続日本紀・船の記録             続日本紀から「船」および「船の航海」に関する記述をすべて抜き出したのが、本ペ−ジである。 吉川弘文館の改訂増補「国史大系・続日本紀」の漢文を読みやすいように訓読文形式に書き改めた。難解な部分については、講談社学術文庫 全現代語訳 宇治谷 孟の「続日本紀」を引用したりしている。          続日本紀(上) 巻第一(文武天皇・西暦697年〜700年) 文武天皇元年(697年)10月28日 新羅の使い一吉さん金弼徳、副使の奈麻金任想等が来朝した。 同年11月11日 務廣肆の坂本の朝臣鹿田、進大壱大倭の忌寸五百足を陸路から、務廣肆土師の宿祢大麻呂、進廣参習≠フ連諸国を海路からそれぞれ遣わして新羅の使いを筑紫に迎えさせた。 文武天皇3年(698年)正月1日 天皇が大極殿にお出ましになり、朝賀を受け給う。文武の百官と新羅の朝貢使が拝賀した。その儀式はいつものようであった。 同年正月3日 新羅の使い一吉さん金弼徳等が貢物を貢した。 同年2月3日 金弼徳等が国に帰った。 文武3年(699年)7月19日 種子島、屋久島、奄美島、徳之島等の人が調停の役人に連れられて土地の産物を貢した。身分に応じて位階を授け贈り物を賜った。徳之島が中国(我が国)に来るのはこのときに始まった。 文武天皇4年(700年)3月10日道昭和尚物化す。天皇は大変惜しみ悼んで使いを遣わし金品を贈って弔った。和尚は、河内の国丹比郡の人なり。俗性は船の連、父恵釈(えさか)は少錦下である。和尚の戒行は欠けるところなく、しかも忍行を尊ぶ。かって、弟子がその性を確かめようとひそかに便器に穴を開けて洩らして和尚の寝巻きが汚れた。和尚は微笑んで言った。「悪さ小僧が他人の寝床を濡らしたな」ついにそれ以上言わなかった。。孝徳天皇の白雉4年(西暦654年)に、遣唐使に随って入唐して、たまたま玄奘三蔵に遇って師として業を受く。三蔵は特に愛でて同房に住ましめて謂って曰く。「我、昔、西域に往きしとき路に在って飢えるとも乞うべき村なし。そのとき、一人の沙門(僧)ありて手に梨を持って我に与えて之を食わしむ。我は貪り食って後、気力日に健やかなりき。今、汝は梨を持ちし沙門なり。」また、謂って曰く。「経論は深妙にして究竟すること能わず。禅を学び、東土(日本)に流伝せんにはと、和尚は教えを奉って始めて禅定を習う。悟るところやや多し。後に使い(帰りの遣唐使)に随って帰朝す。別れに臨んで、三蔵が所持する舎利経論を和尚に授けて曰く。「人よく道弘める。この文書を差し上げよう」また、一つの鍋を授けて曰く。「我、西域より持ち来るものなり。物を煮て、病を治すに神験(効き目)在らざることなし」と。此処に於いて和尚拝謝して泣いて別れる。登州に至るに及んで使い人(遣唐使の一行)の多くが病む。和尚は鍋を取り出して水を暖め粥を煮て普く病人たちに与えた。当日即癒える。既にとも綱を順風に解いて発し去る。海中に至るに及んで船は漂蕩して七日七夜進まず。諸人怪しみて曰く。「風の勢いは快く好し。日を計算するにまさに本国に着いている頃である。しかるに船が行かざるは、何か訳があらん」と。占い師の曰く。「竜王が鍋を欲しいと言っている」と。和尚は之を聞いて曰く。「鍋は三蔵が施しものなり。竜王が何ぞ敢えて之を探らん」と。諸人皆曰く。「今、鍋を惜しんで与えずんば、恐らく船を合わさりて魚のために食われん」と。よって、鍋を取って海中に投げ入れた。すなわち、船は進みて本朝に帰還す。(道照和尚は)元興寺の東南の隅に、禅院を建てて住んだ。この時、天下行業の徒は和尚に付いて禅を学ぶ。後において(和尚は)天下を周遊して、路傍に井戸を堀り、諸の津済(しんさい=港)に船を設け橋を造る。山背(やましな)の国の宇治橋は和尚の造る所なり。和尚は周遊すること凡そ十年、勅の求めあり、還って禅院に住む。座禅は元の如く。或いは三日に一度起き、或いは七日に一度起き、忽然として房より香気出づ。諸弟子怪しみてすなわち和尚を見れば、和尚は縄床に端座して気息あることなし。時に、七十二歳。弟子等は遺言の教えを奉って栗原に火葬す。天下の火葬は之より始まれり、と世伝えて云う。火葬し終わって親族と弟子相争って、和上の骨を取り集めんと欲するに、つむじ風たちまち起きて灰骨を吹き上げて終にその行くところを知らず。時の人これを見てあやしむ。後に都を平城に遷すとき、和尚の弟及び弟子等は奏聞して禅院を新京に建てる。今の平城右京の禅院これなり。この院に経論多くあり、書又よく楷書にして錯誤がない。皆和上の持ち来たれるものなり。 10月26日 使いを周防の国に遣わして、船を造らしむ。  同年11月8日 新羅の使い薩さん金所毛が入朝して母王の喪を告げた。 巻第二(文武天皇・西暦701年〜702年) 第八次遣唐使派遣 大宝元年(702年)正月元旦 天皇が大極殿にお出ましになり、朝賀を受けられた。その儀式は正門において鳥の形をした幡を立て、左は日像青竜朱雀の幡、右は玄武白虎の幡であった。蕃夷の使者が左右に列す。文物の儀はこのときに定まった。 同年正月14日 新羅の使い薩さん金所毛が亡くなった。あし絹150疋、綿932斤、布100段を香典として贈った。小使級さん金順慶と水手以上の者に身分に応じて禄を賜った。 同年正月23日 民部尚書直大貳粟田朝臣真人を遣唐執節使とす。左大弁直参高橋朝臣笠間を大使とし、坂合部宿禰大分を副使とし、参河守許勢朝臣祖父を大位とし、刑部判事進大壱鴨朝臣吉備麻呂を中位とし、山代の国相楽郡令廣肆掃守宿禰阿賀留を小位とし、進大参錦部連道麻呂を大録(だいさかん)とし、進大肆白猪史阿麻留、同位の山上億良(やまのうえのおくら)を小録とす。  同年3月21日 対馬島が金を貢した。元号を建てて大宝元年とした。 4月12日 遣唐使等が天皇に拝謁した。  5月7日 入唐使の粟田朝臣真人に節刀を授く。 8月14日 播磨・淡路・紀伊の三国が申す。「大風、潮漲りて田園損傷す」と。使いを遣わして、農蚕を巡監し百姓を在問せしむ。又使いを遣わして河内・摂津・紀伊の国に、行在所を営造せしめ、あわせて御船三十八艘を造らしむ。予め水行(天皇の行幸)に備うという。 大宝2年(703年)6月29日 遣唐使等が去年筑紫より海に入る。風浪が冒険にして渡海することを得ず。ここに至ってすなわち発す。(出帆した) 巻第三(文武天皇・西暦703年〜707年) 大宝3年正月9日 新羅の国が薩さん金福護、級さん金孝元等を遣わして来朝し、国王の喪を告げせしめた。 同年閏4月1日 新羅の客を難波の館に饗応した。勅して曰く。「新羅の国が薩さん金福護の表に曰く。王は不幸にして昨秋より病を得、今春亡くなり永久に聖朝を辞す、と。朕思うに、その蕃の王は異域に居るといえど、守り育てる事においては我が子と同じ、寿命には終わりがあること人間の定めといえどもこのことを聞きてより哀感すでに甚だし。使いを差し向けて金銭を贈って弔うこととする。その福護等は遥か遠く蒼波を渡ってよく使いの趣旨を遂げた。朕はその辛苦を哀れみ、よろしく布帛を賜るべ。し 同年5月2日 金福護等が帰国した。 同年5月3日 漂着した新羅人を福護等に帯同させて国に帰らせた。 慶雲元年(704年)秋7月1日 粟田朝臣真人が唐国より帰った最初唐に入ったとき(唐)人来たって「いずこの使い人ぞ」と聞く。応えて曰く、「日本国の使い」と。我が国の使いが逆に問うて曰く。「此処はいずれの州ぞ」と聞く。応えて曰く。「ここは大周の楚州塩城県である」と。更に「此処から先は大唐か」と聞く。「今は大周という」と。「国の元号は何と改称したか」答えて曰く、「永淳二年なり」、と。「天皇大帝(周の高宗)が崩御した。皇太后(則天皇后)が位に上って聖神皇帝と称し、国名も大周となった。」問答終わって唐人は我が使いに曰く。「海東に大倭国があると聞く。これを君子の国という。人民は豊楽にして礼儀厚く行われる、と。今使い人を見るに儀容はなはだ浄し。あに、信ならざらんや」と。話し終わって去っていった。 同年8月3日 遣新羅使の従五位の上波多朝臣廣足等が新羅より帰った。 10月9日 粟田朝臣真人らが、天皇に帰朝の挨拶をした。正六位上の幡文通を遣新羅大使とした。  慶雲2年(705年)5月24日 幡文造通等が新羅より帰国した。 同年8月11日 遣唐使の粟田真人に従三位を授け、その使い下の人等に位を進めて物を賜う。各差あり。 同年10月30日 新羅の朝貢の使一吉さん金儒吉等が来朝した。 慶雲3年(706年) 正月元旦 天皇が大極殿にお出ましになり朝賀を受けられた。新羅の使い金儒吉等が列席した。 同年正月4日 新羅の使いが貢物を貢した。 同年正月7日 金儒吉等を朝堂において饗応した。国々の音楽を宮庭で演奏した。位階を叙し、禄を賜ること差あり。 同年正月12日 金儒吉等が国に帰るにあたり、王に勅書を賜って曰く。「天皇が敬って新羅王に問う。「使い人一吉さん金儒吉、薩さん金今古等が献上した調物はみな収めた。王が国を持ってよりこのかた、多く年歳を経て貢調することにおいて欠けることなく、使者も続いている。忠誠は明らかで、嘉みするところである。春とはいえまだ寒い。恙なしや。国内はまさに平安ならんか。使い人が今帰る。 同年2月22日 佐伯という名の船に従五位下の位を授けた。(佐伯は入唐の執節使従三位の粟田朝臣真人が乗る所のものなり) 慶雲4年(707年)3月2日 遣唐副使で従五位下の巨勢朝臣邑治等が唐国より帰ってきた。 同年5月18日従五位の下美努連浄麻呂および学問僧の義法、義基、惣集、慈定、浄達等が新羅より帰った。  巻第四(元明天皇・西暦707年〜709年) 慶雲4年(707年)8月16日 入唐副使・従五位下の巨勢朝臣邑治等の位を上げた。人によって差あり。従七位の鴨朝臣吉備麻呂に従五位下を授け、水手(水夫)等にまた、十年を給す。(租税免除か?) 和銅元年(708年)5月11日 始めて銀銭(和同開珎)を行う(使用させた)。 同年7月26日 近江の国に銅銭(和同開珎)を鋳造せしむ。 同年8月10日 初めて銅銭を行う(使用させた)。 和銅2年(709年)7月13日 越前・越中・越後・佐渡の四国の船百艘をして征てき所(蝦夷征討の根拠地)に送らしむ。 同年3月14日 海と陸の両道を取って新羅の使い金信福等を召された。 同年5月20日 新羅の使い金信福等が国の産物を貢した。 同年5月27日 金信福等を朝堂に招いて宴を催した。身分に応じて禄を賜った。国王に絹20疋、美濃あし絹30疋、糸200く、綿150屯を賜った。この日、右大臣の藤原さお身不比等が新羅の使いを弁官の庁内に導いて語って曰く。「新羅国の使いは古くより入朝すれども未だかって執政大臣と談話をしたことがない。しかるに、今日打ち解けて話し合うことは二国間のよしみを結びお互いの行き来の親しみを為さんと思ってのことである」と。使い人等は座を降りて拝した。座に戻って曰く。「使い等は国では身分の低い者です。しかるに王臣の教えを受けて聖朝に入ることができて身分が低いにもかかわらず、言うに言えない幸せです。まして椅子に腰掛けて親しくご尊顔に対面することは。恩教を承って伏して深く驚懼いたします」と。 同年6月1日 金信福等国に帰る。 巻第五(元明天皇・西暦710年〜712年) 和銅3年(710年)3月10日 始めて都を平城に遷す。(平城遷都) 和銅5(712年)年9月19日 従五位の下道君の首名をもって遣新羅大使となす。 同年10月28日 遣新羅使等が天皇にお別れの挨拶をした。 巻第六(元明天皇・西暦713年〜715年) 和銅6年(713年)5月11日 大倭参河をして雲母を献ぜしめ並びに、伊勢は水銀を、相模は石硫黄、白樊石、黄樊石を、近江は慈石(磁石)を、美濃は青樊石を、飛騨・若狭はともに樊石を、信濃は石硫黄を、上野は金青を、陸奥は白石英、雲母、石硫黄を、出雲は樊石を、讃岐は黄樊石をそれぞれ献ぜしむ。 