ドロミテ・アルプス、ディナル・アルプ ス、ジュリアノ・アルプス、 ダルマチア周遊

グリーンウッド氏は引退後も自 由人のエネルギー勉強会に個人的に参加している。 主催者の森永先生がハイブリッド・ソラー・セルのワークショップを2005年9月20日からドロミテ・アルプスのセラ峠にある山小屋で開催するというので 出かけた。なにか発表しなければいけないというので「人工台風発電」なるものの改良案を作成して論文を書いた。 石油価格も上昇しているのでもしかしたら出番があるかもと特許申請までしてでかけた。

1ヶ月前に安切符を買おうとしたがちょうど連休に当たり、安切符は全て売り切れである。出発を1日遅らせてようやくミュンヘン往復のルフトハンザの切符が 手に入った。アルプスは列車で昼間通過するのが良いというので、ミュンヘン1泊になる。ところが秋の展示会シーズンに重なり、ホテルは高いし、予約もミュ ンヘン中央駅近くにようやく確保できた次第である。

なぜドロミテ・アルプスで会議を開催するかというと、人工台風発電構想にある崖利用を考える良い場所だからというのである。森永先生はついでにクロアチア のスプリトの裏にあるディナル ・アルプスの崖も見て来いという。スプリトにはローマ皇帝のディオクレティアヌスが引退後のために建てた宮殿が残って いるので異論はない。クロアチアからの参加者の車に同乗させてもらえるというので スプリトからの帰りの航空券だけ買ってでかけた。

9月19日(月)

大船8:09発NEXで成田9:58着。10:10チェックイン 予定であったがうっかり第一ターミナルに向かってしまった。ルフトハンザは第二ターミナルであった。バスで30分かけて戻る。うかつにもヒゲの手入れ用ハ サミを没収される。ルフトハンザLH715便は予定通り成田を12:10に出発 。

隣席のおばさんは(独)物質・材料研究機構、強磁場研究センターの若山信子特別研究員であった。サントリーニ島の国際会 議に出席するのだという。強磁場で地上に無重力状態をつくり、タンパク質の結晶を 作る研究をしているという。水のような反磁性体は磁束密度勾配の大きいとき反力が生じて、磁場を上手く作れば重力を打ち消せるという。カエルを宙に浮かせ ることやお嬢さんが医者の卵だという彼女の日本の医療システムのゆがみに対する卓見など面白いお話をうかがっているうちに17:30に ミュンヘンのフランツ・ジョゼフ・シュトラウス(Franz Josef Strauss)空港に到着。

ミュンヘンは若き頃、リンデ社訪問のために訪れたことがある。当時フランツ・ジョゼフ・シュトラウス空港はなかった。フ ランツ・ジョゼフは第一次大戦の開戦当時のハンガリー=オーストリア帝国の皇帝の名前ではなかったかななどとと考えながら、関税ゲートを通過していると女 性係官にチョットと呼びとめられた。ヨーロッパ持込のアルコールは1リッターまで無税なのにクロアチアで世話になるのでと土産用にリッター瓶を2本成田で 買ってしまったのである。6.2ユーロの関税プラス罰金で12.4ユーロ支払うハメになった。

近郷電車Sバーン8号線でミュンヘン中央駅(Munchen Hbf ハオプトバーンホフ)に移動しようと空港ビルを出るとそこの広場にBMW社がスポンサーになった2003年のアメリカズカップの優勝艇、スイスのアリンギ・チャレンジの レース艇が展示してあった。初めて見るアメリカズカップ艇は巨大であった。このような巨大艇のセールをウィンチを使うにしても人力で揚げること は、やはり尋常ではない という感じである。SBカレーの山崎氏が果敢にチャレンジしてかなわなかったわけである。

Sバーン8号線ホームの自動切符販売機の使い方が分からず、結局近くにいる人に教えてもらって買う。9ユーロ。 罰金を支払うハメにならぬよう、ぬかりなく切符はスタンプする。列車は20分間隔で運行されている。中央駅までの所要時間40分。 空港はミュンヘンの北側の田園地帯にあり、Sバーン8号線は大きく東側を迂回して南側からミュンヘン市に入る。ミュンヘン中央駅到着直後、明日の ブレッサノーネ(Bresssanone FS またはBrixen Bhf.)行きの列車EC 85の切符を買う。料金は50.4ユーロ。出発ホーム(Gleis 18)を確かめてから徒歩にて200mの距離にあるホテル 「一角獣」へ移動した。中央駅は近代化されてしまって、かって利用した構内のビアホールは姿を消していた。なにか浦島太郎のようで寂しい。

「一角獣」は1910年築の古い建物だ。第二次大戦で爆撃をのがれたらしい。ここで1泊 (International Hotels No.319)

ミュンヘン中央駅

9月20日(火)

朝7:00起床。7:30朝食後、8:30チェックアウト、徒歩にてミュンヘン中央駅ヘ移動。 機中電動髭剃り器のスイッチが入りっぱなしでバッテリーが上がってしまったのでファルマシア(薬局)を探してカミソリを買う。ドイツ国鉄(Die Bahn)にてミュンヘン中央駅09:32発。キップは座席指定でない。座席指定無い場合どのコンパートメントに座ったらよいか分からない。隣のコンパー トメントに陣取った若い女の子たちも同じ不安を持っているらしくこれでよいのか聞かれるが、分からない。そのうち座席指定券をもった夫婦が来るが、自分達 は窓際でなくてもよいからそのまま座っていてよろしいという。 車掌が切符切にきたが問題はないようであった。

