ルブリエーナ

グリーンウッド氏はエンジニアリング振興協会の依頼でスロベニアに一週間程出かけた。 出張の目的はInternational Project Management Association(IPMA)の第14回国際会議に日本代表で出席することであった。

フランクフルトから出発したアドリア・エアラインはミュンヘンとザルツブルグの間でアルプスにさしかかる。北と南 を結ぶ谷間が俄々たる岩山の間にくねくねと連なり、アルプスの南との回廊を形成している様子が手に取るように見えた。アルプスは思ったより幅のある山塊 だ。ようやく山並みが穏やかになるころ、機は高度を下げて旋回し、森の中の空港に着陸した。通貨交換の銀行もなく、紙幣自動交換機があるだけの小さな空港 である。タクシーもしばらく待たないと来ない。しかし、空気は森林の香りがしてすがすがしい。

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ルュブリヤナ城とストルニカ聖堂を望む

首都ルュブリヤナはかってのオーストリー=ハンガリア帝国に属していたため、古い町は小ザルツブルグとも言われま ことに美しい。北のチボリ公園と南のルュブリヤナ城のある小高い丘との間にはルュブリヤナ川が流れ、地形的にはザルツブルグそっくりである。川を使った交 易の拠点として、この川沿いに町が発達したのだ。川の北側はかってのローマの軍団の方形陣地跡がある。川の南岸の狭い地峡に市庁舎があり、川沿いに古い町 並がある。すべて観光客用の小奇麗なみやげ物、ブティックなどだ。

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ルュブリヤナ川にかかる橋の上で

町は若い人が多い。夜の11時に一人で古い小路を歩いても身の危険を感じない。ストルニカ聖堂前の青物市場には巨 大なステージが組まれ、ハードロックの生演奏は、聖堂のスレンドグラスが割れてしまうのではないかと思うほどボリュームをあげていた。日本人にはついに会 わなかった。

さて、旧ユーゴスラビアのうち、コソボではまだ砲弾が飛び交っているが、ここは平和そのもの。ここでは10日間だ け戦争しただけだそうだ。ルュブリヤナ博物館員に聞いたところ「南の方の連中は荒っぽいから」という返事であった。ドイツの大学教授の説明では、スロベニ アにもモスレムが居るが、相手方がローマンカトリックだからとのことだ。紛争はギリシャ正教とモスレム間にあるのだそうだ。そういえば、キプロスがそう だったと思い至った。これもルュブリヤナ博物館員に聞いた話であるが、今から90年前、第一次世界大戦前後、ルュブリヤナがまだハプスブルグ家のものだっ たころ、イワン・ハリバールという市長が、地震で破壊された都市の復興、都市インフラの整備、国語の復活、大学の設置などをし、今日のスロベニア独立の基 礎を作ったということである。日露戦争に勝った日本がイワン・ハリバール氏のモデルとなったよである。現在のスロベニアはドイツ経済圏にあり、特に機械加 工業がドイツ機械工業に部品を供給するというような構造を感じた。

18年後の2016/6/3 の「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」という米映画を見た。ここでスロベニアの大学の授業料はゼロで、沢山の米国からの留学生が大勢いると知った。1998年からそうだったかは不明。

1998月6月9-15日

Rev. 2016/6/4


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