同年8月10日 従五位の下道公首名が新羅より帰国した。 和銅7年(714年)11月11日 新羅の国が重阿さんの金元静等20人余り遣わして朝貢した。畿内七道の騎兵990人を集めた。入朝の儀丈兵とするためである。 同年11月15日 使いを遣わして新羅の使いを筑紫に迎える。 同年12月5日 少初位の下太朝臣遠建治等を南嶋の奄美、信覚(石垣)および球美(久米)等の嶋の人52人を南嶋より連れて来た。 同年12月26日 新羅使が入京した。従六位の下布勢朝臣人、正七位上の大野朝臣東人を遣わして騎兵170騎を率いて三崎に迎えさせた。 霊亀元年((715年)正月16日 百寮の主典以上並びに新羅使金元静等を中門に招いて宴を催した。諸国の音楽を演奏し、宴終わって身分に応じて禄を賜った。 同年3月23日 金元静等が国に帰った。大宰府に詔して綿5450斤と船一艘を賜った。 巻第七(元明天皇・西暦715年〜718年) 第九次遣唐使派遣 霊亀2年(716年)8月20日 従四位下の多治比真人県守を遣唐押使となし、従五位上の阿部朝臣安麻呂を大使となし、正六位下の藤原朝臣馬養を副使とした。大判官一人、少判官二人、大録事二人、少録事は二人である。  同年8月26日 正六位下の藤原朝臣馬養に従五位下を授けた。 同年9月4日 従五位下の大伴宿禰山守をもって、(阿部朝臣安麻呂に)代えて遣唐大使とす。 養老元年(717年)2月1日 遣唐使が神祇を三笠山の南に祭った。  同年2月23日 遣唐使等が天皇に拝謁した。 同年3月9日 遣唐押使で従四位下の多治比真人県守に節刀(全権委任の印)を賜う。 同年11月8日 高麗と百済の二国の兵士が本国の乱に遭って聖朝に帰服した。また、遣唐使の水手以上の者にその家族の徭役を免除した。 巻第八(元正天皇西暦718年〜721年) 養老2年(718年)5月7日 土佐国が次のように言上した 「公私の使いが直に土佐の国に向か場合、その道は伊予国を経由することになっています。行程は迂遠にして、山や谷は険難です。 ただし、阿波国は(土佐国)と国境を接して 往還ははなはだ容易です どうかこの国(阿波国)によって通路としていただきたい」と。朝廷はこれを許可した。 同年5月23日 遣新羅使等が天皇にお別れの挨拶をした。 同年10月20日 大宰府が次のように言上した 「遣唐使で従四位下の多治比真人県守が帰朝しました」と。  同年12月13日 多治比真人県守が唐国より帰る。 同年12月15日 (遣新羅使が)節刀を返上した。この度の使い人は凡そ欠員はなかった。前年の大使従五位の上坂合部宿祢大分も又ついて帰った。 養老3年(719年)正月1日 船二艘と独底船十艘を大宰府にそなえた。 同年正月10日 入唐使等(遣唐使で帰った人たち)が天皇に拝謁した みな唐国から授けられた朝服を着用していた。 同年2月10日 遣新羅使の正五位の下小野朝臣馬養等が帰国した。 同年5月7日 新羅の貢調使級さん金長言等40人が来朝した。 同年閏7月7日 新羅の使い人等が調物と騾馬の雌雄ひとつがいを献上した。 同年7月11日 金長言等に宴を賜わって国王と長言等に身分に応じて禄を賜った。この日、大外記従六位下白猪の廣成を遣新羅使とす。 同年8月8日 遣新羅使の白猪の史廣成等が拝辞す。 養老4年(720年)5月21日 1品舎人の親王勅によって「日本紀」を監修す。ここに至って完成し、紀30巻、系図一巻を奏上す。 養老5年(721年)12月 この月、新羅の貢調使大使一吉さん金乾安、福祉の薩金さん金粥等が筑紫に来朝す。太上天皇の崩御のために大宰府より帰らせる。 巻第九(元正天皇・西暦722年〜726年 養老6年(722年)4月21日 唐人の王元仲は、初めて飛ぶ船(船足の速い船)をつくり、これを奉った。天皇は大変ほめたたえて従五位下の位を授けた。 同年5月29日 遣新羅使の津の大録正七位下の津史治麻呂が天皇に拝謁した。 同年12月23日遣新羅使の津史治麻呂等が帰国した。 養老7年(723年)8月8日 新羅使の韓奈麻の金貞宿、副使の韓奈麻の昔楊節等15人が貢す。 同年8月9日 金貞宿等を朝堂において宴を催し射を賜い、諸国の音楽を演奏した。 同年8月29日 新羅使は国に帰った。 霊亀2年(725年)5月23日 遣新羅使の土師の宿祢豊麻呂等が帰国した。 神亀3年(726年)5月24日 新羅使の薩さん金造近等が来朝す。 同年6月5日 天皇が御殿の軒先にお出ましになり、新羅使は調物を貢す。 同年6月6日 金造近等を朝堂において宴を催し身分に応じて録を賜った。 同年7月13日 金奏勲等が帰国するに当たって、璽書を賜った。「伊さん金順貞よ、汝は国を安らかに治めて我が国に忠誠を尽くしている。貢調使薩さん金奏勲等が伝えるには順貞が昨年6月30日亡くなったという。哀しいことである。賢守は国を守って朕の最も信頼できる臣下であった。今は既に居ない。よい臣下を失ってしまった。せめて黄のあし絹10疋、綿100屯を香典として贈りその功績を忘れない。よって遊魂を慰める。 8月30日 太政官は次のように処分を出した。新任の国司が任地に向かう日、 伊賀・伊勢・近江・丹波・播磨・紀伊などの六カ国は任地までの食料と馬は支給しない 志摩・尾張・若狭・美濃・美河・越前・丹後・但馬・美作・備前・備中・淡路などの十二カ国には いずれも食料を支給する。その他の諸国はすべて伝符(伝馬利用資格の証明)を支給する。 ただし 大宰府ならびにその管内諸国に赴任する五位以上の官人には伝符を支給する その他の者は使いに応じて船を利用せよ 路次にあたる諸国は例に従って飲食を供給せよ。史生もまたこれに準じる。 霊亀4年(727年)9月21日 渤海郡の王の使い首領高斎徳等8人が出羽の国に来着す。使いを遣わして在問し、季節に合った服を与えた。 同年11月8日 南の島の132人が来朝す。身分に応じて位階を賜った。 同年12月20日 渤海郡の王の使い高斎徳等8人が入京す。 同年12月29日 使いを遣わして高斎徳等に衣服と冠と履物を賜った。渤海郡は元の高麗国なり。淡海の朝廷7年(天智天皇の時)冬10月、唐の将軍李せきが高麗を打ち滅ぼす。その後朝貢は久しく絶えた。ここに至って、渤海郡の王が寧遠将軍の高仁義等24人を遣わして朝貢させた。しかし、蝦夷の国境に漂着して仁義以下16人が殺害されて首領高斎徳等8人が僅かに死を免れて来たのであった。 神亀5年(728年)正月元旦 天皇が大極殿にお出ましになり、王臣百寮および渤海使等が朝賀す。 同年正月17日 天皇が中宮にお出ましになった。高斎徳等は国の王の書状と国の産物を奉った。その書に曰く。「武芸(渤海の王)が申し上げます。山河は地域が異なり国土も同じではありません。ほのかに風の便りによい政治をされていると聞いて、尊敬し仰ぎ見るばかりです。伏して大王を思いみれば天朝は天命を受けて日本の基を開き、代々光り輝き一系は百世に及んでいます。武芸は忝くも列国に当たっては徒に諸国を統べて高麗の元の所に復活しています。遥か遠くに離れ道は険しく隔たり、海や河は洋々と広がり、音信もままならず吉凶を問う事もできません。願わくは以前のように親しく助けていただくために使いを遣わし隣国のよしみを通じることを、今日を始めとして寧遠将軍郎将高仁義、游将軍果毅都尉徳周、別将舎航等24人を遣わして書状を持って併せて貂(てん)の皮300張を送り奉ります。つまらない物ではありますが、気持ちだけを添えたい思いからです。皮は珍しい物ではありません。‥‥」 同年2月16日 従六位下朝臣虫麻呂をもって送渤海客使(高斎徳等の帰国に付き添って渤海に赴く使い)とす。 同年4月16日 斎徳等8人に身分に応じて綵帛綾綿を賜った。そして、(渤海)国王に璽書を賜って曰く。「天皇が渤海郡の王に敬って問う。書状を見て元の国土を回復してこの度昔の誼みを修復することを知った。朕はこれを好しとする。義を佩び仁をもって国内を監撫し、滄波隔たるといえど行き来を断たざるべし。高斎徳等が帰国に当たって書状と贈り物の綵帛10疋、綾10疋、あし絹20疋、糸100く、綿200屯を持たせて送使を差し向けて国に帰らせる。ようやく暑くなってきた。平安にして好からんことを」と。 巻第十(聖武天皇・西暦727年〜730年) 神亀5年(728年)6月5日 送渤海使等が拝辞(天皇に挨拶)した。 同年6月7日 水手(かこ)以上すべて62人に身分に応じて位階を賜った。 天平2年(730年)8月29日 遣渤海使正六位上引田の朝臣虫麻呂等が帰朝した。 同年9月2日 天皇が中宮にお出ましになった。虫麻呂等は渤海王の送り物を献上した。 巻第十一(聖武天皇・西暦731年〜734年) 天平4年(732年)正月22日 新羅の使いが来朝した。 同年2月27日 新羅の使い等が天皇に拝謁した。 同年3月5日 新羅の使い韓奈麻の金長孫等を大宰府において召す。 同年5月11日 新羅の使い金長孫等40人が京入りした。 同年5月19日 金長孫等が天皇に拝謁した。いろいろな贈り物と鸚鵡一羽、く鵠一羽、蜀の犬1匹、猟犬1匹、驢馬2頭、騾馬2頭を奉った。 同年5月21日 金長孫等を朝堂に招いて宴を催した。詔があった。「来朝は3年に一度でよい」と。 同年6月26日 新羅の使いが帰国した。 8月11日 遣新羅使従五位の下角の朝臣家主らが帰還す。 第十次遣唐使派遣 同年8月17日 従四位上の多治比真人広成を遣唐大使とし、 従五位下の中臣朝臣名代を副使とす。判官四人・録事四人をつけた。 天平5年(733年)3月21日 遣唐の大使従四位上の多治比真人広成らが天皇に拝謁をした。 同年3月26日 遣唐の大使多治比真人広成が天皇に別れの拝謁をし、節刀を授けられた。 同年4月3日 遣唐の四船が難波の津より進発した。 天平6年(734年)11月20日 入唐の大使従四位上の多治比真人広成らが多祢嶋(種子島)に来着す。 同年12月6日 大宰府が知らせてきた。「新羅の貢調使の級伐さんの金相貞等が来て湊に泊まっています。」と。 巻第十二(聖武天皇・735年〜737年) 天平7年(735年)2月17日 新羅使の金相貞等が京に入った。 同年2月27日 中納言三位の多治比真人県人守を兵部の曹司に遣わして新羅使の入朝の趣旨を問わしむ。「新羅国はすなわち本号(国名)を改めて王城国という。」と。之に(貢朝国でありながら断りもなく国名を変えた無礼)因ってその使いを帰らせた。 同年3月10日 入唐の(遣唐)大使で従四位上の多治比真人広成らが 唐国より帰朝し節刀を返上した  同年3月25日 (遣唐使一行が天皇に)拝謁した。 同年4月26日 入唐留学生で従八位下の下道朝臣真備が唐礼百三十巻・太えん歴一巻・太えん歴立成十二巻・太陽の影を測る鉄尺一枚・銅律管一部・鉄如方響写律管声十二条・楽書要録十巻、絃纏漆角弓一張・面を露し四節に漆を塗った角弓一張・射甲箭廿隻・平射の箭十隻をを献上した。 同年5月7日 入唐使で請益の秦大麻呂が問答六巻を献上した。 天平8年(736年)2月18日 従五位の下阿倍の朝臣継麻呂をもって遣新羅大使とす。 同年4月17日 遣新羅使の阿倍の朝臣継麻呂等が天皇に拝謁した。 同年8月23日 入唐の副使の従五位上の中臣朝臣名代らが唐人三人・ペルシャ人一人を率いて天皇に拝謁した。 同年10月2日 唐の僧道せん、波羅門僧の菩提等に季節の福を施した。 同年11月3日 天皇は朝殿に臨んで、詔して入唐の副使の従五位上の中臣朝臣名代に従四位下を授けた。死没した判官・従六位上の田口朝臣養年富、紀朝臣馬主にはそれぞれ従五位下を贈り、準判官・従七位下の大伴宿禰首名、唐人の皇甫東朝・ペルシャ人の李密えいらには身分に応じて位階を授けた。 天平9年(737年)正月27日 遣新羅使の大判官従六位上の壬生の使い主宇太麻呂、少判官正七位上大蔵の忌寸麻呂等が京に帰った。