列車はしばらく平野を走る。 ほとんど牧草地帯でところどころトウモロコシ畑があるだけである。牛は殆ど放牧されていないし、羊の姿も少ない。牧草は刈り取られてプラスチックフィルム で密封発酵させている。ローゼンハイムを過ぎると山が見え始め、やがて大きな川とアウトバーンと鉄道が皆狭い谷に入り込む。オーストリアに入ったようだが 国境の存在は感じない。川はインスブルックから流れ下るイン川のようだ。水量は多い。やけに白濁している。北流してドナウ河に流れこむのだろう。ヴェルグ ル (Wogel)を11:00通過。11:10谷間の小高い丘の上に古城が点在しているのが見える。中世にイタリアからドイツに抜ける街道筋で関税を徴収し た城とのこと。11:12に イェンバッハ(Jenbach)を通過。やがてインスブルックにつく。

列車はずっと予定より15分遅れである。列車はイン川の支流の谷に入り込み、ブレンナー峠(1,375m)に向かって走る。頭上はるか高くアウトバーンが 谷を横切っているのが見える。(橋脚高200m)ブレンナー峠ではピストルを腰につけたイタリアの国境警備隊員3名がトイレを点検してまわる。列車のトイ レは古風な直接放流式。ここが分水嶺となってあとはイタリアのロンバルディア平原に向かって下るのみである。220年前、ゲーテはカールスバートを抜け出 てこの峠を越えてイタリアに入り「イタリア紀行」を書いたのだ。

その途中の山間の町ブレッサノーネに13:05着。 ブレンナー峠で遅れをとりもどしたのだろうか、7分遅れであった。バスの発車時間は13:28である。これに乗り遅れると、乗り継ぎの面倒なバスになるの で大分気をもませられた。ブレッサノーネ駅のSIIバスの窓口できくとバスの切符は運転手から買えという。

ブレッサノーネ近 くの古城

バスは予定通り13:28に駅前を出発。5ユーロとやけに安い。ロンバルディア平原に向かうブレッサノーネの谷間にも古 城が残っている。更に本谷から枝谷の狭い谷間を通過してセルバ・ヴォルケンシュタイン(Selva Wolkenstein)に14:42着。通学バスのため、大勢の児童が乗車・下車を繰り返し、運転手は黙っているし、バス停には地名も書いてないのでど こで下車してよいのか気をもませる。前席に移動し、運転手に聞いてようやく安心する。セルバ・ヴォルケンシュタインに15:00着。 帽子をバスに残してきたのに気づく。

ディーゼルエンジン搭載のタクシーに乗り換えて山小屋、リフージオ・パッソ・セルヴァ(Rifugio Passo Sella)(International Hotels No.320)に15:30頃着。25ユーロ。周りは絶壁が林立し絶景である。

山小屋、リフージオ・パッソ・セルヴァからみた夕日に映える山並み、谷底に セルバ・ヴォルケンシュタインがある

夕刻は日本真空(ULVAC)を創業して半導体や液晶ディスプレー製造装置の供給で成功した林氏が展開した真空とな何かという哲学論をテーマにフロー レンス大学元学長のパオロ氏や森永氏が積極的に討論した。森永氏の息子さん夫婦もミュンヘンから駆けつけてバンケットでは筑波大元教授の李氏が10ヶ国語 を操って、お国自慢の歌を歌って盛り上がった。

9月21日(水)

朝7:00に目覚める。少し明るくなったがまだ日の出前だ。サス・ポルドイの上に昇るご来光を仰ごうと起きだして近くの小高い丘に登る。サス・ポルドイの 右手遠方に雪渓が残り、うっすらと冠雪した高山を見る。多分ドロミテ・アルプスの最高峰のマルモラーダ山(3,343m)であろう。山頂が雲の中だ。

午前中人工台風発電の最適化に関する論文を発表。まず化石燃料が有限なことをロジスティック・モデルで説明する。化石燃料のうち石 炭は一番埋蔵量が多いが、温暖化問題がひかえていること を指摘して導入部をしめくくる。森永教授の元教え子でパワーレーザー製造会社を創立して財を築いたヴェグマン博士が盛んにうなずく。

人工台風発電の最適化に関する論文を発表中のグリーンウッド氏 (山室氏撮影)

次に人工台風発電の先行技術をスペインの実 験プラント、ならびにオー ストラリアの商用プラントのイメージビデオを使って説明、ついでグリーンウッド氏が改良案を説明した。 セラ峠で開催のキッカケとなった急峻な崖内にシャフトを掘削する方式は見込みが薄くむしろコンクリート製の塔を建てる方に可能性があることを説明した。

