【現代語訳】  海の神がたなびかす、大きく美しい雲に、今まさに入日がさしている。今夜の月はさやかに照るにちがいない。   16 額田王が春秋の優劣を論じた歌   冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りてぞしのふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山ぞわれは   【現代語訳】  春がやってくると、冬の間鳴かなかった鳥もやって来て鳴く。咲かなかった花も咲いているけれど、山の木々が茂っているので分け入っても取らず、草も深いので手に取っても見ない。一方、秋山の木の葉を見ると、紅葉したのは取って美しいと思い、青いのはそのまま置いて嘆息する。その点こそが残念ですが、秋の山のほうが優れていると私は思います。   (注)冬こもり ・・・ 「春」の枕詞。  天智天皇が藤原鎌足に「春山の万花の艶(にほひ)」と、「秋山の千葉の彩(いろ)」を比べたとき、どちらの趣きが深いかと尋ねられ、額田王が歌で判定した。詩宴の場での、即興の歌であるとされる。   17 額田王が近江の国に下った時に作った歌   味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふねしや   【現代語訳】  なつかしい三輪の山よ、あの山が奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲がり角が幾重にも重なるまで、よくよく振り返り見ながら行きたいのに、何度でも望み見たい山なのに、無情にも雲がさえぎり隠してよいものか。   (注)三輪の山 ・・・ 奈良県桜井市にある山。山全体が大神(おおみわ)神社の御神体。近江遷都にあたって、朝夕見慣れたなつかしい三輪山との別れを惜しんだ歌。また、大海人皇子と別れ、中大兄皇子に従って近江に下る切ない気持ちを表したとする見方もある。 (注)あをによし ・・・ 「奈良」の枕詞。   18 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや   【現代語訳】  なつかしい大和の国の三輪山を、なぜそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりなんかしないでほしい。   20 天智天皇が蒲生野で薬狩をなさった時、額田王が作った歌   あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る   【現代語訳】  茜色に輝く紫草が栽培されている野、天皇が占有されているこの野には番人がいます。その番人たちに見られてしまうではありませんか、あなたが私に袖を振っているのを。それが不安です。   (注)あかねさす ・・・ 「紫」「日」「昼」の枕詞。 (注)紫野 ・・・ 紫草を栽培している野。根から染料をとった。「標野」は一般の人が入れない野。 (注)袖振る ・・・ 求愛のしるし。 (注)額田王 ・・・ はじめ大海人皇子に婚い十市皇女を生んだが、後に天智天皇に召されて宮中に侍していた。このときの薬狩には大海人皇子と額田王も従っていて、この歌は額田王が大海人皇子にさしあげた歌。このとき、大海人は40歳くらい、額田王は35歳くらい。   21 20に対し、大海人皇子がお答えになった御歌   紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆゑにあれ恋ひめやも   【現代語訳】  茜色の紫草のように色美しいあなたを憎く思うのであれば、もはや人妻であるあなたに、これほどまでに恋するはずはないではないか。そういう危ないことをするのも、あなたが可愛いからだ。   22 吹黄刀自の歌   河上(かはのへ)のゆつ岩群(いはむら)に草むさず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて   【現代語訳】  川上の神聖な岩にいつまでも苔が生えないように、わが皇女の君もその岩のように変わらず永久に美しい乙女でいらっしゃってほしい。   (注)吹黄刀自(ふきのとじ) ・・・ 伝未詳。「刀自」は女性に対する尊称。この歌は、十市皇女(大海人皇子と額田王の娘)が伊勢神宮に参拝したとき、それに従った吹黄刀自が詠んだ歌。     24 麻続王の歌   うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞(いらご)の島の玉藻刈り食(は)む   【現代語訳】  こんな身の上になっても、この世での命を惜しんで、波に濡れながら伊良虞の島の海藻を刈って食べているのだ。   (注)麻続王(をみのおほきみ) ・・・ 伊勢国伊良虞島に流罪に処せられた。   27 天武天皇の御製歌   よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ よき人よく見   【現代語訳】  昔のよい人が、よい所だと言ってよく見て、よいと言った吉野をよく見てみよ。今のよい人もよく見てみよ。    28 持統天皇の御製歌   春過ぎて夏来(きた)るらし白妙(しろたへ)の衣乾したり天の香具山   【現代語訳】  春が過ぎて、もう夏がやって来たらしい。聖なる香具山の辺りには真っ白な衣がいっぱい乾してある。   (注)持統天皇 ・・・ 天武天皇の皇后で、夫をたすけて政治を執った。天武崩御後しばらく皇后のまま政治を執り草壁皇子を天皇に立てようとしたが、草壁が没したため自ら即位した。