大使従五位の下阿倍の朝臣継麻呂は津島停泊中に死んだ。副使の従六位下の大伴の宿祢三中は病のため入京できず。 同年2月15日 遣新羅使が新羅の国がいつもの礼を無視して使いの旨を受けなかったことを報告した。是において、五位以上並びに六位以下の官人45人を内裏に召して意見を述べしむ。 同年2月22日 諸司の意見の上奏文を報告した。あるいは、使いを遣わしてその理由を問う、、あるいは、兵を発して征伐を加えん、と。 同年3月28日 遣新羅使の副使正六位上大友の宿祢三中等40人が天皇に拝謁した。 天平10年(738年)正月26日 大宰府が申す。「新羅使の級さん金想純等147人が来朝しました、と。 同年6月24日 大宰府に使いを遣わして新羅使の金想純等に宴を催してのち帰国させた。 巻第十三(聖武天皇・西暦738年〜740年) 天平11年(739年)4月7日 中納言従三位の多冶比真人広成が亡くなった。広成は左大臣、正二位の多冶比嶋の第五子である。 同年7月13日 渤海使の副使雲靡将軍己珎蒙等が来朝した。 同年10月27日 入唐使の判官外従五位の下平朝臣広成等、並びに渤海の客等京に入る。 同年11月3日 平群朝臣広成が天皇に拝謁した、。広成ははじめ天平五年に大使多治比真人広成にしたがって入唐し、六年十月に使命を終えて帰国する時、四船が同時に蘇州より出発して海に乗り入れた。たちまち悪風が起こってお互いに見失ってしまった 広成の乗った船の百五十人は崑崙国に漂着した。そこに賊兵が来て包囲されついに虜にされてしまった。船人はあるいは殺され、あるいは逃げ散り、残った者九十人あまりも病気にかかり死亡した.。広成ら四人はわずかに死を免れ、崑崙王に謁見することができた。そして食料を与えられ粗略なところに置かれた。天平七年に唐国の欽州の人で唐に帰順した崑崙人がそこへきた。ひそかに頼み船に乗せられて唐国に帰ることができた。そして日本の留学生の阿倍仲満(あべのなかまろ)に会い、その上奏で唐の朝廷に入ることができた。渤海経由の路を通って日本に帰ることを請願した。天子はこれを許し、船と食料を支給して出発させた。10年3月に登州より海に出て、5月に渤海の境域に到着した。たまたま、渤海王大欽茂が使いを遣し、わが朝廷をおとずれようとしているのに会ったので、すぐにその使節に同行して出発して荒れた海を渡る途中で、渤海の船の一隻が浪に遭って転覆し、大使のしょう要徳等四十人が水没死亡した。広成等は残った者たちを率いて出羽の国に到着した。 同年12月10日 渤海使の己珎蒙らが朝廷を拝し、その王の手紙と国の産物を献上した。 その手紙の文は次のようであった「欽武が申し上げます。山河は遠く離れて、国土も遥かです。風猷を佇み望みますにただ尊敬を増すばかりです。伏して思いますに、天皇の聖叡は徳高く遥かに行き渡っています。歴代の葉が重なり光るように恩沢は万姓に及んでいます。金茂は忝くも祖業を継ぎましたが国を治めること始めと変わりません。義は広く情けは深く、常に隣国との友好を計っています。今、日本の使者の平群広成等が 風や潮に災されて、漂流してこの地に来ました。つねに丁重にもてなして、来春を待って帰国させようと思いましたが、 使者らは一刻も早い帰国を望み、年内に帰り去らん事を強く望んでいます。訴えの言葉は甚だ重く、隣国との義理は軽くありません。よって旅に必要な品を準備し、すぐさま出発させることとしました。そこで 若忽州都督のしょう要徳らを差し向けて、広成等を引きつれて日本に送らせます。あわせて虎の皮と羆の皮をそれぞれ七張、豹の皮六張、(朝鮮)人参三十斤 蜂蜜三石をつけて進上します。そちらに着きましたら、お調べの上お納めください」と。 同年12月21日 外従五位下の平群朝臣広成に正五位上を授けた。その他の水手以上にもそれぞれ身分に合わせて位を授けた。正六位上の祢仁傑には下従五位の下を授けた。 天平12年(740年)正月元旦 天皇は大極殿にお出ましになり、朝賀を受けられた。渤海郡の使い、新羅の学語等も同じ列に加わった。 同年正月7日 渤海郡の副使雲靡将軍己珎蒙等に身分に応じて位階を授けた。朝堂で宴を賜った。渤海郡の王に美濃のあし絹30疋、絹30疋、糸150く、調綿300屯を賜った。己珎蒙には美濃のあし絹20疋、絹10疋、糸50く、調綿200屯を賜った。その他の者もそれぞれ身分に応じて賜った。 同年正月13日 下従五位下の大伴の宿祢犬養をもって遣渤海大使とす。 同年正月17日 天皇は大極殿の南門におでましになり大射をご覧になり、百官および渤海使の己珎蒙等にも命じて射をさせられた。 同年正月29日 使いを客館に遣わして渤海大使の忠武将軍胥要徳等に従二位を、首領の無位の己閼棄蒙に従五位の下を授けられ、あわせて調布150端、庸布60端を香典として贈られた。 同年正月30日 天皇は中宮の閤門にお出ましになった。己珎蒙等は国の音楽を演奏した。帛綿を身分に応じて賜った。 同年2月19日 百済の王等が風俗の楽を演奏した。従五位の下の百済の王慈敬に従五位の上を、正六位上の百済の王全福に従五位の下を授かった。 同年3月15日 下従五位の下・紀の朝臣必登を遣新羅大使とす。 同年4月2日 遣新羅使らが出発の別れの挨拶をした。 同年4月20日 遣渤海使等が出発の別れの挨拶をした。 同年9月21日 大将軍大野朝臣東人等に詔して曰く・「遣新羅使の船が長門国に停泊していることを知った。その船に積んであるものは 便宜に従って長門国に収蔵し、使節の中に討伐に採用すべき人があれば将軍はそのものを任用するがよい。(藤原の広嗣の乱討伐により軍の転用を計った) 同年10月5日 遣渤海郡使下従五位の下大伴の宿禰犬養らが帰朝した。 (天平12年(740年藤原広嗣の乱勃発) 同年10月9日 逆賊藤原広嗣は衆一万ばかりの騎馬を率いて板き河に到る。広嗣は自ら隼人軍を率いて先鋒としたり。すなわち、木を編んで船を作り将に河をわたらんとす。‥‥ 同年10月15日 遣新羅国司下従五位の下の紀の朝臣必登等が帰り着いた。 同年11月3日 大将軍東人等が申す。「進士無位の安倍朝臣黒麻が今月(10月)23日逆賊の広嗣を肥前の国松浦郡値嘉の嶋長野村で捕らえた」と。詔して曰く。「10月29日の奏上を見て逆賊広嗣を捕らえ得たことを知った。その罪は明らかにして疑うべきに在らず。よろしく法によって処決し、然る後に報告せよ」と。 同年11月5日 大将軍の東人が申す。「今月1日をもって、肥前の国松浦郡において、広嗣と綱手を斬り終わった。」と。‥‥更に申して曰く。「広嗣の船は知駕島から出発し、東風を得て四日にして嶋を見る。船上の人の言う。「これは耽羅嶋なり」と。この時に東風がなお吹きつけて船は海中に留まり進み行かず。漂蕩すること一日一夜を経て西風がにわかに起こりて更に船を押し返した。ここにおいて、広嗣は駅鈴一口を自ら捧げていう。「我は之れ大忠臣なり。神霊は我を捨てたまうや。神力に頼りて風波しばらく静かならんことを乞う」と。鈴を海に投げいれどもなお、風波はいよいよ激しく、遂に、等保知駕嶋の色都嶋に着いた。」と。 巻第十四(聖武天皇・西暦741年〜742年) 天平14年(742年)2月3日 大宰府が報告した。「新羅の沙さん金欽英ら187人が来朝した」と。 同年2月5日 新京の草創宮室が未だ完成しないので、右大弁の紀朝臣飯麻呂等をして金欽英ら太宰に於いて饗応させて、そこから帰還させた。            続日本紀(中) 巻第十五(聖武天皇・西暦743年〜744年) 天平15年(743年)3月6日 筑前国司が申す。「新羅の使薩さん金序貞等が来朝しました」と。 同年4月25日 新羅客使(新羅使を世話する役人)の多治比の真人土作等が申す。「新羅の使は貢ぎ物を土毛(みやげ物)と称して書面の奥に物の数を注書きしています。之を旧例にはかりますに大いに常礼を失しています。」と。太政官は水手以上を召して告げるに、「礼を失する書面の故をもってすなわち直ちに帰らすべし」と。 同年5月28日 備前の国が申す。「邑久郡新羅村の邑久浦に大魚52匹が漂着しました。長さは二丈三尺以下、一丈二尺以上、皮は紙の如く薄く、眼は米粒に似たり。声は鹿が鳴く如し。故老は皆未だかって聞かずと言います」と。・ (難波の宮遷都) 天平16年(744年)2月20日 恭仁宮の高御座ならびに大楯を難波の宮に運ぶ。又使いを遣わして、水路を取り兵庫の器杖(武器)を運漕させた(船で運ばせた)。 巻第十六(聖武天皇・西暦745年〜746年) 第十一次遣唐使派遣 天平18年(746年)10月9日 安芸の国をして舶(大きい船)二艘を造るよう命じた。 同年12月10日 この年、渤海の人と鉄利(満州地域の種族か)の人総て1100人が日本の天皇の徳化を慕って来朝した。出羽国に留めて、衣類や食糧を給し還らせた。 天平勝宝元年(749年)4月1日 「海行かば、水浮く屍(かばね)、山行かば、草むす屍、大君の幣にこそ死なめ、のどには死なじ」 巻第十八(孝謙天皇・天皇・西暦750年〜752年) 第十二次遣唐使派遣 天平勝宝2(750年)年9月24日 遣唐使を任命した。従四位下の藤原朝臣清河を大使とし、従五位下の大伴宿禰古麻呂を副使とし、判官・主典はそれぞれ四人を任命した。 天平勝宝3年(751年)2月17日 遣唐使に随行する雑色人(各種の業務担当の下級官人)113人に、それぞれの仕事に応じて位階を授けた。 同年4月4日 参議・左中弁で従四位上の石川朝臣年足らを遣わして伊勢大神宮に幣帛(みてぐら)を奉った。又使いを遣わして畿内・七道の諸社に幣帛(みてぐら)を奉った。遣唐使らをして平らかならしめんがためなり。 同年11月7日 従四位上の吉備朝臣真備をもって遣唐使の副使とす。 天平勝宝4年(752年)3月3日 遣唐使等が天皇に拝謁した。  同年閏3月9日 遣唐使の副使以上を内裏に召す。勅して節刀を給う。大使の従四位上藤原朝臣清河に正四位下を、副使に従五位上の大伴宿祢古麻呂に従四位上を、留学生で無位の藤原朝臣刷雄に従五位の下を授ける。 同年3月22日 大宰府が次のように奏上した。「新羅の王子で韓阿さんである金泰廉・貢調使で大使である金喧および王子を送る使いの金弼言ら700人が船7艘に乗って来泊す」と。 同年3月28日 使いを遣って、大内、山科、恵我、直山等の陵に新羅の王子の来朝の知らせを告げさせた。 同年4月9日 慮遮那大仏の像成りて始めて開眼す。この日、天皇は東大寺に行幸ありて、天皇自ら文武の百官を率いて供養の大食事会を設けた。その儀式は元旦と同じであった。五位以上は礼服を着、六位以下は普段着であった。僧侶一万をして参列させた。既にして、雅楽寮および諸寺のいろいろな音楽並びに皆悉く集まり来る。また、王臣の諸氏の五節、粂舞、盾状、踏歌、袍袴などの歌舞あり。東西より声を発して前庭に別れて奏す。勝れて立派な事かって記す事ができないほどであった。仏法が東へ来たってより、未だかってこの盛んなる如くはあらず。大仏開眼供養 同年6月14日 新羅の王子金泰廉等が天皇に拝謁し併せて貢物を献上した。奏して曰く。「新羅国の王が日本に照臨される天皇の朝廷に申し上げます。新羅国は昔から世世絶えることなく船楫を連ね来てお国に報じています。今、国王自ら来朝して貢物を献上しようと思いますが、一日も主無くば国政が乱れます。これをもって王子の韓阿さん泰廉を王に代わる首として370余人を引き連れて入朝させいろいろな貢物を献上させます。謹んでもって申し開きをいたします。」「王の勤誠は朕の嘉する所なり。爾来当に撫で親しみを加える。」泰廉がまた次のように申し上げた。「普くあめつちの下は王土(天皇の国土)にあらざるは無く、卒土(=陸地の続くかぎり)の浜は王の臣下にあらざるはなし。