ドイツが先鞭をつけた技術なのでヴェグマン博士が興味深く聞いてくれた。スプリットでアモルファス・ソーラー・セルを製 造したことがある実業家のユリセッチ氏はソーラーコレクター・カバーの上に溜まる雨水はどう処理するのか質問された。ドレン・ホールが回答。フローレンス 大学元学長のパオロ氏よく本技術の本質を理解したようでいきなりLNGプラント並みの1,800億円の資金を投入して発電端出力83万キロワットの発電所 を建設しなければならないというその規模の大きさにうなっていた。

発表論文掲載のプロシーディングはスプリット大の電気工学科のズリム教授が取りまとめることになっている。

ワークショップの模様

右からフローレンス大学元学長のパオロ氏、スプリット大ズリム教授、森永元ミュンヘン大教授、ヴェグマン博士、野崎氏

フローレンス大学元学長のパオロ氏は午後帰宅する。

午後は夕刻の討論会まで自由時間のため、日本から参加した前田建設の山室氏、関サイエンスラボの関氏、ピュレックス社の野崎氏とセラ峠まで散策方々昼食を 摂りにでかける。セラ峠から見る サス・ポルドイ(Sass Pordoi 2,950m)の山頂にはロープウェイの駅が見える。空にはパラグライダーを楽しむ人がおおく、20機位は飛んでいるだろうか。

セラ峠でサス・ ポルドイ を背景に(左方岩壁) (野崎氏撮影)

夏は牧場、冬はスキー場となる穏やかなスロープの丘、コル・デ・ラ・ピカ(Col de la Pica)の頂上から360度の眺望を楽しむ。サス・ポルドイの左手にはセラ・ツルメ(Sellaturme)の岩峰がそびえる。

スキー用の山小屋のためシャワーは共用で一々カギを借りての利用で面倒だがシャワーを浴びて着替え、夕刻の討論会に備え る。 一人ドライブから帰ったベックマン氏とコーヒーを飲みながらパワーレーザーの製造法の概略を教えてもらった。二つの鏡は米国のシカゴにあるCRI社?から 磨き上げた 希土類酸化アルミニウムガラスを購入。これをアサヒガラスから仕入れた熱で膨張しない躯体に固定する。眼でみながら鏡を完全に並行になるように調整する。 ガスは発光する炭酸ガス少量に冷却用のヘリウムガスと窒素ガスを混ぜるのだそうである。発生するレーザー光はガラス製のワイングラスをあっという間に切断 するくらい強力だとのこと。 日本の工作機メーカーに何台も納入したという。

コル・デ・ラ・ピカの斜面にあるキリスト像越しにセラ・ツルメの岩 壁を望む

JAXAが宇宙の無重力状態でX線解析タンパク質の結晶を作る計画にたいし、強磁場研究センターの若山信子特別研究員がタンパク質の立体構造特定のために 強磁場で無重力状態を作る研究をしていることを林氏に話すと、確かに重力とつりある力が作れても、強磁場がタンパク質の結晶の形に影響を与えないというこ とはどう検証するのかねと一言おっしゃった。たしかに影響はないとはいえないなという感じはする。いずれにせよ帰国後の9月30日にNASAのシャトル計 画の変更がJAXAに伝えられたと報じられているこれでJAXAの野望は潰えたのか?

林氏の危惧に関しては後日若山氏より下記のような回答をいただいた。

「 問題になるのは『強磁場でタンパク質分子の構造が変形するか』ということだと思います。タンパク質分子の構造を決定するもうひとつの手段、NMRでは最高 20T程度かけますが、問題があるとは聞いていません。私どもの微小重力では15Tですから、問題はないでしょう。

それから、結晶を作成した場合、ユニットとなるタンパク質分子が変形するか検証したいなら、構造がわかっているタンパク質分子の結晶を超伝導マグネットを 利用した微小重力環境で作成し、この結晶からえられる分子構造を既に分かっている構造と比較すればよいと思います。今まで作成した結晶では格子定数は変化 していません」

夕刻の討論はエネルギー問題ということでグリーンウッド氏は日本へのLNG導入史を紹介、アモルファスソラーセルを製造していたユリセッチ氏はボスニア戦 争当時の ソーラセル製造の苦労話をした。余興係りの李氏は透析のため山を降りていて参加できず。

李氏はもう15年も透析をしているそうだか、これにも3フェーズあるそうである。第一フェーズは人生に絶望。第二フェーズはそれほど悲観するものでもない と変わる。第三フェーズは透析ライフを楽しもうと思うようになる。なにせ2日に一回長時間病院にいることになるので看護婦と無駄話を楽しむのが第一だそう である。この点でイタリアの看護婦はよく付き合ってくれたそうである。日本では看護婦は医者の従属的地位にあるが、こちらでは役割分担のパートナーという 意識が強く、患者のクオリティー・オブ・ライフを向上すべく時間を割いて患者につきあってくれるので助かったと喜んでおられた。

9月22日(木)

今日も良い天気だ。 朝7:00日の出を見ようと起床し、近くの丘に登るが、旭日は雲がさえぎっている。8:00過ぎるとようやく強い日差しがリフージオ・パッソ・セルヴァの 背後にあるサッソルンゴ(Sassolungo)の岩山に映える。

