藤原朝臣久須麻呂
ふじわらのあそみくずまろ
- 生没年 ?〜764(天平宝字8)
- 系譜など 南家仲麻呂(恵美押勝)の子。母は藤原房前の娘、袁比良(おひら)。山慢女王を妻とし、三岡をもうける。名は訓儒麻呂にも作る。『尊卑分脉』には訓儒とありトキハカと訓む。旧名は浄弁(天平宝字二年八月付の正倉院文書に「久須万呂浄弁」とある)。これを法名とする説もあるが、『続日本紀』天平宝字2年1月5日条に藤原朝臣浄弁の名で問民苦使に任命されており、俗名と考えるべきであろう。万葉には角朝臣広弁(『寧樂遺文』には都濃朝臣光弁とありコウベンと訓んだことが確実)という人名が見え、俗名でも音読した例が知られる。浄弁も音読の俗名に違いない。
- 略伝 758(天平宝字2)年1月、東海・東山道問民苦使。この時名は浄弁とある。同年8月従五位下に昇叙された時は既に久須麻呂と改名。同月、父仲麻呂と共に藤原恵美朝臣を賜姓される。この頃式部少輔(大日本古文書)。759(天平宝字3)年、美濃守。同年、従四位下。天平宝字4年6月、光明皇太后葬送の装束司。天平宝字5年、大和守。翌年6月、中宮院(淳仁天皇の御在所)に侍して勅旨を宣伝、この時左右京尹。この頃自宅に写経所を有した(大日本古文書)。同年12月、参議。天平宝字7年4月、参議・左右京尹に丹波守を兼ねる。天平宝字8年9月、孝謙上皇は少納言山村王に中宮院の駅鈴・内印を回収するよう命じ、これに対し押勝は久須麻呂らを派遣して待ち伏せさせ、奪取しようと計画(仲麻呂の乱)。上皇は授刀少尉坂上苅田麻呂・同将曹牡鹿嶋足(蝦夷の族長)らを派遣し、久須麻呂らを射殺させた。
760(天平宝字4)年から762(天平宝字6)年頃、大伴家持と歌を贈答(04/0786〜0792)。久須麻呂が家持の娘を息子(三岡か)の嫁にほしいと言ったのに対し、家持は娘の成長を待ってほしいと婉曲に断っている(→大伴家持全集本文編の末尾を参照下さい)。
系図へ