泰廉は幸いにして聖世(=聖人が治められる御世)に来て来朝して供奉(=仕える)することは歓慶に堪えません。持参しました国の粗末な貢物ですが謹んで献上します。」と。泰廉が奏した事を「聞き届ける」と詔りがあった。‥‥ 同年7月24日 泰廉らは帰るにあたり難波の館の入った。勅あり、使いを遣わして絹布並びに酒肴を賜る。 同年9月24日 渤海使の輔国大将軍慕施蒙等が越後の国佐渡が嶋に着く。 巻第十八(孝謙天皇・天皇・西暦752年〜756年)  天平勝宝5年(753年)2月9日 従五位の下小野朝臣田守をもって遣新羅の大使とす。 同年5月25日 渤海使の輔国大将軍慕施蒙等が天皇に拝謁し、並びに貢物を献上した。奏して曰く。「渤海の王が申し上げます。日本に照臨される聖天皇の朝廷に使命を給わざる事すでに十余年を経ます。これをもって、慕施蒙等75人を遣わして貢物を献上します」と。 同年6月8日 慕施蒙等国に帰る。璽書(=天皇の印を押した文書)を賜いそれに曰く。「天皇は敬って渤海国の王に尋ねる。朕は徳は少ないが、謹んで宝国を奉っている。黎民(=人民)を亭毒(=育て養い)して八極(=世界の隅々まで)に照臨(=君臨)している。王は海外の僻地に居て、遠く使いを入朝させた。深く嘉しとするところである。但し書状を省みるに、臣下の名を名乗っていない。さて、高麗の旧記を調べると、国を平定したおりの上表では次のように言っている。[家族としてはこれ兄弟に当たります。義では君臣に当たります。あるときは援兵を乞い、あるいは天皇の即位をお祝いし、朝廷の公式の儀式を修め、忠誠の気持ちを奉ります]と。故に、先の朝廷おいてその貞節を嘉して特別な思いを持いる。王の栄えある運命の盛んなる事日に新たにして絶えることが無い。思うにこれを知るならんか。何ぞ一、二言うに変りあらんか。これにより、前回の来朝の後、既に勅書(注意の書)を送った。どうして今回の来朝に於いて再び上表が無いのか。礼をもって行動する事は貴国もわが国もともに同じである。王はよくよくこれを思え。季節は夏、はなはだ暑い。この頃は恙無きや。使者を今送帰す。注意をするとともに、別記のように贈り物を届けさせる。」 天平勝宝6年(754年)正月16日 入唐の副使・従四位上の大伴宿禰古麻呂が帰国した。唐僧の鑑真と法進ら8人を連れて帰朝した。鑑真来朝  同年1月17日 大宰府が次のように上奏した。「入唐の副使・従四位上の吉備朝臣真備の船が、去年12月7日に屋久島に来着しました。 その後 屋久島より出発し、漂流して紀伊国の牟漏の崎に着きました」と。 同年1月30日 副使・大伴宿禰古麻呂が唐国から帰国した。古麻呂はつぎのように奏上した。「大唐の天宝12年、正月元旦に、百官と諸国が朝賀しました。天子は蓬莱宮の含元殿において、朝賀を受けられました。私は西側の第二列吐番(チベット)の下に、新羅の使いは第一列の大食国(ペルシャ)の上に位置しました。古麻呂は抗議して言いました。「古より今に到るまで新羅の朝廷は大日本国に朝貢すること久しいのです。然るに、今、東側の上に列して私はその下に置かれることは義に合わず納得できません。」と。時に呉将軍懐實は古麻呂が納得できない顔色を見て、新羅使を下げて西側の第二の吐番(チベット)の下に置きました。そして日本の使いを東側第一の大食国(ペルシャ)の上に置きました。 同年2月20日 天皇は大宰府に次のように勅した。「去る天平7年、故大弐・従四位下の小野朝臣老は、高橋連牛養を南島に遣わして立て札を建てさせた。しかしその立て札は年を経て、今では既に朽ちこわれてしまった。そこで元のように立て札を修理して建て、どの立て札にも島の名、船の泊まるところ、水のあるところ、および、最寄の国までの距離と、遠くに見える島の名を明らかにして、漂着する船に帰りつくところを知らせるようにせよ」 同年3月17日 大宰府は次のように申す。 「使いを遣わして入唐第一船を尋ね問い合わせるに、その消息を言ってきました。第一船は帆を上げて奄美大島を指して発し去る。未だその着くところを知らず、と」 同年4月7日 入唐廻使(遣唐使として入唐し無事に帰国した者)・従四位上の大伴宿禰古麻呂と吉備朝臣真備にそれぞれ正四位下を授く。 また判官・正六位上の大伴宿禰御笠と巨万朝臣大山にはそれぞれ従五位下を授けた。 その他の使いの下にいる二百二十二人にも地位に応じて位階を授けた。 同年4月18日 大宰府が申す。「入唐第四船の判官・正六位上の布勢朝臣人主らが 薩摩国の石垣浦に来着し停泊しています」と。 天平勝宝8年(756年)10月7日 太政官は次のように処分した。「山陽・南海(道)などの諸国の白米は今より後は 海路をとって船送りせよ。もし船が遭難して白米が損失することあらば、天平八年五月の符によって、五等分し三分は綱領(ごうりょう=運京責任者で郡司が任ぜられる)より徴収し、2分は運送の人夫より徴収せよ。ただし 美作と紀伊の二国はこの限りにあらず」と。 巻第二十(孝謙天皇・天皇・西暦757年〜758年) 天平宝字2年(758年)3月16日 播磨と速鳥の名を持つ船にそれぞれ従五位下に叙す。その冠は錦で造らせた。入唐使の乗るとtころのものなればなり。 巻第二十一(孝謙天皇・天皇・西暦757年〜758年) 天平宝字2年(758年)9月18日 小野朝臣田守等渤海より帰る。渤海大使輔大将軍兼将軍行木底州の刺史兼兵署少正開国公揚承慶以下二十三人が田守に附いて来朝す。すなわち、越前の国に安置す。 同年10月28日 遣渤海大使従五位の下小野朝臣田守に従五位の上、副使の正六位下の高橋朝臣老麻呂に従五位の下を、その他の66人にそれぞれ身分に応じて位階を授けた。 同年12月10日 遣渤海使の小野朝臣田守等は唐国の消息を報告した。(安禄山の変を報告した。) 同年12月24日 渤海使の揚承慶等が都入りした。 巻第二十二(淳仁天皇・西暦759年〜760年) 第十三次遣唐使派遣 天平宝字3年(759年)正月元旦 (天皇が)大極殿にお出ましになり朝賀を受けられた。文武百官および高麗の蛮客らが儀式にしたがって拝賀す。 同年正月3日 天皇は宮殿の端近くにおでましになった。高麗の使い揚承慶等は土産の品を献上し、奏して曰く。「高麗国の王大欽茂が申し上げます。お聞きしますに日本において八方を照臨された聖明の皇帝が遠く天の宮に登られた(崩御された)、と。心より慕っていて黙視するわけには行きません。輔国将軍揚承慶、帰徳将軍揚泰師等を使いとして表文といつもの朝貢品を持たせて入朝させます。」と。 同年正月18日 天皇は宮殿の端近くにおでましになった。高麗の大使揚承慶に正三位、副使の揚泰師に従三位、判官の馮方禮に従五位の下を、禄事以下19人にはそれぞれ身分に応じて位階を授けた。国王および大使以下に禄を給うこと差あり。五位以上および蛮客並びに主典以上を朝堂に於いて饗宴し、女楽を舞台においてなさしめ、は内教坊の踏歌を庭に奏せしむ。客と主典以上はこれに続いて行った。終わって綿を給うこと差あり。 同年正月30日 正六位上の高元度に外従五位下を授け、迎入唐大使使(天平勝宝四年度の大使藤原清河を迎える使い)とす。 同年2月1日 (天皇は)詔して曰く。「高麗国の王は先朝(聖武天皇)が天の宮に登ったことを聞いて黙視する事ができず揚承慶らをして慰問せしむ。これを聞くと痛感して王の永年の慕う心をますます深く思う。ただし、歳月は既に改まって、国内は旧に復している。故にその礼もって相待たざるとなり。また、旧心を忘れず、使いを遣わして来貢せしむは勤誠の至りと深く嘉し称える」と。旧例に随って年改まっても更に余事はしない。また、送られた信物(土産品)は数のとおり受領した。すなわち、帰還する使者に土毛(特産品)の絹四十疋、美濃のあしぎぬ三十疋、糸二百く、綿三百トンを相酬いる。さらに錦四疋、両面(織り)二疋、纈羅(絞りの羅)四疋、白の羅十疋、彩帛四十疋、白綿百帖を贈る。物は軽く少ないが思いを寄せる事は深い。よろしく皆納めてほしい。(わが国の)国使についてきたので、乗って帰る船が無い。よって、単使を差し遣わせて貴国に送らせる。(送る使いは)そちらから大唐に行き、前の年の入唐大使藤原朝臣河清を迎えさせようと思う。よろしく取り計らうべし。寒さ未だ退かず。思うに王には変わりは無いだろうか。書を遣わすが思いは多く伝える事ができない。」と曰く。 同年2月16日 揚承慶等は国に帰った。高元度等もまた相随って出発した。 同年3月24日 大宰府が申す。府官(大宰府を預るもの)として見ますと、まさに安からざる事が四つあります。警護式(太宰府警護の細則集)にると、博多の大津および壱岐・対馬などの要害のところにおいて、船百隻以上をおいて不慮に備うべし、と。今船の用いるべきものなく、互いに大事な事が欠けていることが安からざる事の一つです。‥‥天皇は次のように勅した。「船は公用の食料を支給し、人民の雑徭によって造るべし」と。 同年(759年)9月4日 天皇は大宰府に詔した。「このごろ新羅(の人々)はわが国に移り住もうとして舳櫓絶えず。(船が次々とやって来る)租税や労役の苦労を避けるため遠く墳墓の郷(祖国)を捨てる。ここに、その気持ちを思うに、祖国を思う気持ちが無かろうはずが無い。再三事情を聞いて、帰りたいと思う者は食料を支給して帰らせるべし、と。 同年9月19日 船五百艘を造らせる。北陸道の諸国には89艘、山陰道の諸国には145艘、山陽道の諸国に161艘 南海道の諸国に105艘、農閑期をえらんで営造し、3年の内に完成させることにした。 新羅を攻めるがためなり。 同年10月18日 藤原河清を迎える使いの判官内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)は渤海を廻って帰国するとき、海上で暴風にあって対馬に漂着した。渤海使の輔国大将軍兼将軍・玄菟州勅史兼押衙官・開国公の高南申が相随って来朝せり。携えた書状によると、「藤原河清を迎える使い総て99人。大唐の禄山(安禄山)は先に天朝に逆らい、思明が次に乱を起こし国内外は騒じょうしていまだ治まっていません。帰国せんと欲すれども恐らくは害残せられましょう。(死に目に会うでしょう)また、帰ることを引き止めんと欲すれども、貴国の意に違うことになります。そこで、頭首の高元度等11人を出発させて大唐に行って河清を迎え、この使いをもって貴国に送らせます。判官全成等は皆お国に放ち帰らせます。また、この使いを随い行かせて事の詳細を報告させます。」と。 同年10月23日 高麗の使いを大宰府に呼び寄せた。 同年12月19日 高麗の使い高南甲、我が国の判官内蔵の忌寸全成等が難波の江口に到着す。 同年12月24日 高南甲が京に入った。 天平宝字4年(760年)正月4日 天皇は宮殿の端近くにおでましになった。渤海国の使い高南甲等は土産の品を献じた。奏して曰く。「国王の大欽茂が申し上げます。日本の朝廷の遣唐大使特進兼秘書監の藤原朝臣河清の書状といつもの貢の品を献せんがために輔国大将軍高南甲等を差し使わせて使いとし入朝させます」と。天皇は勅して曰く。「遣唐の大使藤原河清は永年帰ってこないので心配しているところである。しかるに、高麗の王は南甲を差し遣わせて河清の書状を持って入朝させた。王の忠誠は実に嘉する事である」と。 同年2月20日 この日、渤海の使い高南甲等が国に帰った。 巻第二十三(淳仁天皇・西暦760年〜761年) 天平宝字4年(760年)9月16日 新羅国は級さん金の貞巻を遣わして朝貢させた。(使者の身分が低い事と礼を失している事を挙げて使者を門前払いして帰らせた) 同年11月11日 高南甲を送った使いの従五位の下陽侯の史玲きゅうが渤海より帰った。 天平宝字5年(761年)8月12日 藤原河清を迎える使いの高元度らが唐国から帰国した。はじめ、元度が使いを奏する日に、渤海道を経て賀正の使い揚方慶等に付いて唐国に行った。