リフージオ・パッソ・セルヴァ前で森永元教授と関氏

後方の岩山はサッソルンゴ

午前中はワークショップであるが、クロアチアまで車に同乗させてくれる予定であったユリセッチ氏のBMWにはズリム教授と秘書のタチアナ、助手のボンコ ビッチ君が同乗して来ていて定員一杯であるということが判明した。そこでワークショップは欠席して大慌てで別ルートを検討しなければならないことになって しまった。

ところでタチアナ嬢にクロアチア語はスラブ語とイタリア語が混ざったように聞こえるというと多分そうだろうという。 クロアチア人はローマ帝国の崩壊後の6世紀、この地に南下した南スラブ民族だがイタリア語の影響はベニスの支配下にあったためではないかという。

ベニスまで列車、フェリーでアドリア海を渡ってスプリットへゆくコース、アンコーナまで列車、そこからオーバーナイトのブルー・ライン・フェリーでスプ リットへゆくコースも安い。 スロベニアの首都リュビリヤナ、クロアチアの首都ザグレブ経由も考えられる。アンコーナは未経験だがリミニのような ところだろう。ベニ スリュビリヤナは経験済みであり、 ザグレブは少し遠回りだ。昔、須賀敦子著「トリエステの坂道」を読んでから一度トリエステにも行って みたいと思っていた。トリエステまたは国境を越えてリエカまで列車でゆき一泊、次の日にダルマチア地方の海岸沿いにバス旅行することも頭をよぎる。しかし これは後日のためにとっておきたい。ミュンヘンまで列車でもどり、スプリットに飛ぶコースは500ユーロのビジネスクラスの航空券を買わねばならない。山 小屋の管理人のダニエラ(Daniela Cappadozzi)さんがインターネットを駆使して探してくれた 同じビジネスクラスでもチロル航空でインスブルックからウィーンに飛び、そこでクロアチア航空に乗り換えると373ユーロという。インスブルックはまだ未 経験だ。というわけでこれを地元の旅行代理店で現金で購入してもらった。次の日に予定されていた観光旅行をやめてインスブルックに移動し、一泊するための 宿 (93ユーロ)も予約した。

午後はクロアチアからの4人の参加者がBMWに同乗して帰るというので全員で記念撮影。高速道路を使って10時間のドライブとなるという。

全員で記念写真 (山室氏撮影)

午後はヴェグマン博士のアストン・マーチンでサス・ポルドイやセラ・ツルメを含むグルッポ・セラ・グルッペ山塊 (Gruppo Sella Gruppe)一周のドライブとシャレ込んだ。 ヴェグマン博士は若き頃はカーレーサーになりたかったが父親が ソ連に長く抑留されたうえ鉄道会社の職工で貧乏だったのであきらめ大学に行ったのだそうである。森永先生の片腕としてサイコロトロンの扱いはうまく、特に トリチウム被ばくをしないような実験技術に優れていたという。レーザー機器メーカーを創業して年商17億円、社員50人 の会社に育てたが、息子が、原子核物理学者になってしまい事業継続の意志がないため、事業を売って悠々自適の生活を送っている人だ。

若き頃の情熱がよみがえってマセラティーを乗り回していたが、今は1978年 〜1989年に849台生産されたアストン・マーチン ・V8ヴォランテを楽しんでいる。 ちなみに映画007シリーズのショーン・コネリー氏演ずるジェームス・ボンドが乗り回した車は1963-65年製のDB5である。座席の射出装置 や機関銃は装備していないが、ブレーキはレース車仕様で2人乗りというのにトランスミッションはトラック用の転用だそうである。高速仕様なので山道はギヤ はセコンドまでしかつかえない。アウトバーンでもサードで時速100kmでてしまう。7,000km走った中古車を75,000ユーロで買ったという。ビ ンテージカーのため同じ価格で売れるそうである。ただボディーを傷つけられるとアルミニウム製の手作りの外板のためべらぼーな修理費がかかることになると いう。奥様は絶対にこの車には乗らない。イタリアに持っている別荘に 夫婦一緒にでかける車はBMWで、奥様自身はベンツの巨大な車を毎年1,000km乗り回しているそうだ。

学生の頃はオートバイを乗り回して転倒し大怪我をしたこともある。またヨットでアドリア海をクルーズしたこともあるが、今はやめてもっぱら奥さんとイタリ アの別荘でガーデニングに明け暮れる毎日だそうである。

ウェグマン博士 と愛車アストン・マーチン (007のナンバープレートはフィクション)

グルッポ・セラ・グルッペ山塊は反時計回りで一周した。セラ峠を越えてヘアピンカーブを下り、ポルドイ峠に登る。ここか らはロープウエイがサス・ポルドイの山頂に一気に運んでくれる。アラバ村(Arabba)に下る途中、 ヴェグマン博士はグルッポ・セラ・グルッペ山塊の最高峰ピッツ・ボーエ(3,152m)の中腹にあるイタリアの戦勝記念碑を指して、ドロミテ・アルプスの ある南チロル地方はもともと、オーストリー=ハンガリー帝国の領土だったのだが、第一次大戦で連合国に破れてイタリアに割譲されたのだと説明してくれる。