694年に都を藤原京に遷したが、藤原京は大和三山を近くにのぞむ地で、この歌もここで詠まれたのかもしれない。   29 近江の旧都を通ったときに柿本朝臣人麻呂が作った歌   玉襷(たまたすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)御代ゆ生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天(あま)離(ざか)る 夷(ひな)にはあれど 石(いは)走る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処(ここ)と聞けども 大殿(おほとの)は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞(かすみ)立つ 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おほみやところ) 見れば悲しも   【現代語訳】  畝火山のふもとの橿原で、御位につかれた神武天皇の御代以来、この世に姿を現された天皇が次々に天下を治めになっていたのに、大和を捨て置いて奈良山を越え、どうお思いになって、田舎である近江の国の楽浪の大津の宮で天下をお治めになるのだろうか。天智天皇の神の旧都はここと聞いたけれど、春草が生い茂り、霧が立っているこの大宮の跡を見ると、何とも悲しい。   (注)柿本人麻呂 ・・・ 持統〜文武天皇の時代に活躍した宮廷歌人の第一人者。天武・持統・文武天皇に仕える。官人としては下級だった。 (注)玉襷 ・・・ 「畝火」の枕詞。 (注)天にみつ ・・・ 「大和」の枕詞。 (注)あをによし ・・・ 「奈良」の枕詞。 (注)天離る ・・・ 「夷」(田舎)の枕詞。 (注)石走る ・・・ 「淡海」の枕詞。 (注)霞立つ ・・・ 「春日」の枕詞。 (注)ももしきの ・・・ 「大宮」の枕詞。壬申の乱で近江大津の宮は荒れ果てた。    30 楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ   【現代語訳】  ささなみの志賀の唐崎は元のように何の変わりはないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊びをした大宮人もいなくなった。それゆえ、その船をいくら待っていても再び見ることはできないのだ。   (注)楽浪 ・・・ 琵琶湖の西南岸地方。 (注)唐崎 ・・・ 大津市の北、大津の宮があった琵琶湖岸。 (注)大宮人 ・・・ 宮廷に仕える人々。   31 楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも   【現代語訳】  志賀の大きな入り江の水は流れずに淀んでいるが、時の流れとともに過ぎ去った昔の人々には、再び会うことがあるだろうか、いや、もう会えはしない。   32 高市古人が近江の旧都を悲しんで作った歌   古(いにしへ)の人に我れあれや楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)を見れば悲しき   【現代語訳】  私は昔の人になってしまったのだろうか。この大津の宮を見ると、この都が栄えていたころの人であるかのように悲しくてならない。   (注)高市古人 ・・・ 柿本人麻呂とほぼ同時代の下級官人。高市黒人と同一。   33 楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)の心(うら)さびて荒れたる京見れば悲しも   【現代語訳】  国の神の霊威が衰えてしまい、人気もなく荒れ果ててしまった都(近江の旧都のこと)を見るのは、たまらなく悲しい。   36 持統天皇の吉野行幸の折、柿本朝臣人麻呂が作った歌   やすみしし わご大君(おほきみ)の 聞(きこ)しめす 天(あま)の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水たぎつ 滝の都は 見れど飽かぬかも   【現代語訳】  わが大君が御統治なさるこの天下に、国は実に多くあるけれども、山や川の清く美しい河内であるとして御心をお寄せになる吉野の国の、花がしきりに散っている秋津の野辺に宮殿を立派にお作りになっていらっしゃるので、お仕えする人々は舟を並べて朝の川を渡り、舟の先を競って夕方の川を渡ってくる。この川の流れのようにいつまでも絶えず、この山が高いようにいよいよ立派にお治めになる、この水の激しく流れ落ちる滝の御殿は、いくら見ても飽きることがない。   (注)河内 ・・・ 山に囲まれた、川を中心とした場所。   37 見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還(かへ)り見む   【現代語訳】  いくら見ても飽きない吉野の川の滑らかな岩のように、いつまでも絶えずやって来て、この吉野の宮を眺めよう。   39 山川も寄りて奉(つか)ふる神ながらたぎつ河内に船出するかも   【現代語訳】  山の神も川の神も諸共に寄ってきて仕え奉る、現人神として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の滝の河内に、群臣と共に船出したまう。   40 持統天皇の伊勢行幸の折、都に残った柿本朝臣人麻呂が作った歌   嗚呼見(あみ)の浦に船乗りすらむをとめらが珠裳(たまも)の裾に潮満つらむか   【現代語訳】  あみの浦で船遊びをしているだろう、天皇に供奉していった若い女官たちの美しい裳の裾に、今ごろ潮が満ち寄せているだろうか。   (注) 嗚呼見の浦 ・・・ 鳥羽市あたりか? 「英虞(あご)」の誤り? 飛鳥浄御原の宮に留まった人麻呂が、お供をした人々の華やかな舟遊びのようすを思い描いて詠んだ歌。 (注)をとめら ・・・ 持統天皇のお供をした若い女官たち。 (注)珠裳 ・・・ 「珠」は美称。「裳」は当時の女官たちがはいていた長く裾を引くロングスカート。   41 釧(くしろ)着く答志(たふし)の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ   【現代語訳】  あの答志の崎で今日もまた、大宮人たちは美しい藻を刈っているのだろうか。   (注)釧着く ・・・ 釧(腕輪のこと)を付ける意で、手首の連想で「答志(=手節)」にかかる枕詞。   42 潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらご)の島辺(しまべ)こぐ船に妹乗るらむ荒き島回(しまみ)を   【現代語訳】  潮が満ちてきて鳴りさわぐころ、伊良虞の島あたりを漕ぐ船に、供奉してまいった私の恋人も乗っていることだろう。あの波の荒い島のあたりを。   (注)妹 ・・・ 男性が妻や恋人を呼ぶ語。お供の女官の中に人麻呂の恋人がいたらしい。船上で荒々しい波に揺られるその身を、ふと心配している。   43 当麻真人麿の妻が夫の旅に出た後に詠んだ歌   吾(わが)背子(せこ)はいづく行くらむ奥(おき)つ藻(も)の名張(なばり)の山を今日か越ゆらむ   【現代語訳】  夫は今どこを歩いていられるだろうか。今日はたぶん名張の山を越えていられるだろうか。   (注)奥つ藻の ・・・ 「名張」の枕詞。   46 軽皇子が亡父草壁皇子を慕って、ゆかりの地に出遊したのに同行した柿本朝臣人麻呂が作った歌   阿騎(あき)の野に宿る旅人うちなびき眠(い)も寝(ぬ)らめやも古(いにしへ)思ふに   【現代語訳】  阿騎野に今宵宿る旅人たちは、くつろいで寝つくことなどできないだろう。昔のことを思うにつけて。   (注)軽皇子 ・・・ 草壁皇子の皇子で、後の文武天皇。この時10歳。草壁は天武天皇と持統天皇との間の皇子だが、皇太子のままで夭折した。 (注) 阿騎の野 ・・・ 奈良県宇陀郡の山野。草壁皇子も同じこの地で狩りをした。    47 ま草刈る荒野(あらの)にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見とぞ来(こ)し   【現代語訳】  荒れ野ではあるけれど、ここを亡き皇子の形見の地と思ってやって来ました。    48 東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ   【現代語訳】  東の野にあけぼのの茜色が見え始め、振り返ってみると、もう月が傾きかけている。   (注)炎 ・・・ 光り輝くものの意。軽皇子をあけぼのの光にたとえ、沈み行く月の光を草壁皇子にたとえて追慕している。   51 明日香宮から藤原宮への遷都の後、志貴皇子が作った歌   采女(うねめ)の袖吹きかへす明日香(あすか)風(かぜ)都を遠みいたづらに吹く   【現代語訳】  采女たちの美しい衣の袖を吹き返していた明日香の風も、今は都も遠くてむなしく吹くばかりだ。   (注)志貴皇子 ・・・ 天智天皇の第七皇子。近江朝の生き残りで、すでに中央から外れた立場にあった。この歌は、藤原京に遷都して間もないころ、廃都となった飛鳥御浄原に吹く風を詠んだもの。 (注)采女 ・・・ 天皇の食事に奉仕した女官。郡の次官以上の者の子女・姉妹で容姿に優れた者が貢物として天皇に奉られた。天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられた。遷都に伴って采女たちも飛鳥を去っていった。   56 春日老の歌   河上(かはのへ)のつらつら椿(つばき)つらつらに見れども飽かず巨勢(こせ)の春野は   【現代語訳】  河のほとりに点々と咲く椿。つくづく見ても見飽きることがない、この椿咲く巨勢の春の野は。   63 山上憶良が唐土にいたとき、故郷・日本を思って作った歌   いざ子どもはやく日本(やまと)へ大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ   【現代語訳】  さあ皆の者どもよ、早く日本に帰ろう。大伴の御津の浜のあの松原も、我々を待ち焦がれているだろうから。   (注)大伴 ・・・ 難波の辺り一帯の地域名。もと大伴氏の領地だった。   64 志貴皇子の歌   葦辺(あしへ)行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕(ゆふへ)は大和し思ほゆ   【現代語訳】  葦が生い茂る水面を行く鴨の羽がいに霜が降っている。このような寒い夕暮れは、大和のことがしみじみ思い出される。   (注)志貴皇子 ・・・ 天智天皇の第七皇子。この歌は、文武天皇(持統天皇の孫、軽皇子)にお供して、難波離宮へ旅した時の歌。 (注)羽がひ ・・・ たたんだ翼が背で交わるところ。    82 長田王の歌   うらさぶる情(こころ)さまねしひさかたの天(あめ)の時雨(しぐれ)の流らふ見れば   【現代語訳】  天から時雨の雨が降り続くのを見ていると、うら寂しい心が絶えずおこってくる。   (注)長田王(ながたのおおきみ) ・・・ 奈良朝の官人。 (注)ひさかたの ・・・ 「天」「雨」「月」などの枕詞。   →巻第二 ↑ 上へ →トップページ  がんばれ凡人!>古典に親しむ>万葉集