使命終えて帰国するとき、甲冑一具、代刀一口、槍一竿、矢二隻を元度に分け与えた。また、内使(皇帝からの直接の使い)が皇帝の勅を伝えて曰く。「特進の秘書監藤原河清は今使いの書状によって(日本に)帰国させようと思う。ただ反逆の賊が未だ残っていて平安ではなく、道路は難多からん事を心配する。元度は南路をとって先に帰って報告すべし。そして、中謁者(皇帝の側近)の謝時和をもって元度等を引き連れて蘇州に向かわせ、刺史李こと相談して船一隻長さ八丈なるを造らせて、併せて押水手の官吏越州の浦陽府の折衝賞紫金魚袋沈惟岳等9人の水手、越州浦陽府の別将賜漉、張什等30人をして元度等の帰朝を送らせる。大宰府において安置す。 第十四次遣唐使派遣 同年10月10日 従五位上の上毛野公(かみつけのきみ)広浜 他従五位下の広田連小床、六位以下の官人6人を遣わして、遣唐使の船四隻を安芸の国で造らせる。 同年10月22日 右虎兵衛府督で従四位下の仲真人石伴を遣唐大使とす。上総守従五位の上石上の朝臣宅嗣を副使とし、武蔵の介従五位の下高麗朝臣大山をもって遣高麗使とす。 同年11月3日 藤原河清を迎える使いで外従五位下の高元度に従五位上を授けた。その録事の羽栗翔は河清のところに留まって帰国しなかった。 同年11月17日 従四位下の藤原恵美朝臣朝狩を東海道使とす。正五位下の百済朝臣足人と従五位上の田中朝臣多太麻呂を副とした。判官は四人、録事は四人。その管轄するところは遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野などの十二カ国である。船百52隻、兵士15700人、子弟78人、水手7520人を検査して決める。その数のうち2400人は肥前国、200人は対馬嶋からとる。従三位の百済の王敬福を南海道使とす。従五位の上朝臣田麻呂と従五位下の小野朝臣石根を副とす。判官は四人、録事は四人。その管轄するところは、紀伊・阿波・讃岐・伊予・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防など十二カ国である。船121隻、兵士12500人、子弟62人、水手4920人を検査して決める。正四位下の吉備朝臣真備を西海道使とす。従五位上の多治比真人土作と佐伯宿禰美濃麻呂を副とす。判官は4人、録事は4人。その管轄するところは、筑前・筑後・肥後・豊前・豊後・日向・大隈・薩摩などの八カ国である。船121隻、兵士12500人、子弟62人、水手4920人を検査して決める。兵士らには皆三年の田租を免除してことごとく弓馬の訓練をし、五行の陣立てを調練して習得させる。そして残った兵士は兵器を造らせる。 巻第二十四(淳仁天皇・西暦762年〜763年) 第十五次遣唐使派遣 天平宝字6年(762年)3月1日 遣唐副使の従五位の上石上の朝臣宅嗣は遣唐副使をやめさせられる。左虎兵衛府督で従五位の上藤原朝臣田麻呂を副使とす。 同年4月17日 遣唐使の船一隻に乗って安芸の国から難波の江口に到着した時、灘に着して浮かばず。(早瀬に乗り上げて沈んでしまった。)その舵もまた出発する事ができず、浪のために揺さぶられて船尾が破裂した。ここにおいて、使い人を節約して二艘の船をもってす。(普段は4艘の遣唐使船を2艘とすることにした)判官正六位上の中臣朝臣鷹主に従五位下を授けて、遣唐大使に任じ節刀を賜った。正六位上の高麗朝臣広山を副とした。 同年7月19日 この月、唐人を送る使いの従五位下の中臣朝臣鷹主等は、風波無くして渡海することを得ず。 同年8月9日 天皇は次のように勅した。「唐人沈惟岳等は大宰府に着いた。先例に依って安置し必要なものを支給せよ。(唐人等を)送る使は海陸二路の便を考えて全員を京へ入らしめよ。その水手たちはそこから郷里へ自由に帰らせよ。 同年10月1日 正六位上の伊吉連益麻呂等が渤海より帰る。その国使紫綬太夫行政堂左允開国男新福以下23人がともに来朝す。越前の国加賀郡に安置し必要な物を支給した。我国の大使従五位の下高麗の朝臣大山は、去る日、船上において病に臥し佐利翼(出羽の国にあったらしい)の湊で亡くなった。 同年11月1日 正六位上の借緋多治比真人小耳をもって、高麗人を送る使いとす。 同年12月21日 遣高麗大使従五位の下(故)高麗朝臣大山に正五位の下を、副使正六位上伊吉連益麻呂に下従五位の下を、判官以下水手以上に地位に応じて位階を授けた。 同年閏12月19日 高麗の使い王新福等が京入りした。 天平宝字7年(763年) 正月3日 高麗の使い王新福が土産物を献じた。 同年正月7日 天皇が御殿にお出ましになり、高麗の大使新福に正三位を、副使の李能本に正四位上を、判官楊懐珍に正五位上を、品官着緋達能信に従五位の下を、その外の者には地位に応じて位階を授けた。国王および使{人(しけん=従者の人等)以上に地位に応じて禄を授けた。五位以上の者および蕃客(高麗の大使等の事)と饗宴を催し、唐楽を前庭で演奏せしめた。 天平宝字7年(763年)正月17日 天皇は御殿にお出ましになり、五位以上の者および高麗の蕃客、文武百官の主典以上と朝堂において饗宴を催した。唐の吐羅人、林邑人(南ベトナム)、東国人、隼人等が音楽を演奏し、内教坊の踏歌を主客ともども主典以上の者たちが踊った。高麗の大使新福が次のように奏上した。「李家の太上皇(玄宗皇帝)と少帝(玄宗粛宗)がともに崩御しました。廣平王が摂政となりましたが、穀物は集まらず、国民は相争っています。史家の朝議は聖武皇帝と自称し、性格は仁恕(思いやりが)あって、多くの人が付き随っています。軍隊の勢いは強く敵う者はありません。ケ州や襄州は既に史家に属して李家はただ蘇州のみを持つだけです。したがって、唐への朝貢の道は通行は困難です」と。天皇はこれを聞いて次のように大宰府に詔をした。「唐国は荒乱して両家が雄を争っている。未だ収まる事を期せず。使命は達し難し。沈惟岳等は手厚く安置し必要なものを支給せよ。季節の衣服は府庫のものを支給するようにせよ。もし国を思う気持ちが深く国に帰りたいとする者には船と水手を与えて出発させるように計らえ。 同年2月10日 新羅の国が級さん金體信以下211人を遣わして朝貢した。左少弁従五位の下大原朝臣真人今城、讃岐介下従五位の下池原の公禾等を遣わして貞巻に約束させた旨を問わしめた。體信は言って曰く。「国王の教えを承ってただ貢物を献上するだけです。ほかのことに付いては知るところではありません」と。ここにおいて、今城は告げて曰く。「乾政官は、このたびの使者は京に入れていつものように処遇する。しかし、使い等は貞巻に約束させた趣旨をかって申すことなく、ただいつもの朝貢の品を持って入朝し、そのほかのことは知るにあらずという。これは使いの者が言うべき事にあらず。今後、王子かさもなくば執政太夫等をして入朝せしめよ。この書状をもって宜しく、汝が国王に知らしむるべし」と。 同年2月20日 高麗の使い王信福等は帰国した。 天平宝字7年(763年)5月6日 大和上(だいわじょう)の鑑真が逝去した。 和上は揚州竜興寺の大徳(高僧)なり。博(ひろ)く経典論に渉りもっとも戒律に精し(くわしく)、江淮(長江(揚子江)と淮水(わいすい))の間において、ただ一人の化主(指導者)となった。天宝二年(我国の天平15年)に、留学の僧栄叡(ようえい)・業行らが和上に告げて曰く。「仏法は東流してわが国に伝わりました。その教えはありますが、それを授する人がおりません。幸いに願わくは、和上が東遊して(我国に来て)お教えを興隆せんと」と。訴えの言葉が丁寧で、請願してやまなかった。すなわち、(鑑真は)揚州において船を買って海に乗り出した。しかし、中途にして暴風のために漂って、船は波で打ち破られた。和上は一心に念仏す。人皆これによって死を免れた。天宝7年(天平20年)に再び渡海す。また風浪に遭って日南(ベトナム北部)に漂着した。時に、栄叡(ようえい)が亡くなった。和上は嘆き悲しんで失明す。天平勝宝4年に、わが国の使いがたまたま唐に朝貢したとき、業行が(鑑真に)宿願を打ち明けた。(鑑真は)ついに弟子24人とともに、副使・大伴宿禰古麻呂の船に乗って帰朝した。(鑑真を)東大寺に安置して供養した。このとき天皇の勅ありて、一切の経論を校正せしめた。しばしば誤字があり、諸本がみな同じでよく正す者がなかった。和上はすべてよく暗誦しているため多くの詩文を改め正した。またいろいろな薬物についても、真偽を見分けさせたが、和上は一々鼻でかいで区別し、一つも誤らなかった。聖武天皇は(鑑真)を師として受戒された。皇太后(光明)が病気になったときも、鑑真が奉った医薬が効き目があった。大僧正の位を授けられた。にわかに網務(僧綱としての務め)が煩雑になったため、改めて大和上の称号を授け、備前国の水田一百町を施し、また新田部(にいたべ)の親王の旧宅を施して戒院とした。今の唐招提寺がこれである。和上はあらかじめ死ぬ日を知っていて、その時に到って、端座してやすらかに遷化(逝去)した。ときに年77才であった。 同年8月12日 高麗国(渤海国)に遣わす船を名づけて能登という。帰朝の日に風波暴急にして海中に漂蕩した。祈って曰く。「幸いに船の霊によって平安に国に帰りついたなら必ず朝廷にお願いして酬いるに錦の冠をもってせん」と。これによって、かねて祈祷の約束に従い、従五位下の位を授けられる。その冠は表は錦で作り裏はあし絹にて紫の組紐で纓(えい=あごの下で結ぶ紐)であった。 同年10月6日 左兵衛の正七位下板振り鎌束が渤海より帰国するとき、人を海に投げ入れた事で勘当せられ牢獄に入れられた。8年の乱で牢獄が罪人で満ち溢れ依って、その居住を近江に移された。(渤海使の)王新福が本国に帰るときなり。乗る船が腐って脆くなっていた。送使の判官平群虫麻呂等は慮りて、(その船の)全からんことを官に申し入れてこの地に留め置かんことを求めた。史生以上は皆している仕事を中断して船を修理す。鎌束を船師となして新福等を送って出発させることにした。事終わって帰る日に、我国の学生高内弓とその妻高氏と長男の廣成、緑子一人、乳母一人、そして学問僧戒融、優婆塞一人が渤海を経由して相随って帰朝す。海中で暴風に遭って方向を見失った。楫使と水手は波にさらわれた。この時鎌束は協議して曰く。「異方(異国)の婦女が今船上にあり。また、この優婆塞は普通の者とは異なり、一食に数粒で日を経ても飢えることが無い。風に漂流するの原因は未だこれによらずんば非ず。(きっとこれらの異人が原因であるに違いない)」と。水手をして内弓の妻並びに緑子、乳母、そして優婆塞の4人を?み挙げて海に投げ込ませた。風の勢いはなお猛くして漂流十日目にしてあまり隠岐の国。(鎌束はこれによって牢獄に入れられたのであった) 巻第二十五(淳仁天皇・西暦764年) 天平宝字8年(764年)7月19日 新羅使の大奈麻金才伯等が大宰の博多津に到着した。右少弁の従五位の下紀朝臣牛養、綬刀の大尉下従五位の下粟田朝臣道麻呂等を遣わしてその入朝の由を問わしめた。金才伯等が言って曰く。「唐国の勅使韓朝彩が渤海より来て言いました。日本国の僧戒融を送って貴国に帰えらせました。もし平安に国に帰ったのであれば報告があるはずです。しかるに、今日に到るまで寂として報告がありません。この使いを差し向けますからその消息を天子に報告したいと思います。よって、執事の書状を持って大宰府に来ました。朝彩は新羅の西の津に上京に備えて滞在しています。唐国の謝恩使蘇判金容は大宰府の書面を取り寄せて朝彩に渡すために未だ出発せずに(新羅の)京にいます。(下紀朝臣牛養は)問うて曰く。「近頃かの国(唐国)より帰化する民が言っている。本国は兵を集めて警備している、と。これ疑はらくは日本国が来てその罪を問おうとしているのではないか、その事実はどうか」と。