第一次大戦が勃発すると普仏戦争後ビスマルクが締結したドイツ帝国、オーストリー=ハンガリー帝国との三国軍事同盟をイ タリア王国が破棄して連合国側にたつに至る。そして1915年にはイタリア王国統合のときオーストリーに残っていた「未回収のイタリア」と呼ばれる南ティ ロル、トリエステを奪回するために参戦。イタリア戦線を 展開した。ちょうどこのグルッポ・セラ・グルッペ山塊の東南側が戦線となり激戦となったようだ。少し東側にあるオリンピックで有名なコルチナ・ダン・ペッ ツォはイタリアの手に落ちたらしい。しかしオーストリー側に巻き返されてイタリアは苦戦する。フランス・英国連合軍の支援を得てようやく持ちこたえる力し かなかった。しかしウィルソン米大統領の調停で南チロル地方全域 やトリエステはイタリア側に割譲されることになった。こういうわけで住民は古ドイツ語を話す人が多い。今では自治権(ボルツアーノ自治県)を得て、子供達 にはドイツ語を教えることができるようになったという。というわけで地名は全て、イタリア語とドイツ語併記である。わずかな牧畜と観光で生計をたたてい る。第一次大戦に関する名著といわれるバーバラ・W・タックマンの「八月の砲声」には残念ながらイタリア戦線は 一言言及されているだけである。

グルッポ・セラ・グルッペ山塊一周地図

観光客の殆どはドイツ人で週日は日本と同じく、引退生活者ばかりが目につく。老夫婦はいずれも無駄な出費をきらってレス トランには入らず路傍の駐車場で 立ちんぼで持参のサンドイッチを食べている。

アラバ村でイタリアのおいしいプ ロシュートの昼食をとって帰路につく。 メニューにはプロシュートという言葉は使ってなかったが、間違いなくあの透明で紙のように薄くスライスしたハムの味はおいしかった。コンポロンゴ峠 (Passo di Compolongo)を越え、コルバラ村(Corvara)に下る。「この谷間の村のスキー場や牧場の上をプラスチック・フィルムで覆い、裏の崖の内部 にドラフト・ダクトを掘削したら、人口台風発電ができるね」と水を向けると、ベックマン氏は「キット村人が反対するよ」という。そうだろう。観光収入が中 心の場所では無理。無人の砂漠に人工のダクトをコンクリートで建設するのが現実的だろう。 特許出願に関しても話合った。彼はEU特許は金ばかりかかる。ドイツ特許が安くて有効だと言っていた。

ガルデナ峠(Passo Gardena)を越え、セラ峠にもどった。 山小屋のレストランのテレビのニュースではアメリカのハリケーンとドイツの総選挙が大きく報じられている。ベックマン氏はメルケル女史が政権をとるか興味 があるといってテレビに見入っていた。

グリーンウッド氏の会社の先輩の椿氏は2004年3月にコルチナ・ダンペッオでスキーを楽しんだ、その折、バスでファルツァレーゴ峠(2,150m)を越 えアラバ村に入り、ここから時計回りでセラ山塊を一周したという。この一周をセラ・ロンダというのだそうだ。アラバ村からゴンドラを乗り継いで、コル・ デ・ラ・ピカまで登り、リフージオ・パッソ・セルヴァ前を滑り下り、再びゴンドラでピッツ・セラに登り、昼食。セルバ・ヴォルケンシュタインに下り、再び ゴンドラでガルデナ峠に登り、コルバラ村までスキーで下り、コンポロンゴ峠をゴンドラとスキー滑降を繰り返して越えてアラバ村にたどりつく一日がかりのお 楽しみだったようだ。椿氏はコルチナ・ダンペッオは300年間ドイツの支配下にあったという ことばと聞いて帰った。イタリア側のいう「未回収のイタリア」という言葉と一致する。国民国家成立前はどちらともつかない遷移地域が存在した証だろう。

帰国した10月中旬、メルケル女史が連立政権の首班になることが決ったと報じられている。女史が東独の出身というのも意外な感じだ。

9月23日(金)

本日は観光旅行の予定だが、グリーンウッド氏は一足お先に、インスブルックまでミュンヘンに帰るヴェグマン博士のアスト ン ・マーチンに同乗してつれていってもらうことにする。

アストン・マーチンでブレンナー峠に向かい時速220kmで飛ばす

山道ではおとなしかったアストン・マーチンはアウトバーンにでると本性を表し、時速220kmでぶっ飛ばす。130kmが制限速度なのでつかまったら免許 剥奪まちがいなし。ただ片道2レーンで混雑しているため、あっという間に前につかえてブレーキとなる。加速時は恐ろしげなエンジン音とともに体が座席に食 い込み、ブレーキ時には前につんのめるようなって決して快適な乗り物ではない。

オーストリア側がガソリンが安いということで給油したがタンクには90リッター入る。98オクタン・ガソリンはリッター140ユーロ(196円)で1回の 給油で17,640円が飛ぶ。ジープの比ではない。地球温暖化を憂いながら、アストン・マーチンを愛用するなど大矛盾だが人間とは矛盾の塊である。