(金才伯は)答えて曰く。「唐国は騒乱して海賊が多いのです。これがために甲兵を徴発して辺境を守らせています。これは国の防衛のためで事実はそうです。」と。(新羅使の)帰る日に大宰府は新羅の執事に書面で曰く。「案内を検察するに乾政官の書状を見ると、大宰府が受け取った書状には韓内内常侍の要請によって日本国の僧戒融が帰国したかどうかを知りたいと新羅国の書状にある、という。大宰府はつぶさに書面でもって、去年10月高麗国より(僧戒融)は我国に帰った、と報告しました。大宰府は宜しく承知して報告すべし」と。 天平宝字8年(764年)9月18日恵美押勝の乱  押勝は進退の拠り所をなくし、そのまま船に乗って浅井郡の塩津に向う。突然逆風あって船が漂流して沈没しそうになった。 ‥押勝の衆(部隊)は敗れて独り妻子三、四人と船に乗って江に浮かんだ。石楯が捕らえこれを斬った。 巻第二十九(称徳天皇・西暦768年〜769年) 神護景雲2年(768年)3月1日 北陸道の使い右中弁正五位の下豊野真人出雲が申す。「佐渡の国が国分寺をつくる料稲1万束は毎年越後の国に在って支給されます。いつも農繁期にあたり妊婦を徴発して運漕します。海路の風波でややもすれば数ヶ月を要します。漂損すればまた運脚を徴発します。(佐渡の)国の田租を割り当て用度に当てたいと思います。勅あり許可された。 同年9月22日 陸奥国が次のように言上した 「‥この地は大変寒く積雪は消えがたくわずかに初夏に入って調用のものを運んで上京します。山に梯子し、海に帆をかけて艱苦正に至れり。季節の終わりの秋の月に国に帰れます。民の産業を妨げる事はこれより過ぎたるものはありません。輸送する調庸のものは国に留め置いて十年に一度京の倉に進納したいと思います。これについて許可された。            続日本紀(下) 巻第三十(光仁天皇・西暦769年〜770年 神護慶雲3年(769年)11月12日 新羅の使い級さん金初正等87人および導き送る者39人が対馬の嶋に到着す。 同年12月19日 員外の右中弁従四位の下大伴宿祢伯麻呂、摂津の大進下従五位の下津の連麻呂等を大宰府に遣わして新羅の入朝の理由を問わしむ。 同年3月4日 初め新羅の使いの来る理由を問うの日に、金初正等が申す。「在唐の大使藤原河清、学生の朝衡等が(新羅が派遣していた)王子金隠居が帰郷に当たり、お国の親に当てた書状を預りました。国王は初正等に命じて河清等の書状を送らせるように計らいました。また、使いのついでに土毛(土産物)を献上します」と。また、(大伴宿祢伯麻呂)は問うた。「新羅が調(税に近い意味合いの物)を貢する事、また、来朝する事は久しいことである。改めて(調と言わずに土毛というはその理由はいずこにありや」と。金初正が答えて申す。「使いのついでに献上しますので調とは言いません。」と。左大史下従五位の下堅部の使主人主を遣わして金初正等に告げしめて曰く。「前の使い貞巻が帰国の際に、申し付けた約束は未だ申し知らせてこない。今また、いたずらに私事をもって参り来たった。この度は賓客の礼で処遇する事はしない。今より以降は、前に申したとおりにするべし。ことを申すべき人をして入朝せしめればこれを待つ事常の如くせん。この書状を持って汝が国王に告げて知らせよ。ただし、唐国の消息と在唐の我が使い藤原朝臣河清等の書状ををたてまつることについてはその蝋を良しとしよう。大宰府に言って、安置し饗宴を催し、国王にはあしぎぬ25疋、糸100く、綿250疋を、大使の金初正以下にも身分に応じて禄(下がり物)を賜った。 巻第三十一(光仁天皇・西暦770年〜771年) 宝亀2年(771年)6月27日 渤海国の使節で青綬大夫の一万福等325人が 船17隻に乗って、出羽国の賊地の野代湊に着いた。常陸国に安置し食料などを供給した。 同年10月14日 渤海の使いの青綬大夫の一万福以下40人を賀正に出席させる。 同年11月1日 使いを遣わして、入唐使(遣唐使)の船四隻を安芸国で造らせる。 同年12月21日 渤海の使い一万福等が京入りした。 巻第三十二(光仁天皇・西暦772年〜773年) 宝亀3年(772年)正月元旦 渤海国の使いの青綬大夫の一万福等が土産物を献じた。 同年正月16日 これより先、渤海王の書状が無礼なることを一万福に叱責す。この日、一万福に告げて曰く。「万福等は実にこれ渤海の使者なり。奉るところの書状が先例と異なり、無礼ならんか。ゆえにその書状を受け取らない」と。万福等が申す。「臣たるの道は君命に従うのみ。よって、封をされた文箱を間違いなく奉るのみです。今、先例と異なるとして返却されても万福等は誠に困り果てます。」よって、再び、地に頭つけて泣いて更に申す。「君主たる者は当国も貴国も同じです。臣たる者は国に帰れば必ずまさに罰を受けましょう。今、既に聖朝に参り来たり、罪の軽重は避けることができません」と。 同年正月19日 渤海からの贈り物を一万福に返した。 同年正月25日 渤海の使い一万福等は上表文を書き換えて王に代って深謝した。 同年2月2日 5位以上及び渤海の蕃客を朝堂院に招いて宴を催した。三種の音曲が演じられた。万福等は招かれて座に着こうとするときに、言上して曰く、「奉りました書状が旧例に背くとして、書状と差し上げ物が返却されてしまいました。しかるに、聖朝の恩沢は厚く哀れみをかけてくださり、万福等は賓客と同列に預り、位階と賜り物を頂き、これ以上の慶びはありません。謹んで御所を拝し奉ります」と。大使の一万福に従三位を、副使に正四位の下を、大判官に正五位上を、少判官に五位の下を、禄事並びに通訳にともに従五位の下を授けた。緑色を着る者(役職者)以下にはそれぞれ身分に応じて位階を授けた。(渤海)王には濃いあし絹を30疋、絹30疋、糸200斤、綿300屯を贈った。大使の一万福より以下にもそれぞれ身分に応じて贈った。 同年2月28日 [「天皇は敬って高麗の王に問う」として、高麗国の最近の態度変化をなじる長い書状(略)を一万福に持たせて、 同年2月29日 渤海の蕃客は国に帰った。 同年9月21日 渤海の客を送る使いの武生連鳥守等がとも綱を解いて海に出たところ、忽ちに暴風に遭って能登国に漂着した。 客主(渤海の国の者と我国の送る使いの者)はわずかに死を免れることができた。そこで福良の津に安置した。 同年12月13日 大宰府が申す。「壱岐嶋の掾・従六位上の上村主墨縄等は 年糧(年貢の食料等)を対馬嶋に送るする時、急な逆風に遭って、船は難破し人々は溺れ死んで載せていた穀物も漂失してしまいました。天平4年の格(規程)を調べて見ますと、漂失した物資は輸送責任者の官稲で補完することになっています。ところが墨縄らは「運送の時期は常例に違っていません。ただ風波の災いは、人の力ではどうにもできません。船が壊れ人が没したことでもって明らかな証拠として十分です」と申し立てています。大宰府では申し状をよく検討したうえで申し上げます。誠に黙視できないことですから、今後は、事実をよく検討して、徴収か免除かを評議して定めたいと思います」と。 (朝廷は)これを許可した。 宝亀4年(773年)2月20日 渤海の副使正四位の下慕昌禄が亡くなった。使いを遣って弔問す。従三位を贈る。規程によって物を給う。 同年9月12日 能登国が申す。「渤海国使の烏かい弗等が、我国に船一艘に乗ってに来着しました」と。使いを遣って尋問しましたところ、烏かい弗は報告してこのように言いました。「渤海と日本は以前から善隣友好にして行き来し、朝貢は兄の如く弟の如しです。最近では日本の使い内雄等が渤海国に来て渤海国語を学んで貴国に帰りました。既に10年が経ちますが、未だにその安否を知らせてきません。よって、大使一万福等をして日本国に向けて朝廷に参上させようと遣わせました。(その大使一万福等も)4年になるのに未だ本国に帰っていません。更に大使烏かい弗等40人を差し向け、直接天皇のお言葉をいただきたい。それ以外のことはありません。持参の進物と王の書状は船内にあります」と。 同年9月24日 使いを遣わして渤海に使い烏かい弗に曰く。「太政官は前の使い一万福等が持って来た書状の言葉が驕慢なり。、その旨を知らしめて退去させて既に終了している。しかるに、今、能登国が言ってきた。渤海国の使い烏かい弗等が持ってきた書状は旧例と異なり無礼である、と。よって、朝廷に召さずして本国に帰す。ただし、書状が旧例と違うのは使いの過ちではない。海を渡って遠く来たことは哀れみを思う。よって、禄と航海に必要な食料を与えて帰らす。また、渤海の使いがこの道をとって来朝する事(能登の国より入ること)は以前に禁止している。これからは旧例により筑紫の道より来朝すべし]と。 同年10月13日 一万福等を送る使いの正六位上武生の連鳥守が高麗より帰った。 巻第三十三(光仁天皇・西暦774年〜775年) 宝亀5年(774年)3月4日 新羅の国司使礼府卿沙さん金三玄以下235人が太宰府に来て停泊している。河内の守従五位の上紀の朝臣広純、大外記外従五位の外内蔵の忌寸全成等を遣わして来朝の理由を問わしめた。三玄が言って曰く。「本国の王の教えを受けて旧交を修め常に互いに交流したいと思います。ついでに贈り物と唐に滞在する藤原河清の書状を持って来朝しました]と。(広純は)質問した。「旧交を修め常に互いに交流したいと思う、とは、高慢な礼の国のとるところで、朝貢の国のとるところではない。また、貢物と言わずに贈り物と称して古い仕来りを変えて扱いを替える、その訳はどうしてか」と。新羅の態度変化を責めて使いがそれに言い訳をすなどのやり取りがあり、結局、天皇は、新羅の使いが帰るに必要な食料を支給して送り返せ、と命じた。2年前の渤海国とも同じような事があり、この時分、唐や朝鮮半島諸国とは険難な外交関係にあったことがわかる。 同年5月17日 天皇は大宰府に次のように詔した。「近年、新羅の蕃人が頻りに来着することあり。その理由を尋ねると、多くは日本の国王の徳を慕って帰化するのではなく、風に流され漂着して帰ることができずに留まってわが国の民となる。本主(新羅の王)は何と思うであろうか これより後にこのようなことがあれば、皆送り帰して、もってやさしい思いやりを示すべし。もし船が破れ食料を失った者があれば、所管の官署司は事を諮って帰国の計画を立つようにさせよ」 宝亀6年(775年)4月10日 川部酒麻呂に外従五位下を授けた。酒麻呂は肥前国松浦郡の人なり。勝宝4年に入唐使第4船の舵取りとなり、帰る日に、海上で順風が盛んに吹きつけていた時、突然、船尾で火災が起こった。その炎は艫を越えて飛んだ。人は皆恐れ慌ててどうしてよいか分らなった。時に、 酒麻呂は舵を回すときすぐ傍らから火が出て、手が焼けただれたけれども 舵を取ったまま動かなかった。そして火を打ち消す事ができた。人や物は無事であったので位を十階上げ、当郡(松浦郡)の員外主帳に任ぜられた。ここに至って五位を授けた。 第十六次遣唐使派遣 宝亀6年(775年)6月19日 正四位下の佐伯宿禰今毛人を遣唐大使とし、正五位上の大伴宿禰益立と従五位下の藤原朝臣鷹取を副史とした。判官と録事はそれぞれ4人を任じた 使いの乗る船四隻を安芸国に造らせた。 同年8月29日 遣唐録事・正七位上の羽栗翼に外従五位下を授け、遣唐准判官に任じた。 巻第三十四(光仁天皇・西暦776年〜777年) 宝亀7年(776年)4月15日 天皇は前殿に出御されて遣唐使に節刀を賜う。詔して曰く。「天皇の大命を読まんとす。唐の国に使わす人に申される大命を聞こし召せと仰せられる。佐伯今毛人宿禰、大伴宿禰益立の二名の者よ。今、汝等二人を唐国に遣わすのは今初めて遣わすものにはあらず。以前より朝廷の使者をかの国に派遣し、かの国よりも使者が渡ってきた。