ハイブリッ ド車に関して ヴェグマン博士は「日本のように街の中を低速で制動をかけながら乗る場合は威力を発揮するがアウトバーンを高速で突っ走るヨーロッパではあまりメリットは ない。むしろディーゼルがよい」という。たしかに日本では石油業界の抵抗でディーゼル油中の硫黄含有量を下げなかったため、パーティキュレートによる公害 が発生してディーゼル規制に走ってしまった。これは一業界のエゴのため発生した国家的損失と感ずる。石油業界は結局ガソリン得率を増すために流動接触分解 装置を増設しなければならない羽目に陥って最終的にコストを支払うという構図になったというのがグリーンウッド氏の見方だ。

彼はまたこう石油価格が上昇すればエンジン廃熱を利用して更なる動力回収のできる方法などを開発することが可能になるのではと言っていた。

ハイブリッド車が米国でもてはやされるのは、ロスアンゼルスなどダウンタウンには一人乗 りで乗り込めないという法規制があるためだとトヨタの元専務が言っていたっけ。

ヴェグマン博士はインスブルック手前の深さ200mの谷越えの橋(往時列車の車窓から見上げた橋)の工事中に発見されたローマ時代の舗装道路の 石畳を見せてくれた。 硬い敷石に轍の跡が5センチは食い込み、長年使われたことを示している。山間の道路のためか道路幅は3メートル位で、車軸の長さは1メートルもない。坂路 でもあり、小さな車が使われたようだ。ドイツ人はローマからは蛮族と見られたがゆえに自国内のローマ遺跡を自慢に思う傾向があるというが ヴェグマン博士もその一人なのかもしれない。

ローマ時代の舗装道路の石畳

アウトバーンを降り、インスブルックの街にはいると凱旋門がある。これを迂回して旧市街に向かう。王宮庭園まできたところで左折しイン川沿いの道路に出 る。すこし遡ると左手にヘルツォーグ・フリードリッヒ通り(Herzog-Friedrich-Strasse)が見えた。「黄金の鷲」ホテル(International Hotels No.321)はヘルツォーグ・フリードリッヒ通りにあるのだ。通りには観光客が大勢いる。

ヘルツォーグ・フリードリッヒ通りにある黄金の鷲ホテル

車を止めてチェックインした。この車に目をとめて声をかけてくる若者が多い。車を近くの地下駐車場に入れて ヘルツォーグ・フリードリッヒ通り 路上のテラスで午後のお茶をしてミュンヘンに帰るベックマン氏とわかれる。お礼にクロアチアへの手土産のオールドパーをあげてしまい後で困ることになる。

その後、インスブルック市内を散策。ちいさな街だ。上の写真にも写っているが観光客が見上げる「黄金の屋根」のある小窓 があった。チロル地方の小国の王の一つだったハプスブルグ家が多民族 国家構築に向かう端緒をつくったマクシミリアン一世が作ったものという。マクシミリアン一世は当時ブルグンド王国とよばれたフランドルの皇女マリアと結婚 し、彼女を落馬で失ったのち、ここチロル地方、そしてミラノの皇女と再婚してそこを統 治し、トスカーナま で手に入れてしまった。統治のため常に旅しそれぞれの領地でその国の言葉を学び、商人階級に自由を与え、国は栄えた。フランドルの都市ブリュッセルの グランプラスはその商人階級の実力を示すものだ。

ハプスブルグ家といえばマリア・テレジアも有名だ。子供を16名も生んだこともあるが若くして王位を相続した時、プロイ センからバカにされた。ハンガリーを見方につけるため、乗馬して土盛りを上りそこで馬を後ろ足でたたせたまま、サーベルを四方に掲げるというパーフォーマ ンスをして民衆を味方にしたという逸話を持っている。それからイエズス会が、当時勃興した科学教育の妨げになっていると判断し、教育権をイエズス会から取 り上げ官僚組織にゆだねた。そしてその官僚も教育で育成し、適材適所の登用をし貴族にまで取り立てるという、国家管理者の能力をしめしたのである。夫のフ ランツ・シュテファンはサイエンスに興味を持ち、財政能力も優れて財政的にマリア・テレジアを助けた。

イン河が街の中央を流れている。冬季オリンピック開催地だがスキー場はジャンプ台以外そう多くは見当たらない。

アナログモデムでインターネット接続はできないこと確認。

9月24日(土)

予約したタクシーは9:30にちょっと遅れてくる。これで飛行場に向かう。11:30の出発まで時間があり、トラック搭 載のウィンチで牽引されて45度の急角度でとびあがるグライダー飛行を飽きもせず見物する。 水平飛行に入りウインチのワイヤーを外す時は緊張したなと学生時代の経験を思い出す。

ウィーンに飛んだインスブルック空港にとまるダッシュ8

フォッカー社のダッシュ8という双発のターボプロップ機でまずウィーンに飛ぶ。パンパンに荷物を詰め込んだザックは上の収納庫に入らない。中身を抜いて押 し込む。空からみるイン川を見下ろしながら ザルツブルグの近くを飛んでウィーンに至るアルプスはおだやかだ。「サウンド・オブ・ミュージック」(Movie Serial No.90)の舞台となった湖 沼地帯のザルツカンマーグート(Salzkammergut)はどこらあたりかと思いながら飛ぶ。ウィーンは初めてだが穏やかな起伏のある平原の中に流れ るダニューブ川にそって発達した街と見えた。ここからハンガリーに至る大平原が産する穀物がその力の源泉だったのだろう。