これによって次次と使者を遣わすものぞ。この意を悟って、かの国の人等が和み安んずるよう語り合って、おどろ驚かすようなことをしてはならない。また遣わす使者のうち判官以下の者が死罪以下の罪を犯したならば、その罪に応じて処分せよ。その印の刀を与える(節刀)、と仰せになるお言葉を承れと申し述べる。宣命が終わって大使と副使に天皇の服を賜った。また前の入唐大使の藤原河清に次のような書を賜った。「汝は使いを遠く隔たった地に奉じてより久しく年月を経た。汝の忠誠は遠くわが国にまで明らかになり、消息も伝わることがある。ゆえに、今回迎えの使い差し向けて汝を迎えさせる。そこで、汝にあし絹100匹・細布(上質の麻布)100端・砂金大100両を与える。何とか努力して使者とともに帰朝するようにせよ。汝に会うのはそう遠くのことではない。それ故今は多くを述べない」と。 同年7月14日 安房・上総・下総・常陸の四国に船五十隻を造らせ、陸奥国に配置して不慮の事態に備えた。 同年閏8月6日 遣唐使の船が肥前国松浦郡合蚕田浦に到着した。そこで月日を過ごしたが順風が吹かなかった。すでに秋の節に入り、渡航の時期ではない。それで、博多の大津に引き返し奏上して曰く。「今すでに秋の節に入り、逆風が日に盛んです。私どもは来年の夏を待って渡海させていただきますようお願いいたします」と。この日 天皇は次のように勅した。「来年の出発の時期は奏上のとおりにせよ。使いの者と水手はともにそこにとどまり、時期を待って渡航を決行せよ」と。 同年11月15日 遣唐大使の佐伯宿禰今毛人が大宰府から帰って節刀を返上した。副使の大伴宿禰益立、判官の海上真人三狩等は大宰府に留まって、入唐の期を待つことにした。世間の人はこの態度をよしとした。 同年12月14日 遣唐副使の大伴宿禰益立を解任して、左中弁・中衛中将・鋳銭長官で従五位上の小野朝臣石根と備中守・従五位下の大神朝臣末足をともに副使とした。 同年12月22日 渤海国が献可大夫・司賓少令・開国男の史都蒙等187人を遣わして、(光仁天皇の)即位を祝い、あわせて彼の国王(渤海国王)の妃の喪を伝えてきた。一行はわが国の海岸に到着するとき、突然暴風に遭遇して、舵が折れ帆が落ち漂没する者多し。生存者を数えるとわずかに46人であった。そこで越前国加賀郡に安置して衣食などを供給した。 宝亀8年(777年)正月20日 使者を遣わして渤海使の史都蒙らに問わせた。「さる宝亀4年に烏かい弗が本国に帰るに際して、太政官は処分を下して、「渤海の入朝使はこれからは古例にしたがってまず太宰府に向かうようにせよ。北の航路(日本海縦断コ−ス)をとって来てはならない」とした。しかし、今回はこの約束に違っている。これはどうしてか」と。史都蒙らは答えて曰く。「烏須弗の帰国したとき、確かにその旨を承りました。そこで都蒙等はわが国の南海府の吐号浦から出発して、西の対馬嶋の竹室の津を目指した。しかるに、海上で風に遭って、この禁止された地域に着いたのです。約束を忘れた罪を避けるなどということはありません」と。 同年2月6日 遣唐使が春日山の麓で天神地祇を礼拝した。去年は風波が合わず、渡海することができなかった。使人もしきりに替わった。ここに至って、副使の小野朝臣石根が重ねて祭祀を行った。 同年2月20日 渤海の使い史都蒙等30人を召して入朝せしむ。このとき、史都蒙は生存する46人に対する朝廷の丁重な処遇に礼を述べるとともに、残り16人についても越前国に留めるのではなく、入京させてほしいと嘆願し、許されている。 同年4月9日 渤海の使い史都蒙等が入京した。 同年4月17日 遣唐大使の佐伯宿禰今毛人等が天皇に拝謁した。ただし 大使の今毛人は羅城門に来た時に病と称して留まった。 同年4月22日 渤海の使い史都蒙等が朝貢品を献上した。そして丁寧な挨拶をしている。(挨拶文は省略)この日 遣唐大使の佐伯宿禰今毛人等は病のため輿に乗って途上、攝津職まで着いたが、日数を重ねても治らなかった。そこで、天皇は副使の石根に「節刀を持って先に出発し、大使の職務を行わせる。順風を得たら大使を待つべからず。(直ちに出帆せよ」と勅した。また、右中弁・従四位下の石川朝臣豊人を遣わして、遣唐使の一行に対して次のような詔を述べさせた。「判官以下で死罪を犯した者は、持節使頭(節刀を持つ者)が独断で判決することを許す」と。 同年5月10日 渤海使の判官・高淑源と少録事一人がわが国の海岸に着く頃に船が漂流し溺死した。よって、高淑源に正五位上を、少録事に従五位下を贈る。 同年5月23日 渤海使の史都蒙等が帰国した。大学少允・正六位上の高麗朝臣殿継を送使とし、 渤海国王に次のような書を贈った。「天皇は敬って渤海国王にたずねる。使者の史都蒙等は遠く滄溟(そうめい=青海原)を渡り来て‥‥史都蒙らはわが国に近づいた頃急な悪風に遭って人や物を失った。乗って帰る船もない。彼を思い、これを聞くとまた心が痛む。故に舟を造り、使いを差し向けて本国に送り届ける。併せて 絹50疋、あし絹50疋、糸200く、綿300屯を贈る。また都蒙の申し出によって、黄金100両、水銀大100両、金漆1缶、漆1缶、椿油1缶、水晶の念珠4連、檳榔の扇10本を贈る。着いたらこれを受け取るように。夏に日差しは燃えるように暑いが王は平安に和やかであらんことを、‥‥」と。 同年6月1日 遣唐副使の従五位の上小野朝臣石根と従五位の外大神朝臣末足等に天皇のお言葉があった。[大使今毛人は病重くして航海に耐えない。このことを知って唐に行って書状を渡す日には大使が来ないことを聞かれれば事を計って申し開きをせよ。石根は紫の衣を着て副使と名乗るように。節を持って事を行うことは前の詔で伝えたようにせよ」と。 巻第三十五(光仁天皇・西暦778年〜779年) 宝亀9年((778年)4月30日 これより先の宝亀七年(776年)に、高麗の使者三十人が溺死して越前国の江沼と加賀の二群に漂着した。ここに至って、越前国に言って埋葬させた。 同年9月21日 送高麗使の正六位上高麗朝臣殿継等が越前国坂井郡の三国の湊に来着した。越前の国に天皇のお言葉があった。「遣高麗使と高麗国の送りの使いは便利なところに安置して例によって衣食を支給せよ。ただし、殿継一人は早く入京せよ」と。 同年10月22日 遣唐使の第三船が、肥前国松浦郡の橘浦に到着し停泊した。判官・勅旨大丞の正六位上で下総権介の小野朝臣滋野が上奏して曰く。「臣滋野等は、去る宝亀8年(777年)6月24日に風を得て海に出ました。7月3日、第一船とともに揚州の海陵県に到着しました。8月29日、揚州の大都督府に着きました。式例に基づいて安置され衣食を支給されました。観察使兼長史陳遊の決定は、(安)禄山の乱があって、宿泊所が荒れているために使いを入京させるのは60人に限定する、ということでした。来る10月15日をもって、私等85人は州を出発して京に入ることになりました。行くこと百余里にして中書門下の通知書によって人数を減らされて20人に限定する、となりました。そこで、私たちはお願いをして23人を増やしてもらいました。持節副使の小野朝臣石根、副使の大神朝臣末足、准判官羽栗の臣翼、録事の上毛野の公大川、そして韓国の連源等43人が正月の13日に長安城に着きました。直ちに外宅に安置され衣食の支給を受けました。特に監使が居て、宿舎の世話をして優遇されました。中使(非公式な使者)も絶えず。15日に宣政殿において儀礼会見がありましたが、天子はお出ましになりませんでした。この日、我国の産物と貢の品を献上しました。天子は殊の外喜ばれて、群臣らにお見せし分け与えられました。3月21日、延英殿において天子と対面できました。お願いしたことは全て許されました。そして、内裏において宴が催され身分に応じて官位や賞を授かりました。4月19日、監使の揚光耀が天子のお言葉として次のように述べました。「中使の趙寶英等を遣わして答信(返礼)の品を持って日本国に行かせる。その乗っていく船は揚州に命令して造らせる。卿等にこのことを知らせる」と。24日、全ての行事が終わって辞するとき次のように奏上しました。「日本国に至る道は遥かに遠く、風漂(漂流)することもあります。今、中使が同行する事で、波濤を冒し渉りて万一転覆するような事がありますと、王の命令に背くことになる事を恐れます」と。それに対して、天子のお言葉は次のようでした。「朕は少しばかりの返礼したい品がある。今、寶英等を遣わして持って送らせるのは道義のあるところであり遠慮することはない」と。そして、銀かんの酒を賜って別れを惜しまれました。6月24日、揚州に着きました。中使は一緒に出発しようとしましたが、船はすぐには出来上がりません。奏聞して我等の船に同乗して出発する事になりました。第一船と第二船はともに揚子江の堤の先にあり、第4船は楚州の塩城県にありました。9月9日私が乗った船は西南の風を受けて船を発して海に入りました。行くこと3日にしてたちまち逆風に遭い浅瀬に乗り上げてはなはだしく損壊いたしました。ありったけの力を出して修理し、この月の16日には船はわずかに浮き上がりましたので海に入りました。23日に肥前の国松浦郡橘の浦に着きました。唐の客で私に附いて入朝する者は、その接遇を蕃客の場合と同じようにするようにと大宰府に詳しく説明してあります。唐の国情は、今の天子は広平生で名は迪(てき)、年は53才です。皇太子は雍王(ようおう)、名はかつ、年号は大暦13年、我国の宝亀9年に当たります。」 同年10月28日 天皇は大宰府に次のように勅された 「今月25日の奏上を受け取って 遣唐使の判官・小野朝臣滋野等の乗った船が到着したことを知った。使者を遣わして労うようにせよ。そして判官の滋野はすぐに入京させるように」と。 同年11月10日 遣唐の第四船が帰って薩摩郡こしき島郡に停泊している。その判官・海上真人三狩らは 初め耽羅嶋(済州島)に漂着して島人に捕らえられた。ただし、録事の韓国連源等はひそかに計ってとも綱を解いて逃げる事ができた。残れる40人を率いて帰ってきた。 同年11月13日 第二船が薩摩国出水郡に到着した。また、第一船は海中で中断(切断)して舳と艫が離れ離れになりました。主神の津守宿禰国麻呂と唐の判官等56人はその艫のほうに乗ってこしき島にたどり着きました。判官の大伴宿禰継人と前の入唐大使の藤原朝臣河清の娘喜娘(きじょう)等41人はその舳のほうに乗って肥後国天草郡に漂着しました。継人等は上奏して次のように言った「継人等は去年(776年)の6月24日に四船が同時に海に入り、7月3日に揚州の海陵県に到着しました。8月29日には揚州の大都督府に着きました。節度使の陳少遊が奏上して65人を入京するように取り計らってくれました。10月16日に都に向けて出発し高武県まで来ましたときに、中書門下の命令があり、道中の車馬が少ないという理由で(入京できる)人数を20人に限定されました。正月の13日に長安に着き、内使の趙寶英を遣わして馬で出迎えて外宅に安置されました。3月24日天子に対面して任務を奏上しました。4月24日には別れを告げて帰国の途に着きました。天子の詔があり、内使の楊光耀をして揚州まで監送させそこから帰国させる、ということでした。(帰国の時期に来ていた)留学生を収容して都を発ちました。(天子は)また、内使の掖庭令趙寶英と判官4人差し向けて寶貨を持参させて一緒に行かせる、これは善隣の友好を結ぶためである、ということでした。6月25日に惟楊に着き、揚子江の河口から出発して蘇州の常耽県まで来て風を待ちました。第三船は海陵県にあり、第四船は楚州の塩城県にあり、両船が出発した日は知りません。11月5日、信風(季節風の西風)を得て第一船と第二船は同時に出発する事にし海に入りました。