ここでクロアチア航空のジェット機に乗り換えてスプリットに向かうが下界は雲で途中なにも見えなかった。スプリットの後背地にある山はディナル・アルプス の一部だが地中海性気候のため潅木が茂るだけの褐色の荒地に見える。 かねてより安田喜憲氏が「森 と文明の物語」に地中海の荒地は羊の放牧に起因するという勝手な素人説を唱えているが うそっぽいと思ってきたが、少雨が原因であるとの確信が生まれる。第一ここには羊などどこにも居ない。ユリセッチ氏の意見を聞くと羊はかえって土地を肥沃 にして環境を良くするとの意見であった。

ユリセッチ氏が予約してくれたトロギールのコンコーディア(International Hotels No.322) はタクシーで空港から15分のところであった。100クーナ。トロギールはローマのディオクレチニウス皇帝によって304年に建設された スプリットより歴史が古く、紀元前3世紀にはギリシア人の植民地になっていたという。多島海の奥にある小島の上の城砦都市である。天然の良港である。ロー マ、ビザンチン、ベニス王国、ナポレオン時代、ユーゴスラビア時代を生き抜き今はユネスコにより世界遺産として認定されている城砦都市である。城壁は取り 去られているが内部の 磨り減った大理石を敷きつめた路地は中世の息吹を維持して観光客に大人気である。島の西の外れにあるカメルレンゴ城砦はリスボンのベレンの塔に似た雰囲気 を持っている。

カメルレンゴ城砦

トロギル港

コンコーディアはその水際にある小さな旅籠である。岸壁には多数の豪華ヨットが接岸し、対岸にはヨーロッパの富豪のマキ シヨットをあずかるマリーナがある。 岸壁を散策し、ビールを楽しむ。14クーナ。マンドリン演奏を聴きながら夕食をとっている間にズリム教授が訪ねてきたらしいが、会えずに就寝。夕食は90 クーナ。 インスブルックのホテルで窓が壊れていると思ったのは勘違いでインスブルックもここも窓のハンドルの取っ手を上に回すと上のヒンジが外れて窓枠の上端が内 側に傾き、逆に回せば横に開くということが分かった。

コンコーディア

CNNは盛んにハリケーン・リタの被害の模様を放送している。

9月25日(日)

10時ころズリム教授が訪ねてきてトロギルの街を案内してくれる。毎週日曜日は友人6名がトロギルの店に集まって駄弁っ ているという。そこで仲間に紹介される。1名はホテル経営者、1名は観光局の局長であった。観光局で英文のパンフレットをもらい、友人の経営する トラゴス(Tragos)というホテルを見学する。次回はここに泊まってほしいとのこと。夫婦で 泊まるにはよさそうであった。次に彼らの卒業した小学校に連れていってくれるがこれがこの街一番立派な建物であった。教育熱心な街である。

ズリム教授が学 んだ小学校

11:00時にカメルレンゴ城砦の隣にあるセント・マーク城砦(St. Mark's fort)の塔上でビールを頂いている所に携帯電話で連絡を受けたユリセッチ氏がやってきて合流。 トロギルの唯一の欠点は対岸に造船所があって目障りなことである。下の写真にその造船所が見える。共産党政権時代にはじめた国営の造船所で赤字経営だそう である。意見を求められたので官営で赤字なら廃業すべきだろうと意見を述べると、大変喜ばれた。

セント・マーク城砦の塔上より

ズリム教授は以前は日本人観光客はトロギルにきてくれなかったが最近は団体客が増えてきたという。ユリセッチ氏3人そ ろってトロギルの街を散策しているとき、ズリム教授がお土産にとTシャツを買ってくれる。そこには ダルマチア(Darumacija)とある。トリエステからドブロヴニクにかけての多島海はダルマチア地方といわれるのだ。その下に錨のマークとTu su moji didovi sidro bacili(私の祖父はここに錨を下ろした )とある。

ダルマチアといえば須賀敦子著「ミラノ 霧の風景」 に引用されたトリエステの詩人ウンベルト・サバの地中 海という詩を思い出す。

若いころ、わたしはダルマツィアの
岸辺をわたりあるいた。餌をねらう鳥が
たまさか止まるだけの岩礁は、ぬめる
海草におおわれ、波間に見えかくれ、
太陽にかがやいた。エメラルドのように
うつくしく。潮が満ち、夜が岩を隠すと、
風下の帆船たちは、沖あいに出た。夜の
仕掛けた罠にかからぬように。今日、
わたしの王国はあのノー・マンズ・ランド。
港はだれか他人のために灯りをともし、
わたしはひとり沖に出る。まだ逸る精神と、
人生へのいたましい愛に、ながされ。

ユリセッチ氏のBMWでスプリットに向かう。スプリットは半島上にある。半島の丘の上にあるスプリト大電気工学科 のズリム教授の研究室を訪問。ここでユリセッチ氏が作って市販していたアモルファスのソーラーセルを見る。色は褐色である。

スプリット大電 気工学科でズリム教授と

次にディオクレテニアス帝の宮殿(Dioclation)を見物。一人の男の引退後の住居として作ったにしては巨大、壮麗というしかない。しかし彼はここ に4年しか住めなかった。かれが意図した四頭政が崩壊してしまったのだ。この中にあるローマンカトリック教会には彼の墓はない。ディオクレテニアス帝はキ リスト教を弾圧した最後の皇帝となったためである。次のコンタンチヌス帝がキリスト教を公認するのだ。ディオクレテニアス帝の宮殿前のテラスで助手のボン コビッチ君が友人と教会に参列したのちお茶を楽しんでいるところに出くわした。一緒に談笑する。

ディオクレテニアス帝の宮殿

昼食後、後背地の山を越えて、ドライブし、ユリセッチ氏のカントリーハウスを訪れる。ユリセッチ氏は農業を放棄した地元の農民から1平方メートルを1ユー ロで10,000平方メートルの農地を買い取り、そこを息子と3年かけて果樹園にし、プラム、リンゴ、ブドウを栽培・出荷し、ブドウ酒を自家醸造してい る。 おみやげに自家製の白ワインを1本いただいた。1999年製のsmokviska plavkaである。コルクも自分で打ったという。

自家製の白ワイン

ソラーセルビジネスを廃業したあとの引退仕事であった。いまは高速道路も完成しつつあり、スプリットの郊外として見直され、土地の価格も20倍に高騰して いるという。ヨーロッパの人が別荘用に買い占めるのでドブロニクなど土地の価格が高騰しとても買えたものではないという。奥様がまだ現役の教員をしている のでスプリットのダウンタウンのフラットとカウントリーハウスと交互に夫婦で過ごすという。カウントリーハウスは巨大で獰猛な番犬に見張りをさせているの で餌を与えるためにも隔日のサイクルになるとのこと。

背後の潅木の生えた荒山には1メートル位ジャンプして噛み付く獰猛な性質をもつヨーロッパ一の猛毒を持ったヘビがいるそうだ。血清を20分以内に注射しな いと絶命するそうである。羊など飼えるわけがないのだ。

この山は石灰岩でできている。かってヨーロッパ大陸とアフリカ大陸がぶつかってアルプスができたとき海中から隆起した 2000mの厚さのサンゴ樵からできている。したがってカルスト地形になっていて地下は洞窟だらけ。ツェルクニツァ湖は乾期には水が消えて草原となる。

ズリム教授の一人娘はスプリット大の電気工学科の学生となって父親の同僚教授連にしごかれて苦労しているという。ここが最後の訪問地だからここを忘れない でいてくれるかなとユリセッチ氏はボソッと言う。お土産に持参したオールドパーは2分できないのでお礼はあらためて考えようと持ち帰る。

アナログモデムでインターネット接続はできないこと確認。

9月26日(月)

夜間と早朝は受付が無人になることに気がつき前日に精算。4時半には起床。5:15に予約したタクシーが来なかった場合 にそなえてホテルのドアを開けたままタクシーを待つ。もしこなかったら、タクシー会社に電話するつもりだったが、約束通りきてくれる。釣り人が数人、岸壁 で釣り糸をたれている。

クロアチア航空、OU4436便は予定通りスプリット空港を06:45に出発。ダルマチアの海岸沿いにリエカまでで飛ん だところで雲で下界がみえなくなった。トリエステは雲の下であった。ダルマチアの海岸はたしかに島々が大陸に並行に沢山並んでいるのでここは良港が多い。 ベネチアがここを属国とした理由がわかる。アドリア海の対岸はイタリアである。フェルナン・ブローデルの「地中海」第2章、一海原のアドリア海に次の一節がある。

「東は、山の多い一連の島、すなわちダルマーチアの島々で止まり、バルカン半島の不毛な高い山々がただちにこの島々 に続くーディナル・アルプスのあの果て しなく続く白い長城、つまりダルマーチアの海岸が背を向けている非常に大きなカルスト高原の稜がある」

タチアナ嬢はブラチ島(Otoc Brac)の出身だと言っていたっけ。いつか大陸が海にせまる断崖絶壁につけられたこの道をゆっくりドライブしたいものだ。物価は安く、日本で休暇を過ご すより安上がりで歴史の遺産はタップリ、安全も問題ない。

更に北上するとドロミテ・アルプスならびにその東北にあるジュリアノ・アルプス(ユリウス・カエサルの覇権が及んだアル プスという意味か?)やその北側のグローズ・グロックナー山(3,799m)の巨大な岩の塊を空から目にすることができた。

ミュンヘン08:45着。ここで6時間の待ち時間にサン・テクジュベリの「夜間飛行」を完読。ルフトハンザLH714便は予定通り ミュンヘン15:30発。

9月27日(火)

機内では熟睡したまま成田10:00着。

帰国して撮影した200枚の写真を全て精査したがドイツ、イタリア、オーストリー、クロアチアいずこも高圧送電線以外の電柱類は一切写っていない。日本が 経済大国と言われながらなおざりにしてきた貧しい面だ。「景観を破壊する電柱の地中化」で少し 考察したい。

September 30, 2005

Rev. September 18, 2015


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