海中に及ぶころあいの8日の雄午後八時頃風は急にして波高くして左右の棚根が打ち破られて海水が船に満ち溢れ蓋板(甲板)はことごとく流れ、人も積荷も随い漂いて一つまみほどの米も水も残すことなし。副使の小野朝臣石根羅8人、唐使の趙寶英等5人は同時に没入して相救うことを得ず。私一人は潜って舳の欄干の隅に行き、前後を見渡しましたが生き残る道は絶たれました。11日の午前4時頃に帆柱は船底に倒れて(船は)真っ二つになり舳と艫はそれぞれ分かれてどこへ行ったのかわかりません。40人ばかりが方丈(3メートル四方)ほどの舳に重なり合っていて、その舳も沈みそうになりました。艫綱を切り楫を枕(浮き代わり)にして少し浮き上がる事ができました。着ている着物を脱いで裸で腰かけるように座っていました。米や水を口にすることができないまま6日を経過した13日の午後10時頃肥後の国の天草郡西仲嶋に漂着しました。私が生き残れたのは天皇のなせる業によります。歓喜の至りに耐えず謹んで書状を奉って申し上げます」と。 同年11月18日 船二艘を安芸国で造らせる。唐の客を送らんがためである。 同年11月19日 左少弁従五位の上藤原朝臣鷹取と勅旨員外の少輔従五位の下健部朝臣人上を遣わして唐使を慰問させた。 第十七次遣唐使派遣 同年12月17日 従五位下の布施朝臣清直を送唐客使(唐客を送る使い)とし、正六位上の甘奈備真人清野と従六位下の多治比真人浜成を判官とし、正六位上の大綱公広道を高麗客使(高麗の客を送る使い)とした。亡くなった唐使の趙寶英にあし絹80疋、綿200屯を香典として贈った。 宝亀10年(779年)正月1日 天皇が大極殿にお出ましになり朝賀を受けられた。渤海国が献可太夫司賓少令の張仙寿等を遣わして朝賀した。 同年正月5日 渤海の使い張仙寿等が土地の産物を献上して次のように奏上した 「渤海国王が申し上げます 聖朝(日本の朝廷)の使者高麗朝臣殿継らは路を間違えて遠い夷の境域に漂着し、乗っていた船は破損して帰国することができません。そこで、船二艘を造って仙寿等を差し向けて伝継に随行して入朝させます。併せて献上物を積載して天朝(朝廷)を拝し奉らせます」と。 同年正月7日 五位以上の者と渤海の使い仙寿等を朝堂において宴を催しそれぞれ身分に応じて禄を賜った。渤海国使U天皇のお言葉があった。「渤海の王の使い仙寿等来朝して拝観す。朕は嘉とすることあり。ゆえに位階を加え授け併せて禄を贈る」と。 同年2月2日 渤海の使いが帰国するにあたって王に璽書を賜い、あわせて贈り物を附ける。 同年2月4日 故入唐大使の従三位の藤原朝臣清河に従二位を、故入唐副使の従五位上の小野朝臣石根に従四位下を贈った。清河は贈太政大臣房前の第四子なり。勝宝五年に大使として入唐した。帰国するとき逆風に遭って唐国の南辺のかん州に漂着した。そのとき土人(現地人)に遇い船もろとも被害を受けた。清河はわずかに身をもって免れ、ついに唐国に留まり帰朝することができなかった。その後十年して唐国で亡くなった。石根は太宰大弐の従四位下の(小野朝臣)老の子である。宝亀八年に副使に任じられ入唐した。使命を終えて帰る時海中で船が二つに折れ、石根と唐の送使の趙寶英ら63人はともに没死した。故にそれぞれこの贈位となった。 同年3月10日 遣唐の副使従五位下の大神朝臣末足等が唐国から帰った。 同年5月3日 唐の使い孫興進と秦ふ期等が朝見(天皇に拝謁)した。唐の国書を奉り信物(みやげ物)を献上した。天皇からお言葉があった。「朕は唐使の書状を見た。ただ、客等は遠く来たりて道中艱難辛苦したであろう。宿泊の館に帰ってよく休むように。その後会見したいと思う」と。 同年5月17日 唐使を朝堂に招いて宴を催す。中納言従三位物部の朝臣宅継天皇のお言葉を述べて曰く。「唐朝の天子並びに公卿そして、国の百姓((国民)は平安であろうか、どうであろうか。また、海路は難険にして一二の使い人が海中に漂没したり、耽羅に掠されたと聞いて 真に傷ましいことと思う。また、客等が来朝する道中の国司の取り扱いは法に基づいて対応したであろうか、どうか、」と。 唐使判官の孫興進等が申し上げた。「臣等が参りますとき、本国の天子および公卿、百姓は皆平安でした。朝廷の恩沢は遠くに及び、行路はつつがなく道中も国司の扱いは法のとおりでした」と。また、勅あり曰く。「客等はこのごろ宿館にあって旅情は寂しく心が塞ぐ思いであろう。ゆえにいささかの饗宴を設けて位階を授け禄や品を贈ろうと思う。これを受け取るように」と。 同年5月20日 右大臣が唐客を屋敷邸に招いて宴を催した。勅あり、綿3000屯を賜る。 同年5月25日 唐使の孫興進等が別れの拝謁をした。中納言の従三位物部の朝臣宅継が勅を述べて曰く。「「卿等が来てあまり日が経っていないのに帰国のときが突然やってきた。渡海には時期があり、長く留めることはできない。今、別れるにあたって悲しく残念に思うのみである。また卿等を送るために新しく船二艘を造り、併せて使いの者を差し向けてみやげ物を持たせて卿等を帰らせる。また所司(担当の役人)に命じて一献の別れの酒を用意した。併せて天皇からの贈り物もある。卿等ご機嫌よう旅発て」と。孫興進等が申し上げた。「臣等は幸い多く天皇に拝謁することができましたが、今たちまちお別れの挨拶をしますことは心残りでなりません」と。 同年5月27日 唐使の孫興進等が帰国した。 同年7月10日 大宰府が申す。「遣新羅使の下道朝臣長人等が遣唐の判官海上真人三狩等を連れて帰ってきました」と。 同年9月14日 天皇は次のように勅された。「渤海と鉄利の359人が化(わが国の善政)を慕って入朝し出羽国にいる。いつものようにこれらの者に必要なものを支給せよ。使いは身分の軽いものであるから、賓客とするにはあたらない。今使いを遣わせて饗宴を催しそこから送り帰してほしい。乗ってきた船がもし損壊していることあれば修理せよ。国に帰る日は引き伸ばしてはならぬ」と。 同年9月27日 陸奥、出羽の国に勅があった。「常陸の調のあし絹、相模の庸の綿を用いて渤海、鉄利等の禄に充当せよ」と。また、勅あり。「出羽の国にいる蕃人359人は今厳寒の季節で海路は艱険である。もし、今年はそこに留まりたいと願うならば、その思うように許すべし「と。 同年10月9日 大宰府に勅があった。「新羅使の金蘭孫等は遠く滄波(青海原)を渡って正月を祝い朝貢した。諸の蕃国がわが国に入るには決まった定めがある。通い状があるといえどももう一度もう一度繰り返していう。大宰府はこのことをよく承知して来朝の理由を問いただすように。並びに表函を責めよ。(上表分を収めた箱がないかを問いただせ) もし上表文があれば渤海の蕃例に準じて、内容を写して進上し、その本(原本)は使い人に返却せよ。凡そ消息あるところ(状況)は駅伝にて奏上せよ」と。 同年10月17日 大宰府に勅があった。「唐客の高鶴林等5人は新羅の貢調使とともに入京させた。 同年11月3日 勅使の小輔正五位下の下内蔵忌寸の全成を大宰府に遣わして新羅国の使い薩さん金蘭孫の入朝の理由を問わしめた。同年11月9日 渤海人を取り調べる使いに次のような勅があった。「押領の高洋粥等の上表文は無礼である。上表文を受けとってはならない。筑紫に就かずして甘言で便宜を求めている。勘当を加えて(罪を調べて)このようなことが二度とないようにさせよ」と。 同年11月10日 渤海人を取り調べる使いが次のように言ってきた。「鉄利の官人が争って説昌の上に位置して常に侮る気配があります。太政官は次のように処分した。渤海通訳の従五位の下の下説昌は遠く滄波(青海原)を渡ってたびたび入朝している。言うことやすることは忠勤にして高い位を授けてある。彼の鉄利の下に次することは優遇している意向にそむいている。その列位を別にして品秩(官位と扶持)をはっきり示すように」と。 同年12月22日 渤海人を取り調べる使者が次のように言上した。「渤海使押領の高洋粥等がひたすらに希望して言いますには、「乗ってきた船が損壊し、帰る計画が立ちません。どうか天皇の恩恵をもって船九隻を賜わり、本国に帰らせていただきたく伏してお願い申し上げます」といっております」と。天皇はこれを許可された。 巻第三十六(光仁天皇・西暦780年〜781年)  宝亀11年(780年)正月2日 天皇は大極殿にお出ましになり、朝賀を受けられた。唐使の判官高鶴林、新羅の使い薩さん金蘭孫等がそれぞれ儀礼どおり拝賀をした。 同年正月5日 新羅の使いが国の産物を献上した。そして奏上して曰く。「新羅の国の王が申し上げます。新羅は開国以来仰ぎて聖朝の代々の天皇の恩恵に頼り舟舵を乾さずに御調を貢奉すること年紀久し。しかし、近年よりこのかた国内に夷敵侵入のために入朝することができませんでした。ここに謹んで薩さん金蘭孫と級さん金巖等を遣わして御調を献上し併せて新年を賀しもうしあげます。また、遣唐の判官海上の三狩等が訪ね得ましたので使いに同行させて帰国させます。また、常例により語学を学ぶ留学生を差し出します」と。参議左大弁の正四位の下大伴の漉宿祢伯麻呂が勅を述べて曰く。「新羅の国は代々船楫を連ねて我が国に仕えてきて久しい。しかるに、泰廉等が帰国した後いつもの貢物を納めることもせず、何事も無礼なり。故に近年は使いを追い返して接遇をしない。ただし、今朕のとき使いを遣わして貢物を納めるとともに新年を祝ってくれた。また、海上三狩等を探し当てて来朝の使いに就いて送ってくれた。この苦労は朕が嘉みするところである。今より以降はこのように仕えるならば厚く恩寵を加えて常例にしよう。この書状をもって汝の国王に報告すべし。この日、唐および新羅の使いを朝堂に招いて宴を催し、身分に応じて禄を賜った。 同年2月15日 新羅の使いが国に帰ると、璽書を賜いて曰く。「天皇は謹んで新羅の国王に問う。朕は徳は薄いけれども王位を継ぎ国の元を承っている。蒼生(国民)を治め養っているのにどうして内外を分け隔てするようなことがあろうか。王は遠い祖先より常に海服を守って上奏し調を貢ぎ来ることが長く続いていた。このころは蕃礼を欠き何年も朝貢しなくなった。身分の低い使いはあっても奏上書を持参しない。これによって、泰廉が帰るとき約束をさせ、貞巻が来たときは更に諭し教えた。その後の同じく使いもかって承知したことを行わず。今回の蘭孫もなお口頭で奏上する。処置はすべからく例によって国外に放還すべしところ、三狩等を送り来たる。このことは軽く見ることはできない。故に賓客の例によって来意に応える。王はこのことを察して、今後の使いは表函を持たせてもって礼を行わしめよ。今、筑紫府と対馬等の国境兵士に表を持たざる使いは国に入れてはならないと勅した。これをよく承知するように、云々。 同年3月3日 出雲の国が申す。「金銅の鋳像一体、白銅の香炉一個、ほかいろいろの器物が浜辺に漂着した」と。 天応元年(781年)6月24日 唐の客を送る使いの従五位下の布施朝臣清直等が唐国から帰国して、使いの節刀を返上した。 巻第三十八(桓武天皇・西暦784年785年) 784年十一月長岡宮遷都 延暦4年(785年)9月10日 河内国が申す。「洪水があふれ、百姓は漂蕩してあるいは舟に乗り、あるいは土手に居て糧食が途絶えて困苦は深刻です。よって、使いを遣わして巡察しあわせて衣食を送った。 巻第三十九(桓武天皇・西暦786年788年) 延暦5年(786年)9月18日 出羽国が申す。「渤海国の使い大使の李元泰以下65人が船一隻に乗って管内に漂着しました。蝦夷に襲われて連れて行かれた者12人 現に在する者41人です」と。 延暦6年(787年)2月19日渤海の使い李元泰等が次のように言上した。「元泰等が入朝した時、船頭や舵取り等が賊に襲われた日に共に脅し殺されて帰国する方法がありません」と。そこで 越後国に命じて 船一艘と船頭や舵取り、水手を与えて送り返した。 794年平安京遷都・平安時代始まる